虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
志賀直哉と駄菓子
相撲取りと鳶口の金花糖 石橋幸作『駄菓子のふるさと』未來社 1961年より小説の神様志賀直哉(しがなおや・1883~1971)は、『城の崎にて』『暗夜行路』ほかで著名な白樺派の作家です。数々の優れた作品を残し、文学界に多大な影響を与えたことから、教科書によく掲載される『小僧の神様』をもじって、「小説の神様」とも呼ばれています。 駄菓子屋の話短編小説の『黒犬』(1924年執筆)は、直哉がかつて過ごした麻布の、小さな駄菓子屋に関わる事件をヒントに創作されたもの。今回取り上げたいのは、主人公の男性が、四つか五つだったときの駄菓子屋の思い出を語る場面です。同じ年頃の子どもが駄菓子屋に集まって文字焼(小麦粉をといた生地を鉄板に落とし、文字や絵を書いて焼く)をしたり、店のおかみさんのまわす張子の的に矢を吹きつけたり、菓子のあたりくじの紙を台紙からめくったりすることをとても羨ましく思った旨が書かれています。 鳶口(とびぐち)の金花糖「一度内証で女中から金華糖の鳶口を買つて貰ひ、大変値打のあるものに思つたことを覚えてゐる。」からは、宝物を手にしたような喜びが伝わってきます。「金華糖」(一般には金花糖)とは、型に砂糖液を流し込み、固めた後、彩色する砂糖菓子のこと。現在も金沢を中心に鯛や招き猫、果物などをかたどったものが作られていますが、ここで述べられているのは物を引っ掛けたり引き寄せたりするのに使う道具、鳶口の形です。かつてはよく作られていたようで、石橋幸作の『駄菓子のふるさと』から、鉤(かぎ)形の黒砂糖の金花糖を串にさし、鳶口に見立てていたことがわかります(挿絵参照)。氏は「勤労意欲の昂揚」「努力を教える」などの教育的な意味があったのではと推測していますが、鳶職人や火消しが使う道具だけに、男の子にとっては、粋なかっこいい形だったのではないでしょうか。現在ではハッカ糖を使った小さなものを作っている店が東北にあるそうです。 直哉は明治16年に宮城県石巻に生まれ、2才のときに両親と東京の麴町の祖父母の家に移り、7才で芝公園、15才で麻布に転居しています。主人公の語る駄菓子屋と子どもたちの光景は、直哉のどの時点の思い出に重なるのかわかりませんが、明治20~30年代にはよく見られたと思われます。メンコ、ビー玉、石けりで遊ぶなど好奇心旺盛、しかも活発だったという直哉ですが、裕福な家庭で、祖父母に大切に育てられていたため、駄菓子屋の出入りは禁じられていたのかもしれません。鳶口の金花糖は、直哉にとって記憶の片隅に残る特別な品だったのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『志賀直哉全集 第3巻』岩波書店 1973年 石橋幸作『駄菓子のふるさと』未來社 1961年
志賀直哉と駄菓子
相撲取りと鳶口の金花糖 石橋幸作『駄菓子のふるさと』未來社 1961年より小説の神様志賀直哉(しがなおや・1883~1971)は、『城の崎にて』『暗夜行路』ほかで著名な白樺派の作家です。数々の優れた作品を残し、文学界に多大な影響を与えたことから、教科書によく掲載される『小僧の神様』をもじって、「小説の神様」とも呼ばれています。 駄菓子屋の話短編小説の『黒犬』(1924年執筆)は、直哉がかつて過ごした麻布の、小さな駄菓子屋に関わる事件をヒントに創作されたもの。今回取り上げたいのは、主人公の男性が、四つか五つだったときの駄菓子屋の思い出を語る場面です。同じ年頃の子どもが駄菓子屋に集まって文字焼(小麦粉をといた生地を鉄板に落とし、文字や絵を書いて焼く)をしたり、店のおかみさんのまわす張子の的に矢を吹きつけたり、菓子のあたりくじの紙を台紙からめくったりすることをとても羨ましく思った旨が書かれています。 鳶口(とびぐち)の金花糖「一度内証で女中から金華糖の鳶口を買つて貰ひ、大変値打のあるものに思つたことを覚えてゐる。」からは、宝物を手にしたような喜びが伝わってきます。「金華糖」(一般には金花糖)とは、型に砂糖液を流し込み、固めた後、彩色する砂糖菓子のこと。現在も金沢を中心に鯛や招き猫、果物などをかたどったものが作られていますが、ここで述べられているのは物を引っ掛けたり引き寄せたりするのに使う道具、鳶口の形です。かつてはよく作られていたようで、石橋幸作の『駄菓子のふるさと』から、鉤(かぎ)形の黒砂糖の金花糖を串にさし、鳶口に見立てていたことがわかります(挿絵参照)。氏は「勤労意欲の昂揚」「努力を教える」などの教育的な意味があったのではと推測していますが、鳶職人や火消しが使う道具だけに、男の子にとっては、粋なかっこいい形だったのではないでしょうか。現在ではハッカ糖を使った小さなものを作っている店が東北にあるそうです。 直哉は明治16年に宮城県石巻に生まれ、2才のときに両親と東京の麴町の祖父母の家に移り、7才で芝公園、15才で麻布に転居しています。主人公の語る駄菓子屋と子どもたちの光景は、直哉のどの時点の思い出に重なるのかわかりませんが、明治20~30年代にはよく見られたと思われます。メンコ、ビー玉、石けりで遊ぶなど好奇心旺盛、しかも活発だったという直哉ですが、裕福な家庭で、祖父母に大切に育てられていたため、駄菓子屋の出入りは禁じられていたのかもしれません。鳶口の金花糖は、直哉にとって記憶の片隅に残る特別な品だったのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『志賀直哉全集 第3巻』岩波書店 1973年 石橋幸作『駄菓子のふるさと』未來社 1961年
井伊直弼と菓子
虎屋の「大徳寺金とん、同 紅」 「數物御菓子見本帖」(1918)より井伊直弼(いいなおすけ・1815~60)は、2003年2月に取り上げていますが、今回は茶人宗観(そうかん)としての著作『茶湯一会集』を中心に、菓子に関する記述を見てみたいと思います。 「口取は、手製をよしとす」口取(くちとり)とはこの場合、茶事における懐石後に出される主菓子を指します。宗観は手製の菓子を用意するのが良いと言っています。 同書の別の箇所には、手製のものを出す際、“お口に合うか分かりませんが、もし気に入って頂ければ、お替わりを差し上げますと客に言いなさい”と書いています。客はおいしければ、お替わりを求め、これを受けて亭主は、“ご所望、有り難うございます”と言い、客は亭主に菓子の風味の良さを誉めるなど、一連のやり取りが続きます。さらに“手製だからといって、必ずお替わりされるわけではありません”とまで記されており、笑いを誘います。 ちなみに当時、大名の中には、手製の菓子を贈る人や自ら菓子をデザインする人もおり、殿様たちの菓子に対する関心の高さを窺い知ることができます。この点に関しては2018年3月発刊の機関誌『和菓子』25号でもご紹介する予定です。 「菓子の名むつかしきはうるさきものなり」宗観は菓銘に関して、凝った銘はわずらわしい、と記しています。当時のお茶は少人数で食事を伴う茶事形式が基本。茶碗、茶器、茶杓、香合などの茶道具には銘があるでしょうから、凝った菓銘までとなると、少しうるさいのでしょう。彼の流派は、利休の長男千道安の流れを汲む武家茶道の石州流。利休の侘びの精神に重きを置き、作意が目立つことをきらい、自然であること、常なることを求めます。主はお茶、菓子はあくまでも添えです。 彼が懐石で使う菓子、食材を時候ごとに整理して書き留めた「懐石留」には、春「椿餅」、夏「吉野巻、葛饅頭、琥珀糖」、秋「青砧巻」、冬「佐野の雪、岡の雪、千歳鮨」など季節や余情を感じさせる菓銘を見ることができます。また宗観の会記から、彦根や江戸で、自ら亭主を務めた会での主菓子を見ると、「大徳寺きんとん紅白」「白煉羊羹」「春雨羹」「草求肥」「桜餅」のほか、「伏見 羊羹」「京製 椿餅紅白」など、明らかに菓子屋のものと思われるものも見受けられます。もしかしたら駿河屋製や虎屋製を使っていたのかもしれません。 「手製をよしとす」と言う一方、他方でそれに縛られることなく、菓子屋の好みのものも自由に使った宗観のお茶は、実は型にはまった堅苦しいものではなく、客人をおもんばかった、臨機応変なもてなしの茶だったのではないかと思います。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献井伊直弼『茶湯一会集・閑夜茶話』岩波文庫 2010年熊倉功夫編 彦根城博物館叢書3『史料 井伊直弼の茶の湯(下)』彦根城博物館 2007年
井伊直弼と菓子
虎屋の「大徳寺金とん、同 紅」 「數物御菓子見本帖」(1918)より井伊直弼(いいなおすけ・1815~60)は、2003年2月に取り上げていますが、今回は茶人宗観(そうかん)としての著作『茶湯一会集』を中心に、菓子に関する記述を見てみたいと思います。 「口取は、手製をよしとす」口取(くちとり)とはこの場合、茶事における懐石後に出される主菓子を指します。宗観は手製の菓子を用意するのが良いと言っています。 同書の別の箇所には、手製のものを出す際、“お口に合うか分かりませんが、もし気に入って頂ければ、お替わりを差し上げますと客に言いなさい”と書いています。客はおいしければ、お替わりを求め、これを受けて亭主は、“ご所望、有り難うございます”と言い、客は亭主に菓子の風味の良さを誉めるなど、一連のやり取りが続きます。さらに“手製だからといって、必ずお替わりされるわけではありません”とまで記されており、笑いを誘います。 ちなみに当時、大名の中には、手製の菓子を贈る人や自ら菓子をデザインする人もおり、殿様たちの菓子に対する関心の高さを窺い知ることができます。この点に関しては2018年3月発刊の機関誌『和菓子』25号でもご紹介する予定です。 「菓子の名むつかしきはうるさきものなり」宗観は菓銘に関して、凝った銘はわずらわしい、と記しています。当時のお茶は少人数で食事を伴う茶事形式が基本。茶碗、茶器、茶杓、香合などの茶道具には銘があるでしょうから、凝った菓銘までとなると、少しうるさいのでしょう。彼の流派は、利休の長男千道安の流れを汲む武家茶道の石州流。利休の侘びの精神に重きを置き、作意が目立つことをきらい、自然であること、常なることを求めます。主はお茶、菓子はあくまでも添えです。 彼が懐石で使う菓子、食材を時候ごとに整理して書き留めた「懐石留」には、春「椿餅」、夏「吉野巻、葛饅頭、琥珀糖」、秋「青砧巻」、冬「佐野の雪、岡の雪、千歳鮨」など季節や余情を感じさせる菓銘を見ることができます。また宗観の会記から、彦根や江戸で、自ら亭主を務めた会での主菓子を見ると、「大徳寺きんとん紅白」「白煉羊羹」「春雨羹」「草求肥」「桜餅」のほか、「伏見 羊羹」「京製 椿餅紅白」など、明らかに菓子屋のものと思われるものも見受けられます。もしかしたら駿河屋製や虎屋製を使っていたのかもしれません。 「手製をよしとす」と言う一方、他方でそれに縛られることなく、菓子屋の好みのものも自由に使った宗観のお茶は、実は型にはまった堅苦しいものではなく、客人をおもんばかった、臨機応変なもてなしの茶だったのではないかと思います。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献井伊直弼『茶湯一会集・閑夜茶話』岩波文庫 2010年熊倉功夫編 彦根城博物館叢書3『史料 井伊直弼の茶の湯(下)』彦根城博物館 2007年
葛飾北斎と菓子
すみだ北斎美術館蔵画狂老人江戸中期から後期にかけて活躍した最も有名な浮世絵師の一人、葛飾北斎(かつしかほくさい・1760~1849)。『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』などを知らない人はいないのではないでしょうか。ともかく絵を愛し、描くことだけに明け暮れて、家が汚れれば引っ越し、生涯に90回以上転居、画号も30回以上変えたといわれる奇矯な人物でした。大酒飲みのような印象も与えるのですが、その実、酒はまったく飲まず、大変な甘いもの好きだったそうで、彼を訪問する客の中には、必ず大福餅を7つ8つ持参する人がいたという話も伝わります。 菓子と菓子袋そのわりに北斎の作品に菓子はあまり登場していません。錦絵では東海道名物の柏餅や姥が餅を作るさまなどが見られるほか、新吉原の名物だった竹村伊勢の巻煎餅の箱を題材にした大小(暦)など数点が確認されています。菓子にかかわるものとしては、江戸八景の絵を使った菓子袋が珍しいところでしょうか。ボストン美術館所蔵の4点のうち、3点は絵図のみが切り取られているのですが、袋のまま保存されている1点を見ると、上部に2本の折り目があり、6箇所の穴があいていることから、2回折り返されて紐か水引でとめられていたことが想像されます。江戸八景とは、中国湖南省の名勝・瀟湘八景(しょうしょうはっけい)になぞらえて、江戸の名所八箇所を描いたもの。菓子袋は「隅田落雁」で、隅田川と遠い空に飛ぶ雁の姿が描かれています※。「極製御菓子」と書かれた美麗なデザインは、甘いもの好きの北斎が腕によりをかけたものではなかったでしょうか。どんな経緯でボストン美術館に収蔵されることになったのかはわかりませんが、美しい袋を大切に保存したかった江戸時代の「誰か」の気持ちは、わたしたちにもよくわかります。 ※他は御殿山帰帆・吉原夜雨・佃島夕照・両国暮雪・不忍秋月・葵岡晴嵐・浅草晩鐘。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献飯島虚心『葛飾北斎伝』岩波書店 1999年浅野秀剛「菓子袋・菓子箱と商標」(『和菓子』19号 虎屋 2012年)『太陽浮世絵シリーズ 北斎』平凡社 1975年
葛飾北斎と菓子
すみだ北斎美術館蔵画狂老人江戸中期から後期にかけて活躍した最も有名な浮世絵師の一人、葛飾北斎(かつしかほくさい・1760~1849)。『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』などを知らない人はいないのではないでしょうか。ともかく絵を愛し、描くことだけに明け暮れて、家が汚れれば引っ越し、生涯に90回以上転居、画号も30回以上変えたといわれる奇矯な人物でした。大酒飲みのような印象も与えるのですが、その実、酒はまったく飲まず、大変な甘いもの好きだったそうで、彼を訪問する客の中には、必ず大福餅を7つ8つ持参する人がいたという話も伝わります。 菓子と菓子袋そのわりに北斎の作品に菓子はあまり登場していません。錦絵では東海道名物の柏餅や姥が餅を作るさまなどが見られるほか、新吉原の名物だった竹村伊勢の巻煎餅の箱を題材にした大小(暦)など数点が確認されています。菓子にかかわるものとしては、江戸八景の絵を使った菓子袋が珍しいところでしょうか。ボストン美術館所蔵の4点のうち、3点は絵図のみが切り取られているのですが、袋のまま保存されている1点を見ると、上部に2本の折り目があり、6箇所の穴があいていることから、2回折り返されて紐か水引でとめられていたことが想像されます。江戸八景とは、中国湖南省の名勝・瀟湘八景(しょうしょうはっけい)になぞらえて、江戸の名所八箇所を描いたもの。菓子袋は「隅田落雁」で、隅田川と遠い空に飛ぶ雁の姿が描かれています※。「極製御菓子」と書かれた美麗なデザインは、甘いもの好きの北斎が腕によりをかけたものではなかったでしょうか。どんな経緯でボストン美術館に収蔵されることになったのかはわかりませんが、美しい袋を大切に保存したかった江戸時代の「誰か」の気持ちは、わたしたちにもよくわかります。 ※他は御殿山帰帆・吉原夜雨・佃島夕照・両国暮雪・不忍秋月・葵岡晴嵐・浅草晩鐘。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献飯島虚心『葛飾北斎伝』岩波書店 1999年浅野秀剛「菓子袋・菓子箱と商標」(『和菓子』19号 虎屋 2012年)『太陽浮世絵シリーズ 北斎』平凡社 1975年
向田邦子とカルメ焼
人気の放送作家テレビドラマ「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」などの放送作家として人気を博し、小説や随筆も手がけた向田邦子(むこうだくにこ・1929~81)。日常の暮らしや人々の心の機微を精妙に描いた作品の数々は、今も多くの人を魅了しています。その一つ『父の詫び状』は、向田家の思い出話を中心に綴ったもの。せっかちで癇癪(かんしゃく)もちの父と、それに振り回される母や子どもたちの様子が、あるときは滑稽に、あるときはちょっと切なく書かれています。 カルメ焼、膨らむか膨らまないか同書の「お八つの時間」では、ボーロ、キャラメル、さつま芋のふかしたものなど、子どもの頃に食べた思い出の菓子がたくさん登場します。中流家庭ということもあって、出てくる菓子は馴染みのあるものばかりですが、食通でもあった向田が書くとどれもおいしそうに思えるから不思議です。なかでも終戦後の一時期に父が凝ったというカルメ焼作りのくだりは、秀逸といえるでしょう。 「夕食が終ると子供たちを火鉢のまわりに集めて、父のカルメ焼が始まる。(中略)砂糖が煮立ってくると、父はかきまわしていた棒の先に極く少量の重曹をつけ、濡れ布巾の上におろした玉杓子の砂糖の中に入れて、物凄い勢いでかき廻す、砂糖はまるで嘘のように大きくふくれ、笑み割れてカルメ焼一丁上り! ということになる。うまく行った場合はいいのだが、ちょっと大きくふくれ過ぎたなと、見ていると、シュワーと息が抜け、みるみるうちにペシャンコになってしまう。」 カルメ焼※は、砂糖を煮詰め重曹を加えて膨張させたもので、縁日などの屋台の菓子としても人気がありました。一見すると簡単そうですが、重曹を入れるタイミングが微妙で、素人が上手く膨らますのはなかなか大変といえます。 向田の父は、戦後の物資不足のなか、子どもたちを喜ばせたいと砂糖(赤ザラメ)を手に入れて作りはじめたものの、どうやら砂糖が膨らむ面白さに夢中になってしまったようです。一方、子どもたちはといえばカルメ焼の味わいよりも父のご機嫌を左右する、できあがりの成否の方が大事だったようで、たとえ父が失敗しても見て見ぬふりをしていたとか。単純に「親子で楽しむカルメ焼作り」とはならなかったところがいかにも向田家らしく、えもいえぬ面白さが感じられます。 ※ ポルトガルから伝わった南蛮菓子のカルメラがルーツとされる。カルメ焼が煮詰めた砂糖に重曹を加えるのに対し、カルメラは泡立てた卵白を入れて膨らませて作る。固まったあと、砕いて生菓子の飾りなどに使われる。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「お八つの時間」(『父の詫び状』文藝春秋、2015年)
向田邦子とカルメ焼
人気の放送作家テレビドラマ「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」などの放送作家として人気を博し、小説や随筆も手がけた向田邦子(むこうだくにこ・1929~81)。日常の暮らしや人々の心の機微を精妙に描いた作品の数々は、今も多くの人を魅了しています。その一つ『父の詫び状』は、向田家の思い出話を中心に綴ったもの。せっかちで癇癪(かんしゃく)もちの父と、それに振り回される母や子どもたちの様子が、あるときは滑稽に、あるときはちょっと切なく書かれています。 カルメ焼、膨らむか膨らまないか同書の「お八つの時間」では、ボーロ、キャラメル、さつま芋のふかしたものなど、子どもの頃に食べた思い出の菓子がたくさん登場します。中流家庭ということもあって、出てくる菓子は馴染みのあるものばかりですが、食通でもあった向田が書くとどれもおいしそうに思えるから不思議です。なかでも終戦後の一時期に父が凝ったというカルメ焼作りのくだりは、秀逸といえるでしょう。 「夕食が終ると子供たちを火鉢のまわりに集めて、父のカルメ焼が始まる。(中略)砂糖が煮立ってくると、父はかきまわしていた棒の先に極く少量の重曹をつけ、濡れ布巾の上におろした玉杓子の砂糖の中に入れて、物凄い勢いでかき廻す、砂糖はまるで嘘のように大きくふくれ、笑み割れてカルメ焼一丁上り! ということになる。うまく行った場合はいいのだが、ちょっと大きくふくれ過ぎたなと、見ていると、シュワーと息が抜け、みるみるうちにペシャンコになってしまう。」 カルメ焼※は、砂糖を煮詰め重曹を加えて膨張させたもので、縁日などの屋台の菓子としても人気がありました。一見すると簡単そうですが、重曹を入れるタイミングが微妙で、素人が上手く膨らますのはなかなか大変といえます。 向田の父は、戦後の物資不足のなか、子どもたちを喜ばせたいと砂糖(赤ザラメ)を手に入れて作りはじめたものの、どうやら砂糖が膨らむ面白さに夢中になってしまったようです。一方、子どもたちはといえばカルメ焼の味わいよりも父のご機嫌を左右する、できあがりの成否の方が大事だったようで、たとえ父が失敗しても見て見ぬふりをしていたとか。単純に「親子で楽しむカルメ焼作り」とはならなかったところがいかにも向田家らしく、えもいえぬ面白さが感じられます。 ※ ポルトガルから伝わった南蛮菓子のカルメラがルーツとされる。カルメ焼が煮詰めた砂糖に重曹を加えるのに対し、カルメラは泡立てた卵白を入れて膨らませて作る。固まったあと、砕いて生菓子の飾りなどに使われる。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「お八つの時間」(『父の詫び状』文藝春秋、2015年)
泉鏡花と栗きんとん
耽美派の作家明治時代から戦前にかけて活躍した金沢出身の小説家、泉鏡花(いずみきょうか・1873~1939)といえば、『高野聖』『天守物語』などの独自の美的世界に基づいた幻想的な作品がいまなお人気です。流行作家として活躍していた尾崎紅葉の作品に感銘を受け、十代で上京。紅葉に師事し、玄関番などの下積み時代を経て、作家となりました。 登場人物のモデルは敬愛する尾崎紅葉?鏡花はかなりの甘党だったようで、菓子が登場する作品も少なくありません。たとえば、明治42年(1909)に書かれた『白鷺』では、ヒロインの芸者お篠が、恋焦がれる日本画の巨匠「伊達先生」の病床に、重箱入りの「新栗のきんとん」を届けます。伊達の死後、その弟子から、4、5日何も食べなかった先生が、「起直(おきなほ)つて、枕の上に頬杖して、二口ばかり食(あが)つた」と聞き、お篠はうれし泣きをするのでした。「伊達先生」に関して、経歴や容姿の詳しい描写はありませんが、門弟に慕われ、女性にもてるさまは、師の尾崎紅葉をモデルにしているように思われます。お篠が伊達を評して、「品がよくつて、捌(さば)けて居て、鷹揚で、気が利いて、鋭い中に円味(まるみ)があつて、凛として、恐くもあるし、優しいし、可懐(なつか)しくつて、好いたらしい」と語るくだりも、鏡花がたびたび書き残している紅葉の面影を髣髴させます。 栗きんとんの思い出さて、鏡花が本人から聞いたとして、紅葉にはこんな話が。少年時代の紅葉は、将来偉くなったら、栗きんとんをお腹いっぱい食べようという夢を抱いていました。作家として本格的に活動するようになった二十代のはじめ、入ったばかりの原稿料でさっそく栗きんとんを買い込みますが、ちょっと箸をつけただけでげんなりしてしまった……というものです。願いが叶った時点で、すでに気持ちが満たされてしまったのかもしれませんね。この栗きんとんは「魚がしの寄せもの屋」から買ったとあるので、さつま芋の餡に甘露煮の栗をからめたものと思われます。現在ではおせち料理の定番ですが、明治~大正時代の料理や菓子の製法書では生栗を使う例が見られ、家庭で作る秋の味でもあったようです。6歳年上の紅葉を肉親のように慕い、遺影を生涯大切に飾っていたという鏡花のことですから、栗きんとんを見るたびに師を懐かしく思い出したのではないでしょうか。『白鷺』が書かれたのは、紅葉が没した数年後のことであり、「伊達先生」に関する挿話に「新栗のきんとん」が登場するのも偶然ではないように思います。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「白鷺」(『鏡花小説・戯曲選』第9巻 岩波書店 1981年)「入子話」(『鏡花随筆集』 岩波書店 2013年)
泉鏡花と栗きんとん
耽美派の作家明治時代から戦前にかけて活躍した金沢出身の小説家、泉鏡花(いずみきょうか・1873~1939)といえば、『高野聖』『天守物語』などの独自の美的世界に基づいた幻想的な作品がいまなお人気です。流行作家として活躍していた尾崎紅葉の作品に感銘を受け、十代で上京。紅葉に師事し、玄関番などの下積み時代を経て、作家となりました。 登場人物のモデルは敬愛する尾崎紅葉?鏡花はかなりの甘党だったようで、菓子が登場する作品も少なくありません。たとえば、明治42年(1909)に書かれた『白鷺』では、ヒロインの芸者お篠が、恋焦がれる日本画の巨匠「伊達先生」の病床に、重箱入りの「新栗のきんとん」を届けます。伊達の死後、その弟子から、4、5日何も食べなかった先生が、「起直(おきなほ)つて、枕の上に頬杖して、二口ばかり食(あが)つた」と聞き、お篠はうれし泣きをするのでした。「伊達先生」に関して、経歴や容姿の詳しい描写はありませんが、門弟に慕われ、女性にもてるさまは、師の尾崎紅葉をモデルにしているように思われます。お篠が伊達を評して、「品がよくつて、捌(さば)けて居て、鷹揚で、気が利いて、鋭い中に円味(まるみ)があつて、凛として、恐くもあるし、優しいし、可懐(なつか)しくつて、好いたらしい」と語るくだりも、鏡花がたびたび書き残している紅葉の面影を髣髴させます。 栗きんとんの思い出さて、鏡花が本人から聞いたとして、紅葉にはこんな話が。少年時代の紅葉は、将来偉くなったら、栗きんとんをお腹いっぱい食べようという夢を抱いていました。作家として本格的に活動するようになった二十代のはじめ、入ったばかりの原稿料でさっそく栗きんとんを買い込みますが、ちょっと箸をつけただけでげんなりしてしまった……というものです。願いが叶った時点で、すでに気持ちが満たされてしまったのかもしれませんね。この栗きんとんは「魚がしの寄せもの屋」から買ったとあるので、さつま芋の餡に甘露煮の栗をからめたものと思われます。現在ではおせち料理の定番ですが、明治~大正時代の料理や菓子の製法書では生栗を使う例が見られ、家庭で作る秋の味でもあったようです。6歳年上の紅葉を肉親のように慕い、遺影を生涯大切に飾っていたという鏡花のことですから、栗きんとんを見るたびに師を懐かしく思い出したのではないでしょうか。『白鷺』が書かれたのは、紅葉が没した数年後のことであり、「伊達先生」に関する挿話に「新栗のきんとん」が登場するのも偶然ではないように思います。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「白鷺」(『鏡花小説・戯曲選』第9巻 岩波書店 1981年)「入子話」(『鏡花随筆集』 岩波書店 2013年)
菊池貴一郎と亥の子餅
「千代田之御表」 玄猪諸侯登城大手下馬ノ図 江戸の記憶幕末の江戸の風俗について、挿絵入りで詳細に記した本に『江戸府内絵本風俗往来』があります。今回ご紹介する菊池貴一郎(きくちきいちろう・1849~1925)はその作者で四代歌川広重を継いだ浮世絵師でもあります。同書を著したのは明治38年(1905)、56歳のときでした。忘れられつつある江戸の暮らしを記録にとどめたいと思ったためで、序文の「躍起(やつき)となりて筆をとり、江戸口調の文をもって江戸純粋の歳事をばありのままにかきちらし」からは、菊池の江戸っ子としての気概が感じられます。 亥の子餅と御篝火(おんかがりび)『江戸府内絵本風俗往来』には、五節句はもちろん、月ごとの年中行事の様子、花見や市の賑わいといった庶民の楽しみが生き生きと描かれています。菓子についても、柏餅や月見団子、粟餅、ところてん売り、飴売りなどいろいろ見えますが、ここでは亥の子餅に触れましょう。 亥の子餅は旧暦10月亥の日に病いにかからぬよう、また子孫繁栄を願って用意する餅のこと。平安時代の『源氏物語』にもその名が見える、由緒ある菓子です。江戸時代には階層を問わず広まり、民間では「亥の子のぼた餅」と呼ばれるような餡ころ餅、宮中では赤白黒の餅が用意されました。菊池によると、江戸城に登城した大名には「紅白の餅」が下賜されたそうです。また、当日、大手門及び桜田門外で大篝火が焚かれ、城内では部屋ごとに火鉢が出された由。猪は火伏の神である愛宕(あたご)神社のお使いであることから、この日に火鉢や炬燵(こたつ)を出し、使いはじめれば火事にならないといわれたためでしょう。大篝火は行事の目玉といえ、日暮れから真夜中まで続きました。「闇夜なるまま火煙空を焦がし、御城門の白壁紅に映じ、青松の間より焔炎(えんえん)うつり、堤下(どてした)の溝水を照らしたる」という描写からは、その迫力が伝わってきます。花火同様、見物を楽しむ江戸っ子も多かったのではないでしょうか。明治時代を迎え、幕府行事が廃れると、紅白の餅は姿を消しますが、今も餡餅を主流として様々な亥の子餅が作られており、茶の湯では11月の炉開きに使われることがあります。菊池の記述によって、ありし日の江戸の行事が偲ばれるとともに、亥の子餅にも親しみがわいてくるのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献菊池貴一郎著 鈴木棠三編『絵本江戸風俗往来』東洋文庫 平凡社 1965年
菊池貴一郎と亥の子餅
「千代田之御表」 玄猪諸侯登城大手下馬ノ図 江戸の記憶幕末の江戸の風俗について、挿絵入りで詳細に記した本に『江戸府内絵本風俗往来』があります。今回ご紹介する菊池貴一郎(きくちきいちろう・1849~1925)はその作者で四代歌川広重を継いだ浮世絵師でもあります。同書を著したのは明治38年(1905)、56歳のときでした。忘れられつつある江戸の暮らしを記録にとどめたいと思ったためで、序文の「躍起(やつき)となりて筆をとり、江戸口調の文をもって江戸純粋の歳事をばありのままにかきちらし」からは、菊池の江戸っ子としての気概が感じられます。 亥の子餅と御篝火(おんかがりび)『江戸府内絵本風俗往来』には、五節句はもちろん、月ごとの年中行事の様子、花見や市の賑わいといった庶民の楽しみが生き生きと描かれています。菓子についても、柏餅や月見団子、粟餅、ところてん売り、飴売りなどいろいろ見えますが、ここでは亥の子餅に触れましょう。 亥の子餅は旧暦10月亥の日に病いにかからぬよう、また子孫繁栄を願って用意する餅のこと。平安時代の『源氏物語』にもその名が見える、由緒ある菓子です。江戸時代には階層を問わず広まり、民間では「亥の子のぼた餅」と呼ばれるような餡ころ餅、宮中では赤白黒の餅が用意されました。菊池によると、江戸城に登城した大名には「紅白の餅」が下賜されたそうです。また、当日、大手門及び桜田門外で大篝火が焚かれ、城内では部屋ごとに火鉢が出された由。猪は火伏の神である愛宕(あたご)神社のお使いであることから、この日に火鉢や炬燵(こたつ)を出し、使いはじめれば火事にならないといわれたためでしょう。大篝火は行事の目玉といえ、日暮れから真夜中まで続きました。「闇夜なるまま火煙空を焦がし、御城門の白壁紅に映じ、青松の間より焔炎(えんえん)うつり、堤下(どてした)の溝水を照らしたる」という描写からは、その迫力が伝わってきます。花火同様、見物を楽しむ江戸っ子も多かったのではないでしょうか。明治時代を迎え、幕府行事が廃れると、紅白の餅は姿を消しますが、今も餡餅を主流として様々な亥の子餅が作られており、茶の湯では11月の炉開きに使われることがあります。菊池の記述によって、ありし日の江戸の行事が偲ばれるとともに、亥の子餅にも親しみがわいてくるのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献菊池貴一郎著 鈴木棠三編『絵本江戸風俗往来』東洋文庫 平凡社 1965年