虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
松平治郷と口切の菓子
参考:虎屋の『朧饅』黄色は御膳餡入、白色は白餡入 「数物御菓子見本帖」(1918)より 茶人 不昧松平治郷(まつだいらはるさと・1751~1818)は、出雲松江(島根)藩の大名で、藩政改革を断行し、産業奨励を行い、窮迫した藩の財政を建て直した名君です。幼少のころより茶道に親しみ、18歳のとき、幕府数寄屋頭の3代伊佐幸琢(いさこうたく)について、石州流を学び、政務の傍ら茶に勤しんだ茶人大名として知られています。地元松江では、彼の号から「不昧(ふまい)公」と親しみを込めて呼ばれています。文化3年(1806)、56歳で隠居した不昧は、品川の高台の屋敷を隠居所としました。現在の御殿山付近です。今回は不昧の隠居後、文化3年から14年にかけて(4年は除く)毎年10月から11月に行われた、その年に収穫した茶葉を初めて使う茶会、口切(くちきり)の11会に使われた菓子を取り上げます。 口切の菓子茶会記を見ると不昧は口切の菓子に必ず饅頭を使っています。そこで今回は翻刻された3種類の茶会記から上記期間の口切の記録を抽出し、比較しました。まず一番多かったのは「腰高饅頭」の表記です。文化3、5、6、7、8、9、11、12、13年の9会に見られます。次に「白餡」の表記が多く、文化5、8、9、11、12、13年の6会。特に文化11年の口切には「白餡朧(おぼろ)饅頭」とあり、「朧」の表記は文化5、6、7年にも見られます。朧とは蒸した饅頭の皮を、熱いうちにむいたものです。当時の饅頭は甘酒を入れて生地を膨らませる饅頭が主流でした。皮がむき難くければ、小豆の餡だと中が黒く透けて見えてしまう可能性があります。そこで不昧は白餡にしたのではないでしょうか。特定の行事に特定の菓子を使うことは良くあることで、彼の美意識により口切の菓子に「白餡入朧腰高饅頭」を好んで使っていたのではないかと推測しました。尚、大正6年(1917)に刊行された『松平不昧伝』中巻の「好み」の項には、「公の好める菓子は種々ありき、松江にては三津屋作兵衛、江戸にては本所二つ目越後屋といふもの、公の指命を受けてこれを製したりといふ」とあり、具体的には特定はできませんが、不昧の指図で、特製の菓子が作られていたことがわかります。口切の菓子もその一つだったのかもしれません。 ※口切の菓子には上記以外に「仙台塩瀬饅頭」の表記がありました。これは不昧の正室が仙台伊達家出身ということもあり、実家からの頂き物、あるいは取り寄せたと考えられます。仙台塩瀬饅頭に関しては、機関誌『和菓子』25号【特集『藩と菓子』】の籠橋俊光氏論文「仙台藩御用菓子司と菓子について」に詳しい記述があります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献米澤義光『松平不昧公茶会記二題』能登印刷出版部 2014年 山本麻渓、木全宗儀 編『古今茶湯集』巻四 慶文堂書店 1917年 松平家編輯部編『松平不昧伝』中巻 箒文社 1917年
松平治郷と口切の菓子
参考:虎屋の『朧饅』黄色は御膳餡入、白色は白餡入 「数物御菓子見本帖」(1918)より 茶人 不昧松平治郷(まつだいらはるさと・1751~1818)は、出雲松江(島根)藩の大名で、藩政改革を断行し、産業奨励を行い、窮迫した藩の財政を建て直した名君です。幼少のころより茶道に親しみ、18歳のとき、幕府数寄屋頭の3代伊佐幸琢(いさこうたく)について、石州流を学び、政務の傍ら茶に勤しんだ茶人大名として知られています。地元松江では、彼の号から「不昧(ふまい)公」と親しみを込めて呼ばれています。文化3年(1806)、56歳で隠居した不昧は、品川の高台の屋敷を隠居所としました。現在の御殿山付近です。今回は不昧の隠居後、文化3年から14年にかけて(4年は除く)毎年10月から11月に行われた、その年に収穫した茶葉を初めて使う茶会、口切(くちきり)の11会に使われた菓子を取り上げます。 口切の菓子茶会記を見ると不昧は口切の菓子に必ず饅頭を使っています。そこで今回は翻刻された3種類の茶会記から上記期間の口切の記録を抽出し、比較しました。まず一番多かったのは「腰高饅頭」の表記です。文化3、5、6、7、8、9、11、12、13年の9会に見られます。次に「白餡」の表記が多く、文化5、8、9、11、12、13年の6会。特に文化11年の口切には「白餡朧(おぼろ)饅頭」とあり、「朧」の表記は文化5、6、7年にも見られます。朧とは蒸した饅頭の皮を、熱いうちにむいたものです。当時の饅頭は甘酒を入れて生地を膨らませる饅頭が主流でした。皮がむき難くければ、小豆の餡だと中が黒く透けて見えてしまう可能性があります。そこで不昧は白餡にしたのではないでしょうか。特定の行事に特定の菓子を使うことは良くあることで、彼の美意識により口切の菓子に「白餡入朧腰高饅頭」を好んで使っていたのではないかと推測しました。尚、大正6年(1917)に刊行された『松平不昧伝』中巻の「好み」の項には、「公の好める菓子は種々ありき、松江にては三津屋作兵衛、江戸にては本所二つ目越後屋といふもの、公の指命を受けてこれを製したりといふ」とあり、具体的には特定はできませんが、不昧の指図で、特製の菓子が作られていたことがわかります。口切の菓子もその一つだったのかもしれません。 ※口切の菓子には上記以外に「仙台塩瀬饅頭」の表記がありました。これは不昧の正室が仙台伊達家出身ということもあり、実家からの頂き物、あるいは取り寄せたと考えられます。仙台塩瀬饅頭に関しては、機関誌『和菓子』25号【特集『藩と菓子』】の籠橋俊光氏論文「仙台藩御用菓子司と菓子について」に詳しい記述があります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献米澤義光『松平不昧公茶会記二題』能登印刷出版部 2014年 山本麻渓、木全宗儀 編『古今茶湯集』巻四 慶文堂書店 1917年 松平家編輯部編『松平不昧伝』中巻 箒文社 1917年
樋口大吉と江戸の菓子屋
鳥飼和泉の店頭 国立国会図書館蔵 「御府内流行名物案内双六」より一葉の父樋口一葉の父・大吉(則義・1830~89)は、甲州中萩原村(現山梨県甲州市)の農家の生まれで、幼いころより勉学に秀でていました。彼は28歳だった安政4年(1857)、古屋あやめとの結婚を反対されたため、父の友人であった武家の真下晩菘(ましもばんすう)を頼って、江戸に駆け落ちをします。家を出てからの日記が残されており、江戸に到着した翌日の4月13日、真下を訪ねるため、手土産の菓子を求めに出かけたことが記されています。(一葉についてはこちらとこちら) 大久保主水と鳥飼和泉大吉がまず向かったのは今川橋(現千代田区)の幕府御用菓子司、大久保主水(おおくぼもんと)でした。江戸で頼る相手に持参する菓子として、最も格式の高い店を選んだのでしょう。ところが玄関先で声をかけると、菓子は献上品を扱うのみで、一切販売はしないと断られてしまい、仕方なく本町三丁目(現中央区)の、饅頭で知られた鳥飼和泉(とりかいいずみ)で菓子折を注文することになりました。出来上がるまでの約2時間を、主人や店の手代らと世間話をして過ごすのですが、当日注文が入っていた金三両の豪華な菓子折を見せてもらった上に、茶菓子にと7切れも頂戴しているのは驚きです。話は大久保主水にも及び、2月28日から3月1日まで、市中の菓子屋は一軒あたり2人ずつ同家に手伝いに行くとのこと。大久保主水は6月16日の幕府の嘉祥の御用で知られますが、これは雛菓子の用意のためだったのでしょうか。同年この時期に、江戸城で能が行われたりしているので、特別な動員だったのかもしれません。大吉は、こうした雑談の記録のあとに、「当時名高キ菓子や」として、「鈴木越後、宇都宮、鳥飼和泉、紅や」の名前を挙げています。「宇都宮」は大久保主水とともに幕府御用を勤めた宇都宮内匠(うつのみやたくみ)、「紅や」は煉羊羹の元祖とも言われる紅谷志津摩(べにやしづま)のことでしょう。吟味した菓子のおかげもあってか、大吉は真下の元、蕃書調所(ばんしょしらべしょ・江戸幕府の洋学研究教育機関)の小使として働くことになりました。これらの菓子屋にお使いに行くこともあったかもしれませんね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献塩田良平『写真作家伝叢書9 樋口一葉』明治書院 1966年塩田良平『樋口一葉』 新装版 吉川弘文館 1995年
樋口大吉と江戸の菓子屋
鳥飼和泉の店頭 国立国会図書館蔵 「御府内流行名物案内双六」より一葉の父樋口一葉の父・大吉(則義・1830~89)は、甲州中萩原村(現山梨県甲州市)の農家の生まれで、幼いころより勉学に秀でていました。彼は28歳だった安政4年(1857)、古屋あやめとの結婚を反対されたため、父の友人であった武家の真下晩菘(ましもばんすう)を頼って、江戸に駆け落ちをします。家を出てからの日記が残されており、江戸に到着した翌日の4月13日、真下を訪ねるため、手土産の菓子を求めに出かけたことが記されています。(一葉についてはこちらとこちら) 大久保主水と鳥飼和泉大吉がまず向かったのは今川橋(現千代田区)の幕府御用菓子司、大久保主水(おおくぼもんと)でした。江戸で頼る相手に持参する菓子として、最も格式の高い店を選んだのでしょう。ところが玄関先で声をかけると、菓子は献上品を扱うのみで、一切販売はしないと断られてしまい、仕方なく本町三丁目(現中央区)の、饅頭で知られた鳥飼和泉(とりかいいずみ)で菓子折を注文することになりました。出来上がるまでの約2時間を、主人や店の手代らと世間話をして過ごすのですが、当日注文が入っていた金三両の豪華な菓子折を見せてもらった上に、茶菓子にと7切れも頂戴しているのは驚きです。話は大久保主水にも及び、2月28日から3月1日まで、市中の菓子屋は一軒あたり2人ずつ同家に手伝いに行くとのこと。大久保主水は6月16日の幕府の嘉祥の御用で知られますが、これは雛菓子の用意のためだったのでしょうか。同年この時期に、江戸城で能が行われたりしているので、特別な動員だったのかもしれません。大吉は、こうした雑談の記録のあとに、「当時名高キ菓子や」として、「鈴木越後、宇都宮、鳥飼和泉、紅や」の名前を挙げています。「宇都宮」は大久保主水とともに幕府御用を勤めた宇都宮内匠(うつのみやたくみ)、「紅や」は煉羊羹の元祖とも言われる紅谷志津摩(べにやしづま)のことでしょう。吟味した菓子のおかげもあってか、大吉は真下の元、蕃書調所(ばんしょしらべしょ・江戸幕府の洋学研究教育機関)の小使として働くことになりました。これらの菓子屋にお使いに行くこともあったかもしれませんね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献塩田良平『写真作家伝叢書9 樋口一葉』明治書院 1966年塩田良平『樋口一葉』 新装版 吉川弘文館 1995年
川瀬一馬と蕨餅
書誌学者が記した随筆川瀬一馬(かわせかずま・1906~99)は昭和期の書誌学者。『古活字版之研究』『古辞書の研究』といった研究書や論文を多数発表したほか、旧安田財閥の安田文庫で典籍収集を行ったことなどでも知られます。 終戦間もない昭和22年(1947)、友人から勧められて執筆したのが『随筆 柚の木』です。全国各地の寺社や旧家の書庫を訪れた際の体験談や、恩師から受けた教え、研究の合間に親しんできた香道や能といった趣味の話など、その話題は多岐にわたっています。 東大寺門前の蕨餅屋「大仏のわらび餅」では、奈良を訪れた際よく食べに行ったという、蕨餅屋について次のように語っています。 「その奈良で、私がわざわざ廻り道をして喰べて帰りたいと思ったのは、東大寺の大仏殿の門前にひさぐわらび餅であった。無論そう大したものでもないが、一寸変っていて賞美出来たものである。(中略)わらび粉をかいて蒸し※、それにきな粉をまぶして蜜と砂糖とをかけて供するもので、葛餅とはまた異なる淡白さがよかった。糊などにも使う純粋のわらび粉を用いているらしく、何でも伊賀あたりで採れるものだと言っていた。時には鹿の群とたわむれたりしてゆっくり蒸し上るのを待って喰べて戻ったこともある。」 蕨餅は、蕨の根から採れる澱粉で作った、艶のある黒褐色の生地が特徴の菓子で、古くから街道や門前などの茶店で供され親しまれています。しかし、蕨粉は採取量が少ないため江戸時代から葛粉で代用され、今も本物の蕨粉は希少品です。川瀬もためしに奈良市内の土産物屋で蕨餅を買っていますが、いつも食べているものと全く比べ物にならなかったとがっかりしているので、これは代用の澱粉で作られていたのかもしれません。 随筆では、お気に入りの蕨餅屋は戦争の半ば頃に閉店してしまったとあり、川瀬は店の再開を是非にと念じています。その土地ならではのものを食べることは、旅の楽しみの一つ。彼の願いに共感する人は多いのではないでしょうか。 ※「半返し」という製法。蕨粉の生地を半分火が通った状態まで煉ったあと、蒸籠に入れて蒸しあげる。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献川瀬一馬『随筆 柚の木』中央公論社 1989年
川瀬一馬と蕨餅
書誌学者が記した随筆川瀬一馬(かわせかずま・1906~99)は昭和期の書誌学者。『古活字版之研究』『古辞書の研究』といった研究書や論文を多数発表したほか、旧安田財閥の安田文庫で典籍収集を行ったことなどでも知られます。 終戦間もない昭和22年(1947)、友人から勧められて執筆したのが『随筆 柚の木』です。全国各地の寺社や旧家の書庫を訪れた際の体験談や、恩師から受けた教え、研究の合間に親しんできた香道や能といった趣味の話など、その話題は多岐にわたっています。 東大寺門前の蕨餅屋「大仏のわらび餅」では、奈良を訪れた際よく食べに行ったという、蕨餅屋について次のように語っています。 「その奈良で、私がわざわざ廻り道をして喰べて帰りたいと思ったのは、東大寺の大仏殿の門前にひさぐわらび餅であった。無論そう大したものでもないが、一寸変っていて賞美出来たものである。(中略)わらび粉をかいて蒸し※、それにきな粉をまぶして蜜と砂糖とをかけて供するもので、葛餅とはまた異なる淡白さがよかった。糊などにも使う純粋のわらび粉を用いているらしく、何でも伊賀あたりで採れるものだと言っていた。時には鹿の群とたわむれたりしてゆっくり蒸し上るのを待って喰べて戻ったこともある。」 蕨餅は、蕨の根から採れる澱粉で作った、艶のある黒褐色の生地が特徴の菓子で、古くから街道や門前などの茶店で供され親しまれています。しかし、蕨粉は採取量が少ないため江戸時代から葛粉で代用され、今も本物の蕨粉は希少品です。川瀬もためしに奈良市内の土産物屋で蕨餅を買っていますが、いつも食べているものと全く比べ物にならなかったとがっかりしているので、これは代用の澱粉で作られていたのかもしれません。 随筆では、お気に入りの蕨餅屋は戦争の半ば頃に閉店してしまったとあり、川瀬は店の再開を是非にと念じています。その土地ならではのものを食べることは、旅の楽しみの一つ。彼の願いに共感する人は多いのではないでしょうか。 ※「半返し」という製法。蕨粉の生地を半分火が通った状態まで煉ったあと、蒸籠に入れて蒸しあげる。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献川瀬一馬『随筆 柚の木』中央公論社 1989年
河竹黙阿弥とかき氷
「新版ねこの氷屋」(部分) 明治22年(1889) 後ろの品書きに「氷しら玉」「氷しるこ」「レモン氷」などと見え、 洋装、和装の客がコップ入りのかき氷を楽しんでいる江戸最後の狂言作者河竹黙阿弥(かわたけもくあみ・1816~93)は幕末から明治時代に活躍した歌舞伎の作者です。舞踊から時代物、世話物まで幅広いジャンルの作品を数多く手がけ、代表作の「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」、「梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)」などは現在もたびたび上演されています。江戸時代の町人社会における義理・人情・色恋などを主題とした世話物を特に得意とし、庶民の流行に敏感な人でした。人の集まる酒場に変装して立ち寄り、はやり言葉を研究したほか、女性の髪型や持ち物をよく観察したといわれ、そうしたなかから題材を得ていたのでしょう。 話題の先端、氷屋明治10年(1877)8月に上演された「千種花月氷(ちぐさのはなつきのこおり)」は、東京・京橋に新しく出来た氷屋を舞台にした舞踊劇です。この「京橋の氷屋」という趣向に黙阿弥のセンスが光ります。銀座・京橋界隈といえば洋風の煉瓦造りの建物が並ぶ、最先端のおしゃれな街でした。また、今では夏の風物詩ともいえるかき氷が一般に広まるのは、明治20年代以降といわれ、上演当時はまだまだ珍しい存在だったと思われます。内容としては、いなせな氷屋の主人、色男の花かんざし売り、美しい妾などが登場し、色模様を演じるという他愛のないものなのですが、当時の風俗を知ることができ面白いです。たとえば、幕開きで、祭り見物にきた職人たちが、あまりに暑いのでかき氷を食べてみたいものだと話し合うくだりに、一杯が「一銭か二銭」で、「れもんを一ぺい呑みてぇ」という台詞があるので、味付きがあったことがわかります。かき氷を「食べる」ではなく「呑む」と表現しているのも、時代を感じさせますね。この頃は、コップ状のガラスの容器にかき氷を入れて提供したようなので、そうしたことに由来しているのかもしれません。人気役者を集めたこの舞踊は、その涼しげな趣向もあいまってか大変好評を博したそうです。時代の流行に敏感だった黙阿弥が現代にいたら、どのようなスイーツに注目し、芝居に取り入れるか、見てみたいものですね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「千種花月氷(西洋氷店)」(『黙阿弥全集』第20巻 春陽堂 1926年)河竹登志夫『黙阿弥』文藝春秋 1993年
河竹黙阿弥とかき氷
「新版ねこの氷屋」(部分) 明治22年(1889) 後ろの品書きに「氷しら玉」「氷しるこ」「レモン氷」などと見え、 洋装、和装の客がコップ入りのかき氷を楽しんでいる江戸最後の狂言作者河竹黙阿弥(かわたけもくあみ・1816~93)は幕末から明治時代に活躍した歌舞伎の作者です。舞踊から時代物、世話物まで幅広いジャンルの作品を数多く手がけ、代表作の「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」、「梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)」などは現在もたびたび上演されています。江戸時代の町人社会における義理・人情・色恋などを主題とした世話物を特に得意とし、庶民の流行に敏感な人でした。人の集まる酒場に変装して立ち寄り、はやり言葉を研究したほか、女性の髪型や持ち物をよく観察したといわれ、そうしたなかから題材を得ていたのでしょう。 話題の先端、氷屋明治10年(1877)8月に上演された「千種花月氷(ちぐさのはなつきのこおり)」は、東京・京橋に新しく出来た氷屋を舞台にした舞踊劇です。この「京橋の氷屋」という趣向に黙阿弥のセンスが光ります。銀座・京橋界隈といえば洋風の煉瓦造りの建物が並ぶ、最先端のおしゃれな街でした。また、今では夏の風物詩ともいえるかき氷が一般に広まるのは、明治20年代以降といわれ、上演当時はまだまだ珍しい存在だったと思われます。内容としては、いなせな氷屋の主人、色男の花かんざし売り、美しい妾などが登場し、色模様を演じるという他愛のないものなのですが、当時の風俗を知ることができ面白いです。たとえば、幕開きで、祭り見物にきた職人たちが、あまりに暑いのでかき氷を食べてみたいものだと話し合うくだりに、一杯が「一銭か二銭」で、「れもんを一ぺい呑みてぇ」という台詞があるので、味付きがあったことがわかります。かき氷を「食べる」ではなく「呑む」と表現しているのも、時代を感じさせますね。この頃は、コップ状のガラスの容器にかき氷を入れて提供したようなので、そうしたことに由来しているのかもしれません。人気役者を集めたこの舞踊は、その涼しげな趣向もあいまってか大変好評を博したそうです。時代の流行に敏感だった黙阿弥が現代にいたら、どのようなスイーツに注目し、芝居に取り入れるか、見てみたいものですね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「千種花月氷(西洋氷店)」(『黙阿弥全集』第20巻 春陽堂 1926年)河竹登志夫『黙阿弥』文藝春秋 1993年
津軽寧親とカステラ
カステラ鍋(吉田コレクション)。蓋の上に炭団を置いた黒い跡がみえる。家格上昇の功労者今回の主人公、津軽寧親(つがるやすちか・1765~1833)は江戸時代後期の弘前藩主です。分家の黒石津軽家に生まれ、黒石領4,000石を相続していましたが、本家8代信明の急死に伴い、寛政3年(1791)より34年間にわたり弘前藩主をつとめました。ロシアの南下に対する警備のため兵を蝦夷(北海道)に派遣した功績から、弘前藩をそれまでの倍以上となる10万石に家格を上昇させた、津軽家の功労者ともいえる人物です。 大名お手製の菓子実は寧親は菓子好きで、弘前藩主時代によく贈り物にしていたことが、手紙の記述から分かります。 たとえば、黒石藩主、津軽親足(ちかたり)からの手紙には、「糟ていら(=カステラ)」をもらったことの御礼が述べられています。なんとこの菓子は寧親の「御手製」だったとのこと。当時はオーブンがなかったため、生地を流した鍋を下から熱するとともに、金属の蓋の上に炭団(たどん)を置いて、上からも熱を加えて焼いて作っていました。大名である寧親が1人で菓子作りの全工程を行っていたとは考え難いとはいえ、親足の手紙には、「結構」な出来栄えで恐れ入ったとあるので、その腕前はなかなかのものだったことでしょう。 おもしろいことに、菓子を通じた交流もあったようで、福山藩主阿部正倫(あべまさとも)からの手紙には、寧親からもらうだけではなく、自身のお手製の菓子を贈っており、腕前の上達ぶりを互いに褒めあっていたような記述が見られます。この菓子がどのようなものかは分からないのですが、自分で作って楽しむだけでなく、切磋琢磨する藩主の姿が想像され、ほほえましく感じます。 ほかにも寧親と菓子をめぐる多くのエピソードがありますので、詳しくは、虎屋文庫刊行の機関誌『和菓子』25号、岡崎寛徳先生による「大名の手製菓子と贈答―弘前藩主津軽寧親と地縁・血縁関係者―」をご一読くださいませ。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
津軽寧親とカステラ
カステラ鍋(吉田コレクション)。蓋の上に炭団を置いた黒い跡がみえる。家格上昇の功労者今回の主人公、津軽寧親(つがるやすちか・1765~1833)は江戸時代後期の弘前藩主です。分家の黒石津軽家に生まれ、黒石領4,000石を相続していましたが、本家8代信明の急死に伴い、寛政3年(1791)より34年間にわたり弘前藩主をつとめました。ロシアの南下に対する警備のため兵を蝦夷(北海道)に派遣した功績から、弘前藩をそれまでの倍以上となる10万石に家格を上昇させた、津軽家の功労者ともいえる人物です。 大名お手製の菓子実は寧親は菓子好きで、弘前藩主時代によく贈り物にしていたことが、手紙の記述から分かります。 たとえば、黒石藩主、津軽親足(ちかたり)からの手紙には、「糟ていら(=カステラ)」をもらったことの御礼が述べられています。なんとこの菓子は寧親の「御手製」だったとのこと。当時はオーブンがなかったため、生地を流した鍋を下から熱するとともに、金属の蓋の上に炭団(たどん)を置いて、上からも熱を加えて焼いて作っていました。大名である寧親が1人で菓子作りの全工程を行っていたとは考え難いとはいえ、親足の手紙には、「結構」な出来栄えで恐れ入ったとあるので、その腕前はなかなかのものだったことでしょう。 おもしろいことに、菓子を通じた交流もあったようで、福山藩主阿部正倫(あべまさとも)からの手紙には、寧親からもらうだけではなく、自身のお手製の菓子を贈っており、腕前の上達ぶりを互いに褒めあっていたような記述が見られます。この菓子がどのようなものかは分からないのですが、自分で作って楽しむだけでなく、切磋琢磨する藩主の姿が想像され、ほほえましく感じます。 ほかにも寧親と菓子をめぐる多くのエピソードがありますので、詳しくは、虎屋文庫刊行の機関誌『和菓子』25号、岡崎寛徳先生による「大名の手製菓子と贈答―弘前藩主津軽寧親と地縁・血縁関係者―」をご一読くださいませ。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
本山荻舟と羊羹
『製菓製パン』昭和31年8月号 製菓実験社食の研究家、本山荻舟本山荻舟(もとやまてきしゅう・1881~1958)は、『名人畸人』や『一刀流物語』など、歴史小説を多く手掛けた作家です。その作品は、文章が洗練されている点や、考証的な姿勢と物語としての面白さをあわせもつ点で、一般読者だけでなく作家仲間からも高く評価されました。二十歳の頃から30年強、新聞記者をつとめていた荻舟は、紙面では料理記事を担当し、食に関する評論や随筆も多く書きました。晩年、編纂に力を注いだ『飲食事典』(1958)はその集大成といえ、食材や料理の歴史から調理法までを網羅した食の名著となっています。 菓子髄一は羊羹荻舟が得意とした分野には、もちろん菓子も含まれ、随筆中で草餅や粽の歴史について論じたり、『製菓製パン』をはじめ食関係の雑誌に菓子の批評や解説を書いたりしています。以下は、同誌の昭和31年(1956)8月号に掲載された「菓子と心構え」から、羊羹について語った部分。 「私は菓子のなかで羊羹に一番興味がありまた好きである。羊羹は実に千差万別だが、食べてみればその質の良否はすぐ判る。寒天や餡の按配あるいはその切り方だけで味が変るといわれるこの羊羹は、そのテクニックのむつかしさだけからみても菓子髄一のものだろう。料理の方では、その板前の腕をみるのに「椀、刺身」といわれるが、菓子ではそれに当るものが羊羹だろうと思っている。」 食通の荻舟が、羊羹を一番としているのが嬉しいところです。「切り方だけで味が変る」というのも大変うなずける話で、切った断面の滑らかさによって食感は変わりますし、厚さによって甘さまで違って感じられることがあります。よく羊羹を食べていたからこそ出た言葉でしょう。さすがと思われるのは、製造の難しさに触れているところ。煉羊羹は小豆、砂糖、寒天で作られるので、原材料だけ取って見れば非常にシンプルですが、それゆえに、職人の腕がそのまま味に反映される菓子ともいえます。実は、料理への関心が高じて、小料理屋を開いた経験もある荻舟。自ら板前として店頭に立っていたといいますから、美味しいものを作る難しさについては、しみじみ感じるところがあったのかもしれませんね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
本山荻舟と羊羹
『製菓製パン』昭和31年8月号 製菓実験社食の研究家、本山荻舟本山荻舟(もとやまてきしゅう・1881~1958)は、『名人畸人』や『一刀流物語』など、歴史小説を多く手掛けた作家です。その作品は、文章が洗練されている点や、考証的な姿勢と物語としての面白さをあわせもつ点で、一般読者だけでなく作家仲間からも高く評価されました。二十歳の頃から30年強、新聞記者をつとめていた荻舟は、紙面では料理記事を担当し、食に関する評論や随筆も多く書きました。晩年、編纂に力を注いだ『飲食事典』(1958)はその集大成といえ、食材や料理の歴史から調理法までを網羅した食の名著となっています。 菓子髄一は羊羹荻舟が得意とした分野には、もちろん菓子も含まれ、随筆中で草餅や粽の歴史について論じたり、『製菓製パン』をはじめ食関係の雑誌に菓子の批評や解説を書いたりしています。以下は、同誌の昭和31年(1956)8月号に掲載された「菓子と心構え」から、羊羹について語った部分。 「私は菓子のなかで羊羹に一番興味がありまた好きである。羊羹は実に千差万別だが、食べてみればその質の良否はすぐ判る。寒天や餡の按配あるいはその切り方だけで味が変るといわれるこの羊羹は、そのテクニックのむつかしさだけからみても菓子髄一のものだろう。料理の方では、その板前の腕をみるのに「椀、刺身」といわれるが、菓子ではそれに当るものが羊羹だろうと思っている。」 食通の荻舟が、羊羹を一番としているのが嬉しいところです。「切り方だけで味が変る」というのも大変うなずける話で、切った断面の滑らかさによって食感は変わりますし、厚さによって甘さまで違って感じられることがあります。よく羊羹を食べていたからこそ出た言葉でしょう。さすがと思われるのは、製造の難しさに触れているところ。煉羊羹は小豆、砂糖、寒天で作られるので、原材料だけ取って見れば非常にシンプルですが、それゆえに、職人の腕がそのまま味に反映される菓子ともいえます。実は、料理への関心が高じて、小料理屋を開いた経験もある荻舟。自ら板前として店頭に立っていたといいますから、美味しいものを作る難しさについては、しみじみ感じるところがあったのかもしれませんね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)