虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
山中共古と煎餅の拓本
東京都八王子市の桑都(そうと)煎餅。菓子の栞が貼られているのは珍しい。 「続共古日録」3巻 国立国会図書館蔵民俗学者の日記民俗学の先駆者として知られ、明治~大正時代に活躍した山中共古(やまなかきょうこ・1850~1928)。『共古随筆』に書かれた東京の菓子について以前ご紹介していますが、今回は彼の残した日記、「共古日録」「續共古日録」を見てみましょう。なんと、たくさんの菓子の拓本が出てくるのです。菓子に紙をあて、墨などでこすって形をうつしとるもので、共古はよく「すり形」と書いています。落雁などの干菓子や最中、月餅もありますが、もっとも多いのは煎餅です。当時の菓子の大きさと意匠をそのまま伝えてくれる、今となっては貴重な資料。共古は愛すべき菓子マニアの一人といえそうです。 煎餅いろいろ当時は小麦粉の生地を金型で焼き上げた煎餅が多く、その表裏の絵柄や文字を写したものが二十点以上。南部煎餅をはじめとする、現在に続く名物はもちろん、縄文土器、東郷元帥、隅田川の桜葉まで種々の意匠が見られます。煎餅の意匠も時代を知らせるものだと書いているように、これらは意識的に集めていたものなのです。彼の好みを教えてくれるような記述も見られます。鬼の顔の煎餅を写しながら、食べ物は「一見して心地よきもの」を形にすべきで、花や景色などが良い、「鬼面の類」は菓子にするべきではなく「不心得のこと」と手厳しい評価。もっとも味は悪くなかったようで、生姜入りもあって「味可なり」としているのがほほえましいところです。菓子は気持ちの良いデザインであって欲しい、という思いは、他日の記載からもうかがえます。商店の広告尽くしという趣向の煎餅を前に、「食物にかゝることを為す面白からぬこと」「薬や下駄屋迄を食すことにて」とおかんむりです。確かに下駄の広告を食べなくても、という気持ちもわかりますが、アイデア商品といえなくもないでしょうか。民俗学者らしく、煎餅の名の由来について文献名を挙げながら記すこともありましたが、茶店で出されたりお土産に貰ったりした菓子を、時に丁寧に、時にはかなりラフに写し取っている共古は実に楽しげです。煎餅の拓本は、彼の小さなライフワークだったかもしれません。 煎餅以外の菓子も散見される。 阿波(徳島県)の「ヘギもち」は、焼く前後の大きさが両方写されている。 「続共古日録」3巻 国立国会図書館蔵 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
山中共古と煎餅の拓本
東京都八王子市の桑都(そうと)煎餅。菓子の栞が貼られているのは珍しい。 「続共古日録」3巻 国立国会図書館蔵民俗学者の日記民俗学の先駆者として知られ、明治~大正時代に活躍した山中共古(やまなかきょうこ・1850~1928)。『共古随筆』に書かれた東京の菓子について以前ご紹介していますが、今回は彼の残した日記、「共古日録」「續共古日録」を見てみましょう。なんと、たくさんの菓子の拓本が出てくるのです。菓子に紙をあて、墨などでこすって形をうつしとるもので、共古はよく「すり形」と書いています。落雁などの干菓子や最中、月餅もありますが、もっとも多いのは煎餅です。当時の菓子の大きさと意匠をそのまま伝えてくれる、今となっては貴重な資料。共古は愛すべき菓子マニアの一人といえそうです。 煎餅いろいろ当時は小麦粉の生地を金型で焼き上げた煎餅が多く、その表裏の絵柄や文字を写したものが二十点以上。南部煎餅をはじめとする、現在に続く名物はもちろん、縄文土器、東郷元帥、隅田川の桜葉まで種々の意匠が見られます。煎餅の意匠も時代を知らせるものだと書いているように、これらは意識的に集めていたものなのです。彼の好みを教えてくれるような記述も見られます。鬼の顔の煎餅を写しながら、食べ物は「一見して心地よきもの」を形にすべきで、花や景色などが良い、「鬼面の類」は菓子にするべきではなく「不心得のこと」と手厳しい評価。もっとも味は悪くなかったようで、生姜入りもあって「味可なり」としているのがほほえましいところです。菓子は気持ちの良いデザインであって欲しい、という思いは、他日の記載からもうかがえます。商店の広告尽くしという趣向の煎餅を前に、「食物にかゝることを為す面白からぬこと」「薬や下駄屋迄を食すことにて」とおかんむりです。確かに下駄の広告を食べなくても、という気持ちもわかりますが、アイデア商品といえなくもないでしょうか。民俗学者らしく、煎餅の名の由来について文献名を挙げながら記すこともありましたが、茶店で出されたりお土産に貰ったりした菓子を、時に丁寧に、時にはかなりラフに写し取っている共古は実に楽しげです。煎餅の拓本は、彼の小さなライフワークだったかもしれません。 煎餅以外の菓子も散見される。 阿波(徳島県)の「ヘギもち」は、焼く前後の大きさが両方写されている。 「続共古日録」3巻 国立国会図書館蔵 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
岡部豊常と贈答の菓子
葛生地の桜餅幕末の京都町奉行岡部豊常(おかべとよつね・1806~65)は幕末の旗本。嘉永2年(1849)に禁裏付(きんりづき)として江戸から京都に赴任、さらに同6年から安政6年(1859)までは京都東町奉行をつとめました。 豊常は日々のできごとを詳細に書きとめた日記を残しています。内容は、13代将軍徳川家定のもとに篤姫(あつひめ)が嫁いだことや安政の大獄といった政治情勢のほか、江戸にいる親族のため雛人形を購入したことや、領地である鶴原村(大阪府泉佐野市)の人々から挨拶を受けたことなど、多岐にわたっています。 菓子で親交を結ぶ日記の中でかなりの部分を占めているのが贈答に関する記述でしょう。やり取りしているのは、主に親族や、公務で関わっていた大名や武家、公家など。なかでも同じ旗本で、西町奉行の任に就いていた浅野長祚(あさのながよし)とは、毎月のようにいろいろなものを贈りあっています。 一例を紹介しましょう。安政3年6月3日には、まず長祚から豊常のもとに桜餅が届けられます。ついで翌4日には豊常が葛切を贈り、同じ日に長祚から今度は「大まんぢう蓬来山一折」が届く、といった具合です。実は豊常は長祚よりも10歳年上なのですが、これだけひんぱんにやり取りをしていたというのは、恐らく両者のうまが合っていたということなのでしょう。 長祚が贈った桜餅はどのようなものだったのでしょうか。現在知られている関西風の道明寺生地の桜餅が作られるようになったのは明治時代になってからのこと。天保年間(1830~44)以降、片栗粉や葛粉を溶き薄く焼いた生地の桜餅が大坂で売られたといい(『浪華百事談』)、京都の菓子屋の広告にも同様の文言が見られますので、日記の桜餅も同様だった可能性がありそうです。また「大まんぢう蓬来山」は、中に小饅頭が入った饅頭のことでしょう。虎屋には「蓬が嶋(よもがしま)※」という子持ち饅頭がありますので、これと似たような菓子だったのかもしれません。 安政5年、西町奉行の任を解かれ急遽江戸に戻ることになった長祚のため、豊常は金子(きんす)ほか、桧(ひのき)の四段重に「茶、干菓子、水□(虫損)飴菓子」と「ようかん弐色」を詰め合わせたものなどを渡しています。日記には、茶と干菓子はあり合わせ、とありますが、おそらく出立まで時間がなかったのでしょう。豊常は長祚に時折は京都のことを思い出してほしい、という気持ちを込めて、京都の茶と菓子を餞別として用意したのかもしれませんね。 ※「蓬が嶋」は、特別注文にて承っております。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献岡部豊常著 鈴木里行編『京都東町奉行日記』安政3年編、安政5年編 新人物往来社 1995、1994年
岡部豊常と贈答の菓子
葛生地の桜餅幕末の京都町奉行岡部豊常(おかべとよつね・1806~65)は幕末の旗本。嘉永2年(1849)に禁裏付(きんりづき)として江戸から京都に赴任、さらに同6年から安政6年(1859)までは京都東町奉行をつとめました。 豊常は日々のできごとを詳細に書きとめた日記を残しています。内容は、13代将軍徳川家定のもとに篤姫(あつひめ)が嫁いだことや安政の大獄といった政治情勢のほか、江戸にいる親族のため雛人形を購入したことや、領地である鶴原村(大阪府泉佐野市)の人々から挨拶を受けたことなど、多岐にわたっています。 菓子で親交を結ぶ日記の中でかなりの部分を占めているのが贈答に関する記述でしょう。やり取りしているのは、主に親族や、公務で関わっていた大名や武家、公家など。なかでも同じ旗本で、西町奉行の任に就いていた浅野長祚(あさのながよし)とは、毎月のようにいろいろなものを贈りあっています。 一例を紹介しましょう。安政3年6月3日には、まず長祚から豊常のもとに桜餅が届けられます。ついで翌4日には豊常が葛切を贈り、同じ日に長祚から今度は「大まんぢう蓬来山一折」が届く、といった具合です。実は豊常は長祚よりも10歳年上なのですが、これだけひんぱんにやり取りをしていたというのは、恐らく両者のうまが合っていたということなのでしょう。 長祚が贈った桜餅はどのようなものだったのでしょうか。現在知られている関西風の道明寺生地の桜餅が作られるようになったのは明治時代になってからのこと。天保年間(1830~44)以降、片栗粉や葛粉を溶き薄く焼いた生地の桜餅が大坂で売られたといい(『浪華百事談』)、京都の菓子屋の広告にも同様の文言が見られますので、日記の桜餅も同様だった可能性がありそうです。また「大まんぢう蓬来山」は、中に小饅頭が入った饅頭のことでしょう。虎屋には「蓬が嶋(よもがしま)※」という子持ち饅頭がありますので、これと似たような菓子だったのかもしれません。 安政5年、西町奉行の任を解かれ急遽江戸に戻ることになった長祚のため、豊常は金子(きんす)ほか、桧(ひのき)の四段重に「茶、干菓子、水□(虫損)飴菓子」と「ようかん弐色」を詰め合わせたものなどを渡しています。日記には、茶と干菓子はあり合わせ、とありますが、おそらく出立まで時間がなかったのでしょう。豊常は長祚に時折は京都のことを思い出してほしい、という気持ちを込めて、京都の茶と菓子を餞別として用意したのかもしれませんね。 ※「蓬が嶋」は、特別注文にて承っております。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献岡部豊常著 鈴木里行編『京都東町奉行日記』安政3年編、安政5年編 新人物往来社 1995、1994年
岸田劉生が描いた麗子と菓子
「文字戯」 大正11年4月22日 (『劉生日記』3巻 岩波書店 1984年より)大正画壇の偉才新聞記者のさきがけで、事業家としても知られた岸田吟香(きしだぎんこう)の子として東京銀座に生まれた岸田劉生(きしだりゅうせい・1891~1929)。黒田清輝(くろだせいき)が主宰する白馬会の研究所で洋画を学び、大正期を中心に画壇で活躍しました。文芸・美術雑誌『白樺』を愛読し、白樺派の作家・武者小路実篤らと親交を結んだことでも知られています。 日記に見る麗子と菓子劉生といえば、独特の画風で描かれた「麗子像」がまず思い浮ぶことでしょう。彼はこの一人娘を大変可愛がり、4、5歳の頃から肖像画をくり返し制作しました。長時間、同じ姿勢をとる絵のモデルは楽ではありませんが、麗子は父の仕事を理解し、劉生は日記のなかで「本当によくモデルして感心な子だ。有難い事に思ふ」とねぎらっています。そして画業を離れると、風邪をひいた娘をひたすら心配したり、授業参観に出かけ、その成長に目を細めたり、子煩悩ぶりを発揮しています。 日記に添えたスケッチにも、しばしば麗子を登場させました。たとえば冒頭の絵。劉生と友人が火鉢にフライパンを載せて文字焼(鉄板の上で小麦粉などを溶いた生地で字や絵を書き焼き上げるもの)を楽しんでいる場面ですが、側に座って出来上がりを見守っているのが麗子です。絵のプロとしてどのような絵や模様を焼いたのか気になります。 下の絵には、劉生がお土産に買ってきた「只しんこ(ただ新粉)」を持つ姿が描かれています。ただ新粉とは、片木板(へぎいた)に色付きの新粉(米の粉)生地を並べたもので、粘土のように遊びました。絵を見ると、子どもが両手で持つような大きさだったようです。劉生は「例によつて」指をこしらえて友人を驚かせたと自慢げに日記に書いており、親子で仲良く遊ぶ姿が目に浮かびます。 このほか、「御節句の御菓子を麗子のよろこんでたべる図」と題した、丸い菓子を盛った鉢を抱えた姿の絵もあります(大正11年3月3日)。劉生は甘党なので一緒に味わったことでしょう。甘いものを前にどんな会話を交わしたのか、ほほえみを浮かべる「麗子像」に尋ねてみたくなります。 左:「麗子只しんこをもらひ大喜び之図也」 右下:「只しんこの図」 奥の山脈状のものが白、手前の6つの塊が色付きの新粉生地 大正13年6月22日 (『劉生日記』5巻 岩波書店 1984年より)※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『劉生日記』1~5巻 岩波書店 1984年
岸田劉生が描いた麗子と菓子
「文字戯」 大正11年4月22日 (『劉生日記』3巻 岩波書店 1984年より)大正画壇の偉才新聞記者のさきがけで、事業家としても知られた岸田吟香(きしだぎんこう)の子として東京銀座に生まれた岸田劉生(きしだりゅうせい・1891~1929)。黒田清輝(くろだせいき)が主宰する白馬会の研究所で洋画を学び、大正期を中心に画壇で活躍しました。文芸・美術雑誌『白樺』を愛読し、白樺派の作家・武者小路実篤らと親交を結んだことでも知られています。 日記に見る麗子と菓子劉生といえば、独特の画風で描かれた「麗子像」がまず思い浮ぶことでしょう。彼はこの一人娘を大変可愛がり、4、5歳の頃から肖像画をくり返し制作しました。長時間、同じ姿勢をとる絵のモデルは楽ではありませんが、麗子は父の仕事を理解し、劉生は日記のなかで「本当によくモデルして感心な子だ。有難い事に思ふ」とねぎらっています。そして画業を離れると、風邪をひいた娘をひたすら心配したり、授業参観に出かけ、その成長に目を細めたり、子煩悩ぶりを発揮しています。 日記に添えたスケッチにも、しばしば麗子を登場させました。たとえば冒頭の絵。劉生と友人が火鉢にフライパンを載せて文字焼(鉄板の上で小麦粉などを溶いた生地で字や絵を書き焼き上げるもの)を楽しんでいる場面ですが、側に座って出来上がりを見守っているのが麗子です。絵のプロとしてどのような絵や模様を焼いたのか気になります。 下の絵には、劉生がお土産に買ってきた「只しんこ(ただ新粉)」を持つ姿が描かれています。ただ新粉とは、片木板(へぎいた)に色付きの新粉(米の粉)生地を並べたもので、粘土のように遊びました。絵を見ると、子どもが両手で持つような大きさだったようです。劉生は「例によつて」指をこしらえて友人を驚かせたと自慢げに日記に書いており、親子で仲良く遊ぶ姿が目に浮かびます。 このほか、「御節句の御菓子を麗子のよろこんでたべる図」と題した、丸い菓子を盛った鉢を抱えた姿の絵もあります(大正11年3月3日)。劉生は甘党なので一緒に味わったことでしょう。甘いものを前にどんな会話を交わしたのか、ほほえみを浮かべる「麗子像」に尋ねてみたくなります。 左:「麗子只しんこをもらひ大喜び之図也」 右下:「只しんこの図」 奥の山脈状のものが白、手前の6つの塊が色付きの新粉生地 大正13年6月22日 (『劉生日記』5巻 岩波書店 1984年より)※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『劉生日記』1~5巻 岩波書店 1984年
幸田文と恋の思い出の菓子
参考:四隅を束ねて餡玉を包んだ菓子 「数物御菓子見本帖」(虎屋黒川家文書、1918)より「台所育ち」の作家幸田文(こうだあや・1904~90)は、作家幸田露伴の次女として生まれました。24歳の時に結婚しますが、10年後に離婚。年老いた父のもとに帰り、身の回りの世話をします。露伴の死後、その思い出を綴った「雑記」「終焉」を発表、その後『流れる』『おとうと』などの小説が評価されました。幼い頃より父から家事を教えられ、自らを「台所育ち」と評した文の作品は、食べ物に関する描写が丁寧で、こだわりが感じられるものが多くあります。 菓子に思いを込めて戦時中、父と出版社主の初老の男性と3人で伊豆からの汽車に乗ったとき、不意にその男性の若い頃の恋の思い出を聞いた文。「なにも云へずできずで、たうとう包んだまゝに終つてしまつた」というその恋は「遠山桜のやうな、色も香もありやなしの夢のごとき」ものに感じられました。後日、文は彼に何か一言伝えたいと考えた末、菓子を贈ることを思いつきます。それは、白・鴇(とき)※1・白の3色の生地で球状の黄身餡を包んだもの。「三枚重ねの包みは外の白へほんのり鴇いろが映るくらゐに、できるだけ薄くのして重ねあはせるのが腕であり、四隅を束ねた截り口がおのおのきつかり三段の縞になつてゐれば、そこが見せどころなのである。」とあり、美しく繊細な菓子が想像できます。文は一度しか食べたことがなく、名前を忘れてしまったそうですが、「『花がたみ※2』と自分勝手な名をつけて送りたかつた。きみを包んで白く、また色あり、だからである。」と記しています。ほんのり映る薄紅色の生地、黄身餡を包んだ意匠に、文が遠山桜のように感じた彼の恋、心に秘めた「君」への思いを重ねているのでしょう。この菓銘は、能の「花筐(はながたみ)」から想を得たものかもしれません。即位した大迹部皇子(おおあとべおうじ)を慕い、あとを追った恋人が紅葉狩の行幸の場で再び出会うという、相手を思い続ける恋心を描いた謡曲に、男性の思い出と通じる部分を感じたのではないでしょうか。残念ながら戦時中ということもあり、実際に贈ることは叶わなかったそうですが、もし渡せていたら、相手にとっても特別な菓子として心に残ったに違いありません。 ※1 トキの羽のような薄桃色、淡紅色。※2 花や若菜などを摘んで入れるかご。花かご。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「菓子」(『幸田文全集』第4巻 岩波書店 1995年)
幸田文と恋の思い出の菓子
参考:四隅を束ねて餡玉を包んだ菓子 「数物御菓子見本帖」(虎屋黒川家文書、1918)より「台所育ち」の作家幸田文(こうだあや・1904~90)は、作家幸田露伴の次女として生まれました。24歳の時に結婚しますが、10年後に離婚。年老いた父のもとに帰り、身の回りの世話をします。露伴の死後、その思い出を綴った「雑記」「終焉」を発表、その後『流れる』『おとうと』などの小説が評価されました。幼い頃より父から家事を教えられ、自らを「台所育ち」と評した文の作品は、食べ物に関する描写が丁寧で、こだわりが感じられるものが多くあります。 菓子に思いを込めて戦時中、父と出版社主の初老の男性と3人で伊豆からの汽車に乗ったとき、不意にその男性の若い頃の恋の思い出を聞いた文。「なにも云へずできずで、たうとう包んだまゝに終つてしまつた」というその恋は「遠山桜のやうな、色も香もありやなしの夢のごとき」ものに感じられました。後日、文は彼に何か一言伝えたいと考えた末、菓子を贈ることを思いつきます。それは、白・鴇(とき)※1・白の3色の生地で球状の黄身餡を包んだもの。「三枚重ねの包みは外の白へほんのり鴇いろが映るくらゐに、できるだけ薄くのして重ねあはせるのが腕であり、四隅を束ねた截り口がおのおのきつかり三段の縞になつてゐれば、そこが見せどころなのである。」とあり、美しく繊細な菓子が想像できます。文は一度しか食べたことがなく、名前を忘れてしまったそうですが、「『花がたみ※2』と自分勝手な名をつけて送りたかつた。きみを包んで白く、また色あり、だからである。」と記しています。ほんのり映る薄紅色の生地、黄身餡を包んだ意匠に、文が遠山桜のように感じた彼の恋、心に秘めた「君」への思いを重ねているのでしょう。この菓銘は、能の「花筐(はながたみ)」から想を得たものかもしれません。即位した大迹部皇子(おおあとべおうじ)を慕い、あとを追った恋人が紅葉狩の行幸の場で再び出会うという、相手を思い続ける恋心を描いた謡曲に、男性の思い出と通じる部分を感じたのではないでしょうか。残念ながら戦時中ということもあり、実際に贈ることは叶わなかったそうですが、もし渡せていたら、相手にとっても特別な菓子として心に残ったに違いありません。 ※1 トキの羽のような薄桃色、淡紅色。※2 花や若菜などを摘んで入れるかご。花かご。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「菓子」(『幸田文全集』第4巻 岩波書店 1995年)
柴田方庵と雲片糕
中国の胡麻入り雲(云)片糕 日本の雲平の例 種痘法(しゅとうほう)の普及に貢献柴田方庵(しばたほうあん・1800~56)は、江戸時代後期の蘭方医です。常陸国多賀郡会瀬村(現茨城県日立市)に生まれ、江戸に出て医学の道に進みました。32歳のときに長崎に行って西洋医学を学び、種痘法(天然痘の予防接種)の普及に貢献します。長崎では水戸藩に海外の情報を提供しており、意外なことにビスケットの製法も書き送っていました。送ったことのみ「日録」(日記)に記され、製法は不明ですが、全国ビスケット協会は、送付日の2月28日を「ビスケットの日」と定めています。 日記に見える菓子の記述方庵の「日録」は、弘化2~安政3年(1845~56)の間に書き綴られたものです。長崎での日々の医療業務や水戸藩とのやりとり、江戸や名古屋にいる友人たちとの交流、長崎の風俗習慣の記述があるなど、内容は実に様々。贈答や進物の記述も多く、人づきあいのよさがうかがえます。特に菓子は土産でもらったり、病気見舞いに贈ったり、随所に登場。「菓子到来」「菓子壱袋持参」など、菓子名が不明なことが多いとはいえ、「甲州産 月ノシズクと云う菓子」「桃まんちう」など、わかる場合もあります。そのなかで今回とりあげたいのは雲片糕(うんへんこう)です。 中国伝来の雲片糕方庵は嘉永3年(1850)3月10日、江戸に向かう途中で名古屋の植物学者、伊藤圭輔(介)らを訪ねたとき、そして4月9日、江戸の医者、伊藤玄朴に会ったとき、それぞれに雲片糕二俵を贈っています。おそらく長崎の手土産として持参したのでしょう。雲片糕は中国から伝わった落雁の親戚のような菓子。もち米の粉と砂糖などをあわせ、固めて蒸し、薄く切った干菓子で、今も中国で作られています(写真左は一例)。方庵の用意したものも同様の形でしょうか。日記では、二俵以外に「壱包ツヽ」という記述があり、俵状に包装したり、何かに包んだりしたものがあったようです。俵といえば、米俵が想像されますが、ここでは小ぶりなものだったのではないでしょうか。江戸時代の史料から、雲片糕は「雲片香」とも書き、長崎に限らず作られていたことがわかります。昭和28年(1953)刊行の『菓子の事典』にも前述したような製法が記されていますが、いつのまにか見かけなくなりました。しかし蒸す前の生地は、現在、「雲平」(うんぺい)と呼ばれているものと同様といえるでしょう。一般に、雲平は、寒梅粉(もち米を加工した粉)と砂糖をあわせた生地を着色し、薄くのばして花びらや葉、流水を形作る(写真右)など、工芸菓子の製法として知られ、関西では生砂糖(きざとう)とも呼ばれています。方庵に、全国菓子大博覧会で展示されるような、雲平で作った大輪の牡丹や色づいた楓の木を見せたら驚くこと間違いなしでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『柴田方庵日録』一~五 日立市郷土博物館、1989~97年
柴田方庵と雲片糕
中国の胡麻入り雲(云)片糕 日本の雲平の例 種痘法(しゅとうほう)の普及に貢献柴田方庵(しばたほうあん・1800~56)は、江戸時代後期の蘭方医です。常陸国多賀郡会瀬村(現茨城県日立市)に生まれ、江戸に出て医学の道に進みました。32歳のときに長崎に行って西洋医学を学び、種痘法(天然痘の予防接種)の普及に貢献します。長崎では水戸藩に海外の情報を提供しており、意外なことにビスケットの製法も書き送っていました。送ったことのみ「日録」(日記)に記され、製法は不明ですが、全国ビスケット協会は、送付日の2月28日を「ビスケットの日」と定めています。 日記に見える菓子の記述方庵の「日録」は、弘化2~安政3年(1845~56)の間に書き綴られたものです。長崎での日々の医療業務や水戸藩とのやりとり、江戸や名古屋にいる友人たちとの交流、長崎の風俗習慣の記述があるなど、内容は実に様々。贈答や進物の記述も多く、人づきあいのよさがうかがえます。特に菓子は土産でもらったり、病気見舞いに贈ったり、随所に登場。「菓子到来」「菓子壱袋持参」など、菓子名が不明なことが多いとはいえ、「甲州産 月ノシズクと云う菓子」「桃まんちう」など、わかる場合もあります。そのなかで今回とりあげたいのは雲片糕(うんへんこう)です。 中国伝来の雲片糕方庵は嘉永3年(1850)3月10日、江戸に向かう途中で名古屋の植物学者、伊藤圭輔(介)らを訪ねたとき、そして4月9日、江戸の医者、伊藤玄朴に会ったとき、それぞれに雲片糕二俵を贈っています。おそらく長崎の手土産として持参したのでしょう。雲片糕は中国から伝わった落雁の親戚のような菓子。もち米の粉と砂糖などをあわせ、固めて蒸し、薄く切った干菓子で、今も中国で作られています(写真左は一例)。方庵の用意したものも同様の形でしょうか。日記では、二俵以外に「壱包ツヽ」という記述があり、俵状に包装したり、何かに包んだりしたものがあったようです。俵といえば、米俵が想像されますが、ここでは小ぶりなものだったのではないでしょうか。江戸時代の史料から、雲片糕は「雲片香」とも書き、長崎に限らず作られていたことがわかります。昭和28年(1953)刊行の『菓子の事典』にも前述したような製法が記されていますが、いつのまにか見かけなくなりました。しかし蒸す前の生地は、現在、「雲平」(うんぺい)と呼ばれているものと同様といえるでしょう。一般に、雲平は、寒梅粉(もち米を加工した粉)と砂糖をあわせた生地を着色し、薄くのばして花びらや葉、流水を形作る(写真右)など、工芸菓子の製法として知られ、関西では生砂糖(きざとう)とも呼ばれています。方庵に、全国菓子大博覧会で展示されるような、雲平で作った大輪の牡丹や色づいた楓の木を見せたら驚くこと間違いなしでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『柴田方庵日録』一~五 日立市郷土博物館、1989~97年
河上肇と饅頭
太鼓饅頭菓子に恵まれた幼少期明治から昭和にかけ、経済学者、思想家として活躍した河上肇(かわかみはじめ・1879~1946)。京都帝国大学で長年教授を務め、経済学の研究に従事しましたが、昭和7年(1932)共産党に入党、検挙されて4年間獄中生活を送るなど、波乱の生涯を送った人物といえます。面白いのは幼少期のエピソードで、彼を溺愛する祖母は、河上が卑しい人間にならないようにと、這い始める頃から菓子を与えて好きに食べさせていたとか。また、父親が村長を務めていたため、菓子折が贈られることも多かったらしく、比較的菓子に恵まれた環境で育ったようです。 饅頭への切実な想いそんな河上にとって、戦中戦後の甘い物を食べられない時代はひどくこたえたのでしょう。終戦後の昭和20年(1945)10月、母親宛ての手紙で、「饅頭を食べたくて仕様がないのです。しかし当分食べられさうにもないので、仕方なしに話をしてまぎらす訳です」と訴え、饅頭の思い出を綴っています。まず挙げているのは、郷里・岩国(山口県)の「焼饅頭」。中は黒砂糖を使ったつぶし餡、皮は小麦粉生地で、鉄製の焼き型に並んだ円形のくぼみに生地を流し、餡をのせ、さらに生地をのせ、ふたで覆って炭火で焼いて作っていたとのこと。もみじ饅頭や鯛焼を円形にしたようなものだったという地元の菓子店の方の話もあり、言われてみれば、鯛焼などの作り方を彷彿とさせるところがあります。くぼみには桔梗や菊、梅の花のほか、岩国の名橋・錦帯橋(きんたいきょう)の絵などが彫ってあったといい、地域色が見えるのも興味を引かれるところです。このほか、母親に買ってもらい、タンスにしまって好きな時に「ちびりちびり食べて」いたという「太鼓饅頭」(大判焼きのこと)も忘れられないと語っています。いずれも素朴な饅頭ですが、甘い物食べたさと、ふるさとへの愛着とがあいまって、特別ななつかしさを感じていたようです。なお、手紙の最後には、以下の3首を含む、12首もの饅頭の歌が記されています。切実に饅頭を欲する気持ちが伝わってきますが、この4ヶ月ほど後に京都市の自宅で衰弱し亡くなっているので、恐らく願いが叶うことはなかったでしょう。思う存分食べさせてあげたかったと思わずにいられません。 大きなる饅頭蒸してほゝばりて茶をのむ時もやがて来るらん(終戦後8月15日作)何よりも今たべたしと思ふもの饅頭いが餅アンパンお萩(9月8日作)死ぬる日と饅頭らくに買へる日と二ついづれか先きに来るらむ(同上) ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『河上肇著作集』第6巻、第9巻 筑摩書房 1964年
河上肇と饅頭
太鼓饅頭菓子に恵まれた幼少期明治から昭和にかけ、経済学者、思想家として活躍した河上肇(かわかみはじめ・1879~1946)。京都帝国大学で長年教授を務め、経済学の研究に従事しましたが、昭和7年(1932)共産党に入党、検挙されて4年間獄中生活を送るなど、波乱の生涯を送った人物といえます。面白いのは幼少期のエピソードで、彼を溺愛する祖母は、河上が卑しい人間にならないようにと、這い始める頃から菓子を与えて好きに食べさせていたとか。また、父親が村長を務めていたため、菓子折が贈られることも多かったらしく、比較的菓子に恵まれた環境で育ったようです。 饅頭への切実な想いそんな河上にとって、戦中戦後の甘い物を食べられない時代はひどくこたえたのでしょう。終戦後の昭和20年(1945)10月、母親宛ての手紙で、「饅頭を食べたくて仕様がないのです。しかし当分食べられさうにもないので、仕方なしに話をしてまぎらす訳です」と訴え、饅頭の思い出を綴っています。まず挙げているのは、郷里・岩国(山口県)の「焼饅頭」。中は黒砂糖を使ったつぶし餡、皮は小麦粉生地で、鉄製の焼き型に並んだ円形のくぼみに生地を流し、餡をのせ、さらに生地をのせ、ふたで覆って炭火で焼いて作っていたとのこと。もみじ饅頭や鯛焼を円形にしたようなものだったという地元の菓子店の方の話もあり、言われてみれば、鯛焼などの作り方を彷彿とさせるところがあります。くぼみには桔梗や菊、梅の花のほか、岩国の名橋・錦帯橋(きんたいきょう)の絵などが彫ってあったといい、地域色が見えるのも興味を引かれるところです。このほか、母親に買ってもらい、タンスにしまって好きな時に「ちびりちびり食べて」いたという「太鼓饅頭」(大判焼きのこと)も忘れられないと語っています。いずれも素朴な饅頭ですが、甘い物食べたさと、ふるさとへの愛着とがあいまって、特別ななつかしさを感じていたようです。なお、手紙の最後には、以下の3首を含む、12首もの饅頭の歌が記されています。切実に饅頭を欲する気持ちが伝わってきますが、この4ヶ月ほど後に京都市の自宅で衰弱し亡くなっているので、恐らく願いが叶うことはなかったでしょう。思う存分食べさせてあげたかったと思わずにいられません。 大きなる饅頭蒸してほゝばりて茶をのむ時もやがて来るらん(終戦後8月15日作)何よりも今たべたしと思ふもの饅頭いが餅アンパンお萩(9月8日作)死ぬる日と饅頭らくに買へる日と二ついづれか先きに来るらむ(同上) ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『河上肇著作集』第6巻、第9巻 筑摩書房 1964年