虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
紀貫之と「まがり」
まがり京名物・まがり平安時代に、紀貫之 (きのつらゆき・?~945) が任地土佐から京に帰る時の見聞を記した『土佐 (左) 日記』。あえて女性の文字とみなされていた仮名で記し、自身の心情を豊かに表現したことは、その後の文学に大きな影響を与えたといえましょう。 このような古典文学にも、菓子は登場します。貫之が京へ帰る途中、山崎あたりの店頭風景が綴られている中で「まがりのおほぢのかた (像)」とあります。これは「まがりと書いてある看板」と解釈され (他説あり)、当時もてはやされた唐菓子のひとつ「まがり」が、人々に売られていたことを思わせる一文となっています。 『土佐日記』が書かれた当時、「菓子」といえば木の実や果物を指しました。これに対し、遣唐使などによって中国からもたらされた唐菓子の多くは、米や麦の粉をこねて形作り、油で揚げたもので、さまざまな種類がありました。ただ伝来当時の絵図や詳しい製法を記した史料がないため、実体のわからないものもあります。 「まがり」は平安時代の漢和辞書『和名類聚抄 (わみょうるいじゅうしょう)』に、「形は藤葛 (ふじかづら) の如きものなり」とあり、生地を草木の蔓のように曲げて作ったことが想像されます。唐菓子の多くは、節会や官吏登用の際の饗応で用いられましたが、なかには平安京の東西の市で売られたり、庶民向けにつくられたものもあったようです。紀貫之も「まがり」の看板を見て、京がいよいよ近づいたのを感じたのでしょうか。 鎌倉時代以降、どういうわけか次第に唐菓子は作られなくなりました。現在は奈良の春日大社、京都の下鴨神社など各地の神社や寺院で、その一部が神饌や供饌 (ぐせん) として伝わっています。また珍しい例ですが、郷土料理として知られる山梨県の「ほうとう」も、もとは唐菓子で、姿を変えて身近なところで息づいているものもあるようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
紀貫之と「まがり」
まがり京名物・まがり平安時代に、紀貫之 (きのつらゆき・?~945) が任地土佐から京に帰る時の見聞を記した『土佐 (左) 日記』。あえて女性の文字とみなされていた仮名で記し、自身の心情を豊かに表現したことは、その後の文学に大きな影響を与えたといえましょう。 このような古典文学にも、菓子は登場します。貫之が京へ帰る途中、山崎あたりの店頭風景が綴られている中で「まがりのおほぢのかた (像)」とあります。これは「まがりと書いてある看板」と解釈され (他説あり)、当時もてはやされた唐菓子のひとつ「まがり」が、人々に売られていたことを思わせる一文となっています。 『土佐日記』が書かれた当時、「菓子」といえば木の実や果物を指しました。これに対し、遣唐使などによって中国からもたらされた唐菓子の多くは、米や麦の粉をこねて形作り、油で揚げたもので、さまざまな種類がありました。ただ伝来当時の絵図や詳しい製法を記した史料がないため、実体のわからないものもあります。 「まがり」は平安時代の漢和辞書『和名類聚抄 (わみょうるいじゅうしょう)』に、「形は藤葛 (ふじかづら) の如きものなり」とあり、生地を草木の蔓のように曲げて作ったことが想像されます。唐菓子の多くは、節会や官吏登用の際の饗応で用いられましたが、なかには平安京の東西の市で売られたり、庶民向けにつくられたものもあったようです。紀貫之も「まがり」の看板を見て、京がいよいよ近づいたのを感じたのでしょうか。 鎌倉時代以降、どういうわけか次第に唐菓子は作られなくなりました。現在は奈良の春日大社、京都の下鴨神社など各地の神社や寺院で、その一部が神饌や供饌 (ぐせん) として伝わっています。また珍しい例ですが、郷土料理として知られる山梨県の「ほうとう」も、もとは唐菓子で、姿を変えて身近なところで息づいているものもあるようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
紫式部と椿餅
椿餅光源氏も食したお菓子いつのまにか見かけることの少なくなった二千円札。お持ちの方は、ぜひ改めてご覧下さい。今回ご紹介する紫式部は、このお札の片隅に描かれる麗しき女性、古典文学の傑作『源氏物語』の作者です。 紫式部が誕生したのは、今から1000年ほど前の平安時代中期。京都でみやびやかな王朝文化が花開いた頃にあたります。一条天皇の中宮彰子に仕えた紫式部は、文筆に優れ学問に秀でた才女でした。その類まれなる才能は、54帖からなる大作『源氏物語』にあますところなく発揮されています。 光源氏を中心としたこの恋愛小説は、登場人物の心理描写がすばらしく、時代を超えて人々の心をひきつけます。四季折々の自然の変化や、当時の貴族たちの優雅な生活が描かれているのも魅力といえるでしょう。 まれとはいえ、お菓子も登場するのですからおもしろいもの。遣唐使が伝えた唐菓子をはじめ、いくつかありますが、ここでとりあげたいのは椿餅。「若菜上」という帖に、若い人々が蹴鞠のあと、梨・柑橘類や椿餅などを食べる場面があります。 椿餅といえば、椿の葉の間に俵形の道明寺生地 (餡入り) をはさんだもの。2月頃の季節菓子としてよく目にしますが、すでに平安時代にあったとは驚きです。しかし当時は甘い小豆餡などはまだなく、甘味は生地に甘葛 (あまづら:つたの汁を煮詰めたもの) をいれる程度で、現在とは違う味だったと考えられます。 とはいえ、紫式部が私たち同様、椿餅を賞味していたことを想像すると、平安貴族たちの生活がより身近に感じられるのではないでしょうか。 二千円札が幻となってしまっても (?)、椿餅は末永く愛されるよう、願いたいものです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
紫式部と椿餅
椿餅光源氏も食したお菓子いつのまにか見かけることの少なくなった二千円札。お持ちの方は、ぜひ改めてご覧下さい。今回ご紹介する紫式部は、このお札の片隅に描かれる麗しき女性、古典文学の傑作『源氏物語』の作者です。 紫式部が誕生したのは、今から1000年ほど前の平安時代中期。京都でみやびやかな王朝文化が花開いた頃にあたります。一条天皇の中宮彰子に仕えた紫式部は、文筆に優れ学問に秀でた才女でした。その類まれなる才能は、54帖からなる大作『源氏物語』にあますところなく発揮されています。 光源氏を中心としたこの恋愛小説は、登場人物の心理描写がすばらしく、時代を超えて人々の心をひきつけます。四季折々の自然の変化や、当時の貴族たちの優雅な生活が描かれているのも魅力といえるでしょう。 まれとはいえ、お菓子も登場するのですからおもしろいもの。遣唐使が伝えた唐菓子をはじめ、いくつかありますが、ここでとりあげたいのは椿餅。「若菜上」という帖に、若い人々が蹴鞠のあと、梨・柑橘類や椿餅などを食べる場面があります。 椿餅といえば、椿の葉の間に俵形の道明寺生地 (餡入り) をはさんだもの。2月頃の季節菓子としてよく目にしますが、すでに平安時代にあったとは驚きです。しかし当時は甘い小豆餡などはまだなく、甘味は生地に甘葛 (あまづら:つたの汁を煮詰めたもの) をいれる程度で、現在とは違う味だったと考えられます。 とはいえ、紫式部が私たち同様、椿餅を賞味していたことを想像すると、平安貴族たちの生活がより身近に感じられるのではないでしょうか。 二千円札が幻となってしまっても (?)、椿餅は末永く愛されるよう、願いたいものです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
市川団十郎(二代目)と外郎
「2代目市川団十郎図」 (鳥居清朝 江戸時代)もとは、薬!十八番 (おはこ:得意芸の意) の語源にもなっている『歌舞伎十八番 (かぶきじゅうはちばん)』とは、歌舞伎役者の家、市川宗家の得意な18演目をさします。2代目団十郎は、このうちのいくつもを当たり芸とした名優です。 「拙者親方と申すは…」に始まる「外郎売」もそのひとつで、2代目団十郎の代表作といえます。持病の咳が、薬の外郎により治ったことに感謝して享保3年 (1718)に初演しました。こんなに効くものだと、外郎の効能を早口でおもしろおかしくまくしたてる内容です。そのせりふの難しさは、現代でも若手俳優が取り組むと、周囲に注目されるほどです。 さて、芝居に登場するのは「薬の外郎」です。中国伝来の薬で、「透頂香 (とうちんこう)」とも呼ばれ、かつて中国で礼部員外郎という役職にあった陳宗敬 (*) の子孫が、小田原で製造販売をしたといわれています。「外郎」とは、この官職名に因んだ家の名であり、外郎家の薬の意で薬の名にもなりました。東海道の宿駅だった小田原の名物となったのです。 * 宗敬の名は『居家四本補亡書後題』(1480) による。小田原外郎藤右衛門に伝わる『陳外郎家譜』によれば、陳延祐という。 端午の節句の粽(外良製)お菓子!?「外郎」ところで、どうしてお菓子の外郎も「外郎」と呼ぶようになったのでしょうか。いろいろな説があります。室町時代、外郎家の2代目当主が、日本を訪れた外国使節の接待のために菓子を作りました。そこから外郎家の菓子の意とも、薬の口直しに食べられたためともいわれています。口当たりもよく食べやすいため、棹物はもとより、生菓子の生地などさまざまに応用されています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
市川団十郎(二代目)と外郎
「2代目市川団十郎図」 (鳥居清朝 江戸時代)もとは、薬!十八番 (おはこ:得意芸の意) の語源にもなっている『歌舞伎十八番 (かぶきじゅうはちばん)』とは、歌舞伎役者の家、市川宗家の得意な18演目をさします。2代目団十郎は、このうちのいくつもを当たり芸とした名優です。 「拙者親方と申すは…」に始まる「外郎売」もそのひとつで、2代目団十郎の代表作といえます。持病の咳が、薬の外郎により治ったことに感謝して享保3年 (1718)に初演しました。こんなに効くものだと、外郎の効能を早口でおもしろおかしくまくしたてる内容です。そのせりふの難しさは、現代でも若手俳優が取り組むと、周囲に注目されるほどです。 さて、芝居に登場するのは「薬の外郎」です。中国伝来の薬で、「透頂香 (とうちんこう)」とも呼ばれ、かつて中国で礼部員外郎という役職にあった陳宗敬 (*) の子孫が、小田原で製造販売をしたといわれています。「外郎」とは、この官職名に因んだ家の名であり、外郎家の薬の意で薬の名にもなりました。東海道の宿駅だった小田原の名物となったのです。 * 宗敬の名は『居家四本補亡書後題』(1480) による。小田原外郎藤右衛門に伝わる『陳外郎家譜』によれば、陳延祐という。 端午の節句の粽(外良製)お菓子!?「外郎」ところで、どうしてお菓子の外郎も「外郎」と呼ぶようになったのでしょうか。いろいろな説があります。室町時代、外郎家の2代目当主が、日本を訪れた外国使節の接待のために菓子を作りました。そこから外郎家の菓子の意とも、薬の口直しに食べられたためともいわれています。口当たりもよく食べやすいため、棹物はもとより、生菓子の生地などさまざまに応用されています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
徳川光圀と福寿饅頭
正義の味方はグルメ時代劇では正義の味方「水戸黄門」として有名な徳川光圀 (1628~1700) ですが、「食通」という意外な一面がありました。イチジクやマルメロなど外来の珍しい果物を栽培させたり、蕎麦やうどんをみずから打ち、ラーメンも食べたという記録があります。 虎屋には光圀の注文した饅頭の御用記録が残っています。貞享5年 (1688) には霊元 (れいげん) 上皇が能を催した折に「大まん」100個を、元禄13年 (1700) 年には公家・中院通茂 (なかのいんみちしげ) 70歳の祝いとして饅頭100個を進上しています。 中院通茂は宮中と将軍家との交渉を担う重要な役職にあり、光圀とも親交があったと思われます。 黄門様みずから饅頭をデザイン?この時の記録には、饅頭の上に紅で「ふく (福) 寿」と書くようにとの指示のほか、皮は27匁 (101.2g)、餡は43匁 (161.2g) と重さまで記されています。あわせて70匁という重さは通茂の 70歳にちなんでいるのでしょうか。食通・光圀らしく凝った注文をしたのかもしれません。 なお、現在の饅頭は50g位が普通。江戸時代の饅頭は相当大きく、150gほどだったとはいえ、この260gを超える饅頭100個は、当時の人にとってもびっくりするような贈物だったのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
徳川光圀と福寿饅頭
正義の味方はグルメ時代劇では正義の味方「水戸黄門」として有名な徳川光圀 (1628~1700) ですが、「食通」という意外な一面がありました。イチジクやマルメロなど外来の珍しい果物を栽培させたり、蕎麦やうどんをみずから打ち、ラーメンも食べたという記録があります。 虎屋には光圀の注文した饅頭の御用記録が残っています。貞享5年 (1688) には霊元 (れいげん) 上皇が能を催した折に「大まん」100個を、元禄13年 (1700) 年には公家・中院通茂 (なかのいんみちしげ) 70歳の祝いとして饅頭100個を進上しています。 中院通茂は宮中と将軍家との交渉を担う重要な役職にあり、光圀とも親交があったと思われます。 黄門様みずから饅頭をデザイン?この時の記録には、饅頭の上に紅で「ふく (福) 寿」と書くようにとの指示のほか、皮は27匁 (101.2g)、餡は43匁 (161.2g) と重さまで記されています。あわせて70匁という重さは通茂の 70歳にちなんでいるのでしょうか。食通・光圀らしく凝った注文をしたのかもしれません。 なお、現在の饅頭は50g位が普通。江戸時代の饅頭は相当大きく、150gほどだったとはいえ、この260gを超える饅頭100個は、当時の人にとってもびっくりするような贈物だったのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
織田信長と金平糖
甘い宝石・金平糖人間五十年 下天のうちを比ぶれば夢幻のごとくなり ひとたび生を受け滅せぬもののあるべきか… ご存知『敦盛』の一説です。この『敦盛』をこよなく愛し、日本の歴史に名を残した人と言えば戦国大名織田信長 (1534~82) が有名です。信長は、楽市楽座や関所の廃止など流通経済の改革や、常備軍の設立による兵農分離、身分にとらわれない人材の登用など、当時としては革新的な制度を導入し、日本の近世の扉を開けた人物です。 また、武将としての信長は、天文12年 (1543) に伝来した鉄砲を有効に使用するとともに、西洋文化に強い関心をもち、南蛮風の衣装に身を包んで悦に入ったという逸話も残しています。 当時、流入した西洋文化の多くは、キリスト教の宣教師や貿易商人たちによって伝えられました。その中に、カステラ・金平糖・有平糖・ボーロなどの南蛮菓子も含まれています。特に宣教師たちは、まだ砂糖が貴重で甘味に乏しい日本の人々に対して、砂糖をたくさん使用した南蛮菓子を配ることが、布教に有効であることを知っていたようです。 宣教師ルイス・フロイスの書翰によれば、永禄12年 (1569) 4月16日に、二条城に信長を訪ねた時、ろうそく数本とフラスコ入りの金平糖を贈ったことが記されています。もし信長が外国に対して閉鎖的であったら、和菓子のル―ツの一つである南蛮菓子が、日本中に広まるきっかけは無かったかも知れません。 信長の頃、既に一部が伝承されていた南蛮菓子は、その後も長崎出島でのオランダ貿易によってますます広まっていきました。江戸時代元禄期には、盛んに国内で作られるようになったいたようです。貞享5年 (1688) 刊の井原西鶴著『日本永代蔵』には、金平糖の製法が記され、当時の金平糖の核には胡麻が使用されていたこともわかっています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
織田信長と金平糖
甘い宝石・金平糖人間五十年 下天のうちを比ぶれば夢幻のごとくなり ひとたび生を受け滅せぬもののあるべきか… ご存知『敦盛』の一説です。この『敦盛』をこよなく愛し、日本の歴史に名を残した人と言えば戦国大名織田信長 (1534~82) が有名です。信長は、楽市楽座や関所の廃止など流通経済の改革や、常備軍の設立による兵農分離、身分にとらわれない人材の登用など、当時としては革新的な制度を導入し、日本の近世の扉を開けた人物です。 また、武将としての信長は、天文12年 (1543) に伝来した鉄砲を有効に使用するとともに、西洋文化に強い関心をもち、南蛮風の衣装に身を包んで悦に入ったという逸話も残しています。 当時、流入した西洋文化の多くは、キリスト教の宣教師や貿易商人たちによって伝えられました。その中に、カステラ・金平糖・有平糖・ボーロなどの南蛮菓子も含まれています。特に宣教師たちは、まだ砂糖が貴重で甘味に乏しい日本の人々に対して、砂糖をたくさん使用した南蛮菓子を配ることが、布教に有効であることを知っていたようです。 宣教師ルイス・フロイスの書翰によれば、永禄12年 (1569) 4月16日に、二条城に信長を訪ねた時、ろうそく数本とフラスコ入りの金平糖を贈ったことが記されています。もし信長が外国に対して閉鎖的であったら、和菓子のル―ツの一つである南蛮菓子が、日本中に広まるきっかけは無かったかも知れません。 信長の頃、既に一部が伝承されていた南蛮菓子は、その後も長崎出島でのオランダ貿易によってますます広まっていきました。江戸時代元禄期には、盛んに国内で作られるようになったいたようです。貞享5年 (1688) 刊の井原西鶴著『日本永代蔵』には、金平糖の製法が記され、当時の金平糖の核には胡麻が使用されていたこともわかっています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)