虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子

隠元禅師と寒天
寒天を使用した季節の羊羹「ところてんから生まれた?!」隠元禅師 (いんげんぜんじ・1592~1673) は承応3年 (1654) に来日した明の僧侶で、日本黄檗宗の開祖として現在の京都府宇治市に黄檗山万福寺を開きました。 隠元といえば隠元豆をもたらした人物として知られていますが、このほか「隠元茶」「隠元菜」などの食品にも名前を残しています。また、様々な逸話も伝わっており、和菓子の世界では寒天に因んだものが有名です。 寒天は天草などの紅藻類の煮汁から作りますが、すぐ出来あがりというわけではありません。煮汁を固め、ところてんを作り、凍結・融解・乾燥を数回繰り返し干物状にしたものが寒天です。 江戸時代は1600年代中頃、参勤交代途上の薩摩藩主島津公が宿泊した宿の主人美濃屋太郎左衛門は、夕食の残りのところてんを戸外に放置したところ、数日後には干物状になっていました。これが寒天の始まりです。 隠元禅師は、このような清浄感のある食べ物は仏門につかえる者に最適であるとし、「寒晒しのところてん」の意から寒天と名付けたそうです。寒天は、17世紀後半の料理書に水で洗ってそのまま用いることが紹介されており、はじめは刺身や煮物、酢の物などに利用されたと思われます。 和菓子に寒天が使われるようになるのはさらに後のことで、煉羊羹の登場は18世紀後半とされます。現在では涼を感じさせる素材として、錦玉羹はじめ夏菓子に広く使われています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
隠元禅師と寒天
寒天を使用した季節の羊羹「ところてんから生まれた?!」隠元禅師 (いんげんぜんじ・1592~1673) は承応3年 (1654) に来日した明の僧侶で、日本黄檗宗の開祖として現在の京都府宇治市に黄檗山万福寺を開きました。 隠元といえば隠元豆をもたらした人物として知られていますが、このほか「隠元茶」「隠元菜」などの食品にも名前を残しています。また、様々な逸話も伝わっており、和菓子の世界では寒天に因んだものが有名です。 寒天は天草などの紅藻類の煮汁から作りますが、すぐ出来あがりというわけではありません。煮汁を固め、ところてんを作り、凍結・融解・乾燥を数回繰り返し干物状にしたものが寒天です。 江戸時代は1600年代中頃、参勤交代途上の薩摩藩主島津公が宿泊した宿の主人美濃屋太郎左衛門は、夕食の残りのところてんを戸外に放置したところ、数日後には干物状になっていました。これが寒天の始まりです。 隠元禅師は、このような清浄感のある食べ物は仏門につかえる者に最適であるとし、「寒晒しのところてん」の意から寒天と名付けたそうです。寒天は、17世紀後半の料理書に水で洗ってそのまま用いることが紹介されており、はじめは刺身や煮物、酢の物などに利用されたと思われます。 和菓子に寒天が使われるようになるのはさらに後のことで、煉羊羹の登場は18世紀後半とされます。現在では涼を感じさせる素材として、錦玉羹はじめ夏菓子に広く使われています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

松尾芭蕉とところてん
清滝の水汲みよせてところてん松尾芭蕉 (1644~1694) といえば、「静かさや岩にしみいる蝉の声」などの句で小学生にも知られる江戸時代前期の俳人です。当時戯れ (たわむれ) 、滑稽 (こっけい) を主としていた俳諧 (はいかい) が、「わび」の美的境地にまで高められたのは彼の功績とされています。代表作『おくのほそ道』は江戸深川から奥州、北陸の名所旧跡を巡り美濃大垣へ至る間の俳諧紀行文です。彼はこの作品を通じ、旅こそ人生という考えに達し、さらに上方にて漂泊生活を続けました。また、京都嵯峨野の落柿舎 (らくししゃ) に滞在し、『嵯峨日記』を著しました。 『顔文字ゑつくし』(1766)江戸時代のところてん売り今回、菓子との関連でご紹介するこの句は、奥嵯峨のさらに奥にある水の里、清滝 (きよたき) で夏に味わったところてんの涼を詠んだものと思われます。良質のてんぐさと水がすべてともいえる「ところてん」と、地名の響きからして清涼感のある「清滝」の取合わせは絶妙です。芭蕉が詠んだその実物を私たちも味わってみたくなります。 ところてんの歴史は古く、すでに平安京では東西の市で「心太 (こころぶと)」の名で売られていました。これは、ところてんの原料となる天草が凝藻葉 (こるもは) といわれ、その俗称が「こころぶと」だったためとされています。今でも漢字でところてんを「心太」と表記するのはこの名残です。 ゼリーやシャーベットなど涼菓のない時代、芭蕉の味わった夏のところてんは現在とは比較にならないほど有難い食べ物だったことでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
松尾芭蕉とところてん
清滝の水汲みよせてところてん松尾芭蕉 (1644~1694) といえば、「静かさや岩にしみいる蝉の声」などの句で小学生にも知られる江戸時代前期の俳人です。当時戯れ (たわむれ) 、滑稽 (こっけい) を主としていた俳諧 (はいかい) が、「わび」の美的境地にまで高められたのは彼の功績とされています。代表作『おくのほそ道』は江戸深川から奥州、北陸の名所旧跡を巡り美濃大垣へ至る間の俳諧紀行文です。彼はこの作品を通じ、旅こそ人生という考えに達し、さらに上方にて漂泊生活を続けました。また、京都嵯峨野の落柿舎 (らくししゃ) に滞在し、『嵯峨日記』を著しました。 『顔文字ゑつくし』(1766)江戸時代のところてん売り今回、菓子との関連でご紹介するこの句は、奥嵯峨のさらに奥にある水の里、清滝 (きよたき) で夏に味わったところてんの涼を詠んだものと思われます。良質のてんぐさと水がすべてともいえる「ところてん」と、地名の響きからして清涼感のある「清滝」の取合わせは絶妙です。芭蕉が詠んだその実物を私たちも味わってみたくなります。 ところてんの歴史は古く、すでに平安京では東西の市で「心太 (こころぶと)」の名で売られていました。これは、ところてんの原料となる天草が凝藻葉 (こるもは) といわれ、その俗称が「こころぶと」だったためとされています。今でも漢字でところてんを「心太」と表記するのはこの名残です。 ゼリーやシャーベットなど涼菓のない時代、芭蕉の味わった夏のところてんは現在とは比較にならないほど有難い食べ物だったことでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

清少納言とかき氷
現代のかき氷究極の逸品!清少納言 (生没年不詳) は一条天皇の中宮定子に仕えた平安時代の才媛です。春はあけぼの…で始まる随筆『枕草子』はあまりにも有名ですが、同書にかき氷が登場します (四十二段) 。 「あてなるもの。…削り氷にあまずら入れて、あたらしきかなまりに入れたる。」 「かなまり」は金属製のお椀、「あまずら」はツタの樹液を煮詰めて作る、一見蜂蜜に似た平安時代の甘味料のことです。傷一つ無い金属の小椀に盛り付け、黄金色のあまずらをかけた平安時代のかき氷。お椀の表面が冷気で白くなり、露を結び、いよいよ冷たさを増す様は「あてなる」つまり雅やかで上品、と表現されるにふさわしかったことでしょう。しかし氷がこれだけ賞賛されたのは、それだけ貴重品だったためと言えましょう。当時氷は冬の間に、氷室と呼ばれる穴に運び込まれ、夏まで保存されていたのでした。日のあたらない山腹に穴を掘り、地面には茅やすすきを厚く敷き詰めて氷を置き、さらにその上を草で覆って断熱したといわれます。 幕末には天然の氷が大量に輸送されるようになり、横浜の馬車道に日本初の氷屋が開業しました。また、明治16年 (1883) に、東京に製氷所が開設されます。氷が庶民の手に入るようになるまでには、清少納言の時代から実に一千年近い時を待たねばならなかったのでした。 この夏は平安貴族の気分になって、金属のお椀でかき氷を召し上がってみてはいかがでしょうか? ※かき氷は、虎屋菓寮の夏メニューとして販売しております。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
清少納言とかき氷
現代のかき氷究極の逸品!清少納言 (生没年不詳) は一条天皇の中宮定子に仕えた平安時代の才媛です。春はあけぼの…で始まる随筆『枕草子』はあまりにも有名ですが、同書にかき氷が登場します (四十二段) 。 「あてなるもの。…削り氷にあまずら入れて、あたらしきかなまりに入れたる。」 「かなまり」は金属製のお椀、「あまずら」はツタの樹液を煮詰めて作る、一見蜂蜜に似た平安時代の甘味料のことです。傷一つ無い金属の小椀に盛り付け、黄金色のあまずらをかけた平安時代のかき氷。お椀の表面が冷気で白くなり、露を結び、いよいよ冷たさを増す様は「あてなる」つまり雅やかで上品、と表現されるにふさわしかったことでしょう。しかし氷がこれだけ賞賛されたのは、それだけ貴重品だったためと言えましょう。当時氷は冬の間に、氷室と呼ばれる穴に運び込まれ、夏まで保存されていたのでした。日のあたらない山腹に穴を掘り、地面には茅やすすきを厚く敷き詰めて氷を置き、さらにその上を草で覆って断熱したといわれます。 幕末には天然の氷が大量に輸送されるようになり、横浜の馬車道に日本初の氷屋が開業しました。また、明治16年 (1883) に、東京に製氷所が開設されます。氷が庶民の手に入るようになるまでには、清少納言の時代から実に一千年近い時を待たねばならなかったのでした。 この夏は平安貴族の気分になって、金属のお椀でかき氷を召し上がってみてはいかがでしょうか? ※かき氷は、虎屋菓寮の夏メニューとして販売しております。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

源頼朝と十字
笑顔饅我が子の祝いに饅頭配り源頼朝 (1147~99) は鎌倉に幕府を開き、700年近い武家政治の基礎を築いた人物です。武士の尊敬を集める一方、冷徹な権力者としての一面を持ち、また恐妻家としても知られ、その性格は複雑です。 頼朝は建久4年 (1193) 5月、富士山麓で大規模な巻狩 (まきがり) を行いました。この時、長男の頼家が鹿を射ったことを祝い、参加した将士に「十字 (じゅうじ)」を配っています。 十字とは蒸餅 (じょうへい) のことで、饅頭の異名だと、江戸時代の図説百科事典『和漢三才図会』にあります。名称の由来は、食べやすくするために、蒸した餅の上を十文字に切り裂いたからだといいます。鎌倉時代、中国から饅頭や羊羹がもたらされているので、頼朝が饅頭を配ってもおかしくはありません。 しかし十字の実態はよくわからないのです。蒸餅が饅頭だというのも、合点がいきません。中国で餅 (ピン) は小麦粉食品の総称なので、饅頭に通じさせているのでしょう。 和漢三才図会鎌倉時代の宗教家日蓮は、十字を「満月の如し」と形容しているので、平たく丸い形だったことがわかります。ただ製法や餡の有無など不明な点が多く、同時代の文献に登場する饅頭との異同もよくわかりません。しかし後世、饅頭と十字が同一視されるようになるのも事実で、饅頭に朱点を打つのは、十字の遺風といわれています (『嬉遊笑覧』)。現在でも虎屋の「笑顔饅 (えがおまん)」のように朱点を打った饅頭があります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
源頼朝と十字
笑顔饅我が子の祝いに饅頭配り源頼朝 (1147~99) は鎌倉に幕府を開き、700年近い武家政治の基礎を築いた人物です。武士の尊敬を集める一方、冷徹な権力者としての一面を持ち、また恐妻家としても知られ、その性格は複雑です。 頼朝は建久4年 (1193) 5月、富士山麓で大規模な巻狩 (まきがり) を行いました。この時、長男の頼家が鹿を射ったことを祝い、参加した将士に「十字 (じゅうじ)」を配っています。 十字とは蒸餅 (じょうへい) のことで、饅頭の異名だと、江戸時代の図説百科事典『和漢三才図会』にあります。名称の由来は、食べやすくするために、蒸した餅の上を十文字に切り裂いたからだといいます。鎌倉時代、中国から饅頭や羊羹がもたらされているので、頼朝が饅頭を配ってもおかしくはありません。 しかし十字の実態はよくわからないのです。蒸餅が饅頭だというのも、合点がいきません。中国で餅 (ピン) は小麦粉食品の総称なので、饅頭に通じさせているのでしょう。 和漢三才図会鎌倉時代の宗教家日蓮は、十字を「満月の如し」と形容しているので、平たく丸い形だったことがわかります。ただ製法や餡の有無など不明な点が多く、同時代の文献に登場する饅頭との異同もよくわかりません。しかし後世、饅頭と十字が同一視されるようになるのも事実で、饅頭に朱点を打つのは、十字の遺風といわれています (『嬉遊笑覧』)。現在でも虎屋の「笑顔饅 (えがおまん)」のように朱点を打った饅頭があります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

紀貫之と「まがり」
まがり京名物・まがり平安時代に、紀貫之 (きのつらゆき・?~945) が任地土佐から京に帰る時の見聞を記した『土佐 (左) 日記』。あえて女性の文字とみなされていた仮名で記し、自身の心情を豊かに表現したことは、その後の文学に大きな影響を与えたといえましょう。 このような古典文学にも、菓子は登場します。貫之が京へ帰る途中、山崎あたりの店頭風景が綴られている中で「まがりのおほぢのかた (像)」とあります。これは「まがりと書いてある看板」と解釈され (他説あり)、当時もてはやされた唐菓子のひとつ「まがり」が、人々に売られていたことを思わせる一文となっています。 『土佐日記』が書かれた当時、「菓子」といえば木の実や果物を指しました。これに対し、遣唐使などによって中国からもたらされた唐菓子の多くは、米や麦の粉をこねて形作り、油で揚げたもので、さまざまな種類がありました。ただ伝来当時の絵図や詳しい製法を記した史料がないため、実体のわからないものもあります。 「まがり」は平安時代の漢和辞書『和名類聚抄 (わみょうるいじゅうしょう)』に、「形は藤葛 (ふじかづら) の如きものなり」とあり、生地を草木の蔓のように曲げて作ったことが想像されます。唐菓子の多くは、節会や官吏登用の際の饗応で用いられましたが、なかには平安京の東西の市で売られたり、庶民向けにつくられたものもあったようです。紀貫之も「まがり」の看板を見て、京がいよいよ近づいたのを感じたのでしょうか。 鎌倉時代以降、どういうわけか次第に唐菓子は作られなくなりました。現在は奈良の春日大社、京都の下鴨神社など各地の神社や寺院で、その一部が神饌や供饌 (ぐせん) として伝わっています。また珍しい例ですが、郷土料理として知られる山梨県の「ほうとう」も、もとは唐菓子で、姿を変えて身近なところで息づいているものもあるようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
紀貫之と「まがり」
まがり京名物・まがり平安時代に、紀貫之 (きのつらゆき・?~945) が任地土佐から京に帰る時の見聞を記した『土佐 (左) 日記』。あえて女性の文字とみなされていた仮名で記し、自身の心情を豊かに表現したことは、その後の文学に大きな影響を与えたといえましょう。 このような古典文学にも、菓子は登場します。貫之が京へ帰る途中、山崎あたりの店頭風景が綴られている中で「まがりのおほぢのかた (像)」とあります。これは「まがりと書いてある看板」と解釈され (他説あり)、当時もてはやされた唐菓子のひとつ「まがり」が、人々に売られていたことを思わせる一文となっています。 『土佐日記』が書かれた当時、「菓子」といえば木の実や果物を指しました。これに対し、遣唐使などによって中国からもたらされた唐菓子の多くは、米や麦の粉をこねて形作り、油で揚げたもので、さまざまな種類がありました。ただ伝来当時の絵図や詳しい製法を記した史料がないため、実体のわからないものもあります。 「まがり」は平安時代の漢和辞書『和名類聚抄 (わみょうるいじゅうしょう)』に、「形は藤葛 (ふじかづら) の如きものなり」とあり、生地を草木の蔓のように曲げて作ったことが想像されます。唐菓子の多くは、節会や官吏登用の際の饗応で用いられましたが、なかには平安京の東西の市で売られたり、庶民向けにつくられたものもあったようです。紀貫之も「まがり」の看板を見て、京がいよいよ近づいたのを感じたのでしょうか。 鎌倉時代以降、どういうわけか次第に唐菓子は作られなくなりました。現在は奈良の春日大社、京都の下鴨神社など各地の神社や寺院で、その一部が神饌や供饌 (ぐせん) として伝わっています。また珍しい例ですが、郷土料理として知られる山梨県の「ほうとう」も、もとは唐菓子で、姿を変えて身近なところで息づいているものもあるようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

紫式部と椿餅
椿餅光源氏も食したお菓子いつのまにか見かけることの少なくなった二千円札。お持ちの方は、ぜひ改めてご覧下さい。今回ご紹介する紫式部は、このお札の片隅に描かれる麗しき女性、古典文学の傑作『源氏物語』の作者です。 紫式部が誕生したのは、今から1000年ほど前の平安時代中期。京都でみやびやかな王朝文化が花開いた頃にあたります。一条天皇の中宮彰子に仕えた紫式部は、文筆に優れ学問に秀でた才女でした。その類まれなる才能は、54帖からなる大作『源氏物語』にあますところなく発揮されています。 光源氏を中心としたこの恋愛小説は、登場人物の心理描写がすばらしく、時代を超えて人々の心をひきつけます。四季折々の自然の変化や、当時の貴族たちの優雅な生活が描かれているのも魅力といえるでしょう。 まれとはいえ、お菓子も登場するのですからおもしろいもの。遣唐使が伝えた唐菓子をはじめ、いくつかありますが、ここでとりあげたいのは椿餅。「若菜上」という帖に、若い人々が蹴鞠のあと、梨・柑橘類や椿餅などを食べる場面があります。 椿餅といえば、椿の葉の間に俵形の道明寺生地 (餡入り) をはさんだもの。2月頃の季節菓子としてよく目にしますが、すでに平安時代にあったとは驚きです。しかし当時は甘い小豆餡などはまだなく、甘味は生地に甘葛 (あまづら:つたの汁を煮詰めたもの) をいれる程度で、現在とは違う味だったと考えられます。 とはいえ、紫式部が私たち同様、椿餅を賞味していたことを想像すると、平安貴族たちの生活がより身近に感じられるのではないでしょうか。 二千円札が幻となってしまっても (?)、椿餅は末永く愛されるよう、願いたいものです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
紫式部と椿餅
椿餅光源氏も食したお菓子いつのまにか見かけることの少なくなった二千円札。お持ちの方は、ぜひ改めてご覧下さい。今回ご紹介する紫式部は、このお札の片隅に描かれる麗しき女性、古典文学の傑作『源氏物語』の作者です。 紫式部が誕生したのは、今から1000年ほど前の平安時代中期。京都でみやびやかな王朝文化が花開いた頃にあたります。一条天皇の中宮彰子に仕えた紫式部は、文筆に優れ学問に秀でた才女でした。その類まれなる才能は、54帖からなる大作『源氏物語』にあますところなく発揮されています。 光源氏を中心としたこの恋愛小説は、登場人物の心理描写がすばらしく、時代を超えて人々の心をひきつけます。四季折々の自然の変化や、当時の貴族たちの優雅な生活が描かれているのも魅力といえるでしょう。 まれとはいえ、お菓子も登場するのですからおもしろいもの。遣唐使が伝えた唐菓子をはじめ、いくつかありますが、ここでとりあげたいのは椿餅。「若菜上」という帖に、若い人々が蹴鞠のあと、梨・柑橘類や椿餅などを食べる場面があります。 椿餅といえば、椿の葉の間に俵形の道明寺生地 (餡入り) をはさんだもの。2月頃の季節菓子としてよく目にしますが、すでに平安時代にあったとは驚きです。しかし当時は甘い小豆餡などはまだなく、甘味は生地に甘葛 (あまづら:つたの汁を煮詰めたもの) をいれる程度で、現在とは違う味だったと考えられます。 とはいえ、紫式部が私たち同様、椿餅を賞味していたことを想像すると、平安貴族たちの生活がより身近に感じられるのではないでしょうか。 二千円札が幻となってしまっても (?)、椿餅は末永く愛されるよう、願いたいものです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)