虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
河井継之助と羊羹
幕末の風雲児越後長岡(新潟県長岡市)の藩士の家に生まれ、幕末の藩政改革の中心人物となり、無念にも戊辰戦争によって倒れた河井継之助(かわいつぎのすけ・1827~1868)。古い風習にこだわらない実行力と正義感の強さは、今も地元の人々の敬愛を集めています。その生涯を題材にした司馬遼太郎の小説『峠』を読んで、ファンになった方も少なくないでしょう。若い頃から治世とはどうあるべきか考えていた継之助は、江戸や西国に遊学しています。安政6年(1859)、33才の時の西国遊学は、江戸藩邸から横浜、京都、大坂を経たのち、備中松山(岡山県高梁市)で儒者・山田方谷(やまだほうこく)の教えを受け、長崎や熊本まで足をのばし、帰国するという、広範囲に及ぶものでした。道中の出来事を記した日記『塵壺』(じんこ)によって、寺社仏閣や名所旧跡、遊郭や唐館・蘭館を訪ねるなど、旺盛な好奇心で見聞を広める継之助の姿を追うことができます。横浜で交易状況を調べたり、佐賀で反射炉を見て産業育成の必要性を感じたり、様々な情報を得て藩政の参考にしているのが彼らしいところ。新たな時代を切り開いていこうという気概が伝わってきます。 熊本でのお土産今回は日記から、継之助の素顔がうかがえる、ほほえましいエピソードをご紹介しましょう。熊本で土産を買おうと菓子屋に入ったときのこと。そこでは名物の「朝鮮飴」を売っていましたが、継之助は煉羊羹があるのか尋ねます。「幾等分にても切上ぐる」といわれ、注文すると、なんと値段に見合わない「巨大」さ。本当に煉羊羹だろうか、(この土地では)砂糖が安いからなのかと疑い、少し食べさせてほしいと頼むと、結果は「小供羊羹」、つまり駄菓子の類でした。継之助はため息をつき、「此の如き粗末なるは、使い物に出来ず。煉羊羹にあらず」といいますが、店の人は動じることなく、別の羊羹も作っているが今はなく、この品は進物によいと答えます。あきれるものの、「かさありてよかろう」と大きいことに触れ、笑って持ち帰ったそうです。自分の思うことを正直に伝える人柄、先方の言い分を受け止め、笑ってその場をおさめる懐の深さなどが、何気ないやりとりからもうかがえるのではないでしょうか。なお、この羊羹をもらった木下真太郎(山田方谷の同門)が後日、御礼を述べる場面があります。木下の家の様子は「万事質素」、加えてその飾らぬ人柄から、継之助は「羊羹は粗末にあらず」と思ったそう。こんなことまで日記に書き残してくれるとは楽しいですね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献安藤英男校注『塵壺-河井継之助日記』 平凡社 1980年
河井継之助と羊羹
幕末の風雲児越後長岡(新潟県長岡市)の藩士の家に生まれ、幕末の藩政改革の中心人物となり、無念にも戊辰戦争によって倒れた河井継之助(かわいつぎのすけ・1827~1868)。古い風習にこだわらない実行力と正義感の強さは、今も地元の人々の敬愛を集めています。その生涯を題材にした司馬遼太郎の小説『峠』を読んで、ファンになった方も少なくないでしょう。若い頃から治世とはどうあるべきか考えていた継之助は、江戸や西国に遊学しています。安政6年(1859)、33才の時の西国遊学は、江戸藩邸から横浜、京都、大坂を経たのち、備中松山(岡山県高梁市)で儒者・山田方谷(やまだほうこく)の教えを受け、長崎や熊本まで足をのばし、帰国するという、広範囲に及ぶものでした。道中の出来事を記した日記『塵壺』(じんこ)によって、寺社仏閣や名所旧跡、遊郭や唐館・蘭館を訪ねるなど、旺盛な好奇心で見聞を広める継之助の姿を追うことができます。横浜で交易状況を調べたり、佐賀で反射炉を見て産業育成の必要性を感じたり、様々な情報を得て藩政の参考にしているのが彼らしいところ。新たな時代を切り開いていこうという気概が伝わってきます。 熊本でのお土産今回は日記から、継之助の素顔がうかがえる、ほほえましいエピソードをご紹介しましょう。熊本で土産を買おうと菓子屋に入ったときのこと。そこでは名物の「朝鮮飴」を売っていましたが、継之助は煉羊羹があるのか尋ねます。「幾等分にても切上ぐる」といわれ、注文すると、なんと値段に見合わない「巨大」さ。本当に煉羊羹だろうか、(この土地では)砂糖が安いからなのかと疑い、少し食べさせてほしいと頼むと、結果は「小供羊羹」、つまり駄菓子の類でした。継之助はため息をつき、「此の如き粗末なるは、使い物に出来ず。煉羊羹にあらず」といいますが、店の人は動じることなく、別の羊羹も作っているが今はなく、この品は進物によいと答えます。あきれるものの、「かさありてよかろう」と大きいことに触れ、笑って持ち帰ったそうです。自分の思うことを正直に伝える人柄、先方の言い分を受け止め、笑ってその場をおさめる懐の深さなどが、何気ないやりとりからもうかがえるのではないでしょうか。なお、この羊羹をもらった木下真太郎(山田方谷の同門)が後日、御礼を述べる場面があります。木下の家の様子は「万事質素」、加えてその飾らぬ人柄から、継之助は「羊羹は粗末にあらず」と思ったそう。こんなことまで日記に書き残してくれるとは楽しいですね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献安藤英男校注『塵壺-河井継之助日記』 平凡社 1980年
黒川光正と姥が餅
歌川広重「東海道五拾三次 草津」虎屋十二代店主の道中日記明治2年(1869)の東京遷都に際し、長年京都で御所の御用を勤めてきた虎屋は、京都に残るか、天皇にお供して新天地へ向かうかという難しい選択を迫られました。この時店主を務めていたのが、十二代黒川光正(くろかわみつまさ・1839~88)です。京都店はそのままに東京にも出張所を開設することを決めた光正は、初め庶兄を派遣し、明治12年には自身が東京で経営にあたることに。その下見と準備のため、前年3月と9月に上京した際の記録が、「東上日記(とうじょうにっき)」です。持病を押しての旅ながら、人力車や駕籠、船や汽車などの交通手段を使って片道約1週間、滞在も1週間強という強行スケジュールで、出店準備に追われていた様子がうかがえます。 草津の姥が餅「東上日記」には、人力車代や宿代と並んで、菓子代が度々記載されています。同業者として、道々目にする菓子はやはり気になるところだったのでしょうか。詳細はほとんど記されていませんが、3月15日には「姥が餅」の名が挙がっています。餅を餡で包んだ草津(滋賀県)の名物菓子で、戦国時代の武将六角義賢(ろっかくよしかた)の遺児を乳母が、餅を売りながら育てた話に由来するといわれます。歌川広重の錦絵「東海道五拾三次」にも、草津の風景として「うばか餅」の看板のかかった店が描かれています。店員が旅人に黒いお重を差し出しているのが不思議に思われますが、『献立筌(こんだてせん)』(1760)にも「をくら野(小倉野※)のあんに常の餅を包みて重箱にて」提供する旨があり、茶店での決まった出し方だったようです。「名高き姥が餅を餐(さん)す」とわざわざ記しているあたり、光正も名物を味わえて嬉しかったのでしょう。餅を頬張る光正の姿が、広重の描いた旅人に重なって想像されます。 重箱を差し出す店員※ 蜜煮にした小豆を餡玉につけた菓子。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
黒川光正と姥が餅
歌川広重「東海道五拾三次 草津」虎屋十二代店主の道中日記明治2年(1869)の東京遷都に際し、長年京都で御所の御用を勤めてきた虎屋は、京都に残るか、天皇にお供して新天地へ向かうかという難しい選択を迫られました。この時店主を務めていたのが、十二代黒川光正(くろかわみつまさ・1839~88)です。京都店はそのままに東京にも出張所を開設することを決めた光正は、初め庶兄を派遣し、明治12年には自身が東京で経営にあたることに。その下見と準備のため、前年3月と9月に上京した際の記録が、「東上日記(とうじょうにっき)」です。持病を押しての旅ながら、人力車や駕籠、船や汽車などの交通手段を使って片道約1週間、滞在も1週間強という強行スケジュールで、出店準備に追われていた様子がうかがえます。 草津の姥が餅「東上日記」には、人力車代や宿代と並んで、菓子代が度々記載されています。同業者として、道々目にする菓子はやはり気になるところだったのでしょうか。詳細はほとんど記されていませんが、3月15日には「姥が餅」の名が挙がっています。餅を餡で包んだ草津(滋賀県)の名物菓子で、戦国時代の武将六角義賢(ろっかくよしかた)の遺児を乳母が、餅を売りながら育てた話に由来するといわれます。歌川広重の錦絵「東海道五拾三次」にも、草津の風景として「うばか餅」の看板のかかった店が描かれています。店員が旅人に黒いお重を差し出しているのが不思議に思われますが、『献立筌(こんだてせん)』(1760)にも「をくら野(小倉野※)のあんに常の餅を包みて重箱にて」提供する旨があり、茶店での決まった出し方だったようです。「名高き姥が餅を餐(さん)す」とわざわざ記しているあたり、光正も名物を味わえて嬉しかったのでしょう。餅を頬張る光正の姿が、広重の描いた旅人に重なって想像されます。 重箱を差し出す店員※ 蜜煮にした小豆を餡玉につけた菓子。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
後西天皇と「小ひし花ひら」
花びら餅「花びら餅」正月ならではの菓子に「花びら餅」があります。円(まる)くのした餅に小豆の渋で染めた菱餅を重ね、蜜炊きした牛蒡(ごぼう)と味噌餡を中心に置いて、それを半円形に畳んだのもの。宮中の正月の行事食、「菱葩(ひしはなびら)」がその原形です。明治に入り、裏千家の初釜で菓子に仕立てて使われ、近年では年末年始にかけて、全国の菓子屋の店頭で見かけるようになりました。江戸時代の公家の茶会記に使用例がないかと探してみたところ、「花びら餅」そのものではありませんが、近衛家煕の茶会記や、さらに遡って後西天皇(ごさいてんのう)の弟※が記した茶会記「後西院御茶之湯記」に興味深い記述がありました。 中継ぎの天皇後西天皇(1637~85)は後水尾天皇の第八皇子として誕生しました。兄の後光明天皇の後継者が幼子であったことから、その子が大きくなるまでの中継ぎで天皇となります。彼の業績には、譲位後も続けた歴代天皇収集の典籍・記録などの副本の作成があります。現在の京都御所にある東山御文庫の基となっています。父の素養を受継ぎ、和歌、書、茶道に造詣が深く、当時の公家の間では、歌舞音曲や歌会などを伴った広間での茶会が多かった中、晩年になると小間での侘び茶に通じる質素なお茶を好んだようです。 正月の茶会に「小ひし花ひら」延宝8年(1680)1月20日の茶会では、菓子に「小ひし花ひら、ふくさこん、さんせうのかわ」が記されています。実際にどのような形で茶席に出されたのか、この記述だけでは分かりませんが、正月の茶会の菓子としての使用が確認できます。虎屋には残念ながらこの注文記録は見当たりませんが、同時代の虎屋の記録を見ると、貞享4年(1687)、公家である一条家の注文として「大はなひら、小はなひら、大ひし、小ひし」とあり、それぞれの枚数が書かれています。また宝永8年(1711)正月には、同じく一条家の注文で、絵図入りで同様に「花平 大キサ 小、花平 大キサ 大」、次の頁には御所からの注文で、更に大きく描かれた絵図とともに「大キサ如此」と書かれています。測ってみると直径16cmほどでしたので、「小ひし花ひら」はそれより小さいであろうと思います。なお、一緒に記されている菓子の「ふくさこん」は昆布を袱紗(ふくさ)のように軟らかく煮た佃煮「袱紗昆布」、「さんせうのかわ」は「山椒の皮」、山椒の若木の皮を剥いで、水にさらし、灰汁を抜いて、塩漬け、あるいは佃煮のようにした「辛皮(からかわ)」のことでしょう。 ※ 奈良一乗院宮の真敬(しんけい)法親王 宝永8年正月 一条様御用 宝永2年(1705)「諸方御用留帳」から※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献谷端昭夫 『公家茶道の研究』 思文閣出版 2005年
後西天皇と「小ひし花ひら」
花びら餅「花びら餅」正月ならではの菓子に「花びら餅」があります。円(まる)くのした餅に小豆の渋で染めた菱餅を重ね、蜜炊きした牛蒡(ごぼう)と味噌餡を中心に置いて、それを半円形に畳んだのもの。宮中の正月の行事食、「菱葩(ひしはなびら)」がその原形です。明治に入り、裏千家の初釜で菓子に仕立てて使われ、近年では年末年始にかけて、全国の菓子屋の店頭で見かけるようになりました。江戸時代の公家の茶会記に使用例がないかと探してみたところ、「花びら餅」そのものではありませんが、近衛家煕の茶会記や、さらに遡って後西天皇(ごさいてんのう)の弟※が記した茶会記「後西院御茶之湯記」に興味深い記述がありました。 中継ぎの天皇後西天皇(1637~85)は後水尾天皇の第八皇子として誕生しました。兄の後光明天皇の後継者が幼子であったことから、その子が大きくなるまでの中継ぎで天皇となります。彼の業績には、譲位後も続けた歴代天皇収集の典籍・記録などの副本の作成があります。現在の京都御所にある東山御文庫の基となっています。父の素養を受継ぎ、和歌、書、茶道に造詣が深く、当時の公家の間では、歌舞音曲や歌会などを伴った広間での茶会が多かった中、晩年になると小間での侘び茶に通じる質素なお茶を好んだようです。 正月の茶会に「小ひし花ひら」延宝8年(1680)1月20日の茶会では、菓子に「小ひし花ひら、ふくさこん、さんせうのかわ」が記されています。実際にどのような形で茶席に出されたのか、この記述だけでは分かりませんが、正月の茶会の菓子としての使用が確認できます。虎屋には残念ながらこの注文記録は見当たりませんが、同時代の虎屋の記録を見ると、貞享4年(1687)、公家である一条家の注文として「大はなひら、小はなひら、大ひし、小ひし」とあり、それぞれの枚数が書かれています。また宝永8年(1711)正月には、同じく一条家の注文で、絵図入りで同様に「花平 大キサ 小、花平 大キサ 大」、次の頁には御所からの注文で、更に大きく描かれた絵図とともに「大キサ如此」と書かれています。測ってみると直径16cmほどでしたので、「小ひし花ひら」はそれより小さいであろうと思います。なお、一緒に記されている菓子の「ふくさこん」は昆布を袱紗(ふくさ)のように軟らかく煮た佃煮「袱紗昆布」、「さんせうのかわ」は「山椒の皮」、山椒の若木の皮を剥いで、水にさらし、灰汁を抜いて、塩漬け、あるいは佃煮のようにした「辛皮(からかわ)」のことでしょう。 ※ 奈良一乗院宮の真敬(しんけい)法親王 宝永8年正月 一条様御用 宝永2年(1705)「諸方御用留帳」から※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献谷端昭夫 『公家茶道の研究』 思文閣出版 2005年
歌川国貞と師走の餅搗き
歌川派の中心人物幕末の浮世絵師、歌川国貞(うたがわくにさだ・1786~1864)は後年、師の名を継いで豊国を名乗り、三世と位置付けられています。歌川派の中心人物として浮世絵や読本の挿絵を広く手がけ、その作品数は、浮世絵師の中で最大ともいわれます。美人画と役者絵に定評があり、今年、同門の国芳との大規模な作品展が開催された話を耳にした人も多いことでしょう。 正月準備の餅虎屋文庫では菓子関係の錦絵を収集していますが、その中でも国貞の作品は群を抜いて多く、これは手掛けた作品の数に比例するのか、それとも菓子好きだったためか、菓子屋としては後者の説を採用したいところです。今回は「十二月之内 師走 餅つき」をご紹介しましょう。正月の準備に餅を搗くのは年末の風物詩。こうした風景を都心で見ることは、さすがに少なくなってしまいましたが、それでもスーパーやデパートの売り場に餅があふれると、年の瀬が感じられます。錦絵は、姉さん被り・たすき掛けでかいがいしく働く女性たちの表情が印象的です。餅を搗いている左側で丸めているのは大きな鏡餅でしょう。後方の筵の上には、のし餅(四角く平らにしたもので、切り餅にする)や、なまこ餅(蒲鉾のように半円の棒状にしたもので、薄く切ってかき餅などにする)が並べられ、子どもは木の枝に小さな餅を丸くつけた餅花を手にしています。大根おろしが用意されており、ひと段落したら、からみ餅を食べるものと思われます。 餅花を持つ子どもこの作品以外にも、国貞は「意勢固世身見立十二直 極月の餅搗」「寿極月娼家の餅花」「御代春黄金若餅」「甲子春黄金若餅」「吉例餅つき御祝儀」など、餅搗きをテーマにした絵をたくさん描いていますが、画題のみ違って中身は同じものもあり、後年「乱作」といわれた片鱗も見えるようです。しかし、それでも餅を囲む人々の姿はどれもいきいきと楽しげで、晴れがましい正月の用意に心を弾ませているのが伝わります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
歌川国貞と師走の餅搗き
歌川派の中心人物幕末の浮世絵師、歌川国貞(うたがわくにさだ・1786~1864)は後年、師の名を継いで豊国を名乗り、三世と位置付けられています。歌川派の中心人物として浮世絵や読本の挿絵を広く手がけ、その作品数は、浮世絵師の中で最大ともいわれます。美人画と役者絵に定評があり、今年、同門の国芳との大規模な作品展が開催された話を耳にした人も多いことでしょう。 正月準備の餅虎屋文庫では菓子関係の錦絵を収集していますが、その中でも国貞の作品は群を抜いて多く、これは手掛けた作品の数に比例するのか、それとも菓子好きだったためか、菓子屋としては後者の説を採用したいところです。今回は「十二月之内 師走 餅つき」をご紹介しましょう。正月の準備に餅を搗くのは年末の風物詩。こうした風景を都心で見ることは、さすがに少なくなってしまいましたが、それでもスーパーやデパートの売り場に餅があふれると、年の瀬が感じられます。錦絵は、姉さん被り・たすき掛けでかいがいしく働く女性たちの表情が印象的です。餅を搗いている左側で丸めているのは大きな鏡餅でしょう。後方の筵の上には、のし餅(四角く平らにしたもので、切り餅にする)や、なまこ餅(蒲鉾のように半円の棒状にしたもので、薄く切ってかき餅などにする)が並べられ、子どもは木の枝に小さな餅を丸くつけた餅花を手にしています。大根おろしが用意されており、ひと段落したら、からみ餅を食べるものと思われます。 餅花を持つ子どもこの作品以外にも、国貞は「意勢固世身見立十二直 極月の餅搗」「寿極月娼家の餅花」「御代春黄金若餅」「甲子春黄金若餅」「吉例餅つき御祝儀」など、餅搗きをテーマにした絵をたくさん描いていますが、画題のみ違って中身は同じものもあり、後年「乱作」といわれた片鱗も見えるようです。しかし、それでも餅を囲む人々の姿はどれもいきいきと楽しげで、晴れがましい正月の用意に心を弾ませているのが伝わります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
平亭銀雞と大坂の名物饅頭
幕末の虎屋伊織の店頭風景江戸時代後期の東西比較平亭銀雞(へいていぎんけい・1790~1870)は、医者として大名家などに仕える傍ら、狂歌や戯作を中心に多数の著作を残した人物です。大坂城勤番のため一年ほど在坂した際の見聞をもとにした『街能噂』(ちまたのうわさ・1835刊)は、行事・商売から、言葉・生活道具にいたるまで、江戸と大坂を比較して滑稽本仕立てにまとめたもので、江戸時代後期の庶民の風俗を知るうえでとても貴重な史料です。同書には刊行にいたらなかった続編があり、菓子関係の記述はこちらの方が充実しています。丸餅の雑煮や、きな粉や餡をつけた月見団子、12月1日に「乙子の餅(をこのもち)」(餅入りの雑煮や汁粉)を食べる行事※など、江戸では馴染みのない事柄が紹介されています。 江戸では見ない饅頭の売り方続編には、大坂高麗橋にあった虎屋伊織の饅頭の売り方についてのエピソードがあります。江戸からやってきた主人公の二人が、同店のような上菓子屋が店で饅頭を食べさせるというのは江戸にはないことだと驚く、という筋書きです。上菓子屋とは、白砂糖を使った上等な菓子を扱う店のこと。江戸の人間にとっては、そうした高級店が茶店のような商売をすることなど、想像できなかったのでしょう。ではなぜ虎屋伊織は店で饅頭を食べさせていたのでしょうか。『守貞謾稿』によれば、大坂には饅頭のみを扱う「饅頭屋」が多く、そうした店では黒砂糖を使った安価なものが売られていたといいます。恐らく出来立てをその場で客に出すような売り方だったのでしょう。地元の人間から見れば上菓子屋の虎屋伊織も饅頭を扱う店。熱々のうちに店先で食べたいという客の要望があったのかも知れません。ちなみに虎屋伊織の饅頭は、上菓子屋らしく、上等な輸入白砂糖を用い、粉や小豆、水にもこだわったものだったそうです。日を経ても味が落ちず、蒸し直すと出来立てのような味わいで、土産にも好まれたとか。増して蒸し立てとあれば、その味わいは格別だったことでしょう。江戸暮らしの長かった著者の銀雞には奇異に映ったようですが、大坂ならではの饅頭の売り方に、全国に名を轟かせたという人気の秘密があったのかもしれませんね。※ 乙子の朔日(おとごのついたち)とも呼ばれ、末子、末弟の祝いが由来とされる。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献中村幸彦・長友千代治編『浪花の噂話』汲古書院 2003年 「浪華百事談」(『日本随筆大成』第三期第二巻 吉川弘文館 1976年)
平亭銀雞と大坂の名物饅頭
幕末の虎屋伊織の店頭風景江戸時代後期の東西比較平亭銀雞(へいていぎんけい・1790~1870)は、医者として大名家などに仕える傍ら、狂歌や戯作を中心に多数の著作を残した人物です。大坂城勤番のため一年ほど在坂した際の見聞をもとにした『街能噂』(ちまたのうわさ・1835刊)は、行事・商売から、言葉・生活道具にいたるまで、江戸と大坂を比較して滑稽本仕立てにまとめたもので、江戸時代後期の庶民の風俗を知るうえでとても貴重な史料です。同書には刊行にいたらなかった続編があり、菓子関係の記述はこちらの方が充実しています。丸餅の雑煮や、きな粉や餡をつけた月見団子、12月1日に「乙子の餅(をこのもち)」(餅入りの雑煮や汁粉)を食べる行事※など、江戸では馴染みのない事柄が紹介されています。 江戸では見ない饅頭の売り方続編には、大坂高麗橋にあった虎屋伊織の饅頭の売り方についてのエピソードがあります。江戸からやってきた主人公の二人が、同店のような上菓子屋が店で饅頭を食べさせるというのは江戸にはないことだと驚く、という筋書きです。上菓子屋とは、白砂糖を使った上等な菓子を扱う店のこと。江戸の人間にとっては、そうした高級店が茶店のような商売をすることなど、想像できなかったのでしょう。ではなぜ虎屋伊織は店で饅頭を食べさせていたのでしょうか。『守貞謾稿』によれば、大坂には饅頭のみを扱う「饅頭屋」が多く、そうした店では黒砂糖を使った安価なものが売られていたといいます。恐らく出来立てをその場で客に出すような売り方だったのでしょう。地元の人間から見れば上菓子屋の虎屋伊織も饅頭を扱う店。熱々のうちに店先で食べたいという客の要望があったのかも知れません。ちなみに虎屋伊織の饅頭は、上菓子屋らしく、上等な輸入白砂糖を用い、粉や小豆、水にもこだわったものだったそうです。日を経ても味が落ちず、蒸し直すと出来立てのような味わいで、土産にも好まれたとか。増して蒸し立てとあれば、その味わいは格別だったことでしょう。江戸暮らしの長かった著者の銀雞には奇異に映ったようですが、大坂ならではの饅頭の売り方に、全国に名を轟かせたという人気の秘密があったのかもしれませんね。※ 乙子の朔日(おとごのついたち)とも呼ばれ、末子、末弟の祝いが由来とされる。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献中村幸彦・長友千代治編『浪花の噂話』汲古書院 2003年 「浪華百事談」(『日本随筆大成』第三期第二巻 吉川弘文館 1976年)
伊藤晴雨と駄菓子屋
「子供を集めた駄菓子店の図」より。 中央で子どもたちが興じているのは「文字焼」。 右には駄菓子が詰まった菓子箱が見える。 (『いろは引 江戸と東京風俗野史』)江戸のおもかげを探して明治から昭和にかけて活躍した画家、伊藤晴雨(いとうせいう・1882~1961)。ほぼ独学で絵の腕を磨いて、新聞の挿絵で人気画家となり、舞台美術、幽霊画など幅広い分野を手がけました。そのなかでも力を入れたものに考証画があります。晴雨は江戸時代の情緒が残る名所旧跡をたずね、古くからある言い伝えを聞いて回るなど、江戸庶民の風俗を丹念に調べていきました。その集大成が昭和4~6年(1929~31)に刊行された『いろは引 江戸と東京風俗野史』(全6巻)といえるでしょう。神社仏閣に残るいろいろな形の灯籠、町を行き交う行商人、縁日の見世物などが頁いっぱいに描かれているさまは、まるで「目で見る江戸風俗辞典」のようです。 駄菓子屋は少年の倶楽部第6巻では駄菓子屋店頭の図とおよそ60種に及ぶ駄菓子の絵図、「江戸時代と明治初期の駄菓子屋」と題した解説を掲載しています。それらを見ると、蜜柑水、板砂糖など、今は廃れてしまったものに混じり、胡麻ねじ、薄荷糖、塩釜、芋羊羹など、見覚えのある菓子も描かれています。晴雨は「其商品は明治初期迄多少の変化変遷はあり乍ら現代迠続いて居る。恰も縁日の商品が材料は異つても三十余年前と現代と略大差のない(即ち進歩しない)のと同じである。」と書いています。確かに今もスーパーなどで同じようなものを見かけることがあるので、人の嗜好はそれほど変わっていない、ということなのかもしれません。おやつとして親しまれた駄菓子ですが、問題もあったようです。たとえば、甘みをつけた小麦粉生地を鉄板で焼く「文字焼(もんじやき)」(エドワード・モースと文字焼の項参照)は、生焼けのまま食べてお腹を壊す子どもが多かったといいます。また、黒砂糖の飴玉「鉄砲玉」には、藁ゴミや竹の屑などが混じっていたとも……。衛生に気を配る現在からは信じられない話ですが、「其風味は亦上等の菓子の及ばぬ独特のものがあった」と書いているので、なんともいえぬ魅力があったと思われます。ちなみに、店では駄菓子のほか、水鉄砲、めんこ、パチンコのゴムなど、玩具もたくさん扱っていました。駄菓子や玩具を買い、遊び相手を求めて子どもたちが集う駄菓子屋は、晴雨がいうようにまさに「少年の倶楽部」だったのでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献伊藤晴雨著 宮尾與男編注『江戸と東京 風俗野史』国書刊行会 2001年斎藤夜居『伝奇 伊藤晴雨』豊島書房 1966年
伊藤晴雨と駄菓子屋
「子供を集めた駄菓子店の図」より。 中央で子どもたちが興じているのは「文字焼」。 右には駄菓子が詰まった菓子箱が見える。 (『いろは引 江戸と東京風俗野史』)江戸のおもかげを探して明治から昭和にかけて活躍した画家、伊藤晴雨(いとうせいう・1882~1961)。ほぼ独学で絵の腕を磨いて、新聞の挿絵で人気画家となり、舞台美術、幽霊画など幅広い分野を手がけました。そのなかでも力を入れたものに考証画があります。晴雨は江戸時代の情緒が残る名所旧跡をたずね、古くからある言い伝えを聞いて回るなど、江戸庶民の風俗を丹念に調べていきました。その集大成が昭和4~6年(1929~31)に刊行された『いろは引 江戸と東京風俗野史』(全6巻)といえるでしょう。神社仏閣に残るいろいろな形の灯籠、町を行き交う行商人、縁日の見世物などが頁いっぱいに描かれているさまは、まるで「目で見る江戸風俗辞典」のようです。 駄菓子屋は少年の倶楽部第6巻では駄菓子屋店頭の図とおよそ60種に及ぶ駄菓子の絵図、「江戸時代と明治初期の駄菓子屋」と題した解説を掲載しています。それらを見ると、蜜柑水、板砂糖など、今は廃れてしまったものに混じり、胡麻ねじ、薄荷糖、塩釜、芋羊羹など、見覚えのある菓子も描かれています。晴雨は「其商品は明治初期迄多少の変化変遷はあり乍ら現代迠続いて居る。恰も縁日の商品が材料は異つても三十余年前と現代と略大差のない(即ち進歩しない)のと同じである。」と書いています。確かに今もスーパーなどで同じようなものを見かけることがあるので、人の嗜好はそれほど変わっていない、ということなのかもしれません。おやつとして親しまれた駄菓子ですが、問題もあったようです。たとえば、甘みをつけた小麦粉生地を鉄板で焼く「文字焼(もんじやき)」(エドワード・モースと文字焼の項参照)は、生焼けのまま食べてお腹を壊す子どもが多かったといいます。また、黒砂糖の飴玉「鉄砲玉」には、藁ゴミや竹の屑などが混じっていたとも……。衛生に気を配る現在からは信じられない話ですが、「其風味は亦上等の菓子の及ばぬ独特のものがあった」と書いているので、なんともいえぬ魅力があったと思われます。ちなみに、店では駄菓子のほか、水鉄砲、めんこ、パチンコのゴムなど、玩具もたくさん扱っていました。駄菓子や玩具を買い、遊び相手を求めて子どもたちが集う駄菓子屋は、晴雨がいうようにまさに「少年の倶楽部」だったのでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献伊藤晴雨著 宮尾與男編注『江戸と東京 風俗野史』国書刊行会 2001年斎藤夜居『伝奇 伊藤晴雨』豊島書房 1966年