虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
高浜平兵衛と工芸菓子
蓮の工芸菓子工芸菓子の第一人者工芸菓子とは、米粉と砂糖などを混ぜて作る雲平(うんぺい)や、餡を混ぜた餡平(あんぺい)の生地を着色、成形しつくるものです。四季の草花や鳥などを写実的に表現することができ、繊細な色合わせや細かな細工には高い技術力が必要とされます。はじまりは江戸時代後期頃ともいわれ、明治時代以降京都を中心に発展、題材も様々な作品が作られるようになり、ジャンルとして確立されました。工芸菓子の第一人者として知られたのが、京都の有名菓子店だった若狭屋元茂(わかさやもとしげ)の主人、高浜平兵衛(たかはまへいべえ・1861~1940)です。明治33年(1900)のパリ万国博覧会の際に、大輪の牡丹7本をいけた花籠の工芸菓子を制作しました。 匠の技明治36年1月、京都滞在中のシャム(現在のタイ)の皇太子(のちのラーマ6世)に、貿易商会から若狭屋の花の工芸菓子が献上されました。先の万博で外国人に好評を得ていたことから、ふさわしい贈り物と考えられたのでしょう。興味を覚えた皇太子は製造見学を希望します。その要請をうけ、京都ホテルにて高浜夫妻が店員男女10名とともに、紅白対にした雲平の牡丹および蓮の花、有平糖の松竹梅などを実演制作しました。蓮は極楽浄土を象徴する花で、仏教国のシャムを意識した選択だったのかもしれません。 製造の様子は当時の菓子業界誌『はな橘』に絵入りで紹介された試食をした皇太子は味、見た目ともに絶賛し、すべての菓子を土産として持ち帰ったといいます。高浜夫妻は後日、皇太子から手紙とともに記念品として男性用の純金の指輪、女性用の宝石入りの指輪を贈られました。シャムの皇太子が心から感動したことが伝わる記念品を、高浜はさぞかし光栄に思ったことでしょう。残念ながら太平洋戦争中に若狭屋元茂は閉店してしまいますが、高浜が情熱を注いだ工芸菓子の技は今も受け継がれ、現在も全国菓子大博覧会などで様々な作品を見ることができます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『はな橘』第10号 大日本菓子協会 1903年 赤井達郎『菓子の文化誌』河原書店 2005年
高浜平兵衛と工芸菓子
蓮の工芸菓子工芸菓子の第一人者工芸菓子とは、米粉と砂糖などを混ぜて作る雲平(うんぺい)や、餡を混ぜた餡平(あんぺい)の生地を着色、成形しつくるものです。四季の草花や鳥などを写実的に表現することができ、繊細な色合わせや細かな細工には高い技術力が必要とされます。はじまりは江戸時代後期頃ともいわれ、明治時代以降京都を中心に発展、題材も様々な作品が作られるようになり、ジャンルとして確立されました。工芸菓子の第一人者として知られたのが、京都の有名菓子店だった若狭屋元茂(わかさやもとしげ)の主人、高浜平兵衛(たかはまへいべえ・1861~1940)です。明治33年(1900)のパリ万国博覧会の際に、大輪の牡丹7本をいけた花籠の工芸菓子を制作しました。 匠の技明治36年1月、京都滞在中のシャム(現在のタイ)の皇太子(のちのラーマ6世)に、貿易商会から若狭屋の花の工芸菓子が献上されました。先の万博で外国人に好評を得ていたことから、ふさわしい贈り物と考えられたのでしょう。興味を覚えた皇太子は製造見学を希望します。その要請をうけ、京都ホテルにて高浜夫妻が店員男女10名とともに、紅白対にした雲平の牡丹および蓮の花、有平糖の松竹梅などを実演制作しました。蓮は極楽浄土を象徴する花で、仏教国のシャムを意識した選択だったのかもしれません。 製造の様子は当時の菓子業界誌『はな橘』に絵入りで紹介された試食をした皇太子は味、見た目ともに絶賛し、すべての菓子を土産として持ち帰ったといいます。高浜夫妻は後日、皇太子から手紙とともに記念品として男性用の純金の指輪、女性用の宝石入りの指輪を贈られました。シャムの皇太子が心から感動したことが伝わる記念品を、高浜はさぞかし光栄に思ったことでしょう。残念ながら太平洋戦争中に若狭屋元茂は閉店してしまいますが、高浜が情熱を注いだ工芸菓子の技は今も受け継がれ、現在も全国菓子大博覧会などで様々な作品を見ることができます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『はな橘』第10号 大日本菓子協会 1903年 赤井達郎『菓子の文化誌』河原書店 2005年
岡本綺堂とおてつ牡丹餅の茶碗
国立国会図書館蔵「新板大江戸名物双六」新歌舞伎の代表的作家明治から昭和前期にかけて活躍した劇作家・小説家の岡本綺堂(おかもときどう・1872~1939)。父親の影響で幼い頃より歌舞伎に親しみ、演劇改良運動に刺激を受けて東京府立一中在学中に劇作家を志望。卒業後は新聞社に勤めながら劇作を行い、明治44年(1911)の「修禅寺物語」の成功で新歌舞伎を代表する作家となりました。小説では、捕物帳の元祖ともいわれる『半七捕物帳』を著したことで有名です。 江戸時代のおもかげを偲ぶ明治の生まれの綺堂ですが、江戸風俗に詳しく、江戸時代を懐かしむような文章を多く残しています。「茶碗」という随筆の中で「おてつ牡丹餅」に触れているのもその一つ。「おてつ牡丹餅」は天保期(1830~44)に売り出された麹町の名物菓子で、小豆・ごま・黄粉の三色、団子のように小ぶりな餅だったといわれます。幕府の調練場に店が近いことや、看板娘おてつの評判もあって繁盛し、「ぼた餅※1だけれどおてつは味がよし」「助惣(すけそう※2)とお鉄近所でうまい中」など、川柳に詠まれるほどでした。明治以降も、綺堂が15歳になる頃までは営業していたようですが、店は「甚だ寂(さび)れて、汁粉も牡丹餅もあまり旨(うま)くはなかったらしい。近所ではあったが、私は滅多(めった)に食いに行ったことはなかった」とのこと。おてつについても、「聟(むこ)を貰ったがまた別れたとかいうことで、十一、二の男の児(こ)を持っていた。美しい娘も老いて俤(おもかげ)が変ったのであろう。私の稚(おさな)い眼には格別の美人とも見えなかった」と少々寂しい回想です。綺堂は知人から譲り受けた、平仮名で大きく「おてつ」と書かれたこの店の茶碗を手にし、「今この茶碗で番茶を啜(すす)っていると、江戸時代の麹町が湯気の間から蜃気楼(しんきろう)のように朦朧(もうろう)と現れて来る」と、かつて茶碗に触れたであろう人々に思いを馳せます。文金高島田に結った武家の娘、使いの途中でこそこそと牡丹餅と汁粉を食べていく丁稚、鉄扇を持った若侍……読んでいるこちらの目の前にも、遠い昔の人々の姿が浮かんでくるようです。 ※1 不器量な女性のことをいった※2 助惣焼も麹町の名物菓子 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「二階から」青空文庫より
岡本綺堂とおてつ牡丹餅の茶碗
国立国会図書館蔵「新板大江戸名物双六」新歌舞伎の代表的作家明治から昭和前期にかけて活躍した劇作家・小説家の岡本綺堂(おかもときどう・1872~1939)。父親の影響で幼い頃より歌舞伎に親しみ、演劇改良運動に刺激を受けて東京府立一中在学中に劇作家を志望。卒業後は新聞社に勤めながら劇作を行い、明治44年(1911)の「修禅寺物語」の成功で新歌舞伎を代表する作家となりました。小説では、捕物帳の元祖ともいわれる『半七捕物帳』を著したことで有名です。 江戸時代のおもかげを偲ぶ明治の生まれの綺堂ですが、江戸風俗に詳しく、江戸時代を懐かしむような文章を多く残しています。「茶碗」という随筆の中で「おてつ牡丹餅」に触れているのもその一つ。「おてつ牡丹餅」は天保期(1830~44)に売り出された麹町の名物菓子で、小豆・ごま・黄粉の三色、団子のように小ぶりな餅だったといわれます。幕府の調練場に店が近いことや、看板娘おてつの評判もあって繁盛し、「ぼた餅※1だけれどおてつは味がよし」「助惣(すけそう※2)とお鉄近所でうまい中」など、川柳に詠まれるほどでした。明治以降も、綺堂が15歳になる頃までは営業していたようですが、店は「甚だ寂(さび)れて、汁粉も牡丹餅もあまり旨(うま)くはなかったらしい。近所ではあったが、私は滅多(めった)に食いに行ったことはなかった」とのこと。おてつについても、「聟(むこ)を貰ったがまた別れたとかいうことで、十一、二の男の児(こ)を持っていた。美しい娘も老いて俤(おもかげ)が変ったのであろう。私の稚(おさな)い眼には格別の美人とも見えなかった」と少々寂しい回想です。綺堂は知人から譲り受けた、平仮名で大きく「おてつ」と書かれたこの店の茶碗を手にし、「今この茶碗で番茶を啜(すす)っていると、江戸時代の麹町が湯気の間から蜃気楼(しんきろう)のように朦朧(もうろう)と現れて来る」と、かつて茶碗に触れたであろう人々に思いを馳せます。文金高島田に結った武家の娘、使いの途中でこそこそと牡丹餅と汁粉を食べていく丁稚、鉄扇を持った若侍……読んでいるこちらの目の前にも、遠い昔の人々の姿が浮かんでくるようです。 ※1 不器量な女性のことをいった※2 助惣焼も麹町の名物菓子 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「二階から」青空文庫より
柳沢保光と長いも饅頭
數物御菓子見本帖(大正7年)2より大和郡山藩主柳沢保光(やなぎさわやすみつ・1753~1817)は、現在の奈良市の南に隣接する大和郡山市にあった大和郡山藩の三代藩主で、甲斐守を称しました。曽祖父は五代将軍徳川綱吉の側用人を勤めた柳沢吉保(やなぎさわよしやす)。祖父吉里の時代に甲府からこの地へ国替えとなっています。隣藩は四代将軍徳川家綱の茶頭を務めた片桐石州の大和小泉藩ということもあり、保光は石州流の茶を熱心に学び、限られた人にのみ伝えられる点前等を伝授されています。茶の湯を通して、松江の松平不昧、姫路の酒井宗雅、和歌山の徳川治宝とも親交があり、彼らの茶会記で松平甲斐守と記されているものは保光を指します。 感想付き茶会記保光は亡くなる6年前に家督を譲って堯山(ぎょうざん)と号しました。今回の茶会記はその前に書かれたものと思われます。親しい方への書状の添の下書きでしょうか、年月日の記載のない、一部感想が書かれたものが残されています。例えば、点前に関して「茶をぐずぐずとしてたて、だんご三つほとあり」とあります。「たて」とあるので、薄茶のようにも思えますが、「だんご三つ」とは抹茶の固まりのことでしょうから、濃茶の練り方が不十分で、団子のような茶の塊ができたのかもしれません。菓子に関しては、家老宅の茶会で「長いもまんちう むしたて むまいこと也 かハりをこのミ候」とありました。殿様自身、おいしかったので、おかわりしたという記録、そうはお目にかかれないでしょう。 長いも饅頭山芋を摺って、うるち米の粉を揉み込んで皮を作り、餡を包んだものは、薯蕷(じょうよ)饅頭と呼ばれています。関西では長辺20cm前後の黒い皮のつくね芋を使うのが主流です。この芋を使うと粘度が強く、しっかりした歯応えのある皮に仕上がるのが特徴といえましょう。現在、大和郡山の南、天理市、さらに南部の御所市が主な生産となっている大和の伝統野菜「大和いも」もこのつくね芋と同じものです。保光が食べた長いもとは、山芋の一種ではありますが、単に長いいもの意味だけで、具体的な品種は分かっていません。ただ、つくね芋とは食感や味わいは違っていたでしょう。彼がおいしかったと感じた理由は、芋の違いというよりも、むしろ殿様ゆえに、普段はなかなか食べられない、蒸したての熱々だったからかも知れません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『茶道聚錦』第5巻 小学館 1985年 米田弘義 『大和郡山藩主 松平(柳澤)甲斐守保光-茶の湯と和歌を愛した文人大名 堯山』公益財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会 2013年
柳沢保光と長いも饅頭
數物御菓子見本帖(大正7年)2より大和郡山藩主柳沢保光(やなぎさわやすみつ・1753~1817)は、現在の奈良市の南に隣接する大和郡山市にあった大和郡山藩の三代藩主で、甲斐守を称しました。曽祖父は五代将軍徳川綱吉の側用人を勤めた柳沢吉保(やなぎさわよしやす)。祖父吉里の時代に甲府からこの地へ国替えとなっています。隣藩は四代将軍徳川家綱の茶頭を務めた片桐石州の大和小泉藩ということもあり、保光は石州流の茶を熱心に学び、限られた人にのみ伝えられる点前等を伝授されています。茶の湯を通して、松江の松平不昧、姫路の酒井宗雅、和歌山の徳川治宝とも親交があり、彼らの茶会記で松平甲斐守と記されているものは保光を指します。 感想付き茶会記保光は亡くなる6年前に家督を譲って堯山(ぎょうざん)と号しました。今回の茶会記はその前に書かれたものと思われます。親しい方への書状の添の下書きでしょうか、年月日の記載のない、一部感想が書かれたものが残されています。例えば、点前に関して「茶をぐずぐずとしてたて、だんご三つほとあり」とあります。「たて」とあるので、薄茶のようにも思えますが、「だんご三つ」とは抹茶の固まりのことでしょうから、濃茶の練り方が不十分で、団子のような茶の塊ができたのかもしれません。菓子に関しては、家老宅の茶会で「長いもまんちう むしたて むまいこと也 かハりをこのミ候」とありました。殿様自身、おいしかったので、おかわりしたという記録、そうはお目にかかれないでしょう。 長いも饅頭山芋を摺って、うるち米の粉を揉み込んで皮を作り、餡を包んだものは、薯蕷(じょうよ)饅頭と呼ばれています。関西では長辺20cm前後の黒い皮のつくね芋を使うのが主流です。この芋を使うと粘度が強く、しっかりした歯応えのある皮に仕上がるのが特徴といえましょう。現在、大和郡山の南、天理市、さらに南部の御所市が主な生産となっている大和の伝統野菜「大和いも」もこのつくね芋と同じものです。保光が食べた長いもとは、山芋の一種ではありますが、単に長いいもの意味だけで、具体的な品種は分かっていません。ただ、つくね芋とは食感や味わいは違っていたでしょう。彼がおいしかったと感じた理由は、芋の違いというよりも、むしろ殿様ゆえに、普段はなかなか食べられない、蒸したての熱々だったからかも知れません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『茶道聚錦』第5巻 小学館 1985年 米田弘義 『大和郡山藩主 松平(柳澤)甲斐守保光-茶の湯と和歌を愛した文人大名 堯山』公益財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会 2013年
久坂葉子と羊羹
夭逝の作家旧川崎財閥の名門に生まれ、19歳の時「ドミノのお告げ」で芥川賞候補となるほどの才能に恵まれながら、そのわずか2年後に鉄道自殺を遂げた久坂葉子(くさかようこ・1931~1952)。作品に内包される強い自意識や鋭い感性は、読み手に深い印象を与えます。彼女はエッセイ「礼讃」の冒頭で、学生の頃、夏目漱石の『草枕』を題材にした絵を十点ほど並べた「絵巻のようなもの」を作り、その中に羊羹を盛った鉢を描いたことに触れています。漱石は同作で、青磁の皿の上の青味のかかった羊羹の美しさを語っていました。葉子が知り合いの画家に絵を見せると、朱で二本の線、つまり箸を描き入れてくれたといいます。葉子は「日本菓子にしては珍しくシンプルなもの」である羊羹ほど、どんな器にも「よくうつる菓子は他にはないだろう」として、次のように続けます。 私の家では九谷の皿を使う。染付の上にもいいだろう。また、白磁の高つきの上につみかさねてもすがすがしい。わらびのお箸も黒もじも、例の朱塗りのでも、白い象牙の箸でも似合う。一本の羊羹に、いろんな感じを添えて、香高いお茶とともにすすめることが出来るのだ。 美意識を表す「礼讃」のタイトルは、羊羹の美に触れている谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を意識したものだったでしょうか。谷崎は羊羹の色合いの深さを愛で、漆の器に入れて日本家屋の暗がりの中に沈めたときの「瞑想的」な美しさを記しています。また、室生犀星は、赤い九谷の鉢の真ん中に「真っ黒な」羊羹を入れるようにと芥川龍之介に勧めたそうです。誰もが愛情をもって羊羹を見つめ、そこに繊細な個性を見出して、ふさわしい器に盛り付けたのですね。四角形の「シンプルな」菓子だからこそ、それぞれの美意識をストレートに表せたのかもしれません。葉子の文章が彼女らしいのは、器とともに箸や楊枝にも心を配り、「いろんな感じを添えて」勧めることが出来る、としているところでしょうか。「いろいろな装飾をほどこした菓子よりも、ずうっと美しい」と羊羹を讃えながらも、実は羊羹を通じて自己表現を楽しんでいるようにも読み取れ、彼女の自意識の片鱗が感じられるようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『エッセンス・オブ・久坂葉子』河出書房新社
久坂葉子と羊羹
夭逝の作家旧川崎財閥の名門に生まれ、19歳の時「ドミノのお告げ」で芥川賞候補となるほどの才能に恵まれながら、そのわずか2年後に鉄道自殺を遂げた久坂葉子(くさかようこ・1931~1952)。作品に内包される強い自意識や鋭い感性は、読み手に深い印象を与えます。彼女はエッセイ「礼讃」の冒頭で、学生の頃、夏目漱石の『草枕』を題材にした絵を十点ほど並べた「絵巻のようなもの」を作り、その中に羊羹を盛った鉢を描いたことに触れています。漱石は同作で、青磁の皿の上の青味のかかった羊羹の美しさを語っていました。葉子が知り合いの画家に絵を見せると、朱で二本の線、つまり箸を描き入れてくれたといいます。葉子は「日本菓子にしては珍しくシンプルなもの」である羊羹ほど、どんな器にも「よくうつる菓子は他にはないだろう」として、次のように続けます。 私の家では九谷の皿を使う。染付の上にもいいだろう。また、白磁の高つきの上につみかさねてもすがすがしい。わらびのお箸も黒もじも、例の朱塗りのでも、白い象牙の箸でも似合う。一本の羊羹に、いろんな感じを添えて、香高いお茶とともにすすめることが出来るのだ。 美意識を表す「礼讃」のタイトルは、羊羹の美に触れている谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を意識したものだったでしょうか。谷崎は羊羹の色合いの深さを愛で、漆の器に入れて日本家屋の暗がりの中に沈めたときの「瞑想的」な美しさを記しています。また、室生犀星は、赤い九谷の鉢の真ん中に「真っ黒な」羊羹を入れるようにと芥川龍之介に勧めたそうです。誰もが愛情をもって羊羹を見つめ、そこに繊細な個性を見出して、ふさわしい器に盛り付けたのですね。四角形の「シンプルな」菓子だからこそ、それぞれの美意識をストレートに表せたのかもしれません。葉子の文章が彼女らしいのは、器とともに箸や楊枝にも心を配り、「いろんな感じを添えて」勧めることが出来る、としているところでしょうか。「いろいろな装飾をほどこした菓子よりも、ずうっと美しい」と羊羹を讃えながらも、実は羊羹を通じて自己表現を楽しんでいるようにも読み取れ、彼女の自意識の片鱗が感じられるようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『エッセンス・オブ・久坂葉子』河出書房新社
黒川光景と更衣
更衣和菓子を研究黒川光景(くろかわみつかげ・1871~1957)は、虎屋の十四代店主です。明治32年(1899)に兄の十三代光正から店を引き継ぎ、昭和15年(1940)に養子の十五代武雄に譲るまでの41年間、店の経営を担いました。光景は家業のほか、業界活動にも積極的に参加し、組合関係の役員なども勤めましたが、一方で書画骨董に親しみ、菓子に関する研究を熱心に行いました。彼が集めた書籍や資料類は膨大な量にのぼり、これらは虎屋文庫の史料として現在も活用されています。 和三盆糖が欠かせない菓子古い菓子屋の店主ということもあってか、光景は新聞などの取材で菓子の話をすることがありました。昭和2年には東京日日新聞の記者だった子母沢寛(しもざわかん)のインタビューを受け、そのなかで和三盆糖(さんぼんとう)について語っています。和三盆糖は、徳島県と香川県の一部で作られる砂糖で、砂糖黍の一種、竹糖(ちくとう)を原料としています。上品な甘みとさらりとした口どけに特徴があり、光景は、この砂糖を使った菓子として「更衣(こうい)」を紹介しています。 「むかし宮中からお名を賜わった由緒あるもので、その頃は四角、今は小判形になっているが、これはこの和三盆でなくては絶対に出来ない。和三盆がなくなると共に、この菓子の一種他にない風味が永久に失われやしまいかと思われるのは悲しいことである。」 「更衣」は餡と米粉を混ぜて蒸し上げ、和三盆糖を揉み込んで作ります。和三盆糖独特の食感と甘みが特徴で、切り口にうっすらと掃いた和三盆糖が、涼やかな絽(ろ※)の衣を思わせます。「むかし宮中からお名を賜わった」というのは、江戸時代、関白を務めた公家・近衛内前(このえうちさき)公から安永4年(1775)に菓銘をいただいたことを指します。 インタビューを受けた当時、外国からもたらされる安価な砂糖に押され、和三盆糖は生産量が激減していました。しかし、製糖業者の懸命の努力によって製法が守られていきました。また「更衣」は、6月の衣替えにちなむ菓子として現在も作られています。短い期間の販売ではありますが、菓子を召し上がって季節の変わり目を感じる方もいらっしゃるようで、「更衣」のことを案じていた光景も、この様子を見たらきっと安心したのでは、と思います。 ※ 透かして織った夏用の絹織物。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「お茶に落雁〈赤坂虎屋 黒川光景氏の話〉」(子母沢寛『味覚極楽』中央公論社 1983年) 『虎屋の五世紀』通史編 虎屋 2003年 備考「更衣」は5月30日~6月1日に販売いたします。詳細はこちらをご覧ください。
黒川光景と更衣
更衣和菓子を研究黒川光景(くろかわみつかげ・1871~1957)は、虎屋の十四代店主です。明治32年(1899)に兄の十三代光正から店を引き継ぎ、昭和15年(1940)に養子の十五代武雄に譲るまでの41年間、店の経営を担いました。光景は家業のほか、業界活動にも積極的に参加し、組合関係の役員なども勤めましたが、一方で書画骨董に親しみ、菓子に関する研究を熱心に行いました。彼が集めた書籍や資料類は膨大な量にのぼり、これらは虎屋文庫の史料として現在も活用されています。 和三盆糖が欠かせない菓子古い菓子屋の店主ということもあってか、光景は新聞などの取材で菓子の話をすることがありました。昭和2年には東京日日新聞の記者だった子母沢寛(しもざわかん)のインタビューを受け、そのなかで和三盆糖(さんぼんとう)について語っています。和三盆糖は、徳島県と香川県の一部で作られる砂糖で、砂糖黍の一種、竹糖(ちくとう)を原料としています。上品な甘みとさらりとした口どけに特徴があり、光景は、この砂糖を使った菓子として「更衣(こうい)」を紹介しています。 「むかし宮中からお名を賜わった由緒あるもので、その頃は四角、今は小判形になっているが、これはこの和三盆でなくては絶対に出来ない。和三盆がなくなると共に、この菓子の一種他にない風味が永久に失われやしまいかと思われるのは悲しいことである。」 「更衣」は餡と米粉を混ぜて蒸し上げ、和三盆糖を揉み込んで作ります。和三盆糖独特の食感と甘みが特徴で、切り口にうっすらと掃いた和三盆糖が、涼やかな絽(ろ※)の衣を思わせます。「むかし宮中からお名を賜わった」というのは、江戸時代、関白を務めた公家・近衛内前(このえうちさき)公から安永4年(1775)に菓銘をいただいたことを指します。 インタビューを受けた当時、外国からもたらされる安価な砂糖に押され、和三盆糖は生産量が激減していました。しかし、製糖業者の懸命の努力によって製法が守られていきました。また「更衣」は、6月の衣替えにちなむ菓子として現在も作られています。短い期間の販売ではありますが、菓子を召し上がって季節の変わり目を感じる方もいらっしゃるようで、「更衣」のことを案じていた光景も、この様子を見たらきっと安心したのでは、と思います。 ※ 透かして織った夏用の絹織物。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「お茶に落雁〈赤坂虎屋 黒川光景氏の話〉」(子母沢寛『味覚極楽』中央公論社 1983年) 『虎屋の五世紀』通史編 虎屋 2003年 備考「更衣」は5月30日~6月1日に販売いたします。詳細はこちらをご覧ください。
尾崎紅葉と初卯詣の日の菓子
「江戸高名会亭尽 柳嶋之図」歌川広重(国立国会図書館蔵) 左の女性は繭玉飾りを持っており、初卯詣帰りと思われる。 右に見えるのが料亭「橋本」。明治時代の流行作家江戸・芝中門前町に生まれた尾崎紅葉(おざきこうよう・1867~1903)は、学生時代に山田美妙(やまだびみょう)らと硯友社(けんゆうしゃ)を結成し、同人誌のさきがけと称される『我楽多文庫』(がらくたぶんこ)を発刊。やがて新聞社に入社し、『金色夜叉』(こんじきやしゃ)などの長編連載で人気作家となりますが、胃癌のため明治36年10月、35才の若さで亡くなりました。 甘党の遊山非常な食道楽で、甘いものの逸話にも事欠きませんが、今回は、卯年生まれの紅葉が世話役となり、亡くなる年の正月3日、巌谷小波(いわやさざなみ)ら硯友社の仲間と初卯詣(はつうもうで・正月初卯の日に神社に詣でること)に出かけた話をご紹介しましょう。俳句の会の機関誌『卯杖』(うづえ)に小波がこの日の出来事を書いており、日本画家 斎藤松洲(さいとうしょうしゅう)が絵を担当、紅葉は随所にコメントを添えています。両国広小路の汁粉屋に集合した一行が向かった先は亀戸天神です。名物の繭玉飾りを買い、船橋屋のくず餅で一服。胃の不調を自覚しながらも「半盆を尽す」紅葉の甘党振りに一同は驚きます。 松洲による盆に載せたくず餅の絵 (『紅葉全集』第12巻、岩波書店より転載)参詣後は、柳島にあった名料亭「橋本」へ。道すがら、紅葉は「三ヶ日中に其干支の当れる者は、飴を振舞ふ吉例なり」として飴を買って配りました。それぞれ、もらった飴は持ち帰ったのでしょうか。大の大人が揃って飴をしゃぶりながら歩いたとしたら、随分と愉快な光景です。「橋本」では、卯年の初卯にちなみ「う尽し」の膳が出されました。「うど」と「うす切大根」入りのうさぎ肉の吸い物、「うづら」「うに焼海老」「うば玉栗」の口取り肴ほか、凝った内容で、菓子も「うぐいす餅」が供されました。青きな粉をまぶした鶯餅の春らしい色合いは、宴に興をそえたことでしょう。食後は屋根舟に乗って川路を進み、浅草公園の見世物見物をした後、土産に仲見世名物の梅林堂の紅梅焼を買って雷門で散会となるのでした。病身のため一行の後ろについていくばかりだったと文章を締めくくっている紅葉ですが、気の合う仲間との楽しい時間だったことでしょう。文士たちの風流な交流がうかがえます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「初卯詣」(『紅葉全集』第12巻 岩波書店 1995年)
尾崎紅葉と初卯詣の日の菓子
「江戸高名会亭尽 柳嶋之図」歌川広重(国立国会図書館蔵) 左の女性は繭玉飾りを持っており、初卯詣帰りと思われる。 右に見えるのが料亭「橋本」。明治時代の流行作家江戸・芝中門前町に生まれた尾崎紅葉(おざきこうよう・1867~1903)は、学生時代に山田美妙(やまだびみょう)らと硯友社(けんゆうしゃ)を結成し、同人誌のさきがけと称される『我楽多文庫』(がらくたぶんこ)を発刊。やがて新聞社に入社し、『金色夜叉』(こんじきやしゃ)などの長編連載で人気作家となりますが、胃癌のため明治36年10月、35才の若さで亡くなりました。 甘党の遊山非常な食道楽で、甘いものの逸話にも事欠きませんが、今回は、卯年生まれの紅葉が世話役となり、亡くなる年の正月3日、巌谷小波(いわやさざなみ)ら硯友社の仲間と初卯詣(はつうもうで・正月初卯の日に神社に詣でること)に出かけた話をご紹介しましょう。俳句の会の機関誌『卯杖』(うづえ)に小波がこの日の出来事を書いており、日本画家 斎藤松洲(さいとうしょうしゅう)が絵を担当、紅葉は随所にコメントを添えています。両国広小路の汁粉屋に集合した一行が向かった先は亀戸天神です。名物の繭玉飾りを買い、船橋屋のくず餅で一服。胃の不調を自覚しながらも「半盆を尽す」紅葉の甘党振りに一同は驚きます。 松洲による盆に載せたくず餅の絵 (『紅葉全集』第12巻、岩波書店より転載)参詣後は、柳島にあった名料亭「橋本」へ。道すがら、紅葉は「三ヶ日中に其干支の当れる者は、飴を振舞ふ吉例なり」として飴を買って配りました。それぞれ、もらった飴は持ち帰ったのでしょうか。大の大人が揃って飴をしゃぶりながら歩いたとしたら、随分と愉快な光景です。「橋本」では、卯年の初卯にちなみ「う尽し」の膳が出されました。「うど」と「うす切大根」入りのうさぎ肉の吸い物、「うづら」「うに焼海老」「うば玉栗」の口取り肴ほか、凝った内容で、菓子も「うぐいす餅」が供されました。青きな粉をまぶした鶯餅の春らしい色合いは、宴に興をそえたことでしょう。食後は屋根舟に乗って川路を進み、浅草公園の見世物見物をした後、土産に仲見世名物の梅林堂の紅梅焼を買って雷門で散会となるのでした。病身のため一行の後ろについていくばかりだったと文章を締めくくっている紅葉ですが、気の合う仲間との楽しい時間だったことでしょう。文士たちの風流な交流がうかがえます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「初卯詣」(『紅葉全集』第12巻 岩波書店 1995年)