虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
渋沢栄一と蓬が嶋
現在の『蓬が嶋』 一万円札の顔 渋沢栄一(しぶさわえいいち・1840~1931)は多くの日本の代表的な企業を創設し、東京証券取引所や東京商工会議所の設立にも関わりました。近代日本を代表する経済人であり、令和6年(2024)より一万円札の顔としてもおなじみです。 珍しい菓子を贈り、喜ばせる 栄一の次女・琴子の夫は、大蔵大臣、東京市長などを歴任した阪谷芳郎(さかたによしろう)で、家族の集まりのほか、公の会合、式典でも栄一とよく同席していました。芳郎は著作『余が母』で母・阪谷恭と、栄一との思い出を次のように記しています。 「或る時翁は余か母を喜はせんとて特に赤坂の虎屋と云ふ宮内省御出入りの菓子屋に命して蓬ヶ島と云ふ珍らしき菓子を調整せしめて贈られけるに余か母は深く喜ひ御禮にとて歌一首を讀まれたり ありかたき蓬か島のみめくみに なほ幾とせのよはひかさねん」 〈訳〉ある時、翁(栄一)は私の母を喜ばせようとして、特別に虎屋という宮内省出入の菓子屋に命じ、「蓬が嶋」という珍しい菓子を作らせて贈らせたところ、母は深く喜び、御礼に歌を一首詠んだ。 (歌意)ありがたい蓬が嶋の恵みゆえに、私も幾年か年を重ねましょう 蓬が嶋とは、不老不死の仙人が住むとされる蓬莱山の別名。大きな饅頭を切ると、中にはいくつもの小さな饅頭が入っており、子孫繁栄にも通じるおめでたい菓子です。宝暦12年(1762)、近衞内前より銘を頂戴しました。恭の御礼の和歌からは、贈り物に込めた意図が伝わったことがうかがえ、栄一も喜んだことでしょう。 こちらもご覧ください:近衛内前と蓬が嶋/渋沢栄一と金魚の菓子/渋沢栄一と菓子 *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 阪谷芳郎『余が母』 大正14年(1925) 国立国会図書館蔵
渋沢栄一と蓬が嶋
現在の『蓬が嶋』 一万円札の顔 渋沢栄一(しぶさわえいいち・1840~1931)は多くの日本の代表的な企業を創設し、東京証券取引所や東京商工会議所の設立にも関わりました。近代日本を代表する経済人であり、令和6年(2024)より一万円札の顔としてもおなじみです。 珍しい菓子を贈り、喜ばせる 栄一の次女・琴子の夫は、大蔵大臣、東京市長などを歴任した阪谷芳郎(さかたによしろう)で、家族の集まりのほか、公の会合、式典でも栄一とよく同席していました。芳郎は著作『余が母』で母・阪谷恭と、栄一との思い出を次のように記しています。 「或る時翁は余か母を喜はせんとて特に赤坂の虎屋と云ふ宮内省御出入りの菓子屋に命して蓬ヶ島と云ふ珍らしき菓子を調整せしめて贈られけるに余か母は深く喜ひ御禮にとて歌一首を讀まれたり ありかたき蓬か島のみめくみに なほ幾とせのよはひかさねん」 〈訳〉ある時、翁(栄一)は私の母を喜ばせようとして、特別に虎屋という宮内省出入の菓子屋に命じ、「蓬が嶋」という珍しい菓子を作らせて贈らせたところ、母は深く喜び、御礼に歌を一首詠んだ。 (歌意)ありがたい蓬が嶋の恵みゆえに、私も幾年か年を重ねましょう 蓬が嶋とは、不老不死の仙人が住むとされる蓬莱山の別名。大きな饅頭を切ると、中にはいくつもの小さな饅頭が入っており、子孫繁栄にも通じるおめでたい菓子です。宝暦12年(1762)、近衞内前より銘を頂戴しました。恭の御礼の和歌からは、贈り物に込めた意図が伝わったことがうかがえ、栄一も喜んだことでしょう。 こちらもご覧ください:近衛内前と蓬が嶋/渋沢栄一と金魚の菓子/渋沢栄一と菓子 *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 阪谷芳郎『余が母』 大正14年(1925) 国立国会図書館蔵
大関和と滋養菓子
参考:淡雪羹(AIで画像の一部を加工しています) 訪問看護のパイオニア 大関和(おおぜきちか・1858〜1932)は、日本の近代看護の発展に大きな足跡を残した人物です。下野国(栃木県)黒羽藩家老の家に生まれ、離婚をきっかけに上京し、英語を学ぶ中でキリスト教に触れたことから看護の道へ進みました。明治19年(1886)には桜井女学校(現・女子学院の前身)附属看護婦養成所の第1期生として入学し、翌年に受洗。同21年、看護婦の資格を得ました。その後は帝国大学医科大学附属第一医院(現・東京大学医学部附属病院)で看護婦長を務め、看護制度づくりや後進の育成に力を注ぎました。特に明治から昭和初期にかけて取り組んだ派出看護(訪問看護)は、今の在宅看護や介護の原点といわれています。 著作に登場する菓子 大関は著述にも力を入れ、『派出看護婦心得』(1899)、『実地看護法』(1908)を刊行しました。これらには病人向けの食べ物に関する記述があります。たとえば、『実地看護法』初版(1908)の「流動性の食物」の項目に「プリン」が登場します。これは、現在のカスタードプリンとは異なり、牛乳で煮た米やオートミールに砂糖を加えて焼いた、ライスプディングに近いものでした。同書の第3版(1910)では「食後の菓子」という項目が加わり、「馬鈴薯羊羹」(蒸して裏ごししたジャガイモに寒天をあわせ、一部を色づけし、紅白に仕立てた羊羹)、二層仕立ての道明寺羹、苺や蜜柑をつぶして泡立てた卵白にあわせ、寒天で固めたものなどが紹介されています。病人が楽しめるように栄養価だけでなく、見た目の色合いなども考えて、工夫をしたのでしょう。 滋養菓子 『派出看護婦心得』の第5版(1917)には「滋養菓子」が見えます。寒天を煮溶かし、砂糖を加えて水飴状になるまで煮て、卵白のメレンゲに注ぐ旨があり、これは淡雪羹の製法です。「淡雪羹」は、当時「衛生羹」とも呼ばれていました※。「衛生ボーロ」に名残があるように、「衛生」という言葉が注目されていたようで、白く清潔な印象と卵白の栄養価はその名にふさわしかったのでしょう。大関がなぜ「滋養菓子」としたのか理由は不明ですが、病人用介護食の意からこの名にしたのではないかと思います。大関が卵を使った菓子を重視したのは、栄養面への関心に加え、上京後に初めて食べて感激したというパン・ペルデュ(フレンチトースト)が、強く印象に残っていたからかもしれません。卵と乳を使った料理は、当時、新しい滋養食として受け止められていたことも想像されます。※「衛生羹」は、明治中頃より昭和後期頃まで製菓関係の用語として使われた。*連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 大関和『派出看護婦心得』初版1899年、5版1917年大関和『実地看護法』初版1908年、5版1899年田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』中央公論新社 2023年 フォレストブックス編集室『和と旅する。 日本の近代看護の先駆者』いのちのことば社 2026年
大関和と滋養菓子
参考:淡雪羹(AIで画像の一部を加工しています) 訪問看護のパイオニア 大関和(おおぜきちか・1858〜1932)は、日本の近代看護の発展に大きな足跡を残した人物です。下野国(栃木県)黒羽藩家老の家に生まれ、離婚をきっかけに上京し、英語を学ぶ中でキリスト教に触れたことから看護の道へ進みました。明治19年(1886)には桜井女学校(現・女子学院の前身)附属看護婦養成所の第1期生として入学し、翌年に受洗。同21年、看護婦の資格を得ました。その後は帝国大学医科大学附属第一医院(現・東京大学医学部附属病院)で看護婦長を務め、看護制度づくりや後進の育成に力を注ぎました。特に明治から昭和初期にかけて取り組んだ派出看護(訪問看護)は、今の在宅看護や介護の原点といわれています。 著作に登場する菓子 大関は著述にも力を入れ、『派出看護婦心得』(1899)、『実地看護法』(1908)を刊行しました。これらには病人向けの食べ物に関する記述があります。たとえば、『実地看護法』初版(1908)の「流動性の食物」の項目に「プリン」が登場します。これは、現在のカスタードプリンとは異なり、牛乳で煮た米やオートミールに砂糖を加えて焼いた、ライスプディングに近いものでした。同書の第3版(1910)では「食後の菓子」という項目が加わり、「馬鈴薯羊羹」(蒸して裏ごししたジャガイモに寒天をあわせ、一部を色づけし、紅白に仕立てた羊羹)、二層仕立ての道明寺羹、苺や蜜柑をつぶして泡立てた卵白にあわせ、寒天で固めたものなどが紹介されています。病人が楽しめるように栄養価だけでなく、見た目の色合いなども考えて、工夫をしたのでしょう。 滋養菓子 『派出看護婦心得』の第5版(1917)には「滋養菓子」が見えます。寒天を煮溶かし、砂糖を加えて水飴状になるまで煮て、卵白のメレンゲに注ぐ旨があり、これは淡雪羹の製法です。「淡雪羹」は、当時「衛生羹」とも呼ばれていました※。「衛生ボーロ」に名残があるように、「衛生」という言葉が注目されていたようで、白く清潔な印象と卵白の栄養価はその名にふさわしかったのでしょう。大関がなぜ「滋養菓子」としたのか理由は不明ですが、病人用介護食の意からこの名にしたのではないかと思います。大関が卵を使った菓子を重視したのは、栄養面への関心に加え、上京後に初めて食べて感激したというパン・ペルデュ(フレンチトースト)が、強く印象に残っていたからかもしれません。卵と乳を使った料理は、当時、新しい滋養食として受け止められていたことも想像されます。※「衛生羹」は、明治中頃より昭和後期頃まで製菓関係の用語として使われた。*連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 大関和『派出看護婦心得』初版1899年、5版1917年大関和『実地看護法』初版1908年、5版1899年田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』中央公論新社 2023年 フォレストブックス編集室『和と旅する。 日本の近代看護の先駆者』いのちのことば社 2026年
ヘンドリック・ドゥーフと江戸の菓子屋
江戸滞在時にオランダ人が常宿とした長崎屋の様子浅草庵ほか『画本東都遊』(1802序)より国立国会図書館デジタルコレクション 激動の時代に就任したオランダ商館長 ヘンドリック・ドゥーフ(1777~1835)は、享和3年(1803)から14年間、オランダ東インド会社の商館長として日本との交易に携わりました。この時期、母国はフランスの治下に入り、イギリスと戦争状態となります。オランダ商館は貿易が厳しくなったうえ、イギリスに圧力をかけられ接収されそうになりますが、ドゥーフは粘り強く折衝してその危機を乗り越えます。その一方、蘭日辞書を作ろうと考え、自ら日本語を学び、日本人の通詞(通訳)とともに完成させます。『ドゥーフハルマ』と呼ばれる辞書で、のちに蘭学を学ぶ学生たちの大きな助けとなりました。 オランダ好きの菓子屋に名前を与える 商館長は、将軍に貿易の御礼の挨拶のため数年ごとに江戸を訪れていました。ドゥーフも文化3年(1806)を含め3度江戸を訪れていますが、滞在中には蘭学者や「蘭癖(らんぺき=「オランダ好み」の意)」と呼ばれた人々とも面会をしました。なかには西洋の話を聞くだけでなく、オランダ語の名前をつけてほしいと願うものがいたそうです。ドゥーフが記した『日本回想録』(1833)には、オランダ人が来るたび表敬訪問しているという菓子屋の主人が出てきます。片言のオランダ語を話し、以前別の商館長からもらった名前が古くなったので新しい名前が欲しいと頼み、ドゥーフが「フレデリック・ファン・フルペン」※1という名を与えると大変喜んだとのこと。この菓子屋は日本橋本町の伊勢屋で、ドゥーフは京都でと書いていますが、実際に会ったのは江戸で、オランダ人が常宿にしていた長崎屋でした※2。 伊勢屋はどんな菓子屋だったのでしょうか。同じく蘭癖で親交があった下総古河藩の家老鷹見泉石(たかみせんせき)の日記に、店の主人、七左衛門(兵助)が泉石に羊羹などを持参したことが散見されます。『江戸買物独案内』(1824)のようなガイドブックや菓子屋番付等ではその名を見ることはできませんが、蘭癖仲間の会を店で催すほか、西洋の書籍などを仲介販売しており、「オランダ好み」たちの間では知られた存在だったようです。文化14年(1817)、ドゥーフは任務を終え帰国の途に着きます。本国で伊勢屋のことを話すことはあったでしょうか。日本を訪れたことがある人と会ったなら「オランダ語を話す面白い菓子屋だったね」と一緒に盛り上がったかもしれませんね。 ※1 綴りはFrederik van Gulpen で、商館長ブロムホフ、あるいはシーボルト日記にもこの名が見える。シーボルトは伊勢屋を「幕府の御用菓子屋」としているが御用はつとめていない。なお「フルペン」は、現代語訳本により「ヒュルペン」「ギュルペン」と表記される。伊勢屋は鷹見泉石との書簡で「ギュルペン」あるいは「ギュル篇」と署名している。※2 ドゥーフが伊勢屋と面会した際に描いたとされる「長崎屋二階の図」(現在は所在不明)がある。 *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 ヘンドリック・ドゥーフ著、永積洋子訳『日本回想録』新異国叢書 第Ⅲ輯 雄松堂出版 2003年日蘭学会編『長崎オランダ商館日記』7 雄松堂出版 1996年シーボルト著、斎藤信訳『日本』第3巻 雄松堂書店 1978年古河歴史博物館編『鷹見泉石日記』全8巻 吉川弘文館 2001~2004年片桐一男『蘭学家老 鷹見泉石の来翰を読む -蘭学編-』岩波ブックセンター 2013年森田健司『異国人たちの江戸時代』作品社 2023年
ヘンドリック・ドゥーフと江戸の菓子屋
江戸滞在時にオランダ人が常宿とした長崎屋の様子浅草庵ほか『画本東都遊』(1802序)より国立国会図書館デジタルコレクション 激動の時代に就任したオランダ商館長 ヘンドリック・ドゥーフ(1777~1835)は、享和3年(1803)から14年間、オランダ東インド会社の商館長として日本との交易に携わりました。この時期、母国はフランスの治下に入り、イギリスと戦争状態となります。オランダ商館は貿易が厳しくなったうえ、イギリスに圧力をかけられ接収されそうになりますが、ドゥーフは粘り強く折衝してその危機を乗り越えます。その一方、蘭日辞書を作ろうと考え、自ら日本語を学び、日本人の通詞(通訳)とともに完成させます。『ドゥーフハルマ』と呼ばれる辞書で、のちに蘭学を学ぶ学生たちの大きな助けとなりました。 オランダ好きの菓子屋に名前を与える 商館長は、将軍に貿易の御礼の挨拶のため数年ごとに江戸を訪れていました。ドゥーフも文化3年(1806)を含め3度江戸を訪れていますが、滞在中には蘭学者や「蘭癖(らんぺき=「オランダ好み」の意)」と呼ばれた人々とも面会をしました。なかには西洋の話を聞くだけでなく、オランダ語の名前をつけてほしいと願うものがいたそうです。ドゥーフが記した『日本回想録』(1833)には、オランダ人が来るたび表敬訪問しているという菓子屋の主人が出てきます。片言のオランダ語を話し、以前別の商館長からもらった名前が古くなったので新しい名前が欲しいと頼み、ドゥーフが「フレデリック・ファン・フルペン」※1という名を与えると大変喜んだとのこと。この菓子屋は日本橋本町の伊勢屋で、ドゥーフは京都でと書いていますが、実際に会ったのは江戸で、オランダ人が常宿にしていた長崎屋でした※2。 伊勢屋はどんな菓子屋だったのでしょうか。同じく蘭癖で親交があった下総古河藩の家老鷹見泉石(たかみせんせき)の日記に、店の主人、七左衛門(兵助)が泉石に羊羹などを持参したことが散見されます。『江戸買物独案内』(1824)のようなガイドブックや菓子屋番付等ではその名を見ることはできませんが、蘭癖仲間の会を店で催すほか、西洋の書籍などを仲介販売しており、「オランダ好み」たちの間では知られた存在だったようです。文化14年(1817)、ドゥーフは任務を終え帰国の途に着きます。本国で伊勢屋のことを話すことはあったでしょうか。日本を訪れたことがある人と会ったなら「オランダ語を話す面白い菓子屋だったね」と一緒に盛り上がったかもしれませんね。 ※1 綴りはFrederik van Gulpen で、商館長ブロムホフ、あるいはシーボルト日記にもこの名が見える。シーボルトは伊勢屋を「幕府の御用菓子屋」としているが御用はつとめていない。なお「フルペン」は、現代語訳本により「ヒュルペン」「ギュルペン」と表記される。伊勢屋は鷹見泉石との書簡で「ギュルペン」あるいは「ギュル篇」と署名している。※2 ドゥーフが伊勢屋と面会した際に描いたとされる「長崎屋二階の図」(現在は所在不明)がある。 *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 ヘンドリック・ドゥーフ著、永積洋子訳『日本回想録』新異国叢書 第Ⅲ輯 雄松堂出版 2003年日蘭学会編『長崎オランダ商館日記』7 雄松堂出版 1996年シーボルト著、斎藤信訳『日本』第3巻 雄松堂書店 1978年古河歴史博物館編『鷹見泉石日記』全8巻 吉川弘文館 2001~2004年片桐一男『蘭学家老 鷹見泉石の来翰を読む -蘭学編-』岩波ブックセンター 2013年森田健司『異国人たちの江戸時代』作品社 2023年
折口信夫とおはぎ
日本古代の魂に迫った文学博士 折口信夫(おりくちしのぶ・1887~1953)は、大阪府出身の民俗学者、国文学者で、歌人としては「釈迢空」(しゃくちょうくう)の名で知られています。民俗学者柳田國男の薫陶を受け、民俗学の手法を国文学研究に取り入れるなど独自の学風を築きました。学問領域は神道学、国語学(日本語学)、芸能史にも及び、一連の業績や思想は「折口学」と称されます。國學院大學や慶應義塾大学の教授を務め、著作には『口訳万葉集』や『古代研究』、歌集『海やまのあひだ』、小説『死者の書』などがあります。 自家製のすごろくに描かれた姿は…… 信夫には7つ下の双子の兄弟がおり、彼らの作ったすごろくで遊ぶのが折口家の正月の恒例でした。このすごろくは前年にあったできごとを面白おかしく盛り込んだもので、例えば女中の義弟が医者を嫌がって泣きわめく絵や、やって来ては長々と話し込む議員の頭に、草が根を生やし花を咲かせる様子を描いた絵などがあったそうです。 ある年描かれていたのは、「信夫が餅箱いっぱいのおはぎを持っている」絵。東京から帰省している際※の話が元になっており、近所の餅菓子屋から「陳列棚においてあった箱ごと」購入してきたというから驚きです。東京での独身生活に慣れた信夫は何とも思わなかったものの、実家暮らしの弟たちにとっては男性が買い物をするのは恥ずかしいことだったらしく、二重の驚きを与えたようです。餅菓子屋は「大国橋の北詰にあった」とあり、生家からは歩いて数分の、現在の大阪市浪速区元町あたりを指すと見てよいでしょう。おはぎの種類や数についての記述はありませんが、餅箱とは番重(食品を並べておく浅い箱)のことですから、中には数十個ものおはぎが入っていたと考えられます。 学風や対人関係などから、難解で気難しい人物といったイメージを持たれることの多い信夫ですが、この行動は意外にも茶目っ気を感じさせます。弟たちがすごろくのマスに採用したのは、近所で目立つ買い物をしてきたという強烈なインパクトもさることながら、皆でたくさんのおはぎを味わったこと自体も心に残ったからに違いありません。 ※信夫が東京に住んでいたのは、大学在学中の明治38~44年(1905~11)と、28歳で地元の中学校の教員を辞し再上京した大正3年(1914)以降。よって、このいずれかの年のできごとと考えられる。 *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 中村浩『若き折口信夫』中央公論社 1972年加藤守雄『折口信夫伝 -釈迢空の形成-』角川書店 1979年『近代日本思想大系』第22巻 折口信夫集 筑摩書房 1975年
折口信夫とおはぎ
日本古代の魂に迫った文学博士 折口信夫(おりくちしのぶ・1887~1953)は、大阪府出身の民俗学者、国文学者で、歌人としては「釈迢空」(しゃくちょうくう)の名で知られています。民俗学者柳田國男の薫陶を受け、民俗学の手法を国文学研究に取り入れるなど独自の学風を築きました。学問領域は神道学、国語学(日本語学)、芸能史にも及び、一連の業績や思想は「折口学」と称されます。國學院大學や慶應義塾大学の教授を務め、著作には『口訳万葉集』や『古代研究』、歌集『海やまのあひだ』、小説『死者の書』などがあります。 自家製のすごろくに描かれた姿は…… 信夫には7つ下の双子の兄弟がおり、彼らの作ったすごろくで遊ぶのが折口家の正月の恒例でした。このすごろくは前年にあったできごとを面白おかしく盛り込んだもので、例えば女中の義弟が医者を嫌がって泣きわめく絵や、やって来ては長々と話し込む議員の頭に、草が根を生やし花を咲かせる様子を描いた絵などがあったそうです。 ある年描かれていたのは、「信夫が餅箱いっぱいのおはぎを持っている」絵。東京から帰省している際※の話が元になっており、近所の餅菓子屋から「陳列棚においてあった箱ごと」購入してきたというから驚きです。東京での独身生活に慣れた信夫は何とも思わなかったものの、実家暮らしの弟たちにとっては男性が買い物をするのは恥ずかしいことだったらしく、二重の驚きを与えたようです。餅菓子屋は「大国橋の北詰にあった」とあり、生家からは歩いて数分の、現在の大阪市浪速区元町あたりを指すと見てよいでしょう。おはぎの種類や数についての記述はありませんが、餅箱とは番重(食品を並べておく浅い箱)のことですから、中には数十個ものおはぎが入っていたと考えられます。 学風や対人関係などから、難解で気難しい人物といったイメージを持たれることの多い信夫ですが、この行動は意外にも茶目っ気を感じさせます。弟たちがすごろくのマスに採用したのは、近所で目立つ買い物をしてきたという強烈なインパクトもさることながら、皆でたくさんのおはぎを味わったこと自体も心に残ったからに違いありません。 ※信夫が東京に住んでいたのは、大学在学中の明治38~44年(1905~11)と、28歳で地元の中学校の教員を辞し再上京した大正3年(1914)以降。よって、このいずれかの年のできごとと考えられる。 *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 中村浩『若き折口信夫』中央公論社 1972年加藤守雄『折口信夫伝 -釈迢空の形成-』角川書店 1979年『近代日本思想大系』第22巻 折口信夫集 筑摩書房 1975年
沼波瓊音と汁粉
参考:とらやのお汁粉 多彩な俳人 沼波瓊音(ぬなみけいおん・1877~1927)は愛知県名古屋市出身の俳人、国文学者です。本名を武夫といい、「瓊音」と号しました。「瓊」とは美しい玉を指し、「瓊音」(ぬなと)は玉が触れ合う音を意味する語で、非常に優美な号といえるでしょう。現在ではあまり名を知られていませんが、大正時代には正岡子規と並び評されるほど俳壇で将来を嘱望された人物で、俳句にとどまらず、短歌や詩、小説に戯曲まで幅広い創作を行いました。また、国文学者としての顔も持ち、松尾芭蕉や小林一茶を研究し、長らく複数の大学などで教鞭をとりました。 とにかく汁粉が食べたい 若い頃から甘党だったようで、菓子に関する逸話も随筆に散見されますが、特に強い印象を受けるのは、大正4年(1915)の12月に詠まれた、次の13首の短歌です(ルビは適宜追加)。 銭無けど汁粉食ひたくてたまらねば食ひたしと云ひぬ図々しくも 一銭も無ければと云ひて云ひさして考へてゐる妻の顔かな 残る本また売払ひ我と子等と汁粉食ひに行く代(しろ)作らばや などと云へどそれほどの本もあらざればまづあきらめて図書館へ行く 浅草区誌仲見世のくだり読み居ればまづ思ひ出づ汁粉のことを 夜の九時帰り来りて門あくればこはいかに匂ふ煮立つ小豆の 何を何して何しけるかは知らねども妻は汁粉をととのへにけり 床に入りてはらばひ居れば持ち来る大鍋一杯の汁粉持来る 三人の子等ばたばたと大鍋のあとに随(したが)ひて繰込み来る 我も子等も茶碗待つ間を汁粉鍋の湯気立つなかに騒ぎ立てたり うちぢゆうがチヤブ台かこみ思ふ存分汁粉食ひたり汁粉食ひたり 父うちやんは貧乏といへど汁粉など斯(か)うして食へるぢや無いかとぞ云ふ 夜毎々々(よごとよごと)おそろしき事思ひしに今宵思はず汁粉食ひければ まるで物語のような一連の連作※から、「汁粉」への並々ならぬ執着が臨場感をもって伝わってきます。あえて字余り字足らずにすることで、通常のリズムでは表現しきれない情念を演出したともいえるでしょう。当時、瓊音は30代後半。経歴を見ると、雑誌『俳味』を主宰し、研究書を何冊も出版するなど、社会的成功をおさめているように思えますが、同月に詠まれた短歌は生活苦を題材にしたものが多く、実情としては、相当に苦しかったようです。そうした中、家族との団らんはひと時でも瓊音の心を慰めたことでしょう。小豆の煮える優しい香り、鍋を囲む子どもたちの無邪気な笑顔など、さまざまな情景が想像され、温かい汁粉が食べたくなります。 ※ある主題について複数の歌を詠むことを連作形式と呼び、短歌の技法の一つ。 *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献『瓊音全集』第4巻(和歌俳句篇) 出版社不明 刊年不明
沼波瓊音と汁粉
参考:とらやのお汁粉 多彩な俳人 沼波瓊音(ぬなみけいおん・1877~1927)は愛知県名古屋市出身の俳人、国文学者です。本名を武夫といい、「瓊音」と号しました。「瓊」とは美しい玉を指し、「瓊音」(ぬなと)は玉が触れ合う音を意味する語で、非常に優美な号といえるでしょう。現在ではあまり名を知られていませんが、大正時代には正岡子規と並び評されるほど俳壇で将来を嘱望された人物で、俳句にとどまらず、短歌や詩、小説に戯曲まで幅広い創作を行いました。また、国文学者としての顔も持ち、松尾芭蕉や小林一茶を研究し、長らく複数の大学などで教鞭をとりました。 とにかく汁粉が食べたい 若い頃から甘党だったようで、菓子に関する逸話も随筆に散見されますが、特に強い印象を受けるのは、大正4年(1915)の12月に詠まれた、次の13首の短歌です(ルビは適宜追加)。 銭無けど汁粉食ひたくてたまらねば食ひたしと云ひぬ図々しくも 一銭も無ければと云ひて云ひさして考へてゐる妻の顔かな 残る本また売払ひ我と子等と汁粉食ひに行く代(しろ)作らばや などと云へどそれほどの本もあらざればまづあきらめて図書館へ行く 浅草区誌仲見世のくだり読み居ればまづ思ひ出づ汁粉のことを 夜の九時帰り来りて門あくればこはいかに匂ふ煮立つ小豆の 何を何して何しけるかは知らねども妻は汁粉をととのへにけり 床に入りてはらばひ居れば持ち来る大鍋一杯の汁粉持来る 三人の子等ばたばたと大鍋のあとに随(したが)ひて繰込み来る 我も子等も茶碗待つ間を汁粉鍋の湯気立つなかに騒ぎ立てたり うちぢゆうがチヤブ台かこみ思ふ存分汁粉食ひたり汁粉食ひたり 父うちやんは貧乏といへど汁粉など斯(か)うして食へるぢや無いかとぞ云ふ 夜毎々々(よごとよごと)おそろしき事思ひしに今宵思はず汁粉食ひければ まるで物語のような一連の連作※から、「汁粉」への並々ならぬ執着が臨場感をもって伝わってきます。あえて字余り字足らずにすることで、通常のリズムでは表現しきれない情念を演出したともいえるでしょう。当時、瓊音は30代後半。経歴を見ると、雑誌『俳味』を主宰し、研究書を何冊も出版するなど、社会的成功をおさめているように思えますが、同月に詠まれた短歌は生活苦を題材にしたものが多く、実情としては、相当に苦しかったようです。そうした中、家族との団らんはひと時でも瓊音の心を慰めたことでしょう。小豆の煮える優しい香り、鍋を囲む子どもたちの無邪気な笑顔など、さまざまな情景が想像され、温かい汁粉が食べたくなります。 ※ある主題について複数の歌を詠むことを連作形式と呼び、短歌の技法の一つ。 *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献『瓊音全集』第4巻(和歌俳句篇) 出版社不明 刊年不明
三代目市川市十郎と団子細工
稀書複製会編『新文字ゑつくし 新板』(米山堂、1930年)より 国立国会図書館蔵 上方歌舞伎の人気俳優 三代目市川市十郎(いちかわいちじゅうろう・1837~1920)は、本名を市村福太郎といい、天保8年(1837)、京都の上賀茂に生まれました。九代目市川団十郎の門下に入り、市川福太郎を名乗ったのち、明治8年(1875)、三代目市十郎を襲名し大阪に定着。明治43年には息子に市十郎を譲り、二代目市川眼玉(がんぎょく)となりました。眼も輪郭も大きく、立派な顔をした役者だったといい、華のある容貌や迫力ある演技が、大阪に限らず東京の興行でも話題になりました。「山門の石川五右衛門」「熊谷陣屋の熊谷直実」「馬盥(ばだらい)の武智光秀」等を得意とし、亡くなる前年、84歳で引退興行を行うまで現役で活躍しました。 団子細工が繋ぐ縁 順風満帆な役者人生にも見える市十郎ですが、その名を継ぐ前、一時役者を断念し、魚屋、八百屋、小間物屋など、職を転々とした時期がありました。なかなか向く職が見つからないなか、30代前半で器用さを生かしてはじめたのが、団子細工の行商。『戯場関遠近』(しばいごやせきのおちこち)によれば、明治6年(1873)には下関の新地(現・山口県下関市新地町)の芝居小屋前に現れ、たちまち人気を集めたといいます。 商売の内容は、客寄せに一人芝居を行い、団子細工を売るというもの。団子細工とは、着色した新粉(米の粉)生地をさまざまな形に作ったもので、関東では新粉細工(しんこざいく)とも呼ばれます。市十郎は、梅やお多福などの形にした団子を竹串の先に刺して売っており、特に梅は非常に美しかったそうです。豆絞りの手ぬぐいを締め、着物の裾を角帯の後ろに挟み、白足袋に草履という小粋な出で立ちで漆塗りの団子箱を担ぐ姿に、観客が科白(せりふ)に聞きほれるほどの芝居の上手さも相まって、新地の名物男となっていました。 半年ほどで役者の世界に戻りますが、それから約10年経ち、市川市十郎一座の座頭として下関へ地方巡業にやってきた際には、団子屋が役者として帰って来たと新地の人々を大変驚かせたといいます。以降、下関の興行では、屋号の「小紅屋」(こべにや)ではなく「団子屋」と掛け声がかかることを、本人は少し苦々しくも感じていたようですが、街の人々としては、親しみを込めて応援する気持ちが強かったに違いありません。団子細工が繋いだ縁が、役者としての人気の一端も担っていたのでは……と想像されます。 参考:新粉細工の模型(作成:小川三智之助 虎屋文庫蔵) *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 『現代俳優鑑』演芸画報社 1918年佐藤治『戯場関遠近』1938年『馬関覚え帳』朝日新聞下関支局 1954年
三代目市川市十郎と団子細工
稀書複製会編『新文字ゑつくし 新板』(米山堂、1930年)より 国立国会図書館蔵 上方歌舞伎の人気俳優 三代目市川市十郎(いちかわいちじゅうろう・1837~1920)は、本名を市村福太郎といい、天保8年(1837)、京都の上賀茂に生まれました。九代目市川団十郎の門下に入り、市川福太郎を名乗ったのち、明治8年(1875)、三代目市十郎を襲名し大阪に定着。明治43年には息子に市十郎を譲り、二代目市川眼玉(がんぎょく)となりました。眼も輪郭も大きく、立派な顔をした役者だったといい、華のある容貌や迫力ある演技が、大阪に限らず東京の興行でも話題になりました。「山門の石川五右衛門」「熊谷陣屋の熊谷直実」「馬盥(ばだらい)の武智光秀」等を得意とし、亡くなる前年、84歳で引退興行を行うまで現役で活躍しました。 団子細工が繋ぐ縁 順風満帆な役者人生にも見える市十郎ですが、その名を継ぐ前、一時役者を断念し、魚屋、八百屋、小間物屋など、職を転々とした時期がありました。なかなか向く職が見つからないなか、30代前半で器用さを生かしてはじめたのが、団子細工の行商。『戯場関遠近』(しばいごやせきのおちこち)によれば、明治6年(1873)には下関の新地(現・山口県下関市新地町)の芝居小屋前に現れ、たちまち人気を集めたといいます。 商売の内容は、客寄せに一人芝居を行い、団子細工を売るというもの。団子細工とは、着色した新粉(米の粉)生地をさまざまな形に作ったもので、関東では新粉細工(しんこざいく)とも呼ばれます。市十郎は、梅やお多福などの形にした団子を竹串の先に刺して売っており、特に梅は非常に美しかったそうです。豆絞りの手ぬぐいを締め、着物の裾を角帯の後ろに挟み、白足袋に草履という小粋な出で立ちで漆塗りの団子箱を担ぐ姿に、観客が科白(せりふ)に聞きほれるほどの芝居の上手さも相まって、新地の名物男となっていました。 半年ほどで役者の世界に戻りますが、それから約10年経ち、市川市十郎一座の座頭として下関へ地方巡業にやってきた際には、団子屋が役者として帰って来たと新地の人々を大変驚かせたといいます。以降、下関の興行では、屋号の「小紅屋」(こべにや)ではなく「団子屋」と掛け声がかかることを、本人は少し苦々しくも感じていたようですが、街の人々としては、親しみを込めて応援する気持ちが強かったに違いありません。団子細工が繋いだ縁が、役者としての人気の一端も担っていたのでは……と想像されます。 参考:新粉細工の模型(作成:小川三智之助 虎屋文庫蔵) *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 『現代俳優鑑』演芸画報社 1918年佐藤治『戯場関遠近』1938年『馬関覚え帳』朝日新聞下関支局 1954年