虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
新田潤と虎屋の羊羹
「海の勲(うみのいさおし)」 太平洋戦争中、虎屋から海軍に納めた羊羹。プロレタリア・リアリズム作家としてデビュー新田潤(にったじゅん・1904~78)は昭和期の作家。東京帝国大学の同期生で親友の高見順(たかみじゅん)らとともに、文学同人誌『日歴』や『人民文庫』に参加、プロレタリア・リアリズムの作家として注目され『煙管』『片意地な街』など次々に作品を発表します。戦後まもなく刊行された『妻の行方』(1947)は、戦争末期から戦後にかけての新田と妻を題材にした私小説で、物語の重要な場面に羊羹が登場します。 溶けた羊羹の思い出戦争中、新田の家は虎屋の赤坂の工場の裏手にあり、海軍報道班員として東京を離れて以降は妻が1人で家を守っていました。しかし、昭和20年(1945)5月25日に赤坂を襲った空襲で自宅や虎屋の工場は焼失し、妻も行方不明に。戦後、東京に戻った新田は妻を探し、ようやく住まいを見つけます。ゆっくり話ができる場所ということで日比谷公園に向かい、そこで新田はとっておきの羊羹を差し出します。戦後の物資不足で甘いものは大変貴重だったのですが、恐らく新田は軍で支給されたものを大事に持っていたのでしょう。 妻はようかんをむきながら、「ほんとに軍隊なんかにはこんなものいくらでもあるんだからいやになっちゃうわ」(中略)「裏の虎屋の倉庫ね。あそこには焼けてみたら軍隊へ行くようかんがいやになっちゃうほど積んであったわ。それが丁度いい工合(ぐあい)に翌朝蒸し焼きみたいになっていて、みんなただで配給するってんで、バケツにいっぱいもらって、おかげでそれで御飯がわりが出来たわ※」 久しぶりの再会、しかも貴重な羊羹をもらって嬉しいはずが、なぜか投げやりな口調です。実は、子どもができなかったことや妻の養父母と折り合いが悪かったことなどから、戦時中から2人の仲はぎくしゃくしていました。新田が焦りといら立ちを募らせても居場所をつかめなかったのは、妻は夫との暮らしを諦めて新しい生活をはじめようと、あえて身を隠したからだったのです。 幸い、仲を取り持ってくれる人もいて、両者の溝は埋まり離婚の危機は回避されます。後年、新田は「虎屋の羊羹」と題し、妻が虎屋の工場から溶けた虎屋の羊羹をもらってきたことを再び書いているのですが、「まだほかほかとあったかくって、とてもおいしかったわ」と『妻の行方』の書きぶりとは打って変わり歌うような軽やかさです。2人の仲を羊羹が修復してくれた、と密かに感謝してのことだったのかもしれません。 ※空襲によって溶けてしまった羊羹を人々に配ったというエピソードについては、『虎屋の五世紀』通史編 176頁を参照。 ※新田の書いた「虎屋の羊羹」の自筆原稿と海軍に納めた羊羹「海の勲(いさおし)」(模型)を、現在開催中の「再開御礼!虎屋文庫の羊羹・YOKAN展」で展示をしております(12/10まで)。ぜひご覧ください。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『妻の行方』隅田書房 1947年(引用は一部現代仮名遣いに変えました) 「虎屋の羊羹」『日本の老舗』第14集 白川書院「日本老舗百店会」事務局 1966年
新田潤と虎屋の羊羹
「海の勲(うみのいさおし)」 太平洋戦争中、虎屋から海軍に納めた羊羹。プロレタリア・リアリズム作家としてデビュー新田潤(にったじゅん・1904~78)は昭和期の作家。東京帝国大学の同期生で親友の高見順(たかみじゅん)らとともに、文学同人誌『日歴』や『人民文庫』に参加、プロレタリア・リアリズムの作家として注目され『煙管』『片意地な街』など次々に作品を発表します。戦後まもなく刊行された『妻の行方』(1947)は、戦争末期から戦後にかけての新田と妻を題材にした私小説で、物語の重要な場面に羊羹が登場します。 溶けた羊羹の思い出戦争中、新田の家は虎屋の赤坂の工場の裏手にあり、海軍報道班員として東京を離れて以降は妻が1人で家を守っていました。しかし、昭和20年(1945)5月25日に赤坂を襲った空襲で自宅や虎屋の工場は焼失し、妻も行方不明に。戦後、東京に戻った新田は妻を探し、ようやく住まいを見つけます。ゆっくり話ができる場所ということで日比谷公園に向かい、そこで新田はとっておきの羊羹を差し出します。戦後の物資不足で甘いものは大変貴重だったのですが、恐らく新田は軍で支給されたものを大事に持っていたのでしょう。 妻はようかんをむきながら、「ほんとに軍隊なんかにはこんなものいくらでもあるんだからいやになっちゃうわ」(中略)「裏の虎屋の倉庫ね。あそこには焼けてみたら軍隊へ行くようかんがいやになっちゃうほど積んであったわ。それが丁度いい工合(ぐあい)に翌朝蒸し焼きみたいになっていて、みんなただで配給するってんで、バケツにいっぱいもらって、おかげでそれで御飯がわりが出来たわ※」 久しぶりの再会、しかも貴重な羊羹をもらって嬉しいはずが、なぜか投げやりな口調です。実は、子どもができなかったことや妻の養父母と折り合いが悪かったことなどから、戦時中から2人の仲はぎくしゃくしていました。新田が焦りといら立ちを募らせても居場所をつかめなかったのは、妻は夫との暮らしを諦めて新しい生活をはじめようと、あえて身を隠したからだったのです。 幸い、仲を取り持ってくれる人もいて、両者の溝は埋まり離婚の危機は回避されます。後年、新田は「虎屋の羊羹」と題し、妻が虎屋の工場から溶けた虎屋の羊羹をもらってきたことを再び書いているのですが、「まだほかほかとあったかくって、とてもおいしかったわ」と『妻の行方』の書きぶりとは打って変わり歌うような軽やかさです。2人の仲を羊羹が修復してくれた、と密かに感謝してのことだったのかもしれません。 ※空襲によって溶けてしまった羊羹を人々に配ったというエピソードについては、『虎屋の五世紀』通史編 176頁を参照。 ※新田の書いた「虎屋の羊羹」の自筆原稿と海軍に納めた羊羹「海の勲(いさおし)」(模型)を、現在開催中の「再開御礼!虎屋文庫の羊羹・YOKAN展」で展示をしております(12/10まで)。ぜひご覧ください。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『妻の行方』隅田書房 1947年(引用は一部現代仮名遣いに変えました) 「虎屋の羊羹」『日本の老舗』第14集 白川書院「日本老舗百店会」事務局 1966年
成島柳北と羊羹
酒肴の羊羹(イメージ) ジャーナリストのさきがけ成島柳北(なるしまりゅうほく・1837~84)は現在ではあまり知られていませんが、明治時代には一流の文化人として名をはせた人物です。本名は惟弘(これひろ)といい、柳北と号しました。名家に生まれ、幕府の要職を歴任しました。しかし、維新後は仕官せず、文筆業に専念。明治7年(1874)に『朝野新聞(ちょうやしんぶん)』を創刊、社主をつとめ、新政府を辛辣に批評して支持を得ました。 旅先の羊羹柳北は、自分ほど「旅好ムヲノコ(男子)ハ世ニ多ク有ラジ」(「浜松風」)と書き残しているほど、旅行が好きでした。各地を旅しては、名物を食べ、土地の名士と交流し、言葉や風俗の違いを面白がって記録しました。散逸してしまった日記も少なくありませんが、明治2年10月中旬から11月下旬にかけて関西~四国を旅した際の日記「航薇日記(こうびにっき)」は活字化されており、明治初期の地方の様子を知ることができます。10月27日、岡山城下でのこと。土地の名物について「この市街に金華糖といふ点心を売る、又大手饅頭白羊羹等の名産あり」とあります。金華(花)糖とは、煮詰めた砂糖を木型などに流し固めた菓子で、雛祭りの祝い菓子を代表として、今も各地で作られています。また、皮に小麦粉と甘酒を使った大手饅頭は同地の銘菓としてよく知られます。面白いのは「白羊羹」です。岡山は白小豆の産地として名高いため(「備中白小豆」)、白餡を使った羊羹か、と思いたくなりますが、柳北は「其色白からず、常のものなり、何故にかく唱ふるやと問ふに、白砂糖にて製せし故なりと云ふ」と記しており、「白砂糖」に由来する「白」羊羹だったようです。11月7日には金刀比羅宮(香川県)近くの宿で、朝から「鯛のちり」を味わいますが、その際、羊羹が酒の肴に出されたと珍しがっています。おせち料理の口取りや、山海のご馳走を一皿に盛り合わせた高知県名物の皿鉢料理に羊羹が入っていることがあるので、同様の趣向でしょうか。不満を述べていないので、甘い羊羹とお酒の相性を案外気に入ったのかもしれません。情報網が未発達だった時代、旅をして郷土色豊かな食文化や未知の味に出会うことは、好奇心旺盛な柳北にとって大いなる楽しみだったことでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「航薇日記」(『柳北全集』博文館 1897年)
成島柳北と羊羹
酒肴の羊羹(イメージ) ジャーナリストのさきがけ成島柳北(なるしまりゅうほく・1837~84)は現在ではあまり知られていませんが、明治時代には一流の文化人として名をはせた人物です。本名は惟弘(これひろ)といい、柳北と号しました。名家に生まれ、幕府の要職を歴任しました。しかし、維新後は仕官せず、文筆業に専念。明治7年(1874)に『朝野新聞(ちょうやしんぶん)』を創刊、社主をつとめ、新政府を辛辣に批評して支持を得ました。 旅先の羊羹柳北は、自分ほど「旅好ムヲノコ(男子)ハ世ニ多ク有ラジ」(「浜松風」)と書き残しているほど、旅行が好きでした。各地を旅しては、名物を食べ、土地の名士と交流し、言葉や風俗の違いを面白がって記録しました。散逸してしまった日記も少なくありませんが、明治2年10月中旬から11月下旬にかけて関西~四国を旅した際の日記「航薇日記(こうびにっき)」は活字化されており、明治初期の地方の様子を知ることができます。10月27日、岡山城下でのこと。土地の名物について「この市街に金華糖といふ点心を売る、又大手饅頭白羊羹等の名産あり」とあります。金華(花)糖とは、煮詰めた砂糖を木型などに流し固めた菓子で、雛祭りの祝い菓子を代表として、今も各地で作られています。また、皮に小麦粉と甘酒を使った大手饅頭は同地の銘菓としてよく知られます。面白いのは「白羊羹」です。岡山は白小豆の産地として名高いため(「備中白小豆」)、白餡を使った羊羹か、と思いたくなりますが、柳北は「其色白からず、常のものなり、何故にかく唱ふるやと問ふに、白砂糖にて製せし故なりと云ふ」と記しており、「白砂糖」に由来する「白」羊羹だったようです。11月7日には金刀比羅宮(香川県)近くの宿で、朝から「鯛のちり」を味わいますが、その際、羊羹が酒の肴に出されたと珍しがっています。おせち料理の口取りや、山海のご馳走を一皿に盛り合わせた高知県名物の皿鉢料理に羊羹が入っていることがあるので、同様の趣向でしょうか。不満を述べていないので、甘い羊羹とお酒の相性を案外気に入ったのかもしれません。情報網が未発達だった時代、旅をして郷土色豊かな食文化や未知の味に出会うことは、好奇心旺盛な柳北にとって大いなる楽しみだったことでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「航薇日記」(『柳北全集』博文館 1897年)
藤原(二条)定高と甘い雪
甘葛をかけたかき氷(再現)平安時代からあったかき氷 かき氷の歴史は古く、清少納言が、甘葛(あまずら・ツタの樹液を煮詰めた高級な甘味料)をかけた削り氷(けずりひ)を味わっていたことが知られます。当時、氷は氷室(ひむろ)に貯えた希少品で、貴族のみが楽しめました。おもしろいことに、冷たいデザートはかき氷に限らなかったよう。時代は下りますが、鎌倉時代の貴族は雪に甘葛をかけて食べていました。なかでも藤原定高(ふじわらのさだたか・1190~1238)はこの甘味に目がなかったとか。鎌倉時代中期の説話集『古今著聞集』にあるエピソードをご紹介しましょう。 雪のプレゼント 「ある年の2月、『新古今和歌集』の撰者で歌人の藤原家隆が同じく歌人の藤原基家の屋敷で、甘葛をかけた雪を勧められました。賞味した家隆は「まだあれば、雪食いの定高に」といい、雪は硯蓋(すずりぶた)に盛られて定高のもとへ。御礼に届いた歌、「心ざし髪の筋ともおぼしけりかしらの雪かいまのこの雪」(頂いた真白な雪はまさに、かしらの雪(白髪)の風情かと思いました)に、2人はとても感心しました。」 年月は不明ですが、原文にはそれぞれの官位が書かれており、生没年や経歴から、家隆は70代後半、基家は30代中頃、定高は40代後半と推測できます。家隆の「雪くい」という言い方は、貴族にしては品がないように思えますが、親子ほど違う年齢差もあって、遠慮がなかったのでしょう。旧暦の2月は新暦でいえば3~4月頃。雪は氷室から取り出したと考えられ、この機会に好物を食べさせてやりたいという、年長者の心遣いもうかがえます。思いがけない贈り物に、定高はさぞかし喜んだのでは? 和歌に感謝の気持ちを表していますが、「志(心ざし)の髪の筋」には、「わずかなものでも心がこもっているなら、それを汲み取ってほしい」という意味があり、家隆の心を読むようなニュアンスも感じられます。雪から家隆の白髪を連想し、「志の髪の筋」に結びつけた機知に、2人は感心したのではないでしょうか。 承久の乱では幕府方に 雪のデザートをほおばるとは、のん気な人物と思いたくなりますが、定高の人生の前半は、穏やかなものではありませんでした。承久2年(1220)、30才ほどで権中納言になるものの、翌年の承久の乱では後鳥羽上皇の挙兵に反対し、鎌倉幕府側につきます。幕府が勝利しますが、かつて仕えた後鳥羽上皇は隠岐に配流。親しくしていた人も亡くし、定高は悲嘆に暮れたことと想像されます。しかし、九条道家に重んじられ、政治の中枢で活躍することに。機転がきく、親しみやすい人柄故、人望も厚く、時代の荒波を乗り切ることができたのではないでしょうか。後鳥羽上皇の皇女を別邸に引き取ったことも彼の誠実さを物語っているようです。 ※二条と号したのは、二条東洞院に屋敷があったためという。ここでは藤原姓に統一した。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『古今著聞集』 日本古典文学大系84 岩波書店 1966年
藤原(二条)定高と甘い雪
甘葛をかけたかき氷(再現)平安時代からあったかき氷 かき氷の歴史は古く、清少納言が、甘葛(あまずら・ツタの樹液を煮詰めた高級な甘味料)をかけた削り氷(けずりひ)を味わっていたことが知られます。当時、氷は氷室(ひむろ)に貯えた希少品で、貴族のみが楽しめました。おもしろいことに、冷たいデザートはかき氷に限らなかったよう。時代は下りますが、鎌倉時代の貴族は雪に甘葛をかけて食べていました。なかでも藤原定高(ふじわらのさだたか・1190~1238)はこの甘味に目がなかったとか。鎌倉時代中期の説話集『古今著聞集』にあるエピソードをご紹介しましょう。 雪のプレゼント 「ある年の2月、『新古今和歌集』の撰者で歌人の藤原家隆が同じく歌人の藤原基家の屋敷で、甘葛をかけた雪を勧められました。賞味した家隆は「まだあれば、雪食いの定高に」といい、雪は硯蓋(すずりぶた)に盛られて定高のもとへ。御礼に届いた歌、「心ざし髪の筋ともおぼしけりかしらの雪かいまのこの雪」(頂いた真白な雪はまさに、かしらの雪(白髪)の風情かと思いました)に、2人はとても感心しました。」 年月は不明ですが、原文にはそれぞれの官位が書かれており、生没年や経歴から、家隆は70代後半、基家は30代中頃、定高は40代後半と推測できます。家隆の「雪くい」という言い方は、貴族にしては品がないように思えますが、親子ほど違う年齢差もあって、遠慮がなかったのでしょう。旧暦の2月は新暦でいえば3~4月頃。雪は氷室から取り出したと考えられ、この機会に好物を食べさせてやりたいという、年長者の心遣いもうかがえます。思いがけない贈り物に、定高はさぞかし喜んだのでは? 和歌に感謝の気持ちを表していますが、「志(心ざし)の髪の筋」には、「わずかなものでも心がこもっているなら、それを汲み取ってほしい」という意味があり、家隆の心を読むようなニュアンスも感じられます。雪から家隆の白髪を連想し、「志の髪の筋」に結びつけた機知に、2人は感心したのではないでしょうか。 承久の乱では幕府方に 雪のデザートをほおばるとは、のん気な人物と思いたくなりますが、定高の人生の前半は、穏やかなものではありませんでした。承久2年(1220)、30才ほどで権中納言になるものの、翌年の承久の乱では後鳥羽上皇の挙兵に反対し、鎌倉幕府側につきます。幕府が勝利しますが、かつて仕えた後鳥羽上皇は隠岐に配流。親しくしていた人も亡くし、定高は悲嘆に暮れたことと想像されます。しかし、九条道家に重んじられ、政治の中枢で活躍することに。機転がきく、親しみやすい人柄故、人望も厚く、時代の荒波を乗り切ることができたのではないでしょうか。後鳥羽上皇の皇女を別邸に引き取ったことも彼の誠実さを物語っているようです。 ※二条と号したのは、二条東洞院に屋敷があったためという。ここでは藤原姓に統一した。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『古今著聞集』 日本古典文学大系84 岩波書店 1966年
立原道造とおみやげの菓子
立原道造筆「お土産物・型録(其ノ一)」(立原道造記念会 宮本則子氏提供)夭折の詩人立原道造(たちはらみちぞう・1914〜39)は、戦前に活躍した詩人です。第一高等学校在学中から小説家の堀辰雄に師事し、その後室生犀星にも教えを乞いました。昭和12年(1937)に東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、石本建築事務所に勤務し、建築家としても将来を嘱望されます。同年には詩集『萱草(わすれぐさ)に寄す』『暁と夕の詩』を立て続けに出版しますが、昭和14年、結核のため24歳という若さで亡くなりました。繊細で、音楽的響きの美しい作品の数々は、没後80年が経った今も愛されています。 手書きの「おみやげもの・カタログ」繊細な作品のイメージから、つい食が細かったのかと思ってしまいますが、意外にも食いしん坊だったようで、彼が書いた手紙にはしばしば菓子が登場します。昭和8年の夏、19歳だった道造は、避暑のため奥多摩の御岳山(みたけさん)に滞在していた際、弟に土産の品を選んでもらおうと「お土産物・型録(其ノ一)」を送っています。竹細工の虚無僧や、松ぼっくりでできた七面鳥などのスケッチと説明が書き添えられており、「万年筆なのとうろおぼえなので、うまくゆきません」としていますが、その細かさには驚かされます。菓子については、柚子羊羹やわらび餅、もみじ餅を候補に挙げていますが、注目したいのは栗羊羹です。2店の菓子屋の名前が書かれ、どちらが美味しいかまで記しています。しかし「勿論大シタコトナシ」とも書いており、なかなか厳しい評価を下しています。同じ頃の手紙には、実家から送ってもらった煎餅があまりおいしくなかったと嘆いたり、母に「ときどき甘いものが食べたくなります。そんなとき 虎屋のやうかん『夜の梅』のことなんかが頭に浮びます、といふのは、あのやうかん屋さんの広告がいつでも新聞に出てゐるせゐです」と綴ったものも残っています。率直な感想からは、無邪気な青年らしい一面が垣間見え、より一層魅力的な人物に感じられるのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『立原道造全集5』筑摩書房 2010年
立原道造とおみやげの菓子
立原道造筆「お土産物・型録(其ノ一)」(立原道造記念会 宮本則子氏提供)夭折の詩人立原道造(たちはらみちぞう・1914〜39)は、戦前に活躍した詩人です。第一高等学校在学中から小説家の堀辰雄に師事し、その後室生犀星にも教えを乞いました。昭和12年(1937)に東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、石本建築事務所に勤務し、建築家としても将来を嘱望されます。同年には詩集『萱草(わすれぐさ)に寄す』『暁と夕の詩』を立て続けに出版しますが、昭和14年、結核のため24歳という若さで亡くなりました。繊細で、音楽的響きの美しい作品の数々は、没後80年が経った今も愛されています。 手書きの「おみやげもの・カタログ」繊細な作品のイメージから、つい食が細かったのかと思ってしまいますが、意外にも食いしん坊だったようで、彼が書いた手紙にはしばしば菓子が登場します。昭和8年の夏、19歳だった道造は、避暑のため奥多摩の御岳山(みたけさん)に滞在していた際、弟に土産の品を選んでもらおうと「お土産物・型録(其ノ一)」を送っています。竹細工の虚無僧や、松ぼっくりでできた七面鳥などのスケッチと説明が書き添えられており、「万年筆なのとうろおぼえなので、うまくゆきません」としていますが、その細かさには驚かされます。菓子については、柚子羊羹やわらび餅、もみじ餅を候補に挙げていますが、注目したいのは栗羊羹です。2店の菓子屋の名前が書かれ、どちらが美味しいかまで記しています。しかし「勿論大シタコトナシ」とも書いており、なかなか厳しい評価を下しています。同じ頃の手紙には、実家から送ってもらった煎餅があまりおいしくなかったと嘆いたり、母に「ときどき甘いものが食べたくなります。そんなとき 虎屋のやうかん『夜の梅』のことなんかが頭に浮びます、といふのは、あのやうかん屋さんの広告がいつでも新聞に出てゐるせゐです」と綴ったものも残っています。率直な感想からは、無邪気な青年らしい一面が垣間見え、より一層魅力的な人物に感じられるのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『立原道造全集5』筑摩書房 2010年
渡辺水巴と葛桜
記憶の中の菓子菓子欲しけれどなし、句に作る幅更へて飛瀑けぶるや葛ざくら 葛桜といえば、葛生地で餡玉を包み、桜の葉を巻いた、夏向きの菓子ですね。この句は、葛の透明感や気泡に、滝水のイメージを重ねたものでしょう。目にも涼しげな葛桜が思い浮かびますが、詠まれたのは終戦後の昭和21年(1946)、「菓子欲しけれどなし」とあるように、満足にものを食べられなかった時代です。思い出の菓子を描いて気を紛らわせたという話なども聞きますが、こちらも同じで、句を作ることで甘いものを食べたい気持ちを慰めたようです。 水巴と妹・つゆ作者は渡辺水巴(わたなべすいは・1882~1946)。日本画家・渡辺省亭(せいてい)の息子として東京浅草に生まれ、19歳で俳句の道に入り、内藤鳴雪(ないとうめいせつ)に師事、次いで高浜虚子(たかはまきょし)の指導を受けました。江戸趣味、瀟洒な作風で知られ、大正5年(1916)には俳誌『曲水』を創刊・主宰しています。生活が苦しくなった際にも他の職に就くことはせず、俳人として生涯を貫いた人物です。 そんな水巴を支え続けたのは、2歳年下の妹・つゆでした。水巴の身の回りの世話は常につゆの仕事であり、それは彼が妻を迎え、子どもが生まれてからも変わりませんでした。 水巴の長女で、のちに同じく俳人となった金井巴津子(かないはつこ)は、叔母つゆとの思い出を語った文章の中で、縁日の帰りに買った葛桜と水羊羹を、つゆが「ギヤマン※にのせ、手でかいた氷をかけて」持ってきてくれたと書いています。水巴は食事に関して、味付けから温度、盛り付けに至るまでうるさかったといいますから、つゆのこの用意も、葛桜や水羊羹には氷が必須という彼のこだわりがあってのことではと想像してしまいます。冒頭の句も、氷がかかったものと思うと、しぶきをあげて落ちる滝のイメージがよりしっくりくるように思えないでしょうか。 つゆは水巴より早く、昭和16年(1941)に亡くなりました。葛桜の句は、手に入らない菓子を思うと同時に、妹と過ごした日々にも思いを馳せて詠んだものかもしれませんね。 ※ガラス製品のこと。ここではガラスの器を指す。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献渡辺水巴『水巴句集』近藤書店 1956年金井巴津子「つゆ女を語る」(『曲水』47巻539号 1963年)
渡辺水巴と葛桜
記憶の中の菓子菓子欲しけれどなし、句に作る幅更へて飛瀑けぶるや葛ざくら 葛桜といえば、葛生地で餡玉を包み、桜の葉を巻いた、夏向きの菓子ですね。この句は、葛の透明感や気泡に、滝水のイメージを重ねたものでしょう。目にも涼しげな葛桜が思い浮かびますが、詠まれたのは終戦後の昭和21年(1946)、「菓子欲しけれどなし」とあるように、満足にものを食べられなかった時代です。思い出の菓子を描いて気を紛らわせたという話なども聞きますが、こちらも同じで、句を作ることで甘いものを食べたい気持ちを慰めたようです。 水巴と妹・つゆ作者は渡辺水巴(わたなべすいは・1882~1946)。日本画家・渡辺省亭(せいてい)の息子として東京浅草に生まれ、19歳で俳句の道に入り、内藤鳴雪(ないとうめいせつ)に師事、次いで高浜虚子(たかはまきょし)の指導を受けました。江戸趣味、瀟洒な作風で知られ、大正5年(1916)には俳誌『曲水』を創刊・主宰しています。生活が苦しくなった際にも他の職に就くことはせず、俳人として生涯を貫いた人物です。 そんな水巴を支え続けたのは、2歳年下の妹・つゆでした。水巴の身の回りの世話は常につゆの仕事であり、それは彼が妻を迎え、子どもが生まれてからも変わりませんでした。 水巴の長女で、のちに同じく俳人となった金井巴津子(かないはつこ)は、叔母つゆとの思い出を語った文章の中で、縁日の帰りに買った葛桜と水羊羹を、つゆが「ギヤマン※にのせ、手でかいた氷をかけて」持ってきてくれたと書いています。水巴は食事に関して、味付けから温度、盛り付けに至るまでうるさかったといいますから、つゆのこの用意も、葛桜や水羊羹には氷が必須という彼のこだわりがあってのことではと想像してしまいます。冒頭の句も、氷がかかったものと思うと、しぶきをあげて落ちる滝のイメージがよりしっくりくるように思えないでしょうか。 つゆは水巴より早く、昭和16年(1941)に亡くなりました。葛桜の句は、手に入らない菓子を思うと同時に、妹と過ごした日々にも思いを馳せて詠んだものかもしれませんね。 ※ガラス製品のこと。ここではガラスの器を指す。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献渡辺水巴『水巴句集』近藤書店 1956年金井巴津子「つゆ女を語る」(『曲水』47巻539号 1963年)
片桐石州と山椒餅
茶人 石州片桐貞昌(かたぎりさだまさ・1605~73)は、大和国小泉藩、現在の奈良県法隆寺付近の地域を治めた大名で、茶道の石州(せきしゅう)流の開祖として知られています。江戸在府中、愛宕下の藩邸がご近所だったからでしょう、茶道を千道安(千利休の長男)の弟子であった旗本桑山左近(宗仙)から学びました。茶名を「宗関」と名乗るようになりますが、官位が石見守(いわみのかみ)であったことから、石州の名で広く知られるようになります。 3代将軍徳川家光、4代将軍家綱より茶道具の鑑定、茶会、献茶など、指南役として茶道に関わる相談を受けるようになってからは、将軍にならい石州流を習う大名が一気に増えていきます。今まで取り上げてきた松平治郷(不昧)、酒井忠以(宗雅)、井伊直弼(宗観)も石州流を学んだ大名茶人です。 お気に入りの山椒餅彼の茶会記を写したものを見ていると、菓子の項に「山水川」「柚水山」など、下記のような表記を複数箇所で目にします。 菓銘かと思いきや茶会記を丹念に調べてみると、「山」は「山椒餅」、「水」は「水栗※1」、「川」は「川茸※2」、「柚」は「ゆべし」とそれぞれ略表記であることが分かりました。筆写した人は余りに同じ組み合わせの菓子が多いので、煩わしくなって省略したのでしょうか。 「山椒餅」は寛文3年(1663)から4年にかけて、実に40回近く使われています。石州はこの菓子をよほど気に入ったのでしょう。『合類日用料理抄』(1689)の記述をもとに、作り方を類推してみると、もち米の粉に砂糖、山椒の粉を混ぜ、水を加えて練り、さらに味噌を溶かして混ぜて、蒸籠で蒸して、臼で搗いて、適当な大きさにのばして切ったものと思われます。虎屋の「御菓子之畫圖」(1707)には、山椒餅、うるち米の粉、白砂糖、味噌、山椒の粉と記載されています。 刺激的な香り、舌にぴりっとくる味わいはお茶に馴染まないのでは、と疑問を持たれるかも知れませんが、会記の流れを見ると、この菓子を食べて、食事の後の口の中をさっぱりさせたあと、一旦、茶室を出て、休憩。蹲(つくばい)で口をすすぎ、書院の別席に移り、お茶をいただいたと考えられます。 食後の菓子としての山椒の風味は、石州をはじめ、当時の人たちの好みに合ったのでしょう。 ※1 「水栗」とは栗を剥いて、巴などの形に細工し、水につけたもの。現在も遠州流ではこの「水栗」を青磁の鉢などに盛って、食後にすすめるのが正式な出し方。井伊直弼の茶書『茶湯一会集』には、水栗は毒消しの意があると記されています。 ※2 「川茸」は香茸(こうたけ)というキノコ、あるいは川に自生する藻の一種で、刺身のつまにも使われている水前寺海苔だという説もあります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献町田宗心『片桐石州の生涯』光村推古書院 2005年 山本麻渓、木全宗儀 編『古今茶湯集』慶文堂書店 1917年 『茶の湯文化学』9号 資料 片桐石州自会記 翻刻 八尾嘉男 2004年
片桐石州と山椒餅
茶人 石州片桐貞昌(かたぎりさだまさ・1605~73)は、大和国小泉藩、現在の奈良県法隆寺付近の地域を治めた大名で、茶道の石州(せきしゅう)流の開祖として知られています。江戸在府中、愛宕下の藩邸がご近所だったからでしょう、茶道を千道安(千利休の長男)の弟子であった旗本桑山左近(宗仙)から学びました。茶名を「宗関」と名乗るようになりますが、官位が石見守(いわみのかみ)であったことから、石州の名で広く知られるようになります。 3代将軍徳川家光、4代将軍家綱より茶道具の鑑定、茶会、献茶など、指南役として茶道に関わる相談を受けるようになってからは、将軍にならい石州流を習う大名が一気に増えていきます。今まで取り上げてきた松平治郷(不昧)、酒井忠以(宗雅)、井伊直弼(宗観)も石州流を学んだ大名茶人です。 お気に入りの山椒餅彼の茶会記を写したものを見ていると、菓子の項に「山水川」「柚水山」など、下記のような表記を複数箇所で目にします。 菓銘かと思いきや茶会記を丹念に調べてみると、「山」は「山椒餅」、「水」は「水栗※1」、「川」は「川茸※2」、「柚」は「ゆべし」とそれぞれ略表記であることが分かりました。筆写した人は余りに同じ組み合わせの菓子が多いので、煩わしくなって省略したのでしょうか。 「山椒餅」は寛文3年(1663)から4年にかけて、実に40回近く使われています。石州はこの菓子をよほど気に入ったのでしょう。『合類日用料理抄』(1689)の記述をもとに、作り方を類推してみると、もち米の粉に砂糖、山椒の粉を混ぜ、水を加えて練り、さらに味噌を溶かして混ぜて、蒸籠で蒸して、臼で搗いて、適当な大きさにのばして切ったものと思われます。虎屋の「御菓子之畫圖」(1707)には、山椒餅、うるち米の粉、白砂糖、味噌、山椒の粉と記載されています。 刺激的な香り、舌にぴりっとくる味わいはお茶に馴染まないのでは、と疑問を持たれるかも知れませんが、会記の流れを見ると、この菓子を食べて、食事の後の口の中をさっぱりさせたあと、一旦、茶室を出て、休憩。蹲(つくばい)で口をすすぎ、書院の別席に移り、お茶をいただいたと考えられます。 食後の菓子としての山椒の風味は、石州をはじめ、当時の人たちの好みに合ったのでしょう。 ※1 「水栗」とは栗を剥いて、巴などの形に細工し、水につけたもの。現在も遠州流ではこの「水栗」を青磁の鉢などに盛って、食後にすすめるのが正式な出し方。井伊直弼の茶書『茶湯一会集』には、水栗は毒消しの意があると記されています。 ※2 「川茸」は香茸(こうたけ)というキノコ、あるいは川に自生する藻の一種で、刺身のつまにも使われている水前寺海苔だという説もあります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献町田宗心『片桐石州の生涯』光村推古書院 2005年 山本麻渓、木全宗儀 編『古今茶湯集』慶文堂書店 1917年 『茶の湯文化学』9号 資料 片桐石州自会記 翻刻 八尾嘉男 2004年