虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
新美南吉と羊羹
参考:とらやの栗蒸羊羹教科書でもおなじみの童話作家『ごんぎつね』『手袋を買いに』など、動物と自然に寄り添った美しい作品で知られる童話作家の新美南吉(にいみなんきち・1913~43)。現在の愛知県半田市に生まれ、結核のため、わずか29歳で亡くなりましたが、彼の作品は時代を超えて人々に愛されてきました。 「私の一番すきな物」南吉の小学校3~4年生のときの綴り方(作文)帳が残っています。「私の一番すきな物」と題し、1~42まで番号を振って食べ物の名前を書き連ねているのですが、5に羊羹、9饅頭、28煉羊羹、29水羊羹、33あんまき、34西洋菓子、36お茶菓子ほか、甘いものがさまざま見えます。煉羊羹、水羊羹が別にあるので、5の羊羹は蒸羊羹のことでしょう。先生からのコメントでしょうか、欄外には「すきな物がずいぶん多いね」と書かれていて、好物をあれこれと思い浮かべながらせっせと鉛筆を走らせる南吉少年の姿が目に浮かび、ほほえましくなります。ちなみに、同じ帳面の少し後ろにも「私の一ばんすきな物」と題して「すいくわ(西瓜) まんじゆう ようかん」とあるので、これがベスト3なのかもしれません。こうして見ると、羊羹はとくに思い入れのある菓子だったようです。 菓子を買って帰る 南吉は東京外国語学校(現・東京外国語大学)を優秀な成績で卒業したものの、体を悪くして郷里に戻り、昭和12年(1937)秋から地元の飼料会社で働くことになりました。慣れない仕事や寄宿舎での集団生活ということもあって、当時の日記には日々の不満や将来の不安などが目立ちますが、菓子に関する楽しそうな一コマも。12月11日、実家に立ち寄って「甘いものがあつたら」と言うと、大きな葬式饅頭とおこしを持たせてくれたとあります。また、14日のこととして、今住んでいる成岩町(半田市)は「菓子屋の多い古い町」で、昨日は蒸羊羹1本と外郎(ういろう)を2つ、今日は「少し大きな近代的な店」で栗羊羹2本と1つ1銭のカステラを10買ったと記しています。一人分のおやつとしてはかなりの量で、甘党の日常が垣間見えます。「菓子をポケツトに入れて帰る楽しさは子供の時から大して変らない楽しさである」と結んでおり、南吉は単に菓子を食べることが好きなだけなく、いつ食べようか、お茶はどうしようか、と思いを巡らせる、家までの時間をも大切にするような、根っからの菓子好きだったといえるでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『新美南吉全集』10,11 大日本図書 1983年
新美南吉と羊羹
参考:とらやの栗蒸羊羹教科書でもおなじみの童話作家『ごんぎつね』『手袋を買いに』など、動物と自然に寄り添った美しい作品で知られる童話作家の新美南吉(にいみなんきち・1913~43)。現在の愛知県半田市に生まれ、結核のため、わずか29歳で亡くなりましたが、彼の作品は時代を超えて人々に愛されてきました。 「私の一番すきな物」南吉の小学校3~4年生のときの綴り方(作文)帳が残っています。「私の一番すきな物」と題し、1~42まで番号を振って食べ物の名前を書き連ねているのですが、5に羊羹、9饅頭、28煉羊羹、29水羊羹、33あんまき、34西洋菓子、36お茶菓子ほか、甘いものがさまざま見えます。煉羊羹、水羊羹が別にあるので、5の羊羹は蒸羊羹のことでしょう。先生からのコメントでしょうか、欄外には「すきな物がずいぶん多いね」と書かれていて、好物をあれこれと思い浮かべながらせっせと鉛筆を走らせる南吉少年の姿が目に浮かび、ほほえましくなります。ちなみに、同じ帳面の少し後ろにも「私の一ばんすきな物」と題して「すいくわ(西瓜) まんじゆう ようかん」とあるので、これがベスト3なのかもしれません。こうして見ると、羊羹はとくに思い入れのある菓子だったようです。 菓子を買って帰る 南吉は東京外国語学校(現・東京外国語大学)を優秀な成績で卒業したものの、体を悪くして郷里に戻り、昭和12年(1937)秋から地元の飼料会社で働くことになりました。慣れない仕事や寄宿舎での集団生活ということもあって、当時の日記には日々の不満や将来の不安などが目立ちますが、菓子に関する楽しそうな一コマも。12月11日、実家に立ち寄って「甘いものがあつたら」と言うと、大きな葬式饅頭とおこしを持たせてくれたとあります。また、14日のこととして、今住んでいる成岩町(半田市)は「菓子屋の多い古い町」で、昨日は蒸羊羹1本と外郎(ういろう)を2つ、今日は「少し大きな近代的な店」で栗羊羹2本と1つ1銭のカステラを10買ったと記しています。一人分のおやつとしてはかなりの量で、甘党の日常が垣間見えます。「菓子をポケツトに入れて帰る楽しさは子供の時から大して変らない楽しさである」と結んでおり、南吉は単に菓子を食べることが好きなだけなく、いつ食べようか、お茶はどうしようか、と思いを巡らせる、家までの時間をも大切にするような、根っからの菓子好きだったといえるでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『新美南吉全集』10,11 大日本図書 1983年
円地文子とかき氷
参考:東京風のかき氷古典の教養豊かな作家円地文子(えんちふみこ・1905~86)は、国語学者、上田万年(うえだかずとし)の次女として浅草に生まれ、幼少期から古典に親しみました。劇作家からのちに小説家に転じ、『ひもじい月日』『女坂』など、女性の心理を巧みに描いた作品が評価され、作家としての地位を確立。また、『源氏物語』の現代語訳にも尽力し、昭和60年(1985)には文化勲章を受章しました。文豪・谷崎潤一郎と親交が深く、谷崎潤一郎賞では初回から選考委員を務めたことでも知られています。 この上ない満足彼女が昭和39年に発表したエッセイの中で好きなものとしてあげたのが、氷です。幼い頃、ガラスの細い管のちゃらちゃら鳴る暖簾を下げた氷屋が、苺、レモン、あずき、汁粉など色々な氷水(かき氷)を商っており、そこで口にしたのが最初とのこと。一時は胃腸に悪いかと思いやめていたが、電気冷蔵庫で好きな時に氷を食べられるようになり、ここ数年で再びファンになったそうです。すでに60歳を目前にしていた文子ですが、「氷のなめらかに清澄で見る間に形の変って行く視覚的な美しさと、口にふくんだ時の冷たさの快感は形容できないほどたのしい」「ソーダ水やシロップの水にふんだんに氷を入れて食べることにこの上ない満足を感じている」と綴っています。幼少期、限られた機会にしか口にすることができなかった氷を、自由に食べられるようになった嬉しさや、食べる際のわくわくする気持ちが伝わってきますね。実は、かき氷には東西で違いがありました。現在よく見る、氷の上にシロップをかけるのは関西風で、文子が食べたように、シロップの上に氷をのせるのは東京風といわれます。浅草生まれの彼女にとって、江戸っ子の氷といえばこちらだったのでしょう。文子のように東京風にして、氷の見た目の美しさや食感を意識しながら食べてみると、いつもとは違った魅力を感じられるかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「氷」(『円地文子全集』第15巻 新潮社 1978年)
円地文子とかき氷
参考:東京風のかき氷古典の教養豊かな作家円地文子(えんちふみこ・1905~86)は、国語学者、上田万年(うえだかずとし)の次女として浅草に生まれ、幼少期から古典に親しみました。劇作家からのちに小説家に転じ、『ひもじい月日』『女坂』など、女性の心理を巧みに描いた作品が評価され、作家としての地位を確立。また、『源氏物語』の現代語訳にも尽力し、昭和60年(1985)には文化勲章を受章しました。文豪・谷崎潤一郎と親交が深く、谷崎潤一郎賞では初回から選考委員を務めたことでも知られています。 この上ない満足彼女が昭和39年に発表したエッセイの中で好きなものとしてあげたのが、氷です。幼い頃、ガラスの細い管のちゃらちゃら鳴る暖簾を下げた氷屋が、苺、レモン、あずき、汁粉など色々な氷水(かき氷)を商っており、そこで口にしたのが最初とのこと。一時は胃腸に悪いかと思いやめていたが、電気冷蔵庫で好きな時に氷を食べられるようになり、ここ数年で再びファンになったそうです。すでに60歳を目前にしていた文子ですが、「氷のなめらかに清澄で見る間に形の変って行く視覚的な美しさと、口にふくんだ時の冷たさの快感は形容できないほどたのしい」「ソーダ水やシロップの水にふんだんに氷を入れて食べることにこの上ない満足を感じている」と綴っています。幼少期、限られた機会にしか口にすることができなかった氷を、自由に食べられるようになった嬉しさや、食べる際のわくわくする気持ちが伝わってきますね。実は、かき氷には東西で違いがありました。現在よく見る、氷の上にシロップをかけるのは関西風で、文子が食べたように、シロップの上に氷をのせるのは東京風といわれます。浅草生まれの彼女にとって、江戸っ子の氷といえばこちらだったのでしょう。文子のように東京風にして、氷の見た目の美しさや食感を意識しながら食べてみると、いつもとは違った魅力を感じられるかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「氷」(『円地文子全集』第15巻 新潮社 1978年)
徳川治宝と豪華な落雁
注目の藩主松江藩主松平治郷(不昧)を代表に、茶の湯をたしなみ、和菓子文化の発展に貢献した藩主は数多く存在します。その一人として、今回は紀州藩主徳川治宝(とくがわはるとみ・1771~1852)に注目しましょう。治宝は19才で10代目の藩主に就任。学習館や医学館などの藩校を建て、文化事業や藩政改革に力を注ぎましたが、趣味人としても知られ、表千家の家元9代了々斎より茶道を学び、作陶に励んだり、比類なき落雁の数々を創作したりしました。 美を尽くした落雁の数々治宝が本格的に落雁に関心をもつのは、文政7年(1824)に藩主を退き、西浜御殿に移ってからのようです。「西濱様御好」、つまり治宝のお好みであったことを示す木型が、御用をつとめた総本家駿河屋に60点以上伝えられます。西浜御殿は、文化人が交流するサロンのような場でもあったので、菓子を披露する機会は少なくなかったことでしょう。 なかでも圧巻は紀州の名所、和歌の浦を絵画的に表したものです。3枚の木型によってできるこの落雁は、縦30×横40㎝もの大形。海岸沿いの松原や飛翔する鶴など、細部まで表現されていて、その美しさに圧倒されます。 ほかにも紀伊国の名所八景を題材にした和装本仕立ての「紀八景」(きはっけい)、上品な白菊をかたどった「吹上糕」(ふきあげこう)や見事な大海老を表した「老の寿」(おいのことぶき)など、いろいろな意匠があります。治宝は木型を美術工芸品としてとらえ、自分の美意識にかなった菓子を作らせることに無上の喜びを感じていたのでしょう。 このほか、筆・硯をかたどった中国趣味の漂う「管城糕」(かんじょうこう)と「端渓糕」(たんけいこう)の木型は、天保8年(1837)に尾張徳川家より贈られた菓子をもとに作られたと伝わるもの。両家では菓子を通じての交流があり、尾張藩の御用をつとめた両口屋是清には、駿河屋の木型の意匠に共通するものが所蔵されています。 深まる調査研究駿河屋の木型には11代斉順(なりゆき)好みも含まれており、落雁の絵を含む絵手本(見本帳)11冊とあわせ、現在、和歌山市立博物館の所蔵となっています。制作年代、意匠、尾張家との交流など、様々な視点から調査研究が発表されていますので、興味をもたれた方はぜひ、参考文献にあげた虎屋文庫の機関誌『和菓子』の論考や、木型関係の図録をご覧くださいませ。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献猪原千恵「江戸時代後期の菓子木型から見た大名家の交流‐尾張藩御用と紀州藩御用の菓子木型を中心に」『和菓子』第24号、2017年 砂川佳子「紀州藩主徳川治宝と京都の菓子」『和菓子』第25号、2018年 山下奈津子「紀州徳川家御用菓子商・駿河屋伝来の絵手本について」『和菓子』第27号 、2020年 *虎屋文庫著『和菓子を愛した人たち』山川出版社、2017年に「和歌の浦」「紀八景」「管城糕」「端渓糕」の画像が掲載されています。
徳川治宝と豪華な落雁
注目の藩主松江藩主松平治郷(不昧)を代表に、茶の湯をたしなみ、和菓子文化の発展に貢献した藩主は数多く存在します。その一人として、今回は紀州藩主徳川治宝(とくがわはるとみ・1771~1852)に注目しましょう。治宝は19才で10代目の藩主に就任。学習館や医学館などの藩校を建て、文化事業や藩政改革に力を注ぎましたが、趣味人としても知られ、表千家の家元9代了々斎より茶道を学び、作陶に励んだり、比類なき落雁の数々を創作したりしました。 美を尽くした落雁の数々治宝が本格的に落雁に関心をもつのは、文政7年(1824)に藩主を退き、西浜御殿に移ってからのようです。「西濱様御好」、つまり治宝のお好みであったことを示す木型が、御用をつとめた総本家駿河屋に60点以上伝えられます。西浜御殿は、文化人が交流するサロンのような場でもあったので、菓子を披露する機会は少なくなかったことでしょう。 なかでも圧巻は紀州の名所、和歌の浦を絵画的に表したものです。3枚の木型によってできるこの落雁は、縦30×横40㎝もの大形。海岸沿いの松原や飛翔する鶴など、細部まで表現されていて、その美しさに圧倒されます。 ほかにも紀伊国の名所八景を題材にした和装本仕立ての「紀八景」(きはっけい)、上品な白菊をかたどった「吹上糕」(ふきあげこう)や見事な大海老を表した「老の寿」(おいのことぶき)など、いろいろな意匠があります。治宝は木型を美術工芸品としてとらえ、自分の美意識にかなった菓子を作らせることに無上の喜びを感じていたのでしょう。 このほか、筆・硯をかたどった中国趣味の漂う「管城糕」(かんじょうこう)と「端渓糕」(たんけいこう)の木型は、天保8年(1837)に尾張徳川家より贈られた菓子をもとに作られたと伝わるもの。両家では菓子を通じての交流があり、尾張藩の御用をつとめた両口屋是清には、駿河屋の木型の意匠に共通するものが所蔵されています。 深まる調査研究駿河屋の木型には11代斉順(なりゆき)好みも含まれており、落雁の絵を含む絵手本(見本帳)11冊とあわせ、現在、和歌山市立博物館の所蔵となっています。制作年代、意匠、尾張家との交流など、様々な視点から調査研究が発表されていますので、興味をもたれた方はぜひ、参考文献にあげた虎屋文庫の機関誌『和菓子』の論考や、木型関係の図録をご覧くださいませ。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献猪原千恵「江戸時代後期の菓子木型から見た大名家の交流‐尾張藩御用と紀州藩御用の菓子木型を中心に」『和菓子』第24号、2017年 砂川佳子「紀州藩主徳川治宝と京都の菓子」『和菓子』第25号、2018年 山下奈津子「紀州徳川家御用菓子商・駿河屋伝来の絵手本について」『和菓子』第27号 、2020年 *虎屋文庫著『和菓子を愛した人たち』山川出版社、2017年に「和歌の浦」「紀八景」「管城糕」「端渓糕」の画像が掲載されています。
徳田秋声と故郷の菓子
写真提供:石川県観光連盟自然主義文学の大家徳田秋声(とくだしゅうせい・1871~1943)は、明治4年、金沢生まれの作家です。小説で身を立てたいと20歳で上京し、紆余曲折を経て24歳で尾崎紅葉門下に入ります。名前が売れたのは30歳近くなってからのことですが、以降「黴」「あらくれ」「縮図」ほか、庶民の生活を写実的に描いた様々な作品を発表し、自然主義文学の大家といわれるまでになりました。 郷里金沢への思い泉鏡花・室生犀星とともに金沢の三文豪にも数えられる秋声ですが、零落した士族の家に生まれ、幼少期は生活が貧しかったこともあり、故郷は必ずしもよい思い出と結びつくものではありませんでした。「郷里を愛する心に乏しかつた」(「田舎の春-金沢の風土―」)と自ら書いていますが、そんな心境にあっても、金沢の料理や菓子に対しては愛着があったようで、 金沢は、田舎としては、東京を措いたらあんなにいい菓子の出来るところはあるまい。夏は夏の菓子、春は春の菓子、といふ風に、季節々々に菓子が変つて、冬には秋の菓子はないといふやうな、菓子には非常に贅つたところだ。(「現代十作家の生活振り」) と素直に褒めています。具体的な菓子の名前はなく残念ですが、季節感という和菓子の重要な要素を捉えた文章です。ここでは東京にも一目置いているように読めますが、10年ほど後の「思い出るまゝ」では、地元や一時期住んでいた大阪などと比べて、東京の料理は手をかけず味が乏しいと語り、「菓子なども東京の人は砂糖を其の儘、色んな形に小細工して食べさせる」と続けています。形はきれいでも味はいま一つ、甘いだけ、というような書きぶりです。先の「東京を措いたら」が謙遜だったのか、はたまた10年で印象が変化したものかはわかりませんが、金沢といえば茶の湯が盛んで、現在でも、落雁などをはじめとする繊細な味わいの菓子が多い土地なので、東京では何かもの足りなさを感じることもあったのかもしれません。季節にあった菓子を楽しむ心や、菓子の味わいを語る文章に、菓子処・金沢で育った人間だという誇りが、自然とにじみ出ているように思われます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献菊池寛記念館コレクション展「寛のグルメ~新収蔵原稿「蠣フライ」を中心に~」館内配布資料PDFhttp://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kurashi/kosodate/bunka/kikuchikan/collection.files/kansgourmetdata.pdf「現代十作家の生活振り」(『文章倶楽部』大正14年1月号、新潮社)徳田秋声「田舎の春-金沢の風土―」(『石川近代文学全集2 徳田秋声』石川近代文学館 1991年)徳田秋声『思い出るまゝ』文学社 1936年
徳田秋声と故郷の菓子
写真提供:石川県観光連盟自然主義文学の大家徳田秋声(とくだしゅうせい・1871~1943)は、明治4年、金沢生まれの作家です。小説で身を立てたいと20歳で上京し、紆余曲折を経て24歳で尾崎紅葉門下に入ります。名前が売れたのは30歳近くなってからのことですが、以降「黴」「あらくれ」「縮図」ほか、庶民の生活を写実的に描いた様々な作品を発表し、自然主義文学の大家といわれるまでになりました。 郷里金沢への思い泉鏡花・室生犀星とともに金沢の三文豪にも数えられる秋声ですが、零落した士族の家に生まれ、幼少期は生活が貧しかったこともあり、故郷は必ずしもよい思い出と結びつくものではありませんでした。「郷里を愛する心に乏しかつた」(「田舎の春-金沢の風土―」)と自ら書いていますが、そんな心境にあっても、金沢の料理や菓子に対しては愛着があったようで、 金沢は、田舎としては、東京を措いたらあんなにいい菓子の出来るところはあるまい。夏は夏の菓子、春は春の菓子、といふ風に、季節々々に菓子が変つて、冬には秋の菓子はないといふやうな、菓子には非常に贅つたところだ。(「現代十作家の生活振り」) と素直に褒めています。具体的な菓子の名前はなく残念ですが、季節感という和菓子の重要な要素を捉えた文章です。ここでは東京にも一目置いているように読めますが、10年ほど後の「思い出るまゝ」では、地元や一時期住んでいた大阪などと比べて、東京の料理は手をかけず味が乏しいと語り、「菓子なども東京の人は砂糖を其の儘、色んな形に小細工して食べさせる」と続けています。形はきれいでも味はいま一つ、甘いだけ、というような書きぶりです。先の「東京を措いたら」が謙遜だったのか、はたまた10年で印象が変化したものかはわかりませんが、金沢といえば茶の湯が盛んで、現在でも、落雁などをはじめとする繊細な味わいの菓子が多い土地なので、東京では何かもの足りなさを感じることもあったのかもしれません。季節にあった菓子を楽しむ心や、菓子の味わいを語る文章に、菓子処・金沢で育った人間だという誇りが、自然とにじみ出ているように思われます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献菊池寛記念館コレクション展「寛のグルメ~新収蔵原稿「蠣フライ」を中心に~」館内配布資料PDFhttp://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kurashi/kosodate/bunka/kikuchikan/collection.files/kansgourmetdata.pdf「現代十作家の生活振り」(『文章倶楽部』大正14年1月号、新潮社)徳田秋声「田舎の春-金沢の風土―」(『石川近代文学全集2 徳田秋声』石川近代文学館 1991年)徳田秋声『思い出るまゝ』文学社 1936年
藤村庸軒と茶席の菓子
参考:菓子 サハリの鉢 つまみ羊羹十ヲ入 元禄2年(1689)11月16日昼「反古庵茶之湯留書」より再現 茶人 藤村庸軒藤村庸軒(ふじむらようけん・1613~99)は、千利休の孫、千宗旦(せんそうたん)に師事した、宗旦四天王※1の1人に数えられる茶人です。久田家に生まれ、兄宗利の嫁は宗旦の娘にあたります。のちに京都の呉服商(屋号:十二屋)藤村家の養子となりました。藤村家は伊勢の大名、藤堂家の御用商人でした。茶は初め武野紹鷗(たけのじょうおう)の弟子であった藪内紹智(やぶのうちじょうち)に学びますが、そののち小堀遠州との茶の交流も深められ、幅広い茶を学んだ末に、宗旦を師と仰ぎました。 懐石の後の菓子懐石の後の菓子に関して、庸軒の茶会記をみていると興味深い記述に目がとまりました。現在もそうですが、懐石が終わると、亭主は縁高折、食籠、鉢などに菓子を人数分、例えば3人なら3個(ご亭主により多めにご用意される方もいらっしゃいますが)入れて運び出し、正客より菓子を順に取りまわします。しかし、彼の記述には、3人の客に対してサハリ※2の鉢に「あんもち九ツ入」、あるいは「つまみ羊羹十ヲ入」。4人の客に対しては、「あん餅焼て十三入」など多くの数が表記されています。人数、菓子の数から考えると、一人当たり3個ということでしょうか。 伝来の菓子器を見ると、現在のものとさほど大きさは変わらず、直径30cm未満のものが主です。サハリの器ともなれば、直径20cm未満の小さなものも見られます。器の大きさから考えると、実はこの時の菓子は、1個10g~20gくらいの小さなものだったのではないかと想像します。菓子の大きさは、その時の菓子器に合わせて、亭主の趣向で、自在に決め、客は客で自分の気分で、1個食べて、2個は懐紙に包んで持ち帰るなど、臨機応変だったのではないでしょうか。 参考:虎屋の『撮羊羹(つまみようかん)』 「数物御菓子見本帖」(1918)より 参考:茶釜の摘(つまみ) 今回、庸軒の茶会記から、他の茶会記や虎屋の江戸時代の記録、大正の見本帳にも載っている「つまみ羊羹」を実際に試作し、食べてみて思ったことがあります。この菓子、今までは茶巾で絞って摘み上げた形状がその由来と考えていましたが、釜の蓋の「つまみ」、あるいはちょっと軽く食べる意の「つまむ」が本来の由来ではないかと。 ※1 宗旦四天王とは宗旦の有力な弟子たち、山田宗偏、杉木普斎、藤村庸軒と、久須美疎安、または三宅亡羊や松尾宗二という説も。 ※2 サハリとは銅に錫、鉛を加えた合金。砂張、佐波理とも書く。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献樋口家編『庸軒の茶 -茶書茶会記- 』河原書店 1998年 谷端 昭夫『現代語でさらりと読む茶の古典 -茶話指月集 江岑夏書-』淡交社 2011年
藤村庸軒と茶席の菓子
参考:菓子 サハリの鉢 つまみ羊羹十ヲ入 元禄2年(1689)11月16日昼「反古庵茶之湯留書」より再現 茶人 藤村庸軒藤村庸軒(ふじむらようけん・1613~99)は、千利休の孫、千宗旦(せんそうたん)に師事した、宗旦四天王※1の1人に数えられる茶人です。久田家に生まれ、兄宗利の嫁は宗旦の娘にあたります。のちに京都の呉服商(屋号:十二屋)藤村家の養子となりました。藤村家は伊勢の大名、藤堂家の御用商人でした。茶は初め武野紹鷗(たけのじょうおう)の弟子であった藪内紹智(やぶのうちじょうち)に学びますが、そののち小堀遠州との茶の交流も深められ、幅広い茶を学んだ末に、宗旦を師と仰ぎました。 懐石の後の菓子懐石の後の菓子に関して、庸軒の茶会記をみていると興味深い記述に目がとまりました。現在もそうですが、懐石が終わると、亭主は縁高折、食籠、鉢などに菓子を人数分、例えば3人なら3個(ご亭主により多めにご用意される方もいらっしゃいますが)入れて運び出し、正客より菓子を順に取りまわします。しかし、彼の記述には、3人の客に対してサハリ※2の鉢に「あんもち九ツ入」、あるいは「つまみ羊羹十ヲ入」。4人の客に対しては、「あん餅焼て十三入」など多くの数が表記されています。人数、菓子の数から考えると、一人当たり3個ということでしょうか。 伝来の菓子器を見ると、現在のものとさほど大きさは変わらず、直径30cm未満のものが主です。サハリの器ともなれば、直径20cm未満の小さなものも見られます。器の大きさから考えると、実はこの時の菓子は、1個10g~20gくらいの小さなものだったのではないかと想像します。菓子の大きさは、その時の菓子器に合わせて、亭主の趣向で、自在に決め、客は客で自分の気分で、1個食べて、2個は懐紙に包んで持ち帰るなど、臨機応変だったのではないでしょうか。 参考:虎屋の『撮羊羹(つまみようかん)』 「数物御菓子見本帖」(1918)より 参考:茶釜の摘(つまみ) 今回、庸軒の茶会記から、他の茶会記や虎屋の江戸時代の記録、大正の見本帳にも載っている「つまみ羊羹」を実際に試作し、食べてみて思ったことがあります。この菓子、今までは茶巾で絞って摘み上げた形状がその由来と考えていましたが、釜の蓋の「つまみ」、あるいはちょっと軽く食べる意の「つまむ」が本来の由来ではないかと。 ※1 宗旦四天王とは宗旦の有力な弟子たち、山田宗偏、杉木普斎、藤村庸軒と、久須美疎安、または三宅亡羊や松尾宗二という説も。 ※2 サハリとは銅に錫、鉛を加えた合金。砂張、佐波理とも書く。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献樋口家編『庸軒の茶 -茶書茶会記- 』河原書店 1998年 谷端 昭夫『現代語でさらりと読む茶の古典 -茶話指月集 江岑夏書-』淡交社 2011年
三代目尾上菊五郎と菊の餅
「松の隠居」屋敷の菊五郎(右)。座敷の奥には盆栽が並べられている。国立国会図書館蔵絶世の美男役者江戸時代後期の歌舞伎役者として、七代目市川団十郎・五代目岩井半四郎・五代目松本幸四郎と並び人気を集めた三代目尾上菊五郎(おのえきくごろう・1784~1849・俳名梅幸、のちに梅寿)。江戸の建具屋の子として生まれましたが、尾上松緑の養子となって舞台を踏み、文化12年(1815)菊五郎を襲名しました。美男で知られ、万能の役者と言われた菊五郎は、植木屋松五郎を名乗るほどの大の植物好き。向島(墨田区)の「松の隠居」という植木屋を買取って別荘とし、自らも同名で植木屋の商売もしていたようです。そんな菊五郎はあろうことか、64歳だった弘化4年(1847)、突然引退して「菊屋万平」として餅屋をはじめたのです。 菊と梅の菓子猿若町三丁目にあった菊屋で商った餅菓子の名前として伝わるのは、菊の葉餅・菊柏餅・室の梅・紅梅しんこ・初音饅頭・宿の梅。「菊の葉餅」は、葛餅を二枚の菊の葉で挟んだものと伝わります。「室の梅」とは室(むろ・温室)に入れて早く咲かせた梅のこと。携帯型の室と一緒に描かれた錦絵が何枚も残る、菊五郎らしい菓銘です。「紅梅しんこ」は梅をかたどった新粉餅(団子)でしょうか、初音はもちろん、梅に付き物の鶯を意味します。このほか菊寿餅や菊の草餅という記録もあり、主人の名前にちなんだ、菊と梅にゆかりの菓銘ばかりですね。当時の引き札(チラシ)によれば、汁粉や雑煮もありました。庭には珍しい鉢植えの数々が並べられ、座敷では唐子の人形が茶を運びました。これは客が茶碗を取ると自動で引き返すという、ゼンマイ仕掛のからくり人形。餅も人形が運んだそうです。かつて鹿の子餅を商った役者の嵐音八の店にも、ゼンマイ仕掛の人形が置かれていたといいますので(『寬天見聞記』)、江戸時代はこうした趣向が好まれていたのかもしれません。菊五郎は庭の手入れをしたり、客にお愛想を言ったりしてはみたものの、すぐに嫌になってしまい、わずか数か月で店を閉めると、大川橋蔵と改名して大坂で舞台に復帰したそうです。園芸三昧の暮らしにあこがれたのかもしれませんが、やはりそれでは飽き足らなかったのでしょう。それにしても、なぜ餅屋を選んだのか…、実は本人が餅好きだった、ということはないでしょうか? 菊の菓子(イメージ)「(題簽)御蒸菓子繪形」(部分) 都立中央図書館特別文庫室所蔵※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『三代目尾上菊五郎改メ、植木屋松五郎!? -千両役者は盆栽狂』さいたま市大宮盆栽美術館、2017年『歌舞伎』(1900年7月)
三代目尾上菊五郎と菊の餅
「松の隠居」屋敷の菊五郎(右)。座敷の奥には盆栽が並べられている。国立国会図書館蔵絶世の美男役者江戸時代後期の歌舞伎役者として、七代目市川団十郎・五代目岩井半四郎・五代目松本幸四郎と並び人気を集めた三代目尾上菊五郎(おのえきくごろう・1784~1849・俳名梅幸、のちに梅寿)。江戸の建具屋の子として生まれましたが、尾上松緑の養子となって舞台を踏み、文化12年(1815)菊五郎を襲名しました。美男で知られ、万能の役者と言われた菊五郎は、植木屋松五郎を名乗るほどの大の植物好き。向島(墨田区)の「松の隠居」という植木屋を買取って別荘とし、自らも同名で植木屋の商売もしていたようです。そんな菊五郎はあろうことか、64歳だった弘化4年(1847)、突然引退して「菊屋万平」として餅屋をはじめたのです。 菊と梅の菓子猿若町三丁目にあった菊屋で商った餅菓子の名前として伝わるのは、菊の葉餅・菊柏餅・室の梅・紅梅しんこ・初音饅頭・宿の梅。「菊の葉餅」は、葛餅を二枚の菊の葉で挟んだものと伝わります。「室の梅」とは室(むろ・温室)に入れて早く咲かせた梅のこと。携帯型の室と一緒に描かれた錦絵が何枚も残る、菊五郎らしい菓銘です。「紅梅しんこ」は梅をかたどった新粉餅(団子)でしょうか、初音はもちろん、梅に付き物の鶯を意味します。このほか菊寿餅や菊の草餅という記録もあり、主人の名前にちなんだ、菊と梅にゆかりの菓銘ばかりですね。当時の引き札(チラシ)によれば、汁粉や雑煮もありました。庭には珍しい鉢植えの数々が並べられ、座敷では唐子の人形が茶を運びました。これは客が茶碗を取ると自動で引き返すという、ゼンマイ仕掛のからくり人形。餅も人形が運んだそうです。かつて鹿の子餅を商った役者の嵐音八の店にも、ゼンマイ仕掛の人形が置かれていたといいますので(『寬天見聞記』)、江戸時代はこうした趣向が好まれていたのかもしれません。菊五郎は庭の手入れをしたり、客にお愛想を言ったりしてはみたものの、すぐに嫌になってしまい、わずか数か月で店を閉めると、大川橋蔵と改名して大坂で舞台に復帰したそうです。園芸三昧の暮らしにあこがれたのかもしれませんが、やはりそれでは飽き足らなかったのでしょう。それにしても、なぜ餅屋を選んだのか…、実は本人が餅好きだった、ということはないでしょうか? 菊の菓子(イメージ)「(題簽)御蒸菓子繪形」(部分) 都立中央図書館特別文庫室所蔵※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『三代目尾上菊五郎改メ、植木屋松五郎!? -千両役者は盆栽狂』さいたま市大宮盆栽美術館、2017年『歌舞伎』(1900年7月)