虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
新井白石と玄猪の餅
参考:幕末頃の幕府の玄猪餅(再現)『徳川制度史料』より 江戸時代を代表する大学者 新井白石(あらいはくせき・1657~1725)といえば、六代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)・七代家継(いえつぐ)の政治顧問を務め、「正徳の治」と呼ばれる政治改革を主導したことで知られます。しかし、家宣に仕える前には2度の浪人生活を経験しており、また正徳6年(1716)に吉宗が将軍に就任すると、引退に追い込まれました。こうした、いわば不遇の時代にも研鑽を積み、歴史学・地理学・言語学・洋学などの分野で数々の著作を残したことから、学者としての功績は政治家としてのそれを凌ぐといえるでしょう。 将軍が餅を配って肩を痛める 政治の表舞台から去った後に、白石と交流を深めた人物の1人が水戸藩(茨城県)の儒学者安積澹泊(あさかたんぱく)です。2人の書状のやりとりを収めた「新安手簡」には、幕府の「玄猪(げんちょ)」儀礼についての興味深い内容があります。玄猪は旧暦10月の亥の日に、餅※1を配って子孫繁栄などを願う行事で、幕府の儀礼は特に盛大でした(菊池貴一郎と亥の子餅)。白石が書いているのは、幼少期から自分を可愛がってくれた旧主土屋利直(つちやとしなお)が常々語っていたことで、二代将軍秀忠は、玄猪の際、出仕者全員に手ずから餅を2つずつ下賜していたため、「其後二三日は御肩をいたませられ」たという話です※2。また、三代将軍の家光も、当初は同じようにしていたが、後に一定の身分までは手渡しで、それ以下は出仕者が自分で餅を取る形式になったともあります。利直は秀忠・家光に仕えているので、いずれも実際に見聞きしたことを語ったと考えられます。 実証主義を重んじる この逸話を別の史料で確かめると、秀忠の時代は詳細がわかりませんが、家光の時代に大名・旗本から医者や茶坊主まで、全て手渡ししていた例があります。総勢は1,000人を優に超えますから、肩が痛くなるのも当然でしょう。まして家光は度々大病にかかって政務が滞るなど、心身に不安を抱えていました。手渡しを一定の身分までに変更したのもそうしたことが一因だったのかもしれません。将軍が玄猪のせいで肩を痛めたことなどあまり表に出すようなことではありませんが、学者仲間とのやり取りでもあり、事実は事実として書き残す姿勢を貫いた白石らしいともいえるでしょう。一方、自分自身は玄猪に参加しなくなったため、「当時(現在)」のことはわからないと何度も断っています。そうした姿勢からは、「証なく拠なく疑わしき事は、かりそめにも口より出すべからず」と実証主義を重んじた、白石の歴史学者としての矜持が感じられます。 ※1 地域や階層によって、牡丹餅や赤白黒の碁石形など様々で、幕府でも紅白の餅や5色の鳥の子餅などがあった。とらやでは、鎌倉時代の文献を参考に、毎年11月に胡麻やきな粉などを使った亥の子餅を販売している。※2「嘉定私記」(1818成立)には、同じく菓子を下される「嘉定」の際のこととして同じ逸話が記されているが、これは「新安手簡」の玄猪についての記載を嘉定と混同して写されたものと考えられる。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献 宮崎道生『新井白石』吉川弘文館 1990年『新井白石全集』第五 国書刊行会 1977年藤井譲治監修『江戸幕府日記』第4巻・第5巻 ゆまに書房 2003年小野清『徳川制度史料』1927年
新井白石と玄猪の餅
参考:幕末頃の幕府の玄猪餅(再現)『徳川制度史料』より 江戸時代を代表する大学者 新井白石(あらいはくせき・1657~1725)といえば、六代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)・七代家継(いえつぐ)の政治顧問を務め、「正徳の治」と呼ばれる政治改革を主導したことで知られます。しかし、家宣に仕える前には2度の浪人生活を経験しており、また正徳6年(1716)に吉宗が将軍に就任すると、引退に追い込まれました。こうした、いわば不遇の時代にも研鑽を積み、歴史学・地理学・言語学・洋学などの分野で数々の著作を残したことから、学者としての功績は政治家としてのそれを凌ぐといえるでしょう。 将軍が餅を配って肩を痛める 政治の表舞台から去った後に、白石と交流を深めた人物の1人が水戸藩(茨城県)の儒学者安積澹泊(あさかたんぱく)です。2人の書状のやりとりを収めた「新安手簡」には、幕府の「玄猪(げんちょ)」儀礼についての興味深い内容があります。玄猪は旧暦10月の亥の日に、餅※1を配って子孫繁栄などを願う行事で、幕府の儀礼は特に盛大でした(菊池貴一郎と亥の子餅)。白石が書いているのは、幼少期から自分を可愛がってくれた旧主土屋利直(つちやとしなお)が常々語っていたことで、二代将軍秀忠は、玄猪の際、出仕者全員に手ずから餅を2つずつ下賜していたため、「其後二三日は御肩をいたませられ」たという話です※2。また、三代将軍の家光も、当初は同じようにしていたが、後に一定の身分までは手渡しで、それ以下は出仕者が自分で餅を取る形式になったともあります。利直は秀忠・家光に仕えているので、いずれも実際に見聞きしたことを語ったと考えられます。 実証主義を重んじる この逸話を別の史料で確かめると、秀忠の時代は詳細がわかりませんが、家光の時代に大名・旗本から医者や茶坊主まで、全て手渡ししていた例があります。総勢は1,000人を優に超えますから、肩が痛くなるのも当然でしょう。まして家光は度々大病にかかって政務が滞るなど、心身に不安を抱えていました。手渡しを一定の身分までに変更したのもそうしたことが一因だったのかもしれません。将軍が玄猪のせいで肩を痛めたことなどあまり表に出すようなことではありませんが、学者仲間とのやり取りでもあり、事実は事実として書き残す姿勢を貫いた白石らしいともいえるでしょう。一方、自分自身は玄猪に参加しなくなったため、「当時(現在)」のことはわからないと何度も断っています。そうした姿勢からは、「証なく拠なく疑わしき事は、かりそめにも口より出すべからず」と実証主義を重んじた、白石の歴史学者としての矜持が感じられます。 ※1 地域や階層によって、牡丹餅や赤白黒の碁石形など様々で、幕府でも紅白の餅や5色の鳥の子餅などがあった。とらやでは、鎌倉時代の文献を参考に、毎年11月に胡麻やきな粉などを使った亥の子餅を販売している。※2「嘉定私記」(1818成立)には、同じく菓子を下される「嘉定」の際のこととして同じ逸話が記されているが、これは「新安手簡」の玄猪についての記載を嘉定と混同して写されたものと考えられる。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献 宮崎道生『新井白石』吉川弘文館 1990年『新井白石全集』第五 国書刊行会 1977年藤井譲治監修『江戸幕府日記』第4巻・第5巻 ゆまに書房 2003年小野清『徳川制度史料』1927年
武者小路実篤とおはぎ
武者小路実篤より志賀直哉宛書簡 明治39年(1906)4月10日(消印) 調布市武者小路実篤記念館蔵白樺派の代表作家 武者小路実篤(むしゃこうじさねあつ・1885~1976)は東京・麹町生まれの小説家です。友人・志賀直哉らと雑誌『白樺』を創刊、「おめでたき人」「友情」「愛と死」など、人間愛あふれる作品で知られます。書画にも優れ、昭和30年代(1955~64)頃には、果物、野菜などの絵を描いた色紙、手ぬぐい、うちわや暖簾、店の包装紙が世に出回り、人気を博しました。この頃から晩年まで暮らした東京都調布市の邸宅の隣接地には現在、武者小路実篤記念館があり、実篤の幅広い分野での活動が多角的に紹介されています。 甘いもの好き カステラ屋の掛紙(神奈川近代文学館蔵)に「この世に甘きものある事うれし」と書いているように、実篤は大の甘党でした。娘の辰子による随筆『ほくろの呼鈴』からもその一端がうかがえます。戦時中、実篤が暗がりにあった茄子のいためものをいきなり手づかみにして口に入れたときのこと。いためた茄子は好まないのに…と意外に思うと、本人も驚いており、「きんつばかと思ったんだ。珍しく気のきいたものがあると思ったんだ」と言ったそうです。辰子は「本当にその時気の毒だった」と書いていますが、砂糖の配給がじゅうぶんとはいえない状況下、きんつばの幻影を見たのかもしれません。 おはぎの思い出 一方実篤は、おはぎについて、戦時中の忘れられない思い出を書いています。仕事を兼ねて秋田に旅行した折、宿泊先の家が薬を作っていた関係で、砂糖もいくらか融通がきいたらしく、重箱いっぱいに10個以上ものおはぎを持たせてくれました。好物でもあり、一つつまみ、二つつまみして、その日の晩までになんと一人で全部食べてしまった由。「甘党に聞かせたら皆羨ましがる程の想像の出来ない贅沢な話」とありますが、その晩のお膳の上にも、実篤の分だけおはぎ入りの箱がのっていたので、さすがに閉口したそうです(同行した秋田の知人がおはぎ好きのことをずいぶんと宣伝していたよう)。 ちなみに実篤は若い頃、寄せ書きやハガキに「OHAGI」や「オハギ」と署名することがありました(上画像)。よっぽど好きだったからと思いたくなりますが、「おはぎ」はもともと学校の同級生がつけたあだ名で、理由について実篤は、顔にそばかすやシミ、腫物のあとがあったからではと、意外な推測をしています。「あまり名誉ある呼び名ではない」としていますが、好きな食べ物だったので嫌うことはなかったとか。署名の「OHAGI」の字をじっと見ていると、文字面からもおはぎ愛が伝わってくるようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 協力調布市武者小路実篤記念館 参考文献武者小路辰子『ほくろの呼鈴 父実篤回想』筑摩書房 1983年 「一人の男」(『武者小路実篤全集』第17巻 小学館 1990年より) 調布市武者小路実篤記念館ホームページ おうち時間で実篤を知ろう 身近に感じる実篤(2)甘いもの篇
武者小路実篤とおはぎ
武者小路実篤より志賀直哉宛書簡 明治39年(1906)4月10日(消印) 調布市武者小路実篤記念館蔵白樺派の代表作家 武者小路実篤(むしゃこうじさねあつ・1885~1976)は東京・麹町生まれの小説家です。友人・志賀直哉らと雑誌『白樺』を創刊、「おめでたき人」「友情」「愛と死」など、人間愛あふれる作品で知られます。書画にも優れ、昭和30年代(1955~64)頃には、果物、野菜などの絵を描いた色紙、手ぬぐい、うちわや暖簾、店の包装紙が世に出回り、人気を博しました。この頃から晩年まで暮らした東京都調布市の邸宅の隣接地には現在、武者小路実篤記念館があり、実篤の幅広い分野での活動が多角的に紹介されています。 甘いもの好き カステラ屋の掛紙(神奈川近代文学館蔵)に「この世に甘きものある事うれし」と書いているように、実篤は大の甘党でした。娘の辰子による随筆『ほくろの呼鈴』からもその一端がうかがえます。戦時中、実篤が暗がりにあった茄子のいためものをいきなり手づかみにして口に入れたときのこと。いためた茄子は好まないのに…と意外に思うと、本人も驚いており、「きんつばかと思ったんだ。珍しく気のきいたものがあると思ったんだ」と言ったそうです。辰子は「本当にその時気の毒だった」と書いていますが、砂糖の配給がじゅうぶんとはいえない状況下、きんつばの幻影を見たのかもしれません。 おはぎの思い出 一方実篤は、おはぎについて、戦時中の忘れられない思い出を書いています。仕事を兼ねて秋田に旅行した折、宿泊先の家が薬を作っていた関係で、砂糖もいくらか融通がきいたらしく、重箱いっぱいに10個以上ものおはぎを持たせてくれました。好物でもあり、一つつまみ、二つつまみして、その日の晩までになんと一人で全部食べてしまった由。「甘党に聞かせたら皆羨ましがる程の想像の出来ない贅沢な話」とありますが、その晩のお膳の上にも、実篤の分だけおはぎ入りの箱がのっていたので、さすがに閉口したそうです(同行した秋田の知人がおはぎ好きのことをずいぶんと宣伝していたよう)。 ちなみに実篤は若い頃、寄せ書きやハガキに「OHAGI」や「オハギ」と署名することがありました(上画像)。よっぽど好きだったからと思いたくなりますが、「おはぎ」はもともと学校の同級生がつけたあだ名で、理由について実篤は、顔にそばかすやシミ、腫物のあとがあったからではと、意外な推測をしています。「あまり名誉ある呼び名ではない」としていますが、好きな食べ物だったので嫌うことはなかったとか。署名の「OHAGI」の字をじっと見ていると、文字面からもおはぎ愛が伝わってくるようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 協力調布市武者小路実篤記念館 参考文献武者小路辰子『ほくろの呼鈴 父実篤回想』筑摩書房 1983年 「一人の男」(『武者小路実篤全集』第17巻 小学館 1990年より) 調布市武者小路実篤記念館ホームページ おうち時間で実篤を知ろう 身近に感じる実篤(2)甘いもの篇
北政所・寧々とおもてなしの菓子
『御蒸菓子図』より「青餅」 国立国会図書館蔵 ふのやき(参考) 秀吉の出世を支えた妻寧々(ねね・?~1624)は、豊臣秀吉の妻として、織田信長の草履取りから関白・太閤にのぼりつめていく夫の出世を支えました。秀吉が天下を統一すると北政所(きたのまんどころ)と称され、豊臣政権で重んじられます。 寧々のおもてなし文禄5年(1596)3月23日、博多の豪商にして茶人でもあった、神屋宗湛(かみやそうたん・1551~1635)が上洛し、寧々から食事を振舞われています。宗湛の日記によれば、鶴の汁物、鯛の焼物など豪華な料理の後に出されたのが、蒔絵の三段の重箱に入った菓子。青餅、小豆餅、ふのやき、おこし米です。青餅は緑色の餅、つまり蓬などの入った草餅と思われます。昔の日本語では「青」という色の範囲が広く、緑色のものも「青」と表現されてきました。青葉、青りんご、青信号などの言葉はその名残です。江戸時代の菓子の絵図でも、「青餅」として緑色の餅が描かれています。ふのやきは小麦粉を水で溶いて薄く焼いたものともいい、茶の湯の菓子として千利休をはじめ多くの茶人が用いていました。おこし米は糯米を原料としたおこしの原形です。これらは秀吉から贈られた菓子とのことで、孝蔵主という秀吉・寧々に仕えた尼僧が宗湛のもとに持って来てくれた上、酒の酌もしてくれました。 天下人の贈り物同時期の茶会記には昆布、椎茸の煮しめ、焼いた栗、生の栗、サザエなども菓子と記されており、まれに饅頭や小豆餅が登場する程度でした。色形の美しい菓子が登場するのはおよそ100年後、1600年代後半の元禄時代頃のことです。菓子の組み合わせは、豪奢を極めた天下人の贈り物にしては素朴な印象を受けますが、当時の感覚では華やかな詰め合わせだったのではないでしょうか。秀吉が寧々を喜ばせようと贈った菓子が、たまたま宗湛へのおもてなしに使われたのか、宗湛の来訪を知っていた秀吉があらかじめ届けておいたのか、詳しい背景はわかりませんが、秀吉・寧々夫婦に関わる貴重な記録といえるでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『神屋宗湛日記』 淡交社 2020年
北政所・寧々とおもてなしの菓子
『御蒸菓子図』より「青餅」 国立国会図書館蔵 ふのやき(参考) 秀吉の出世を支えた妻寧々(ねね・?~1624)は、豊臣秀吉の妻として、織田信長の草履取りから関白・太閤にのぼりつめていく夫の出世を支えました。秀吉が天下を統一すると北政所(きたのまんどころ)と称され、豊臣政権で重んじられます。 寧々のおもてなし文禄5年(1596)3月23日、博多の豪商にして茶人でもあった、神屋宗湛(かみやそうたん・1551~1635)が上洛し、寧々から食事を振舞われています。宗湛の日記によれば、鶴の汁物、鯛の焼物など豪華な料理の後に出されたのが、蒔絵の三段の重箱に入った菓子。青餅、小豆餅、ふのやき、おこし米です。青餅は緑色の餅、つまり蓬などの入った草餅と思われます。昔の日本語では「青」という色の範囲が広く、緑色のものも「青」と表現されてきました。青葉、青りんご、青信号などの言葉はその名残です。江戸時代の菓子の絵図でも、「青餅」として緑色の餅が描かれています。ふのやきは小麦粉を水で溶いて薄く焼いたものともいい、茶の湯の菓子として千利休をはじめ多くの茶人が用いていました。おこし米は糯米を原料としたおこしの原形です。これらは秀吉から贈られた菓子とのことで、孝蔵主という秀吉・寧々に仕えた尼僧が宗湛のもとに持って来てくれた上、酒の酌もしてくれました。 天下人の贈り物同時期の茶会記には昆布、椎茸の煮しめ、焼いた栗、生の栗、サザエなども菓子と記されており、まれに饅頭や小豆餅が登場する程度でした。色形の美しい菓子が登場するのはおよそ100年後、1600年代後半の元禄時代頃のことです。菓子の組み合わせは、豪奢を極めた天下人の贈り物にしては素朴な印象を受けますが、当時の感覚では華やかな詰め合わせだったのではないでしょうか。秀吉が寧々を喜ばせようと贈った菓子が、たまたま宗湛へのおもてなしに使われたのか、宗湛の来訪を知っていた秀吉があらかじめ届けておいたのか、詳しい背景はわかりませんが、秀吉・寧々夫婦に関わる貴重な記録といえるでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『神屋宗湛日記』 淡交社 2020年
大槻如電と嘉定菓子
左:虎屋の嘉祥菓子。上から時計回りに、武蔵野、源氏籬、桔梗餅、伊賀餅、味噌松風、浅路飴、豊岡の里(中央)。幕末宮中に納めたものをもとにしている。 右:幕府の嘉定菓子。上から時計回りに、金飩、羊羹、あこや、鶉焼、寄水、大饅頭(中央)。このほかに麩と熨斗があり、合計8種類となる。博学多才の学者明治~大正時代の学者、大槻如電(おおつきじょでん・1845~1931)は、一族が医者や学者※1という恵まれた環境で育ちました。彼も明治新政府のもとで漢学の教官を務めたり、教科書の編纂に携わったりしますが、明治7年(1874)、数え年30歳という若さで辞任、翌年には弟に家督を譲り、以後は在野の学者として生涯を送ります。如電の研究対象は、本分としていた和漢洋学のほか邦楽や舞踊、江戸時代の服飾など多岐にわたっており、早々に官職を辞したのは、さまざまな興味の対象に思う存分取り組んでみたいと思ってのことだったのかもしれません。ここでは、明治34年7月31日に、如電が旧平戸藩(長崎県)の藩主だった松浦詮(まつらあきら)の招きで、菓子を食べて厄除けと招福を願う「嘉定(かじょう。嘉祥とも)」の会に参加したときのことを書いた記事をご紹介しましょう。 京都と江戸の嘉定菓子松浦は故事を知る人々を呼んで五節句※2の会を数年前から開いており、この日は「嘉定」が行われた旧暦6月16日にあたるため、会場の旧平戸藩江戸上屋敷(台東区)に嘉定菓子を用意しました。調達にあたり何軒かの菓子屋に問い合わせたところ、どの店もこの菓子について知らず、やむなく京都出身で御所御用を勤めてきた虎屋に依頼。納められたのは檜葉(ひば)を敷いた土器(かわらけ)にのった7種類の菓子で、招かれた8名の前に置かれました。如電は、この京都式に対し江戸の嘉定菓子は8種類で、幕府御用菓子屋の大久保主水(おおくぼもんと)1店のみが江戸城に納め、これを将軍が大名や旗本に下賜していたと書いています。そして東京の菓子屋に聞いても知らなかったのは、大久保主水だけが携わっていたからだったのだろう、としています。興味深いのは、参加者に「大広間に千何枚の菓子膳を見たり」とか、「御菓子料として十六銅を拝領せし」などと、幕府や宮中関係の嘉定について語る人たちがいたことです。嘉定は明治時代に廃れてしまった※3のですが、この頃は行事の実態を知る人がまだ一定数いたのでしょう。ところで、嘉定菓子を食べているときは一言も話してはならぬものだったとか。将軍から拝領する際「慎み恐(かしこ)み息をころして進退」したことに由来するらしいのですが、この会では話に花が咲いてしまい、出された虎屋の菓子もそれぞれ持ち帰ったとのことです。如電も土産にした菓子を食べつつ記事を書いたのかもしれませんね。 ※1 祖父の大槻玄沢(げんたく)は仙台藩の蘭学医、父の磐渓(ばんけい)は儒学者、伯父の磐里(ばんり)は蘭学者で、如電の弟・文彦も日本初の国語辞書を編纂した国語学者だった。※2 人日(じんじつ。1月7日)、上巳(じょうし。3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(ちょうよう。9月9日)の5つの節句のこと。※3 昭和54年(1979)に全国和菓子協会により「和菓子の日」としてよみがえった。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「嘉定の話」(『読売新聞』1901年8月12日号)
大槻如電と嘉定菓子
左:虎屋の嘉祥菓子。上から時計回りに、武蔵野、源氏籬、桔梗餅、伊賀餅、味噌松風、浅路飴、豊岡の里(中央)。幕末宮中に納めたものをもとにしている。 右:幕府の嘉定菓子。上から時計回りに、金飩、羊羹、あこや、鶉焼、寄水、大饅頭(中央)。このほかに麩と熨斗があり、合計8種類となる。博学多才の学者明治~大正時代の学者、大槻如電(おおつきじょでん・1845~1931)は、一族が医者や学者※1という恵まれた環境で育ちました。彼も明治新政府のもとで漢学の教官を務めたり、教科書の編纂に携わったりしますが、明治7年(1874)、数え年30歳という若さで辞任、翌年には弟に家督を譲り、以後は在野の学者として生涯を送ります。如電の研究対象は、本分としていた和漢洋学のほか邦楽や舞踊、江戸時代の服飾など多岐にわたっており、早々に官職を辞したのは、さまざまな興味の対象に思う存分取り組んでみたいと思ってのことだったのかもしれません。ここでは、明治34年7月31日に、如電が旧平戸藩(長崎県)の藩主だった松浦詮(まつらあきら)の招きで、菓子を食べて厄除けと招福を願う「嘉定(かじょう。嘉祥とも)」の会に参加したときのことを書いた記事をご紹介しましょう。 京都と江戸の嘉定菓子松浦は故事を知る人々を呼んで五節句※2の会を数年前から開いており、この日は「嘉定」が行われた旧暦6月16日にあたるため、会場の旧平戸藩江戸上屋敷(台東区)に嘉定菓子を用意しました。調達にあたり何軒かの菓子屋に問い合わせたところ、どの店もこの菓子について知らず、やむなく京都出身で御所御用を勤めてきた虎屋に依頼。納められたのは檜葉(ひば)を敷いた土器(かわらけ)にのった7種類の菓子で、招かれた8名の前に置かれました。如電は、この京都式に対し江戸の嘉定菓子は8種類で、幕府御用菓子屋の大久保主水(おおくぼもんと)1店のみが江戸城に納め、これを将軍が大名や旗本に下賜していたと書いています。そして東京の菓子屋に聞いても知らなかったのは、大久保主水だけが携わっていたからだったのだろう、としています。興味深いのは、参加者に「大広間に千何枚の菓子膳を見たり」とか、「御菓子料として十六銅を拝領せし」などと、幕府や宮中関係の嘉定について語る人たちがいたことです。嘉定は明治時代に廃れてしまった※3のですが、この頃は行事の実態を知る人がまだ一定数いたのでしょう。ところで、嘉定菓子を食べているときは一言も話してはならぬものだったとか。将軍から拝領する際「慎み恐(かしこ)み息をころして進退」したことに由来するらしいのですが、この会では話に花が咲いてしまい、出された虎屋の菓子もそれぞれ持ち帰ったとのことです。如電も土産にした菓子を食べつつ記事を書いたのかもしれませんね。 ※1 祖父の大槻玄沢(げんたく)は仙台藩の蘭学医、父の磐渓(ばんけい)は儒学者、伯父の磐里(ばんり)は蘭学者で、如電の弟・文彦も日本初の国語辞書を編纂した国語学者だった。※2 人日(じんじつ。1月7日)、上巳(じょうし。3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(ちょうよう。9月9日)の5つの節句のこと。※3 昭和54年(1979)に全国和菓子協会により「和菓子の日」としてよみがえった。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「嘉定の話」(『読売新聞』1901年8月12日号)
渋沢栄一と菓子
参考:とらやの「霙羹(みぞれかん)」渋沢栄一(しぶさわえいいち・1840~1931)に関しては、明治天皇より下賜された金魚の菓子について書いており、今回は別の菓子の話をご紹介したいと思います。 幼い頃の話 91歳の口述筆記に、「書道に関するもの」と題して、12歳頃、褒美の最中につられて手習いに励んだことが記されています。当時、菓子と言えば、「わるい砂糖のかためた様なもの」で、これに対して最中はご馳走だったのでしょう。この他「甘いものは好きで良く食べる。中でも飴が一番よい」との記述もあります。 茶室を活用する栄一は、お茶は一寸も好きだとは思わなかったと言いながら、飛鳥山(東京都北区王子)の邸宅の造園時に、益田克徳らに薦められ茶室「無心庵」を作りました。後年「あの茶席は、あれで仲々値打がある。徳川家を公爵にしたのも、謂はばあの茶室だからネ」と語っています。 幕末、徳川慶喜に仕えていた栄一は、主君思いの人でした。維新後、明治政府への恭順の意を示し、静岡で暮らしていた慶喜に、彼は関西出張の折など立ち寄ったり、資金面での援助をしたり、色々な形で寄り添います。明治30年(1897)に東京へ戻った慶喜は、翌年皇居で明治天皇に拝謁。この頃から、栄一は慶喜の復権を旧知の井上馨に相談し、伊藤博文にも働きかけます。 茶室竣工直後の明治32年6月27日昼、栄一は無心庵に慶喜と井上を招きました。菓子などの記録はありませんが、呈茶の後、酒宴は夕方5時まで和やかに続きました。この出会いが契機になったのでしょう、復権の話は進み、明治35年、政府は特例で慶喜に公爵の爵位を与えます。栄一は茶室での集まりが人の心を開くことに気付き、以降、国内外の人との交流の場として、無心庵を活用します。また自らも益田孝、その他の茶会にも出向くようになりました。 栄一が企画した茶会明治38年7月22日正午、栄一席主の下、徳川慶喜・伊藤博文・井上馨・桂太郎・益田孝ら、旧幕府と長州人など※の会が無心庵で催されました。日露戦争も終結への道筋が見えてきた時期です。この時の主菓子は「みぞれ羹」、干菓子は紅白「七宝形」押物。改まった濃茶の席では、両者雪融けの意を込め、続く薄茶の席では、これからの新しい関係を祝して縁起物の意匠を、と考えたのかもしれません。呈茶後、酒宴を催し、一同昔話を懐かしみます。席主の想いを客が十分に受け止めたからこそ、会は夜にまで及んだのでしょう。 ※旧幕府:徳川慶喜、渋沢栄一(旧幕臣)、益田孝(旧幕臣・三井)、長州人:伊藤博文(前首相)、井上馨(元蔵相)、桂太郎(首相)、その他客:下条正雄(日本画家)、欄外 補助:三井八郎右衛門(三井)、点茶:川部宗無(表千家宗匠 東京出張所) ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献デジタル版『渋沢栄一伝記資料』渋沢栄一記念財団 渋沢栄一デジタルミュージアム 深谷市渋沢栄一記念館 山本麻渓、木全宗儀 編『古今茶湯集』巻三 慶文堂書店 1917年
渋沢栄一と菓子
参考:とらやの「霙羹(みぞれかん)」渋沢栄一(しぶさわえいいち・1840~1931)に関しては、明治天皇より下賜された金魚の菓子について書いており、今回は別の菓子の話をご紹介したいと思います。 幼い頃の話 91歳の口述筆記に、「書道に関するもの」と題して、12歳頃、褒美の最中につられて手習いに励んだことが記されています。当時、菓子と言えば、「わるい砂糖のかためた様なもの」で、これに対して最中はご馳走だったのでしょう。この他「甘いものは好きで良く食べる。中でも飴が一番よい」との記述もあります。 茶室を活用する栄一は、お茶は一寸も好きだとは思わなかったと言いながら、飛鳥山(東京都北区王子)の邸宅の造園時に、益田克徳らに薦められ茶室「無心庵」を作りました。後年「あの茶席は、あれで仲々値打がある。徳川家を公爵にしたのも、謂はばあの茶室だからネ」と語っています。 幕末、徳川慶喜に仕えていた栄一は、主君思いの人でした。維新後、明治政府への恭順の意を示し、静岡で暮らしていた慶喜に、彼は関西出張の折など立ち寄ったり、資金面での援助をしたり、色々な形で寄り添います。明治30年(1897)に東京へ戻った慶喜は、翌年皇居で明治天皇に拝謁。この頃から、栄一は慶喜の復権を旧知の井上馨に相談し、伊藤博文にも働きかけます。 茶室竣工直後の明治32年6月27日昼、栄一は無心庵に慶喜と井上を招きました。菓子などの記録はありませんが、呈茶の後、酒宴は夕方5時まで和やかに続きました。この出会いが契機になったのでしょう、復権の話は進み、明治35年、政府は特例で慶喜に公爵の爵位を与えます。栄一は茶室での集まりが人の心を開くことに気付き、以降、国内外の人との交流の場として、無心庵を活用します。また自らも益田孝、その他の茶会にも出向くようになりました。 栄一が企画した茶会明治38年7月22日正午、栄一席主の下、徳川慶喜・伊藤博文・井上馨・桂太郎・益田孝ら、旧幕府と長州人など※の会が無心庵で催されました。日露戦争も終結への道筋が見えてきた時期です。この時の主菓子は「みぞれ羹」、干菓子は紅白「七宝形」押物。改まった濃茶の席では、両者雪融けの意を込め、続く薄茶の席では、これからの新しい関係を祝して縁起物の意匠を、と考えたのかもしれません。呈茶後、酒宴を催し、一同昔話を懐かしみます。席主の想いを客が十分に受け止めたからこそ、会は夜にまで及んだのでしょう。 ※旧幕府:徳川慶喜、渋沢栄一(旧幕臣)、益田孝(旧幕臣・三井)、長州人:伊藤博文(前首相)、井上馨(元蔵相)、桂太郎(首相)、その他客:下条正雄(日本画家)、欄外 補助:三井八郎右衛門(三井)、点茶:川部宗無(表千家宗匠 東京出張所) ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献デジタル版『渋沢栄一伝記資料』渋沢栄一記念財団 渋沢栄一デジタルミュージアム 深谷市渋沢栄一記念館 山本麻渓、木全宗儀 編『古今茶湯集』巻三 慶文堂書店 1917年
戸板康二と残月
とらやの「残月」歌舞伎評論から推理小説まで戸板康二(といたやすじ・1915~93)は、日本の演劇・歌舞伎評論はもとより、脚本や小説も手掛けた多才な人物です。東京市芝三田四国町(現東京都港区芝)にて、山口三郎の長男として生まれましたが、幼少のころに母方の祖母(戸板学園創立者・戸板関子)の養子となり戸板姓となりました。代表作は評論の『丸本歌舞伎』『歌舞伎への招待』や随筆『劇場の椅子』。推理小説を書くようになったのは江戸川乱歩にすすめられてのことで、架空の歌舞伎役者が探偵となり活躍する中村雅楽シリーズは人気を博し、『団十郎切腹事件』で直木賞を受賞しています。 随筆「菓子の名前」 著作の中に、「菓子の名前」という随筆があります。冒頭はシュークリームの由来ですが、主に、和菓子の名前について語っています。「歌や詩に使われるような、気どった、あるいは古典文学にあらわれる季語にもとづく命名、時には歌枕(うたまくら)を名称にしたりする。」とあるほか、「全国名菓展といった催しをデパートで見ると、「うすら氷(ひ)」とか、「月の雫(しずく)」とか、「残月」とか、「長生殿」とか、「玉すだれ」とか、邦楽の曲名のようなのが多い。」と書いています。 戸板は「邦楽の曲名のような」と述べていますが、興味深いことに、筝曲には「残月」という曲名が実際にあります。 菓子と箏曲の「残月」菓子の「残月」は、虎屋の代表的な焼菓子です。明け方まで空にうっすらと残っている月を表現したもので、職人が一つ一つ刷毛でひく擂り蜜は、月に掛かる薄雲を思わせます。 一方、筝曲「残月」は、峰崎勾当(みねざきこうとう)※作曲。門人の娘が夭逝したことを悼み娘を月にたとえて作った追悼曲です。緩やかなテンポの序盤は、松に隠れていた月が沖に消える情景を表現しています。そして、終盤「月の都に住むやらん 今はつてだに朧夜の 月日ばかりは巡り来て」という歌詞に、技巧をこらした調べから繋がる厳かで静かな曲がとけあっています。終盤に入る間奏(手事)は、引き込まれるような旋律で、勾当作品の秀逸作とされる所以です。 菓銘の持つ文学性と邦楽を結び付けたのは、和菓子好きであり、古典芸能に造詣が深い戸板ならではの視点です。菓子を味わいながら邦楽を聞く、そんな楽しみ方を戸板自身もしていたことでしょう。 ※江戸時代後期に大坂で活動した盲目の地歌三味線演奏家、作曲家。生没年不詳 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献戸板康二「菓子の名前」(『目の前の彼女』三月書房 1982年) 杉 昌郎『文研の芸能鑑賞シリーズ 邦楽入門』文研出版 1977年
戸板康二と残月
とらやの「残月」歌舞伎評論から推理小説まで戸板康二(といたやすじ・1915~93)は、日本の演劇・歌舞伎評論はもとより、脚本や小説も手掛けた多才な人物です。東京市芝三田四国町(現東京都港区芝)にて、山口三郎の長男として生まれましたが、幼少のころに母方の祖母(戸板学園創立者・戸板関子)の養子となり戸板姓となりました。代表作は評論の『丸本歌舞伎』『歌舞伎への招待』や随筆『劇場の椅子』。推理小説を書くようになったのは江戸川乱歩にすすめられてのことで、架空の歌舞伎役者が探偵となり活躍する中村雅楽シリーズは人気を博し、『団十郎切腹事件』で直木賞を受賞しています。 随筆「菓子の名前」 著作の中に、「菓子の名前」という随筆があります。冒頭はシュークリームの由来ですが、主に、和菓子の名前について語っています。「歌や詩に使われるような、気どった、あるいは古典文学にあらわれる季語にもとづく命名、時には歌枕(うたまくら)を名称にしたりする。」とあるほか、「全国名菓展といった催しをデパートで見ると、「うすら氷(ひ)」とか、「月の雫(しずく)」とか、「残月」とか、「長生殿」とか、「玉すだれ」とか、邦楽の曲名のようなのが多い。」と書いています。 戸板は「邦楽の曲名のような」と述べていますが、興味深いことに、筝曲には「残月」という曲名が実際にあります。 菓子と箏曲の「残月」菓子の「残月」は、虎屋の代表的な焼菓子です。明け方まで空にうっすらと残っている月を表現したもので、職人が一つ一つ刷毛でひく擂り蜜は、月に掛かる薄雲を思わせます。 一方、筝曲「残月」は、峰崎勾当(みねざきこうとう)※作曲。門人の娘が夭逝したことを悼み娘を月にたとえて作った追悼曲です。緩やかなテンポの序盤は、松に隠れていた月が沖に消える情景を表現しています。そして、終盤「月の都に住むやらん 今はつてだに朧夜の 月日ばかりは巡り来て」という歌詞に、技巧をこらした調べから繋がる厳かで静かな曲がとけあっています。終盤に入る間奏(手事)は、引き込まれるような旋律で、勾当作品の秀逸作とされる所以です。 菓銘の持つ文学性と邦楽を結び付けたのは、和菓子好きであり、古典芸能に造詣が深い戸板ならではの視点です。菓子を味わいながら邦楽を聞く、そんな楽しみ方を戸板自身もしていたことでしょう。 ※江戸時代後期に大坂で活動した盲目の地歌三味線演奏家、作曲家。生没年不詳 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献戸板康二「菓子の名前」(『目の前の彼女』三月書房 1982年) 杉 昌郎『文研の芸能鑑賞シリーズ 邦楽入門』文研出版 1977年