虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子

種田山頭火と草餅
漂泊の俳人 種田山頭火(たねださんとうか・1882~1940)は、山口県防府出身の俳人です。10代から俳句に親しみ、20代後半より「山頭火」を名乗って、外国文学の翻訳、評論などの文芸活動を開始しました。30代になって以降は本格的に俳句をはじめ、実力が認められて俳句誌の選者の一人になるものの、経営していた酒造場の倒産や、父弟の死などに見舞われ、大正14年(1925)に出家。西日本を中心とした行乞(ぎょうこつ)の旅をしながら、五七五にこだわらない自由律による句作を生涯続けました。「肉体に酒、心に句、酒は肉体の句で、句は心の酒だ」(昭和5年(1930)12月5日・行)と日記に記すほど酒を好んだことで知られる山頭火ですが、同じく好物だったといえるのが餅です。「此頃の私は酒を貰ふよりも、銭を貰ふよりも、餅を貰ふことがうれしい」(昭和10年2月3日・其)と綴っています。今回は山頭火が書き残した日記※から、餅の中でもとりわけ登場回数の多い、草餅の記述に注目してみましょう。 草餅の魅力 50代になった山頭火の、昭和8年3月21日の日記を見ると、草餅が食べたいと書いたその日のうちに口にしています。また翌週28日にも、お土産に「お節句の蓬餅」を貰い、早速焼いて食べ、おいしかったという感想を残しています(其)。「お節句」と言われてもあまりピンとこないかもしれませんが、この日は旧暦の上巳の節句。もともとは身を清める日で、香りの強さが邪気を祓うと信じられた母子草(ははこぐさ・春の七草のゴギョウ)や、蓬を使った草餅を食べる風習がありました。また、昭和13年3月14日には、「安宿の気安さ。めしやでめしを食べ、酒屋で酒を飲み、餅屋で餅を味はつた(草餅の魅力である)。」と書き、その2日後にも草餅を食べています(其)。自ら積極的に買い求めるだけでなく、友人たちも山頭火好みの手土産として選んでおり、彼にとって草餅はどのような存在だったのか気になりますが、句作にそのヒントがありそうです。 「草餅のふるさとの香をいたゞく」(昭和7年4月4日・其)「旅は何となく草餅見ればたべたくなつてたべ」「よばれる草餅の香もふるさとにちかく」(以上2首、昭和8年7月5日・行) 旅に暮らす山頭火でしたが、草餅の香りで故郷の記憶を呼び起こしたり、人々のぬくもりを思い出したりしていたのかもしれませんね。 ※『其中日記』および『行乞記』。本文中は引用末尾に(行)、(其)と略号を記した。 ※連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 『新編山頭火全集 第3巻』、『新編山頭火全集 第4巻』、『新編山頭火全集 第5巻』春陽堂書店、2021年『新編山頭火全集 第7巻』春陽堂書店、2022年山頭火ふるさと館ホームページ (https://hofu-santoka.jp/)
種田山頭火と草餅
漂泊の俳人 種田山頭火(たねださんとうか・1882~1940)は、山口県防府出身の俳人です。10代から俳句に親しみ、20代後半より「山頭火」を名乗って、外国文学の翻訳、評論などの文芸活動を開始しました。30代になって以降は本格的に俳句をはじめ、実力が認められて俳句誌の選者の一人になるものの、経営していた酒造場の倒産や、父弟の死などに見舞われ、大正14年(1925)に出家。西日本を中心とした行乞(ぎょうこつ)の旅をしながら、五七五にこだわらない自由律による句作を生涯続けました。「肉体に酒、心に句、酒は肉体の句で、句は心の酒だ」(昭和5年(1930)12月5日・行)と日記に記すほど酒を好んだことで知られる山頭火ですが、同じく好物だったといえるのが餅です。「此頃の私は酒を貰ふよりも、銭を貰ふよりも、餅を貰ふことがうれしい」(昭和10年2月3日・其)と綴っています。今回は山頭火が書き残した日記※から、餅の中でもとりわけ登場回数の多い、草餅の記述に注目してみましょう。 草餅の魅力 50代になった山頭火の、昭和8年3月21日の日記を見ると、草餅が食べたいと書いたその日のうちに口にしています。また翌週28日にも、お土産に「お節句の蓬餅」を貰い、早速焼いて食べ、おいしかったという感想を残しています(其)。「お節句」と言われてもあまりピンとこないかもしれませんが、この日は旧暦の上巳の節句。もともとは身を清める日で、香りの強さが邪気を祓うと信じられた母子草(ははこぐさ・春の七草のゴギョウ)や、蓬を使った草餅を食べる風習がありました。また、昭和13年3月14日には、「安宿の気安さ。めしやでめしを食べ、酒屋で酒を飲み、餅屋で餅を味はつた(草餅の魅力である)。」と書き、その2日後にも草餅を食べています(其)。自ら積極的に買い求めるだけでなく、友人たちも山頭火好みの手土産として選んでおり、彼にとって草餅はどのような存在だったのか気になりますが、句作にそのヒントがありそうです。 「草餅のふるさとの香をいたゞく」(昭和7年4月4日・其)「旅は何となく草餅見ればたべたくなつてたべ」「よばれる草餅の香もふるさとにちかく」(以上2首、昭和8年7月5日・行) 旅に暮らす山頭火でしたが、草餅の香りで故郷の記憶を呼び起こしたり、人々のぬくもりを思い出したりしていたのかもしれませんね。 ※『其中日記』および『行乞記』。本文中は引用末尾に(行)、(其)と略号を記した。 ※連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 『新編山頭火全集 第3巻』、『新編山頭火全集 第4巻』、『新編山頭火全集 第5巻』春陽堂書店、2021年『新編山頭火全集 第7巻』春陽堂書店、2022年山頭火ふるさと館ホームページ (https://hofu-santoka.jp/)

近衛内前と「可愛」
「坤(御菓子見本帳)] 江戸時代後期 虎屋黒川家文書より 材料名に「雪砂糖、寒晒粳米のこ、山のいもおろし」とある。 菓子を愛し、銘をつける 近衛内前(このえうちさき・1728~85)は、関白・摂政そして、公家の最高位、太政大臣を務めた江戸時代中期の人物です。要職につき、幕府との交渉などで心労が多かったと想像されますが、一方で虎屋の菓子を好み、銘をつけることを楽しんでいたような一面もありました。いただいた御銘の代表が、小さな饅頭の入った子持ち饅頭の「蓬が嶋」。このほか、天明3年(1783)「近衛様御銘御菓子扣帳」(このえさまぎょめいおかしひかえちょう)には、「更衣」「利木饅」など、計32もの趣のある御銘が記されています。これほど多くの御銘を残したのは、内前のみといえるでしょう。 「可愛」の謎 「可愛」も御銘の一つで、銘を清書した折紙や覚書があり、安永6年(1777)8月20日に頂戴したことがわかっています。当時の製法は不明ですが、先の控え帳に「山の芋おろし」とあり、山芋を生地とした薯蕷製の棹物(羊羹のように棹状にして作る菓子)として伝わっています。見た目や質感は、鹿児島銘菓の「かるかん」に似ていますが、なぜこの銘がつけられたのでしょう。白が純真無垢を連想させたから?など、今まであれこれ考えられてきましたが謎でした。そうしたなか、有職故実に詳しい方から、御所人形の連想ではとのお話をいただきました。御所人形とは江戸時代に京都で誕生し、宮中で愛された、子ども姿の人形のこと。頭が大きく、ふっくらした体形で、胡粉を塗り、磨き上げた白い肌は艶やかです。感性豊かな内前が、真っ白な生地から、あどけなさの中に気品漂う人形の表情や姿を思い出し、「可愛」と名付けたと考えるのは、自然のように感じられます。見るものを和ませ、ほほえませてくれる御所人形。「可愛」に秘められた内前の人形への想いを想像したくなります。 参考:木彫御所人形「しらたま」十二世伊東久重作 *有職御人形司 伊東久重家について享保年間(1716~35)から、京都にて人形制作に携わり、明和4年(1767)に後桜町天皇より「伊東久重」の名を拝領。その名と技は十二世久重氏、さらに 久重十三世嗣である長男・庄五郎氏まで、変わることなく連綿と受け継がれている。 2023年1月12日(木) ~22日(日)にセイコーハウス銀座 6階セイコーハウス銀座ホールにて、「伊東久重御所人形展―都のにぎわい―」が開催されます。ぜひご覧くださいませ。 左:木彫御所人形「好日」 十二世伊東久重作 右:木彫御所人形「蓬莱」 伊東庄五郎作 ※連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。
近衛内前と「可愛」
「坤(御菓子見本帳)] 江戸時代後期 虎屋黒川家文書より 材料名に「雪砂糖、寒晒粳米のこ、山のいもおろし」とある。 菓子を愛し、銘をつける 近衛内前(このえうちさき・1728~85)は、関白・摂政そして、公家の最高位、太政大臣を務めた江戸時代中期の人物です。要職につき、幕府との交渉などで心労が多かったと想像されますが、一方で虎屋の菓子を好み、銘をつけることを楽しんでいたような一面もありました。いただいた御銘の代表が、小さな饅頭の入った子持ち饅頭の「蓬が嶋」。このほか、天明3年(1783)「近衛様御銘御菓子扣帳」(このえさまぎょめいおかしひかえちょう)には、「更衣」「利木饅」など、計32もの趣のある御銘が記されています。これほど多くの御銘を残したのは、内前のみといえるでしょう。 「可愛」の謎 「可愛」も御銘の一つで、銘を清書した折紙や覚書があり、安永6年(1777)8月20日に頂戴したことがわかっています。当時の製法は不明ですが、先の控え帳に「山の芋おろし」とあり、山芋を生地とした薯蕷製の棹物(羊羹のように棹状にして作る菓子)として伝わっています。見た目や質感は、鹿児島銘菓の「かるかん」に似ていますが、なぜこの銘がつけられたのでしょう。白が純真無垢を連想させたから?など、今まであれこれ考えられてきましたが謎でした。そうしたなか、有職故実に詳しい方から、御所人形の連想ではとのお話をいただきました。御所人形とは江戸時代に京都で誕生し、宮中で愛された、子ども姿の人形のこと。頭が大きく、ふっくらした体形で、胡粉を塗り、磨き上げた白い肌は艶やかです。感性豊かな内前が、真っ白な生地から、あどけなさの中に気品漂う人形の表情や姿を思い出し、「可愛」と名付けたと考えるのは、自然のように感じられます。見るものを和ませ、ほほえませてくれる御所人形。「可愛」に秘められた内前の人形への想いを想像したくなります。 参考:木彫御所人形「しらたま」十二世伊東久重作 *有職御人形司 伊東久重家について享保年間(1716~35)から、京都にて人形制作に携わり、明和4年(1767)に後桜町天皇より「伊東久重」の名を拝領。その名と技は十二世久重氏、さらに 久重十三世嗣である長男・庄五郎氏まで、変わることなく連綿と受け継がれている。 2023年1月12日(木) ~22日(日)にセイコーハウス銀座 6階セイコーハウス銀座ホールにて、「伊東久重御所人形展―都のにぎわい―」が開催されます。ぜひご覧くださいませ。 左:木彫御所人形「好日」 十二世伊東久重作 右:木彫御所人形「蓬莱」 伊東庄五郎作 ※連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。

紫式部と亥の子餅
亥の子餅(再現)『源氏物語』に登場する菓子『源氏物語』は1000年以上前、紫式部が執筆した54帖に及ぶ長編小説です。主人公の光源氏ほか400人以上の登場人物、貴族たちの華やかな生活、人間模様は今なお人々を魅了し続け、世界的な評価も高く、日本の文学史上最も有名な作品のひとつといえるでしょう。 作者の紫式部(むらさきしきぶ)は中流貴族の出身で、一条天皇の后・藤原彰子(988~1074)に仕える女性でした。これだけの大作を書き上げながらその生涯はわからないことが多く、本名や生没年は不明、もちろんどのような菓子を食べたかという記録は残っていません。しかし『源氏物語』には「椿餅」などの菓子がいくつか登場し、本人も口にしたのではと推察できます。 例えば「葵」の帖では、檜の折箱(檜割子・ひわりご)に入った「亥の子餅」について書かれています。亥の子餅は、亥の月(旧暦10月)亥の日に無病息災を祈って食べる餅のことです。もともと民間の習慣だったものを、宇多天皇の御代(887-897)に宮中に取り入れられたとされています。『源氏物語』には形や味の記述はなく、平安時代から鎌倉時代にかけての史料によると、その形は猪の子をかたどっており(『年中行事秘抄』)、原材料は、大豆、小豆、大角豆(ささげ)、胡麻、栗、柿、糖(あめ)の七種類の粉を使う(『二中歴』)とあります。 時代とともに変化する「亥の子餅」鎌倉時代以降、宮中では赤・白・黒の小餅が主流となり、小さな臼と杵で餅を搗いたほか、贈り物として銀杏や紅葉、菊の花などを添えて紙で包むようになりました。また、民間では収穫祭と結びついて餡餅として作られたり、猪が火除けの神様のお使いであることから、茶道で炉開きのために用意されたりと、さまざまに変化していきました。現在では餡入りの餅菓子として多くの和菓子店が販売しています。紫式部が生きた時代、砂糖を使用した甘い菓子はまだありませんでした。現在の亥の子餅を紫式部が味わったら、甘くて美味しいことにびっくりするのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
紫式部と亥の子餅
亥の子餅(再現)『源氏物語』に登場する菓子『源氏物語』は1000年以上前、紫式部が執筆した54帖に及ぶ長編小説です。主人公の光源氏ほか400人以上の登場人物、貴族たちの華やかな生活、人間模様は今なお人々を魅了し続け、世界的な評価も高く、日本の文学史上最も有名な作品のひとつといえるでしょう。 作者の紫式部(むらさきしきぶ)は中流貴族の出身で、一条天皇の后・藤原彰子(988~1074)に仕える女性でした。これだけの大作を書き上げながらその生涯はわからないことが多く、本名や生没年は不明、もちろんどのような菓子を食べたかという記録は残っていません。しかし『源氏物語』には「椿餅」などの菓子がいくつか登場し、本人も口にしたのではと推察できます。 例えば「葵」の帖では、檜の折箱(檜割子・ひわりご)に入った「亥の子餅」について書かれています。亥の子餅は、亥の月(旧暦10月)亥の日に無病息災を祈って食べる餅のことです。もともと民間の習慣だったものを、宇多天皇の御代(887-897)に宮中に取り入れられたとされています。『源氏物語』には形や味の記述はなく、平安時代から鎌倉時代にかけての史料によると、その形は猪の子をかたどっており(『年中行事秘抄』)、原材料は、大豆、小豆、大角豆(ささげ)、胡麻、栗、柿、糖(あめ)の七種類の粉を使う(『二中歴』)とあります。 時代とともに変化する「亥の子餅」鎌倉時代以降、宮中では赤・白・黒の小餅が主流となり、小さな臼と杵で餅を搗いたほか、贈り物として銀杏や紅葉、菊の花などを添えて紙で包むようになりました。また、民間では収穫祭と結びついて餡餅として作られたり、猪が火除けの神様のお使いであることから、茶道で炉開きのために用意されたりと、さまざまに変化していきました。現在では餡入りの餅菓子として多くの和菓子店が販売しています。紫式部が生きた時代、砂糖を使用した甘い菓子はまだありませんでした。現在の亥の子餅を紫式部が味わったら、甘くて美味しいことにびっくりするのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

滝沢路と法事の牡丹餅
参考 牡丹餅(イメージ)戯作者の「筆」となる江戸時代後期の戯作者、曲亭(滝沢)馬琴。『椿説弓張月』ほか数々の作品を世に送り出しますが、目を患って『南総里見八犬伝』の途中から執筆が困難になり、口述筆記に切り替えます。白羽の矢がたったのは息子・宗伯の妻、路(みち・1806~58)※。文学は素人だったため作業は困難を極めますが、粘り強い指導を受けつつ血のにじむような努力を重ね、馬琴の作家活動を支えていきました。また、路は滝沢家の営みを記録した日記も受け継ぎ、嘉永元年(1848)に馬琴が亡くなった後も書き続けます。特に翌2年6月から路が亡くなる安政5年までの記録は「路女日記(みちじょにっき)」と呼ばれ、滝沢家の歩みをたどることができる貴重な史料となっています。 牡丹餅で供養「路女日記」を見ると、滝沢家では年中行事や人生儀礼を欠かさなかったのはもちろん、近しい人々と菓子や料理を贈りあうなど、普段からのつきあいも大切にしていたことがわかります。これは馬琴が生前に率先して行ってきたことで、路もその振る舞いを忠実に守ったといえるでしょう。とりわけ先祖供養は念入りで、祥月命日に故人の肖像画を掛けて供え物を用意し、精進料理を食べ、菩提寺にお参りに行くというようなことを、ほぼ毎月行っています。四十九日や年忌法要を行う場合は大がかりで、牡丹餅を作るか、菓子屋で饅頭や餅菓子などを誂えるかして、親戚、知人、近隣の人々へ配りました。嘉永2年11月6日の馬琴の一周忌の際には、法要の前々日に14軒分の牡丹餅を作り、人足を使って届けています。通常は家族で牡丹餅を用意しますが、このときは珍しく息子の太郎が勤めていた幕府の御持筒組(おもちづつぐみ)の同僚も手伝っています。実は、法要のひと月ほど前に太郎が病により22歳の若さで亡くなっており、路は「少しも心なく、只亡然たる事」「落涙止時なく、実其身も忘るゝほど」という状態でした。同僚が手伝ったのは、失意の底にある母親を気遣ってのことだったのです。その後も、娘の幸(さち)に迎えた養子との間で起こった離婚騒動に巻き込まれたり、版元から思いがけず『仮名読八犬伝』の抄録を依頼されたりと、山あり谷ありの人生でしたが、馬琴から受け継いだ滝沢家の供養をおろそかにすることは決してありませんでした。仏前に牡丹餅を供える時には、日頃の厄介ごとを少しだけ脇に置き、心静かに先祖へ感謝の心を向けたことでしょう。 ※かつては息子の宗伯が代筆をしていたが、天保6年(1835)に亡くなってしまったため、筆記をつとめるものが不在となっていた。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献柴田光彦、大久保恵子編『瀧澤路女日記』上下巻 中央公論新社 2012、2013年暉峻康隆ほか編『馬琴日記』1~4巻 中央公論社 1973年曲亭主人「回外剰筆」(『南総里見八犬伝』下巻 博文館 1907年)西條奈加『曲亭の家』角川春樹事務所 2021年
滝沢路と法事の牡丹餅
参考 牡丹餅(イメージ)戯作者の「筆」となる江戸時代後期の戯作者、曲亭(滝沢)馬琴。『椿説弓張月』ほか数々の作品を世に送り出しますが、目を患って『南総里見八犬伝』の途中から執筆が困難になり、口述筆記に切り替えます。白羽の矢がたったのは息子・宗伯の妻、路(みち・1806~58)※。文学は素人だったため作業は困難を極めますが、粘り強い指導を受けつつ血のにじむような努力を重ね、馬琴の作家活動を支えていきました。また、路は滝沢家の営みを記録した日記も受け継ぎ、嘉永元年(1848)に馬琴が亡くなった後も書き続けます。特に翌2年6月から路が亡くなる安政5年までの記録は「路女日記(みちじょにっき)」と呼ばれ、滝沢家の歩みをたどることができる貴重な史料となっています。 牡丹餅で供養「路女日記」を見ると、滝沢家では年中行事や人生儀礼を欠かさなかったのはもちろん、近しい人々と菓子や料理を贈りあうなど、普段からのつきあいも大切にしていたことがわかります。これは馬琴が生前に率先して行ってきたことで、路もその振る舞いを忠実に守ったといえるでしょう。とりわけ先祖供養は念入りで、祥月命日に故人の肖像画を掛けて供え物を用意し、精進料理を食べ、菩提寺にお参りに行くというようなことを、ほぼ毎月行っています。四十九日や年忌法要を行う場合は大がかりで、牡丹餅を作るか、菓子屋で饅頭や餅菓子などを誂えるかして、親戚、知人、近隣の人々へ配りました。嘉永2年11月6日の馬琴の一周忌の際には、法要の前々日に14軒分の牡丹餅を作り、人足を使って届けています。通常は家族で牡丹餅を用意しますが、このときは珍しく息子の太郎が勤めていた幕府の御持筒組(おもちづつぐみ)の同僚も手伝っています。実は、法要のひと月ほど前に太郎が病により22歳の若さで亡くなっており、路は「少しも心なく、只亡然たる事」「落涙止時なく、実其身も忘るゝほど」という状態でした。同僚が手伝ったのは、失意の底にある母親を気遣ってのことだったのです。その後も、娘の幸(さち)に迎えた養子との間で起こった離婚騒動に巻き込まれたり、版元から思いがけず『仮名読八犬伝』の抄録を依頼されたりと、山あり谷ありの人生でしたが、馬琴から受け継いだ滝沢家の供養をおろそかにすることは決してありませんでした。仏前に牡丹餅を供える時には、日頃の厄介ごとを少しだけ脇に置き、心静かに先祖へ感謝の心を向けたことでしょう。 ※かつては息子の宗伯が代筆をしていたが、天保6年(1835)に亡くなってしまったため、筆記をつとめるものが不在となっていた。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献柴田光彦、大久保恵子編『瀧澤路女日記』上下巻 中央公論新社 2012、2013年暉峻康隆ほか編『馬琴日記』1~4巻 中央公論社 1973年曲亭主人「回外剰筆」(『南総里見八犬伝』下巻 博文館 1907年)西條奈加『曲亭の家』角川春樹事務所 2021年

中村仲蔵(三代目)と小倉鹿の子餅
参考 小倉鹿の子餅(小倉野)名優の自叙伝『手前味噌』三代目中村仲蔵(なかむらなかぞう・1809~86)は幕末から明治時代初期にかけて活躍した歌舞伎役者で、門閥の外から身をおこし幹部にまでのぼりつめました。写実的な演技に優れ、役柄は敵役と老け役が多く、最も活躍したのは、晩年期といわれています。 安政2年(1855)より、舞台の合間に楽屋にて書きはじめたものが、自叙伝『手前味噌(てまえみそ)』です。出生、そして10才の初舞台から36年を超える舞台記録を振り返り、晩年まで書き続けました。また、江戸から大坂までよく興行に出ていたため、道中で見聞した出来事や、名物菓子の記述が多いのも興味深いものです。今回は、同書にある幼少期の菓子に関するエピソードについてご紹介します。 菓子の思い出文政2年(1819)秋、仲蔵11才の時※1。とにかく芝居好きでこの日も稽古をする部屋に一番先に入り、隅に座って見ていました。仲蔵を見つけた三代目坂東三津五郎は「ここへ来い」「サア褒美を遣(や)らう」と、茶菓子に出ていた「大坂虎屋の小倉鹿の子餅」(求肥や餡などを芯にして蜜煮した小豆をつけたもの)を懐紙に挟み、ひとつ渡します。呼ばれていない稽古にも顔を出す熱心さに感心した故のことです。仲蔵がお礼を述べ受け取ると、傍にいた、後の二代目中村芝翫※2も「よう本読み(台詞を合わせる稽古)を聞いて居た褒美におれも遣らう」と、もうひとつ。2人は、ふたつともすぐに口に入れろと迫り、仲蔵の口に菓子を押し込みます。大きめな口が特徴で「鰐口(わにぐち)」とよばれていたことからの戯れですが、小倉鹿の子餅は「茶呑茶碗ほどな大きな物」であったため、口の中で「ムグムグ」となってしまいます。ほどなく解放され、落ち着いて味わうのですが、今から見ると少し意地悪に思えます。ただ仲蔵本人は、先輩俳優の愛情を感じていたようで、「誰にでも可愛がられて、家に居るより芝居に居るほうが面白かりし」と述べています。最初はびっくりして何がなんだかわからなかったでしょうが、だんだんと小倉鹿の子餅の美味しさを感じることができたのでしょう。幼い仲蔵の嬉しそうな姿が目に浮かぶようです。 ※1 この時は鶴蔵。その後、慶応元年(1865)58才で三代目中村仲蔵を襲名。※2 この時は鶴助。文政8年(1825)二代目中村芝翫となり、天保7年(1836)四代目中村歌右衛門を襲名。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献三代目中村仲蔵著 郡司正勝校註『手前味噌』青蛙房 1969年赤坂治績著『江戸歌舞伎役者の<食乱>日記』新潮社 2011年
中村仲蔵(三代目)と小倉鹿の子餅
参考 小倉鹿の子餅(小倉野)名優の自叙伝『手前味噌』三代目中村仲蔵(なかむらなかぞう・1809~86)は幕末から明治時代初期にかけて活躍した歌舞伎役者で、門閥の外から身をおこし幹部にまでのぼりつめました。写実的な演技に優れ、役柄は敵役と老け役が多く、最も活躍したのは、晩年期といわれています。 安政2年(1855)より、舞台の合間に楽屋にて書きはじめたものが、自叙伝『手前味噌(てまえみそ)』です。出生、そして10才の初舞台から36年を超える舞台記録を振り返り、晩年まで書き続けました。また、江戸から大坂までよく興行に出ていたため、道中で見聞した出来事や、名物菓子の記述が多いのも興味深いものです。今回は、同書にある幼少期の菓子に関するエピソードについてご紹介します。 菓子の思い出文政2年(1819)秋、仲蔵11才の時※1。とにかく芝居好きでこの日も稽古をする部屋に一番先に入り、隅に座って見ていました。仲蔵を見つけた三代目坂東三津五郎は「ここへ来い」「サア褒美を遣(や)らう」と、茶菓子に出ていた「大坂虎屋の小倉鹿の子餅」(求肥や餡などを芯にして蜜煮した小豆をつけたもの)を懐紙に挟み、ひとつ渡します。呼ばれていない稽古にも顔を出す熱心さに感心した故のことです。仲蔵がお礼を述べ受け取ると、傍にいた、後の二代目中村芝翫※2も「よう本読み(台詞を合わせる稽古)を聞いて居た褒美におれも遣らう」と、もうひとつ。2人は、ふたつともすぐに口に入れろと迫り、仲蔵の口に菓子を押し込みます。大きめな口が特徴で「鰐口(わにぐち)」とよばれていたことからの戯れですが、小倉鹿の子餅は「茶呑茶碗ほどな大きな物」であったため、口の中で「ムグムグ」となってしまいます。ほどなく解放され、落ち着いて味わうのですが、今から見ると少し意地悪に思えます。ただ仲蔵本人は、先輩俳優の愛情を感じていたようで、「誰にでも可愛がられて、家に居るより芝居に居るほうが面白かりし」と述べています。最初はびっくりして何がなんだかわからなかったでしょうが、だんだんと小倉鹿の子餅の美味しさを感じることができたのでしょう。幼い仲蔵の嬉しそうな姿が目に浮かぶようです。 ※1 この時は鶴蔵。その後、慶応元年(1865)58才で三代目中村仲蔵を襲名。※2 この時は鶴助。文政8年(1825)二代目中村芝翫となり、天保7年(1836)四代目中村歌右衛門を襲名。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献三代目中村仲蔵著 郡司正勝校註『手前味噌』青蛙房 1969年赤坂治績著『江戸歌舞伎役者の<食乱>日記』新潮社 2011年

鷹見泉石と嘉定の饅頭・羊羹
嘉定の菓子 左頁上からきんとん、あこや、右頁が寄水、饅頭。『嘉定私記』より肖像画の白眉、渡辺崋山筆「鷹見泉石像」幕末の開国論に大きな影響を与えた蘭学者、鷹見泉石(たかみせんせき・1785~1858)は、国宝「鷹見泉石像」(東京国立博物館蔵)により、事績以上にその容姿がよく知られているのではないでしょうか。泉石は下総古河藩(茨城県)土井家の家臣で、老中にもなった2人の藩主、利厚・利位(としつら)に仕えて幕政にも関わった、有能な政治家です。蘭学に傾倒したのも、主君の利厚のもとロシア使節レザノフへの対応を担当したことがきっかけでした。 嘉定の菓子の福分け弱冠20歳でロシア使節の対応にあたった泉石は、過去の記録が残されていなかったことで苦労したこともあり、藩の施策や公務の付き合いから、蘭学仲間の集まり、日々の物品のやりとりに至るまで、詳細に日記に書いています。その中には「巻煎餅」「金平糖」「唐饅頭」など多くの菓子の名が見えますが、気になるのは、菓子を食べて厄除招福を願う6月16日の「嘉定(嘉祥)」の記述です。毎年大名・旗本が登城して将軍から菓子を頂戴しますが、泉石は土井家の殿様がもらってきた菓子を、例年福分けとして拝領していたようです。注目したいのは天保14年(1843)と考えられる記事。この年は登城の翌日、17日に「昨日御拝領之御菓子饅頭羊羹餅」がそれぞれに熨斗と桧葉を添えて下賜されたとあります。 老中は特別?江戸幕府の嘉定では、饅頭・羊羹を含む8種類の菓子が用意されますが、1つの折敷に1種類と決まっているので(写真参照)、1人1種類しかもらえません。目当ての菓子がもらえなかったことで、一騒動起きた大名家もあるほどです。では、なぜ土井家では「饅頭羊羹餅」※1と複数の種類をもらえたのでしょうか。実は老中などの役人には、嘉定の儀礼を進行する役目があり、式が済んだ後に菓子をもらうことになっていたようです※2。ここからは想像ですが、江戸時代後期の嘉定は欠席者も多く用意した分が全て配られた訳ではないので、老中などの役人は残った菓子から好きなように選べたのではないでしょうか。大名・旗本をあわせ数百人が菓子を受けとって引き上げていく様を見送ってきたのですから、このくらいの役得はあってもよさそうな気がします。福分けとはいえ、「将軍様」から拝領した饅頭や羊羹はやはり格別だったことでしょう。博識な泉石のことですから、老中を務めた土井家の特別扱いを知っていて、ちょっとした優越感に浸っていたのかもしれません。 ※1 饅頭・羊羹のほか、鶉焼き、きんとん、あこやといった餅菓子を含めた3種類だった可能性もある。※2 「直勤留」(朝尾直弘編『譜代大名井伊家の儀礼』彦根城博物館 2004年所収) ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献古河歴史博物館編『鷹見泉石日記』第1巻~第8巻 吉川弘文館 2001~2004年片桐一男『鷹見泉石-開国を見通した蘭学家老』中央公論新社 2019年 相田文三「江戸幕府嘉定儀礼の「着座」について」『和菓子』25号 2018年
鷹見泉石と嘉定の饅頭・羊羹
嘉定の菓子 左頁上からきんとん、あこや、右頁が寄水、饅頭。『嘉定私記』より肖像画の白眉、渡辺崋山筆「鷹見泉石像」幕末の開国論に大きな影響を与えた蘭学者、鷹見泉石(たかみせんせき・1785~1858)は、国宝「鷹見泉石像」(東京国立博物館蔵)により、事績以上にその容姿がよく知られているのではないでしょうか。泉石は下総古河藩(茨城県)土井家の家臣で、老中にもなった2人の藩主、利厚・利位(としつら)に仕えて幕政にも関わった、有能な政治家です。蘭学に傾倒したのも、主君の利厚のもとロシア使節レザノフへの対応を担当したことがきっかけでした。 嘉定の菓子の福分け弱冠20歳でロシア使節の対応にあたった泉石は、過去の記録が残されていなかったことで苦労したこともあり、藩の施策や公務の付き合いから、蘭学仲間の集まり、日々の物品のやりとりに至るまで、詳細に日記に書いています。その中には「巻煎餅」「金平糖」「唐饅頭」など多くの菓子の名が見えますが、気になるのは、菓子を食べて厄除招福を願う6月16日の「嘉定(嘉祥)」の記述です。毎年大名・旗本が登城して将軍から菓子を頂戴しますが、泉石は土井家の殿様がもらってきた菓子を、例年福分けとして拝領していたようです。注目したいのは天保14年(1843)と考えられる記事。この年は登城の翌日、17日に「昨日御拝領之御菓子饅頭羊羹餅」がそれぞれに熨斗と桧葉を添えて下賜されたとあります。 老中は特別?江戸幕府の嘉定では、饅頭・羊羹を含む8種類の菓子が用意されますが、1つの折敷に1種類と決まっているので(写真参照)、1人1種類しかもらえません。目当ての菓子がもらえなかったことで、一騒動起きた大名家もあるほどです。では、なぜ土井家では「饅頭羊羹餅」※1と複数の種類をもらえたのでしょうか。実は老中などの役人には、嘉定の儀礼を進行する役目があり、式が済んだ後に菓子をもらうことになっていたようです※2。ここからは想像ですが、江戸時代後期の嘉定は欠席者も多く用意した分が全て配られた訳ではないので、老中などの役人は残った菓子から好きなように選べたのではないでしょうか。大名・旗本をあわせ数百人が菓子を受けとって引き上げていく様を見送ってきたのですから、このくらいの役得はあってもよさそうな気がします。福分けとはいえ、「将軍様」から拝領した饅頭や羊羹はやはり格別だったことでしょう。博識な泉石のことですから、老中を務めた土井家の特別扱いを知っていて、ちょっとした優越感に浸っていたのかもしれません。 ※1 饅頭・羊羹のほか、鶉焼き、きんとん、あこやといった餅菓子を含めた3種類だった可能性もある。※2 「直勤留」(朝尾直弘編『譜代大名井伊家の儀礼』彦根城博物館 2004年所収) ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献古河歴史博物館編『鷹見泉石日記』第1巻~第8巻 吉川弘文館 2001~2004年片桐一男『鷹見泉石-開国を見通した蘭学家老』中央公論新社 2019年 相田文三「江戸幕府嘉定儀礼の「着座」について」『和菓子』25号 2018年