虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子

島崎藤村と餅
参考:よもぎ餅(虎屋菓寮の季節メニュー) 児童文学に寄せる思い 島崎藤村(しまざきとうそん・1872~1943)は、旧中山道の馬籠宿(まごめじゅく・現在の岐阜県中津川市馬籠)生まれの詩人、小説家です。自身の体験を題材にした『破戒』や『夜明け前』が有名で、自然主義文学を代表する作家と評されています。しかし、その一方で児童文学にも力を入れ、幼少期の思い出を綴る短編集『幼きものに』『ふるさと』などを発表していることは意外に知られていないかもしれません。 藤村は9歳の秋に東京・銀座に出るまでは、馬籠で四季折々の自然の恵みを感じながら過ごしていました。大人になって思い出を書き残したのは、日々の食べ物や遊び道具を手作りする貴さ、加えて暮らしの知恵を次世代の子どもたちに伝えたいという、父親としての思いもあったことでしょう。 郷愁漂う餅の数々 前述の作品及び『幼き日(ある婦人に与うる手紙)』を含めて、幼年~少年時代を語る藤村の作品の中には、飴や金平糖、羊羹ほか菓子が随所に出てきます。なかでも餅類は、正月の餅、お祖父さんの好きな「ご幣(へい)餅」※1、晩秋の朝の食べ物のひとつだった「芋焼餅」※2など、さまざま。 春ならではの草餅も記憶に残るもののひとつだったのでしょう。日の当たった田んぼのそばで蓬を摘むのは楽しみで、家に持ち帰り、臼で搗(つ)き、草餅にしたそうです。また、11歳頃に銀座の寄宿先の家で草餅を作ったときを回想し、「草餅の香気(におい)などを嗅ぐほど可懐(なつか)しい思をさせるものが有りませんでした」と書いています。都会では田舎ほど蓬が採れないので、「青いシコシコとしたのは出来ません」と言い切ったり、故郷の母は掌(てのひら)ではなく、小皿の上で餅を延ばしたと、違いに触れたり、草餅がそれだけ藤村にとってかけがえのない菓子だったことを感じさせます。 餅と人生 亡くなる3年前、藤村は自己の童話をまとめようと、『力餅』と題した短編集を著しました。力餅とは峠の茶店で出され、旅人の助けとなる餅(多くはあんころ餅)のこと。一生の間にはいくつもの峠があるとし、「この小さな本は、わたしが皆さんのために用意した力餅で、ほんのこころざしばかりの贈り物なのです」と記しています。藤村の作品を振り返ってみると、力餅のみならず、草餅ほか故郷の餅すべてが彼の人生を癒し、力づけていたように思われます。 ※1平たく握った小さなおむすびを2~3個串にさし、胡桃醤油をかけ、炉の火で焼いたもの。※2『力餅』によれば、おもにそば粉を用い、里芋の子を混ぜ、握って炉の火で焼いたもの。 ※連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 「幼き日(ある婦人に与うる手紙)」(『現代日本の文学5 島崎藤村集』 学習研究社 1969年)『力餅』(『日本児童文学大系』第9巻 ほるぷ出版 1977年)島崎藤村『ふるさと 少年の読本』ネット武蔵野 2003年
島崎藤村と餅
参考:よもぎ餅(虎屋菓寮の季節メニュー) 児童文学に寄せる思い 島崎藤村(しまざきとうそん・1872~1943)は、旧中山道の馬籠宿(まごめじゅく・現在の岐阜県中津川市馬籠)生まれの詩人、小説家です。自身の体験を題材にした『破戒』や『夜明け前』が有名で、自然主義文学を代表する作家と評されています。しかし、その一方で児童文学にも力を入れ、幼少期の思い出を綴る短編集『幼きものに』『ふるさと』などを発表していることは意外に知られていないかもしれません。 藤村は9歳の秋に東京・銀座に出るまでは、馬籠で四季折々の自然の恵みを感じながら過ごしていました。大人になって思い出を書き残したのは、日々の食べ物や遊び道具を手作りする貴さ、加えて暮らしの知恵を次世代の子どもたちに伝えたいという、父親としての思いもあったことでしょう。 郷愁漂う餅の数々 前述の作品及び『幼き日(ある婦人に与うる手紙)』を含めて、幼年~少年時代を語る藤村の作品の中には、飴や金平糖、羊羹ほか菓子が随所に出てきます。なかでも餅類は、正月の餅、お祖父さんの好きな「ご幣(へい)餅」※1、晩秋の朝の食べ物のひとつだった「芋焼餅」※2など、さまざま。 春ならではの草餅も記憶に残るもののひとつだったのでしょう。日の当たった田んぼのそばで蓬を摘むのは楽しみで、家に持ち帰り、臼で搗(つ)き、草餅にしたそうです。また、11歳頃に銀座の寄宿先の家で草餅を作ったときを回想し、「草餅の香気(におい)などを嗅ぐほど可懐(なつか)しい思をさせるものが有りませんでした」と書いています。都会では田舎ほど蓬が採れないので、「青いシコシコとしたのは出来ません」と言い切ったり、故郷の母は掌(てのひら)ではなく、小皿の上で餅を延ばしたと、違いに触れたり、草餅がそれだけ藤村にとってかけがえのない菓子だったことを感じさせます。 餅と人生 亡くなる3年前、藤村は自己の童話をまとめようと、『力餅』と題した短編集を著しました。力餅とは峠の茶店で出され、旅人の助けとなる餅(多くはあんころ餅)のこと。一生の間にはいくつもの峠があるとし、「この小さな本は、わたしが皆さんのために用意した力餅で、ほんのこころざしばかりの贈り物なのです」と記しています。藤村の作品を振り返ってみると、力餅のみならず、草餅ほか故郷の餅すべてが彼の人生を癒し、力づけていたように思われます。 ※1平たく握った小さなおむすびを2~3個串にさし、胡桃醤油をかけ、炉の火で焼いたもの。※2『力餅』によれば、おもにそば粉を用い、里芋の子を混ぜ、握って炉の火で焼いたもの。 ※連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 「幼き日(ある婦人に与うる手紙)」(『現代日本の文学5 島崎藤村集』 学習研究社 1969年)『力餅』(『日本児童文学大系』第9巻 ほるぷ出版 1977年)島崎藤村『ふるさと 少年の読本』ネット武蔵野 2003年

新島八重と鶯餅
動乱の時代 会津から京都へ 新島八重(にいじまやえ・1845~1932・旧姓 山本)は、会津藩の砲術指南の家に生まれ、慶応4年(1868)、会津が薩摩と長州を中心とする新政府軍に攻められると(会津戦争)、自ら銃を取って奮戦します。しかし激戦の末会津は降伏。父や弟を戦で失い、移住した京都で新島襄(にいじまじょう)と出会い結婚します。 襄は同志社英学校(後の同志社大学)を設立し、八重も学校の運営や生徒の世話にあたったほか、同志社女学校(後の同志社女子大学)の設立にも携わりました。甘いもの好きの襄のためにジンジャーブレッドなどの洋菓子をつくり、学生たちには試験後に汁粉をふるまうこともあったといいます。 茶人・新島宗竹 八重が46歳の明治23年(1890)、襄が病で亡くなります。最愛の夫を失い悲嘆にくれるものの、八重の歩みは止まることがありませんでした。数年後には篤志看護婦として日清戦争の傷病兵の看護に奔走、また、本格的に裏千家茶道を学び、家元から「宗竹」の茶名を許されるまでになります。 男性社会だった茶の湯の世界で、女性が重要な役割を担い始めた時代、八重は女性茶人のさきがけとして、多くの門弟を指導し、家元の行事に参加するなど、晩年まで活動を続けます。 新島邸・新年の茶会 八重が催した茶会の記録はいくつか残っており、裏千家の機関誌『今日庵月報』の記事では、大正10年(1921)1月20日、新島邸での初釜の様子が紹介されています。 この日、用意された主菓子は鶯餅、干菓子は松の葉と短冊形のものでした。一般に鶯餅は、餡を包んだ求肥の両端をつまみ、青きな粉をまぶし、色と形を鶯の姿に見立てた早春の菓子。通常のきな粉は大豆の粉ですが、青きな粉は別名鶯粉とも呼ばれ、青大豆を使います。とても香りが良いのも魅力のひとつでしょう。 古来、鶯は梅の花とともに春の訪れを象徴する風物として愛されてきました。その年初めての鶯の鳴き声は「初音(はつね)」と呼ばれて縁起が良いことも、初釜の菓子に選んだ理由かもしれません。 茶席の床には「会津国主姫君」による和歌の短冊がかけられていました。これは会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)の義姉照姫の作と思われます。会津戦争で籠城した女性たちを指揮していたのが照姫であり、八重は京都にあっても会津への愛情を示し続けたのでしょう。 ※連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 筒井紘一『新島八重の茶事記』 小学館 2013年 『今日庵月報』133号 今日庵 1921年
新島八重と鶯餅
動乱の時代 会津から京都へ 新島八重(にいじまやえ・1845~1932・旧姓 山本)は、会津藩の砲術指南の家に生まれ、慶応4年(1868)、会津が薩摩と長州を中心とする新政府軍に攻められると(会津戦争)、自ら銃を取って奮戦します。しかし激戦の末会津は降伏。父や弟を戦で失い、移住した京都で新島襄(にいじまじょう)と出会い結婚します。 襄は同志社英学校(後の同志社大学)を設立し、八重も学校の運営や生徒の世話にあたったほか、同志社女学校(後の同志社女子大学)の設立にも携わりました。甘いもの好きの襄のためにジンジャーブレッドなどの洋菓子をつくり、学生たちには試験後に汁粉をふるまうこともあったといいます。 茶人・新島宗竹 八重が46歳の明治23年(1890)、襄が病で亡くなります。最愛の夫を失い悲嘆にくれるものの、八重の歩みは止まることがありませんでした。数年後には篤志看護婦として日清戦争の傷病兵の看護に奔走、また、本格的に裏千家茶道を学び、家元から「宗竹」の茶名を許されるまでになります。 男性社会だった茶の湯の世界で、女性が重要な役割を担い始めた時代、八重は女性茶人のさきがけとして、多くの門弟を指導し、家元の行事に参加するなど、晩年まで活動を続けます。 新島邸・新年の茶会 八重が催した茶会の記録はいくつか残っており、裏千家の機関誌『今日庵月報』の記事では、大正10年(1921)1月20日、新島邸での初釜の様子が紹介されています。 この日、用意された主菓子は鶯餅、干菓子は松の葉と短冊形のものでした。一般に鶯餅は、餡を包んだ求肥の両端をつまみ、青きな粉をまぶし、色と形を鶯の姿に見立てた早春の菓子。通常のきな粉は大豆の粉ですが、青きな粉は別名鶯粉とも呼ばれ、青大豆を使います。とても香りが良いのも魅力のひとつでしょう。 古来、鶯は梅の花とともに春の訪れを象徴する風物として愛されてきました。その年初めての鶯の鳴き声は「初音(はつね)」と呼ばれて縁起が良いことも、初釜の菓子に選んだ理由かもしれません。 茶席の床には「会津国主姫君」による和歌の短冊がかけられていました。これは会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)の義姉照姫の作と思われます。会津戦争で籠城した女性たちを指揮していたのが照姫であり、八重は京都にあっても会津への愛情を示し続けたのでしょう。 ※連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 筒井紘一『新島八重の茶事記』 小学館 2013年 『今日庵月報』133号 今日庵 1921年

宗長と甘酒
戦国の世を旅する連歌師 宗長(そうちょう・1448~1532)は、室町時代後期の連歌師。生まれ故郷の駿河国(静岡県)で今川氏に仕えたのち、京都で一休宗純(いっきゅうそうじゅん)に禅を学び、宗祇(そうぎ)のもとで連歌を修業して腕を磨きます。その後再び今川氏の庇護を受け、駿河を拠点に京都ほか諸国をめぐり※1、公家や大名、豪族を訪ねて、彼らのもとで開かれる連歌の会に参加するとともに戦(いくさ)に揺れる各地の情勢を伝えました。宗長が懇意にしていたのは、仕えていた今川義忠(いまがわよしただ)・氏親(うじちか)親子のほか、公家の三条西実隆(さんじょうにしさねたか)、管領(かんれい)の細川高国(ほそかわたかくに)、伊勢亀山城主の関何以斎(せきかじさい)など。時には大名との外交交渉に臨むこともあったといい、その能力は連歌にとどまらなかったといえましょう。 年老いた身に沁みる甘酒 大永6年(1526)、79歳になった宗長は、恩師の一休が後半生を過ごした酬恩庵(しゅうおんあん・京都府京田辺市)で余生を送るべく故郷の駿河を離れます。しかし、京都に着いたものの室町幕府を巻き込んだ戦が勃発、やむなく脱出し、一休にゆかりのある、矢島(滋賀県守山市)の少林寺に身を寄せました。宗長到着の知らせを聞きつけた知人たちは、その身を案じ手土産を携えて次々と寺に駆けつけます。連歌の会なども催されて、思いのほか賑やかだったようですが、京都で余生を送る夢が潰えたのはやはり無念だったのか、時折、老いの身を詠んだ歌や文を記しています。その一つがこちら。 老ぬればねがひ物ぞよあまざけのみながら口にすゝり入(いれ)ばや 詞書(ことばがき)には「少林寺納所(なっしょ※2)へ」とあるので、寺に納められた甘酒を分けてもらったのでしょうか。甘酒は今もおなじみの甘味飲料で、古く奈良時代には飲まれていたといい、その製法は、米麴と米を発酵させて作るものと、酒粕を湯で煮溶かして作るものの2種類が知られます。麴を使った甘酒はアルコールを含まず優しい甘みで、酒粕を使った甘酒は、若干のアルコールを含み芳醇な香りをもつのが特徴です。宗長が飲んでいたのはどちらのタイプか不明ですが、手記を見るとしばしば酒を楽しんでいるので、酒粕の甘酒の可能性もあるでしょう。この歌を詠んだ時は、寒さが極まる旧暦12月のはじめ。熱々の甘酒がひとときでも宗長の心を慰めてくれていたらと願わずにはいられません。 ※1 宗長が旅に出るときには弟子を同行させる場合もあった。谷宗牧はその1人である。 ※2 禅宗寺院で、施物をおさめる場所。 ※連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 島津忠夫校注『宗長日記』岩波書店 1975年鶴崎裕雄『戦国を往く 連歌師宗長』角川書店 2000年
宗長と甘酒
戦国の世を旅する連歌師 宗長(そうちょう・1448~1532)は、室町時代後期の連歌師。生まれ故郷の駿河国(静岡県)で今川氏に仕えたのち、京都で一休宗純(いっきゅうそうじゅん)に禅を学び、宗祇(そうぎ)のもとで連歌を修業して腕を磨きます。その後再び今川氏の庇護を受け、駿河を拠点に京都ほか諸国をめぐり※1、公家や大名、豪族を訪ねて、彼らのもとで開かれる連歌の会に参加するとともに戦(いくさ)に揺れる各地の情勢を伝えました。宗長が懇意にしていたのは、仕えていた今川義忠(いまがわよしただ)・氏親(うじちか)親子のほか、公家の三条西実隆(さんじょうにしさねたか)、管領(かんれい)の細川高国(ほそかわたかくに)、伊勢亀山城主の関何以斎(せきかじさい)など。時には大名との外交交渉に臨むこともあったといい、その能力は連歌にとどまらなかったといえましょう。 年老いた身に沁みる甘酒 大永6年(1526)、79歳になった宗長は、恩師の一休が後半生を過ごした酬恩庵(しゅうおんあん・京都府京田辺市)で余生を送るべく故郷の駿河を離れます。しかし、京都に着いたものの室町幕府を巻き込んだ戦が勃発、やむなく脱出し、一休にゆかりのある、矢島(滋賀県守山市)の少林寺に身を寄せました。宗長到着の知らせを聞きつけた知人たちは、その身を案じ手土産を携えて次々と寺に駆けつけます。連歌の会なども催されて、思いのほか賑やかだったようですが、京都で余生を送る夢が潰えたのはやはり無念だったのか、時折、老いの身を詠んだ歌や文を記しています。その一つがこちら。 老ぬればねがひ物ぞよあまざけのみながら口にすゝり入(いれ)ばや 詞書(ことばがき)には「少林寺納所(なっしょ※2)へ」とあるので、寺に納められた甘酒を分けてもらったのでしょうか。甘酒は今もおなじみの甘味飲料で、古く奈良時代には飲まれていたといい、その製法は、米麴と米を発酵させて作るものと、酒粕を湯で煮溶かして作るものの2種類が知られます。麴を使った甘酒はアルコールを含まず優しい甘みで、酒粕を使った甘酒は、若干のアルコールを含み芳醇な香りをもつのが特徴です。宗長が飲んでいたのはどちらのタイプか不明ですが、手記を見るとしばしば酒を楽しんでいるので、酒粕の甘酒の可能性もあるでしょう。この歌を詠んだ時は、寒さが極まる旧暦12月のはじめ。熱々の甘酒がひとときでも宗長の心を慰めてくれていたらと願わずにはいられません。 ※1 宗長が旅に出るときには弟子を同行させる場合もあった。谷宗牧はその1人である。 ※2 禅宗寺院で、施物をおさめる場所。 ※連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 島津忠夫校注『宗長日記』岩波書店 1975年鶴崎裕雄『戦国を往く 連歌師宗長』角川書店 2000年

篠田鉱造と釜鳴団子
実話主義の記者作家 篠田鉱造(しのだこうぞう・1872~1965)は、報知新聞に記者として勤めるかたわら、幕末~明治の古老の聞書きを集めて連載を執筆し、『幕末百話』(1905)、『明治百話』(1931)、『幕末明治女百話』(1932)などにまとめました。内容は政治家の家庭の話や移り行く町の様子、食べ物に芸能関係と多岐にわたり、どれも臨場感があります。「話はナマの話に限るといふ事」という「実話主義」を掲げ、薄給の記者時代にも高額な謝礼を払って古老の話を聞き込んだそう。話者の名や日時が記されていないことも多いのですが、名もなき市井の人々の「ナマ」の声を伝えている点で、貴重な史料を残したと言えるでしょう。 赤坂名物の釜鳴団子 数ある証言の中には、鉱造自身が青春時代を過ごした赤坂界隈の様子を語ったものもあります。松江藩に仕えた武士だった祖父が、維新後は赤坂で質屋を営んでいたため、鉱造は13歳から23歳まで「赤坂田町六丁目」(現在の溜池山王駅付近)に住んでいたのです。 明治15~23年(1882~90)頃のことで、その当時、家の筋向いにあった「名代の団子屋」が「釜鳴屋」です。毎朝店の釜が鳴るためこの名がついたのだそうで、名物は焼き団子。店頭に縁台を置き、その横で、火鉢に長い鉄灸(鉄の棒)を渡し、うなぎのかば焼のように団扇で叩きながら焼いていたと言います。鉱造によれば、主人は「ひよろ長い人」で(元力士だったとも)、おかみさんは「瘦せこけた女」だったとか。 団子は男性の親指より大きい五つ刺しで、他に「あん(餡)だんご」「みつ(蜜)だんご」もありました。店先で食べるのが定番で、「ソノ焼立てを、頬張りながら、大きな湯呑で、お茶を飲んで休んで行く人が多いのです」と、鉱造は当時の様子を振り返っています。 「実話」の力 実際、本当に評判の店だったようで、『明治百話』の続編『明治開化奇談』(1943)にも、光野京子という鉱造と同世代の女性の聞書きに「繁昌の店」として登場します。 「お醤油へつけて、炭火へかざして焼く、アノかんばしい匂ひツたら、喰べずにはゐられない、おいしさうな匂ひでした」とは団子の思い出を反芻する一節。小気味よい語り口のせいもあるかもしれませんが、香ばしい醤油の匂いが今にも漂ってきそうです。 採録当時から150年近く経ってこれだけ臨場感があるのは「実話」ならでは。聞書きの類には史料としての正確さに疑問符が付くこともありますが、こと菓子のような食べ物の味わいに関しては、「話はナマの話に限る」という鉱造の主張に、全面的に同意したくなります。 ※連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 河野桐谷編『漫談 江戸は過ぎる』 万里閣書房 1929年 山崎扇城『新聞人史』第1篇(東京) 新聞時報社 1929年 篠田鉱造『明治百話』 四条書房 1931年 篠田鉱造『明治開化奇談』 明正堂 1943年
篠田鉱造と釜鳴団子
実話主義の記者作家 篠田鉱造(しのだこうぞう・1872~1965)は、報知新聞に記者として勤めるかたわら、幕末~明治の古老の聞書きを集めて連載を執筆し、『幕末百話』(1905)、『明治百話』(1931)、『幕末明治女百話』(1932)などにまとめました。内容は政治家の家庭の話や移り行く町の様子、食べ物に芸能関係と多岐にわたり、どれも臨場感があります。「話はナマの話に限るといふ事」という「実話主義」を掲げ、薄給の記者時代にも高額な謝礼を払って古老の話を聞き込んだそう。話者の名や日時が記されていないことも多いのですが、名もなき市井の人々の「ナマ」の声を伝えている点で、貴重な史料を残したと言えるでしょう。 赤坂名物の釜鳴団子 数ある証言の中には、鉱造自身が青春時代を過ごした赤坂界隈の様子を語ったものもあります。松江藩に仕えた武士だった祖父が、維新後は赤坂で質屋を営んでいたため、鉱造は13歳から23歳まで「赤坂田町六丁目」(現在の溜池山王駅付近)に住んでいたのです。 明治15~23年(1882~90)頃のことで、その当時、家の筋向いにあった「名代の団子屋」が「釜鳴屋」です。毎朝店の釜が鳴るためこの名がついたのだそうで、名物は焼き団子。店頭に縁台を置き、その横で、火鉢に長い鉄灸(鉄の棒)を渡し、うなぎのかば焼のように団扇で叩きながら焼いていたと言います。鉱造によれば、主人は「ひよろ長い人」で(元力士だったとも)、おかみさんは「瘦せこけた女」だったとか。 団子は男性の親指より大きい五つ刺しで、他に「あん(餡)だんご」「みつ(蜜)だんご」もありました。店先で食べるのが定番で、「ソノ焼立てを、頬張りながら、大きな湯呑で、お茶を飲んで休んで行く人が多いのです」と、鉱造は当時の様子を振り返っています。 「実話」の力 実際、本当に評判の店だったようで、『明治百話』の続編『明治開化奇談』(1943)にも、光野京子という鉱造と同世代の女性の聞書きに「繁昌の店」として登場します。 「お醤油へつけて、炭火へかざして焼く、アノかんばしい匂ひツたら、喰べずにはゐられない、おいしさうな匂ひでした」とは団子の思い出を反芻する一節。小気味よい語り口のせいもあるかもしれませんが、香ばしい醤油の匂いが今にも漂ってきそうです。 採録当時から150年近く経ってこれだけ臨場感があるのは「実話」ならでは。聞書きの類には史料としての正確さに疑問符が付くこともありますが、こと菓子のような食べ物の味わいに関しては、「話はナマの話に限る」という鉱造の主張に、全面的に同意したくなります。 ※連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 河野桐谷編『漫談 江戸は過ぎる』 万里閣書房 1929年 山崎扇城『新聞人史』第1篇(東京) 新聞時報社 1929年 篠田鉱造『明治百話』 四条書房 1931年 篠田鉱造『明治開化奇談』 明正堂 1943年

田山花袋と羊羹
親友との出会い 田山花袋(たやまかたい・1871~1930)は現在の群馬県館林市に生まれ、明治時代後期に活躍した小説家です。中年作家の恋を描いた代表作『蒲団』(1908)は、私小説の先駆けといわれます。明治19年(1886)に一家で上京。文学の世界にあこがれ、尾崎紅葉に師事しながら執筆活動を開始しました。明治29年、すでに文壇で名をあげつつあった同い年の国木田独歩(くにきだどっぽ・1871~1908)のもとを訪れた花袋はすっかり意気投合し、生涯にわたる親交がはじまるのでした。 隠遁生活での楽しみ 出会いの翌年、26歳の春、2人は連れ立って日光へでかけます。そして4月20日から6月2日まで照尊院(しょうそんいん)というお寺に仮住まいすることに。花袋も独歩も「貧しい不自由な山寺の生活」を、「有り余る贅沢な生活も面白いが、何もない生活も面白い」と前向きにとらえ、「倹約に倹約して」過ごしてみることにしました。朝昼の食事は白米と味噌汁。1銭の豆腐を買って、晩のおかず兼酒肴にするという質素な生活ですが、花袋の残した出費の記録(2人分をまとめて記載)を見てみると、なんと「羊羹」が7回もでてきます。値段は12銭前後で、1銭の豆腐で暮らす身には、ちょっとした贅沢品です。今も日光は羊羹が名物として知られていますが、到着早々、4/21、22、23、25、26と立て続けに購入しているのは、よほどおいしい店を見つけたのかもしれません。滞在中、2人は都会の喧騒から離れ、恋や人生、小説のことなど「そのころの青年にふさわしいセンチメンタルなことばかり」を昼に夜に語り合いました。お金はなくても、時間という財産をふんだんにもっている若者の特権。その傍らには、いつも羊羹が置かれていたのでしょうか。 羊羹と思いきや…… さて、花袋と羊羹と言えば、こんなエピソードも。独歩が経営していた出版社の2階での、ある日のこと。卓上にあった黒い長方形のものを羊羹だと思い、勢い込んで齧ったら、なんとそれはマッチ箱! 花袋のそそっかしさと、羊羹好きがうかがえる逸話ですが、その場に居合わせた作家の前田晁(まえだあきら)によると、実は、これは独歩が仕掛けたいたずらだったとのこと。花袋が離席中に空の菓子鉢にマッチ箱を入れ、近眼の花袋が見間違えるよう、わざと部屋の明かりを暗くしておいたのだそうです。当時、独歩の会社は資金難のため倒産が決まり、事後の相談のため、仲間が集まっていました。「ペッペッと口を拭つてマッチを抛(ほう)り出」すさまを見て、一同は大笑いしたとあり、花袋はわざとオーバーなリアクションをして場を和ませようとしたのかもしれません。その後まもなく独歩は病気で亡くなりました。花袋は羊羹を見るたびに、若くして世を去った無二の親友を、そして、共に過ごした日々をなつかしく思い出したのではないでしょうか。 ※このエピソードは、独歩の妻の国木田治子の小説「破産」のなかにも登場する。作中では、独歩は主人公の「岡村」、花袋は岡村の友人の「吉野文士」と名前を変えてある。 ※連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 「日光時代」『近代文学鑑賞講座』第7巻 角川書店 1963年「KとT」『東京の三十年』 岩波書店 1981年小杉未醒・吉江孤雁「独歩社時代」『翻刻 趣味 拡大号 文豪国木田独歩』 信濃房 1979年『明治大正の文学人』前田晁 砂子屋書房 1942年
田山花袋と羊羹
親友との出会い 田山花袋(たやまかたい・1871~1930)は現在の群馬県館林市に生まれ、明治時代後期に活躍した小説家です。中年作家の恋を描いた代表作『蒲団』(1908)は、私小説の先駆けといわれます。明治19年(1886)に一家で上京。文学の世界にあこがれ、尾崎紅葉に師事しながら執筆活動を開始しました。明治29年、すでに文壇で名をあげつつあった同い年の国木田独歩(くにきだどっぽ・1871~1908)のもとを訪れた花袋はすっかり意気投合し、生涯にわたる親交がはじまるのでした。 隠遁生活での楽しみ 出会いの翌年、26歳の春、2人は連れ立って日光へでかけます。そして4月20日から6月2日まで照尊院(しょうそんいん)というお寺に仮住まいすることに。花袋も独歩も「貧しい不自由な山寺の生活」を、「有り余る贅沢な生活も面白いが、何もない生活も面白い」と前向きにとらえ、「倹約に倹約して」過ごしてみることにしました。朝昼の食事は白米と味噌汁。1銭の豆腐を買って、晩のおかず兼酒肴にするという質素な生活ですが、花袋の残した出費の記録(2人分をまとめて記載)を見てみると、なんと「羊羹」が7回もでてきます。値段は12銭前後で、1銭の豆腐で暮らす身には、ちょっとした贅沢品です。今も日光は羊羹が名物として知られていますが、到着早々、4/21、22、23、25、26と立て続けに購入しているのは、よほどおいしい店を見つけたのかもしれません。滞在中、2人は都会の喧騒から離れ、恋や人生、小説のことなど「そのころの青年にふさわしいセンチメンタルなことばかり」を昼に夜に語り合いました。お金はなくても、時間という財産をふんだんにもっている若者の特権。その傍らには、いつも羊羹が置かれていたのでしょうか。 羊羹と思いきや…… さて、花袋と羊羹と言えば、こんなエピソードも。独歩が経営していた出版社の2階での、ある日のこと。卓上にあった黒い長方形のものを羊羹だと思い、勢い込んで齧ったら、なんとそれはマッチ箱! 花袋のそそっかしさと、羊羹好きがうかがえる逸話ですが、その場に居合わせた作家の前田晁(まえだあきら)によると、実は、これは独歩が仕掛けたいたずらだったとのこと。花袋が離席中に空の菓子鉢にマッチ箱を入れ、近眼の花袋が見間違えるよう、わざと部屋の明かりを暗くしておいたのだそうです。当時、独歩の会社は資金難のため倒産が決まり、事後の相談のため、仲間が集まっていました。「ペッペッと口を拭つてマッチを抛(ほう)り出」すさまを見て、一同は大笑いしたとあり、花袋はわざとオーバーなリアクションをして場を和ませようとしたのかもしれません。その後まもなく独歩は病気で亡くなりました。花袋は羊羹を見るたびに、若くして世を去った無二の親友を、そして、共に過ごした日々をなつかしく思い出したのではないでしょうか。 ※このエピソードは、独歩の妻の国木田治子の小説「破産」のなかにも登場する。作中では、独歩は主人公の「岡村」、花袋は岡村の友人の「吉野文士」と名前を変えてある。 ※連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 「日光時代」『近代文学鑑賞講座』第7巻 角川書店 1963年「KとT」『東京の三十年』 岩波書店 1981年小杉未醒・吉江孤雁「独歩社時代」『翻刻 趣味 拡大号 文豪国木田独歩』 信濃房 1979年『明治大正の文学人』前田晁 砂子屋書房 1942年

斎藤茂吉と菓子
参考 とらやの最中 はじめての最中に感動 斎藤茂吉(さいとうもきち・1882~1953)は、日本を代表する近代短歌の歌人です。20代の頃から「アララギ」の中心歌人となり、歌集『赤光(しゃっこう)』や『あらたま』などが高い評価を受ける一方で、本業では精神科医をつとめました。山形県の農家に生まれましたが、開業医を営む親戚のもとで医学を学ぶため、14歳の時に上京しています。当時の回想によれば、上京途中に泊まった仙台の旅館ではじめて最中を食べたといい、寄宿先の浅草の医院に着いてからも「最中といふ菓子も毎日のやうに食ふことが出来る」と満足そうに書いています。さらに、はじめて玉子とじという蕎麦を食べた感想でも「仙台の旅舎で最中といふ菓子を食べて感動したごとく」と引き合いに出しているので、最中から受けた衝撃は相当だったようです。 「殿中」の謎 さて、最中以外にも、菓子をめぐるエピソードがあります。同じアララギ派の兄弟子といえる長塚節(ながつかたかし)没後、故人の全集の編集にあたったときのこと。書簡の校正作業を進めるなか、「家でい(炒)らせて置いた金米糖が棚の上にあるから序(ついで)の折に三四合ばかり送れ」とあり、「金平糖」を炒るがどうにも腑に落ちません。調べたところ、なんと「米糠」(こめぬか)の誤植※1と発覚。転載元の時点で「金」の字が紛れ込んだのが原因で、難渋した旨を漏らしています。また、「殿中一折ありがたく」の「殿中」が何かわからず、岡麓(おかふもと・アララギ派の歌人)に教えを仰いだことも。返事は、「よしはら殿中は、水戸でのお菓子、五家宝※2ごぞんじかえ、よく似てゐると」というもので、つまり、菓子の「吉原殿中」を一箱もらい、そのお礼に出した書簡だったのです。茂吉は、「かういふ面白いこともある。全集発行は実に難儀な大事業であるが、たまたま斯(かか)る清涼剤を得て息づくのである」と回想しています。「吉原殿中」は現在も水戸銘菓として知られる、あられを糖蜜で固めて棒状にし、きな粉をまぶした菓子です。水戸藩九代藩主・徳川斉昭(1800~60)が、菓子を考案した奥女中・吉原の名をとって名前をつけたともいわれます。茨城県出身の長塚節にとっては身近だったのでしょう。茂吉はといえば、食べ物の歌や絵を多く残し、食にこだわりを持っていましたが、さすがに「殿中」が菓子とは思いもよらなかった様子。特徴ある名前を愉快に思ったのか、こちらは「面白いこと」として印象に残ったようです。「金米糖」に悩み、「吉原殿中」で息抜きし、と菓子に振り回される茂吉の様子が浮かび、なんだかクスッとしてしまいます。 ※1 米糠は、保存や料理のため、炒って水分を飛ばして使われることがある。※2 埼玉銘菓。 ※連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 『斎藤茂吉全集』第9巻 岩波書店 1953年『斎藤茂吉全集』第42巻 岩波書店 1955年
斎藤茂吉と菓子
参考 とらやの最中 はじめての最中に感動 斎藤茂吉(さいとうもきち・1882~1953)は、日本を代表する近代短歌の歌人です。20代の頃から「アララギ」の中心歌人となり、歌集『赤光(しゃっこう)』や『あらたま』などが高い評価を受ける一方で、本業では精神科医をつとめました。山形県の農家に生まれましたが、開業医を営む親戚のもとで医学を学ぶため、14歳の時に上京しています。当時の回想によれば、上京途中に泊まった仙台の旅館ではじめて最中を食べたといい、寄宿先の浅草の医院に着いてからも「最中といふ菓子も毎日のやうに食ふことが出来る」と満足そうに書いています。さらに、はじめて玉子とじという蕎麦を食べた感想でも「仙台の旅舎で最中といふ菓子を食べて感動したごとく」と引き合いに出しているので、最中から受けた衝撃は相当だったようです。 「殿中」の謎 さて、最中以外にも、菓子をめぐるエピソードがあります。同じアララギ派の兄弟子といえる長塚節(ながつかたかし)没後、故人の全集の編集にあたったときのこと。書簡の校正作業を進めるなか、「家でい(炒)らせて置いた金米糖が棚の上にあるから序(ついで)の折に三四合ばかり送れ」とあり、「金平糖」を炒るがどうにも腑に落ちません。調べたところ、なんと「米糠」(こめぬか)の誤植※1と発覚。転載元の時点で「金」の字が紛れ込んだのが原因で、難渋した旨を漏らしています。また、「殿中一折ありがたく」の「殿中」が何かわからず、岡麓(おかふもと・アララギ派の歌人)に教えを仰いだことも。返事は、「よしはら殿中は、水戸でのお菓子、五家宝※2ごぞんじかえ、よく似てゐると」というもので、つまり、菓子の「吉原殿中」を一箱もらい、そのお礼に出した書簡だったのです。茂吉は、「かういふ面白いこともある。全集発行は実に難儀な大事業であるが、たまたま斯(かか)る清涼剤を得て息づくのである」と回想しています。「吉原殿中」は現在も水戸銘菓として知られる、あられを糖蜜で固めて棒状にし、きな粉をまぶした菓子です。水戸藩九代藩主・徳川斉昭(1800~60)が、菓子を考案した奥女中・吉原の名をとって名前をつけたともいわれます。茨城県出身の長塚節にとっては身近だったのでしょう。茂吉はといえば、食べ物の歌や絵を多く残し、食にこだわりを持っていましたが、さすがに「殿中」が菓子とは思いもよらなかった様子。特徴ある名前を愉快に思ったのか、こちらは「面白いこと」として印象に残ったようです。「金米糖」に悩み、「吉原殿中」で息抜きし、と菓子に振り回される茂吉の様子が浮かび、なんだかクスッとしてしまいます。 ※1 米糠は、保存や料理のため、炒って水分を飛ばして使われることがある。※2 埼玉銘菓。 ※連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 『斎藤茂吉全集』第9巻 岩波書店 1953年『斎藤茂吉全集』第42巻 岩波書店 1955年