虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
坂本龍馬と金平糖
和漢三才図会幕末の風雲児坂本龍馬(1835~67)は風雲急を告げる幕末の動乱期、倒幕運動に身を投じました。特に対立していた薩摩藩と長州藩を仲介し、薩長同盟を成立させたことは有名です。日本の夜明けを目前にして暗殺されましたが、その波乱の生涯は何度も小説や映画となり、今なお人気の高い人物です。 女性のお肌と金平糖龍馬はしばしば故郷土佐の姉や姪に書状を送っており、率直かつ軽妙な語り口から人柄が偲ばれます。龍馬は、8歳年下の姪春猪(はるい)に外国産のおしろいを送る一方、慶応3年(1867)の書状では金平糖の鋳型のような肌を、おしろいで塗りつぶしているだろうとからかっています。若い女性の肌をでこぼこしたものに例えるなんて、随分失礼ですね。春猪とはそんな冗談も言い合える、親しい間柄だったのでしょう。 龍馬、金平糖の作り方を誤解?龍馬は別の書状でも女性がおしろいを塗る様を「金平糖の鋳型がおしろいにてふさがり候」(原文平仮名)と書いていますので、お気に入りの表現だったのかもしれません。ところが、金平糖作りには鋳型は使わないのです。どうやら龍馬は作り方を誤解していたようです。金平糖は現在、グラニュー糖などを芯に、鍋で回転させながら少しずつ糖蜜をかけて角を成長させ、2週間ほどかけて作られます。江戸時代には芥子の実などが芯にされていました。金平糖の角はどうやってできるのか?身近な菓子でありながら、意外と知られていないのではないでしょうか。龍馬が本当の作り方を知ったら、楽しい手紙で家族に報告したかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献宮地佐一郎『龍馬の手紙』講談社 2003年
坂本龍馬と金平糖
和漢三才図会幕末の風雲児坂本龍馬(1835~67)は風雲急を告げる幕末の動乱期、倒幕運動に身を投じました。特に対立していた薩摩藩と長州藩を仲介し、薩長同盟を成立させたことは有名です。日本の夜明けを目前にして暗殺されましたが、その波乱の生涯は何度も小説や映画となり、今なお人気の高い人物です。 女性のお肌と金平糖龍馬はしばしば故郷土佐の姉や姪に書状を送っており、率直かつ軽妙な語り口から人柄が偲ばれます。龍馬は、8歳年下の姪春猪(はるい)に外国産のおしろいを送る一方、慶応3年(1867)の書状では金平糖の鋳型のような肌を、おしろいで塗りつぶしているだろうとからかっています。若い女性の肌をでこぼこしたものに例えるなんて、随分失礼ですね。春猪とはそんな冗談も言い合える、親しい間柄だったのでしょう。 龍馬、金平糖の作り方を誤解?龍馬は別の書状でも女性がおしろいを塗る様を「金平糖の鋳型がおしろいにてふさがり候」(原文平仮名)と書いていますので、お気に入りの表現だったのかもしれません。ところが、金平糖作りには鋳型は使わないのです。どうやら龍馬は作り方を誤解していたようです。金平糖は現在、グラニュー糖などを芯に、鍋で回転させながら少しずつ糖蜜をかけて角を成長させ、2週間ほどかけて作られます。江戸時代には芥子の実などが芯にされていました。金平糖の角はどうやってできるのか?身近な菓子でありながら、意外と知られていないのではないでしょうか。龍馬が本当の作り方を知ったら、楽しい手紙で家族に報告したかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献宮地佐一郎『龍馬の手紙』講談社 2003年
ハリスと接待菓子
上段左から、1段目・2段目 下段左から、3段目・4段目 写真提供:たばこと塩の博物館 制作:工芸菓子作家・福留千夏(協力:虎屋文庫)日米修好通商条約締結に尽力タウンゼンド・ハリス(1804~78)は、安政3年(1856)初代米国総領事として下田に着任、2年後日米修好通商条約締結を成し遂げた人物です。条約締結交渉のため、13代将軍徳川家定(1824~58)に謁見を許され、ハリスが下田を旅立ったのは安政4年10月7日のこと。江戸までは下田奉行手配による350人もの大行列で、14日に到着し、丁重に迎えられます。翌日、将軍からの贈り物が宿所に届けられました。ハリスの日記には贈り物をあけた時の様子が次のように記されています。「それを開くと、砂糖や米粉や、果物や、胡桃などでつくった日本の菓子が、四段に入っているのがみられた。それらは、どの段にも美しくならべられ、形、色合、飾りつけなどが、すべて、ひじょうに綺れいであった。(中略)私は、それらを合衆国に送ることができないことを、大いに残念に思う。…」(坂田精一訳『ハリス日本滞在記』岩波文庫より) 菓子の内容興味深いことに、『嘉永明治年間録』などの幕府側の記録から、ハリスに感動を与えた菓子の内容をさらに詳しく知ることができます。それによると、箱は「檜重一組(四重物一組、長一尺五寸、横一尺三寸、但し外檜台付、真田打紐付)」。つまり、檜(ひのき)の四段重ねの重箱で、縦45、横39センチほど。段ごとに「干菓子…若菜糖・翁草・玉花香・紅太平糖・三輪の里」「干菓子…大和錦・花沢瀉(はなおもだか)・庭砂香(ていさこう)・千代衣」「蒸菓子…紅カステラ巻・求肥飴・紅茶巾餅」「蒸菓子…難波杢目羹・唐饅頭 」が入っていました。製造したのは幕府御用を勤める「大久保主水(もんと)」と「宇都宮内匠(たくみ)」で、代金は65両だったとのこと。一両で米が6斗買えた時代といいますから、大変な高額です。幕府側は日本の威信をかけ、異国の公使を驚かせるような贅を尽くした菓子の贈り物を用意したのでしょうか。幕府のねらいがどこにあったのか不明ですが、この贈り物によって、条約交渉という重要な任務を控えたハリスも、一時、心和んだのではないかと思われます。 ※ 写真の復元菓子は横浜美術館の「大・開港展-徳川将軍家と幕末明治の美術-」で、 2009年9月19日から11月23日まで展示されました。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献坂田精一 『ハリス』吉川弘文館 1961年
ハリスと接待菓子
上段左から、1段目・2段目 下段左から、3段目・4段目 写真提供:たばこと塩の博物館 制作:工芸菓子作家・福留千夏(協力:虎屋文庫)日米修好通商条約締結に尽力タウンゼンド・ハリス(1804~78)は、安政3年(1856)初代米国総領事として下田に着任、2年後日米修好通商条約締結を成し遂げた人物です。条約締結交渉のため、13代将軍徳川家定(1824~58)に謁見を許され、ハリスが下田を旅立ったのは安政4年10月7日のこと。江戸までは下田奉行手配による350人もの大行列で、14日に到着し、丁重に迎えられます。翌日、将軍からの贈り物が宿所に届けられました。ハリスの日記には贈り物をあけた時の様子が次のように記されています。「それを開くと、砂糖や米粉や、果物や、胡桃などでつくった日本の菓子が、四段に入っているのがみられた。それらは、どの段にも美しくならべられ、形、色合、飾りつけなどが、すべて、ひじょうに綺れいであった。(中略)私は、それらを合衆国に送ることができないことを、大いに残念に思う。…」(坂田精一訳『ハリス日本滞在記』岩波文庫より) 菓子の内容興味深いことに、『嘉永明治年間録』などの幕府側の記録から、ハリスに感動を与えた菓子の内容をさらに詳しく知ることができます。それによると、箱は「檜重一組(四重物一組、長一尺五寸、横一尺三寸、但し外檜台付、真田打紐付)」。つまり、檜(ひのき)の四段重ねの重箱で、縦45、横39センチほど。段ごとに「干菓子…若菜糖・翁草・玉花香・紅太平糖・三輪の里」「干菓子…大和錦・花沢瀉(はなおもだか)・庭砂香(ていさこう)・千代衣」「蒸菓子…紅カステラ巻・求肥飴・紅茶巾餅」「蒸菓子…難波杢目羹・唐饅頭 」が入っていました。製造したのは幕府御用を勤める「大久保主水(もんと)」と「宇都宮内匠(たくみ)」で、代金は65両だったとのこと。一両で米が6斗買えた時代といいますから、大変な高額です。幕府側は日本の威信をかけ、異国の公使を驚かせるような贅を尽くした菓子の贈り物を用意したのでしょうか。幕府のねらいがどこにあったのか不明ですが、この贈り物によって、条約交渉という重要な任務を控えたハリスも、一時、心和んだのではないかと思われます。 ※ 写真の復元菓子は横浜美術館の「大・開港展-徳川将軍家と幕末明治の美術-」で、 2009年9月19日から11月23日まで展示されました。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献坂田精一 『ハリス』吉川弘文館 1961年
夏目漱石と切山椒
切山椒意外な食いしん坊『坊ちゃん』『我輩は猫である』などで知られる文豪・夏目漱石(1867~1916)は、お酒も飲みましたが、甘いものも好きでした。羊羹を語った文章については、以前ご紹介しています。漱石の残した日記はあまり詳細ではないものの、食べ物の記述は比較的多く、食いしん坊だったようです。ロンドンに留学中の日記には、「宿ヘ歸ツテ例ノ如ク茶ヲ呑ム 今日ハ我輩一人ダ 誰モ居ナイ ソコデパンヲ一片餘慶食ツタ 是ハ少々下品ダツタ」と、いつもより余計にパンを食べてしまったことを、いたずらっ子のように記しています。 お菓子に似ている明治42年(1909)4月25日の日記には、散歩に出かけた先の風景が綴られます。「早稲田田圃から鶴巻町を通る。田圃を掘り返してゐる。遠くの染物屋に紅白の布が長く干してあつた。大きな切り山椒の様であつた」うららかな春の日の、いかにものどかな風景です。切山椒とは、山椒を入れた短冊形の新粉(うるち米の粉)の菓子で、東京では今も11月の酉の市の名物としても知られています。干された布の質感が、柔らかな新粉餅を連想させたのでしょう。また、病気の療養中には、活けてもらったコスモスを描写しています。花瓶の後ろには砂壁と金銀の戸袋があり、白と赤の花が美しく映えていました。漱石はコスモスを干菓子に似ていると言うのですが、花を活けた人物には、その感覚が伝わりません。何故ですかとの問いかけに、漱石は「何故と聞いちや仕方がない」と答えるのでした。どちらも、普段から菓子に親しんでいてこその感性と思われ、ほほえましくなります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『漱石全集』岩波書店
夏目漱石と切山椒
切山椒意外な食いしん坊『坊ちゃん』『我輩は猫である』などで知られる文豪・夏目漱石(1867~1916)は、お酒も飲みましたが、甘いものも好きでした。羊羹を語った文章については、以前ご紹介しています。漱石の残した日記はあまり詳細ではないものの、食べ物の記述は比較的多く、食いしん坊だったようです。ロンドンに留学中の日記には、「宿ヘ歸ツテ例ノ如ク茶ヲ呑ム 今日ハ我輩一人ダ 誰モ居ナイ ソコデパンヲ一片餘慶食ツタ 是ハ少々下品ダツタ」と、いつもより余計にパンを食べてしまったことを、いたずらっ子のように記しています。 お菓子に似ている明治42年(1909)4月25日の日記には、散歩に出かけた先の風景が綴られます。「早稲田田圃から鶴巻町を通る。田圃を掘り返してゐる。遠くの染物屋に紅白の布が長く干してあつた。大きな切り山椒の様であつた」うららかな春の日の、いかにものどかな風景です。切山椒とは、山椒を入れた短冊形の新粉(うるち米の粉)の菓子で、東京では今も11月の酉の市の名物としても知られています。干された布の質感が、柔らかな新粉餅を連想させたのでしょう。また、病気の療養中には、活けてもらったコスモスを描写しています。花瓶の後ろには砂壁と金銀の戸袋があり、白と赤の花が美しく映えていました。漱石はコスモスを干菓子に似ていると言うのですが、花を活けた人物には、その感覚が伝わりません。何故ですかとの問いかけに、漱石は「何故と聞いちや仕方がない」と答えるのでした。どちらも、普段から菓子に親しんでいてこその感性と思われ、ほほえましくなります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『漱石全集』岩波書店
徳川吉宗と白雪糕
将軍吉宗の人材登用いわゆる「享保の改革」で著名な八代将軍吉宗(1684~1751)は、紀州徳川家当主から将軍となったため、紀州時代からの家臣をはじめ、新たに多くの人材を幕臣に取り立てました。それまで重要な役職につくには領地を多く持っていることが条件でした。これを変え、領地が少なく身分の低い者でも、役職についている間だけ領地を加増する、というのが「足高(たしだか)の制」です。この制度によって表舞台に立った一人に名奉行大岡越前守忠相がいます。 家臣に白雪糕(はくせつこう)を贈る吉宗はただ有能な家臣を取り立てただけでなく、彼らを非常に大事にしていました。大岡忠相同様吉宗に見出されて、後に老中となった大久保常春という人物がいます。彼の息子忠胤が疱瘡(ほうそう)にかかった際、吉宗は「御庭」すなわち吹上御庭の蓮で作った白雪こうを贈りました(『徳川実記』)。白雪こうはうるち米の粉ともち米の粉を砂糖と合わせて押し固め、蒸し上げて作るお菓子です。後には、いら粉などの熱処理した米の粉を使用する落雁と製法の違いがなくなってしまいました。また、けん実(けんじつ:けんはくさかんむりに欠、スイレン科オニバスの実)・蓮肉(蓮の実の白い胚乳)・山薬(さんやく:ヤマノイモの粉末)を入れて作るものもあり、薬白雪こうと呼ばれることもあります。『和漢三才図会』(1712自序)には、こちらの製法が記載され、主に疲労や食欲不振に効果があるとされています。病に冒された息子を心配する常春へ、吉宗が贈ったのはこの薬白雪こうであったと考えた方が自然でしょう。滋養のある白雪こうで体力をつけさせようという吉宗の心遣いが感じられます。白雪こうが功を奏したのか、忠胤は疱瘡を乗り越えて70歳の長寿を保ち、吉宗の息子である9代将軍家重を支えていくことになります(『寛政重修諸家譜』)。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
徳川吉宗と白雪糕
将軍吉宗の人材登用いわゆる「享保の改革」で著名な八代将軍吉宗(1684~1751)は、紀州徳川家当主から将軍となったため、紀州時代からの家臣をはじめ、新たに多くの人材を幕臣に取り立てました。それまで重要な役職につくには領地を多く持っていることが条件でした。これを変え、領地が少なく身分の低い者でも、役職についている間だけ領地を加増する、というのが「足高(たしだか)の制」です。この制度によって表舞台に立った一人に名奉行大岡越前守忠相がいます。 家臣に白雪糕(はくせつこう)を贈る吉宗はただ有能な家臣を取り立てただけでなく、彼らを非常に大事にしていました。大岡忠相同様吉宗に見出されて、後に老中となった大久保常春という人物がいます。彼の息子忠胤が疱瘡(ほうそう)にかかった際、吉宗は「御庭」すなわち吹上御庭の蓮で作った白雪こうを贈りました(『徳川実記』)。白雪こうはうるち米の粉ともち米の粉を砂糖と合わせて押し固め、蒸し上げて作るお菓子です。後には、いら粉などの熱処理した米の粉を使用する落雁と製法の違いがなくなってしまいました。また、けん実(けんじつ:けんはくさかんむりに欠、スイレン科オニバスの実)・蓮肉(蓮の実の白い胚乳)・山薬(さんやく:ヤマノイモの粉末)を入れて作るものもあり、薬白雪こうと呼ばれることもあります。『和漢三才図会』(1712自序)には、こちらの製法が記載され、主に疲労や食欲不振に効果があるとされています。病に冒された息子を心配する常春へ、吉宗が贈ったのはこの薬白雪こうであったと考えた方が自然でしょう。滋養のある白雪こうで体力をつけさせようという吉宗の心遣いが感じられます。白雪こうが功を奏したのか、忠胤は疱瘡を乗り越えて70歳の長寿を保ち、吉宗の息子である9代将軍家重を支えていくことになります(『寛政重修諸家譜』)。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
永井荷風と全国銘菓
文化勲章作家、永井荷風明治から昭和にかけて活躍した作家、永井荷風(ながいかふう・1879~1959)は、若い頃落語家や歌舞伎作家を目指したこともありました。しかし、将来を案じた父の勧めもあって明治36年(1903)24歳でアメリカへ留学、後にフランスに渡っています。帰国後は『あめりか物語』『すみだ川』など次々と作品を発表しました。荷風の作風は耽美主義的ですが、江戸趣味的な作品も多くあります。戦後は文化勲章を受章しました。 全国銘菓を記録する荷風は甘いものが大好きで、火鉢で林檎ジャムを煮ながら執筆をしたといいます。彼には『毎月見聞録』という間欠的に発表された記録があり、大正6年(1917)に開かれた菓子陳列会の記述があります。そこには「二月五日より三月二十日まで全国菓子陳列会を白木屋に開く、熊本の飴、和歌山の羊羹、京都の八ツ橋、夜の梅、大阪の粟おこし、甲府の月の雫(しずく)、埼玉の五家宝(ごかぼう)、神奈川の喜楽(きらく)煎餅、大阪の柿羊羹、群馬の磯部(いそべ)煎餅、日光羊羹、仙台の九重(ここのえ)、金沢の長生殿(ちょうせいでん)、高田の水飴、長岡の越の雪、岡山の柚餅子(ゆべし)、吉備(きび)団子、博多の玉子素麺、長崎のカステラ、鹿児島のカルカン、文旦漬(ぶんたんづけ)、佐賀の丸ボウロなどかずゝゝ出陳」と記されています。熊本の飴とは朝鮮飴のことと思われます。京都の「夜の梅」は虎屋の羊羹で、博多の玉子素麺は、ポルトガル伝来の菓子です。ここに記された菓子の多くは現在でも銘菓として作り続けられています。それにしても全国の菓子22品を書き連ねる荷風に、菓子好きの本領を見る思いがします。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
永井荷風と全国銘菓
文化勲章作家、永井荷風明治から昭和にかけて活躍した作家、永井荷風(ながいかふう・1879~1959)は、若い頃落語家や歌舞伎作家を目指したこともありました。しかし、将来を案じた父の勧めもあって明治36年(1903)24歳でアメリカへ留学、後にフランスに渡っています。帰国後は『あめりか物語』『すみだ川』など次々と作品を発表しました。荷風の作風は耽美主義的ですが、江戸趣味的な作品も多くあります。戦後は文化勲章を受章しました。 全国銘菓を記録する荷風は甘いものが大好きで、火鉢で林檎ジャムを煮ながら執筆をしたといいます。彼には『毎月見聞録』という間欠的に発表された記録があり、大正6年(1917)に開かれた菓子陳列会の記述があります。そこには「二月五日より三月二十日まで全国菓子陳列会を白木屋に開く、熊本の飴、和歌山の羊羹、京都の八ツ橋、夜の梅、大阪の粟おこし、甲府の月の雫(しずく)、埼玉の五家宝(ごかぼう)、神奈川の喜楽(きらく)煎餅、大阪の柿羊羹、群馬の磯部(いそべ)煎餅、日光羊羹、仙台の九重(ここのえ)、金沢の長生殿(ちょうせいでん)、高田の水飴、長岡の越の雪、岡山の柚餅子(ゆべし)、吉備(きび)団子、博多の玉子素麺、長崎のカステラ、鹿児島のカルカン、文旦漬(ぶんたんづけ)、佐賀の丸ボウロなどかずゝゝ出陳」と記されています。熊本の飴とは朝鮮飴のことと思われます。京都の「夜の梅」は虎屋の羊羹で、博多の玉子素麺は、ポルトガル伝来の菓子です。ここに記された菓子の多くは現在でも銘菓として作り続けられています。それにしても全国の菓子22品を書き連ねる荷風に、菓子好きの本領を見る思いがします。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
荒木田久老と草餅
賀茂真淵(かものまぶち)の弟子荒木田久老(あらきだひさおゆ・1746~1804)は、賀茂真淵の門下として『万葉集』の注解などに力を注いだ国学者・歌人として知られます。また、伊勢神宮内宮の権禰宜(ごんねぎ)を務め、伊勢神宮参拝を檀家(信徒)に勧める御師(おし)でもありました。 御師として信濃に行く荒木田家の檀家は信濃の善光寺とその周辺の農村にありました。御師は伊勢参りを勧めるほか、初穂料を募ることも重要な務めとされ、久老は生涯3回信濃に足を運んでいます。そのうち最初の天明6年(1786)の滞在については、『五十槻園(いつきその)旅日記』に見ることができます。当時久老は41歳、5ヶ月半にわたる期間中、檀家廻りのほか、善光寺や松代藩家老など地元の有力者へも挨拶に行ったりと、あわただしい日々を過ごしました。 三度の草餅さて、各檀家では食事を用意して久老一行を待ちました。日記には、出された献立が細かく書かれています。料理では酒肴のほか、蕎麦や鯉など、菓子では牡丹餅がよく見られます。牡丹餅は手早く作れてボリュームもあるため、もてなしに最適とされたのでしょう。伊勢では贅沢な食事や酒を楽しむことの多かった久老も、質素な暮らしの農民が作る心づくしの料理をきちんと食べています。そして、おいしかったものは「美味無類也」などと注記をしています。とはいえ、時には腐ったものが出たり、訪問先の主人が酒に酔ってしまったりというハプニングもありました。「草餅事件」もそのなかのひとつです。7月3日、田子村の3軒の家を訪れた際、どうしたことか全ての家から草餅が出されました。さすがに3度は食べきれなかったのか、「甚迷惑也」と腹を立てています。ちなみに7月は旧暦の秋にあたりますが、草餅の蓬は春に摘むことから、この時は乾燥保存したものを使ったと思われます。偶然同じものが重なりましたが、檀家からすれば毎日精力的に歩く久老に蓬の薬効で疲れを癒してほしいという心遣いだったのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
荒木田久老と草餅
賀茂真淵(かものまぶち)の弟子荒木田久老(あらきだひさおゆ・1746~1804)は、賀茂真淵の門下として『万葉集』の注解などに力を注いだ国学者・歌人として知られます。また、伊勢神宮内宮の権禰宜(ごんねぎ)を務め、伊勢神宮参拝を檀家(信徒)に勧める御師(おし)でもありました。 御師として信濃に行く荒木田家の檀家は信濃の善光寺とその周辺の農村にありました。御師は伊勢参りを勧めるほか、初穂料を募ることも重要な務めとされ、久老は生涯3回信濃に足を運んでいます。そのうち最初の天明6年(1786)の滞在については、『五十槻園(いつきその)旅日記』に見ることができます。当時久老は41歳、5ヶ月半にわたる期間中、檀家廻りのほか、善光寺や松代藩家老など地元の有力者へも挨拶に行ったりと、あわただしい日々を過ごしました。 三度の草餅さて、各檀家では食事を用意して久老一行を待ちました。日記には、出された献立が細かく書かれています。料理では酒肴のほか、蕎麦や鯉など、菓子では牡丹餅がよく見られます。牡丹餅は手早く作れてボリュームもあるため、もてなしに最適とされたのでしょう。伊勢では贅沢な食事や酒を楽しむことの多かった久老も、質素な暮らしの農民が作る心づくしの料理をきちんと食べています。そして、おいしかったものは「美味無類也」などと注記をしています。とはいえ、時には腐ったものが出たり、訪問先の主人が酒に酔ってしまったりというハプニングもありました。「草餅事件」もそのなかのひとつです。7月3日、田子村の3軒の家を訪れた際、どうしたことか全ての家から草餅が出されました。さすがに3度は食べきれなかったのか、「甚迷惑也」と腹を立てています。ちなみに7月は旧暦の秋にあたりますが、草餅の蓬は春に摘むことから、この時は乾燥保存したものを使ったと思われます。偶然同じものが重なりましたが、檀家からすれば毎日精力的に歩く久老に蓬の薬効で疲れを癒してほしいという心遣いだったのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)