虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
吉田兼好とかいもちひ
かいもちひ?『徒然草』の作者吉田兼好(生没年不詳。1283~1352?)といえば、「つれづれなるままに、日暮し、硯にむかひて…」で始まる『徒然草』の作者として有名です。鎌倉時代末から激動の南北朝時代を生きた人物で、もともと朝廷に仕えていましたが、30歳頃までには出家遁世し、京都の山科の小野荘で『徒然草』を書き始めました。鎌倉や金沢(横浜市金沢区)に住まいを移した時期もあり、同書には東国で見聞した話も見られます。 美味なるかいもちひ?兼好在世中は、食生活上の変化も大きく、中国に留学した禅僧が喫茶の風習を広め、饅頭や羹類などの点心を伝えました。残念ながら『徒然草』にはそうした点心の記述がないため、兼好が賞味したかどうかは不明ですが、かわって注目したいのが「かいもちひ」です。まずは二一六段で、最明寺入道(北条)時頼が足利左馬入道(義氏)を接待した折の献立に「一献に打鮑(あわび)、二献に海老、三献にかいもちひ」とあります。また二三六段では丹波の出雲(現京都府亀岡市)に人々を誘った聖人の言葉に「いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」(かいもちをご馳走しましょう)が見えます。どちらも、もてなしに用意されているだけに、何やらおいしそう。一体どのような餅だったのでしょう。江戸時代、「かいもちひ」(かいもち)は「牡丹餅」の別名とされますが、『徒然草』が書かれた頃といえば、砂糖は輸入に頼る貴重品で、今日のような甘い小豆餡はまだ作られていなかったと考えられます。「かいもちひ」を、かいねり(掻い練り)餅からきた言葉として、米粉・そば粉などを混ぜ合わせ、練ったあとに黄粉などをかけたものという解釈の方が自然かもしれません。実体はわかりませんが、黄粉や砂糖の甘みが多少つくなど、一味違った食べ物だったのではと思いたくなります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
吉田兼好とかいもちひ
かいもちひ?『徒然草』の作者吉田兼好(生没年不詳。1283~1352?)といえば、「つれづれなるままに、日暮し、硯にむかひて…」で始まる『徒然草』の作者として有名です。鎌倉時代末から激動の南北朝時代を生きた人物で、もともと朝廷に仕えていましたが、30歳頃までには出家遁世し、京都の山科の小野荘で『徒然草』を書き始めました。鎌倉や金沢(横浜市金沢区)に住まいを移した時期もあり、同書には東国で見聞した話も見られます。 美味なるかいもちひ?兼好在世中は、食生活上の変化も大きく、中国に留学した禅僧が喫茶の風習を広め、饅頭や羹類などの点心を伝えました。残念ながら『徒然草』にはそうした点心の記述がないため、兼好が賞味したかどうかは不明ですが、かわって注目したいのが「かいもちひ」です。まずは二一六段で、最明寺入道(北条)時頼が足利左馬入道(義氏)を接待した折の献立に「一献に打鮑(あわび)、二献に海老、三献にかいもちひ」とあります。また二三六段では丹波の出雲(現京都府亀岡市)に人々を誘った聖人の言葉に「いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」(かいもちをご馳走しましょう)が見えます。どちらも、もてなしに用意されているだけに、何やらおいしそう。一体どのような餅だったのでしょう。江戸時代、「かいもちひ」(かいもち)は「牡丹餅」の別名とされますが、『徒然草』が書かれた頃といえば、砂糖は輸入に頼る貴重品で、今日のような甘い小豆餡はまだ作られていなかったと考えられます。「かいもちひ」を、かいねり(掻い練り)餅からきた言葉として、米粉・そば粉などを混ぜ合わせ、練ったあとに黄粉などをかけたものという解釈の方が自然かもしれません。実体はわかりませんが、黄粉や砂糖の甘みが多少つくなど、一味違った食べ物だったのではと思いたくなります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
天璋院と唐饅頭
「唐饅頭」 イラスト:森田ミホ薩摩から江戸城大奥へ天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ・1836~83)は薩摩藩島津家から13代将軍徳川家定に嫁ぎ、江戸から明治という時代の大転換期に、波乱の人生を送った女性です。家定が婚儀からわずか1年半ほどで没した後は、紀伊徳川家から迎えた14代将軍家茂の義理の母という立場となり、大奥の取り締まりにもあたりました。 江戸から大坂へ届いた菓子家茂が長州攻めのために大坂城にいたとき、正室和宮と天璋院は何度か菓子を贈りました。慶応2年(1866)には、和宮からは色とりどりの落雁(和宮の項参照)、天璋院からは猩々羹(しょうじょうかん)、難波羊羹、唐饅頭と記録されています。猩々羹は紅色の羊羹、難波羊羹は甘さ控え目の羊羹とも考えられます。『守貞謾稿』では「浪華羹」として紹介されており、名前に反して江戸にはあって難波(大坂)になく、砂糖の量は煉羊羹の半分程だったとか。また、唐饅頭にはカステラ風生地の饅頭と、堅い生地で中が空洞になった干菓子タイプの2種類がありますが、天璋院が贈った唐饅頭は、江戸から大坂までの日数を考えると後者だったのではないでしょうか。ちなみに堅い生地の唐饅頭は現在、宇和島など愛媛県一帯で作る店が多く、しっかりした歯応えのある、個性的な饅頭として知られています。それぞれの味の違いが楽しめ、日保ちもよく、和宮が贈った菓子とも種類が違うなど、天璋院の気配りがうかがえる組み合わせといえるでしょう。しかし、ほどなく家茂は大坂で病没、2年後には徳川幕府の終焉を見届けて天璋院は江戸城を去ることになるのです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『続徳川実紀』
天璋院と唐饅頭
「唐饅頭」 イラスト:森田ミホ薩摩から江戸城大奥へ天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ・1836~83)は薩摩藩島津家から13代将軍徳川家定に嫁ぎ、江戸から明治という時代の大転換期に、波乱の人生を送った女性です。家定が婚儀からわずか1年半ほどで没した後は、紀伊徳川家から迎えた14代将軍家茂の義理の母という立場となり、大奥の取り締まりにもあたりました。 江戸から大坂へ届いた菓子家茂が長州攻めのために大坂城にいたとき、正室和宮と天璋院は何度か菓子を贈りました。慶応2年(1866)には、和宮からは色とりどりの落雁(和宮の項参照)、天璋院からは猩々羹(しょうじょうかん)、難波羊羹、唐饅頭と記録されています。猩々羹は紅色の羊羹、難波羊羹は甘さ控え目の羊羹とも考えられます。『守貞謾稿』では「浪華羹」として紹介されており、名前に反して江戸にはあって難波(大坂)になく、砂糖の量は煉羊羹の半分程だったとか。また、唐饅頭にはカステラ風生地の饅頭と、堅い生地で中が空洞になった干菓子タイプの2種類がありますが、天璋院が贈った唐饅頭は、江戸から大坂までの日数を考えると後者だったのではないでしょうか。ちなみに堅い生地の唐饅頭は現在、宇和島など愛媛県一帯で作る店が多く、しっかりした歯応えのある、個性的な饅頭として知られています。それぞれの味の違いが楽しめ、日保ちもよく、和宮が贈った菓子とも種類が違うなど、天璋院の気配りがうかがえる組み合わせといえるでしょう。しかし、ほどなく家茂は大坂で病没、2年後には徳川幕府の終焉を見届けて天璋院は江戸城を去ることになるのです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『続徳川実紀』
馬越化生と新濱千鳥
大正7年(1918)絵図帳より茶人 化生(かせい)大日本麦酒社長の馬越恭平(まごしきょうへい・1844~1933)は「ビール王」として名を馳せた人物ですが、近代の代表的な茶人としても知られています。号の「化生」は弘化・元年生・まれにちなんだものといわれています。お茶との出会いは益田鈍翁(どんのう)の弟、克徳(こくとく)の導きによるもので、彼の師匠である川上宗順の門に入ります。化生翁は陽気な性格で、いつもニコニコ、大きな声で「ヤアヤア」と声をかけ、その風貌は自社看板の恵比寿様にそっくりだったともいわれていました。しかし、ひとたび茶席に入ると、非常に厳格な指導を受けたせいか、別人のように無口になり、緊張のあまり、会話の語尾に「シェッ、シェッ」と謎の音を発する癖があったようです。 茶と菓子中央新聞社が著名人への聞き書きをまとめた『名士の嗜好』(1900)には馬越恭平の項があります。その中に「茶と菓子」と題した記述があるので、引用してみると「まず茶人の菓子といったら越後屋でなければならぬことになって居ります。その他本郷の藤村なども好い菓子屋であります。」とのこと。残念ながら虎屋の名はありませんでしたが、当時の茶会で好まれた菓子舗の一端を知ることができます。 三代茶人と「新濱千鳥」化生翁の子、幸次郎(獅渓 しけい)、孫の恭一も茶を嗜み、茶人仲間の高橋箒庵は自著『昭和茶道記』で彼らを「三代茶人」と呼んでいます。亡くなった長男に代わり、家督を継いだ幸次郎は、父親化生翁の喜ぶ顔見たさにお茶をはじめたといわれています。箒庵はこうした幸次郎の初陣茶会を記念して自作の茶杓「親孝行」を贈っています。虎屋には大正、昭和と麻布市兵衛町、北日ヶ窪町の馬越家へのご注文記録が残っています。その中から特徴的なお菓子をご紹介します。まず回数の多かった焼物製「新濱千鳥」。虎屋の記録によると菓銘としては正徳元年(1711)に記述が見られますが、上図のように焼菓子としても作られるようになったのは、明治後半頃と思われます。卵、砂糖、小麦粉の入った生地を焼き、小倉餡を入れ半月形に折って、鳥の形に整えます。記録には「中」の表記も見られるので、150gくらいではないかと思われます。今の通常商品の3倍くらいの大きさだったので、生地が裂けることなく、このような細工ができたのでしょう。どのようなご用途だったのか分かりませんが、「バラで10個」「ボール箱入り20」などの表記が見られます。同様に「大福餅」の記述も「バラで10個」など頻繁に出てきます。そのほかのお菓子のご注文も10個でのお届けが多いことから、専用のお通箱があったのではないかと想像されます。親子孫三代の家族がお茶菓子として召し上がったのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
馬越化生と新濱千鳥
大正7年(1918)絵図帳より茶人 化生(かせい)大日本麦酒社長の馬越恭平(まごしきょうへい・1844~1933)は「ビール王」として名を馳せた人物ですが、近代の代表的な茶人としても知られています。号の「化生」は弘化・元年生・まれにちなんだものといわれています。お茶との出会いは益田鈍翁(どんのう)の弟、克徳(こくとく)の導きによるもので、彼の師匠である川上宗順の門に入ります。化生翁は陽気な性格で、いつもニコニコ、大きな声で「ヤアヤア」と声をかけ、その風貌は自社看板の恵比寿様にそっくりだったともいわれていました。しかし、ひとたび茶席に入ると、非常に厳格な指導を受けたせいか、別人のように無口になり、緊張のあまり、会話の語尾に「シェッ、シェッ」と謎の音を発する癖があったようです。 茶と菓子中央新聞社が著名人への聞き書きをまとめた『名士の嗜好』(1900)には馬越恭平の項があります。その中に「茶と菓子」と題した記述があるので、引用してみると「まず茶人の菓子といったら越後屋でなければならぬことになって居ります。その他本郷の藤村なども好い菓子屋であります。」とのこと。残念ながら虎屋の名はありませんでしたが、当時の茶会で好まれた菓子舗の一端を知ることができます。 三代茶人と「新濱千鳥」化生翁の子、幸次郎(獅渓 しけい)、孫の恭一も茶を嗜み、茶人仲間の高橋箒庵は自著『昭和茶道記』で彼らを「三代茶人」と呼んでいます。亡くなった長男に代わり、家督を継いだ幸次郎は、父親化生翁の喜ぶ顔見たさにお茶をはじめたといわれています。箒庵はこうした幸次郎の初陣茶会を記念して自作の茶杓「親孝行」を贈っています。虎屋には大正、昭和と麻布市兵衛町、北日ヶ窪町の馬越家へのご注文記録が残っています。その中から特徴的なお菓子をご紹介します。まず回数の多かった焼物製「新濱千鳥」。虎屋の記録によると菓銘としては正徳元年(1711)に記述が見られますが、上図のように焼菓子としても作られるようになったのは、明治後半頃と思われます。卵、砂糖、小麦粉の入った生地を焼き、小倉餡を入れ半月形に折って、鳥の形に整えます。記録には「中」の表記も見られるので、150gくらいではないかと思われます。今の通常商品の3倍くらいの大きさだったので、生地が裂けることなく、このような細工ができたのでしょう。どのようなご用途だったのか分かりませんが、「バラで10個」「ボール箱入り20」などの表記が見られます。同様に「大福餅」の記述も「バラで10個」など頻繁に出てきます。そのほかのお菓子のご注文も10個でのお届けが多いことから、専用のお通箱があったのではないかと想像されます。親子孫三代の家族がお茶菓子として召し上がったのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
モースと奇妙な菓子
イラスト:森田ミホお菓子にも興味大森貝塚の発見で名高いエドワード・モース(1838~1925)については、以前にもとりあげました。明治初期に来日した際のことを記した『日本その日その日』(平凡社東洋文庫)には、新年のお祝いに羊羹を貰ったことや、お茶会の様子など、菓子の記述も少なからず見られます。今回は彼が明治時代の東京で見つけた菓子について、ご紹介いたしましょう。 山椒魚の焼菓子?ある日モースが裏道を歩いていたところ、「パンみたいな物を、子供のために、山椒魚その他の奇妙な生き物の形に焼いたもの」を見つけました。ヒモにしっぽを引っかけてぶら下がっている、細長い山椒魚(?)の焼菓子のスケッチもあります。確かに、なかなか奇妙です。また、ヒキガエルや虫などの形の菓子を作っているところがあること、そして、とてもよくできているそれらの菓子を「ひるまずに食った人が勝負に勝つ」ことを、モースは記録しています。他にも砂糖菓子や寒天で、同様の不気味な形の食べ物を作ることもあったのだとか。山椒魚以外は直接見たわけではなく、聞いた話として書かれているのですが、それらを食べるには(実際には美味しいのだが)「大変な努力を必要とする」という書きようには、なぜか実感がこもっています。現在では、リアルな虫形の和菓子など、あまり聞いたことがありませんが、モースは別の時に、写実的なきのこ形の砂糖菓子を見て感心していますので、明治時代の日本では、動物に限らず、こうした「そっくり菓子」がよく作られていたのかもしれません。他に例を見ない、おもしろい記録と思われます。今回の復元イラストは、少々可愛らしくなっていますので、こんな焼菓子なら、「努力」しなくても食べられそうですね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
モースと奇妙な菓子
イラスト:森田ミホお菓子にも興味大森貝塚の発見で名高いエドワード・モース(1838~1925)については、以前にもとりあげました。明治初期に来日した際のことを記した『日本その日その日』(平凡社東洋文庫)には、新年のお祝いに羊羹を貰ったことや、お茶会の様子など、菓子の記述も少なからず見られます。今回は彼が明治時代の東京で見つけた菓子について、ご紹介いたしましょう。 山椒魚の焼菓子?ある日モースが裏道を歩いていたところ、「パンみたいな物を、子供のために、山椒魚その他の奇妙な生き物の形に焼いたもの」を見つけました。ヒモにしっぽを引っかけてぶら下がっている、細長い山椒魚(?)の焼菓子のスケッチもあります。確かに、なかなか奇妙です。また、ヒキガエルや虫などの形の菓子を作っているところがあること、そして、とてもよくできているそれらの菓子を「ひるまずに食った人が勝負に勝つ」ことを、モースは記録しています。他にも砂糖菓子や寒天で、同様の不気味な形の食べ物を作ることもあったのだとか。山椒魚以外は直接見たわけではなく、聞いた話として書かれているのですが、それらを食べるには(実際には美味しいのだが)「大変な努力を必要とする」という書きようには、なぜか実感がこもっています。現在では、リアルな虫形の和菓子など、あまり聞いたことがありませんが、モースは別の時に、写実的なきのこ形の砂糖菓子を見て感心していますので、明治時代の日本では、動物に限らず、こうした「そっくり菓子」がよく作られていたのかもしれません。他に例を見ない、おもしろい記録と思われます。今回の復元イラストは、少々可愛らしくなっていますので、こんな焼菓子なら、「努力」しなくても食べられそうですね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
日蓮と粽・青ざし
日蓮と身延山日蓮(1222~82)は貞応元年に安房国(千葉県)小湊に生まれました。自らを海士の子と称していますが、実際には荘園の管理をしていた荘官を父に誕生したと言われています。最初は地元の天台宗寺院で修行した後、鎌倉や比叡山などに学び研鑽を重ねて日蓮宗(法華宗)を開きました。他宗派を厳しく批判した日蓮は、幕府から二度にわたって流罪に処せられるなどの迫害を受けました。当時は蒙古襲来など国難が続いた時期であり、佐渡流罪から赦免された後に、再度幕府に諫言を行いましたが、受け入れられず自ら甲斐国身延山(山梨県)に入って庵を構えています。山深い身延は食料も乏しく、ことに冬の寒さは厳しいものでした。日蓮の身を案じた信者たちは、こころをこめた食物を身延へ届けました。贈られた食物は、米や麦あるいは餅のほか牛蒡、大根や茄子をはじめとする蔬菜類、里芋や山芋、果物ではざくろ・柿・みかん・栗、味噌や塩の調味料、酒や菓子などの嗜好品も含まれていました。また、昆布などの海藻類も多く、海辺育ちの日蓮は海苔の供物に幼い日を思い出しています。日蓮は贈り物には礼状をしたためていますが、感謝とともに信者を思いやる気持ちが伝わってきます。 端午の贈り物弘安元年(1278)の5月1日付の書状によれば粽と青ざしが届けられました。また5月3日付の書状では、粽五把とタケノコに酒を贈られたことが書かれて、「訪れる人もなかった身延に、ほととぎすの一声のように嬉しくありがたい」と感謝の気持ちを記しています。粽と言えば端午の節句にはつきものの食べ物、平安時代の『和名類聚抄』にも5月5日食べると記されています。ただし当時の粽は米を真菰の葉などで包んで蒸したものでした。何れにしても端午の節句を祝う贈り手の心遣いが感じられます。青ざしは平安時代には見られる食物で、『枕草子』ではやはり5月5日に贈り物にされていました。煎った青い麦を臼で挽いてよった糸のようにした食物で、もっとも古い国産の菓子のひとつとも言われています。時代はくだりますが、江戸時代の松尾芭蕉は「青ざしや草餅の穂に出つらん」という句を残しており、広く食べられていたようです。粽や青ざしは日蓮にとって端午の節句の味だったのでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献目黒きよ『日蓮聖人と女人の食供養』講談社出版サービスセンター 1998年
日蓮と粽・青ざし
日蓮と身延山日蓮(1222~82)は貞応元年に安房国(千葉県)小湊に生まれました。自らを海士の子と称していますが、実際には荘園の管理をしていた荘官を父に誕生したと言われています。最初は地元の天台宗寺院で修行した後、鎌倉や比叡山などに学び研鑽を重ねて日蓮宗(法華宗)を開きました。他宗派を厳しく批判した日蓮は、幕府から二度にわたって流罪に処せられるなどの迫害を受けました。当時は蒙古襲来など国難が続いた時期であり、佐渡流罪から赦免された後に、再度幕府に諫言を行いましたが、受け入れられず自ら甲斐国身延山(山梨県)に入って庵を構えています。山深い身延は食料も乏しく、ことに冬の寒さは厳しいものでした。日蓮の身を案じた信者たちは、こころをこめた食物を身延へ届けました。贈られた食物は、米や麦あるいは餅のほか牛蒡、大根や茄子をはじめとする蔬菜類、里芋や山芋、果物ではざくろ・柿・みかん・栗、味噌や塩の調味料、酒や菓子などの嗜好品も含まれていました。また、昆布などの海藻類も多く、海辺育ちの日蓮は海苔の供物に幼い日を思い出しています。日蓮は贈り物には礼状をしたためていますが、感謝とともに信者を思いやる気持ちが伝わってきます。 端午の贈り物弘安元年(1278)の5月1日付の書状によれば粽と青ざしが届けられました。また5月3日付の書状では、粽五把とタケノコに酒を贈られたことが書かれて、「訪れる人もなかった身延に、ほととぎすの一声のように嬉しくありがたい」と感謝の気持ちを記しています。粽と言えば端午の節句にはつきものの食べ物、平安時代の『和名類聚抄』にも5月5日食べると記されています。ただし当時の粽は米を真菰の葉などで包んで蒸したものでした。何れにしても端午の節句を祝う贈り手の心遣いが感じられます。青ざしは平安時代には見られる食物で、『枕草子』ではやはり5月5日に贈り物にされていました。煎った青い麦を臼で挽いてよった糸のようにした食物で、もっとも古い国産の菓子のひとつとも言われています。時代はくだりますが、江戸時代の松尾芭蕉は「青ざしや草餅の穂に出つらん」という句を残しており、広く食べられていたようです。粽や青ざしは日蓮にとって端午の節句の味だったのでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献目黒きよ『日蓮聖人と女人の食供養』講談社出版サービスセンター 1998年
前田利鬯と辻占昆布
大聖寺(だいしょうじ)藩最後の藩主前田利鬯(まえだとしか・1842~1902)は、金沢藩の支藩、大聖寺藩の最後の藩主です。明治維新後は藩知事を経て華族に列せられ、東京に移住して宮内省に勤めることになりました。藩主時代には、政情についての意見を藩内から広く集めるなど、藩政に力を入れた利鬯ですが、一方で書画や茶道、能楽に造詣が深いことでも知られます。 仕事の合間にお菓子を楽しむ利鬯が41歳の明治14年(1881)、東北鉄道(現在のJR北陸本線)敷設推進運動のため、帰郷します。その際記したのが『御帰県日記(ごきけんにっき)』で、金沢や能登半島を精力的に巡回したことを綴っています。もちろん仕事だけではありません。多忙な日程を縫い、書画を揮毫したり、家族へ手紙を送ったり、知人宅へ茶会に出かけたことなども書いています。なかでも頻繁に出てくるのが食べ物です。帰郷途中、石動(いするぎ=富山県)では、昼食に種を抜いた西瓜が出されました。利鬯はそれを菓子と見違えるのですが「妙趣」と感心したり、本家の前田邸で出された栗餡がけのきび団子を「美味ニシテ雅品」と言っています。恐らく自身美食家だったのでしょう、訪れた先々で出されるものを楽しみにしていた風が日記の端々から感じられます。 辻占昆布(つじうらこんぶ)に見た未来明治15年、利鬯は故郷での活動を終え、東京に戻ります。その途中、今庄(いまじょう=福井県)の宿でのできごとです。夕食に酒の肴として辻占昆布が二つ出されました。中に入っている占いの紙を利鬯が開くと、ひとつには「花サク時ヲ待ツガ良シ」、もうひとつには「大願成就スル」とあり、きっと鉄道敷設の願いが叶うと喜びます。辻占とは、一般に占い紙入りの菓子のことで、現在では小麦煎餅のものが知られます。この時は残念ながら鉄道敷設に到りませんでしたが、17年後明治32年(1899)、北陸本線が開通します。時間がかかったものの、利鬯の願いは実現したといえましょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
前田利鬯と辻占昆布
大聖寺(だいしょうじ)藩最後の藩主前田利鬯(まえだとしか・1842~1902)は、金沢藩の支藩、大聖寺藩の最後の藩主です。明治維新後は藩知事を経て華族に列せられ、東京に移住して宮内省に勤めることになりました。藩主時代には、政情についての意見を藩内から広く集めるなど、藩政に力を入れた利鬯ですが、一方で書画や茶道、能楽に造詣が深いことでも知られます。 仕事の合間にお菓子を楽しむ利鬯が41歳の明治14年(1881)、東北鉄道(現在のJR北陸本線)敷設推進運動のため、帰郷します。その際記したのが『御帰県日記(ごきけんにっき)』で、金沢や能登半島を精力的に巡回したことを綴っています。もちろん仕事だけではありません。多忙な日程を縫い、書画を揮毫したり、家族へ手紙を送ったり、知人宅へ茶会に出かけたことなども書いています。なかでも頻繁に出てくるのが食べ物です。帰郷途中、石動(いするぎ=富山県)では、昼食に種を抜いた西瓜が出されました。利鬯はそれを菓子と見違えるのですが「妙趣」と感心したり、本家の前田邸で出された栗餡がけのきび団子を「美味ニシテ雅品」と言っています。恐らく自身美食家だったのでしょう、訪れた先々で出されるものを楽しみにしていた風が日記の端々から感じられます。 辻占昆布(つじうらこんぶ)に見た未来明治15年、利鬯は故郷での活動を終え、東京に戻ります。その途中、今庄(いまじょう=福井県)の宿でのできごとです。夕食に酒の肴として辻占昆布が二つ出されました。中に入っている占いの紙を利鬯が開くと、ひとつには「花サク時ヲ待ツガ良シ」、もうひとつには「大願成就スル」とあり、きっと鉄道敷設の願いが叶うと喜びます。辻占とは、一般に占い紙入りの菓子のことで、現在では小麦煎餅のものが知られます。この時は残念ながら鉄道敷設に到りませんでしたが、17年後明治32年(1899)、北陸本線が開通します。時間がかかったものの、利鬯の願いは実現したといえましょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)