虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
恋川春町と粟餅
黄表紙の創始者恋川春町(こいかわはるまち・1744~89)は本名を倉橋格といい、駿河小島藩松平家の家臣でした。画才・文才に恵まれていたのでしょう。住まいの小石川春日町にかけたペンネームで、安永4年(1775)に自画自作の『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』を発表し、大評判となります。洒落と風刺を織り交ぜた大人向けのこの読み物は、従来の子供向けの赤本などとは異なっており、黄表紙と呼ばれ、新たなジャンルの作品と見なされました。その後も春町は黄表紙や狂歌を残しますが、寛政の改革を風刺した作品により、幕府の怒りを買い、最期は自害したと伝えられます。 粟餅屋が舞台の出世作『金々先生栄花夢』は、中国の故事「邯鄲(かんたん)の夢」をもとにしています。これは戦国時代、趙の都の邯鄲で、仙人から不思議な枕を借りた盧生(ろせい)という青年の話です。盧生がこの枕で、うたたねしたところ、栄華を極める五十余年の夢を見ますが、覚めてみると、粟がまだ煮えないほどの短い時間であったというもの。栄枯盛衰のはかなさをたとえており、春町の作品では、主人公が、目黒不動尊前の粟餅屋で仮寝をし、長い夢を見る設定になっています。粟餅とは、一般にもち粟を蒸して搗いたもので、江戸時代には、庶民的な菓子として人気を集めていました。春町も、モデルとなった目黒の粟餅屋でくつろいでいるときに、創作のヒントを得たのかもしれません。同書には、餅搗き姿や金々先生のうたたね姿がおもしろおかしく描かれています。 謎の粟餅ところで、調べてみると、この粟餅には本当に粟が使われていたのか、疑問が残ります。というのも『続江戸砂子』(1735)に「目黒粟餅 同所の名物也。昔はまことの粟餅なりしが、ちかきほどは常の餅を粟のいろに染たる也」とあるからです。同時代の史料ではないので、何ともいえませんが、いずれにせよ春町にとって粟餅は出世作と結びつく、生涯忘れられない食べ物であったことでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
恋川春町と粟餅
黄表紙の創始者恋川春町(こいかわはるまち・1744~89)は本名を倉橋格といい、駿河小島藩松平家の家臣でした。画才・文才に恵まれていたのでしょう。住まいの小石川春日町にかけたペンネームで、安永4年(1775)に自画自作の『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』を発表し、大評判となります。洒落と風刺を織り交ぜた大人向けのこの読み物は、従来の子供向けの赤本などとは異なっており、黄表紙と呼ばれ、新たなジャンルの作品と見なされました。その後も春町は黄表紙や狂歌を残しますが、寛政の改革を風刺した作品により、幕府の怒りを買い、最期は自害したと伝えられます。 粟餅屋が舞台の出世作『金々先生栄花夢』は、中国の故事「邯鄲(かんたん)の夢」をもとにしています。これは戦国時代、趙の都の邯鄲で、仙人から不思議な枕を借りた盧生(ろせい)という青年の話です。盧生がこの枕で、うたたねしたところ、栄華を極める五十余年の夢を見ますが、覚めてみると、粟がまだ煮えないほどの短い時間であったというもの。栄枯盛衰のはかなさをたとえており、春町の作品では、主人公が、目黒不動尊前の粟餅屋で仮寝をし、長い夢を見る設定になっています。粟餅とは、一般にもち粟を蒸して搗いたもので、江戸時代には、庶民的な菓子として人気を集めていました。春町も、モデルとなった目黒の粟餅屋でくつろいでいるときに、創作のヒントを得たのかもしれません。同書には、餅搗き姿や金々先生のうたたね姿がおもしろおかしく描かれています。 謎の粟餅ところで、調べてみると、この粟餅には本当に粟が使われていたのか、疑問が残ります。というのも『続江戸砂子』(1735)に「目黒粟餅 同所の名物也。昔はまことの粟餅なりしが、ちかきほどは常の餅を粟のいろに染たる也」とあるからです。同時代の史料ではないので、何ともいえませんが、いずれにせよ春町にとって粟餅は出世作と結びつく、生涯忘れられない食べ物であったことでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
小堀遠州と十団子
広重 東海道五十三次ノ内 岡部 宇津の山之図 すくうタイプの団子は描かれておらず、厄除けの団子と串団子が見える。芸術の才にあふれた大名茶人近江小室藩主の小堀遠州(1579~1647)は、禁裏御所や二条城などの建築、造園に関わるとともに、江戸時代初期を代表する茶人でした。茶道遠州流の祖であり、洗練された瀟洒な茶風は「綺麗さび」と呼ばれています。茶会記には様々な茶菓子の名が見えますが、今回は遠州が江戸から京への旅の途中に出会った名物を『辛酉紀行』(1621)からご紹介します。旅の目的はわかりませんが、景色を愛でて歌を詠み、各地の知人と交流したことや、道中の食べ物として、十団子や焼米(庄野)のことが書かれています。 街道の名物に興味津々宇津(静岡県。宇津の山、宇津ノ谷とも)の峠にさしかかった時、白い霰のような餅を見かけた遠州は、その名を「十団子(とおだんご)」と聞いて「唐(とう)団子」つまり中国伝来の団子なのだろうと言います。しかし、店の人の説明によると「十」の由来は、容器から杓ですくう時、必ず一度に十個ずつになるからだとか。遠州は早速その技を見せるように命じます。店主の女房が自在に団子をすくう様を見物し、「是に慰みて暮にけれ…」と書いていますので、時間を忘れてその妙技を楽しんだのかもしれません。 十団子のその後十団子は江戸時代以前から宇津の名物として知られていました。しかし、遠州の時代より後には、小豆粒ほどの固い小さな団子を数珠のように連ねた十団子が登場し、こちらの方が有名になります。食べずに厄除けのお守りとし、杓ですくうという売り方は見られなくなりました。現在も厄除けの十団子は宇津ノ谷の慶龍寺で縁日に授与されるほか、土産として、食べても美味しい餡入りのものを売る店もあります。遠州が興じた技は幻となりましたが、近辺は江戸時代を感じさせるたたずまいが残っています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
小堀遠州と十団子
広重 東海道五十三次ノ内 岡部 宇津の山之図 すくうタイプの団子は描かれておらず、厄除けの団子と串団子が見える。芸術の才にあふれた大名茶人近江小室藩主の小堀遠州(1579~1647)は、禁裏御所や二条城などの建築、造園に関わるとともに、江戸時代初期を代表する茶人でした。茶道遠州流の祖であり、洗練された瀟洒な茶風は「綺麗さび」と呼ばれています。茶会記には様々な茶菓子の名が見えますが、今回は遠州が江戸から京への旅の途中に出会った名物を『辛酉紀行』(1621)からご紹介します。旅の目的はわかりませんが、景色を愛でて歌を詠み、各地の知人と交流したことや、道中の食べ物として、十団子や焼米(庄野)のことが書かれています。 街道の名物に興味津々宇津(静岡県。宇津の山、宇津ノ谷とも)の峠にさしかかった時、白い霰のような餅を見かけた遠州は、その名を「十団子(とおだんご)」と聞いて「唐(とう)団子」つまり中国伝来の団子なのだろうと言います。しかし、店の人の説明によると「十」の由来は、容器から杓ですくう時、必ず一度に十個ずつになるからだとか。遠州は早速その技を見せるように命じます。店主の女房が自在に団子をすくう様を見物し、「是に慰みて暮にけれ…」と書いていますので、時間を忘れてその妙技を楽しんだのかもしれません。 十団子のその後十団子は江戸時代以前から宇津の名物として知られていました。しかし、遠州の時代より後には、小豆粒ほどの固い小さな団子を数珠のように連ねた十団子が登場し、こちらの方が有名になります。食べずに厄除けのお守りとし、杓ですくうという売り方は見られなくなりました。現在も厄除けの十団子は宇津ノ谷の慶龍寺で縁日に授与されるほか、土産として、食べても美味しい餡入りのものを売る店もあります。遠州が興じた技は幻となりましたが、近辺は江戸時代を感じさせるたたずまいが残っています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
石黒况翁と蓬求肥
草求肥茶人 况翁(きょうおう)石黒忠悳(ただのり・1845~1941)は、軍医制度の基礎を築いた陸軍軍医総監として有名ですが、近代の代表的な茶人としても知られています。彼のお茶との出会いは明治10年頃といわれ、当時の茶の師匠より、どんな時でも平常心を忘れなかった「况(まして)の翁」の逸話を聞き、それにあやかり况斎(のち况翁)と号したそうです。况翁は「况翁茶話」※の中で「茶道は各自の分限に応じた道具や賄(まかない)なりで、上下貧富の別なく、同好と親しみ交わり、互いに心を尽くして賞玩するところに興味深さがある(要約)」と述べています。彼自身は名品も所持し、『好求録(こうきゅうろく)』という茶器鑑定書を著すほどの道具に詳しい人でしたが、名品を並び立てるような道具偏重のお茶はしませんでした。ある宮様を招いた茶会では、その宮様ゆかりの道具のほかは1円にも満たぬ新しい道具を取り合わせたことから不円と号したともいわれています。同時代を生きた茶人高橋箒庵は、况翁のこうした道具の取り合わせ、鑑識眼、知識の質の高さについて著作の中で触れ、賞賛しています。 お菓子の記憶况翁90歳を記念して、自伝『懐旧九十年』が発刊されます。彼の鮮明な記憶力には驚きを隠せません。特にお菓子に関しては、甲府にいた6歳から8歳頃「学業優等でほめられ、父からご褒美に友達と一緒に増田屋の饅頭を頂戴した」と述懐しています。また8歳から14歳にかけて江戸に住みますが、「来客に供する茶菓子は、並客にはせんべい、上客には最中」と書いています。况翁にとって、お菓子が懐かしい記憶の一つであったことがうかがえます。 况翁の名茶会と蓬(よもぎ)求肥高橋箒庵の『東都茶会記』大正2年(1913)春に記されている「乃木大将追憶茶会」は、近代名茶会の一つに数えられています。况翁は乃木大将とは兵部省に出仕した頃からの気心の知れた旧友でした。乃木大将の殉死直後に、况翁のかつての部下であった森鴎外が書き下ろした小説『興津弥五右衛門の遺書』は、熊本藩主細川家を舞台に、主君に殉じて死した武士を題材にしています。况翁はこの作品に想を得て、小説に深い関係のある古銅の花入に杜若を活け、初音の香を焚き、茶会に殉死というテーマを織り込みます。また乃木大将にゆかりのある道具も取り合わせます。日露戦争の敵弾を仕立てた茶器、旅順攻囲の鉄条網から作った火箸、大将常用の茶碗、戦死者を追悼した大将作の詩を刻んだ赤茶碗などです。主菓子には「蓬求肥(よもぎぎゅうひ)」を使っています。「蓬求肥」は色合いや形状から、春には「遠山」の銘がつけられることもあります。大陸の戦地の丘や山を連想したのでしょうか。それとも席中の掛物「山中春日書懐」にちなんだのでしょうか。『東都茶会記』にはお菓子を選んだ経緯までは書かれていません。しかし况翁のこと、お菓子の取り合わせにも、きっと何らかの意図があったものと思います。 ※ 「况翁茶話」は東京博文館刊『懐旧九十年』に附録甲として掲載されています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
石黒况翁と蓬求肥
草求肥茶人 况翁(きょうおう)石黒忠悳(ただのり・1845~1941)は、軍医制度の基礎を築いた陸軍軍医総監として有名ですが、近代の代表的な茶人としても知られています。彼のお茶との出会いは明治10年頃といわれ、当時の茶の師匠より、どんな時でも平常心を忘れなかった「况(まして)の翁」の逸話を聞き、それにあやかり况斎(のち况翁)と号したそうです。况翁は「况翁茶話」※の中で「茶道は各自の分限に応じた道具や賄(まかない)なりで、上下貧富の別なく、同好と親しみ交わり、互いに心を尽くして賞玩するところに興味深さがある(要約)」と述べています。彼自身は名品も所持し、『好求録(こうきゅうろく)』という茶器鑑定書を著すほどの道具に詳しい人でしたが、名品を並び立てるような道具偏重のお茶はしませんでした。ある宮様を招いた茶会では、その宮様ゆかりの道具のほかは1円にも満たぬ新しい道具を取り合わせたことから不円と号したともいわれています。同時代を生きた茶人高橋箒庵は、况翁のこうした道具の取り合わせ、鑑識眼、知識の質の高さについて著作の中で触れ、賞賛しています。 お菓子の記憶况翁90歳を記念して、自伝『懐旧九十年』が発刊されます。彼の鮮明な記憶力には驚きを隠せません。特にお菓子に関しては、甲府にいた6歳から8歳頃「学業優等でほめられ、父からご褒美に友達と一緒に増田屋の饅頭を頂戴した」と述懐しています。また8歳から14歳にかけて江戸に住みますが、「来客に供する茶菓子は、並客にはせんべい、上客には最中」と書いています。况翁にとって、お菓子が懐かしい記憶の一つであったことがうかがえます。 况翁の名茶会と蓬(よもぎ)求肥高橋箒庵の『東都茶会記』大正2年(1913)春に記されている「乃木大将追憶茶会」は、近代名茶会の一つに数えられています。况翁は乃木大将とは兵部省に出仕した頃からの気心の知れた旧友でした。乃木大将の殉死直後に、况翁のかつての部下であった森鴎外が書き下ろした小説『興津弥五右衛門の遺書』は、熊本藩主細川家を舞台に、主君に殉じて死した武士を題材にしています。况翁はこの作品に想を得て、小説に深い関係のある古銅の花入に杜若を活け、初音の香を焚き、茶会に殉死というテーマを織り込みます。また乃木大将にゆかりのある道具も取り合わせます。日露戦争の敵弾を仕立てた茶器、旅順攻囲の鉄条網から作った火箸、大将常用の茶碗、戦死者を追悼した大将作の詩を刻んだ赤茶碗などです。主菓子には「蓬求肥(よもぎぎゅうひ)」を使っています。「蓬求肥」は色合いや形状から、春には「遠山」の銘がつけられることもあります。大陸の戦地の丘や山を連想したのでしょうか。それとも席中の掛物「山中春日書懐」にちなんだのでしょうか。『東都茶会記』にはお菓子を選んだ経緯までは書かれていません。しかし况翁のこと、お菓子の取り合わせにも、きっと何らかの意図があったものと思います。 ※ 「况翁茶話」は東京博文館刊『懐旧九十年』に附録甲として掲載されています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
小林一茶と栗
信州の俳人俳人小林一茶(こばやしいっさ・1763~1827)は、長野県の北部、北国街道柏原宿(現信濃町)の農家に生まれました。15歳で江戸に出て、奉公先を転々としますが、20歳から25歳のころに俳句の道を志すようになりました。江戸から房総にかけて門人の多い俳諧葛飾派に師事し、37歳で二六庵という有力な庵号を継承します。その後10年あまりは、西国行脚など旅に明け暮れる生活を送り、しだいに、俳諧宗匠としての地位を確立していきます。 小布施と一茶一茶は、文化9年(1812)50歳の時、家を継いでいた弟と和解し、疎遠であった故郷に永住を決意します。当時、周辺の北信濃地方には江戸の文化が流入し、特に裕福な商人や豪農の人々の間で俳諧が盛んでありました。そのような背景もあり、門人や俳友も増え、隣接した小布施にも門人を訪ねたということです。代表作ともいえる「痩かへる(蛙)まけるな一茶 これにあり」は同地の岩松院で詠まれたものです。また、小布施といえば栗が有名ですが、江戸時代、小布施の栗は統轄する松代藩により管理され、厳選されて将軍家へ献上するのを例年の習わしとしていました。献上が終わるまでは持ち出しが出来なかったため「お留め栗」と呼ばれていました。一茶も「拾われぬ 栗の見事よ 大きさよ」と、「お留め栗」の句を詠んでいます。真っ先に拾いたくなる、大きく立派な栗であるが、庶民には叶わないという悲哀が感じられますが、暮らしに密着し、さらりと風刺する作風がよく表われているといえましょう。 栗菓子さまざま小布施での栗菓子の始まりは、文化5年(1808)に桜井幾右衛門が、栗の粉で作った栗落雁が最初とされ、諸侯の間で評判となりました。一茶が、落雁を口にしていたかは不明ですが、栗や栗おこわなどは堪能したことでしょう。現在でも、栗落雁(栗の粉の保存の難しさなどから赤えんどう豆を材料した落雁が主流)や純栗羊羹のほか、糖蜜で煮た栗と栗餡を合わせて缶につめたものや、栗をたっぷりと炊き込んだ栗おこわは小布施の名物となっています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
小林一茶と栗
信州の俳人俳人小林一茶(こばやしいっさ・1763~1827)は、長野県の北部、北国街道柏原宿(現信濃町)の農家に生まれました。15歳で江戸に出て、奉公先を転々としますが、20歳から25歳のころに俳句の道を志すようになりました。江戸から房総にかけて門人の多い俳諧葛飾派に師事し、37歳で二六庵という有力な庵号を継承します。その後10年あまりは、西国行脚など旅に明け暮れる生活を送り、しだいに、俳諧宗匠としての地位を確立していきます。 小布施と一茶一茶は、文化9年(1812)50歳の時、家を継いでいた弟と和解し、疎遠であった故郷に永住を決意します。当時、周辺の北信濃地方には江戸の文化が流入し、特に裕福な商人や豪農の人々の間で俳諧が盛んでありました。そのような背景もあり、門人や俳友も増え、隣接した小布施にも門人を訪ねたということです。代表作ともいえる「痩かへる(蛙)まけるな一茶 これにあり」は同地の岩松院で詠まれたものです。また、小布施といえば栗が有名ですが、江戸時代、小布施の栗は統轄する松代藩により管理され、厳選されて将軍家へ献上するのを例年の習わしとしていました。献上が終わるまでは持ち出しが出来なかったため「お留め栗」と呼ばれていました。一茶も「拾われぬ 栗の見事よ 大きさよ」と、「お留め栗」の句を詠んでいます。真っ先に拾いたくなる、大きく立派な栗であるが、庶民には叶わないという悲哀が感じられますが、暮らしに密着し、さらりと風刺する作風がよく表われているといえましょう。 栗菓子さまざま小布施での栗菓子の始まりは、文化5年(1808)に桜井幾右衛門が、栗の粉で作った栗落雁が最初とされ、諸侯の間で評判となりました。一茶が、落雁を口にしていたかは不明ですが、栗や栗おこわなどは堪能したことでしょう。現在でも、栗落雁(栗の粉の保存の難しさなどから赤えんどう豆を材料した落雁が主流)や純栗羊羹のほか、糖蜜で煮た栗と栗餡を合わせて缶につめたものや、栗をたっぷりと炊き込んだ栗おこわは小布施の名物となっています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
貝原益軒と柚餅子、砂糖漬
『大和本草』表紙と仏手柑の記載部分日本の本草学のさきがけ江戸時代前期の福岡藩士、貝原益軒(かいばらえきけん・1630~1714)は、それまで中国伝来の知識に依存していた本草学(ほんぞうがく)を日本独自の研究へと高めるさきがけとなった学者です。本草学とは、主に薬や食物となる動植鉱物などの知識を体系的にまとめる学問です。益軒は自宅の庭に野菜や花を栽培するなど、実証的に自らの本草学を展開していきました。 著作に見る菓子関係の記述益軒は多くの著作を残していますが、そのなかには菓子に関する記述もあります。例えば『日本歳時記』(1688)では、年中行事の菓子として、上巳の草餅や端午の粽に触れています。また、旧暦11月に柚子を買い、柚餅子(ゆべし)を作ることをすすめ、製法も詳しく書いています。柚子の中身をくりぬき、砂糖、味噌、胡麻、胡桃などを混ぜたものを詰めて蒸し、干す作り方で、現在石川県輪島ほかで作られる「丸ゆべし」の製法に近いと思われます。益軒はこのほか、『大和本草』(1709)の果木の項で、仏手柑(ぶしゅかん)は、生食には向かないが、蜜漬に用いると香りが良い、と書いています。仏手柑とは仏の手のような形の柑橘類です。‘蜜漬’は果物や野菜を蜜で煮て砂糖に漬けた砂糖漬をさすと思われます。彼の著作以外にも『和漢三才図会』(1712自序)の砂糖漬菓子の項に、蜜柑などとともに仏手柑が記されており、仏手柑の砂糖漬は当時、よく知られていたようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
貝原益軒と柚餅子、砂糖漬
『大和本草』表紙と仏手柑の記載部分日本の本草学のさきがけ江戸時代前期の福岡藩士、貝原益軒(かいばらえきけん・1630~1714)は、それまで中国伝来の知識に依存していた本草学(ほんぞうがく)を日本独自の研究へと高めるさきがけとなった学者です。本草学とは、主に薬や食物となる動植鉱物などの知識を体系的にまとめる学問です。益軒は自宅の庭に野菜や花を栽培するなど、実証的に自らの本草学を展開していきました。 著作に見る菓子関係の記述益軒は多くの著作を残していますが、そのなかには菓子に関する記述もあります。例えば『日本歳時記』(1688)では、年中行事の菓子として、上巳の草餅や端午の粽に触れています。また、旧暦11月に柚子を買い、柚餅子(ゆべし)を作ることをすすめ、製法も詳しく書いています。柚子の中身をくりぬき、砂糖、味噌、胡麻、胡桃などを混ぜたものを詰めて蒸し、干す作り方で、現在石川県輪島ほかで作られる「丸ゆべし」の製法に近いと思われます。益軒はこのほか、『大和本草』(1709)の果木の項で、仏手柑(ぶしゅかん)は、生食には向かないが、蜜漬に用いると香りが良い、と書いています。仏手柑とは仏の手のような形の柑橘類です。‘蜜漬’は果物や野菜を蜜で煮て砂糖に漬けた砂糖漬をさすと思われます。彼の著作以外にも『和漢三才図会』(1712自序)の砂糖漬菓子の項に、蜜柑などとともに仏手柑が記されており、仏手柑の砂糖漬は当時、よく知られていたようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
黒川武雄と小形羊羹
虎屋15代店主黒川武雄(1893~1975)は、虎屋14代光景(みつかげ)と養子縁組をし、後に光景の娘算子(かずこ)と結婚しました。武雄は東京帝国大学法律学科を卒業後、第一銀行を経て虎屋に入り、餡を煉ることから菓子作りに取り組みました。大正時代に配達車を導入したり、広告を打ったり、数々のアイデアで現在の虎屋の基礎を作り上げた人物です。戦後は菓子屋の社会的地位の低さを嘆いて参議院議員となり、第三次吉田内閣では厚生大臣を務め、業界の発展にも力を注ぎました。 様々な菓子を考案武雄が残したノートや随筆、社内掲示などから、武雄がいかに多くの菓子を考案したかを知ることができますが、現在も作り続けられている菓子も少なくありません。最も代表的なものは小形羊羹でしょう。当時羊羹は、現在大形と呼ばれている一棹1.5キロほどの大きさが普通で、コンパクトなサイズのものはありませんでした。武雄は小形羊羹のアイデアを思いついたときのことを、著作『新々羊羹と人生』(私製本)の中で以下のように記しています。 「大正時代のことである。六大学の野球をよく見に行った。野球が終わってゾロゾロと帰る道すがら、よく考えた。こんな大勢の人達にたやすく買ってもらえるお菓子を作りたい、と思った。夢にさえ考えた。たまたまフランスのコティの香水をもらった。大きさもよし、化粧箱も簡単であり、清楚である。これだ、この大きさだと思いついて、羊羹の小さいのがよい。・・・」 こうして羊羹を小さく切る道具を工夫し、「夜の梅」と「俤(おもかげ)」という二種類の羊羹を一本ずつアルミ箔で包んで、小さな箱に入れた小形羊羹が、昭和5年(1930)に発売されました。一箱15銭で当時としてはなかなか高価なものではありましたが、好評を得たようです。 羊羹を小さくするというアイデアは「わたしが永いこと苦労して考えた小形羊羹を売り出したら、二ヶ月もたたぬ間にどこかで、小形羊羹を売り出した」と武雄が嘆くほど、すぐに真似をされ、現在では一般的なものとなっています。フランスの香水から想を得ただけあって、発売当時の小形羊羹は清楚でいながらどこか華やぎのあるパッケージで、このデザインは戦争をはさんで昭和37年(1962)まで使われ続けました。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
黒川武雄と小形羊羹
虎屋15代店主黒川武雄(1893~1975)は、虎屋14代光景(みつかげ)と養子縁組をし、後に光景の娘算子(かずこ)と結婚しました。武雄は東京帝国大学法律学科を卒業後、第一銀行を経て虎屋に入り、餡を煉ることから菓子作りに取り組みました。大正時代に配達車を導入したり、広告を打ったり、数々のアイデアで現在の虎屋の基礎を作り上げた人物です。戦後は菓子屋の社会的地位の低さを嘆いて参議院議員となり、第三次吉田内閣では厚生大臣を務め、業界の発展にも力を注ぎました。 様々な菓子を考案武雄が残したノートや随筆、社内掲示などから、武雄がいかに多くの菓子を考案したかを知ることができますが、現在も作り続けられている菓子も少なくありません。最も代表的なものは小形羊羹でしょう。当時羊羹は、現在大形と呼ばれている一棹1.5キロほどの大きさが普通で、コンパクトなサイズのものはありませんでした。武雄は小形羊羹のアイデアを思いついたときのことを、著作『新々羊羹と人生』(私製本)の中で以下のように記しています。 「大正時代のことである。六大学の野球をよく見に行った。野球が終わってゾロゾロと帰る道すがら、よく考えた。こんな大勢の人達にたやすく買ってもらえるお菓子を作りたい、と思った。夢にさえ考えた。たまたまフランスのコティの香水をもらった。大きさもよし、化粧箱も簡単であり、清楚である。これだ、この大きさだと思いついて、羊羹の小さいのがよい。・・・」 こうして羊羹を小さく切る道具を工夫し、「夜の梅」と「俤(おもかげ)」という二種類の羊羹を一本ずつアルミ箔で包んで、小さな箱に入れた小形羊羹が、昭和5年(1930)に発売されました。一箱15銭で当時としてはなかなか高価なものではありましたが、好評を得たようです。 羊羹を小さくするというアイデアは「わたしが永いこと苦労して考えた小形羊羹を売り出したら、二ヶ月もたたぬ間にどこかで、小形羊羹を売り出した」と武雄が嘆くほど、すぐに真似をされ、現在では一般的なものとなっています。フランスの香水から想を得ただけあって、発売当時の小形羊羹は清楚でいながらどこか華やぎのあるパッケージで、このデザインは戦争をはさんで昭和37年(1962)まで使われ続けました。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)