虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
川崎巨泉と饅頭喰人形
川崎巨泉の饅頭喰人形(虎屋文庫蔵)玩具絵画家大阪・堺に生まれた川崎巨泉(かわさききょせん・1877~1942)は、幼い頃より絵が上手で、画家・デザイナーとして活躍しました。明治時代終わり頃から郷土玩具に興味を持ち、絵として記録するとともに、専門誌を発行するなどして研究を深めたことで知られます。百十数冊に及ぶスケッチ帳は、巨泉の没後、大阪府立中之島図書館に寄贈されました。現在では「人魚洞文庫データベース」の名称でインターネット上に公開され、画像をすべて閲覧することが出来るようになっています。なお、人魚洞というのは、人魚と人形を洒落た巨泉の別号です。 菓子の絵巨泉の絵は郷土玩具が主なテーマではありましたが、菓子も少なからず描かれています。巨泉による分類には「凧」「犬」などにまざって「餅(団子、煎餅)」や「あめ」などの名称が見られるので、菓子も民俗資料のひとつと認識していたのかもしれません。新粉細工(巨泉は団子細工と書いています)や飴細工(棒につけた鳥や、犬と鞠が蛤の貝に入ったもの)、有名なところでは祇園祭の粽なども。今では無くなってしまった、四天王寺や開口(あぐち)神社の庚申堂の「七色菓子」(7種類の菓子)のスケッチも残されるなど、貴重な史料となっています。 饅頭喰人形兎が餅つきをする仕掛けの人形など、お菓子に関わる郷土玩具の絵もみられます。中でも「饅頭喰」は、よほど好きだったのでしょうか、中之島図書館の所蔵品だけでも20点近くあります。これは「お父さんとお母さんのどちらが好きか」と聞かれた子どもが、持っていた饅頭を割って、「どちらがおいしいか?」と聞き返した(両親とも同じように大切である)、という教訓話を元にした人形です。京都・伏見が発祥地といわれるだけあって、伏見人形の絵が多いのですが、愛知、大阪、宮崎など地方のものも描かれています。これに想を得たものか、「人魚洞考案 満寿鈴」なる二つ割の饅頭をかたどった土鈴のスケッチが残されているのも、面白いところでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
川崎巨泉と饅頭喰人形
川崎巨泉の饅頭喰人形(虎屋文庫蔵)玩具絵画家大阪・堺に生まれた川崎巨泉(かわさききょせん・1877~1942)は、幼い頃より絵が上手で、画家・デザイナーとして活躍しました。明治時代終わり頃から郷土玩具に興味を持ち、絵として記録するとともに、専門誌を発行するなどして研究を深めたことで知られます。百十数冊に及ぶスケッチ帳は、巨泉の没後、大阪府立中之島図書館に寄贈されました。現在では「人魚洞文庫データベース」の名称でインターネット上に公開され、画像をすべて閲覧することが出来るようになっています。なお、人魚洞というのは、人魚と人形を洒落た巨泉の別号です。 菓子の絵巨泉の絵は郷土玩具が主なテーマではありましたが、菓子も少なからず描かれています。巨泉による分類には「凧」「犬」などにまざって「餅(団子、煎餅)」や「あめ」などの名称が見られるので、菓子も民俗資料のひとつと認識していたのかもしれません。新粉細工(巨泉は団子細工と書いています)や飴細工(棒につけた鳥や、犬と鞠が蛤の貝に入ったもの)、有名なところでは祇園祭の粽なども。今では無くなってしまった、四天王寺や開口(あぐち)神社の庚申堂の「七色菓子」(7種類の菓子)のスケッチも残されるなど、貴重な史料となっています。 饅頭喰人形兎が餅つきをする仕掛けの人形など、お菓子に関わる郷土玩具の絵もみられます。中でも「饅頭喰」は、よほど好きだったのでしょうか、中之島図書館の所蔵品だけでも20点近くあります。これは「お父さんとお母さんのどちらが好きか」と聞かれた子どもが、持っていた饅頭を割って、「どちらがおいしいか?」と聞き返した(両親とも同じように大切である)、という教訓話を元にした人形です。京都・伏見が発祥地といわれるだけあって、伏見人形の絵が多いのですが、愛知、大阪、宮崎など地方のものも描かれています。これに想を得たものか、「人魚洞考案 満寿鈴」なる二つ割の饅頭をかたどった土鈴のスケッチが残されているのも、面白いところでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
森山孝盛と羊羹の味
「江戸の華 名物商人ひやうばん」(1815)部分 西の大関に鈴木越後、東の小結に金澤丹後の名が見える。宮仕えのしきたり森山孝盛(もりやまたかもり・1738~1815)は江戸時代後期の旗本で、鬼平こと長谷川平蔵の後を受けて火付盗賊改を務めた人物です。孝盛が役に就いていた頃の勤務を回想した『賤(しず)のをだ巻』からは、宮仕えの苦労が読み取れます。たとえば、小普請組頭(こぶしんくみがしら)という役職に就いた者は、最初の寄合で先輩となる同僚を招いて供応しなければなりませんでした。しかも菓子は鈴木越後に頼むなど、注文にあたっても細かい決まりがありました。同僚全員の分を用意するとなると莫大な金額になりますが、全て自己負担です。 羊羹の味あるとき永井求馬(ながいもとめ)という者が小普請組頭に任命され、慣例通り同僚をもてなしました。ところが後日同僚の一人が、永井が出した菓子は鈴木越後のものではないと言い出します。すると他の者も同調し、ついに永井とその指導役の船田兵左衛門(ふなだへいざえもん)の2人を前に、同僚23人が勢ぞろいしての尋問となりました。船田が白状したところによると、高価な鈴木越後の菓子を避け、代わりに数年出入りのあった金澤丹後に頼んだとのこと。これを聞いた同僚たちは「さればこそ越後にてはなかりけり。ようかん(羊羹)麁(あら)し、越後は中々細(こまか)にて、さる味にてはなかりけり」と口々に責めたて、2人はとうとう手を突いて謝るはめになります。 鈴木越後と金澤丹後鈴木越後と金澤丹後はともに日本橋に店を構えていた有名菓子店ですが、安永6年(1777)刊の名物評判記『富貴地座位(ふきじざい)』では、鈴木越後の方が金澤丹後よりも上位に挙げられています。また50年程後の『江戸名物詩』では、鈴木越後の羊羹が「天下鳴(てんかになる)」ものと絶賛されています。金澤丹後も幕末に幕府御用を務めることになる店ですが、鈴木越後には及ばなかったのでしょう。菓子は鈴木越後でなければ食べない、という同僚の旗本たちは両者の違いを見逃さなかったのです。元来味に無頓着で、「有合(ありあわせ)にまかせて只(ただ)毒を喰わぬ計(ばかり)のことなりし」という孝盛も、自宅に帰って羊羹の風味に注意して食べ比べたところ、確かに味が違うことに気づいたといいます。この事件以後「味を覚えるやうに成(なり)たり」と述べており、食べ物にもこだわるようになったようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献山本博文『サムライの掟』読売新聞社 1995年『日本随筆大成』第3期第4巻 吉川弘文館 1977年
森山孝盛と羊羹の味
「江戸の華 名物商人ひやうばん」(1815)部分 西の大関に鈴木越後、東の小結に金澤丹後の名が見える。宮仕えのしきたり森山孝盛(もりやまたかもり・1738~1815)は江戸時代後期の旗本で、鬼平こと長谷川平蔵の後を受けて火付盗賊改を務めた人物です。孝盛が役に就いていた頃の勤務を回想した『賤(しず)のをだ巻』からは、宮仕えの苦労が読み取れます。たとえば、小普請組頭(こぶしんくみがしら)という役職に就いた者は、最初の寄合で先輩となる同僚を招いて供応しなければなりませんでした。しかも菓子は鈴木越後に頼むなど、注文にあたっても細かい決まりがありました。同僚全員の分を用意するとなると莫大な金額になりますが、全て自己負担です。 羊羹の味あるとき永井求馬(ながいもとめ)という者が小普請組頭に任命され、慣例通り同僚をもてなしました。ところが後日同僚の一人が、永井が出した菓子は鈴木越後のものではないと言い出します。すると他の者も同調し、ついに永井とその指導役の船田兵左衛門(ふなだへいざえもん)の2人を前に、同僚23人が勢ぞろいしての尋問となりました。船田が白状したところによると、高価な鈴木越後の菓子を避け、代わりに数年出入りのあった金澤丹後に頼んだとのこと。これを聞いた同僚たちは「さればこそ越後にてはなかりけり。ようかん(羊羹)麁(あら)し、越後は中々細(こまか)にて、さる味にてはなかりけり」と口々に責めたて、2人はとうとう手を突いて謝るはめになります。 鈴木越後と金澤丹後鈴木越後と金澤丹後はともに日本橋に店を構えていた有名菓子店ですが、安永6年(1777)刊の名物評判記『富貴地座位(ふきじざい)』では、鈴木越後の方が金澤丹後よりも上位に挙げられています。また50年程後の『江戸名物詩』では、鈴木越後の羊羹が「天下鳴(てんかになる)」ものと絶賛されています。金澤丹後も幕末に幕府御用を務めることになる店ですが、鈴木越後には及ばなかったのでしょう。菓子は鈴木越後でなければ食べない、という同僚の旗本たちは両者の違いを見逃さなかったのです。元来味に無頓着で、「有合(ありあわせ)にまかせて只(ただ)毒を喰わぬ計(ばかり)のことなりし」という孝盛も、自宅に帰って羊羹の風味に注意して食べ比べたところ、確かに味が違うことに気づいたといいます。この事件以後「味を覚えるやうに成(なり)たり」と述べており、食べ物にもこだわるようになったようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献山本博文『サムライの掟』読売新聞社 1995年『日本随筆大成』第3期第4巻 吉川弘文館 1977年
大久保藤五郎と三河餅
大久保主水三河餅献上の図(大久保家蔵)上水の始め天正18年(1590)徳川家康は、それまで領有していた駿河・遠江・三河などを離れ関東に移り、江戸に本拠を置きました。そのころの江戸は入り江や低湿地が多く、井戸を掘っても良い水に恵まれない土地でした。そこで家康は家臣の大久保藤五郎(おおくぼとうごろう・不詳~1617)に上水道の見立てを命じました。藤五郎は江戸の西にある井の頭池や善福寺池などを水源とする上水を開発しました。この上水は小石川上水とよばれ、後に神田上水へと発展しています。家康は藤五郎の功績に対して主水という名を与えました。大久保家では「もんど」では水が濁るというので代々「もんと」と名乗りました。 三河餅を献上話は藤五郎が上水道を開発する以前にさかのぼります。彼は家康の小姓を務めていたのですが、戦の傷がもとで、三河国上和田(岡崎市)に引きこもり、時折菓子を作っては家康に献上しました。江戸幕府の歴史を記した『徳川実紀』によれば、家康は主水の作った菓子を「御口にかないしとて毎度求め」ていました。そのなかに駿河餅とよばれる菓子があります。この餅は大久保主水家の由緒書などによれば三河餅となっています。三河も駿河も家康にとってはゆかりの深い土地ですので、どちらの名でもおかしくはありませんが、ここでは大久保家の由緒書ほかから三河餅の名をとりました。大久保家には藤五郎が鎧を着て、家康に餅を献上する絵が残されていますが、ずいぶん大きな紅白の餅で、これが三河餅と言われています。後年、家康が小石川用水の水源、井の頭池を訪れ、茶を点てた時にも三河餅を献上しています。この時には、湯を沸かした「宮嶋」という銘のある茶釜を主水は拝領しました。 幕府御用菓子屋大久保主水主水を名乗った藤五郎の子孫は、代々幕府の菓子御用を勤めました。古くは大久保主水一人で、徐々に増えて江戸時代後期になると4・5軒の菓子屋に増えています。しかし、江戸時代を通じて勤めた御用菓子屋は大久保主水家のみです。大久保主水は、幕府のさまざまな菓子作りに関わりました。6月16日は嘉祥の日、江戸城大広間には2万個を超す菓子などが並べられ、将軍から大名旗本へ菓子が分け与えられました。この菓子も歴代の主水が中心になって作りました。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献本HPコラム歴史上の人物と和菓子「徳川家康と嘉祥」 『徳川実紀』第一篇
大久保藤五郎と三河餅
大久保主水三河餅献上の図(大久保家蔵)上水の始め天正18年(1590)徳川家康は、それまで領有していた駿河・遠江・三河などを離れ関東に移り、江戸に本拠を置きました。そのころの江戸は入り江や低湿地が多く、井戸を掘っても良い水に恵まれない土地でした。そこで家康は家臣の大久保藤五郎(おおくぼとうごろう・不詳~1617)に上水道の見立てを命じました。藤五郎は江戸の西にある井の頭池や善福寺池などを水源とする上水を開発しました。この上水は小石川上水とよばれ、後に神田上水へと発展しています。家康は藤五郎の功績に対して主水という名を与えました。大久保家では「もんど」では水が濁るというので代々「もんと」と名乗りました。 三河餅を献上話は藤五郎が上水道を開発する以前にさかのぼります。彼は家康の小姓を務めていたのですが、戦の傷がもとで、三河国上和田(岡崎市)に引きこもり、時折菓子を作っては家康に献上しました。江戸幕府の歴史を記した『徳川実紀』によれば、家康は主水の作った菓子を「御口にかないしとて毎度求め」ていました。そのなかに駿河餅とよばれる菓子があります。この餅は大久保主水家の由緒書などによれば三河餅となっています。三河も駿河も家康にとってはゆかりの深い土地ですので、どちらの名でもおかしくはありませんが、ここでは大久保家の由緒書ほかから三河餅の名をとりました。大久保家には藤五郎が鎧を着て、家康に餅を献上する絵が残されていますが、ずいぶん大きな紅白の餅で、これが三河餅と言われています。後年、家康が小石川用水の水源、井の頭池を訪れ、茶を点てた時にも三河餅を献上しています。この時には、湯を沸かした「宮嶋」という銘のある茶釜を主水は拝領しました。 幕府御用菓子屋大久保主水主水を名乗った藤五郎の子孫は、代々幕府の菓子御用を勤めました。古くは大久保主水一人で、徐々に増えて江戸時代後期になると4・5軒の菓子屋に増えています。しかし、江戸時代を通じて勤めた御用菓子屋は大久保主水家のみです。大久保主水は、幕府のさまざまな菓子作りに関わりました。6月16日は嘉祥の日、江戸城大広間には2万個を超す菓子などが並べられ、将軍から大名旗本へ菓子が分け与えられました。この菓子も歴代の主水が中心になって作りました。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献本HPコラム歴史上の人物と和菓子「徳川家康と嘉祥」 『徳川実紀』第一篇
滝沢馬琴と大仏餅
方広寺門前の大仏餅の店。『都名所図会』(1780)より京・大坂遊覧の旅『南総里見八犬伝』を代表に、数々の文学作品を生み出した滝沢馬琴(たきざわばきん・1767~1848)。享和2年(1802)、彼が36歳の時に京・大坂を旅した際の記録が『羇旅漫録(きりょまんろく)』です。 江戸との比較本文のはじめに「おのが目に珍らしとおもへるもの。悉(ことごとく)これをしるす」とあるように、馬琴は小説家らしく鋭い観察眼で、旅先で見聞きした行事や人々の装いなどを細かく書いています。とりわけ興味深いのは、自身が暮らす江戸との比較をしていることです。たとえば、江戸では田楽や鯉の汁物の味付けに赤味噌を使うのに対し、京では白味噌を入れる、しかし白味噌は塩気が薄く甘味が強いので、食べられたものではないと言っています。こうした辛らつともいえる書き方には、かえって現実感があり、読み進めていくうちに馬琴とともに旅をしているような気分にもなります。 大仏餅がお好み菓子については、宇津(静岡県)の「十団子」、住吉(大阪府)の「とゝやせんべい」など、各地の名物をいくつか書いています。京で知られているものとしては、外郎粽、挽米の焼餅などをあげていますが、なかでも大仏餅は「江戸の羽二重もちに似て餡をうちにつゝめり。味ひ甚だ佳なり」と褒めています。大仏餅は京の方広寺や誓願寺の門前で売られ、評判となった菓子です。柔らかな食感の羽二重餅にも似ておいしかったのでしょう、舌鼓を打つ馬琴の姿が目に浮かぶようです。なお、当時の京では、雅な菓銘を持ち、色どりも美しい「上菓子」が知られていましたが、馬琴は「よしといへども価大に尊(たか)し」と書いています。上菓子は上等な白砂糖を使っているため高価で、庶民にとっては高嶺の花でした。馬琴も気軽に食べられるものではない、と思ったのでしょうね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
滝沢馬琴と大仏餅
方広寺門前の大仏餅の店。『都名所図会』(1780)より京・大坂遊覧の旅『南総里見八犬伝』を代表に、数々の文学作品を生み出した滝沢馬琴(たきざわばきん・1767~1848)。享和2年(1802)、彼が36歳の時に京・大坂を旅した際の記録が『羇旅漫録(きりょまんろく)』です。 江戸との比較本文のはじめに「おのが目に珍らしとおもへるもの。悉(ことごとく)これをしるす」とあるように、馬琴は小説家らしく鋭い観察眼で、旅先で見聞きした行事や人々の装いなどを細かく書いています。とりわけ興味深いのは、自身が暮らす江戸との比較をしていることです。たとえば、江戸では田楽や鯉の汁物の味付けに赤味噌を使うのに対し、京では白味噌を入れる、しかし白味噌は塩気が薄く甘味が強いので、食べられたものではないと言っています。こうした辛らつともいえる書き方には、かえって現実感があり、読み進めていくうちに馬琴とともに旅をしているような気分にもなります。 大仏餅がお好み菓子については、宇津(静岡県)の「十団子」、住吉(大阪府)の「とゝやせんべい」など、各地の名物をいくつか書いています。京で知られているものとしては、外郎粽、挽米の焼餅などをあげていますが、なかでも大仏餅は「江戸の羽二重もちに似て餡をうちにつゝめり。味ひ甚だ佳なり」と褒めています。大仏餅は京の方広寺や誓願寺の門前で売られ、評判となった菓子です。柔らかな食感の羽二重餅にも似ておいしかったのでしょう、舌鼓を打つ馬琴の姿が目に浮かぶようです。なお、当時の京では、雅な菓銘を持ち、色どりも美しい「上菓子」が知られていましたが、馬琴は「よしといへども価大に尊(たか)し」と書いています。上菓子は上等な白砂糖を使っているため高価で、庶民にとっては高嶺の花でした。馬琴も気軽に食べられるものではない、と思ったのでしょうね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
前川千帆と「偲糖帖」
「偲糖帖」より京都生まれの版画作家前川千帆(まえかわせんぱん・1888~1960)は、新聞の連載漫画で活躍した京都生まれの版画家です。上京後、読売新聞に入社し漫画を描く一方で、日本創作版画協会の会員として日展や文展にも出品しました。昭和20年から35年の死去まで『閑中閑本(かんちゅうかんぽん)』(全27冊)と題した彩色木版・折帖仕立のシリーズを刊行。その第1冊目が「偲糖帖(しとうちょう)」です。 物資不足の中・・・序文は「昭和20年 早春」となっており、時代は太平洋戦争末期。人が集まれば砂糖の闇相場ばかりが話題に上り、「徒(いたず)らにありし日の甘美を讃ふるのみ」で、狐にだまされ馬糞を牡丹餅だと思って食ったという昔話の男さえ「むしろ羨んで然るべし」といった有様でした。書名の「偲糖」とは耳慣れない言葉ですが、「華かなりし頃のもろもろの糖分を偲んで僅(わずか)に慰(なぐさ)む」との心から、思いつくままに菓子の名前が並べられています。昔ながらの肉桂糖、落雁、あめ、おこし、羊羹から洋菓子のプリンやビスケット、チョコレートに至るまで、その数は実に376個に及びます。千帆自身、その種類の多さに呆れながらも「現在の糖分要求の慾望さへ忘るるの錯覚」を起こしたとのことです。 消え行くものへの慈しみしかし、これは単なる食いしん坊の本ではありません。「この盛代の糖 汎濫かへり来る日ありや如何 既にして現代人の嗜好の外にあるものあり 落伍(らくご)久しきものあり 幸ひ復興再来の日を待つと雖(いえど)も直(ただ)ちに旧の盛況は期すべからず 即 列記して文献となす」との一文からは、消え行く菓子を自らの手で書き残そうとする気概と深い愛情が伝わってきます。1つ1つ手で彫られた不揃いの文字には活字にはないぬくもりがあり、添えられた素朴な絵はどれも本当においしそうです。限定200部で発行された「偲糖帖」を手にした人々は、千帆同様、ほんの一時でも戦時中の空腹を忘れ、菓子の味を思い起こして頬を緩めたのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
前川千帆と「偲糖帖」
「偲糖帖」より京都生まれの版画作家前川千帆(まえかわせんぱん・1888~1960)は、新聞の連載漫画で活躍した京都生まれの版画家です。上京後、読売新聞に入社し漫画を描く一方で、日本創作版画協会の会員として日展や文展にも出品しました。昭和20年から35年の死去まで『閑中閑本(かんちゅうかんぽん)』(全27冊)と題した彩色木版・折帖仕立のシリーズを刊行。その第1冊目が「偲糖帖(しとうちょう)」です。 物資不足の中・・・序文は「昭和20年 早春」となっており、時代は太平洋戦争末期。人が集まれば砂糖の闇相場ばかりが話題に上り、「徒(いたず)らにありし日の甘美を讃ふるのみ」で、狐にだまされ馬糞を牡丹餅だと思って食ったという昔話の男さえ「むしろ羨んで然るべし」といった有様でした。書名の「偲糖」とは耳慣れない言葉ですが、「華かなりし頃のもろもろの糖分を偲んで僅(わずか)に慰(なぐさ)む」との心から、思いつくままに菓子の名前が並べられています。昔ながらの肉桂糖、落雁、あめ、おこし、羊羹から洋菓子のプリンやビスケット、チョコレートに至るまで、その数は実に376個に及びます。千帆自身、その種類の多さに呆れながらも「現在の糖分要求の慾望さへ忘るるの錯覚」を起こしたとのことです。 消え行くものへの慈しみしかし、これは単なる食いしん坊の本ではありません。「この盛代の糖 汎濫かへり来る日ありや如何 既にして現代人の嗜好の外にあるものあり 落伍(らくご)久しきものあり 幸ひ復興再来の日を待つと雖(いえど)も直(ただ)ちに旧の盛況は期すべからず 即 列記して文献となす」との一文からは、消え行く菓子を自らの手で書き残そうとする気概と深い愛情が伝わってきます。1つ1つ手で彫られた不揃いの文字には活字にはないぬくもりがあり、添えられた素朴な絵はどれも本当においしそうです。限定200部で発行された「偲糖帖」を手にした人々は、千帆同様、ほんの一時でも戦時中の空腹を忘れ、菓子の味を思い起こして頬を緩めたのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
鏑木清方と甘いもの
鶯餅美人画や風俗画で有名な日本画家鏑木清方(かぶらききよかた・1878~1972)は、明治11年東京神田に生まれました。浮世絵師の月岡芳年門下の水野年方(としかた)に入門、若くして新聞の挿絵を描き始め、尾崎紅葉、泉鏡花、島崎藤村などの小説の挿絵を手がけて人気を集めます。その後、日本画家として本格的に活動するようになり、文展や帝展などで受賞を重ね、清楚な美人画や下町情緒あふれる風俗画を中心に数多くの名品を残しました。 清方の好きな菓子清方は随筆も著しており、甘いものについてしばしば触れています。たとえば東京名物や土産に関しては、現在も有名な栄太楼(榮太樓)の甘納豆、梅花亭のどら焼、空也の最中ほか、蟹屋の「屠蘇おこし」や野村の「のの字落雁」など、もはや存在しない店名や菓子名もあげており、その味が気になります。自身の嗜好については「甘党だけれどひどく甘い菓子は好かない」とあり、「昔からの番茶菓子」ともいえる鹿の子、紅梅餅、大福、金つば、田舎饅頭、鶯餅などが好物でした。「上物は敬遠して駄物を悦ぶ」「練羊羹よりは蒸羊羹を取る」とも見え、画風そのままに、庶民的な菓子を愛していたようです。 懐かしの汁粉屋の風情清方が思い起こす汁粉屋の記述も味わい深いもの。「人情本の挿画にでも見るような小粋な造りで、床にも細ものの茶懸に、わびすけでも活けてあろうという好み、たかだか三尺が一間の入口には、茶色の短い暖簾、籠行燈という誂えの道具立て」とあり、かつてはこうした「明治趣味」の雰囲気が漂う店が多かったようです。往時の汁粉屋にふらりと立ち寄りたい気持ちにかられます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『随筆集 明治の東京』岩波文庫所載の「甘いものの話」(昭和7年)「名物無名物」(昭和19年)
鏑木清方と甘いもの
鶯餅美人画や風俗画で有名な日本画家鏑木清方(かぶらききよかた・1878~1972)は、明治11年東京神田に生まれました。浮世絵師の月岡芳年門下の水野年方(としかた)に入門、若くして新聞の挿絵を描き始め、尾崎紅葉、泉鏡花、島崎藤村などの小説の挿絵を手がけて人気を集めます。その後、日本画家として本格的に活動するようになり、文展や帝展などで受賞を重ね、清楚な美人画や下町情緒あふれる風俗画を中心に数多くの名品を残しました。 清方の好きな菓子清方は随筆も著しており、甘いものについてしばしば触れています。たとえば東京名物や土産に関しては、現在も有名な栄太楼(榮太樓)の甘納豆、梅花亭のどら焼、空也の最中ほか、蟹屋の「屠蘇おこし」や野村の「のの字落雁」など、もはや存在しない店名や菓子名もあげており、その味が気になります。自身の嗜好については「甘党だけれどひどく甘い菓子は好かない」とあり、「昔からの番茶菓子」ともいえる鹿の子、紅梅餅、大福、金つば、田舎饅頭、鶯餅などが好物でした。「上物は敬遠して駄物を悦ぶ」「練羊羹よりは蒸羊羹を取る」とも見え、画風そのままに、庶民的な菓子を愛していたようです。 懐かしの汁粉屋の風情清方が思い起こす汁粉屋の記述も味わい深いもの。「人情本の挿画にでも見るような小粋な造りで、床にも細ものの茶懸に、わびすけでも活けてあろうという好み、たかだか三尺が一間の入口には、茶色の短い暖簾、籠行燈という誂えの道具立て」とあり、かつてはこうした「明治趣味」の雰囲気が漂う店が多かったようです。往時の汁粉屋にふらりと立ち寄りたい気持ちにかられます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『随筆集 明治の東京』岩波文庫所載の「甘いものの話」(昭和7年)「名物無名物」(昭和19年)