虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
富岡鉄斎と「白ういろ」
外郎餅鉄斎と正弘富岡鉄斎(1836~1924)は、近代日本の画壇を代表する画家の一人です。明治15年(1882)、47歳の時に虎屋京都店のすぐ近く、室町通り一条下ル薬屋町に転居し、亡くなるまでの約43年間、この地で暮らします。鉄斎は、虎屋14代店主の実弟で京都店支配人であった黒川正弘[魁亭(かいてい)](1880~1948)とは非常に親しい関係にありました。正弘を自分の名代として遣わすこともあり、「拙者の愛弟子に御座候」と元老だった西園寺公望に紹介したという逸話も残っています。虎屋が鉄斎の作品を所蔵しているのも、このような交誼によるものです。 晩年の好物孫の益太郎や冬野は、鉄斎の画室に遊びに行くと、富岡家で「あんぽんたん」と呼ばれていた、軟らかいあられをお決まりのようにもらっていました。口に入れるとフワッと溶けて食べやすいので、高齢の鉄斎も常備の菓子にしていたのでしょう。また益太郎は年に数回、鉄斎のもとに名古屋から送られてくる「元贇焼(げんぴんやき)」をもらうのを楽しみにしていました。これはケシの実を振った硬い焼き菓子だったようです。さて、晩年の鉄斎は甘い餡を使った菓子より、「白ういろ」(白い外郎か)を好物としていました。しかもその食べ方は山葵醤油をつけるというもの。筆者も実際に山葵醤油をたっぷりつけて試してみました。すると匂いこそ違いますが、鯨の脂肪の層を使った「本皮(ほんかわ)」の刺身や関西のおでん種で有名な「コロ」の歯触り、口解けに近いものを感じました。鉄斎は鰻など脂肪の多い魚が好きだったそうですが、もしかしたら体調管理への配慮から、代用品と考えて食べていたのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『富岡鉄斎』小高根太郎編 日本美術新報社 1961年
富岡鉄斎と「白ういろ」
外郎餅鉄斎と正弘富岡鉄斎(1836~1924)は、近代日本の画壇を代表する画家の一人です。明治15年(1882)、47歳の時に虎屋京都店のすぐ近く、室町通り一条下ル薬屋町に転居し、亡くなるまでの約43年間、この地で暮らします。鉄斎は、虎屋14代店主の実弟で京都店支配人であった黒川正弘[魁亭(かいてい)](1880~1948)とは非常に親しい関係にありました。正弘を自分の名代として遣わすこともあり、「拙者の愛弟子に御座候」と元老だった西園寺公望に紹介したという逸話も残っています。虎屋が鉄斎の作品を所蔵しているのも、このような交誼によるものです。 晩年の好物孫の益太郎や冬野は、鉄斎の画室に遊びに行くと、富岡家で「あんぽんたん」と呼ばれていた、軟らかいあられをお決まりのようにもらっていました。口に入れるとフワッと溶けて食べやすいので、高齢の鉄斎も常備の菓子にしていたのでしょう。また益太郎は年に数回、鉄斎のもとに名古屋から送られてくる「元贇焼(げんぴんやき)」をもらうのを楽しみにしていました。これはケシの実を振った硬い焼き菓子だったようです。さて、晩年の鉄斎は甘い餡を使った菓子より、「白ういろ」(白い外郎か)を好物としていました。しかもその食べ方は山葵醤油をつけるというもの。筆者も実際に山葵醤油をたっぷりつけて試してみました。すると匂いこそ違いますが、鯨の脂肪の層を使った「本皮(ほんかわ)」の刺身や関西のおでん種で有名な「コロ」の歯触り、口解けに近いものを感じました。鉄斎は鰻など脂肪の多い魚が好きだったそうですが、もしかしたら体調管理への配慮から、代用品と考えて食べていたのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『富岡鉄斎』小高根太郎編 日本美術新報社 1961年
井関隆子と菓子いろいろ
左手前に鳥飼和泉の井籠(せいろう・菓子を運ぶ容器)がみえる。 江戸在住の旗本夫人 井関隆子(いせきたかこ・1785~1844)は九段坂下に屋敷を構えた旗本の夫人です。天保11年(1840)~15年、隆子が56歳から60歳の間の日記が現存します。当時未亡人であった隆子は、当主である息子の親経(二丸留守居)夫婦らとともに暮らしていました。歴史の中では無名の一女性である隆子ですが、和歌や古典文学に造詣が深く、その日記は史料的な価値の高さとともに日記文学としても注目され、翻刻、研究されています。 当時の菓子事情 綴られる内容は、日々の生活をはじめ思い出話、折々に詠んだ和歌など多岐にわたります。自分の生きた時代を記録する意味もあったのでしょう、菓子についても、結果(かくなわ)や、まがりもちなどの唐菓子は聞かなくなったこと、江戸には紅屋志津摩(べにやしづま)、鳥飼和泉(とりかいいずみ)、船橋屋織江(ふなばしやおりえ)をはじめ菓子屋の数が多いこと、「きせわた、しぐれ、うす桜」など雅な名があること、桜餅は隅田川のほとりで売り出されたのが始まりで、今は他でも売っていることなどを記しています。 年中行事と菓子 行事食の話も多くみられます。たとえば3月3日の草餅は、母子草を使っていたのが今は蓬になったというけれども、しかし大方は「青き粉もて色つくる也」と記されます。「青き粉」が何であったのかわかりませんが、ともかく蓬ではなく、青い粉で色をつけているのだということです。同様の記述は『守貞謾稿』にも見ることができます。 また、6月16日の嘉定(嘉祥)の記述も興味をひきます。菓子を食べて厄除け、招福を願う日で、幕府でも重要な儀式が行なわれました(「徳川家康と嘉祥」参照)。隆子は民間で「嘉定食(かじょうぐい)」といって人々が好みの食べ物を買い、「物いはず笑はず(口をきかず笑わず)」に食べることをまじめくさって行なっていると書きとめ、これはいつ始まったか、どういう理由なのかも知れず、「あやしきならはし(習わし)也」と感想を添えています。 少々辛口ではありますが、隆子の鋭い観察眼がうかがえるような記述といえるでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献 『井関隆子日記』上巻 勉誠社 1978年
井関隆子と菓子いろいろ
左手前に鳥飼和泉の井籠(せいろう・菓子を運ぶ容器)がみえる。 江戸在住の旗本夫人 井関隆子(いせきたかこ・1785~1844)は九段坂下に屋敷を構えた旗本の夫人です。天保11年(1840)~15年、隆子が56歳から60歳の間の日記が現存します。当時未亡人であった隆子は、当主である息子の親経(二丸留守居)夫婦らとともに暮らしていました。歴史の中では無名の一女性である隆子ですが、和歌や古典文学に造詣が深く、その日記は史料的な価値の高さとともに日記文学としても注目され、翻刻、研究されています。 当時の菓子事情 綴られる内容は、日々の生活をはじめ思い出話、折々に詠んだ和歌など多岐にわたります。自分の生きた時代を記録する意味もあったのでしょう、菓子についても、結果(かくなわ)や、まがりもちなどの唐菓子は聞かなくなったこと、江戸には紅屋志津摩(べにやしづま)、鳥飼和泉(とりかいいずみ)、船橋屋織江(ふなばしやおりえ)をはじめ菓子屋の数が多いこと、「きせわた、しぐれ、うす桜」など雅な名があること、桜餅は隅田川のほとりで売り出されたのが始まりで、今は他でも売っていることなどを記しています。 年中行事と菓子 行事食の話も多くみられます。たとえば3月3日の草餅は、母子草を使っていたのが今は蓬になったというけれども、しかし大方は「青き粉もて色つくる也」と記されます。「青き粉」が何であったのかわかりませんが、ともかく蓬ではなく、青い粉で色をつけているのだということです。同様の記述は『守貞謾稿』にも見ることができます。 また、6月16日の嘉定(嘉祥)の記述も興味をひきます。菓子を食べて厄除け、招福を願う日で、幕府でも重要な儀式が行なわれました(「徳川家康と嘉祥」参照)。隆子は民間で「嘉定食(かじょうぐい)」といって人々が好みの食べ物を買い、「物いはず笑はず(口をきかず笑わず)」に食べることをまじめくさって行なっていると書きとめ、これはいつ始まったか、どういう理由なのかも知れず、「あやしきならはし(習わし)也」と感想を添えています。 少々辛口ではありますが、隆子の鋭い観察眼がうかがえるような記述といえるでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献 『井関隆子日記』上巻 勉誠社 1978年
源頼朝と矢口餅
矢口餅(復元)富士の巻狩(まきがり)鎌倉幕府初代将軍となる源頼朝(1147~99)は、伊豆国(静岡県)で挙兵すると、平家一門や、木曽義仲、弟の義経、奥州藤原氏などを次々と打倒し、建久3年(1192)征夷大将軍に任じられます。翌年5月16日富士の裾野で催した巻狩で、嫡子の頼家(12歳)が鹿を射止ると、頼朝は狩を中断し、矢口の神事(箭祭(やまつり)とも)を行ないました。これは武家の男子が狩猟で初めて獲物を獲ったことを祝う儀式で、当人はもちろん、父の頼朝にとっても、後継者のお披露目というべき一大事でした。 3色の餅『吾妻鏡』によると、この儀式のために、長さ8寸(約24㎝)・広さ(幅)3寸(約9㎝)・厚さ1寸(約3㎝)の、黒・赤・白の餅(矢口餅(やぐちのもち))が、各色3枚ずつ、合計9枚が3組用意されました。3人の御家人が、頼朝と頼家の前で、これを順番に食べるのです。御家人の中でも特に弓術に秀でた者たちが、この役に選ばれました。餅を食べる際は、3色の餅を1枚ずつ重ねるのですが、重ね方はもちろん、食べる際に口をつける場所と回数、その順番まで、家によって独特の作法や決まりがあったようです。3枚重ねるとかなりの大きさですが、どうやって食べたのでしょう。その場で見ていた頼朝も、選ばれた御家人たちの作法に興味を覚え、3人目の曾我祐信(そがすけのぶ)という御家人に作法について尋ねます。ところがこのとき祐信は、頼朝の問いに答えることなく、黙々と儀式を行なってしまいました。頼朝は非常に不満だったようですが、ちゃんと祐信にも褒美を与えています。後で改めて頼朝の問いに答えたのでしょうか。 室町時代も続く儀式同様の儀式は、室町時代の足利将軍家でも行なわれていたことが、江戸時代の故実書からわかります。書によって「矢開(やびらき)」、「矢口開き」など名称も様々で、足つきの専用台を用意したり、手のひらに複数のる小さな餅を使ったり、内容に違いがあります。しかし、いずれも黒・赤・白の3色の餅を、選ばれた人間が「食べる」(口をつけるだけの場合も)点では共通しています。頼朝の時代から室町幕府へと受け継がれて行った、武家の男子の重要な通過儀礼だったのでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
源頼朝と矢口餅
矢口餅(復元)富士の巻狩(まきがり)鎌倉幕府初代将軍となる源頼朝(1147~99)は、伊豆国(静岡県)で挙兵すると、平家一門や、木曽義仲、弟の義経、奥州藤原氏などを次々と打倒し、建久3年(1192)征夷大将軍に任じられます。翌年5月16日富士の裾野で催した巻狩で、嫡子の頼家(12歳)が鹿を射止ると、頼朝は狩を中断し、矢口の神事(箭祭(やまつり)とも)を行ないました。これは武家の男子が狩猟で初めて獲物を獲ったことを祝う儀式で、当人はもちろん、父の頼朝にとっても、後継者のお披露目というべき一大事でした。 3色の餅『吾妻鏡』によると、この儀式のために、長さ8寸(約24㎝)・広さ(幅)3寸(約9㎝)・厚さ1寸(約3㎝)の、黒・赤・白の餅(矢口餅(やぐちのもち))が、各色3枚ずつ、合計9枚が3組用意されました。3人の御家人が、頼朝と頼家の前で、これを順番に食べるのです。御家人の中でも特に弓術に秀でた者たちが、この役に選ばれました。餅を食べる際は、3色の餅を1枚ずつ重ねるのですが、重ね方はもちろん、食べる際に口をつける場所と回数、その順番まで、家によって独特の作法や決まりがあったようです。3枚重ねるとかなりの大きさですが、どうやって食べたのでしょう。その場で見ていた頼朝も、選ばれた御家人たちの作法に興味を覚え、3人目の曾我祐信(そがすけのぶ)という御家人に作法について尋ねます。ところがこのとき祐信は、頼朝の問いに答えることなく、黙々と儀式を行なってしまいました。頼朝は非常に不満だったようですが、ちゃんと祐信にも褒美を与えています。後で改めて頼朝の問いに答えたのでしょうか。 室町時代も続く儀式同様の儀式は、室町時代の足利将軍家でも行なわれていたことが、江戸時代の故実書からわかります。書によって「矢開(やびらき)」、「矢口開き」など名称も様々で、足つきの専用台を用意したり、手のひらに複数のる小さな餅を使ったり、内容に違いがあります。しかし、いずれも黒・赤・白の3色の餅を、選ばれた人間が「食べる」(口をつけるだけの場合も)点では共通しています。頼朝の時代から室町幕府へと受け継がれて行った、武家の男子の重要な通過儀礼だったのでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
徳川家定とカステラ・饅頭
家定と篤姫江戸幕府十三代将軍徳川家定(1824~58)は、十二代将軍家慶の四男として生まれ、嘉永6年(1853)、父の死によって将軍職を継ぎました。 父の死去直前には、ペリーが来航して幕府に開国を迫り、以後外国の圧力が強まって、攘夷運動が広がっています。そうした情勢下でも病弱な家定は、充分な指導力を発揮できませんでした。 家定は将軍になる以前、2人の妻に先立たれましたが、安政3年(1856)に近衛家の養女という形で、島津家から篤姫を御台所に迎えています。婚儀の折には、縁起物の「五百八十之餅」が徳川・近衛両家から用意されました。記録ではそれぞれ七つの荷に分けられて運ばれていますが(『続徳川実紀』)、実際に580個の餅が用意されたのでしょうか、興味のあるところです。2年に満たない夫婦生活でしたが、篤姫は夫の死後も徳川家のために力を尽くしています。 甘い物好き数寄屋坊主(すきやぼうず)は、江戸城における茶の湯に関わっていました。身分は低くとも将軍や大名などの側近くに仕え、なかなかの情報通であったと思われます。そのなかの野村休成(のむらきゅうせい)は、安政2年(1855)5月、後の大老井伊直弼に政治に対する意見書を出しています(『大日本維新史料類纂之部 井伊家史料四』)。 休成は意見書の中で、家定が30歳を超えているというのに、江戸城内の畑でとれた薩摩芋や唐茄子(カボチャ)を煮、また饅頭やカステラを「御拵え為され」ていると嘆いているのです。この文章は「ご自分でお作りになる」とも読めます。一説に家定は料理が趣味だったといわれていますので、菓子も将軍お手製だったのかも知れません。 当時のカステラは、金属製の鍋に卵や小麦粉、砂糖などを混ぜた生地を流し入れ、蓋をして火に掛け、蓋の上にも炭火を置いて上下から熱して作りました。 家定の饅頭やカステラはどのような味だったのでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
徳川家定とカステラ・饅頭
家定と篤姫江戸幕府十三代将軍徳川家定(1824~58)は、十二代将軍家慶の四男として生まれ、嘉永6年(1853)、父の死によって将軍職を継ぎました。 父の死去直前には、ペリーが来航して幕府に開国を迫り、以後外国の圧力が強まって、攘夷運動が広がっています。そうした情勢下でも病弱な家定は、充分な指導力を発揮できませんでした。 家定は将軍になる以前、2人の妻に先立たれましたが、安政3年(1856)に近衛家の養女という形で、島津家から篤姫を御台所に迎えています。婚儀の折には、縁起物の「五百八十之餅」が徳川・近衛両家から用意されました。記録ではそれぞれ七つの荷に分けられて運ばれていますが(『続徳川実紀』)、実際に580個の餅が用意されたのでしょうか、興味のあるところです。2年に満たない夫婦生活でしたが、篤姫は夫の死後も徳川家のために力を尽くしています。 甘い物好き数寄屋坊主(すきやぼうず)は、江戸城における茶の湯に関わっていました。身分は低くとも将軍や大名などの側近くに仕え、なかなかの情報通であったと思われます。そのなかの野村休成(のむらきゅうせい)は、安政2年(1855)5月、後の大老井伊直弼に政治に対する意見書を出しています(『大日本維新史料類纂之部 井伊家史料四』)。 休成は意見書の中で、家定が30歳を超えているというのに、江戸城内の畑でとれた薩摩芋や唐茄子(カボチャ)を煮、また饅頭やカステラを「御拵え為され」ていると嘆いているのです。この文章は「ご自分でお作りになる」とも読めます。一説に家定は料理が趣味だったといわれていますので、菓子も将軍お手製だったのかも知れません。 当時のカステラは、金属製の鍋に卵や小麦粉、砂糖などを混ぜた生地を流し入れ、蓋をして火に掛け、蓋の上にも炭火を置いて上下から熱して作りました。 家定の饅頭やカステラはどのような味だったのでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
谷宗牧と蕨餅
漂泊の歌人谷宗牧(たにそうぼく・?~1545)は、戦国時代の連歌師です。京に活動の拠点を置きながら、しばしば諸国を旅して京の文化と和歌を伝えました。最晩年の天文13年(1544)9月から翌年3月にかけて書かれた『東国紀行』は、湯治をかねて京から江戸まで旅をした際のものです。 戦乱の世を旅する当時、宗牧は連歌界の第一人者として知られていたこともあり、訪れた先では大変な歓待をうけ、盛大な連歌の会が催されました。とはいえ戦乱の世のこと。彼のもとへは合戦など各地の情報が逐一届けられます。緊張状態にある国境を通る際には、互いの領国の武士に安全のため送り迎えをしてもらうこともありました。そうしたなか、知人との旧交を温めたり、熱海で念願の湯治を楽しんだりと旅を満喫しています。一方で京を懐かしむ気持ちも強く、旅先で12月15日の鬼やらいの豆打ちの声を聞いたり、3月3日の上巳の節句の草餅を見た時には「都思ひ出でられたり」と記しています。 蕨餅に舌鼓さて、ある日宗牧は日坂(静岡県)の茶屋で休憩をとります。そこで出されたのが名物の蕨餅でした。宗牧はかつて食べたことがあったようで、感慨もひとしおに「年たけて又くふ(食)べしと思ひきや蕨もちひ(餅)も命なりけり」と歌を詠んでいます。これは西行の和歌※をもとにしたのでしょう、おいしい蕨餅で旅の疲れを癒す様子がうかがえます。蕨餅は、蕨の根から取れる澱粉で作る菓子で、街道の整備に伴い江戸時代には広く知られるようになりました。しかし、大量販売のためか蕨粉だけで作るのは難しくなったようです。江戸時代初期の儒学者林羅山(はやしらざん)の『丙辰紀行(へいしんきこう)』(1638)には、蕨粉と葛粉をあわせた生地を蒸し、塩味の黄粉をかけたと書いてあります。さて、宗牧の時代はどうだったのでしょうか。『丙辰紀行』より100年近く遡りますので、あるいは蕨粉だけで作られていたかもしれませんね。 ※ 年たけて又こゆべしと思ひきや いのちなりけり さ夜の中山(『新古今和歌集』羇旅歌) ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
谷宗牧と蕨餅
漂泊の歌人谷宗牧(たにそうぼく・?~1545)は、戦国時代の連歌師です。京に活動の拠点を置きながら、しばしば諸国を旅して京の文化と和歌を伝えました。最晩年の天文13年(1544)9月から翌年3月にかけて書かれた『東国紀行』は、湯治をかねて京から江戸まで旅をした際のものです。 戦乱の世を旅する当時、宗牧は連歌界の第一人者として知られていたこともあり、訪れた先では大変な歓待をうけ、盛大な連歌の会が催されました。とはいえ戦乱の世のこと。彼のもとへは合戦など各地の情報が逐一届けられます。緊張状態にある国境を通る際には、互いの領国の武士に安全のため送り迎えをしてもらうこともありました。そうしたなか、知人との旧交を温めたり、熱海で念願の湯治を楽しんだりと旅を満喫しています。一方で京を懐かしむ気持ちも強く、旅先で12月15日の鬼やらいの豆打ちの声を聞いたり、3月3日の上巳の節句の草餅を見た時には「都思ひ出でられたり」と記しています。 蕨餅に舌鼓さて、ある日宗牧は日坂(静岡県)の茶屋で休憩をとります。そこで出されたのが名物の蕨餅でした。宗牧はかつて食べたことがあったようで、感慨もひとしおに「年たけて又くふ(食)べしと思ひきや蕨もちひ(餅)も命なりけり」と歌を詠んでいます。これは西行の和歌※をもとにしたのでしょう、おいしい蕨餅で旅の疲れを癒す様子がうかがえます。蕨餅は、蕨の根から取れる澱粉で作る菓子で、街道の整備に伴い江戸時代には広く知られるようになりました。しかし、大量販売のためか蕨粉だけで作るのは難しくなったようです。江戸時代初期の儒学者林羅山(はやしらざん)の『丙辰紀行(へいしんきこう)』(1638)には、蕨粉と葛粉をあわせた生地を蒸し、塩味の黄粉をかけたと書いてあります。さて、宗牧の時代はどうだったのでしょうか。『丙辰紀行』より100年近く遡りますので、あるいは蕨粉だけで作られていたかもしれませんね。 ※ 年たけて又こゆべしと思ひきや いのちなりけり さ夜の中山(『新古今和歌集』羇旅歌) ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
井上馨と熟柿形
熟した柿を表現した『木練柿』(とらや製)政財界の実力者井上馨(1836~1915)は外交、財政の面で活躍した長州出身政治家で、実業界の発展にも寄与しました。「雷」とあだ名される性分もあいまって、引退後も政財界に恐れられる元老として君臨します。その一方で世外(せいがい)と号し、仏教美術を茶に取り入れるなど、古美術に対する見識眼の高い茶人でもありました。 井上料理世外の料理は「井上料理」と呼ばれ、独自の感性とこだわりから作られています。特に6種の素材を使って、料理ごとに配合比を変えて作られる出汁は「井上料理」の根本とされていました。また彼の漬けた沢庵は、親友伊藤博文も好物で、世外に見つからないように女中さんから内緒で分けてもらっていたとのこと。大正天皇(当時皇太子)もその沢庵を食し、後日、宮中での調理を司る大膳職に対して「井上に往って習って来い」との仰せがあったとのエピソードも伝わっています。 菓子にもこだわる世外の茶事記録を読んでいると、菓子選びにもこだわりがあったことが分かります。 まず明治45年(1912)3月、興津(現静岡県清水区)での茶会では、雛祭りにちなみ、手製の蓬饅頭が用意されます。上巳の節句の厄除けから蓬を使ったのでしょう。懐石道具も雛道具のような小さな器を用いたと記されています。 同年4月4日、自らの喜寿祝賀会の薄茶席では、自筆の喜の字が打ち出された紅白の干菓子を用意しています。 圧巻は大正2年(1913)11月、加賀の客人を招いての麻布内田山自邸での茶会です。茶道具、懐石の器と呉須赤絵揃え、菓子は紅葉した柿の葉に熟れた柿を思わせる『熟柿形』を取り合わせた秋色尽くしです。さらに中立ち後、席へ戻ると床には唐絵、牧渓(もっけい 南宋時代頃)の「栗柿の絵」が掛けられていたのです。ここまでくると取り合わせへの執念というしかありません。 齢を重ね、様々な経験を通して、すべてを知り尽くした上でのこうしたこだわりは、むしろ、くどさや、可笑しみを越えた、純粋さ、崇高ささえも感じさせてくれるのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献井上馨侯伝記編纂会 『世外井上公伝』第5巻 内外書籍
井上馨と熟柿形
熟した柿を表現した『木練柿』(とらや製)政財界の実力者井上馨(1836~1915)は外交、財政の面で活躍した長州出身政治家で、実業界の発展にも寄与しました。「雷」とあだ名される性分もあいまって、引退後も政財界に恐れられる元老として君臨します。その一方で世外(せいがい)と号し、仏教美術を茶に取り入れるなど、古美術に対する見識眼の高い茶人でもありました。 井上料理世外の料理は「井上料理」と呼ばれ、独自の感性とこだわりから作られています。特に6種の素材を使って、料理ごとに配合比を変えて作られる出汁は「井上料理」の根本とされていました。また彼の漬けた沢庵は、親友伊藤博文も好物で、世外に見つからないように女中さんから内緒で分けてもらっていたとのこと。大正天皇(当時皇太子)もその沢庵を食し、後日、宮中での調理を司る大膳職に対して「井上に往って習って来い」との仰せがあったとのエピソードも伝わっています。 菓子にもこだわる世外の茶事記録を読んでいると、菓子選びにもこだわりがあったことが分かります。 まず明治45年(1912)3月、興津(現静岡県清水区)での茶会では、雛祭りにちなみ、手製の蓬饅頭が用意されます。上巳の節句の厄除けから蓬を使ったのでしょう。懐石道具も雛道具のような小さな器を用いたと記されています。 同年4月4日、自らの喜寿祝賀会の薄茶席では、自筆の喜の字が打ち出された紅白の干菓子を用意しています。 圧巻は大正2年(1913)11月、加賀の客人を招いての麻布内田山自邸での茶会です。茶道具、懐石の器と呉須赤絵揃え、菓子は紅葉した柿の葉に熟れた柿を思わせる『熟柿形』を取り合わせた秋色尽くしです。さらに中立ち後、席へ戻ると床には唐絵、牧渓(もっけい 南宋時代頃)の「栗柿の絵」が掛けられていたのです。ここまでくると取り合わせへの執念というしかありません。 齢を重ね、様々な経験を通して、すべてを知り尽くした上でのこうしたこだわりは、むしろ、くどさや、可笑しみを越えた、純粋さ、崇高ささえも感じさせてくれるのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献井上馨侯伝記編纂会 『世外井上公伝』第5巻 内外書籍