虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
山科言経と「栗粉」・揚げ饅頭
栗粉餅徳川家康との親交山科言経(やましなときつね・1543~1611)は、戦国~江戸時代初期の公家です。彼は40~50代の13年半に渡って朝廷から追放されていました。その時期に世話をしてくれたのが、江戸幕府初代将軍となった徳川家康です。そのため家康が上洛している間、言経は毎日のようにこの恩人の屋敷を訪れていました。『言経卿記』を見ると、家康邸には武家・公家を問わずさまざまな人々が集っており、言経も能・囲碁・中国古典の講釈などの場に同席していたことがわかります。合間に酒や肴のほか、葛餅や砂糖餅、「蕨ノ餅」などの菓子も出されました。 南禅寺で「栗粉」を賞味家康はしばしば京都周辺に行楽に出かけ、言経もその多くに同行しています。慶長2年(1597)9月には家康と共に南禅寺に招かれ、そこで「栗粉」が振る舞われました。『日葡辞書』(1603刊)には「Curicono mochi(栗粉の餅) 栗の粉を上にかけた餅」とあり、『天文日記』や『多聞院日記』など、同時代の記録にも同様の菓子が見えます。南禅寺で出されたのもこれに近い素朴なものだったのではないでしょうか。旧暦9月は秋の深まる時期、言経は家康とともに旬の新栗を使った菓子を賞味したのでしょう。 家康をもてなした揚げ饅頭また、文禄3年(1594)7月には家康が言経の屋敷を訪れることになりました。山科家では数日前から障子や床を直したり、義兄に茶道具や屏風を借りたりと準備に大忙し。訪問当日には、義姉から「マンチウ・同油アケマンチウ・キントン・茶子・油物」などが届けられています。いずれも菓子と考えられますが、特に「油アケマンチウ(揚げ饅頭)」や「油物」といった揚げ物があることが注目されます。 家康は、天麩羅の食べすぎで亡くなったとの説があるほど、晩年揚げ物を好んだようです。言経もそれを知っていて、義姉に頼んで揚げ饅頭を取り寄せたのでしょうか。日ごろ世話になっている恩人を喜ばせようとする心配りだったのかも知れません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
山科言経と「栗粉」・揚げ饅頭
栗粉餅徳川家康との親交山科言経(やましなときつね・1543~1611)は、戦国~江戸時代初期の公家です。彼は40~50代の13年半に渡って朝廷から追放されていました。その時期に世話をしてくれたのが、江戸幕府初代将軍となった徳川家康です。そのため家康が上洛している間、言経は毎日のようにこの恩人の屋敷を訪れていました。『言経卿記』を見ると、家康邸には武家・公家を問わずさまざまな人々が集っており、言経も能・囲碁・中国古典の講釈などの場に同席していたことがわかります。合間に酒や肴のほか、葛餅や砂糖餅、「蕨ノ餅」などの菓子も出されました。 南禅寺で「栗粉」を賞味家康はしばしば京都周辺に行楽に出かけ、言経もその多くに同行しています。慶長2年(1597)9月には家康と共に南禅寺に招かれ、そこで「栗粉」が振る舞われました。『日葡辞書』(1603刊)には「Curicono mochi(栗粉の餅) 栗の粉を上にかけた餅」とあり、『天文日記』や『多聞院日記』など、同時代の記録にも同様の菓子が見えます。南禅寺で出されたのもこれに近い素朴なものだったのではないでしょうか。旧暦9月は秋の深まる時期、言経は家康とともに旬の新栗を使った菓子を賞味したのでしょう。 家康をもてなした揚げ饅頭また、文禄3年(1594)7月には家康が言経の屋敷を訪れることになりました。山科家では数日前から障子や床を直したり、義兄に茶道具や屏風を借りたりと準備に大忙し。訪問当日には、義姉から「マンチウ・同油アケマンチウ・キントン・茶子・油物」などが届けられています。いずれも菓子と考えられますが、特に「油アケマンチウ(揚げ饅頭)」や「油物」といった揚げ物があることが注目されます。 家康は、天麩羅の食べすぎで亡くなったとの説があるほど、晩年揚げ物を好んだようです。言経もそれを知っていて、義姉に頼んで揚げ饅頭を取り寄せたのでしょうか。日ごろ世話になっている恩人を喜ばせようとする心配りだったのかも知れません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
牧野富太郎とドーラン
草木の精多くの植物の新種を発見、命名をした植物分類学の世界的権威、牧野富太郎(まきのとみたろう・1862~1957)は、自らを「草木の精」になぞらえ、植物の研究に生涯を捧げました。一方、気さくな人柄で、研究の合間に唱歌や短歌などを披露し、たくさんの人を魅了しました。 親友との交流牧野が親交を結んだ一人に、植物学者の池野成一郎(いけのせいいちろう)がいました。池野とは、牧野が東京大学の植物学教室に出入りをするようになった明治17年(1884)頃からの付き合いで、植物図鑑『日本植物志図篇』を出版する際、池野が多大な助力をしたり、共に採集旅行に出かけたりしています。二人は菓子好きだった点でも馬が合ったようで、牧野の随筆「池野成一郎博士に対する思い出話」には、菓子にちなむ話がいくつか書かれています。たとえば採集の旅に出た際、湯本(福島県)で黒砂糖の駄菓子を食べたこと、また、池野の最晩年、牧野と知人が見舞いとして好物の虎屋の餅菓子を持っていったところ非常に喜んだことなど。なかには「ドーラン」というちょっと変わった名前の菓子も登場します。 お菓子の胴乱(どうらん)「本郷の春木町に梅月という菓子屋があってドーランと呼ぶ栗饅頭式の菓子を売っていた。形が煙草入れの胴乱みたようで(原文ママ)、それが大層ウマカッタので、時々君とそれをその店へ食いに行った」牧野は「栗饅頭式」と書いているのですが、胴乱形だったという以外、はっきりとしたことはわかりません。ただ、似た名前の菓子に、江戸時代に流行した「胡麻胴乱」があります。砂糖を小麦粉生地で包んで焼いたものですが、中の砂糖が熱で融けて沸騰し、生地の内側に貼りついて空洞になるため、煙草や小銭を入れる小物入れの胴乱に見立ててその名がついたといわれます。二人のお気に入りだった「ドーラン」。一体どんな味だったのでしょう。是非食べてみたいものです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献牧野富太郎『牧野植物随筆』講談社 2002年
牧野富太郎とドーラン
草木の精多くの植物の新種を発見、命名をした植物分類学の世界的権威、牧野富太郎(まきのとみたろう・1862~1957)は、自らを「草木の精」になぞらえ、植物の研究に生涯を捧げました。一方、気さくな人柄で、研究の合間に唱歌や短歌などを披露し、たくさんの人を魅了しました。 親友との交流牧野が親交を結んだ一人に、植物学者の池野成一郎(いけのせいいちろう)がいました。池野とは、牧野が東京大学の植物学教室に出入りをするようになった明治17年(1884)頃からの付き合いで、植物図鑑『日本植物志図篇』を出版する際、池野が多大な助力をしたり、共に採集旅行に出かけたりしています。二人は菓子好きだった点でも馬が合ったようで、牧野の随筆「池野成一郎博士に対する思い出話」には、菓子にちなむ話がいくつか書かれています。たとえば採集の旅に出た際、湯本(福島県)で黒砂糖の駄菓子を食べたこと、また、池野の最晩年、牧野と知人が見舞いとして好物の虎屋の餅菓子を持っていったところ非常に喜んだことなど。なかには「ドーラン」というちょっと変わった名前の菓子も登場します。 お菓子の胴乱(どうらん)「本郷の春木町に梅月という菓子屋があってドーランと呼ぶ栗饅頭式の菓子を売っていた。形が煙草入れの胴乱みたようで(原文ママ)、それが大層ウマカッタので、時々君とそれをその店へ食いに行った」牧野は「栗饅頭式」と書いているのですが、胴乱形だったという以外、はっきりとしたことはわかりません。ただ、似た名前の菓子に、江戸時代に流行した「胡麻胴乱」があります。砂糖を小麦粉生地で包んで焼いたものですが、中の砂糖が熱で融けて沸騰し、生地の内側に貼りついて空洞になるため、煙草や小銭を入れる小物入れの胴乱に見立ててその名がついたといわれます。二人のお気に入りだった「ドーラン」。一体どんな味だったのでしょう。是非食べてみたいものです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献牧野富太郎『牧野植物随筆』講談社 2002年
内藤繁子と「くらわんか餅」
大名夫人の旅内藤繁子(ないとうしげこ・1800~1880)は、幕末の大老井伊直弼(いいなおすけ)の実の姉にあたり、延岡藩主内藤政順(まさより)に嫁ぎました。彼女は『源氏物語』をすべて書き写し、注釈を加えたり文学の素養が豊かで、絵や和歌にもたくみな大変教養のある女性でした。江戸時代、大名の正室は江戸に住むことを強制されていましたが、文久2年(1862)になると、幕府は規制をゆるめ国元に住むことを許可したのです。延岡藩内藤家でも先代藩主の奥方である繁子を国元に住まわすことにしました。文久3年4月6日に江戸藩邸を出発、まずは東海道で大坂を目指し、大坂から船で延岡(宮崎県)に向かいます。しかし、繁子は江戸生まれの江戸育ち、内心では遠い延岡に行くことは不満だったのでしょう。旅の様子を記した旅日記の題名を『五十三次ねむりの合の手』と少し沈んだ調子で表現しています。とは言え、旅日記からは繁子が道中名物を味わったり、土産を買ったりと、それなりに道中を楽しんでいた様子がうかがえます。ちなみに後年江戸に帰る時の道中日記は、『海陸返り咲ことはの手拍子』と明るい表題です。 枚方(ひらかた)名物「くらわんか餅」京の伏見から大坂までは淀川を下る船旅です。その途中の枚方では、くらわんか船が有名でした。この船は「酒くらわんか、餅くらわんか」と言いながら、淀川を行き来する乗合船にこぎよせるのです。彼らが旅人に売る「くらわんか餅」は、14代将軍徳川家茂(いえもち)をはじめ多くの旅人に食べられていました。繁子もどんなものかと興味津々の様子、そこにくらわんか船の登場です。船人は繁子の乗る船と縄でつなぐと、大声で「餅も酒も早ふくらへ」と汚い言葉づかいで呼びかけてきます。酒を頼むと、「入れ物を寄こせ」と横柄な言いようです。串ざしの餡餅つまり「くらわんか餅」を頼んで、ひとつ食べたところ「こげくさくいやな匂ひして、あまくもなく、ちゃりちゃりと口中に当たり」、ふたつとは食べられぬ代物と感想を記しています。この時、居眠りをしていた侍女を起こして、餡餅を食べさせました。そして感想を聞いたところ、「至極おいしい」と答えたので、皆から寝ぼけているとからかわれています。しかし、侍女にとっては、おいしい餡餅だったのかも知れません。実際、「くらわんか餅」の味は、どのようなものだったでしょう。繁子の侍女がおいしく感じたように、食べる人の嗜好の違いによって感じ方に差があったのでしょうか、今となっては謎です。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
内藤繁子と「くらわんか餅」
大名夫人の旅内藤繁子(ないとうしげこ・1800~1880)は、幕末の大老井伊直弼(いいなおすけ)の実の姉にあたり、延岡藩主内藤政順(まさより)に嫁ぎました。彼女は『源氏物語』をすべて書き写し、注釈を加えたり文学の素養が豊かで、絵や和歌にもたくみな大変教養のある女性でした。江戸時代、大名の正室は江戸に住むことを強制されていましたが、文久2年(1862)になると、幕府は規制をゆるめ国元に住むことを許可したのです。延岡藩内藤家でも先代藩主の奥方である繁子を国元に住まわすことにしました。文久3年4月6日に江戸藩邸を出発、まずは東海道で大坂を目指し、大坂から船で延岡(宮崎県)に向かいます。しかし、繁子は江戸生まれの江戸育ち、内心では遠い延岡に行くことは不満だったのでしょう。旅の様子を記した旅日記の題名を『五十三次ねむりの合の手』と少し沈んだ調子で表現しています。とは言え、旅日記からは繁子が道中名物を味わったり、土産を買ったりと、それなりに道中を楽しんでいた様子がうかがえます。ちなみに後年江戸に帰る時の道中日記は、『海陸返り咲ことはの手拍子』と明るい表題です。 枚方(ひらかた)名物「くらわんか餅」京の伏見から大坂までは淀川を下る船旅です。その途中の枚方では、くらわんか船が有名でした。この船は「酒くらわんか、餅くらわんか」と言いながら、淀川を行き来する乗合船にこぎよせるのです。彼らが旅人に売る「くらわんか餅」は、14代将軍徳川家茂(いえもち)をはじめ多くの旅人に食べられていました。繁子もどんなものかと興味津々の様子、そこにくらわんか船の登場です。船人は繁子の乗る船と縄でつなぐと、大声で「餅も酒も早ふくらへ」と汚い言葉づかいで呼びかけてきます。酒を頼むと、「入れ物を寄こせ」と横柄な言いようです。串ざしの餡餅つまり「くらわんか餅」を頼んで、ひとつ食べたところ「こげくさくいやな匂ひして、あまくもなく、ちゃりちゃりと口中に当たり」、ふたつとは食べられぬ代物と感想を記しています。この時、居眠りをしていた侍女を起こして、餡餅を食べさせました。そして感想を聞いたところ、「至極おいしい」と答えたので、皆から寝ぼけているとからかわれています。しかし、侍女にとっては、おいしい餡餅だったのかも知れません。実際、「くらわんか餅」の味は、どのようなものだったでしょう。繁子の侍女がおいしく感じたように、食べる人の嗜好の違いによって感じ方に差があったのでしょうか、今となっては謎です。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
三島由紀夫と打物の菓子
菊の干菓子早熟の天才小説家・三島由紀夫(1925~1970)は、10代から文壇の注目を集め、『仮面の告白』、『金閣寺』などの作品で、国内外から高い評価を得ました。晩年は思想運動に傾倒し、昭和45年、自衛隊市ヶ谷駐屯地での割腹自殺という劇的な最期を遂げました。 対比としての西洋菓子遺作『豊饒の海』4部作は、日露戦争後の明治末期から、昭和40年代頃に至るまでの、主人公の輪廻転生を描いた大河小説です。その第1作目にあたる『春の雪』は、松枝清顕(まつがえきよあき)と幼なじみ・綾倉聡子との悲恋物語になります。 維新の勲功で爵位を得た松枝伯爵は、公家の優雅にあこがれ、一人息子の清顕を綾倉家に預けます。綾倉家は蹴鞠の名門で、書や歌を友として王朝時代そのままの生活を送る家でした。そこに漂う「淋しい優雅」に感化された清顕は、美しく夢見がちな青年に成長します。一方、清顕への想いから婚期を逃していた聡子に、洞院宮治典王(とういんのみやはるのりおう)との縁談が持ち上がります。 食べ物に無頓着で、味音痴を自認していた三島ですが、この作品には菓子が巧みに使われています。たとえば「薄い一口サンドウィッチや洋菓子やビスケット」。これは、洞院宮邸を訪れた綾倉親子に出されたもので、「御所風の秋草の衝立」のある屋敷で暮らす聡子と、大理石の階段のある洋館に住む宮との生きる世界の違いを際立たせています。 「淋しい優雅」の味わい清顕が青年の意地から聡子との交流を絶つうち、宮と聡子の婚姻に天皇の勅許がおります。宮家との婚約は決して取り消すことができないもの。清顕は、聡子がもはや自分のものにはならないことを知ったとき、はじめて聡子に恋していることを自覚するのでした。 清顕が恋に目覚めさせるきっかけとなるのが、幼い頃、手習いのため聡子と交互に書いた百人一首です。その「黴の匂いともつかない遠々しい香り」が想起させた、綾倉家での思い出の品々の中に、双六遊びでもらった「打物(うちもの)の菓子」がありました。「あの小さい歯でかじるそばから紅い色を増して融ける菊の花びら、それから白菊の冷たくみえる彫刻的な稜角が、舌の触れるところから甘い泥濘(でいねい)のようになって崩れる味わい」と表現された、脆く儚い干菓子は、清顕にとって綾倉家の「淋しい優雅」を象徴する品の一つなのでした。 華麗で細緻な三島文学の世界を、味わいの観点から眺め直すのも新しい楽しみ方ではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
三島由紀夫と打物の菓子
菊の干菓子早熟の天才小説家・三島由紀夫(1925~1970)は、10代から文壇の注目を集め、『仮面の告白』、『金閣寺』などの作品で、国内外から高い評価を得ました。晩年は思想運動に傾倒し、昭和45年、自衛隊市ヶ谷駐屯地での割腹自殺という劇的な最期を遂げました。 対比としての西洋菓子遺作『豊饒の海』4部作は、日露戦争後の明治末期から、昭和40年代頃に至るまでの、主人公の輪廻転生を描いた大河小説です。その第1作目にあたる『春の雪』は、松枝清顕(まつがえきよあき)と幼なじみ・綾倉聡子との悲恋物語になります。 維新の勲功で爵位を得た松枝伯爵は、公家の優雅にあこがれ、一人息子の清顕を綾倉家に預けます。綾倉家は蹴鞠の名門で、書や歌を友として王朝時代そのままの生活を送る家でした。そこに漂う「淋しい優雅」に感化された清顕は、美しく夢見がちな青年に成長します。一方、清顕への想いから婚期を逃していた聡子に、洞院宮治典王(とういんのみやはるのりおう)との縁談が持ち上がります。 食べ物に無頓着で、味音痴を自認していた三島ですが、この作品には菓子が巧みに使われています。たとえば「薄い一口サンドウィッチや洋菓子やビスケット」。これは、洞院宮邸を訪れた綾倉親子に出されたもので、「御所風の秋草の衝立」のある屋敷で暮らす聡子と、大理石の階段のある洋館に住む宮との生きる世界の違いを際立たせています。 「淋しい優雅」の味わい清顕が青年の意地から聡子との交流を絶つうち、宮と聡子の婚姻に天皇の勅許がおります。宮家との婚約は決して取り消すことができないもの。清顕は、聡子がもはや自分のものにはならないことを知ったとき、はじめて聡子に恋していることを自覚するのでした。 清顕が恋に目覚めさせるきっかけとなるのが、幼い頃、手習いのため聡子と交互に書いた百人一首です。その「黴の匂いともつかない遠々しい香り」が想起させた、綾倉家での思い出の品々の中に、双六遊びでもらった「打物(うちもの)の菓子」がありました。「あの小さい歯でかじるそばから紅い色を増して融ける菊の花びら、それから白菊の冷たくみえる彫刻的な稜角が、舌の触れるところから甘い泥濘(でいねい)のようになって崩れる味わい」と表現された、脆く儚い干菓子は、清顕にとって綾倉家の「淋しい優雅」を象徴する品の一つなのでした。 華麗で細緻な三島文学の世界を、味わいの観点から眺め直すのも新しい楽しみ方ではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
ゴンチャローフと菓子
ロシア側が日本側全権に贈った菓子の絵図(吉田コレクション蔵)日露交渉に参加ゴンチャローフ(1812~91)は、日露和親条約調印で知られるプチャーチン提督の秘書をつとめた作家です。嘉永6年(1853)、ロシア使節団とともに長崎に来航した彼は、滞在中の出来事を鋭い観察眼でこと細かく日記に記しています。 プチャーチン一行をもてなした和菓子日記から、長崎での交渉に際し、奉行所から受けた饗応、贈答などの接待内容がわかりますが、菓子の記述も随所にあります。たとえば、8月(和暦)の1回目の会見で奉行所がロシア側に一人一つずつ用意した木箱入りの菓子については「大きな一片は、何やらタルトtort(果実入りパイの一種)に似ており、それから捏(ねり)粉(こ)のようにねっとりしたゼリーが、ハート型に仕立ててある。さらに粗糖でつくって色どりを添え、油のようなものを塗った魚が一尾、おしまいはこまごました干菓子で、砂糖漬の果物、ちなみに人参まであった。」とのこと。焼菓子や煉りもの? 金花糖(きんかとう・砂糖液を木型に流し込んで固めたもの)や飴細工など、多種類の色鮮やかな菓子だったのでしょう。ゴンチャローフは「まさしく放胆無比な製菓技術というべきではなかろうか?まあよくできている。」と驚きの声をあげています。 日本側を感動させたロシアの菓子一方、ロシア側も12月の2回目の会見で、日本側全権らに引き出物として「菓子箱」を用意しています。その箱のできばえや色とりどりの「キャンデー」のすばらしさ(図版)に、日本側は「もはや満足や感嘆の念を抑えきれなくなって、あっといった」とか。ゴンチャローフは記述しながら、自分が日本の菓子に驚いたときのことを思い出していたかもしれません。日本とロシアの菓子対決を思わせるエピソードでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献高野明・島田陽訳『ゴンチャローフ日本渡航記』講談社学術文庫 2008年(同書の注では『幕末外国関係文書』を引用して、2回目の会見に際し、一行に用意した本膳料理の献立記録も紹介している。食事前に薄茶と「春霞」「明ほの」「屋千代」「若葉笹」「椿花巻」「薄雪巻」ほかの銘の菓子が出されたことなどもわかる。)片桐一男「吉田コレクション嘉永六年ロシア使節饗応関係資料」( 機関誌『和菓子』14号所載 虎屋文庫 2007年)
ゴンチャローフと菓子
ロシア側が日本側全権に贈った菓子の絵図(吉田コレクション蔵)日露交渉に参加ゴンチャローフ(1812~91)は、日露和親条約調印で知られるプチャーチン提督の秘書をつとめた作家です。嘉永6年(1853)、ロシア使節団とともに長崎に来航した彼は、滞在中の出来事を鋭い観察眼でこと細かく日記に記しています。 プチャーチン一行をもてなした和菓子日記から、長崎での交渉に際し、奉行所から受けた饗応、贈答などの接待内容がわかりますが、菓子の記述も随所にあります。たとえば、8月(和暦)の1回目の会見で奉行所がロシア側に一人一つずつ用意した木箱入りの菓子については「大きな一片は、何やらタルトtort(果実入りパイの一種)に似ており、それから捏(ねり)粉(こ)のようにねっとりしたゼリーが、ハート型に仕立ててある。さらに粗糖でつくって色どりを添え、油のようなものを塗った魚が一尾、おしまいはこまごました干菓子で、砂糖漬の果物、ちなみに人参まであった。」とのこと。焼菓子や煉りもの? 金花糖(きんかとう・砂糖液を木型に流し込んで固めたもの)や飴細工など、多種類の色鮮やかな菓子だったのでしょう。ゴンチャローフは「まさしく放胆無比な製菓技術というべきではなかろうか?まあよくできている。」と驚きの声をあげています。 日本側を感動させたロシアの菓子一方、ロシア側も12月の2回目の会見で、日本側全権らに引き出物として「菓子箱」を用意しています。その箱のできばえや色とりどりの「キャンデー」のすばらしさ(図版)に、日本側は「もはや満足や感嘆の念を抑えきれなくなって、あっといった」とか。ゴンチャローフは記述しながら、自分が日本の菓子に驚いたときのことを思い出していたかもしれません。日本とロシアの菓子対決を思わせるエピソードでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献高野明・島田陽訳『ゴンチャローフ日本渡航記』講談社学術文庫 2008年(同書の注では『幕末外国関係文書』を引用して、2回目の会見に際し、一行に用意した本膳料理の献立記録も紹介している。食事前に薄茶と「春霞」「明ほの」「屋千代」「若葉笹」「椿花巻」「薄雪巻」ほかの銘の菓子が出されたことなどもわかる。)片桐一男「吉田コレクション嘉永六年ロシア使節饗応関係資料」( 機関誌『和菓子』14号所載 虎屋文庫 2007年)
小林逸翁と饅頭二話
雅俗饅頭阪急電鉄、阪急百貨店、宝塚歌劇団などの阪急東宝グループの総帥、小林一三(いちぞう・1873~1957)は、実業家としての顔だけではなく、逸翁(いつおう)の名で茶人としても知られています。電力の鬼と呼ばれた実業家の松永安左ヱ門と親しく、彼の紹介で薬師寺管長の橋本凝胤(ぎょういん)との交流も始まります。大阪府池田市にある旧宅の雅俗山荘内において、逸翁が亡くなるまでの121回、橋本管長の講話を含む茶会、薬師寺会が催されました。逸翁の友人、家族、親戚が集う楽しい会であったようです。昭和32年(1957)1月25日、翌日の茶会の準備を楽しみながら終えた逸翁は、その夜突然、心臓の病で召されました。茶人逸翁を偲び、祥月命日、雅俗山荘内の茶室「人我亭(にんがてい)」において、逸翁美術館主催の逸翁忌追慕茶会が開催されています。今年で52回目を迎えるこの茶会のお菓子には、山荘の名にちなんで「雅」の印を押した雅俗饅頭という白い薯預饅頭が使われます。この饅頭は彼の好物の大福を作っていた和菓子店のものです。 小麦饅頭彼がお茶に興味を持つきっかけを作ったのは、三井銀行大阪支店時代の上司で慶応義塾の先輩でもある高橋義雄(箒庵 そうあん)によるところが大きいといわれています。箒庵は当時20歳過ぎの抵当係であった逸翁に、担保の茶道具、書画の管理を命じ、査定の立ち会いや、取り扱いの実務を行なわせました。これにより逸翁の審美眼は高まり、お茶に関心を持つようになります。箒庵が三井呉服店改革のため東京に戻ったあと、逸翁は元上司からの転職の誘いもあり、今後の進路の相談を箒庵に求めました。一連の動きを知っていた後輩思いの箒庵は、それを諌める書状を送りました。結局、彼の斡旋で名古屋に転勤しました。それから約30数年後、逸翁は東京電燈など、東京での実業家としての活動とともに、茶道にも力を入れ、俗と雅の生活が始まります。赤坂山王近くの東京の自宅に、二畳台目の茶席をつくり、昭和6年(1931)12月15日、逸翁初の茶会が催されました。正客は箒庵です。そして席の床にかけられた軸は、かつての上司であった正客が逸翁を諫めて書いた手紙だったのです。懐石のあと、この席で出されたお菓子は小麦饅頭でした。小間でもあり、恐らく蒸したてのものが供されたと思います。季節は冬。正客は心に体に温もりを感じたことでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
小林逸翁と饅頭二話
雅俗饅頭阪急電鉄、阪急百貨店、宝塚歌劇団などの阪急東宝グループの総帥、小林一三(いちぞう・1873~1957)は、実業家としての顔だけではなく、逸翁(いつおう)の名で茶人としても知られています。電力の鬼と呼ばれた実業家の松永安左ヱ門と親しく、彼の紹介で薬師寺管長の橋本凝胤(ぎょういん)との交流も始まります。大阪府池田市にある旧宅の雅俗山荘内において、逸翁が亡くなるまでの121回、橋本管長の講話を含む茶会、薬師寺会が催されました。逸翁の友人、家族、親戚が集う楽しい会であったようです。昭和32年(1957)1月25日、翌日の茶会の準備を楽しみながら終えた逸翁は、その夜突然、心臓の病で召されました。茶人逸翁を偲び、祥月命日、雅俗山荘内の茶室「人我亭(にんがてい)」において、逸翁美術館主催の逸翁忌追慕茶会が開催されています。今年で52回目を迎えるこの茶会のお菓子には、山荘の名にちなんで「雅」の印を押した雅俗饅頭という白い薯預饅頭が使われます。この饅頭は彼の好物の大福を作っていた和菓子店のものです。 小麦饅頭彼がお茶に興味を持つきっかけを作ったのは、三井銀行大阪支店時代の上司で慶応義塾の先輩でもある高橋義雄(箒庵 そうあん)によるところが大きいといわれています。箒庵は当時20歳過ぎの抵当係であった逸翁に、担保の茶道具、書画の管理を命じ、査定の立ち会いや、取り扱いの実務を行なわせました。これにより逸翁の審美眼は高まり、お茶に関心を持つようになります。箒庵が三井呉服店改革のため東京に戻ったあと、逸翁は元上司からの転職の誘いもあり、今後の進路の相談を箒庵に求めました。一連の動きを知っていた後輩思いの箒庵は、それを諌める書状を送りました。結局、彼の斡旋で名古屋に転勤しました。それから約30数年後、逸翁は東京電燈など、東京での実業家としての活動とともに、茶道にも力を入れ、俗と雅の生活が始まります。赤坂山王近くの東京の自宅に、二畳台目の茶席をつくり、昭和6年(1931)12月15日、逸翁初の茶会が催されました。正客は箒庵です。そして席の床にかけられた軸は、かつての上司であった正客が逸翁を諫めて書いた手紙だったのです。懐石のあと、この席で出されたお菓子は小麦饅頭でした。小間でもあり、恐らく蒸したてのものが供されたと思います。季節は冬。正客は心に体に温もりを感じたことでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)