虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
八代目桂文楽と甘納豆
甘納豆粋な昭和の名人落語家の八代目桂文楽(かつらぶんらく・1892~1971)は、江戸前の粋と緻密で洗練された芸風で愛された昭和の名人です。どらやきで有名な上野の「うさぎや」の裏手に住んでおり、そのあたりの地名をとって「黒門町(くろもんちょう)」の愛称で親しまれました。食事ひとつにもこだわりがあり、老舗の佃煮や新香で白いご飯を食べ、果物、それから濃いお茶で和菓子。菓子は「うさぎや」の半生菓子、わけても餡を砂糖の衣で包んだ石衣(いしごろも)が好物だったようです。食後に煙草を一服、キセルで深々と吸い、灰吹きへ「コーン!」とはたいて「へい、うまかったよ」と立ち上がる。そんな一連のさまを、弟子の柳家小満んは「師匠の朝の食事は、思えば、芝居の一場面のようであった。」と回想しています。 売店から消える甘納豆文楽の当たり芸といえば「明烏(あけがらす)」でしょう。―若旦那が学問にしか興味がないので、大旦那は心配。町内の若者に吉原に連れて行ってくれるよう頼みます。若い衆は、堅物の若旦那を「お稲荷様のお篭り」だと騙して連れ出し一泊させます。翌朝、部屋をのぞきにいってみると、様子は一変・・・―すっかり遊びの楽しさを覚えた若旦那ののろけを聞きながら、くやしまぎれに若旦那の部屋にあった甘納豆をつまみ食いする男たち。「朝の甘味はおつだね。これで濃い宇治茶かなんか入れてね。思い残すこと、さらになし」との負け惜しみに、江戸っ子らしいおかしさが漂います。文楽はこの噺を師匠・三遊亭圓馬に教わりました。師の芸について、『芸談 あばらかべっそん』で「羊かん一つたべるしぐさでも、どういう家の羊かんか、ちゃんとたべ分けてみせてくれるし、豆だって枝豆、そら豆、甘納豆、みんなたべ方がちがうんです」と語っていますが、文楽の甘納豆をつまむ仕草も実に見事で、指についた砂糖のざらざらした感じまで伝わるようだと評判でした。文楽の「明烏」がかかると、寄席の売店の甘納豆が売り切れたとの逸話も残っています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献柳家小満ん『わが師、桂文楽』平凡社 1996年桂文楽『芸談 あばらかべっそん』筑摩書房暉峻康隆『落語藝談』小学館 1998年
八代目桂文楽と甘納豆
甘納豆粋な昭和の名人落語家の八代目桂文楽(かつらぶんらく・1892~1971)は、江戸前の粋と緻密で洗練された芸風で愛された昭和の名人です。どらやきで有名な上野の「うさぎや」の裏手に住んでおり、そのあたりの地名をとって「黒門町(くろもんちょう)」の愛称で親しまれました。食事ひとつにもこだわりがあり、老舗の佃煮や新香で白いご飯を食べ、果物、それから濃いお茶で和菓子。菓子は「うさぎや」の半生菓子、わけても餡を砂糖の衣で包んだ石衣(いしごろも)が好物だったようです。食後に煙草を一服、キセルで深々と吸い、灰吹きへ「コーン!」とはたいて「へい、うまかったよ」と立ち上がる。そんな一連のさまを、弟子の柳家小満んは「師匠の朝の食事は、思えば、芝居の一場面のようであった。」と回想しています。 売店から消える甘納豆文楽の当たり芸といえば「明烏(あけがらす)」でしょう。―若旦那が学問にしか興味がないので、大旦那は心配。町内の若者に吉原に連れて行ってくれるよう頼みます。若い衆は、堅物の若旦那を「お稲荷様のお篭り」だと騙して連れ出し一泊させます。翌朝、部屋をのぞきにいってみると、様子は一変・・・―すっかり遊びの楽しさを覚えた若旦那ののろけを聞きながら、くやしまぎれに若旦那の部屋にあった甘納豆をつまみ食いする男たち。「朝の甘味はおつだね。これで濃い宇治茶かなんか入れてね。思い残すこと、さらになし」との負け惜しみに、江戸っ子らしいおかしさが漂います。文楽はこの噺を師匠・三遊亭圓馬に教わりました。師の芸について、『芸談 あばらかべっそん』で「羊かん一つたべるしぐさでも、どういう家の羊かんか、ちゃんとたべ分けてみせてくれるし、豆だって枝豆、そら豆、甘納豆、みんなたべ方がちがうんです」と語っていますが、文楽の甘納豆をつまむ仕草も実に見事で、指についた砂糖のざらざらした感じまで伝わるようだと評判でした。文楽の「明烏」がかかると、寄席の売店の甘納豆が売り切れたとの逸話も残っています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献柳家小満ん『わが師、桂文楽』平凡社 1996年桂文楽『芸談 あばらかべっそん』筑摩書房暉峻康隆『落語藝談』小学館 1998年
深沢七郎と今川焼
今川焼楽屋から誕生した小説『笛吹川』『東京のプリンスたち』など多くの作品を残した小説家深沢七郎(ふかざわしちろう・1914~1987)。ギタリストだった彼が姥捨伝説を主題にした『楢山節考』(1956)を執筆したのは、当時出演していた日劇の楽屋でした。七郎は都会の喧騒から離れたいとの思いから、昭和40年(1965)、埼玉県菖蒲町に「ラブミー農場」を開き、自給自足の生活を始めます。その副業として、自家製味噌の販売ほか団子屋を営むなど商売も手がけますが、特に今川焼屋「夢屋」は人々の注目を集めました。 繁盛した今川焼屋開店したのは昭和46年、場所は東武線の曳舟駅(墨田区)近くでした。当時、七郎は心臓病を患っており、農閑期に暖かい東京で商売をしたかったというのが動機のひとつだったようです。七郎は8日間他店に修行に行ったのち開店します。最初は1人でやりくりするつもりでしたが、お客様が殺到したため、仕込みにアルバイトを雇ったり、知人に焼きに来てもらったりしなければなりませんでした。七郎の主な仕事は接客でしたが、たまには焼くこともありました。夢屋の今川焼は大きく、餡もたっぷり入ってとてもおいしかったといいます。しかし、きれいに焼くのは難しく、失敗したときは「今川焼き 今川焼き 今川焼き 鉄板にこびりついて離れない どーうせぐっちゃぐっちゃになったからは、10円でも15円でも喰わそうよ」※と歌ったそうです。 実演販売で苦戦翌47年の歳暮期には、友人の口添えで池袋の百貨店にも期間限定で出店をすることになりました。七郎自身も実演販売をしましたが、曳舟の店と客層が違うこともあって、見切り品さえ買ってもらえず大変苦戦します。しかし、3日もたつとお客様にも慣れ、残りの日々を忙しく過ごします。商売上手で目先を変えることが好きな七郎にとっては違う環境で商売をするのは楽しかったことでしょう。昭和48年、原材料の高騰などもあって、残念ながら夢屋は閉店します。わずかな期間でしたが、人々を楽しませた今川焼は、まさに「夢」の味だったのかもしれませんね。 ※ 「夢屋エレジー」より(『生きているのはひまつぶし 深沢七郎未発表作品集』光文社 2005年) ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考深沢七郎「余禄の人生」「夢屋往来」(『深沢七郎集』第9巻 筑摩書房)
深沢七郎と今川焼
今川焼楽屋から誕生した小説『笛吹川』『東京のプリンスたち』など多くの作品を残した小説家深沢七郎(ふかざわしちろう・1914~1987)。ギタリストだった彼が姥捨伝説を主題にした『楢山節考』(1956)を執筆したのは、当時出演していた日劇の楽屋でした。七郎は都会の喧騒から離れたいとの思いから、昭和40年(1965)、埼玉県菖蒲町に「ラブミー農場」を開き、自給自足の生活を始めます。その副業として、自家製味噌の販売ほか団子屋を営むなど商売も手がけますが、特に今川焼屋「夢屋」は人々の注目を集めました。 繁盛した今川焼屋開店したのは昭和46年、場所は東武線の曳舟駅(墨田区)近くでした。当時、七郎は心臓病を患っており、農閑期に暖かい東京で商売をしたかったというのが動機のひとつだったようです。七郎は8日間他店に修行に行ったのち開店します。最初は1人でやりくりするつもりでしたが、お客様が殺到したため、仕込みにアルバイトを雇ったり、知人に焼きに来てもらったりしなければなりませんでした。七郎の主な仕事は接客でしたが、たまには焼くこともありました。夢屋の今川焼は大きく、餡もたっぷり入ってとてもおいしかったといいます。しかし、きれいに焼くのは難しく、失敗したときは「今川焼き 今川焼き 今川焼き 鉄板にこびりついて離れない どーうせぐっちゃぐっちゃになったからは、10円でも15円でも喰わそうよ」※と歌ったそうです。 実演販売で苦戦翌47年の歳暮期には、友人の口添えで池袋の百貨店にも期間限定で出店をすることになりました。七郎自身も実演販売をしましたが、曳舟の店と客層が違うこともあって、見切り品さえ買ってもらえず大変苦戦します。しかし、3日もたつとお客様にも慣れ、残りの日々を忙しく過ごします。商売上手で目先を変えることが好きな七郎にとっては違う環境で商売をするのは楽しかったことでしょう。昭和48年、原材料の高騰などもあって、残念ながら夢屋は閉店します。わずかな期間でしたが、人々を楽しませた今川焼は、まさに「夢」の味だったのかもしれませんね。 ※ 「夢屋エレジー」より(『生きているのはひまつぶし 深沢七郎未発表作品集』光文社 2005年) ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考深沢七郎「余禄の人生」「夢屋往来」(『深沢七郎集』第9巻 筑摩書房)
本多雖軒と桜餅
桜餅村の文化人本多雖軒本多雖軒(ほんだすいけん・1835~1916)は、武蔵国多摩郡国分寺村(国分寺市)の名主本多良助の四男として誕生しました。17歳の時、下谷保村(国立市)の本田覚庵の塾に入門して医術と書を学びました。その後、故郷国分寺で医療に従事するかたわら、国分寺村最勝学舎の教師にもなります。 小金井堤の桜八代将軍徳川吉宗は、向島ほか江戸の各地に桜などを植えて「公園」を作りました(「徳川吉宗と桜餅」参照)。同じく吉宗の治下、多摩にもたくさんの桜が植樹されました。武蔵野新田の開発に尽力し、後に幕府代官となった川崎平右衛門等が、元文年間(1736~41)に玉川上水の両岸約6キロにわたって桜を植えました。江戸の「公園」と違って、小金井堤の桜は観賞用ではなく、江戸の人々の飲み水を守るために植えられたのです。それは桜の根が上水の堤を強くし、桜の実や皮に水の毒を消す効用があると信じられていたためです。とは言っても季節ともなれば近在はもとより、約30キロ離れた江戸からも多くの人々が訪れ、江戸時代後期には桜の名所として広く知られるようになっています。そうした様子を『武江年表』は、「騒人墨客多く集ひ毎春遊観の所となれり」と記しました。 本多雖軒と桜餅の暖簾人が集まれば茶店が出ます。小金井堤でも料理屋や桜餅などを売る店が現れ、その情景が錦絵などに描かれています。 書家でもあった雖軒は碑文や看板などの揮毫を頼まれることも多く、明治18年(1885)には桜餅の暖簾を揮毫しています。依頼主は玉川上水に架かる小金井橋のたもとで桜餅を商う桜本という人物でした。その暖簾には横書きで「さ久羅もち」と書かれました。ほかにも菓子屋に揮毫を頼まれた記録が残っているので、多摩地方のお菓子屋さんに雖軒の書いた看板などが残っているかも知れません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『国分寺市史 中巻』『国分寺市史料集Ⅳ-本多雖軒文書』
本多雖軒と桜餅
桜餅村の文化人本多雖軒本多雖軒(ほんだすいけん・1835~1916)は、武蔵国多摩郡国分寺村(国分寺市)の名主本多良助の四男として誕生しました。17歳の時、下谷保村(国立市)の本田覚庵の塾に入門して医術と書を学びました。その後、故郷国分寺で医療に従事するかたわら、国分寺村最勝学舎の教師にもなります。 小金井堤の桜八代将軍徳川吉宗は、向島ほか江戸の各地に桜などを植えて「公園」を作りました(「徳川吉宗と桜餅」参照)。同じく吉宗の治下、多摩にもたくさんの桜が植樹されました。武蔵野新田の開発に尽力し、後に幕府代官となった川崎平右衛門等が、元文年間(1736~41)に玉川上水の両岸約6キロにわたって桜を植えました。江戸の「公園」と違って、小金井堤の桜は観賞用ではなく、江戸の人々の飲み水を守るために植えられたのです。それは桜の根が上水の堤を強くし、桜の実や皮に水の毒を消す効用があると信じられていたためです。とは言っても季節ともなれば近在はもとより、約30キロ離れた江戸からも多くの人々が訪れ、江戸時代後期には桜の名所として広く知られるようになっています。そうした様子を『武江年表』は、「騒人墨客多く集ひ毎春遊観の所となれり」と記しました。 本多雖軒と桜餅の暖簾人が集まれば茶店が出ます。小金井堤でも料理屋や桜餅などを売る店が現れ、その情景が錦絵などに描かれています。 書家でもあった雖軒は碑文や看板などの揮毫を頼まれることも多く、明治18年(1885)には桜餅の暖簾を揮毫しています。依頼主は玉川上水に架かる小金井橋のたもとで桜餅を商う桜本という人物でした。その暖簾には横書きで「さ久羅もち」と書かれました。ほかにも菓子屋に揮毫を頼まれた記録が残っているので、多摩地方のお菓子屋さんに雖軒の書いた看板などが残っているかも知れません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『国分寺市史 中巻』『国分寺市史料集Ⅳ-本多雖軒文書』
寺島蔵人とかい餅
おはぎ(牡丹餅)秀でた藩政改革者寺島蔵人(てらしまくらんど・1777~1837)は江戸時代後期の加賀藩士で、「乾泉」(けんせん)「応養」(おうよう)と号した画家としても知られる人物です。才能豊かな蔵人は、隠居の身ながら藩の実権をにぎっていた前田斉広(なりなが)の抜擢により、文政7年(1824)、藩政改革のための親政機関「教諭方」の一員に加えられます。しかし、同年斉広が急死したため、教諭方は解散。翌年、持ち前の正義感から藩の重臣と対立したため、免職となり、その後も藩政批判を続けたことによって天保8年(1837)には能登島(石川県能登島町)に流刑、同年生涯を閉じました。 能登島での暮らし能登島流刑の約4か月の間、彼は日々の生活をイラスト風の絵を交えて日記に記したり、頻繁に家族へ手紙を送ったりしています。政治的な理由での流罪だったため、監視される身とはいえ、来客を迎え、村人と交流するなどの自由が許されていました。飲食が何よりの楽しみ、そして慰めでもあったようで、日記には食事の献立、味の感想なども見えます。菓子についての記述も多く、金沢の知人がカステラや落雁を送ってくれたり、来客が饅頭やうずら餅などを土産に持ってきたりしたことがわかります。「アマミ薄し」「む(う)まく御座候」など、時折見える感想がほほえましいもの。自身でも葛餅、かい餅や団子を作っているところをみると、菓子の類は好物だったのでしょう。煎餅を火鉢で焼くところなどは、「醤由(油)を付 順ニあふらせ被下候、中々宜く、至而上品なかきもちのさと(砂糖)醤由(油)やきの様ニ而…」と香ばしいにおいが漂ってきそうです。 病に伏して能登島での生活も3か月を過ぎた頃、蔵人は体調をくずし、食欲も失せてしまいます。とはいえ、亡くなる数日前に家族にあてた手紙には、甘いものは欲しくないが、かい餅ならば毎日食べてみたい、よくなって、かい餅※をたくさん作りたいなどと、書き残しています。流刑の不運に見舞われ、病に倒れた蔵人でしたが、故郷に帰るためにも早く健康を取り戻したいと願ったことでしょう。蔵人の心情が想像されます。 ※ かい餅 本文の記述は「かももち」とも読めるようだが、下記の研究会では、好物の「かいもち」(牡丹餅)と解釈している。今のものにくらべ、さほど甘くはなかったのだろう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献若林喜三郎監修・金沢近世史料研究会編『島もの語り‐寺島蔵人能登島流刑日記‐』 北国出版社 1982年 続編は1985年
寺島蔵人とかい餅
おはぎ(牡丹餅)秀でた藩政改革者寺島蔵人(てらしまくらんど・1777~1837)は江戸時代後期の加賀藩士で、「乾泉」(けんせん)「応養」(おうよう)と号した画家としても知られる人物です。才能豊かな蔵人は、隠居の身ながら藩の実権をにぎっていた前田斉広(なりなが)の抜擢により、文政7年(1824)、藩政改革のための親政機関「教諭方」の一員に加えられます。しかし、同年斉広が急死したため、教諭方は解散。翌年、持ち前の正義感から藩の重臣と対立したため、免職となり、その後も藩政批判を続けたことによって天保8年(1837)には能登島(石川県能登島町)に流刑、同年生涯を閉じました。 能登島での暮らし能登島流刑の約4か月の間、彼は日々の生活をイラスト風の絵を交えて日記に記したり、頻繁に家族へ手紙を送ったりしています。政治的な理由での流罪だったため、監視される身とはいえ、来客を迎え、村人と交流するなどの自由が許されていました。飲食が何よりの楽しみ、そして慰めでもあったようで、日記には食事の献立、味の感想なども見えます。菓子についての記述も多く、金沢の知人がカステラや落雁を送ってくれたり、来客が饅頭やうずら餅などを土産に持ってきたりしたことがわかります。「アマミ薄し」「む(う)まく御座候」など、時折見える感想がほほえましいもの。自身でも葛餅、かい餅や団子を作っているところをみると、菓子の類は好物だったのでしょう。煎餅を火鉢で焼くところなどは、「醤由(油)を付 順ニあふらせ被下候、中々宜く、至而上品なかきもちのさと(砂糖)醤由(油)やきの様ニ而…」と香ばしいにおいが漂ってきそうです。 病に伏して能登島での生活も3か月を過ぎた頃、蔵人は体調をくずし、食欲も失せてしまいます。とはいえ、亡くなる数日前に家族にあてた手紙には、甘いものは欲しくないが、かい餅ならば毎日食べてみたい、よくなって、かい餅※をたくさん作りたいなどと、書き残しています。流刑の不運に見舞われ、病に倒れた蔵人でしたが、故郷に帰るためにも早く健康を取り戻したいと願ったことでしょう。蔵人の心情が想像されます。 ※ かい餅 本文の記述は「かももち」とも読めるようだが、下記の研究会では、好物の「かいもち」(牡丹餅)と解釈している。今のものにくらべ、さほど甘くはなかったのだろう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献若林喜三郎監修・金沢近世史料研究会編『島もの語り‐寺島蔵人能登島流刑日記‐』 北国出版社 1982年 続編は1985年
原三溪と菓子
さつまいも茶巾しぼり茶人 三溪(さんけい)生糸の生産・輸出で成功を収めた実業家・原富太郎(三溪・1868~1939)は、横浜の三溪園の設立者、近代日本画壇の育成者として知られています。一方、関東大震災後、横浜の復興に尽力したことや、三井の益田鈍翁(どんのう)、「電力の鬼」と呼ばれた松永耳庵(じあん)とともに、近代三大茶人のひとりと言われていることは、一般的にはあまり知られていません。三溪は、仕事や美術品収集の関係から鈍翁、高橋箒庵(そうあん)との交流を通してお茶に親しむようになりました。大正6年(1917)12月23日、鈍翁、箒庵らを招いた三溪初の茶会は、三溪園内にある蓮華院一槌(いっつい)庵にて催されました。庵名は鈍翁より贈られた水指「一槌」に由来するのではないかと思われます。『東都茶会記』によると「懐石は総てお手製にて、…大寂び趣向にて如何にも山庵の御馳走らしく…」とあり、菓子は「越後屋製小麦饅頭」でした。「越後屋」とは当時の茶人たちの間で定評のあった「越後屋若狭」のことでしょうか。しかし三溪が記した『一槌庵茶会記』には「そば饅頭むして」とあり、店名の記載はありません。彼の菓子の好みを探ってみると、伝記には、日常生活でもお茶で饅頭を一つ、二つと頬張る場面が見られるほか、会記では「草餅」「草求肥」「餅に餡かけ」「栗のあめだき」など素朴な菓子の記述が目につきます。 浄土飯の茶会昭和12年(1937)8月、恒例となっていた朝茶の開催直前、長男の善一郎が45歳の若さで急死します。誰もが茶会は中止になるであろうと思っていましたが、初七日を過ぎた15日より、数回にわたり浄土飯の茶会が催されました。軸には「君を望む」と書かれた惜別の一偈。懐石の趣にも席主の思いが込められました。蓮の葉を敷いた飯櫃にご飯を盛り、そのご飯を大輪の花を思わせるように紅蓮の花弁で覆って出されました。取り分けたご飯には、若い蓮の実を煮たものを散らし、だし汁をかけて食します。お菜は納豆(大徳寺納豆か)、漬物だけのシンプルなもの。菓子は「さつまいも茶巾しぼり 蜂蜜」でした。時期的にまだ完熟でない芋ゆえに甘みを補うため、あるいは芋の生地がまとまるように蜂蜜を加えたのでしょうか。質素な取り合わせとは言え、蓮の花やその香気、熟しきっていない素材を使うところに、若くして亡くなった息子への思いが窺えます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献高橋箒庵『東都茶会記』、『昭和茶道記』淡交社茶道誌『淡交』平成5年6月号 淡交社新井恵美子『原三溪物語』神奈川新聞社 2003年三溪園保勝会『三溪園100周年 原三溪の描いた風景』神奈川新聞社
原三溪と菓子
さつまいも茶巾しぼり茶人 三溪(さんけい)生糸の生産・輸出で成功を収めた実業家・原富太郎(三溪・1868~1939)は、横浜の三溪園の設立者、近代日本画壇の育成者として知られています。一方、関東大震災後、横浜の復興に尽力したことや、三井の益田鈍翁(どんのう)、「電力の鬼」と呼ばれた松永耳庵(じあん)とともに、近代三大茶人のひとりと言われていることは、一般的にはあまり知られていません。三溪は、仕事や美術品収集の関係から鈍翁、高橋箒庵(そうあん)との交流を通してお茶に親しむようになりました。大正6年(1917)12月23日、鈍翁、箒庵らを招いた三溪初の茶会は、三溪園内にある蓮華院一槌(いっつい)庵にて催されました。庵名は鈍翁より贈られた水指「一槌」に由来するのではないかと思われます。『東都茶会記』によると「懐石は総てお手製にて、…大寂び趣向にて如何にも山庵の御馳走らしく…」とあり、菓子は「越後屋製小麦饅頭」でした。「越後屋」とは当時の茶人たちの間で定評のあった「越後屋若狭」のことでしょうか。しかし三溪が記した『一槌庵茶会記』には「そば饅頭むして」とあり、店名の記載はありません。彼の菓子の好みを探ってみると、伝記には、日常生活でもお茶で饅頭を一つ、二つと頬張る場面が見られるほか、会記では「草餅」「草求肥」「餅に餡かけ」「栗のあめだき」など素朴な菓子の記述が目につきます。 浄土飯の茶会昭和12年(1937)8月、恒例となっていた朝茶の開催直前、長男の善一郎が45歳の若さで急死します。誰もが茶会は中止になるであろうと思っていましたが、初七日を過ぎた15日より、数回にわたり浄土飯の茶会が催されました。軸には「君を望む」と書かれた惜別の一偈。懐石の趣にも席主の思いが込められました。蓮の葉を敷いた飯櫃にご飯を盛り、そのご飯を大輪の花を思わせるように紅蓮の花弁で覆って出されました。取り分けたご飯には、若い蓮の実を煮たものを散らし、だし汁をかけて食します。お菜は納豆(大徳寺納豆か)、漬物だけのシンプルなもの。菓子は「さつまいも茶巾しぼり 蜂蜜」でした。時期的にまだ完熟でない芋ゆえに甘みを補うため、あるいは芋の生地がまとまるように蜂蜜を加えたのでしょうか。質素な取り合わせとは言え、蓮の花やその香気、熟しきっていない素材を使うところに、若くして亡くなった息子への思いが窺えます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献高橋箒庵『東都茶会記』、『昭和茶道記』淡交社茶道誌『淡交』平成5年6月号 淡交社新井恵美子『原三溪物語』神奈川新聞社 2003年三溪園保勝会『三溪園100周年 原三溪の描いた風景』神奈川新聞社
紀伊国屋文左衛門と饅頭
現在のお火焚き饅頭紀州蜜柑で大もうけ江戸中期の豪商に、幕府御用の材木商も務めた紀伊国屋文左衛門(?~1734)という人物がいました。嵐の中、紀州蜜柑を江戸に運んで大もうけしたという伝説がつとに有名です。一説には、その時江戸では、11月8日の「ふいご祭」に使う蜜柑が不足していたのだとか。ふいご祭はお火焚き祭とも呼ばれ、鍛冶屋や料理屋をはじめとする、火を使う商売の人たちの祭です。現在も受け継がれており、もちろん、虎屋でも毎年行なっています。 江戸時代には、この日、蜜柑を撒いて子ども達に拾わせる習いでした。今もふいご祭に蜜柑とおこしを用意したり、火焔宝珠の焼印を押した饅頭などが売られることもあります。 お金持ちの道楽合戦一代で巨万の富を築いた文左衛門には、節分の時に枡に小粒金を入れて撒いた、というような豪遊ぶりが伝わっています。 文左衛門が月見を楽しんでいた時のこと。入り口でなにやら騒ぎがします。見れば、巨大な饅頭を載せた台が運び込まれてくるではありませんか。そのままでは饅頭が入らないために、戸口や階段を壊していたのです。 友人からの贈り物だという話に、人々はびっくりするやら呆れるやらでしたが、ともかく割ってみると、中には普通の大きさの饅頭がぎっしりと詰まっていました。蒸すための釜や蒸籠まで特別に誂えて作らせたというこの巨大饅頭の値段は、1個70両。壊した戸口は、一緒に連れてきた大工が数十人掛かりであっという間に直していったという手際のよさでした。 この話には後日談があります。文左衛門がその友人のなじみの遊女のもとを訪れ、座敷に蒔絵の小箱を置きました。人々がそれをあけると、中から豆粒ほどのカニが数百匹も這い出し、座敷中がカニだらけ、遊女や禿(かむろ)が逃げ惑って、またまた大騒ぎとなりました。そのカニを捕まえてよく見ると、小さな甲羅の一つ一つに、文左衛門の友人と、遊女の紋が金で描かれていたといいます。これが先の饅頭の御礼というのですから、お大尽のばかばかしいお金の使いかたは、想像を絶するものがありますね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「吉原雑話」(『燕石十種』第5巻 中央公論社 1980年)
紀伊国屋文左衛門と饅頭
現在のお火焚き饅頭紀州蜜柑で大もうけ江戸中期の豪商に、幕府御用の材木商も務めた紀伊国屋文左衛門(?~1734)という人物がいました。嵐の中、紀州蜜柑を江戸に運んで大もうけしたという伝説がつとに有名です。一説には、その時江戸では、11月8日の「ふいご祭」に使う蜜柑が不足していたのだとか。ふいご祭はお火焚き祭とも呼ばれ、鍛冶屋や料理屋をはじめとする、火を使う商売の人たちの祭です。現在も受け継がれており、もちろん、虎屋でも毎年行なっています。 江戸時代には、この日、蜜柑を撒いて子ども達に拾わせる習いでした。今もふいご祭に蜜柑とおこしを用意したり、火焔宝珠の焼印を押した饅頭などが売られることもあります。 お金持ちの道楽合戦一代で巨万の富を築いた文左衛門には、節分の時に枡に小粒金を入れて撒いた、というような豪遊ぶりが伝わっています。 文左衛門が月見を楽しんでいた時のこと。入り口でなにやら騒ぎがします。見れば、巨大な饅頭を載せた台が運び込まれてくるではありませんか。そのままでは饅頭が入らないために、戸口や階段を壊していたのです。 友人からの贈り物だという話に、人々はびっくりするやら呆れるやらでしたが、ともかく割ってみると、中には普通の大きさの饅頭がぎっしりと詰まっていました。蒸すための釜や蒸籠まで特別に誂えて作らせたというこの巨大饅頭の値段は、1個70両。壊した戸口は、一緒に連れてきた大工が数十人掛かりであっという間に直していったという手際のよさでした。 この話には後日談があります。文左衛門がその友人のなじみの遊女のもとを訪れ、座敷に蒔絵の小箱を置きました。人々がそれをあけると、中から豆粒ほどのカニが数百匹も這い出し、座敷中がカニだらけ、遊女や禿(かむろ)が逃げ惑って、またまた大騒ぎとなりました。そのカニを捕まえてよく見ると、小さな甲羅の一つ一つに、文左衛門の友人と、遊女の紋が金で描かれていたといいます。これが先の饅頭の御礼というのですから、お大尽のばかばかしいお金の使いかたは、想像を絶するものがありますね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「吉原雑話」(『燕石十種』第5巻 中央公論社 1980年)