虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
益田非黙と水羊羹
葛仕立水羊羹茶人非黙益田克徳(こくとく・1852~1903)は三井財閥の総帥・益田孝の4歳下の次弟にあたります。彼は司法省勤務の後、海外で学んだ保険業界の知識を活かし、 東京海上保険会社(現東京海上日動)の創設に関わり、支配人として経営にあたりました。この他、東京帽子会社(現オーベックス)をはじめ数社の経営にも関わる実業家でした。 しかし仕事以上にお茶に熱心で、毎朝出社したものの、会社を素通りし、道具屋に立ち寄るのが日課だったそうです。兄の孝(鈍翁)、弟の英作(紅艶)をはじめ、 渋沢栄一、馬越恭平(化生)、近藤廉平(其日庵・きじつあん)、高橋義雄(箒庵)など多くの実業家たちをこの世界に導き入れ、彼らの茶道観に大きな影響を与えています。彼は不白流の川上宗順へ弟子入りし、のちに非黙(ひもく)と号します。宗順指導の下、高価な道具を使うのではなく、安価なものの中から自分の好みを見出し、 独自の美意識を高めていきました。52歳での突然死により、残された茶会記などはあまりありません。非黙を知る人たちの証言では、彼の茶の湯は道具の収集内容や、 自作の茶碗「翁さび」「不出来」の風情、茶庭・茶室の作意から「益田流大侘び茶の湯」と評されています。 非黙と水羊羹非黙が席主を務める会記には、菓子の名称は書かれていますが、実際の菓子の形状や、手製あるいはどこの菓子屋のものかという御製の記述はほとんどありません。具体的には水羊羹、 あんよせ(寒天や葛で固めたものか)、栗餡餅、大福餅と栗大福、蕎麦饅頭、白梅形の打物、豆入り煎餅などの記載があります。これらの菓子は和歌から菓銘をとった類のものではなく、 シンプルな侘びたものばかり。この中で複数回出てくるのが水羊羹です。ちなみに大正4年(1915)6月1日、かつて非黙が指導して作った茶庭・茶室において、其日庵を席主に行なわれた 非黙の13回忌追福茶会でも水羊羹が出されています。非黙が用意した水羊羹はどのようなものだったのでしょう。当時の水羊羹は虎屋にある記録など調べてみると、餡を葛で固めるものと、寒天で固めるものがあったと考えられます。彼の伝記にある三女繁子の話には、金杉村根岸(現台東区根岸)の非黙邸へ、茶席の菓子をつくる本所の越後屋(越後屋若狭か)の老人がよく見えていたとのこと。もしかしたらこの水羊羹は、寒天を使った柔らかくて瑞々しい越後屋若狭のもので、健啖家で有名な非黙の好物だったのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『益田克徳翁伝』大塚栄三著 益田恭尚・晃尚編 東方出版 2004年『東都茶会記 二』高橋箒庵著 淡交社 1989年『慶應義塾出身名流列伝』三田商業研究会編 実業之世界社 1909年
益田非黙と水羊羹
葛仕立水羊羹茶人非黙益田克徳(こくとく・1852~1903)は三井財閥の総帥・益田孝の4歳下の次弟にあたります。彼は司法省勤務の後、海外で学んだ保険業界の知識を活かし、 東京海上保険会社(現東京海上日動)の創設に関わり、支配人として経営にあたりました。この他、東京帽子会社(現オーベックス)をはじめ数社の経営にも関わる実業家でした。 しかし仕事以上にお茶に熱心で、毎朝出社したものの、会社を素通りし、道具屋に立ち寄るのが日課だったそうです。兄の孝(鈍翁)、弟の英作(紅艶)をはじめ、 渋沢栄一、馬越恭平(化生)、近藤廉平(其日庵・きじつあん)、高橋義雄(箒庵)など多くの実業家たちをこの世界に導き入れ、彼らの茶道観に大きな影響を与えています。彼は不白流の川上宗順へ弟子入りし、のちに非黙(ひもく)と号します。宗順指導の下、高価な道具を使うのではなく、安価なものの中から自分の好みを見出し、 独自の美意識を高めていきました。52歳での突然死により、残された茶会記などはあまりありません。非黙を知る人たちの証言では、彼の茶の湯は道具の収集内容や、 自作の茶碗「翁さび」「不出来」の風情、茶庭・茶室の作意から「益田流大侘び茶の湯」と評されています。 非黙と水羊羹非黙が席主を務める会記には、菓子の名称は書かれていますが、実際の菓子の形状や、手製あるいはどこの菓子屋のものかという御製の記述はほとんどありません。具体的には水羊羹、 あんよせ(寒天や葛で固めたものか)、栗餡餅、大福餅と栗大福、蕎麦饅頭、白梅形の打物、豆入り煎餅などの記載があります。これらの菓子は和歌から菓銘をとった類のものではなく、 シンプルな侘びたものばかり。この中で複数回出てくるのが水羊羹です。ちなみに大正4年(1915)6月1日、かつて非黙が指導して作った茶庭・茶室において、其日庵を席主に行なわれた 非黙の13回忌追福茶会でも水羊羹が出されています。非黙が用意した水羊羹はどのようなものだったのでしょう。当時の水羊羹は虎屋にある記録など調べてみると、餡を葛で固めるものと、寒天で固めるものがあったと考えられます。彼の伝記にある三女繁子の話には、金杉村根岸(現台東区根岸)の非黙邸へ、茶席の菓子をつくる本所の越後屋(越後屋若狭か)の老人がよく見えていたとのこと。もしかしたらこの水羊羹は、寒天を使った柔らかくて瑞々しい越後屋若狭のもので、健啖家で有名な非黙の好物だったのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『益田克徳翁伝』大塚栄三著 益田恭尚・晃尚編 東方出版 2004年『東都茶会記 二』高橋箒庵著 淡交社 1989年『慶應義塾出身名流列伝』三田商業研究会編 実業之世界社 1909年
名越左源太と葛煉り
奄美大島へ島流し幕末、島津家のお家騒動に連座して、奄美大島に島流しにされた薩摩藩士が名越左源太(なごやさげんた・1819~81)です。左源太は、嘉永3年(1850)から赦免されるまでの足掛け5年を大島の小宿(こしゅく・奄美市名瀬小宿)で過ごしました。当時の日記の一部が、奄美市立奄美博物館に保管されています。また、衣食住を始めとする島の風俗や、アマミノクロウサギやヤッコソウといった動植物について多くのスケッチと文章で記録し、資料を集めました。これらの資料群は『南島雑話』と名づけられ、奄美の文化を知る上でのバイブルとも呼ばれています。 お菓子を貰ったり作ったり日記には日々の食事のことも書かれており、貰った魚を味噌煮にしたり、糠味噌の漬け方を村の人に教えたりと、料理が得意だった様子がうかがえます。菓子の記載も思いがけないほど度々見られます。小宿に住み始めた当初、毎日のように菓子を持ってきてくれることに対して、元からそうした風習のある村なのか、自分のためにわざわざ用意してくれているのかわからない、と困惑気味に記しているほどです。また、左源太自身、型菓子(落雁のように木型で作った菓子)や団子などの菓子も作っており、来客に何度か出しているものに葛煉りがあります。これは一般には葛粉に水と砂糖を加えて火にかけ煉ったものですが、面白いのは、葛素麺をご馳走しようと思って作ってみたが、うまくいかずに葛煉りになってしまった、という記述があることです。江戸時代の料理書によれば、葛素麺は葛粉をお湯で溶き、熱湯に流し入れて細く固めたものです。うまく素麺状にならずに全部が固まってしまったのでしょうか。火にかけて固めた葛の生地を薄く延ばして、細く切ろうと試みたのかもしれません。熱くて弾力のある葛に手を焼く姿が目に浮かぶようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考資料『南西諸島史料集』第2巻 南方新社 2008年今村規子『名越左源太の見た幕末奄美の食と菓子』南方新社 2010年
名越左源太と葛煉り
奄美大島へ島流し幕末、島津家のお家騒動に連座して、奄美大島に島流しにされた薩摩藩士が名越左源太(なごやさげんた・1819~81)です。左源太は、嘉永3年(1850)から赦免されるまでの足掛け5年を大島の小宿(こしゅく・奄美市名瀬小宿)で過ごしました。当時の日記の一部が、奄美市立奄美博物館に保管されています。また、衣食住を始めとする島の風俗や、アマミノクロウサギやヤッコソウといった動植物について多くのスケッチと文章で記録し、資料を集めました。これらの資料群は『南島雑話』と名づけられ、奄美の文化を知る上でのバイブルとも呼ばれています。 お菓子を貰ったり作ったり日記には日々の食事のことも書かれており、貰った魚を味噌煮にしたり、糠味噌の漬け方を村の人に教えたりと、料理が得意だった様子がうかがえます。菓子の記載も思いがけないほど度々見られます。小宿に住み始めた当初、毎日のように菓子を持ってきてくれることに対して、元からそうした風習のある村なのか、自分のためにわざわざ用意してくれているのかわからない、と困惑気味に記しているほどです。また、左源太自身、型菓子(落雁のように木型で作った菓子)や団子などの菓子も作っており、来客に何度か出しているものに葛煉りがあります。これは一般には葛粉に水と砂糖を加えて火にかけ煉ったものですが、面白いのは、葛素麺をご馳走しようと思って作ってみたが、うまくいかずに葛煉りになってしまった、という記述があることです。江戸時代の料理書によれば、葛素麺は葛粉をお湯で溶き、熱湯に流し入れて細く固めたものです。うまく素麺状にならずに全部が固まってしまったのでしょうか。火にかけて固めた葛の生地を薄く延ばして、細く切ろうと試みたのかもしれません。熱くて弾力のある葛に手を焼く姿が目に浮かぶようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考資料『南西諸島史料集』第2巻 南方新社 2008年今村規子『名越左源太の見た幕末奄美の食と菓子』南方新社 2010年
西洞院時慶と嘉祥のきんとん
きんとんの絵図「御菓子之畫圖」(1695)より 西洞院家を再興する 西洞院時慶(にしのとういんときよし・1552~1639)は、天正3年(1575)に9年間途絶えていた西洞院家を継ぎ、再興しました。和歌に秀で、古典の書写などに務めたほか、元和8年(1622)の徳川家康7回忌には天皇の使者として日光に下向しています。医学に関心があり、晩年は茶の湯にも傾倒するなど多才な人物で、彼の日記『時慶卿記(時慶記)』は安土桃山時代~江戸時代初期にかけての政治や文化、行事などを含めた公家社会の生活の様子を示す貴重な史料となっています。 朝廷の嘉祥(かじょう) 嘉祥(嘉定)は6月16日に菓子を食べて厄を払う行事で、室町時代には朝廷、武家ともに行なわれていました。江戸時代の幕府の盛大な嘉祥についてはすでにご紹介しましたが(「徳川家康と嘉祥」参照)、朝廷では天皇から下賜された米を、公家らが菓子に替えて献上するなどしていました。時慶の日記から嘉祥の様子をうかがうと、事前に知らせがあって嘉祥料の米をもらい、その代わりなのか、当日は酒や肴を御所に持参して宴会をしたようです。酒好きの時慶は飲みすぎて酔いつぶれてしまうこともありました。天皇の参加はまちまちで、年によっては公家らが呼ばれず米が渡されなかったり、将軍の参内が予定されていたため中止になったりした例も見られます。 嘉祥(かじょう)のきんとん 嘉祥には天皇の生母などからも米が下賜され、親類縁者や公家同士でも進物のやりとりがありました。『時慶卿記』には酒や鮓(すし)のほか、饅頭や「金団(きんとん)」といった菓子の名が見え、贈り先によって品物を変えています。このうちきんとんは、現在、餡をそぼろ状にして餡玉につけた生菓子として知られますが、古くは砂糖を包んだ丸い餅(団子)だったようです(『日葡辞書(にっぽじしょ)』1603ほか)。虎屋の菓子絵図帳「御菓子之畫圖(おかしのえず)」(1695)にも、黄色く丸い絵が描かれています。後に団子に黄粉や胡麻をかけるようになり、江戸時代後期にはそぼろ状のきんとんが登場します。時慶が用意したのは団子に近いものと考えられます。慶長10年(1605)の嘉祥では、物忌(ものいみ※)のためか、砂糖を加えなかったとあるので、例年は甘い菓子であったようです。西洞院家から毎年届けられる心づくしの砂糖入り菓子を、親類縁者や友人知人も楽しみにしていたことでしょう。 ※ 不幸などにより、一定期間、特定の物事を避けること。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献 村山修一『安土桃山時代の公家と京都』塙書房 2009年 嘉祥(嘉定)については、以下でも取り上げています。詳しく知りたい方は、ぜひご覧ください。機関誌『和菓子』創刊号 嘉定と菓子(鈴木晋一)機関誌『和菓子』 25号 江戸幕府嘉定儀礼の「着座」について(相田文三) 機関誌『和菓子』についてはこちら。
西洞院時慶と嘉祥のきんとん
きんとんの絵図「御菓子之畫圖」(1695)より 西洞院家を再興する 西洞院時慶(にしのとういんときよし・1552~1639)は、天正3年(1575)に9年間途絶えていた西洞院家を継ぎ、再興しました。和歌に秀で、古典の書写などに務めたほか、元和8年(1622)の徳川家康7回忌には天皇の使者として日光に下向しています。医学に関心があり、晩年は茶の湯にも傾倒するなど多才な人物で、彼の日記『時慶卿記(時慶記)』は安土桃山時代~江戸時代初期にかけての政治や文化、行事などを含めた公家社会の生活の様子を示す貴重な史料となっています。 朝廷の嘉祥(かじょう) 嘉祥(嘉定)は6月16日に菓子を食べて厄を払う行事で、室町時代には朝廷、武家ともに行なわれていました。江戸時代の幕府の盛大な嘉祥についてはすでにご紹介しましたが(「徳川家康と嘉祥」参照)、朝廷では天皇から下賜された米を、公家らが菓子に替えて献上するなどしていました。時慶の日記から嘉祥の様子をうかがうと、事前に知らせがあって嘉祥料の米をもらい、その代わりなのか、当日は酒や肴を御所に持参して宴会をしたようです。酒好きの時慶は飲みすぎて酔いつぶれてしまうこともありました。天皇の参加はまちまちで、年によっては公家らが呼ばれず米が渡されなかったり、将軍の参内が予定されていたため中止になったりした例も見られます。 嘉祥(かじょう)のきんとん 嘉祥には天皇の生母などからも米が下賜され、親類縁者や公家同士でも進物のやりとりがありました。『時慶卿記』には酒や鮓(すし)のほか、饅頭や「金団(きんとん)」といった菓子の名が見え、贈り先によって品物を変えています。このうちきんとんは、現在、餡をそぼろ状にして餡玉につけた生菓子として知られますが、古くは砂糖を包んだ丸い餅(団子)だったようです(『日葡辞書(にっぽじしょ)』1603ほか)。虎屋の菓子絵図帳「御菓子之畫圖(おかしのえず)」(1695)にも、黄色く丸い絵が描かれています。後に団子に黄粉や胡麻をかけるようになり、江戸時代後期にはそぼろ状のきんとんが登場します。時慶が用意したのは団子に近いものと考えられます。慶長10年(1605)の嘉祥では、物忌(ものいみ※)のためか、砂糖を加えなかったとあるので、例年は甘い菓子であったようです。西洞院家から毎年届けられる心づくしの砂糖入り菓子を、親類縁者や友人知人も楽しみにしていたことでしょう。 ※ 不幸などにより、一定期間、特定の物事を避けること。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献 村山修一『安土桃山時代の公家と京都』塙書房 2009年 嘉祥(嘉定)については、以下でも取り上げています。詳しく知りたい方は、ぜひご覧ください。機関誌『和菓子』創刊号 嘉定と菓子(鈴木晋一)機関誌『和菓子』 25号 江戸幕府嘉定儀礼の「着座」について(相田文三) 機関誌『和菓子』についてはこちら。
ケンペルと将軍綱吉から下された菓子
ケンペルに下された菓子ドイツ人医師の来日ドイツ人の医師で旅行家のエンゲルベルト・ケンペル(1651~1716)は、ドイツやポーランドなどの大学で学んだ後、スウェーデン使節団の書記官の任に就き、ロシアやペルシアほか各地をめぐります。旅の途中、オランダ東インド会社に勤め先を変え、元禄3年(1690)、医師として長崎に到着しました。滞在中は、オランダ商館長の江戸参府(えどさんぷ※)に2度にわたり随行し、詳細な日記を残しました。外国人の目線であればこその記録は大変貴重なものといえます。 将軍から下された菓子元禄5年(1692)4月24日、2度目の随行で5代将軍徳川綱吉に謁見した際、ケンペルは江戸城で出された菓子について、以下のような内容を記しています。① 胡麻つきの中空の小さなパンのようなもの。②白い縞のついた精製した砂糖。③皮付きの榧(かや)の実。④四角い焼菓子。⑤蜂蜜の入った漏斗(ろうと)形の厚く巻いた褐色の菓子。少し歯切れが悪く、側面の一方に太陽とバラの形、もう一方に桐の木の葉1枚と花3つ(内裏の紋)がついていた。⑥豆粉と砂糖で作った赤褐色のもろい四角の薄い煎餅。⑦黄色の焼餅。⑧焼いて小さく切った四角い菓子。中に柔らかい求肥入り。⑨大きな壺に入れた餡入りの饅頭。⑩⑨より小さい普通の大きさの饅頭。①は江戸時代の菓子製法書などにみえる「胡麻胴乱(ごまどうらん)」を思わせます(「牧野富太郎とドーラン」参照)。また、⑤の歯切れが悪い菓子とは、餅菓子のことでしょうか。一行は、すべての種類を少しずつ食べ、残りは白い紙に包んで持ち帰ります。退出後、謁見に同席した長崎奉行が「オランダ人がこんなに厚遇されたことは初めてです」と語っているので、こんなにたくさんの菓子が出たのは、特別なことだったのかもしれませんね。残念ながらケンペルは、味についての感想を書いていませんが、それにしても細かな描写です。宿で包みを開き、あらためてよく観察してから日記に書きとめたのでしょうか。 ※ 将軍に貿易許可の礼を述べるため、江戸城に謁見に赴くこと。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『江戸参府旅行日記』平凡社 1997年
ケンペルと将軍綱吉から下された菓子
ケンペルに下された菓子ドイツ人医師の来日ドイツ人の医師で旅行家のエンゲルベルト・ケンペル(1651~1716)は、ドイツやポーランドなどの大学で学んだ後、スウェーデン使節団の書記官の任に就き、ロシアやペルシアほか各地をめぐります。旅の途中、オランダ東インド会社に勤め先を変え、元禄3年(1690)、医師として長崎に到着しました。滞在中は、オランダ商館長の江戸参府(えどさんぷ※)に2度にわたり随行し、詳細な日記を残しました。外国人の目線であればこその記録は大変貴重なものといえます。 将軍から下された菓子元禄5年(1692)4月24日、2度目の随行で5代将軍徳川綱吉に謁見した際、ケンペルは江戸城で出された菓子について、以下のような内容を記しています。① 胡麻つきの中空の小さなパンのようなもの。②白い縞のついた精製した砂糖。③皮付きの榧(かや)の実。④四角い焼菓子。⑤蜂蜜の入った漏斗(ろうと)形の厚く巻いた褐色の菓子。少し歯切れが悪く、側面の一方に太陽とバラの形、もう一方に桐の木の葉1枚と花3つ(内裏の紋)がついていた。⑥豆粉と砂糖で作った赤褐色のもろい四角の薄い煎餅。⑦黄色の焼餅。⑧焼いて小さく切った四角い菓子。中に柔らかい求肥入り。⑨大きな壺に入れた餡入りの饅頭。⑩⑨より小さい普通の大きさの饅頭。①は江戸時代の菓子製法書などにみえる「胡麻胴乱(ごまどうらん)」を思わせます(「牧野富太郎とドーラン」参照)。また、⑤の歯切れが悪い菓子とは、餅菓子のことでしょうか。一行は、すべての種類を少しずつ食べ、残りは白い紙に包んで持ち帰ります。退出後、謁見に同席した長崎奉行が「オランダ人がこんなに厚遇されたことは初めてです」と語っているので、こんなにたくさんの菓子が出たのは、特別なことだったのかもしれませんね。残念ながらケンペルは、味についての感想を書いていませんが、それにしても細かな描写です。宿で包みを開き、あらためてよく観察してから日記に書きとめたのでしょうか。 ※ 将軍に貿易許可の礼を述べるため、江戸城に謁見に赴くこと。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『江戸参府旅行日記』平凡社 1997年
黒川武雄と『空の旅』
黒川武雄と虎屋黒川武雄(1893~1975)は虎屋の十五代店主です。開業医福田恭敬(やすたか)とクメの四男として、熊本県伊倉町(現玉名市)に生まれました。15才で父が死去したため家族とともに東京へ出て第一高等学校入学後、虎屋店主であった黒川光景の養子となりました。大正6年(1917)に東京帝国大学を卒業して第一銀行(現みずほ銀行)に入行、同年光景の一人娘算子(かずこ)と結婚します。2年後には同行を退職して、虎屋へ入って家業を継ぎます。武雄は大正から戦前という時期に虎屋の経営を近代化した人物で、昭和22年(1947)から40年までは参議院議員として国政に尽力し、中小企業育成や和菓子業界の発展にも貢献しました。また俳句(俳号・一五)や油絵、謡など多趣味な私生活をおくっています。 夕焼けを羊羹に武雄は自ら菓子作りに励み、小形羊羹(黒川武雄と小形羊羹参照)や懐中汁粉『小鼓』など沢山の菓子を考案しています。羊羹の『空の旅』も武雄が考案した菓子です。昭和26年5月、厚生大臣を務めていた武雄は、ジュネーブで開かれたWHO(世界保健機関)の総会に出席しました。その旅の途中、飛行機の窓から見た夕焼けの美しさを「機は高度を高めて、白雲の波の上をとぶ。折から夕陽が白雲に映えて、ゑも云えぬ美しさだ。」と随筆に記しました。この時の情景に想を得て、同年12月に発売したのが『空の旅』で、紅地に散らした白小豆は、夕焼け空に浮かぶ白い雲を表わしています。『空の旅』には発売当初より「白小豆入り」と表示していました。白小豆は独特の風味があり、白煉羊羹、お汁粉、白餡などに使用していますが、生産量が限られるため、虎屋では群馬県に指定農場を開設して安定的な入手に力を尽くしています。この白小豆栽培の本格的な取り組みは、武雄が昭和2年に群馬県利根郡農会に栽培を委託したことに始まります。当時の虎屋の羊羹は『夜の梅』と『おもかげ』でしたが、新たに紅色の『空の旅』が加わったことになります。現在、大棹、竹皮包、中形、小形で販売されていますが、昭和44年から47年までの期間には、水羊羹の『空の旅』も販売されていました。 今年は『空の旅』発売から60年、4月1日から中形羊羹と小形羊羹にサイズをしぼり、販売店も羽田と成田の空港に限定されることとなりました。これからも空の旅を続けることでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献黒川武雄 『空の旅』 東光社 1951年
黒川武雄と『空の旅』
黒川武雄と虎屋黒川武雄(1893~1975)は虎屋の十五代店主です。開業医福田恭敬(やすたか)とクメの四男として、熊本県伊倉町(現玉名市)に生まれました。15才で父が死去したため家族とともに東京へ出て第一高等学校入学後、虎屋店主であった黒川光景の養子となりました。大正6年(1917)に東京帝国大学を卒業して第一銀行(現みずほ銀行)に入行、同年光景の一人娘算子(かずこ)と結婚します。2年後には同行を退職して、虎屋へ入って家業を継ぎます。武雄は大正から戦前という時期に虎屋の経営を近代化した人物で、昭和22年(1947)から40年までは参議院議員として国政に尽力し、中小企業育成や和菓子業界の発展にも貢献しました。また俳句(俳号・一五)や油絵、謡など多趣味な私生活をおくっています。 夕焼けを羊羹に武雄は自ら菓子作りに励み、小形羊羹(黒川武雄と小形羊羹参照)や懐中汁粉『小鼓』など沢山の菓子を考案しています。羊羹の『空の旅』も武雄が考案した菓子です。昭和26年5月、厚生大臣を務めていた武雄は、ジュネーブで開かれたWHO(世界保健機関)の総会に出席しました。その旅の途中、飛行機の窓から見た夕焼けの美しさを「機は高度を高めて、白雲の波の上をとぶ。折から夕陽が白雲に映えて、ゑも云えぬ美しさだ。」と随筆に記しました。この時の情景に想を得て、同年12月に発売したのが『空の旅』で、紅地に散らした白小豆は、夕焼け空に浮かぶ白い雲を表わしています。『空の旅』には発売当初より「白小豆入り」と表示していました。白小豆は独特の風味があり、白煉羊羹、お汁粉、白餡などに使用していますが、生産量が限られるため、虎屋では群馬県に指定農場を開設して安定的な入手に力を尽くしています。この白小豆栽培の本格的な取り組みは、武雄が昭和2年に群馬県利根郡農会に栽培を委託したことに始まります。当時の虎屋の羊羹は『夜の梅』と『おもかげ』でしたが、新たに紅色の『空の旅』が加わったことになります。現在、大棹、竹皮包、中形、小形で販売されていますが、昭和44年から47年までの期間には、水羊羹の『空の旅』も販売されていました。 今年は『空の旅』発売から60年、4月1日から中形羊羹と小形羊羹にサイズをしぼり、販売店も羽田と成田の空港に限定されることとなりました。これからも空の旅を続けることでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献黒川武雄 『空の旅』 東光社 1951年
樋口一葉と雪の日の汁粉
汁粉早世の女流作家樋口一葉(1872~1896)は、戦後はじめて紙幣の肖像になった女性として大きな話題となりました。東京に生まれ、14歳で中島歌子の主催する歌塾「萩の舎」(はぎのや)に入門、古典の教養を身につけました。父が早くに病死、戸主として一家を支えるため、文筆活動をはじめます。しかし、作品は思うような収入につながらず、下谷龍泉寺町(現・台東区)に転居、子ども相手の駄菓子、おもちゃを並べた荒物店を開きます。この経験は、吉原を舞台に下町の子どもたちの日々を描いた『たけくらべ』に生かされました。明治27年(1894)に『大つごもり』を発表、肺結核により24歳の若さで没するまでのわずか14ヶ月間に『にごりえ』、『十三夜』などの傑作を次々に発表しました。 雪の日のできごと明治24年、小説を書きはじめた一葉は、東京朝日新聞の記者で小説家の半井桃水(なからいとうすい)を紹介されます。桃水は長身の好男子だったようで、一葉は初対面の印象を「色いと白く面おだやかに少し笑み給えるさま、誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ」と日記に記し、ほのかな想いを寄せていたといわれます。翌年の2月4日、桃水に執筆の手ほどきを受けていた一葉は、寒空のもと、みぞれまじりの雨が降るのも厭わず桃水の家へ向かいます。ところが、主は前日の帰宅が遅かったため、寝ている様子。一葉は風の入る寒い玄関先で2時間近くも目覚めを待ち、やっと起きてきた桃水に、何故起こしてくれなかったのか、あまりに遠慮が過ぎると大笑いされます。桃水は、友人らと創刊する雑誌のことなどを語り、やがて、隣家から鍋を借てくると、雪でなければ、盛大にご馳走するつもりだったのだが、と断りながら、汁粉を作りはじめます。そして、「めしたまえ、盆はあれど奥に仕舞込みて出すに遠し。箸もこれにて失礼ながら」と餅を焼いた箸を添えて出すのでした。女所帯に暮らす一葉に、こうした桃水の飾らない人柄は新鮮に写ったのではないでしょうか。この雪の日のことは会話の内容まで細かく日記に記されており、苦労の絶えない人生のなかで、特筆すべき、心躍るできごとだったことをうかがわせます。寒い雪の日、手製の素朴な汁粉も、一葉にとっては、心も体も温まる最上のご馳走だったことでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『樋口一葉 ちくま日本文学全集』(筑摩書房 1992年)
樋口一葉と雪の日の汁粉
汁粉早世の女流作家樋口一葉(1872~1896)は、戦後はじめて紙幣の肖像になった女性として大きな話題となりました。東京に生まれ、14歳で中島歌子の主催する歌塾「萩の舎」(はぎのや)に入門、古典の教養を身につけました。父が早くに病死、戸主として一家を支えるため、文筆活動をはじめます。しかし、作品は思うような収入につながらず、下谷龍泉寺町(現・台東区)に転居、子ども相手の駄菓子、おもちゃを並べた荒物店を開きます。この経験は、吉原を舞台に下町の子どもたちの日々を描いた『たけくらべ』に生かされました。明治27年(1894)に『大つごもり』を発表、肺結核により24歳の若さで没するまでのわずか14ヶ月間に『にごりえ』、『十三夜』などの傑作を次々に発表しました。 雪の日のできごと明治24年、小説を書きはじめた一葉は、東京朝日新聞の記者で小説家の半井桃水(なからいとうすい)を紹介されます。桃水は長身の好男子だったようで、一葉は初対面の印象を「色いと白く面おだやかに少し笑み給えるさま、誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ」と日記に記し、ほのかな想いを寄せていたといわれます。翌年の2月4日、桃水に執筆の手ほどきを受けていた一葉は、寒空のもと、みぞれまじりの雨が降るのも厭わず桃水の家へ向かいます。ところが、主は前日の帰宅が遅かったため、寝ている様子。一葉は風の入る寒い玄関先で2時間近くも目覚めを待ち、やっと起きてきた桃水に、何故起こしてくれなかったのか、あまりに遠慮が過ぎると大笑いされます。桃水は、友人らと創刊する雑誌のことなどを語り、やがて、隣家から鍋を借てくると、雪でなければ、盛大にご馳走するつもりだったのだが、と断りながら、汁粉を作りはじめます。そして、「めしたまえ、盆はあれど奥に仕舞込みて出すに遠し。箸もこれにて失礼ながら」と餅を焼いた箸を添えて出すのでした。女所帯に暮らす一葉に、こうした桃水の飾らない人柄は新鮮に写ったのではないでしょうか。この雪の日のことは会話の内容まで細かく日記に記されており、苦労の絶えない人生のなかで、特筆すべき、心躍るできごとだったことをうかがわせます。寒い雪の日、手製の素朴な汁粉も、一葉にとっては、心も体も温まる最上のご馳走だったことでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『樋口一葉 ちくま日本文学全集』(筑摩書房 1992年)