虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
酒井伴四郎と月見団子
月見団子巨大都市江戸近世江戸は人口100万人を超える大都市で、人口の約半分は武家の人々が占めていました。旗本、御家人のほか、参勤交代によって全国から大名が集まり、お供として多くの藩士が江戸藩邸に住みました。 幕末下級武士の江戸ライフ紀州藩士酒井伴四郎(さかいばんしろう・1833~?)もそうした藩士の一人でした。万延元年(1860)妻子を故郷和歌山に残して単身赴任、住まいは赤坂の中屋敷(現:港区赤坂御用地・迎賓館)、敷地が13万坪もある広大な屋敷です。しかし、禄高30石という下級武士の伴四郎は、間口1間半の長屋に同僚2人と同居です。伴四郎が書いた詳細な日記からは、生き生きとした江戸での生活を知ることが出来ます。食事は自炊が基本、安い食材を買うなどして倹約につとめています。でも時には、同僚と酒や食べ物を持ち合って、ささやかな宴会をすることもありました。また、鮨やドジョウ鍋、ブタ鍋といった外食を楽しみ、牡丹餅や桜餅などの菓子や汁粉もよく食べています。 伴四郎の月見団子男所帯の単身赴任ですが、節句ほかの年中行事もちゃんと行なっていて、季節の移り変わりを肌で感じています。そうした行事に食べるのが行事食、正月の七草粥や端午の柏餅などが知られています。8月15日は中秋の名月です。月にススキや里芋とともに団子を供えます。伴四郎も出入りの商人から貰った白玉粉で団子を作りました。お供えにもしたのでしょうが、仲間にもごちそうしています。その団子はいたって上出来で、「誠よく出来、皆甘狩(うまがり)候」と日記に書いています。彼は藩邸内で何人かと団子を贈りあっており、その時には里芋と枝豆(大豆)を添えています。中秋の名月は、もともと畑作の収穫祭に由来するので、里芋や枝豆も贈られたのでしょう。ちなみに江戸の町では、家族や商店の従業員一人一人に団子15個を贈ったそうですが、大変な数になったことでしょう。その団子はお供えよりもずいぶんと小さく、鉄砲玉と呼ばれていました。翌日十六夜には、残った団子を焼く醤油の香りがしたという川柳もあります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献青木直己『幕末単身赴任 下級武士の食日記』NHK出版 2005年東京都江戸東京博物館『酒井伴四郎日記-影印と翻刻-』同館 2010年
酒井伴四郎と月見団子
月見団子巨大都市江戸近世江戸は人口100万人を超える大都市で、人口の約半分は武家の人々が占めていました。旗本、御家人のほか、参勤交代によって全国から大名が集まり、お供として多くの藩士が江戸藩邸に住みました。 幕末下級武士の江戸ライフ紀州藩士酒井伴四郎(さかいばんしろう・1833~?)もそうした藩士の一人でした。万延元年(1860)妻子を故郷和歌山に残して単身赴任、住まいは赤坂の中屋敷(現:港区赤坂御用地・迎賓館)、敷地が13万坪もある広大な屋敷です。しかし、禄高30石という下級武士の伴四郎は、間口1間半の長屋に同僚2人と同居です。伴四郎が書いた詳細な日記からは、生き生きとした江戸での生活を知ることが出来ます。食事は自炊が基本、安い食材を買うなどして倹約につとめています。でも時には、同僚と酒や食べ物を持ち合って、ささやかな宴会をすることもありました。また、鮨やドジョウ鍋、ブタ鍋といった外食を楽しみ、牡丹餅や桜餅などの菓子や汁粉もよく食べています。 伴四郎の月見団子男所帯の単身赴任ですが、節句ほかの年中行事もちゃんと行なっていて、季節の移り変わりを肌で感じています。そうした行事に食べるのが行事食、正月の七草粥や端午の柏餅などが知られています。8月15日は中秋の名月です。月にススキや里芋とともに団子を供えます。伴四郎も出入りの商人から貰った白玉粉で団子を作りました。お供えにもしたのでしょうが、仲間にもごちそうしています。その団子はいたって上出来で、「誠よく出来、皆甘狩(うまがり)候」と日記に書いています。彼は藩邸内で何人かと団子を贈りあっており、その時には里芋と枝豆(大豆)を添えています。中秋の名月は、もともと畑作の収穫祭に由来するので、里芋や枝豆も贈られたのでしょう。ちなみに江戸の町では、家族や商店の従業員一人一人に団子15個を贈ったそうですが、大変な数になったことでしょう。その団子はお供えよりもずいぶんと小さく、鉄砲玉と呼ばれていました。翌日十六夜には、残った団子を焼く醤油の香りがしたという川柳もあります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献青木直己『幕末単身赴任 下級武士の食日記』NHK出版 2005年東京都江戸東京博物館『酒井伴四郎日記-影印と翻刻-』同館 2010年
大和田建樹と故郷の菓子
大分県宇佐市のめがね菓子鉄道唱歌の父大和田建樹(おおわだたけき・1857~1910)は、蜜柑の産地として名高い愛媛県宇和島に生まれました。東京女子高等学校の教師などを務めた後は、文筆活動に専念し、数多くの唱歌を作詞しています。なかでも「汽笛一声 新橋を はや我が汽車は 離れたり…」ではじまる「鉄道唱歌」(1900年)は有名で、JR新橋駅には、建樹の生誕100年の記念に建てられた歌詞碑があります。 あこがれの金平糖彼はまた、新体詩や短歌の才に恵まれ、散文にも優れた作品を残しました。明治35年(1902)に刊行した『したわらび 紀行漫筆』は、日常のささいな出来事などを綴った小文集で、ふるさとの菓子の思い出話も数編あります。たとえば、「金平糖」と題した一編は、ある日、地方の講習会に出かけた建樹が、茶菓として振舞われた金平糖から、幼少時代を思い起こしたというものです。大人である建樹にとって、金平糖は、ありふれた「さまでうまからぬもの」でした。しかし、髭を生やした校長や教員が、テーブルに配られたわずかな金平糖を、カステラや羊羹のように楽しんで味わう光景を目にし、子どもの頃は、「風月堂の西洋菓子」にも勝るものとして、金平糖に憧れを抱いていたことを思い出すのでした。 故郷の菓子の味わい建樹の生まれ故郷には、繊細で美しい上菓子はなく、まして金平糖を作る店などありませんでした。身近にあった菓子は、仏前に供える「目鏡(めがね)菓子」(小麦粉生地をリング形に焼いた菓子)、「黒砂糖の餡を入れて、菊牡丹の様に作れる花餅」、餡入りの米粉団子にもち米をつけて蒸した「女郎花ともいひつべき伊賀もち」など。いずれも手作りの質素なものだったのでしょう。金平糖を味わうひと時を得て、昔を思い出した建樹は、この一文を「今は田舎にも菓子作る家あり。売るには都びたる折をも用ふ。さはいへ猶も花餅いがもちの時代こそ恋しけれ」と結んでいます。さまざまな菓子があふれる現代においても、子どもの頃に親しんだ味は特別な存在として、心に残っているものです。建樹にとっては、花餅や伊賀餅などの素朴な田舎の菓子が、古きよき時代の思い出であり、心の故郷といえるのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
大和田建樹と故郷の菓子
大分県宇佐市のめがね菓子鉄道唱歌の父大和田建樹(おおわだたけき・1857~1910)は、蜜柑の産地として名高い愛媛県宇和島に生まれました。東京女子高等学校の教師などを務めた後は、文筆活動に専念し、数多くの唱歌を作詞しています。なかでも「汽笛一声 新橋を はや我が汽車は 離れたり…」ではじまる「鉄道唱歌」(1900年)は有名で、JR新橋駅には、建樹の生誕100年の記念に建てられた歌詞碑があります。 あこがれの金平糖彼はまた、新体詩や短歌の才に恵まれ、散文にも優れた作品を残しました。明治35年(1902)に刊行した『したわらび 紀行漫筆』は、日常のささいな出来事などを綴った小文集で、ふるさとの菓子の思い出話も数編あります。たとえば、「金平糖」と題した一編は、ある日、地方の講習会に出かけた建樹が、茶菓として振舞われた金平糖から、幼少時代を思い起こしたというものです。大人である建樹にとって、金平糖は、ありふれた「さまでうまからぬもの」でした。しかし、髭を生やした校長や教員が、テーブルに配られたわずかな金平糖を、カステラや羊羹のように楽しんで味わう光景を目にし、子どもの頃は、「風月堂の西洋菓子」にも勝るものとして、金平糖に憧れを抱いていたことを思い出すのでした。 故郷の菓子の味わい建樹の生まれ故郷には、繊細で美しい上菓子はなく、まして金平糖を作る店などありませんでした。身近にあった菓子は、仏前に供える「目鏡(めがね)菓子」(小麦粉生地をリング形に焼いた菓子)、「黒砂糖の餡を入れて、菊牡丹の様に作れる花餅」、餡入りの米粉団子にもち米をつけて蒸した「女郎花ともいひつべき伊賀もち」など。いずれも手作りの質素なものだったのでしょう。金平糖を味わうひと時を得て、昔を思い出した建樹は、この一文を「今は田舎にも菓子作る家あり。売るには都びたる折をも用ふ。さはいへ猶も花餅いがもちの時代こそ恋しけれ」と結んでいます。さまざまな菓子があふれる現代においても、子どもの頃に親しんだ味は特別な存在として、心に残っているものです。建樹にとっては、花餅や伊賀餅などの素朴な田舎の菓子が、古きよき時代の思い出であり、心の故郷といえるのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
喜田川守貞と柏餅
江戸時代の風俗研究家喜田川守貞(きたがわもりさだ・1810~?)は、江戸時代の風俗を知る上で貴重な『守貞謾稿』(もりさだまんこう・『近世風俗志』とも)を著わした人物です。同書は、守貞が天保8年(1837)から慶応3年(1867)頃までの間に書き留めた、30巻余に及ぶ大著で、明治41年(1908)に刊行されました。時勢、地理、人事、生業、雑業、貨幣、音曲、遊戯、食類などの項目別に、細かな解説が絵図を交えて掲載されており、守貞の博覧強記ぶりに圧倒されます。守貞は大坂生まれで、本姓は石原でした。31才まで同地で過ごしましたが、天保11年に江戸に移って北川家の養子となります(名は庄兵衛とも。喜田川は、北川の借字と解釈される)。北川家は砂糖を扱う商家だったようですが、守貞は持ち前の好奇心からか、風俗考証に興味をもち、諸書にあたっては紙片に記録し、たまったものを冊子にしたと考えられます。 江戸は柏餅、京坂は粽で祝う初節句菓子についても記述は細かく、有平糖・金平糖の作り方や、唐菓子(とうがし)・羊羹類の名を記した古文献の引用、年中行事や江戸名物に関わる菓子の言及など、古今の事情に精通した、守貞の視野の広さを感じさせます。どの項目にもいえることですが、江戸と京坂(京都・大坂)との風俗の違いが述べられている点も興味深いもの。朧饅頭(皮をむいた饅頭)は、江戸では珍しいが、京坂では仏事などに使うこと、江戸の月見団子は丸く、京坂では小芋形であるなど、今に通じる記述が見られます。また、端午の初節句の場合、江戸では親族などに柏餅を贈るが、京坂では粽を使うとのこと(2年目からは柏餅)。大坂と江戸という守貞自身の東西の生活体験に基づくものでしょう。柏餅についてはさらに、三都とも米の粉をねって円形、扁平とし、二つ折にして餡をはさむが、柏の葉が小さい場合は二枚の葉で合わせることも見えます。また、江戸には味噌餡(砂糖入味噌)もあり、小豆餡は葉の表、味噌餡は葉の裏を出した由。具体的な描写から、当時の人々が好みの柏餅をほおばる場面なども想像でき、ほほえましく感じられます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献宇佐美英機校訂『近世風俗志』全5巻 岩波文庫 1996~2002年朝倉治彦・柏川修一校訂編集『守貞謾稿』全5巻 東京堂出版 1992年
喜田川守貞と柏餅
江戸時代の風俗研究家喜田川守貞(きたがわもりさだ・1810~?)は、江戸時代の風俗を知る上で貴重な『守貞謾稿』(もりさだまんこう・『近世風俗志』とも)を著わした人物です。同書は、守貞が天保8年(1837)から慶応3年(1867)頃までの間に書き留めた、30巻余に及ぶ大著で、明治41年(1908)に刊行されました。時勢、地理、人事、生業、雑業、貨幣、音曲、遊戯、食類などの項目別に、細かな解説が絵図を交えて掲載されており、守貞の博覧強記ぶりに圧倒されます。守貞は大坂生まれで、本姓は石原でした。31才まで同地で過ごしましたが、天保11年に江戸に移って北川家の養子となります(名は庄兵衛とも。喜田川は、北川の借字と解釈される)。北川家は砂糖を扱う商家だったようですが、守貞は持ち前の好奇心からか、風俗考証に興味をもち、諸書にあたっては紙片に記録し、たまったものを冊子にしたと考えられます。 江戸は柏餅、京坂は粽で祝う初節句菓子についても記述は細かく、有平糖・金平糖の作り方や、唐菓子(とうがし)・羊羹類の名を記した古文献の引用、年中行事や江戸名物に関わる菓子の言及など、古今の事情に精通した、守貞の視野の広さを感じさせます。どの項目にもいえることですが、江戸と京坂(京都・大坂)との風俗の違いが述べられている点も興味深いもの。朧饅頭(皮をむいた饅頭)は、江戸では珍しいが、京坂では仏事などに使うこと、江戸の月見団子は丸く、京坂では小芋形であるなど、今に通じる記述が見られます。また、端午の初節句の場合、江戸では親族などに柏餅を贈るが、京坂では粽を使うとのこと(2年目からは柏餅)。大坂と江戸という守貞自身の東西の生活体験に基づくものでしょう。柏餅についてはさらに、三都とも米の粉をねって円形、扁平とし、二つ折にして餡をはさむが、柏の葉が小さい場合は二枚の葉で合わせることも見えます。また、江戸には味噌餡(砂糖入味噌)もあり、小豆餡は葉の表、味噌餡は葉の裏を出した由。具体的な描写から、当時の人々が好みの柏餅をほおばる場面なども想像でき、ほほえましく感じられます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献宇佐美英機校訂『近世風俗志』全5巻 岩波文庫 1996~2002年朝倉治彦・柏川修一校訂編集『守貞謾稿』全5巻 東京堂出版 1992年
松永耳庵とお手製の菓子
電力の鬼 耳庵(じあん)電力王、電力の鬼と呼ばれた松永安左エ門(やすざえもん・1875~1971)は、情熱的、豪放磊落な性格の持ち主で、晩年に至るまで電力事業に一身を捧げた人でした。彼は実業家としての顔だけではなく、耳庵の名で益田鈍翁(どんのう)、原三溪(さんけい)とともに「近代三大茶人」のひとりとしても知られています。耳庵の名は、60歳からお茶を始めたことから論語の「六十而耳従」にちなんだものです。彼は短期間のうちに鈍翁、三溪から茶の湯の本質、精神を学び、流儀のお茶を超えた、独自のお茶を実践しました。戦争色が強くなり、彼の電力会社が国家管理となると、実業界から潔く身を引きます。戦後、公人として復帰するまで、所沢近郊の柳瀬山荘にこもって、自ら茶の古典を学び、茶三昧の生活を送ります。とはいっても点前は無手勝流。茶会のたびに点前が変わることから「耳庵流か」と揶揄されると、すかさず「毎日点前が変わるから毎日流だ」とやり返していたそうです。背広姿であぐらをかいて、新聞紙の上にアルマイトのやかんを載せ、絵唐津の茶碗でお茶を点てている自由さ溢れる写真は有名です。 お手製の菓子彼は抹茶にあう菓子について「甘すぎないように、あと口が悪くなく、少し時が立つと飲み物が欲しい気になり…」と書いています。実際に彼の茶会記から菓子を探してみると、甘みなどが自分で調整できたからでしょうか、手製の饅頭、栗饅頭、葛餅などの記述が見られます。また、知人の茶会記の引用箇所を探してみても、菓子屋の菓子ではなく、バナナ甘煮、百合根つぶし杏ジャム入などの手製の菓子を書き留めています。戦後すぐのことですが、耳庵は柳瀬山荘近くの小川で、地元平林寺の典座老僧が、じゃが芋を皮付きのまま摺り潰し、水に晒しているところに出会います。この老僧より芋のでんぷんの作り方を習った耳庵は「男手でも容易に出来ることを知って以来、蕨粉、吉野葛と贅沢言わずにお菓子の材料に不自由しない」と言っています。残念ながら実際にどのような菓子に仕立てたのか、具体的な記述は残っていません。そこで今回は、じゃが芋でんぷんを鍋で煉って、素朴なお菓子を再現してみました。弾力のあるプリッとした触感。皆さんも是非、お試し下さい。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『松永安左エ門著作集』第5巻 五月書房 1983年『耳庵松永安左エ門』上・下巻 白崎 秀雄 新潮社 1990年『芸術新潮』―特集:最後の大茶人 松永耳庵 荒ぶる侘び 新潮社 2002年
松永耳庵とお手製の菓子
電力の鬼 耳庵(じあん)電力王、電力の鬼と呼ばれた松永安左エ門(やすざえもん・1875~1971)は、情熱的、豪放磊落な性格の持ち主で、晩年に至るまで電力事業に一身を捧げた人でした。彼は実業家としての顔だけではなく、耳庵の名で益田鈍翁(どんのう)、原三溪(さんけい)とともに「近代三大茶人」のひとりとしても知られています。耳庵の名は、60歳からお茶を始めたことから論語の「六十而耳従」にちなんだものです。彼は短期間のうちに鈍翁、三溪から茶の湯の本質、精神を学び、流儀のお茶を超えた、独自のお茶を実践しました。戦争色が強くなり、彼の電力会社が国家管理となると、実業界から潔く身を引きます。戦後、公人として復帰するまで、所沢近郊の柳瀬山荘にこもって、自ら茶の古典を学び、茶三昧の生活を送ります。とはいっても点前は無手勝流。茶会のたびに点前が変わることから「耳庵流か」と揶揄されると、すかさず「毎日点前が変わるから毎日流だ」とやり返していたそうです。背広姿であぐらをかいて、新聞紙の上にアルマイトのやかんを載せ、絵唐津の茶碗でお茶を点てている自由さ溢れる写真は有名です。 お手製の菓子彼は抹茶にあう菓子について「甘すぎないように、あと口が悪くなく、少し時が立つと飲み物が欲しい気になり…」と書いています。実際に彼の茶会記から菓子を探してみると、甘みなどが自分で調整できたからでしょうか、手製の饅頭、栗饅頭、葛餅などの記述が見られます。また、知人の茶会記の引用箇所を探してみても、菓子屋の菓子ではなく、バナナ甘煮、百合根つぶし杏ジャム入などの手製の菓子を書き留めています。戦後すぐのことですが、耳庵は柳瀬山荘近くの小川で、地元平林寺の典座老僧が、じゃが芋を皮付きのまま摺り潰し、水に晒しているところに出会います。この老僧より芋のでんぷんの作り方を習った耳庵は「男手でも容易に出来ることを知って以来、蕨粉、吉野葛と贅沢言わずにお菓子の材料に不自由しない」と言っています。残念ながら実際にどのような菓子に仕立てたのか、具体的な記述は残っていません。そこで今回は、じゃが芋でんぷんを鍋で煉って、素朴なお菓子を再現してみました。弾力のあるプリッとした触感。皆さんも是非、お試し下さい。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『松永安左エ門著作集』第5巻 五月書房 1983年『耳庵松永安左エ門』上・下巻 白崎 秀雄 新潮社 1990年『芸術新潮』―特集:最後の大茶人 松永耳庵 荒ぶる侘び 新潮社 2002年
井原西鶴と日本一の饅頭
俳諧から小説へ井原西鶴(1642~93)は大坂生まれの俳諧師・浮世草子作者。若くして俳諧を学び、一定の時間に1人でできるだけ多くの句を詠む矢数俳諧に秀でました。貞享元年(1684)、一昼夜で23500句を詠んだ、摂津住吉神社(大阪府)での興行が有名です。天和2年(1682)に41歳で刊行した『好色一代男』が反響を呼び、瞬く間に人気作家となった西鶴は『日本永代蔵』『世間胸算用』『本朝二十不孝』をはじめとする数々の傑作を生み、その作品中に多くの菓子が見られることは、以前にも紹介しています。 二口屋の饅頭は西鶴の好物?!『好色一代男』は主人公世之介の7歳から60歳に至るまでの好色遍歴を、短編をつらねて一代記の形にまとめた作品です。今回は巻8より、56歳の時のエピソードをご紹介しましょう。京都の石清水八幡宮へ厄払いを思い立ち、混雑する日中をさけて、寒月の夜、牛車で出発した世之介を、島原の太夫たちが迎えにきます。暖かな布団や豪華な調度を揃え、名酒・ご馳走を並べた心づくしの接待に感激した世之助が、お礼に用意させたのが金銀の箔を押した「日本一の饅頭」でした。一つ5匁(約19g)のこの饅頭を900個、その夜のうちに作りあげたのが二口屋能登です。二口屋は京都室町今出川角に店を構え、長く御所の御用を勤めた実在の上菓子屋でした。京都の買物案内や評判記などで、菓子屋の筆頭に名前が挙げられているところから、名店であったことがうかがえます。二口屋の饅頭は『諸艶大鑑(しょえんおおかがみ・好色二代男)』にも登場しますから、ひょっとすると西鶴の好物だったのかもしれませんね。なお、二口屋は江戸時代後期になって経営が悪化し、共に長らく御所御用を勤めていた虎屋が経営権を継承しました。その関係で、虎屋には二口屋の絵図帳などの古文書が伝えられています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「好色一代男」(『西鶴集上』日本古典文学大系47 岩波書店 1957年)
井原西鶴と日本一の饅頭
俳諧から小説へ井原西鶴(1642~93)は大坂生まれの俳諧師・浮世草子作者。若くして俳諧を学び、一定の時間に1人でできるだけ多くの句を詠む矢数俳諧に秀でました。貞享元年(1684)、一昼夜で23500句を詠んだ、摂津住吉神社(大阪府)での興行が有名です。天和2年(1682)に41歳で刊行した『好色一代男』が反響を呼び、瞬く間に人気作家となった西鶴は『日本永代蔵』『世間胸算用』『本朝二十不孝』をはじめとする数々の傑作を生み、その作品中に多くの菓子が見られることは、以前にも紹介しています。 二口屋の饅頭は西鶴の好物?!『好色一代男』は主人公世之介の7歳から60歳に至るまでの好色遍歴を、短編をつらねて一代記の形にまとめた作品です。今回は巻8より、56歳の時のエピソードをご紹介しましょう。京都の石清水八幡宮へ厄払いを思い立ち、混雑する日中をさけて、寒月の夜、牛車で出発した世之介を、島原の太夫たちが迎えにきます。暖かな布団や豪華な調度を揃え、名酒・ご馳走を並べた心づくしの接待に感激した世之助が、お礼に用意させたのが金銀の箔を押した「日本一の饅頭」でした。一つ5匁(約19g)のこの饅頭を900個、その夜のうちに作りあげたのが二口屋能登です。二口屋は京都室町今出川角に店を構え、長く御所の御用を勤めた実在の上菓子屋でした。京都の買物案内や評判記などで、菓子屋の筆頭に名前が挙げられているところから、名店であったことがうかがえます。二口屋の饅頭は『諸艶大鑑(しょえんおおかがみ・好色二代男)』にも登場しますから、ひょっとすると西鶴の好物だったのかもしれませんね。なお、二口屋は江戸時代後期になって経営が悪化し、共に長らく御所御用を勤めていた虎屋が経営権を継承しました。その関係で、虎屋には二口屋の絵図帳などの古文書が伝えられています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「好色一代男」(『西鶴集上』日本古典文学大系47 岩波書店 1957年)
伊達政宗と煎餅
『和漢三才図会』より独眼竜伊達政宗(だてまさむね・1567~1636)は、16世紀末の東北地方に一大勢力を築いた戦国武将で、幼い頃に右目を失明したため「独眼竜」の名でも知られています。当代一流の教養人で、千利休に茶の湯の指南を受けたほか、詩歌や書の素養があり、能も好んだといいます。また、強烈な個性から数々の逸話や伝承が生まれ、派手な振る舞いや、粋で洗練されていることを意味する「伊達」の語源になったとの俗説があるほどです。 奥州の騒乱天正18年(1590)、全国統一に王手をかけた豊臣秀吉が関東・奥州(東北地方)へ進出してくると、政宗は苦悩の末、小田原(神奈川県)に参じ、服属します。しかし秀吉が京都へ帰ると、奥州各地で激しい一揆が勃発し、翌年にかけて騒乱状態となりました。政宗は自身の指導役であった浅野長政(あさのながまさ)とともにその鎮圧にあたりますが、あろうことか一揆を裏で操っているとの疑いをかけられてしまいます。長政の勧めに従い、弁明のため京都へ上った政宗は、秀吉に面会し、どうにか疑いを晴らすことができました。 約束の煎餅京都滞在中の天正19年2月25日、奥州に送った書状の中で政宗は、長政のお陰で状況が良くなっていると礼を述べた後、「さてゝゝ約束申候せんべい者(は)、はや参候や、御き(気)にあい申候や、御ゆかしく候、ゝゝゝゝ」と書き添えています。長政から煎餅を手配するよう依頼されたのでしょうか。「約束の煎餅はもう届いたか、気に入ってくれたのか、気になってしようがない」との内容は、竜と称された強面の政宗とは異なる印象です。煎餅は戦国時代の公家の日記や茶会記にもその名が見え、千利休が秀吉を招いた茶会でも出されたといいます(『利休百会記』)。当時の煎餅には不明な点もありますが、江戸時代の初めに京都六条の名物としても知られた煎餅は、へぎ餅(餅を薄く切って乾燥させたもの)の類だったとのこと。焼くときにあちこちふくれあがって鬼の顔のようになることから、鬼煎餅とも呼ばれたそうです(『雍州府志』)。また、後の『和漢三才図会』(1712)には小麦粉に糖蜜を加えた生地を、鉄の型に挟んで焼くとの製法が見えます。一口に煎餅といってもいろいろあったはず。長政のために政宗が手配した「約束の煎餅」とはどのようなものだったのでしょうか。気になるところです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『仙台市史 資料編10・11』・小林清治『伊達政宗』吉川弘文館
伊達政宗と煎餅
『和漢三才図会』より独眼竜伊達政宗(だてまさむね・1567~1636)は、16世紀末の東北地方に一大勢力を築いた戦国武将で、幼い頃に右目を失明したため「独眼竜」の名でも知られています。当代一流の教養人で、千利休に茶の湯の指南を受けたほか、詩歌や書の素養があり、能も好んだといいます。また、強烈な個性から数々の逸話や伝承が生まれ、派手な振る舞いや、粋で洗練されていることを意味する「伊達」の語源になったとの俗説があるほどです。 奥州の騒乱天正18年(1590)、全国統一に王手をかけた豊臣秀吉が関東・奥州(東北地方)へ進出してくると、政宗は苦悩の末、小田原(神奈川県)に参じ、服属します。しかし秀吉が京都へ帰ると、奥州各地で激しい一揆が勃発し、翌年にかけて騒乱状態となりました。政宗は自身の指導役であった浅野長政(あさのながまさ)とともにその鎮圧にあたりますが、あろうことか一揆を裏で操っているとの疑いをかけられてしまいます。長政の勧めに従い、弁明のため京都へ上った政宗は、秀吉に面会し、どうにか疑いを晴らすことができました。 約束の煎餅京都滞在中の天正19年2月25日、奥州に送った書状の中で政宗は、長政のお陰で状況が良くなっていると礼を述べた後、「さてゝゝ約束申候せんべい者(は)、はや参候や、御き(気)にあい申候や、御ゆかしく候、ゝゝゝゝ」と書き添えています。長政から煎餅を手配するよう依頼されたのでしょうか。「約束の煎餅はもう届いたか、気に入ってくれたのか、気になってしようがない」との内容は、竜と称された強面の政宗とは異なる印象です。煎餅は戦国時代の公家の日記や茶会記にもその名が見え、千利休が秀吉を招いた茶会でも出されたといいます(『利休百会記』)。当時の煎餅には不明な点もありますが、江戸時代の初めに京都六条の名物としても知られた煎餅は、へぎ餅(餅を薄く切って乾燥させたもの)の類だったとのこと。焼くときにあちこちふくれあがって鬼の顔のようになることから、鬼煎餅とも呼ばれたそうです(『雍州府志』)。また、後の『和漢三才図会』(1712)には小麦粉に糖蜜を加えた生地を、鉄の型に挟んで焼くとの製法が見えます。一口に煎餅といってもいろいろあったはず。長政のために政宗が手配した「約束の煎餅」とはどのようなものだったのでしょうか。気になるところです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『仙台市史 資料編10・11』・小林清治『伊達政宗』吉川弘文館