虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
樋口一葉と雪の日の汁粉
汁粉早世の女流作家樋口一葉(1872~1896)は、戦後はじめて紙幣の肖像になった女性として大きな話題となりました。東京に生まれ、14歳で中島歌子の主催する歌塾「萩の舎」(はぎのや)に入門、古典の教養を身につけました。父が早くに病死、戸主として一家を支えるため、文筆活動をはじめます。しかし、作品は思うような収入につながらず、下谷龍泉寺町(現・台東区)に転居、子ども相手の駄菓子、おもちゃを並べた荒物店を開きます。この経験は、吉原を舞台に下町の子どもたちの日々を描いた『たけくらべ』に生かされました。明治27年(1894)に『大つごもり』を発表、肺結核により24歳の若さで没するまでのわずか14ヶ月間に『にごりえ』、『十三夜』などの傑作を次々に発表しました。 雪の日のできごと明治24年、小説を書きはじめた一葉は、東京朝日新聞の記者で小説家の半井桃水(なからいとうすい)を紹介されます。桃水は長身の好男子だったようで、一葉は初対面の印象を「色いと白く面おだやかに少し笑み給えるさま、誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ」と日記に記し、ほのかな想いを寄せていたといわれます。翌年の2月4日、桃水に執筆の手ほどきを受けていた一葉は、寒空のもと、みぞれまじりの雨が降るのも厭わず桃水の家へ向かいます。ところが、主は前日の帰宅が遅かったため、寝ている様子。一葉は風の入る寒い玄関先で2時間近くも目覚めを待ち、やっと起きてきた桃水に、何故起こしてくれなかったのか、あまりに遠慮が過ぎると大笑いされます。桃水は、友人らと創刊する雑誌のことなどを語り、やがて、隣家から鍋を借てくると、雪でなければ、盛大にご馳走するつもりだったのだが、と断りながら、汁粉を作りはじめます。そして、「めしたまえ、盆はあれど奥に仕舞込みて出すに遠し。箸もこれにて失礼ながら」と餅を焼いた箸を添えて出すのでした。女所帯に暮らす一葉に、こうした桃水の飾らない人柄は新鮮に写ったのではないでしょうか。この雪の日のことは会話の内容まで細かく日記に記されており、苦労の絶えない人生のなかで、特筆すべき、心躍るできごとだったことをうかがわせます。寒い雪の日、手製の素朴な汁粉も、一葉にとっては、心も体も温まる最上のご馳走だったことでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『樋口一葉 ちくま日本文学全集』(筑摩書房 1992年)
樋口一葉と雪の日の汁粉
汁粉早世の女流作家樋口一葉(1872~1896)は、戦後はじめて紙幣の肖像になった女性として大きな話題となりました。東京に生まれ、14歳で中島歌子の主催する歌塾「萩の舎」(はぎのや)に入門、古典の教養を身につけました。父が早くに病死、戸主として一家を支えるため、文筆活動をはじめます。しかし、作品は思うような収入につながらず、下谷龍泉寺町(現・台東区)に転居、子ども相手の駄菓子、おもちゃを並べた荒物店を開きます。この経験は、吉原を舞台に下町の子どもたちの日々を描いた『たけくらべ』に生かされました。明治27年(1894)に『大つごもり』を発表、肺結核により24歳の若さで没するまでのわずか14ヶ月間に『にごりえ』、『十三夜』などの傑作を次々に発表しました。 雪の日のできごと明治24年、小説を書きはじめた一葉は、東京朝日新聞の記者で小説家の半井桃水(なからいとうすい)を紹介されます。桃水は長身の好男子だったようで、一葉は初対面の印象を「色いと白く面おだやかに少し笑み給えるさま、誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ」と日記に記し、ほのかな想いを寄せていたといわれます。翌年の2月4日、桃水に執筆の手ほどきを受けていた一葉は、寒空のもと、みぞれまじりの雨が降るのも厭わず桃水の家へ向かいます。ところが、主は前日の帰宅が遅かったため、寝ている様子。一葉は風の入る寒い玄関先で2時間近くも目覚めを待ち、やっと起きてきた桃水に、何故起こしてくれなかったのか、あまりに遠慮が過ぎると大笑いされます。桃水は、友人らと創刊する雑誌のことなどを語り、やがて、隣家から鍋を借てくると、雪でなければ、盛大にご馳走するつもりだったのだが、と断りながら、汁粉を作りはじめます。そして、「めしたまえ、盆はあれど奥に仕舞込みて出すに遠し。箸もこれにて失礼ながら」と餅を焼いた箸を添えて出すのでした。女所帯に暮らす一葉に、こうした桃水の飾らない人柄は新鮮に写ったのではないでしょうか。この雪の日のことは会話の内容まで細かく日記に記されており、苦労の絶えない人生のなかで、特筆すべき、心躍るできごとだったことをうかがわせます。寒い雪の日、手製の素朴な汁粉も、一葉にとっては、心も体も温まる最上のご馳走だったことでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『樋口一葉 ちくま日本文学全集』(筑摩書房 1992年)
喜多村信節とどら焼・金つば
『夜半の月(よわのつき)』…パリ店限定の虎屋のどら焼と江戸時代の金つば風俗研究で知られる国学者喜多村信節(きたむらのぶよ・1783~1856)は江戸時代後期の国学者です。江戸町年寄の次男として生まれ、学問の道に進み、考証を専門として、多くの著述を残しました。江戸を中心に、民間の風俗、伝承の記録考証に努めたことで知られ、付録も含めて13巻に及ぶ大作『嬉遊笑覧』(きゆうしょうらん・1830自序)は、以前ご紹介した『守貞謾稿』(もりさだまんこう)と並び、江戸時代の風俗研究には必読の書とされます。『嬉遊笑覧』を著わすにあたって、信節は和漢の書から、生活風俗に関わることを抄録、服飾・祭祀・音曲・言語など28項目に分類し、考証や自説を加えています。飲食は巻10にあり、菓子についても煉羊羹は、寛政(1789~1801)の頃、「紅粉や志津磨」(べにこやしづま)が初めて作ったこと、「はらぶと餅」(腹太餅)は「大福餅」ともいったことなど、興味深い記述が少なくありません。 どら焼と金つば現在、どら焼と金つばは、素材も味も全く違う菓子ですが、かつては同じものだったこともわかります。「今のどら焼は又金鐔やきともいふ」「どらとは形金鼓(ゴング)に似たる故鉦(ドラ)と名づけしは形大きなるをいひしが、今は形小くなりて、金鐔と呼なり」がその記述の部分。「どら」は楽器の鉦(銅鑼)に由来し、形が大きいものをどら焼、小さいものを金つばと呼ぶようになったそうです。今日、金つばは、四角くした餡の六面に小麦粉生地をつけて焼いたものが主流です。しかし、江戸時代は餡を小麦粉生地で包み、焼いたもので、刀の鐔の形に似せ、丸形でした。こうした金つばがどら焼きとも呼ばれていたことを考えると、なんだか不思議な気がしませんか?信節の考証学の視点が身近な菓子にも注がれたからこそ、由来や変遷を知ることができるともいえるでしょう。ちなみに、卵を入れた生地を焼いて餡をはさむどら焼が広まるのは、明治時代以降と考えられます。作り方に変化があったとはいえ、今なおどら焼・金つばが不動の人気を保っていることを知ったら、信節は驚くかもしれませんね。 ※ なおどら焼には、「銅鑼で焼いたことにちなむ」など、ほかの説もあります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「嬉遊笑覧」(『日本随筆大成』 別巻第7~10巻 吉川弘文館 1979年)
喜多村信節とどら焼・金つば
『夜半の月(よわのつき)』…パリ店限定の虎屋のどら焼と江戸時代の金つば風俗研究で知られる国学者喜多村信節(きたむらのぶよ・1783~1856)は江戸時代後期の国学者です。江戸町年寄の次男として生まれ、学問の道に進み、考証を専門として、多くの著述を残しました。江戸を中心に、民間の風俗、伝承の記録考証に努めたことで知られ、付録も含めて13巻に及ぶ大作『嬉遊笑覧』(きゆうしょうらん・1830自序)は、以前ご紹介した『守貞謾稿』(もりさだまんこう)と並び、江戸時代の風俗研究には必読の書とされます。『嬉遊笑覧』を著わすにあたって、信節は和漢の書から、生活風俗に関わることを抄録、服飾・祭祀・音曲・言語など28項目に分類し、考証や自説を加えています。飲食は巻10にあり、菓子についても煉羊羹は、寛政(1789~1801)の頃、「紅粉や志津磨」(べにこやしづま)が初めて作ったこと、「はらぶと餅」(腹太餅)は「大福餅」ともいったことなど、興味深い記述が少なくありません。 どら焼と金つば現在、どら焼と金つばは、素材も味も全く違う菓子ですが、かつては同じものだったこともわかります。「今のどら焼は又金鐔やきともいふ」「どらとは形金鼓(ゴング)に似たる故鉦(ドラ)と名づけしは形大きなるをいひしが、今は形小くなりて、金鐔と呼なり」がその記述の部分。「どら」は楽器の鉦(銅鑼)に由来し、形が大きいものをどら焼、小さいものを金つばと呼ぶようになったそうです。今日、金つばは、四角くした餡の六面に小麦粉生地をつけて焼いたものが主流です。しかし、江戸時代は餡を小麦粉生地で包み、焼いたもので、刀の鐔の形に似せ、丸形でした。こうした金つばがどら焼きとも呼ばれていたことを考えると、なんだか不思議な気がしませんか?信節の考証学の視点が身近な菓子にも注がれたからこそ、由来や変遷を知ることができるともいえるでしょう。ちなみに、卵を入れた生地を焼いて餡をはさむどら焼が広まるのは、明治時代以降と考えられます。作り方に変化があったとはいえ、今なおどら焼・金つばが不動の人気を保っていることを知ったら、信節は驚くかもしれませんね。 ※ なおどら焼には、「銅鑼で焼いたことにちなむ」など、ほかの説もあります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「嬉遊笑覧」(『日本随筆大成』 別巻第7~10巻 吉川弘文館 1979年)
岩原謙庵とこぼれる菓子
謙庵こぼれる菓子茶人 謙庵岩原謙三(1863~1936)は三井物産のロンドン、ニューヨークの支店長を経て、帰国後は重役を勤めた人物です。その後、芝浦製作所(現東芝の前身)の社長、晩年は日本放送協会初代会長に就任し、放送業界の発展に寄与しました。彼は会社の先輩である益田鈍翁(どんのう)の勧めで茶の道に入りました。謙三の名前から謙庵と名乗るようになりますが、拝見中に道具を壊したり、帽子を被ったまま正客に懐石を持ち出したり、席主として挨拶していた時に正客の頭に狆が飛びついたりと、珍事を起こすことから、別名、粗忽(素骨)庵、狆(珍、椿)庵などと仲間から揶揄されていました。また新奇なことをすることでも、話題の尽きない茶人でした。例えば、明治40年(1907)3月、品川御殿山の益田邸内での茶会、第12回大師会でのこと。当然、謙庵と相談尽くのことでしょう、夫人による「米国仕込みのチョコレートの手前」が行われました。「味(あぢわひ)特(こと)に深く、来賓一同の喝采盛んなり…」と非常に好評でした。このチョコレートとはココアのこと。抹茶ならぬココアを熱湯でよく練って牛乳でのばすさまは、濃茶を練り、湯を差して硬さを調整するさまに似ています。 こぼれる菓子明治44年(1911)10月、茶人野崎幻庵に「奇抜なる茶会」といわれた会が催されます。懐石には向付に花かつおが使われた以外、動物性のものはなく、首尾一貫した精進物。この当時の懐石の多くは、贅を尽くした山海の珍味を集めたもので、精進物といえば、年忌法要などの不祝儀、寺院での食事を連想しました。ですから、名残の秋の風情を楽しみながら、健康に良い素材に手をかけて作る鈍翁の長寿法に倣った菜食派の趣向は極めて異例だったのです。菓子は時候の素材を活かし、小栗3個をもろこし餡で包んで、黄粉をふりかけた、夫人手製の素朴ものだったようです。ところが「頗(すこぶ)る珍菓也」とあるように、食べてみると「正客鈍翁を始め一同謂い合せたるが如く、ボロボロと口より栗を喰ひ溢(こぼ)したる…」というもの。恐らく席中の一同、互いの有様を見て、笑みをこぼしたに違いありません。茶事では食べにくい菓子は避けるものですが、茶目っ気のある亭主の謙庵、慌てる客たちの姿を見るために仕組んだ悪戯だったのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献野崎幻庵 『茶会漫録』第一集、第三集 中外新報社 1912年高橋箒庵 『昭和茶道記』二 淡交社 2002年
岩原謙庵とこぼれる菓子
謙庵こぼれる菓子茶人 謙庵岩原謙三(1863~1936)は三井物産のロンドン、ニューヨークの支店長を経て、帰国後は重役を勤めた人物です。その後、芝浦製作所(現東芝の前身)の社長、晩年は日本放送協会初代会長に就任し、放送業界の発展に寄与しました。彼は会社の先輩である益田鈍翁(どんのう)の勧めで茶の道に入りました。謙三の名前から謙庵と名乗るようになりますが、拝見中に道具を壊したり、帽子を被ったまま正客に懐石を持ち出したり、席主として挨拶していた時に正客の頭に狆が飛びついたりと、珍事を起こすことから、別名、粗忽(素骨)庵、狆(珍、椿)庵などと仲間から揶揄されていました。また新奇なことをすることでも、話題の尽きない茶人でした。例えば、明治40年(1907)3月、品川御殿山の益田邸内での茶会、第12回大師会でのこと。当然、謙庵と相談尽くのことでしょう、夫人による「米国仕込みのチョコレートの手前」が行われました。「味(あぢわひ)特(こと)に深く、来賓一同の喝采盛んなり…」と非常に好評でした。このチョコレートとはココアのこと。抹茶ならぬココアを熱湯でよく練って牛乳でのばすさまは、濃茶を練り、湯を差して硬さを調整するさまに似ています。 こぼれる菓子明治44年(1911)10月、茶人野崎幻庵に「奇抜なる茶会」といわれた会が催されます。懐石には向付に花かつおが使われた以外、動物性のものはなく、首尾一貫した精進物。この当時の懐石の多くは、贅を尽くした山海の珍味を集めたもので、精進物といえば、年忌法要などの不祝儀、寺院での食事を連想しました。ですから、名残の秋の風情を楽しみながら、健康に良い素材に手をかけて作る鈍翁の長寿法に倣った菜食派の趣向は極めて異例だったのです。菓子は時候の素材を活かし、小栗3個をもろこし餡で包んで、黄粉をふりかけた、夫人手製の素朴ものだったようです。ところが「頗(すこぶ)る珍菓也」とあるように、食べてみると「正客鈍翁を始め一同謂い合せたるが如く、ボロボロと口より栗を喰ひ溢(こぼ)したる…」というもの。恐らく席中の一同、互いの有様を見て、笑みをこぼしたに違いありません。茶事では食べにくい菓子は避けるものですが、茶目っ気のある亭主の謙庵、慌てる客たちの姿を見るために仕組んだ悪戯だったのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献野崎幻庵 『茶会漫録』第一集、第三集 中外新報社 1912年高橋箒庵 『昭和茶道記』二 淡交社 2002年
モースと文字焼
文字焼大森貝塚の発見で名高いエドワード・モース(1838~1925)については、以前にもとりあげました。明治初期に来日した際のことを記した『日本その日その日』(平凡社東洋文庫)の中から、今回は文字焼(もじやき)をご紹介いたしましょう。 「文字焼」というお菓子文字焼はどんどん焼、ぼったら焼などとも呼ばれ、鉄板の上に小麦粉などの生地で字や絵を書いて焼き上げる、江戸時代から見られるお菓子です。「杓子(しゃくし)程筆では書けぬ文字焼屋」などの川柳があるように、飴細工や新粉細工同様、その技術力はなかなかのものだったようです。明治時代には神田に、まるで写生画のような文字焼を焼く女性名人がいた、などの記録も残っています。一方、駄菓子屋の店先などでは、客である子ども達に焼かせることが多かったようです。 モースの記録モースが記録しているのは、寺へ通じる道の途中に立った屋台の文字焼屋です(同書では「戸外パン焼場」となっていますが)。子どもたちはコップに入った、米の粉(あるいは小麦粉)、鶏卵、砂糖を混ぜた生地を買って、巨大な傘の下に置かれた「ストーブ」で、それを焼くのです。ブリキのさじを使い「少しずつストーブの上にひろげて料理し、出来上ると掻き取って自分が食べたり、小さな友人達にやったり、背中にくっついている赤坊に食わせたり」するのはどんなに楽しかったことでしょう。 東洋も西洋もモースは、自国での経験を振り返り、「薑(しょうが)パンかお菓子をつくった後の容器から、ナイフで生麪(なまこ)の幾滴かをすくい出し、それを熱いストーヴの上に押しつけて、小さなお菓子をつくることの愉快さを思い出す人は、これ等の日本人の子供達のよろこびようを心から理解することが出来るであろう」と書いています。子どもとお菓子との関わりが、国や時代を問わないことが感じられます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
モースと文字焼
文字焼大森貝塚の発見で名高いエドワード・モース(1838~1925)については、以前にもとりあげました。明治初期に来日した際のことを記した『日本その日その日』(平凡社東洋文庫)の中から、今回は文字焼(もじやき)をご紹介いたしましょう。 「文字焼」というお菓子文字焼はどんどん焼、ぼったら焼などとも呼ばれ、鉄板の上に小麦粉などの生地で字や絵を書いて焼き上げる、江戸時代から見られるお菓子です。「杓子(しゃくし)程筆では書けぬ文字焼屋」などの川柳があるように、飴細工や新粉細工同様、その技術力はなかなかのものだったようです。明治時代には神田に、まるで写生画のような文字焼を焼く女性名人がいた、などの記録も残っています。一方、駄菓子屋の店先などでは、客である子ども達に焼かせることが多かったようです。 モースの記録モースが記録しているのは、寺へ通じる道の途中に立った屋台の文字焼屋です(同書では「戸外パン焼場」となっていますが)。子どもたちはコップに入った、米の粉(あるいは小麦粉)、鶏卵、砂糖を混ぜた生地を買って、巨大な傘の下に置かれた「ストーブ」で、それを焼くのです。ブリキのさじを使い「少しずつストーブの上にひろげて料理し、出来上ると掻き取って自分が食べたり、小さな友人達にやったり、背中にくっついている赤坊に食わせたり」するのはどんなに楽しかったことでしょう。 東洋も西洋もモースは、自国での経験を振り返り、「薑(しょうが)パンかお菓子をつくった後の容器から、ナイフで生麪(なまこ)の幾滴かをすくい出し、それを熱いストーヴの上に押しつけて、小さなお菓子をつくることの愉快さを思い出す人は、これ等の日本人の子供達のよろこびようを心から理解することが出来るであろう」と書いています。子どもとお菓子との関わりが、国や時代を問わないことが感じられます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
高杉晋作と「越乃雪」
越乃雪幕末の志士幕末の倒幕運動に身を投じた志士として、坂本龍馬に勝るとも劣らない人気を誇る高杉晋作(たかすぎしんさく・1839~67)。長州藩士として萩(山口県)に生まれ、農民など庶民が参加した軍隊、奇兵隊の創設者として知られます。また、4度の脱藩を繰り返し、破天荒な行動が目立つ一方、戦場にも携帯用の三味線を持って行くなど、洒脱な一面もありました。対幕府戦争の最中、肺の病に冒され、下関に戻り静養中。惜しくも慶応3年(1867)4月14日、明治の世を目前に、29歳でこの世を去りました。 末期(まつご)の雪見慶応2年7月頃から体調を崩した晋作は、翌年に入るとかなり病状が悪化し、本人も回復の見込みがないことを感じていたようです。奇兵隊の一員として晋作の薫陶を受けた三浦梧楼(みうらごろう)は、臨終の10日程前に晋作を見舞った際のことを以下のように回想しています。 其中フト傍(かたわら)を見ると、小さい松の盆栽があつて、其の上に何か白いものを一パイ振りかけてあるから、これは何んですかと聞くと、イヤ俺はもう今年の雪見は出来ないから、此の間硯海堂が見舞に呉(く)れた「越の雪」を松にふりかけて、雪見の名残をやつて居る所さと微笑された。(三浦梧楼「天下第一人」『日本及日本人』677号 1916年4月) 「越の雪」というのは、もち米の粉と和三盆糖を固めて作る、長岡(新潟県)の越乃雪のことでしょう。口どけのよい菓子で、少し力を加えれば崩れるので、粉状にして松にかけ、雪に見立てたと考えられます。 長岡銘菓「越乃雪」越乃雪は、安永7年(1778)、当時の長岡藩主牧野忠精(まきのただきよ)が病に臥せった際に考案、献上されたのがはじまりといいます。その後病が治ったことを喜んだ忠精が、「越乃雪」と名づけたとされます。 幕末には江戸や京都、大坂でも知られる銘菓となっていたようです。藩主の病が治ったとの由来を知って、療養中の晋作のため、知人が越乃雪を取り寄せたのかも知れません。しかし、当の本人は覚悟を決めていたのでしょう。菓子で最後の雪見を楽しんだというのは、いかにも洒落者の晋作らしいエピソードといえるでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 写真提供株式会社 越乃雪本舗大和屋
高杉晋作と「越乃雪」
越乃雪幕末の志士幕末の倒幕運動に身を投じた志士として、坂本龍馬に勝るとも劣らない人気を誇る高杉晋作(たかすぎしんさく・1839~67)。長州藩士として萩(山口県)に生まれ、農民など庶民が参加した軍隊、奇兵隊の創設者として知られます。また、4度の脱藩を繰り返し、破天荒な行動が目立つ一方、戦場にも携帯用の三味線を持って行くなど、洒脱な一面もありました。対幕府戦争の最中、肺の病に冒され、下関に戻り静養中。惜しくも慶応3年(1867)4月14日、明治の世を目前に、29歳でこの世を去りました。 末期(まつご)の雪見慶応2年7月頃から体調を崩した晋作は、翌年に入るとかなり病状が悪化し、本人も回復の見込みがないことを感じていたようです。奇兵隊の一員として晋作の薫陶を受けた三浦梧楼(みうらごろう)は、臨終の10日程前に晋作を見舞った際のことを以下のように回想しています。 其中フト傍(かたわら)を見ると、小さい松の盆栽があつて、其の上に何か白いものを一パイ振りかけてあるから、これは何んですかと聞くと、イヤ俺はもう今年の雪見は出来ないから、此の間硯海堂が見舞に呉(く)れた「越の雪」を松にふりかけて、雪見の名残をやつて居る所さと微笑された。(三浦梧楼「天下第一人」『日本及日本人』677号 1916年4月) 「越の雪」というのは、もち米の粉と和三盆糖を固めて作る、長岡(新潟県)の越乃雪のことでしょう。口どけのよい菓子で、少し力を加えれば崩れるので、粉状にして松にかけ、雪に見立てたと考えられます。 長岡銘菓「越乃雪」越乃雪は、安永7年(1778)、当時の長岡藩主牧野忠精(まきのただきよ)が病に臥せった際に考案、献上されたのがはじまりといいます。その後病が治ったことを喜んだ忠精が、「越乃雪」と名づけたとされます。 幕末には江戸や京都、大坂でも知られる銘菓となっていたようです。藩主の病が治ったとの由来を知って、療養中の晋作のため、知人が越乃雪を取り寄せたのかも知れません。しかし、当の本人は覚悟を決めていたのでしょう。菓子で最後の雪見を楽しんだというのは、いかにも洒落者の晋作らしいエピソードといえるでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 写真提供株式会社 越乃雪本舗大和屋
藤原道長と蘇
蘇(再現)藤原氏の全盛期を築く平安時代の貴族、藤原道長(ふじわらのみちなが・966~1027)は、娘たちを天皇に嫁がせることで絶大な権力を握り、摂政(せっしょう)・太政大臣(だじょうだいじん)に上り詰め、藤原氏の全盛期を築きました。また、学問や文芸にも造詣が深く、和歌も多数残しています。 牛乳を使った「蘇(そ)」平安時代、貴族の間では、唐菓子(とうがし)など、中国からもたらされた食べ物がもてはやされました。牛乳を原材料にした「蘇」もその一つ。作り方は諸説ありますが、牛乳を煮詰めて固めたものともいわれます。焦げないよう牛乳を何時間もかけてゆっくり煮詰める作業は大変手間がかかり、わずかな量しかできないため、限られた人々しか口にできませんでした。 宮中の医療をつかさどる典薬寮(てんやくりょう)が乳牛を管理していたため、蘇はもともと薬と見なされていたようです。道長も、51歳で大病を患った時に、蘇と蜜を合わせたとされる「蘇蜜煎」を服用しています。 平安時代のデザート?また、大臣が催す大饗(だいきょう)という饗宴では、甘栗と組み合わせた「蘇甘栗」が宮中から届けられる決まりとなっていました。この使者は「蘇甘栗使」と呼ばれ、饗宴に到着すると丁重にもてなされたといいます。滋養のある蘇と甘い栗の取り合わせは、デザートのように楽しまれていたのかもしれません。 道長は、寛仁元年(1017)、太政大臣の位についた際の大饗で、宮中から蘇甘栗を賜っています。権力の絶頂期にあった道長は蘇をどのような思いで食べたのでしょうか。興味深いところです。 ※2010年7月23日~9月20日開催の、夏の特別企画「和菓子の歴史」展では、「蘇」や「唐菓子」などを再現し、展示をしました。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「小右記」(東京大学史料編纂所編『大日本古記録』岩波書店)
藤原道長と蘇
蘇(再現)藤原氏の全盛期を築く平安時代の貴族、藤原道長(ふじわらのみちなが・966~1027)は、娘たちを天皇に嫁がせることで絶大な権力を握り、摂政(せっしょう)・太政大臣(だじょうだいじん)に上り詰め、藤原氏の全盛期を築きました。また、学問や文芸にも造詣が深く、和歌も多数残しています。 牛乳を使った「蘇(そ)」平安時代、貴族の間では、唐菓子(とうがし)など、中国からもたらされた食べ物がもてはやされました。牛乳を原材料にした「蘇」もその一つ。作り方は諸説ありますが、牛乳を煮詰めて固めたものともいわれます。焦げないよう牛乳を何時間もかけてゆっくり煮詰める作業は大変手間がかかり、わずかな量しかできないため、限られた人々しか口にできませんでした。 宮中の医療をつかさどる典薬寮(てんやくりょう)が乳牛を管理していたため、蘇はもともと薬と見なされていたようです。道長も、51歳で大病を患った時に、蘇と蜜を合わせたとされる「蘇蜜煎」を服用しています。 平安時代のデザート?また、大臣が催す大饗(だいきょう)という饗宴では、甘栗と組み合わせた「蘇甘栗」が宮中から届けられる決まりとなっていました。この使者は「蘇甘栗使」と呼ばれ、饗宴に到着すると丁重にもてなされたといいます。滋養のある蘇と甘い栗の取り合わせは、デザートのように楽しまれていたのかもしれません。 道長は、寛仁元年(1017)、太政大臣の位についた際の大饗で、宮中から蘇甘栗を賜っています。権力の絶頂期にあった道長は蘇をどのような思いで食べたのでしょうか。興味深いところです。 ※2010年7月23日~9月20日開催の、夏の特別企画「和菓子の歴史」展では、「蘇」や「唐菓子」などを再現し、展示をしました。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「小右記」(東京大学史料編纂所編『大日本古記録』岩波書店)