虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
鶯亭金升と京鹿の子
虎屋の『京鹿の子』 大正7年「数物御菓子見本帳」 (虎屋黒川家文書)より移りゆく東京に生きた粋人鶯亭金升(おうていきんしょう・1868~1954)が生まれたのは、江戸時代が終焉を迎えた慶応4年のこと。明治時代から戦前にかけては雑誌や新聞の記者をつとめ、近代の出版文化発展に貢献しました。また、落語や都々逸(どどいつ)、狂歌、小唄の作者としても名を知られた粋人です。江戸から東京への移行、関東大震災、第二次世界大戦、そして戦後という世の中の変化を見つめ続け、晩年は時代の生き証人として、明治~大正時代の東京の風俗や人情を好んで書き残しました。 京鹿の子といえば……随筆集『明治のおもかげ』には、浦賀奉行もつとめた父が、幕末に渡米した旗本の小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)から土産にもらった道具でワッフルを焼き、江戸城に持参したところ、大名や旗本にも大好評だった話など、菓子に関する話題が多く見られます。金升自身、大の甘党を自認しており、その証明ともいえるのが、東京・京橋にあった「やまと新聞社」で若手記者として活躍していた明治30年代頃の逸話です。同僚には、日本の推理小説の嚆矢ともいわれる時代小説『半七捕物帳』をのちに書くことになる、岡本綺堂(おかもときどう)がおり、2人はなんと家が隣同士、会社でも洒落を飛ばしあう仲でした。ある日、お昼におむすびを食べていた金升は、おやつに持ってきた「京鹿の子」も食べたくなりました。「京鹿の子」とは、餡玉のまわりに蜜煮にした白いんげん豆をつけた菓子で、餡玉は、同名の絞り染めを思わせる紅色のものが多かったようです。おむすびと菓子を左右の手に持ち、交互に口に運ぶ金升を見て、「お結びと鹿の子を喰い分ける人は珍しいナ」と綺堂が驚くと、金升はすかさず「京鹿の子むすび道成寺、とはどうです」といい、大笑いになったとか。即座に歌舞伎舞踊の名作「京鹿子娘道成寺」をもじった駄洒落で切り返すとはさすがです。当時の新聞は読み物や娯楽の要素が強く、記者も戯作や諸芸に通じた人が多かったといい、こんな洒落たやりとりもしばしばあったのかもしれません。とはいえ、塩の効いたおむすびと甘い菓子を一緒に食べるのはどんな感じでしょう。綺堂は甘いものはあまり好まず、「汁粉を見るといやな感じがします」というぐらいだったそうですから、菓子を頬張る金升に、ぎょっとしたことでしょう。対する金升は、そんな反応を密かに期待し、楽しんでいたのではないかと想像してしまいます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『明治のおもかげ』岩波書店 2013年
鶯亭金升と京鹿の子
虎屋の『京鹿の子』 大正7年「数物御菓子見本帳」 (虎屋黒川家文書)より移りゆく東京に生きた粋人鶯亭金升(おうていきんしょう・1868~1954)が生まれたのは、江戸時代が終焉を迎えた慶応4年のこと。明治時代から戦前にかけては雑誌や新聞の記者をつとめ、近代の出版文化発展に貢献しました。また、落語や都々逸(どどいつ)、狂歌、小唄の作者としても名を知られた粋人です。江戸から東京への移行、関東大震災、第二次世界大戦、そして戦後という世の中の変化を見つめ続け、晩年は時代の生き証人として、明治~大正時代の東京の風俗や人情を好んで書き残しました。 京鹿の子といえば……随筆集『明治のおもかげ』には、浦賀奉行もつとめた父が、幕末に渡米した旗本の小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)から土産にもらった道具でワッフルを焼き、江戸城に持参したところ、大名や旗本にも大好評だった話など、菓子に関する話題が多く見られます。金升自身、大の甘党を自認しており、その証明ともいえるのが、東京・京橋にあった「やまと新聞社」で若手記者として活躍していた明治30年代頃の逸話です。同僚には、日本の推理小説の嚆矢ともいわれる時代小説『半七捕物帳』をのちに書くことになる、岡本綺堂(おかもときどう)がおり、2人はなんと家が隣同士、会社でも洒落を飛ばしあう仲でした。ある日、お昼におむすびを食べていた金升は、おやつに持ってきた「京鹿の子」も食べたくなりました。「京鹿の子」とは、餡玉のまわりに蜜煮にした白いんげん豆をつけた菓子で、餡玉は、同名の絞り染めを思わせる紅色のものが多かったようです。おむすびと菓子を左右の手に持ち、交互に口に運ぶ金升を見て、「お結びと鹿の子を喰い分ける人は珍しいナ」と綺堂が驚くと、金升はすかさず「京鹿の子むすび道成寺、とはどうです」といい、大笑いになったとか。即座に歌舞伎舞踊の名作「京鹿子娘道成寺」をもじった駄洒落で切り返すとはさすがです。当時の新聞は読み物や娯楽の要素が強く、記者も戯作や諸芸に通じた人が多かったといい、こんな洒落たやりとりもしばしばあったのかもしれません。とはいえ、塩の効いたおむすびと甘い菓子を一緒に食べるのはどんな感じでしょう。綺堂は甘いものはあまり好まず、「汁粉を見るといやな感じがします」というぐらいだったそうですから、菓子を頬張る金升に、ぎょっとしたことでしょう。対する金升は、そんな反応を密かに期待し、楽しんでいたのではないかと想像してしまいます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『明治のおもかげ』岩波書店 2013年
長谷川時雨と戸板煎餅
明治初年頃の出来事として、時雨の父、深造が描いた挿絵。落ちぶれた士族が道端で謡をうたって、銭を乞うている。家財道具を売ってしのいだ士族もいた。(『旧聞日本橋』岩波文庫、1983年より)日本橋の思い出文芸雑誌『女人藝術(にょにんげいじゅつ)』を主宰して数多くの女流作家を育成し、女性の地位向上にも努めた長谷川時雨(はせがわしぐれ・1879~1941)。脚本家、小説家としても活躍した人物で、特に評価が高いのが、幼い頃の思い出を綴った随筆『旧聞日本橋(きゅうぶんにほんばし)』です。生まれ育った日本橋大伝馬町界隈の人々や身内のことが、のびやかに描かれています。 明治12年生まれの時雨の幼少期といえば、江戸の余韻が残っている頃。「四民平等」が謳われてから10年以上たっているとはいえ、落ちぶれた旗本や没落した豪商など、境遇が変わって、不安定な生活となり、苦闘している人々が大勢いました。このような状況下の菓子に関わるエピソードを、同書からご紹介しましょう。 祖母の商売幕府の瓦解とともに運命が変わった身内の一人に、時雨の母方の祖父、湯川金左衛門がいました。元は江戸詰めの仙台藩士でしたが、維新後は、士族仲間と新事業を企て、何年か家を留守にしたそうです。妻である祖母は生活に困窮し、考えたあげく、戸板(雨戸に使うような板)をもってきて、その上で煎餅を焼いて道端で売り出したとのこと。おそらく、雑穀などを混ぜた生地を焼いた素朴なものでしょう。慣れぬ商売を始めたわけですが、少額の客にも「まあまあ私(あたくし)のをお求め下さいますのですか。それは誠に有難いことでございます。」という調子で、丁寧に手をついて御礼をいった由。その物腰や念のいった焼き方もあってか、繁盛します。 しかし、一日手伝いに来て様子を見ていた姉娘(祖母の長女)夫婦が隣で同様に戸板を使って煎餅を焼き出すと、客引きのうまさもあって、次第に隣の売り上げが増えていくことに。祖母は「お前さん方、もっと此方へお出なすったらよい。どうも私(あたくし)の店がお邪魔なようだ。」といって、元祖戸板煎餅の店を片づけてしまったそうです。「無類の好人物」であったという祖母には張り合う気持ちはなく、あとは娘夫婦にまかせようと思ったのかもしれません。成り行きを見ながら、幼い時雨は、武士の妻だった祖母が煎餅屋を始めようとした心境や、店を譲ったときの気持ちをあれこれと想像したのではないでしょうか。 数多くのエピソードで綴られる『旧聞日本橋』からは、新しい時代の荒波を受けながらも精一杯生きようとする人々の息遣いが聞こえてくるようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献岩橋那枝『評伝 長谷川時雨』 筑摩書房 1993年
長谷川時雨と戸板煎餅
明治初年頃の出来事として、時雨の父、深造が描いた挿絵。落ちぶれた士族が道端で謡をうたって、銭を乞うている。家財道具を売ってしのいだ士族もいた。(『旧聞日本橋』岩波文庫、1983年より)日本橋の思い出文芸雑誌『女人藝術(にょにんげいじゅつ)』を主宰して数多くの女流作家を育成し、女性の地位向上にも努めた長谷川時雨(はせがわしぐれ・1879~1941)。脚本家、小説家としても活躍した人物で、特に評価が高いのが、幼い頃の思い出を綴った随筆『旧聞日本橋(きゅうぶんにほんばし)』です。生まれ育った日本橋大伝馬町界隈の人々や身内のことが、のびやかに描かれています。 明治12年生まれの時雨の幼少期といえば、江戸の余韻が残っている頃。「四民平等」が謳われてから10年以上たっているとはいえ、落ちぶれた旗本や没落した豪商など、境遇が変わって、不安定な生活となり、苦闘している人々が大勢いました。このような状況下の菓子に関わるエピソードを、同書からご紹介しましょう。 祖母の商売幕府の瓦解とともに運命が変わった身内の一人に、時雨の母方の祖父、湯川金左衛門がいました。元は江戸詰めの仙台藩士でしたが、維新後は、士族仲間と新事業を企て、何年か家を留守にしたそうです。妻である祖母は生活に困窮し、考えたあげく、戸板(雨戸に使うような板)をもってきて、その上で煎餅を焼いて道端で売り出したとのこと。おそらく、雑穀などを混ぜた生地を焼いた素朴なものでしょう。慣れぬ商売を始めたわけですが、少額の客にも「まあまあ私(あたくし)のをお求め下さいますのですか。それは誠に有難いことでございます。」という調子で、丁寧に手をついて御礼をいった由。その物腰や念のいった焼き方もあってか、繁盛します。 しかし、一日手伝いに来て様子を見ていた姉娘(祖母の長女)夫婦が隣で同様に戸板を使って煎餅を焼き出すと、客引きのうまさもあって、次第に隣の売り上げが増えていくことに。祖母は「お前さん方、もっと此方へお出なすったらよい。どうも私(あたくし)の店がお邪魔なようだ。」といって、元祖戸板煎餅の店を片づけてしまったそうです。「無類の好人物」であったという祖母には張り合う気持ちはなく、あとは娘夫婦にまかせようと思ったのかもしれません。成り行きを見ながら、幼い時雨は、武士の妻だった祖母が煎餅屋を始めようとした心境や、店を譲ったときの気持ちをあれこれと想像したのではないでしょうか。 数多くのエピソードで綴られる『旧聞日本橋』からは、新しい時代の荒波を受けながらも精一杯生きようとする人々の息遣いが聞こえてくるようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献岩橋那枝『評伝 長谷川時雨』 筑摩書房 1993年
武井武雄と菓子の敷紙
武井武雄 虎屋『御代の春』の敷紙『高杉晋作』(1974.1.19) イルフ童画館(長野県岡谷市)所蔵人気の童画家・武井武雄大正から昭和にかけて活躍した童画家・武井武雄(たけいたけお・1894~1983)。『コドモノクニ』『子供の友』ほか子ども向け雑誌の表紙や挿絵を手掛けたり、文・画とも自作の童話を出版したりと、生涯子どものための絵を描き続けた人物です。可愛らしさと同時にどこか怖さや不気味さを感じさせる武井の作品は、子どもに限らず、多くの大人の心もつかみました。 昭和10年(1935)以降、武井は紙の種類や印刷方法、綴じ方など、一冊ごとに趣向を凝らした「刊本(かんぽん)作品」の制作にも力を入れました。螺鈿(らでん)細工や寄木(よせぎ)細工を施したもの、紙の原料となるパピルスを栽培するところから始め、完成までに4年半をかけたものもあり、139ある作品にはどれも驚くほど手間が掛けられています。限定200~500部、登録会員のみ購入可能でしたが、入会希望者数が定員をはるかに超え、順番待ちのための「我慢会」なるものまであったといいます。 菓子はオリジナルの敷紙にのせて刊本作品の配布会では、有志の会員が菓子を用意する決まりでした。その際、出席者にとって菓子以上に楽しみだったのが、武井オリジナルの敷紙です。凝り性の武井は、日付や配る作品の題名などを事前に多色木版で紙に刷り、それに菓子をのせて出したというのです。綺麗なままコレクションしたかったのでしょう、いそいそと敷紙だけ先にしまう人が多かったとか。菓子を用意した会員は版木をもらえたといいますから、こぞって担当を買って出たのではと思います。昭和49年1月19日の会には虎屋の最中が登場しており、「御代の春」(桜と梅をかたどった紅白の最中)と書かれた敷紙が残っています。菓子選びの条件には、武井の話が聞こえるよう、食べる時に大きな音がしないことが含まれていたというので、なるほど最中は最適だったでしょう。『御代の春』のためだけにデザインされたと思って眺めると、なんだか嬉しくなってきます。 なお、武井は昭和11年から20年間に亘って『日本郷土菓子図譜』※を製作しています。全国各地の170にも上る菓子を、スケッチや商標・ちらしの貼付で記録したもので、しっかり味わってつけられたコメントや、美味しそうに描かれた絵を見ると、本人が菓子好きであったことも間違いないといえそうです。 ※ 機関誌『和菓子』23号には山岸吉郎氏による『日本郷土菓子図譜』に関する論稿を掲載しています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献イルフ童画館監修 別冊太陽『武井武雄の本』平凡社 2014年
武井武雄と菓子の敷紙
武井武雄 虎屋『御代の春』の敷紙『高杉晋作』(1974.1.19) イルフ童画館(長野県岡谷市)所蔵人気の童画家・武井武雄大正から昭和にかけて活躍した童画家・武井武雄(たけいたけお・1894~1983)。『コドモノクニ』『子供の友』ほか子ども向け雑誌の表紙や挿絵を手掛けたり、文・画とも自作の童話を出版したりと、生涯子どものための絵を描き続けた人物です。可愛らしさと同時にどこか怖さや不気味さを感じさせる武井の作品は、子どもに限らず、多くの大人の心もつかみました。 昭和10年(1935)以降、武井は紙の種類や印刷方法、綴じ方など、一冊ごとに趣向を凝らした「刊本(かんぽん)作品」の制作にも力を入れました。螺鈿(らでん)細工や寄木(よせぎ)細工を施したもの、紙の原料となるパピルスを栽培するところから始め、完成までに4年半をかけたものもあり、139ある作品にはどれも驚くほど手間が掛けられています。限定200~500部、登録会員のみ購入可能でしたが、入会希望者数が定員をはるかに超え、順番待ちのための「我慢会」なるものまであったといいます。 菓子はオリジナルの敷紙にのせて刊本作品の配布会では、有志の会員が菓子を用意する決まりでした。その際、出席者にとって菓子以上に楽しみだったのが、武井オリジナルの敷紙です。凝り性の武井は、日付や配る作品の題名などを事前に多色木版で紙に刷り、それに菓子をのせて出したというのです。綺麗なままコレクションしたかったのでしょう、いそいそと敷紙だけ先にしまう人が多かったとか。菓子を用意した会員は版木をもらえたといいますから、こぞって担当を買って出たのではと思います。昭和49年1月19日の会には虎屋の最中が登場しており、「御代の春」(桜と梅をかたどった紅白の最中)と書かれた敷紙が残っています。菓子選びの条件には、武井の話が聞こえるよう、食べる時に大きな音がしないことが含まれていたというので、なるほど最中は最適だったでしょう。『御代の春』のためだけにデザインされたと思って眺めると、なんだか嬉しくなってきます。 なお、武井は昭和11年から20年間に亘って『日本郷土菓子図譜』※を製作しています。全国各地の170にも上る菓子を、スケッチや商標・ちらしの貼付で記録したもので、しっかり味わってつけられたコメントや、美味しそうに描かれた絵を見ると、本人が菓子好きであったことも間違いないといえそうです。 ※ 機関誌『和菓子』23号には山岸吉郎氏による『日本郷土菓子図譜』に関する論稿を掲載しています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献イルフ童画館監修 別冊太陽『武井武雄の本』平凡社 2014年
酒井宗雅と金平糖
金平糖と染付振出茶人宗雅今回の主人公は、江戸琳派の画家として有名な酒井抱一の6歳上の実兄、酒井忠以(さかいただざね・1755~90)です。彼は姫路(兵庫)の15万石の大名で、号を宗雅(そうが)と名乗りました。4歳年長の松江(島根)の藩主松平不昧(ふまい)との出会いがきっかけとなり、茶の湯への関心が高まり、不昧の一番弟子となります。宗雅は惜しくも36歳の若さで亡くなりますが、亡くなる前年までの約3年の茶会の様子を記した「逾好(ゆこう)日記」には、道具組みは勿論のこと献立、菓子なども細かく記録されており、当時の大名茶の実態をうかがい知ることができます。 見附の茶屋での再会天明8年(1788)9月18日、江戸に向かう途中、見附(静岡)入口付近の茶屋で小休止していた不昧一行と、掛川(静岡)からやってきた宗雅一行が出会います。宗雅から面談を申し入れると、不昧も宗雅を待っていたようで、その場で対面となりました。といってもあいにくの大雨。駕籠のまま茶屋へ乗り上げ向かい合い、戸を開けて、師弟ともに久々の歓談を楽しみました。当時の大名行列は少ない時でも200人前後の編成だったこともあり、宿場が混乱しないよう、路上での行き違いをなるべく避けるなどの配慮があったようなので、これは稀な事例であったことがわかります。 駕籠の中での茶会不昧は持参の茶箱※を持ち出し、自分用の茶碗で宗雅のために薄茶を点(た)てました。茶箱内の道具は、全てが小さめに作られているので、駕籠の中でも十分にお茶を点てられます。菓子の記述はありませんが、師の茶がおいしかったのでしょうか、宗雅はもう一服所望しています。続いて不昧より茶箱を持っているかと問われた宗雅は、菓子器の一種、染付の振出(ふりだし)を取り出し、まず勧めます。中には金平糖が入っていました。享保3年(1718)に著された菓子製法書『古今名物御前菓子秘伝抄』の金平糖の記述を見ると、すでに青・黄・紅・白・黒の5色で仕立てるとあり、この時の金平糖も色とりどりだったかもしれません。振出は口が小さく、金平糖のほか、五色豆などの豆菓子を入れる菓子器で、野点(のだて)や不意の時など、鉢、蓋物の菓子器や懐紙の用意がなくても、振ると「掌(てのひら)に何が出てくるか」と気軽に楽しめます。不昧の所望に応えて宗雅は「たっぷりのお茶」を点てます。茶碗の銘や宗雅自作の茶杓など、その後もしばらく話は尽きませんでした。二人が如何に親密な師弟関係にあったかをうかがうことができます。 ※ 茶碗、棗(なつめ)、茶筅(ちゃせん)、茶杓(ちゃしゃく)、振出など、茶を点てるのに必要な携帯用茶道具とそれを収めた箱。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献粟田添星『酒井宗雅茶会記』村松書館 1975年茶道資料館編『姫路藩主酒井宗雅の茶と交遊』 2012年
酒井宗雅と金平糖
金平糖と染付振出茶人宗雅今回の主人公は、江戸琳派の画家として有名な酒井抱一の6歳上の実兄、酒井忠以(さかいただざね・1755~90)です。彼は姫路(兵庫)の15万石の大名で、号を宗雅(そうが)と名乗りました。4歳年長の松江(島根)の藩主松平不昧(ふまい)との出会いがきっかけとなり、茶の湯への関心が高まり、不昧の一番弟子となります。宗雅は惜しくも36歳の若さで亡くなりますが、亡くなる前年までの約3年の茶会の様子を記した「逾好(ゆこう)日記」には、道具組みは勿論のこと献立、菓子なども細かく記録されており、当時の大名茶の実態をうかがい知ることができます。 見附の茶屋での再会天明8年(1788)9月18日、江戸に向かう途中、見附(静岡)入口付近の茶屋で小休止していた不昧一行と、掛川(静岡)からやってきた宗雅一行が出会います。宗雅から面談を申し入れると、不昧も宗雅を待っていたようで、その場で対面となりました。といってもあいにくの大雨。駕籠のまま茶屋へ乗り上げ向かい合い、戸を開けて、師弟ともに久々の歓談を楽しみました。当時の大名行列は少ない時でも200人前後の編成だったこともあり、宿場が混乱しないよう、路上での行き違いをなるべく避けるなどの配慮があったようなので、これは稀な事例であったことがわかります。 駕籠の中での茶会不昧は持参の茶箱※を持ち出し、自分用の茶碗で宗雅のために薄茶を点(た)てました。茶箱内の道具は、全てが小さめに作られているので、駕籠の中でも十分にお茶を点てられます。菓子の記述はありませんが、師の茶がおいしかったのでしょうか、宗雅はもう一服所望しています。続いて不昧より茶箱を持っているかと問われた宗雅は、菓子器の一種、染付の振出(ふりだし)を取り出し、まず勧めます。中には金平糖が入っていました。享保3年(1718)に著された菓子製法書『古今名物御前菓子秘伝抄』の金平糖の記述を見ると、すでに青・黄・紅・白・黒の5色で仕立てるとあり、この時の金平糖も色とりどりだったかもしれません。振出は口が小さく、金平糖のほか、五色豆などの豆菓子を入れる菓子器で、野点(のだて)や不意の時など、鉢、蓋物の菓子器や懐紙の用意がなくても、振ると「掌(てのひら)に何が出てくるか」と気軽に楽しめます。不昧の所望に応えて宗雅は「たっぷりのお茶」を点てます。茶碗の銘や宗雅自作の茶杓など、その後もしばらく話は尽きませんでした。二人が如何に親密な師弟関係にあったかをうかがうことができます。 ※ 茶碗、棗(なつめ)、茶筅(ちゃせん)、茶杓(ちゃしゃく)、振出など、茶を点てるのに必要な携帯用茶道具とそれを収めた箱。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献粟田添星『酒井宗雅茶会記』村松書館 1975年茶道資料館編『姫路藩主酒井宗雅の茶と交遊』 2012年
岩本素白と『菓子の譜』
羊羹の商標ラベル軍医の写生帖明治生まれの国文学者・随筆家の岩本素白(いわもとそはく・1883~1961) 。現在の早稲田大学文学部を卒業、母校で教鞭をとりながら、後に「近代随筆の最高峰」とも呼ばれる作品の数々を発表しました。素白は『菓子の譜』という掌編の中で、少年時代に聞いたという「非常な甘い物好きで、始終胃をわるく」していた海軍の軍医の話をしています。軍艦の寄港先で名物の菓子を求めると、彼は絵の具を使って実物大に写生し、「時と所と菓子の名前と、さうして目方と価と」を記したのだそうです。長い航海の間、その帳面を取り出しては菓子の「美しい色や形を眺め、その味ひを思ひ出して楽しんだ」という軍医の話を面白く思った少年は、長じて、菓子の箱に貼ってある商標ラベルや綺麗な包装紙、「箱の中に添へてある絵画詩歌などを書いた小箋」を集め、「布張りの洒落た菓子折」に入れておくようになりました。 素白の商標コレクション新潟銘菓「越の雪」の商標は「古風な銅版画で、その店舗の様子を写して居るが、その前にある昔の無恰好な黒い四角な郵便箱が面白い」としており、恐らくは小さなものであっただろう商標を、素白がいかに丹念に眺めていたかがうかがえます。「柚餅子のやうな菓子」には富岡鉄斎が描いた洒脱な柚子の絵、「柿羊羹を台にした菓子」には永坂石埭(ながさかせきたい)が柿の絵に詩を添えたものがつけられていました。こうした紙片は、菓子の味わいを深めてくれる存在であったことでしょう。戦争で甘いものの無くなった時代、素白が菓子好きの客人に見せると、客は「御馳走だ」と面白がったそうです。この連載で以前ご紹介した前川千帆の『偲糖帖』も、無くなってしまった菓子を懐かしんで作られたものでした。当時の人々は記憶の中の甘味に心の慰めを見出していたのですね。素白のコレクションは残念ながら戦争で失われ、『菓子の譜』は「港々の思ひ出を伴つて居る」軍医の写生帖の行方に思いを馳せて終わります。戦火を免れて、どこかにひっそりと残っている可能性もあるでしょうか、おびただしい数にのぼったという菓子の絵を、見てみたいものです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『菓子の譜』青空文庫より
岩本素白と『菓子の譜』
羊羹の商標ラベル軍医の写生帖明治生まれの国文学者・随筆家の岩本素白(いわもとそはく・1883~1961) 。現在の早稲田大学文学部を卒業、母校で教鞭をとりながら、後に「近代随筆の最高峰」とも呼ばれる作品の数々を発表しました。素白は『菓子の譜』という掌編の中で、少年時代に聞いたという「非常な甘い物好きで、始終胃をわるく」していた海軍の軍医の話をしています。軍艦の寄港先で名物の菓子を求めると、彼は絵の具を使って実物大に写生し、「時と所と菓子の名前と、さうして目方と価と」を記したのだそうです。長い航海の間、その帳面を取り出しては菓子の「美しい色や形を眺め、その味ひを思ひ出して楽しんだ」という軍医の話を面白く思った少年は、長じて、菓子の箱に貼ってある商標ラベルや綺麗な包装紙、「箱の中に添へてある絵画詩歌などを書いた小箋」を集め、「布張りの洒落た菓子折」に入れておくようになりました。 素白の商標コレクション新潟銘菓「越の雪」の商標は「古風な銅版画で、その店舗の様子を写して居るが、その前にある昔の無恰好な黒い四角な郵便箱が面白い」としており、恐らくは小さなものであっただろう商標を、素白がいかに丹念に眺めていたかがうかがえます。「柚餅子のやうな菓子」には富岡鉄斎が描いた洒脱な柚子の絵、「柿羊羹を台にした菓子」には永坂石埭(ながさかせきたい)が柿の絵に詩を添えたものがつけられていました。こうした紙片は、菓子の味わいを深めてくれる存在であったことでしょう。戦争で甘いものの無くなった時代、素白が菓子好きの客人に見せると、客は「御馳走だ」と面白がったそうです。この連載で以前ご紹介した前川千帆の『偲糖帖』も、無くなってしまった菓子を懐かしんで作られたものでした。当時の人々は記憶の中の甘味に心の慰めを見出していたのですね。素白のコレクションは残念ながら戦争で失われ、『菓子の譜』は「港々の思ひ出を伴つて居る」軍医の写生帖の行方に思いを馳せて終わります。戦火を免れて、どこかにひっそりと残っている可能性もあるでしょうか、おびただしい数にのぼったという菓子の絵を、見てみたいものです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『菓子の譜』青空文庫より
佐竹義格と嘉定の菓子
嘉定菓子の鶉焼(左)と熨斗(模型・右)8種類の嘉定菓子6月16日は、菓子を食べて厄除招福を願う嘉定(嘉祥・かじょう)にちなんだ「和菓子の日」。江戸時代、幕府で盛大に催された嘉定については以前にもご紹介しました。当日は、大名・旗本が総登城して将軍から菓子を頂戴しますが、江戸城の大広間には、饅頭・羊羹・鶉焼・寄水(よりみず)・金飩(きんとん)・あこや・熨斗(のし)・麩の8種類で合計2万個以上が並べられたといいます。目移りしてしまいそうですが、持ち帰ることができるのは1種類だけ。あらかじめ折敷(おしき)に用意されたものを順番に頂戴していくため、お目当ての菓子に当たるとは限りません。 2年連続で熨斗を貰う久保田藩(秋田市)佐竹家では、元禄16年(1703)8月、弱冠10歳の義格(よしただ・1694~1715)が当主となり、6年後の宝永6年(1709)に初めての嘉定に臨みました。佐竹家にとって久しぶりの嘉定で義格が持ち帰ったのは鮑を伸して作る熨斗。翌宝永7年に拝領したのも熨斗でした。藩主の側近の日記には、「先年ハ御菓子御頂戴、去年当年ハ御(木偏に「別」)ニ御熨斗斗(ばかり)ニ而、御頂戴御菓子ハ無之」(以前は菓子を貰ったのに去年今年は熨斗だけで菓子を貰っていない)とあり、どうやら佐竹家では、嘉定で菓子がもらえなかったとの誤解が生じたようです。熨斗も高価な縁起物ですが、菓子とは思えなかった気持ちは理解できるのではないでしょうか。そうした家中の空気を察したのか、嘉定翌日の17日、義格は「上意」として、熨斗がれっきとした「嘉定の菓子」であることを家中に周知しています。数えで17歳とはいえ、すでに幕府から命じられた治水工事で功績を上げるなど、聡明で将来を嘱望された義格のこと。すばやく対処し、家臣に動揺が広がるのを防いだといえるでしょう。なお、現在秋田市には、義格に献上したところたいそう気に入られたとの伝承を持つ「秋田諸越(あきたもろこし)」という干菓子が伝わっており、義格自身かなりの甘党だったことがうかがえます。家臣たちには「熨斗も菓子である」と説明しているものの、義格も本当はもっと菓子らしい、羊羹や饅頭が欲しかったかもしれませんね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『国典類抄』第13巻 秋田県教育委員会 1981年
佐竹義格と嘉定の菓子
嘉定菓子の鶉焼(左)と熨斗(模型・右)8種類の嘉定菓子6月16日は、菓子を食べて厄除招福を願う嘉定(嘉祥・かじょう)にちなんだ「和菓子の日」。江戸時代、幕府で盛大に催された嘉定については以前にもご紹介しました。当日は、大名・旗本が総登城して将軍から菓子を頂戴しますが、江戸城の大広間には、饅頭・羊羹・鶉焼・寄水(よりみず)・金飩(きんとん)・あこや・熨斗(のし)・麩の8種類で合計2万個以上が並べられたといいます。目移りしてしまいそうですが、持ち帰ることができるのは1種類だけ。あらかじめ折敷(おしき)に用意されたものを順番に頂戴していくため、お目当ての菓子に当たるとは限りません。 2年連続で熨斗を貰う久保田藩(秋田市)佐竹家では、元禄16年(1703)8月、弱冠10歳の義格(よしただ・1694~1715)が当主となり、6年後の宝永6年(1709)に初めての嘉定に臨みました。佐竹家にとって久しぶりの嘉定で義格が持ち帰ったのは鮑を伸して作る熨斗。翌宝永7年に拝領したのも熨斗でした。藩主の側近の日記には、「先年ハ御菓子御頂戴、去年当年ハ御(木偏に「別」)ニ御熨斗斗(ばかり)ニ而、御頂戴御菓子ハ無之」(以前は菓子を貰ったのに去年今年は熨斗だけで菓子を貰っていない)とあり、どうやら佐竹家では、嘉定で菓子がもらえなかったとの誤解が生じたようです。熨斗も高価な縁起物ですが、菓子とは思えなかった気持ちは理解できるのではないでしょうか。そうした家中の空気を察したのか、嘉定翌日の17日、義格は「上意」として、熨斗がれっきとした「嘉定の菓子」であることを家中に周知しています。数えで17歳とはいえ、すでに幕府から命じられた治水工事で功績を上げるなど、聡明で将来を嘱望された義格のこと。すばやく対処し、家臣に動揺が広がるのを防いだといえるでしょう。なお、現在秋田市には、義格に献上したところたいそう気に入られたとの伝承を持つ「秋田諸越(あきたもろこし)」という干菓子が伝わっており、義格自身かなりの甘党だったことがうかがえます。家臣たちには「熨斗も菓子である」と説明しているものの、義格も本当はもっと菓子らしい、羊羹や饅頭が欲しかったかもしれませんね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『国典類抄』第13巻 秋田県教育委員会 1981年