虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子

森鴎外と饅頭茶漬け
「舞姫」で知られる文豪現在の島根県に生まれた森鴎外(1862~1922)は、「雁」「山椒大夫」などの名作を残した明治の文豪です。代表作のひとつ「舞姫」を学校の教科書で読まれた方も多いのではないでしょうか。軍医としても業績を残しており、どちらかといえば硬派な印象ですが、一方で妻子に対する大甘ぶりも知られています。 意外な好み…さて、潔癖症で果物も野菜も決して生では食べなかったという鴎外の意外な好物が、タイトルの饅頭茶漬けです。長女の森茉莉はエッセイ(『貧乏サヴァラン』ちくま文庫より)の中で鴎外が「つめの白い清潔(きれい)な手でそれを四つに割り、その一つを御飯の上にのせ、煎茶をかけてたべるのである。」と記しています。また、次女の小堀杏奴『晩年の父』にも、やはりその話が登場します。 そのお味は?真っ白なご飯の上の饅頭からのぞく薄紫の餡、緑に透き通る煎茶の色…。鴎外のイメージとのミスマッチもあいまって、なんとも不思議な食べ物に思えますが、実際に試された方によれば、意外にさっぱりと美味しく食べられ、言葉から受ける印象ほど奇妙ではないそうです。森茉莉は先の著作の中で、その味についてこう記しています。「父とたべた想い出もあるが、支那のお菓子のようだったり、淡白(あっさり)した、渋いお汁粉のようだったり、どっちも美味しい。」一度、作ってみるのも一興かもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
森鴎外と饅頭茶漬け
「舞姫」で知られる文豪現在の島根県に生まれた森鴎外(1862~1922)は、「雁」「山椒大夫」などの名作を残した明治の文豪です。代表作のひとつ「舞姫」を学校の教科書で読まれた方も多いのではないでしょうか。軍医としても業績を残しており、どちらかといえば硬派な印象ですが、一方で妻子に対する大甘ぶりも知られています。 意外な好み…さて、潔癖症で果物も野菜も決して生では食べなかったという鴎外の意外な好物が、タイトルの饅頭茶漬けです。長女の森茉莉はエッセイ(『貧乏サヴァラン』ちくま文庫より)の中で鴎外が「つめの白い清潔(きれい)な手でそれを四つに割り、その一つを御飯の上にのせ、煎茶をかけてたべるのである。」と記しています。また、次女の小堀杏奴『晩年の父』にも、やはりその話が登場します。 そのお味は?真っ白なご飯の上の饅頭からのぞく薄紫の餡、緑に透き通る煎茶の色…。鴎外のイメージとのミスマッチもあいまって、なんとも不思議な食べ物に思えますが、実際に試された方によれば、意外にさっぱりと美味しく食べられ、言葉から受ける印象ほど奇妙ではないそうです。森茉莉は先の著作の中で、その味についてこう記しています。「父とたべた想い出もあるが、支那のお菓子のようだったり、淡白(あっさり)した、渋いお汁粉のようだったり、どっちも美味しい。」一度、作ってみるのも一興かもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

渋沢栄一と金魚の菓子
参考:琥珀製「若葉蔭」 近代産業の生みの親 渋沢栄一(しぶさわえいいち・1840~1931)は近代日本を代表する実業家です。第一国立銀行(現みずほ銀行)を設立、また東京海上火災保険、東京ガス、清水建設、王子製紙、新日本製鉄やサッポロビールに帝国ホテルをはじめ日本の代表的な企業を創設しています。また東京証券取引所や東京商工会議所の設立にもかかわりました。 栄一の生涯 渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市に豪農の長男として生まれました。若くして一橋慶喜に仕え、慶応3年(1867)にはヨーロッパに渡り、近代的な技術や経済について見聞を広めました。 維新後は大蔵省に出仕し、明治6年(1873)の辞職後は、まさに日本経済の発展に尽くしています。しかし、多くの企業にかかわりながら、三菱や三井をはじめとする財閥のように、巨大な財産を成していません。彼の生き方は、いわば日本経済のプロデューサーに徹したものといえます。 金魚の菓子 明治37年(1904)6月9日、肺炎から一時危篤になった栄一に、明治天皇は見舞いの菓子を賜っています。孫の敬三(後の日銀総裁・大蔵大臣)の回想によれば、「四角な寒天のなかに羊羹でできた赤い金魚が二匹浮かんで」いる美しい菓子ということでした(佐野眞一『渋沢家三代』)。どこの店で作られたものかは不明ですが、どのような菓子であったかは虎屋の「若葉蔭」や「蟬の小川」が参考になるかもしれません。いずれも、琥珀羹(寒天を煮溶かして白双糖、水飴を加え固めたもの)に金魚を浮かべています。こうした菓子は、病床の栄一にとって、涼やかで口あたりも良いものだったことでしょう。 ちなみに、虎屋には渋沢家からのご注文記録が残されています。たとえば大正2年(1913)には、9回にわたってご注文をいただいており、「夜の梅」や「塩の山」あるいは「羊羹粽」などをお納めしています。なかには餡なしとご指定の「椿餅」もありました。渋沢家の方々のお好みだったのでしょうか、興味深いところです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献 『渋沢家三代』文藝春秋 1998年
渋沢栄一と金魚の菓子
参考:琥珀製「若葉蔭」 近代産業の生みの親 渋沢栄一(しぶさわえいいち・1840~1931)は近代日本を代表する実業家です。第一国立銀行(現みずほ銀行)を設立、また東京海上火災保険、東京ガス、清水建設、王子製紙、新日本製鉄やサッポロビールに帝国ホテルをはじめ日本の代表的な企業を創設しています。また東京証券取引所や東京商工会議所の設立にもかかわりました。 栄一の生涯 渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市に豪農の長男として生まれました。若くして一橋慶喜に仕え、慶応3年(1867)にはヨーロッパに渡り、近代的な技術や経済について見聞を広めました。 維新後は大蔵省に出仕し、明治6年(1873)の辞職後は、まさに日本経済の発展に尽くしています。しかし、多くの企業にかかわりながら、三菱や三井をはじめとする財閥のように、巨大な財産を成していません。彼の生き方は、いわば日本経済のプロデューサーに徹したものといえます。 金魚の菓子 明治37年(1904)6月9日、肺炎から一時危篤になった栄一に、明治天皇は見舞いの菓子を賜っています。孫の敬三(後の日銀総裁・大蔵大臣)の回想によれば、「四角な寒天のなかに羊羹でできた赤い金魚が二匹浮かんで」いる美しい菓子ということでした(佐野眞一『渋沢家三代』)。どこの店で作られたものかは不明ですが、どのような菓子であったかは虎屋の「若葉蔭」や「蟬の小川」が参考になるかもしれません。いずれも、琥珀羹(寒天を煮溶かして白双糖、水飴を加え固めたもの)に金魚を浮かべています。こうした菓子は、病床の栄一にとって、涼やかで口あたりも良いものだったことでしょう。 ちなみに、虎屋には渋沢家からのご注文記録が残されています。たとえば大正2年(1913)には、9回にわたってご注文をいただいており、「夜の梅」や「塩の山」あるいは「羊羹粽」などをお納めしています。なかには餡なしとご指定の「椿餅」もありました。渋沢家の方々のお好みだったのでしょうか、興味深いところです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献 『渋沢家三代』文藝春秋 1998年

清少納言と餅餤
『枕草子』に登場自然の風物や日常のこまごました思いを、独特の視点で描いた清少納言の随筆『枕草子』。そのなかには、彼女が暮した華やかな平安時代の宮廷の様子も描かれており、136段(伝能因本)にはお菓子に因むこんな話が出てきます。ある日「藤原行成様からです」といって、梅の花を添えた白い紙包みが、清少納言のもとへ届けられます。包みを開けると、餅餤(へいだん)がふたつ並んで入っており、一緒に行成の「本当は自ら持参すべきなのですが…」という文が添えられていました。 そこで清少納言は「自分自身で持ってこないのはひどく冷淡に思いますが?」と、紅梅を添えて返事を送りました。 どんなお菓子?ここに登場する「餅餤」は、奈良~平安時代に中国からもたらされた唐菓子のひとつです。平安時代の漢和辞書『和名類聚抄』には、鵝(がちょう)や鴨の子、雑菜などを煮合わせたものを餅で挟み、四角に切ったもの、とあります。今の感覚で見るならば、お菓子というより、サンドイッチのような軽食にも思えます。『枕草子』では、個人的な贈り物として使われていますが、他の唐菓子同様、官吏登用の際の饗応などとして使われることが多かったようです。当時菓子といえば木の実や果物のことでしたから、味付けされた肉などが挟まれた唐菓子の餅餤は、平安の貴族にとって、さぞモダンに感じられたことでしょう。 へいだん?れいたん?ところで藤原行成に送った清少納言の文は、「「餅餤」に「冷淡」をかけたのは、機知に富んでいる。」と、行成が大勢の貴族の前で話したこともあり、大変評判になりました。このことについて清少納言は、「見苦しい自慢話でしたが」と言って話を締めています。ともすればたわいのない駄洒落のようにも思えますが、こうした言葉遊びは平安貴族の心をくすぐる、スパイスのようなものだったのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
清少納言と餅餤
『枕草子』に登場自然の風物や日常のこまごました思いを、独特の視点で描いた清少納言の随筆『枕草子』。そのなかには、彼女が暮した華やかな平安時代の宮廷の様子も描かれており、136段(伝能因本)にはお菓子に因むこんな話が出てきます。ある日「藤原行成様からです」といって、梅の花を添えた白い紙包みが、清少納言のもとへ届けられます。包みを開けると、餅餤(へいだん)がふたつ並んで入っており、一緒に行成の「本当は自ら持参すべきなのですが…」という文が添えられていました。 そこで清少納言は「自分自身で持ってこないのはひどく冷淡に思いますが?」と、紅梅を添えて返事を送りました。 どんなお菓子?ここに登場する「餅餤」は、奈良~平安時代に中国からもたらされた唐菓子のひとつです。平安時代の漢和辞書『和名類聚抄』には、鵝(がちょう)や鴨の子、雑菜などを煮合わせたものを餅で挟み、四角に切ったもの、とあります。今の感覚で見るならば、お菓子というより、サンドイッチのような軽食にも思えます。『枕草子』では、個人的な贈り物として使われていますが、他の唐菓子同様、官吏登用の際の饗応などとして使われることが多かったようです。当時菓子といえば木の実や果物のことでしたから、味付けされた肉などが挟まれた唐菓子の餅餤は、平安の貴族にとって、さぞモダンに感じられたことでしょう。 へいだん?れいたん?ところで藤原行成に送った清少納言の文は、「「餅餤」に「冷淡」をかけたのは、機知に富んでいる。」と、行成が大勢の貴族の前で話したこともあり、大変評判になりました。このことについて清少納言は、「見苦しい自慢話でしたが」と言って話を締めています。ともすればたわいのない駄洒落のようにも思えますが、こうした言葉遊びは平安貴族の心をくすぐる、スパイスのようなものだったのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

良寛と白雪こう
良寛さん「良寛さん」「良寛さま」として親しまれる良寛(1758~1831)は、 越後(新潟県)に生まれ、出家して諸国を遊行しながら数多くの和歌、詩、 俳句、書を残したことで知られます。有名な歌「霞たつながき春日を子供らと 手まりつきつつこの日暮らしつ」 からは、子供たちとの語らいを楽しみ、遊びに興じる優しい老人の姿が想像さ れることでしょう。 白雪こうを望んだ手紙出世の願望もない良寛は、生涯、住職にもならず、人々の施しから日々の 糧を得ていました。そのため良寛の書状には、酒、餅などを送られた折の礼状が多数残っています。なかでも病に倒れ衰弱の激しい時分に、滋養に富む といわれた白雪こうを望んで書いた手紙は、ふるえの見える筆跡が哀れさを誘い、読む人の心を打ちます。その文面は「白雪羔(こう)少々御恵たまは りたく候 以上 十一月四日 菓子屋 三十郎殿 良寛」という短いもの(新潟県・木村家蔵)で、死を翌年に 控えた文政13年(1830)11月 に出雲崎の菓子屋にあてた手紙と推測 されています。食物ものどを通らない ほど弱りきっていた良寛が望んだ白雪こう…。いったいどんな菓子だったのでしょう。 作り方江戸時代の製法書によると、白雪こうは米粉、もち米の粉、砂糖に蓮の実の粉末などを混ぜ、押し固めて蒸すもので、口に入れれば雪のように溶けることから、その名がついたとされます。 「七人目白雪こうで育て上げ」(柳多留) の川柳があるように、江戸時代には砕いて湯にとかしたものが母乳の代用にされました。しかし、白雪こうは次 第に姿を消してしまうのです。 落雁との違い白雪こうと似た菓子に落雁がありますが、落雁が熱処理をした米粉を使うのに対し、熱を通していない米粉を用い、最後に蒸すという違いがあります。 白雪こうは落雁が広まるにつれ、廃れてしまったのかもしれません。時代の流れとともにこうした菓子から滋養を得る必要がなくなったともいえるでしょう。白雪こうは清貧にいきた良寛の人生を語っているようにも思えます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
良寛と白雪こう
良寛さん「良寛さん」「良寛さま」として親しまれる良寛(1758~1831)は、 越後(新潟県)に生まれ、出家して諸国を遊行しながら数多くの和歌、詩、 俳句、書を残したことで知られます。有名な歌「霞たつながき春日を子供らと 手まりつきつつこの日暮らしつ」 からは、子供たちとの語らいを楽しみ、遊びに興じる優しい老人の姿が想像さ れることでしょう。 白雪こうを望んだ手紙出世の願望もない良寛は、生涯、住職にもならず、人々の施しから日々の 糧を得ていました。そのため良寛の書状には、酒、餅などを送られた折の礼状が多数残っています。なかでも病に倒れ衰弱の激しい時分に、滋養に富む といわれた白雪こうを望んで書いた手紙は、ふるえの見える筆跡が哀れさを誘い、読む人の心を打ちます。その文面は「白雪羔(こう)少々御恵たまは りたく候 以上 十一月四日 菓子屋 三十郎殿 良寛」という短いもの(新潟県・木村家蔵)で、死を翌年に 控えた文政13年(1830)11月 に出雲崎の菓子屋にあてた手紙と推測 されています。食物ものどを通らない ほど弱りきっていた良寛が望んだ白雪こう…。いったいどんな菓子だったのでしょう。 作り方江戸時代の製法書によると、白雪こうは米粉、もち米の粉、砂糖に蓮の実の粉末などを混ぜ、押し固めて蒸すもので、口に入れれば雪のように溶けることから、その名がついたとされます。 「七人目白雪こうで育て上げ」(柳多留) の川柳があるように、江戸時代には砕いて湯にとかしたものが母乳の代用にされました。しかし、白雪こうは次 第に姿を消してしまうのです。 落雁との違い白雪こうと似た菓子に落雁がありますが、落雁が熱処理をした米粉を使うのに対し、熱を通していない米粉を用い、最後に蒸すという違いがあります。 白雪こうは落雁が広まるにつれ、廃れてしまったのかもしれません。時代の流れとともにこうした菓子から滋養を得る必要がなくなったともいえるでしょう。白雪こうは清貧にいきた良寛の人生を語っているようにも思えます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

和宮と月見饅
月見饅不思議な月見仁孝天皇の第8皇女和宮・和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう・1846~77)は、徳川幕府14代将軍家茂に嫁し、幕末から明治維新の激動の時代に波瀾の生涯をおくった女性です。 政略結婚によって夫婦となった家茂と和宮。しかもわずか4年後に家茂は亡くなってしまいますが、二人の仲は睦まじかったと伝えられています。幕府の公式記録『続徳川実紀』には、長州征伐のために大坂城に滞陣していた家茂に、江戸の和宮から落雁などの菓子が届けられたことが記されています。 家茂の死後、幕府の崩壊をまのあたりにした和宮は、徳川家の存続のために朝廷に嘆願するなど奔走しています。 饅頭の穴から月を見る?虎屋には、和宮に関する注文記録がいくつか残っており、万延元年(1860)6月16日には「御月見御用」と記されているものがあります。月見といっても6月ですから中秋の名月を愛でるわけではありません。当時宮中や公家で行われていた現代の成人式のような儀式で、饅頭の中心に萩の箸で穴をあけ、そこから月を見るという不思議な風習です。 月見のご注文注文記録には、水仙饅頭100個、大焼饅頭200個、椿餅30個などの菓子が見え、これらはおそらく周囲の人々に配られたり、お供えにされたりしたものでしょう。そして、主役の月見饅頭は1個納められています。 この饅頭の詳細は定かではありませんが、中心に穴を開ける目安として、赤い丸印をつけた月見饅頭の絵図が、後年の史料に見られます。直径7寸(約21cm)と書いた公家の日記もあり、月を見るために手に取った時は、結構重かったのではないでしょうか。 和宮はこの時、現在の年齢でいうとまだ14歳になったばかりでした。(ひのえうまの生まれを忌み、前年生まれとしていた。)降嫁を承諾したのは同年8月15日とされ、6月は幕府の再三の申し入れを孝明天皇が拒否し続けており、幕府の将来に不安を抱いていたのでしょう。しかし、翌年には京都を離れ、江戸へ嫁ぐことになるのです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
和宮と月見饅
月見饅不思議な月見仁孝天皇の第8皇女和宮・和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう・1846~77)は、徳川幕府14代将軍家茂に嫁し、幕末から明治維新の激動の時代に波瀾の生涯をおくった女性です。 政略結婚によって夫婦となった家茂と和宮。しかもわずか4年後に家茂は亡くなってしまいますが、二人の仲は睦まじかったと伝えられています。幕府の公式記録『続徳川実紀』には、長州征伐のために大坂城に滞陣していた家茂に、江戸の和宮から落雁などの菓子が届けられたことが記されています。 家茂の死後、幕府の崩壊をまのあたりにした和宮は、徳川家の存続のために朝廷に嘆願するなど奔走しています。 饅頭の穴から月を見る?虎屋には、和宮に関する注文記録がいくつか残っており、万延元年(1860)6月16日には「御月見御用」と記されているものがあります。月見といっても6月ですから中秋の名月を愛でるわけではありません。当時宮中や公家で行われていた現代の成人式のような儀式で、饅頭の中心に萩の箸で穴をあけ、そこから月を見るという不思議な風習です。 月見のご注文注文記録には、水仙饅頭100個、大焼饅頭200個、椿餅30個などの菓子が見え、これらはおそらく周囲の人々に配られたり、お供えにされたりしたものでしょう。そして、主役の月見饅頭は1個納められています。 この饅頭の詳細は定かではありませんが、中心に穴を開ける目安として、赤い丸印をつけた月見饅頭の絵図が、後年の史料に見られます。直径7寸(約21cm)と書いた公家の日記もあり、月を見るために手に取った時は、結構重かったのではないでしょうか。 和宮はこの時、現在の年齢でいうとまだ14歳になったばかりでした。(ひのえうまの生まれを忌み、前年生まれとしていた。)降嫁を承諾したのは同年8月15日とされ、6月は幕府の再三の申し入れを孝明天皇が拒否し続けており、幕府の将来に不安を抱いていたのでしょう。しかし、翌年には京都を離れ、江戸へ嫁ぐことになるのです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

徳川綱吉と麻地飴
右が「麻地飴」豪華な贈り物5代将軍徳川綱吉(1646~1709)は江戸時代の中期、華麗な文化が花開き、菓子を含む食生活も豊かになった元禄期に在位した人物です。儒教や仏教を重んじ、護国寺や湯島聖堂を建立したほか、生類憐みの令では特に牛、馬、犬、鳥を過剰に保護する政策をとりました。 虎屋には元禄10年(1697)、綱吉に贈られたと考えられる菓子7種(麻地飴・南蛮飴・源氏かや他)の記録が残っています(『諸方御用之留』)。これらはすべて干菓子で、2段の桐箱に詰められ、京から江戸へと送られました。 その中から、今回は「麻地飴」(現在虎屋では「浅路飴」の表記)をご紹介します。この菓子は求肥(白玉粉を水で溶いて蒸し、砂糖、水飴を混ぜて練り上げたもの)の周囲に、炒った白胡麻をつけたもの。江戸時代にはよく作られており、胡麻が麻の実に似ていることから「麻地飴」と呼ぶようになったとも伝えられます。 普通「飴」というと、ドロップやのど飴などを連想しますので、求肥の菓子に「飴」とは少し違和感を覚えるかもしれません。しかし当時の飴とは、米飴など日本古来のものに加え、麻地飴のような求肥、さらに黄粉からつくる豆飴 (すはま) などを含めた総称でした。従って実は全く不思議なことではありません。 2002年5月に虎屋ギャラリーにて開催した『殿様と和菓子』展でも綱吉を紹介しました。動物を異常に大切にするあまり、民衆に負担を強いた恐いイメージの先行する綱吉が大の菓子好きだったとしたら、意外性があって面白いところですね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
徳川綱吉と麻地飴
右が「麻地飴」豪華な贈り物5代将軍徳川綱吉(1646~1709)は江戸時代の中期、華麗な文化が花開き、菓子を含む食生活も豊かになった元禄期に在位した人物です。儒教や仏教を重んじ、護国寺や湯島聖堂を建立したほか、生類憐みの令では特に牛、馬、犬、鳥を過剰に保護する政策をとりました。 虎屋には元禄10年(1697)、綱吉に贈られたと考えられる菓子7種(麻地飴・南蛮飴・源氏かや他)の記録が残っています(『諸方御用之留』)。これらはすべて干菓子で、2段の桐箱に詰められ、京から江戸へと送られました。 その中から、今回は「麻地飴」(現在虎屋では「浅路飴」の表記)をご紹介します。この菓子は求肥(白玉粉を水で溶いて蒸し、砂糖、水飴を混ぜて練り上げたもの)の周囲に、炒った白胡麻をつけたもの。江戸時代にはよく作られており、胡麻が麻の実に似ていることから「麻地飴」と呼ぶようになったとも伝えられます。 普通「飴」というと、ドロップやのど飴などを連想しますので、求肥の菓子に「飴」とは少し違和感を覚えるかもしれません。しかし当時の飴とは、米飴など日本古来のものに加え、麻地飴のような求肥、さらに黄粉からつくる豆飴 (すはま) などを含めた総称でした。従って実は全く不思議なことではありません。 2002年5月に虎屋ギャラリーにて開催した『殿様と和菓子』展でも綱吉を紹介しました。動物を異常に大切にするあまり、民衆に負担を強いた恐いイメージの先行する綱吉が大の菓子好きだったとしたら、意外性があって面白いところですね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)