虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
和宮と月見饅
月見饅不思議な月見仁孝天皇の第8皇女和宮・和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう・1846~77)は、徳川幕府14代将軍家茂に嫁し、幕末から明治維新の激動の時代に波瀾の生涯をおくった女性です。 政略結婚によって夫婦となった家茂と和宮。しかもわずか4年後に家茂は亡くなってしまいますが、二人の仲は睦まじかったと伝えられています。幕府の公式記録『続徳川実紀』には、長州征伐のために大坂城に滞陣していた家茂に、江戸の和宮から落雁などの菓子が届けられたことが記されています。 家茂の死後、幕府の崩壊をまのあたりにした和宮は、徳川家の存続のために朝廷に嘆願するなど奔走しています。 饅頭の穴から月を見る?虎屋には、和宮に関する注文記録がいくつか残っており、万延元年(1860)6月16日には「御月見御用」と記されているものがあります。月見といっても6月ですから中秋の名月を愛でるわけではありません。当時宮中や公家で行われていた現代の成人式のような儀式で、饅頭の中心に萩の箸で穴をあけ、そこから月を見るという不思議な風習です。 月見のご注文注文記録には、水仙饅頭100個、大焼饅頭200個、椿餅30個などの菓子が見え、これらはおそらく周囲の人々に配られたり、お供えにされたりしたものでしょう。そして、主役の月見饅頭は1個納められています。 この饅頭の詳細は定かではありませんが、中心に穴を開ける目安として、赤い丸印をつけた月見饅頭の絵図が、後年の史料に見られます。直径7寸(約21cm)と書いた公家の日記もあり、月を見るために手に取った時は、結構重かったのではないでしょうか。 和宮はこの時、現在の年齢でいうとまだ14歳になったばかりでした。(ひのえうまの生まれを忌み、前年生まれとしていた。)降嫁を承諾したのは同年8月15日とされ、6月は幕府の再三の申し入れを孝明天皇が拒否し続けており、幕府の将来に不安を抱いていたのでしょう。しかし、翌年には京都を離れ、江戸へ嫁ぐことになるのです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
和宮と月見饅
月見饅不思議な月見仁孝天皇の第8皇女和宮・和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう・1846~77)は、徳川幕府14代将軍家茂に嫁し、幕末から明治維新の激動の時代に波瀾の生涯をおくった女性です。 政略結婚によって夫婦となった家茂と和宮。しかもわずか4年後に家茂は亡くなってしまいますが、二人の仲は睦まじかったと伝えられています。幕府の公式記録『続徳川実紀』には、長州征伐のために大坂城に滞陣していた家茂に、江戸の和宮から落雁などの菓子が届けられたことが記されています。 家茂の死後、幕府の崩壊をまのあたりにした和宮は、徳川家の存続のために朝廷に嘆願するなど奔走しています。 饅頭の穴から月を見る?虎屋には、和宮に関する注文記録がいくつか残っており、万延元年(1860)6月16日には「御月見御用」と記されているものがあります。月見といっても6月ですから中秋の名月を愛でるわけではありません。当時宮中や公家で行われていた現代の成人式のような儀式で、饅頭の中心に萩の箸で穴をあけ、そこから月を見るという不思議な風習です。 月見のご注文注文記録には、水仙饅頭100個、大焼饅頭200個、椿餅30個などの菓子が見え、これらはおそらく周囲の人々に配られたり、お供えにされたりしたものでしょう。そして、主役の月見饅頭は1個納められています。 この饅頭の詳細は定かではありませんが、中心に穴を開ける目安として、赤い丸印をつけた月見饅頭の絵図が、後年の史料に見られます。直径7寸(約21cm)と書いた公家の日記もあり、月を見るために手に取った時は、結構重かったのではないでしょうか。 和宮はこの時、現在の年齢でいうとまだ14歳になったばかりでした。(ひのえうまの生まれを忌み、前年生まれとしていた。)降嫁を承諾したのは同年8月15日とされ、6月は幕府の再三の申し入れを孝明天皇が拒否し続けており、幕府の将来に不安を抱いていたのでしょう。しかし、翌年には京都を離れ、江戸へ嫁ぐことになるのです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
徳川綱吉と麻地飴
右が「麻地飴」豪華な贈り物5代将軍徳川綱吉(1646~1709)は江戸時代の中期、華麗な文化が花開き、菓子を含む食生活も豊かになった元禄期に在位した人物です。儒教や仏教を重んじ、護国寺や湯島聖堂を建立したほか、生類憐みの令では特に牛、馬、犬、鳥を過剰に保護する政策をとりました。 虎屋には元禄10年(1697)、綱吉に贈られたと考えられる菓子7種(麻地飴・南蛮飴・源氏かや他)の記録が残っています(『諸方御用之留』)。これらはすべて干菓子で、2段の桐箱に詰められ、京から江戸へと送られました。 その中から、今回は「麻地飴」(現在虎屋では「浅路飴」の表記)をご紹介します。この菓子は求肥(白玉粉を水で溶いて蒸し、砂糖、水飴を混ぜて練り上げたもの)の周囲に、炒った白胡麻をつけたもの。江戸時代にはよく作られており、胡麻が麻の実に似ていることから「麻地飴」と呼ぶようになったとも伝えられます。 普通「飴」というと、ドロップやのど飴などを連想しますので、求肥の菓子に「飴」とは少し違和感を覚えるかもしれません。しかし当時の飴とは、米飴など日本古来のものに加え、麻地飴のような求肥、さらに黄粉からつくる豆飴 (すはま) などを含めた総称でした。従って実は全く不思議なことではありません。 2002年5月に虎屋ギャラリーにて開催した『殿様と和菓子』展でも綱吉を紹介しました。動物を異常に大切にするあまり、民衆に負担を強いた恐いイメージの先行する綱吉が大の菓子好きだったとしたら、意外性があって面白いところですね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
徳川綱吉と麻地飴
右が「麻地飴」豪華な贈り物5代将軍徳川綱吉(1646~1709)は江戸時代の中期、華麗な文化が花開き、菓子を含む食生活も豊かになった元禄期に在位した人物です。儒教や仏教を重んじ、護国寺や湯島聖堂を建立したほか、生類憐みの令では特に牛、馬、犬、鳥を過剰に保護する政策をとりました。 虎屋には元禄10年(1697)、綱吉に贈られたと考えられる菓子7種(麻地飴・南蛮飴・源氏かや他)の記録が残っています(『諸方御用之留』)。これらはすべて干菓子で、2段の桐箱に詰められ、京から江戸へと送られました。 その中から、今回は「麻地飴」(現在虎屋では「浅路飴」の表記)をご紹介します。この菓子は求肥(白玉粉を水で溶いて蒸し、砂糖、水飴を混ぜて練り上げたもの)の周囲に、炒った白胡麻をつけたもの。江戸時代にはよく作られており、胡麻が麻の実に似ていることから「麻地飴」と呼ぶようになったとも伝えられます。 普通「飴」というと、ドロップやのど飴などを連想しますので、求肥の菓子に「飴」とは少し違和感を覚えるかもしれません。しかし当時の飴とは、米飴など日本古来のものに加え、麻地飴のような求肥、さらに黄粉からつくる豆飴 (すはま) などを含めた総称でした。従って実は全く不思議なことではありません。 2002年5月に虎屋ギャラリーにて開催した『殿様と和菓子』展でも綱吉を紹介しました。動物を異常に大切にするあまり、民衆に負担を強いた恐いイメージの先行する綱吉が大の菓子好きだったとしたら、意外性があって面白いところですね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
夏目漱石と羊羹
羊羹千円札でおなじみ千円札の顔としてもおなじみの明治の文豪・夏目漱石。『坊っちゃん』や『吾輩は猫である 』、『それから』などの作品はあまりにも有名ですが、漢詩や俳句もたしなむなど幅広い文才の持ち主でした。その漱石が、羊羹について珠玉の名文を遺しているのをご存知でしょうか? 「…菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹が並んでいる。余は凡ての菓子のうちで尤も羊羹が好きだ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた練り上げ方は、玉と蝋石 (ろうせき) の雑種のようで、甚だ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生まれた様につやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。…」 (『草枕』新潮文庫より) お皿の上の羊羹だけでこれだけ語れるのも、さすが文豪といったところでしょうか。別に食べたくはないと書いていますが、こんな文章を読んだら、つい羊羹を買って帰りたくなってしまいそうです。 羊羹の色や質感は店ごとに個性のあるものですが、ここに書かれているのは、漱石が好んだと伝わる本郷の藤むらの羊羹かもしれません。 後年、この漱石の文章を受けて、谷崎潤一郎も羊羹の「冥想的な色」について美しい文章を書いています (『陰翳礼讃』)。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
夏目漱石と羊羹
羊羹千円札でおなじみ千円札の顔としてもおなじみの明治の文豪・夏目漱石。『坊っちゃん』や『吾輩は猫である 』、『それから』などの作品はあまりにも有名ですが、漢詩や俳句もたしなむなど幅広い文才の持ち主でした。その漱石が、羊羹について珠玉の名文を遺しているのをご存知でしょうか? 「…菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹が並んでいる。余は凡ての菓子のうちで尤も羊羹が好きだ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた練り上げ方は、玉と蝋石 (ろうせき) の雑種のようで、甚だ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生まれた様につやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。…」 (『草枕』新潮文庫より) お皿の上の羊羹だけでこれだけ語れるのも、さすが文豪といったところでしょうか。別に食べたくはないと書いていますが、こんな文章を読んだら、つい羊羹を買って帰りたくなってしまいそうです。 羊羹の色や質感は店ごとに個性のあるものですが、ここに書かれているのは、漱石が好んだと伝わる本郷の藤むらの羊羹かもしれません。 後年、この漱石の文章を受けて、谷崎潤一郎も羊羹の「冥想的な色」について美しい文章を書いています (『陰翳礼讃』)。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
徳川家康と嘉祥
和菓子の日のルーツかつて和菓子が主役をつとめていた行事が 6月16日にありました。その名前を嘉祥 (かじょう) といい、起源は平安時代に遡 (さかのぼ) るともいわれますが、はっきりしておりません。室町時代の朝廷では饅頭などが贈答されていました。また武家の間では、この日に楊弓 (ようきゅう) という短い弓矢で的を射て、負けた者が勝者に中国の銭「嘉定通宝」 (かじょうつうほう) 16 枚で買った食べ物を贈りました。銭の「嘉」と「通」の字を読んだ音が、勝に通じることから武家に尊ばれました。このようなことから嘉祥は嘉定とも書きます。 慶長8年 (1603) 、征夷大将軍となって江戸幕府を開いた徳川家康 (とくがわいえやす) は、戦国時代を終わらせ戦争のない平和で安定した社会の礎を築きました。 幕府を開く以前の元亀3年 (1572) 、家康に最大の危機が訪れます。甲斐 (現在の山梨県) の武田信玄が上洛の軍をおこしたのです。家康は、三方ケ原 (浜松市の西方) において信玄の軍勢を迎え撃ちました。結果として大敗を喫したのですが、半分にも満たない軍勢で、同盟者織田信長のために戦いを挑んだ家康の律儀、勇敢さは賞賛されます。徳川家にとって三方ケ原の戦いは、記念すべき大敗した合戦でした。 「嘉定私記」によれば、三方ケ原の戦いの前、羽入八幡にて戦勝を祈願した家康は、裏に「十六」と鋳付けられた嘉定通宝を拾って縁起をかつぎ、家臣の大久保藤五郎 (おおくぼとうごろう) は手製の菓子を献上したといいます。この故事にちなんで嘉祥は、江戸幕府でも盛大に行われました。江戸城大広間 500 畳に 2万個をこえる羊羹や饅頭などの菓子が並べられ、将軍から大名・旗本へ与えられます。もっとも将軍が手ずから菓子を与えるのは最初だけで、以後は途中で奥へ退出してしまい、大名・旗本は自ら菓子を取りました。2代将軍秀忠 (ひでただ)...
徳川家康と嘉祥
和菓子の日のルーツかつて和菓子が主役をつとめていた行事が 6月16日にありました。その名前を嘉祥 (かじょう) といい、起源は平安時代に遡 (さかのぼ) るともいわれますが、はっきりしておりません。室町時代の朝廷では饅頭などが贈答されていました。また武家の間では、この日に楊弓 (ようきゅう) という短い弓矢で的を射て、負けた者が勝者に中国の銭「嘉定通宝」 (かじょうつうほう) 16 枚で買った食べ物を贈りました。銭の「嘉」と「通」の字を読んだ音が、勝に通じることから武家に尊ばれました。このようなことから嘉祥は嘉定とも書きます。 慶長8年 (1603) 、征夷大将軍となって江戸幕府を開いた徳川家康 (とくがわいえやす) は、戦国時代を終わらせ戦争のない平和で安定した社会の礎を築きました。 幕府を開く以前の元亀3年 (1572) 、家康に最大の危機が訪れます。甲斐 (現在の山梨県) の武田信玄が上洛の軍をおこしたのです。家康は、三方ケ原 (浜松市の西方) において信玄の軍勢を迎え撃ちました。結果として大敗を喫したのですが、半分にも満たない軍勢で、同盟者織田信長のために戦いを挑んだ家康の律儀、勇敢さは賞賛されます。徳川家にとって三方ケ原の戦いは、記念すべき大敗した合戦でした。 「嘉定私記」によれば、三方ケ原の戦いの前、羽入八幡にて戦勝を祈願した家康は、裏に「十六」と鋳付けられた嘉定通宝を拾って縁起をかつぎ、家臣の大久保藤五郎 (おおくぼとうごろう) は手製の菓子を献上したといいます。この故事にちなんで嘉祥は、江戸幕府でも盛大に行われました。江戸城大広間 500 畳に 2万個をこえる羊羹や饅頭などの菓子が並べられ、将軍から大名・旗本へ与えられます。もっとも将軍が手ずから菓子を与えるのは最初だけで、以後は途中で奥へ退出してしまい、大名・旗本は自ら菓子を取りました。2代将軍秀忠 (ひでただ)...
徳川慶喜と引き菓子
最後の将軍のお好み「最後の将軍」として知られる十五代将軍徳川慶喜 (1837~1913)。幕末の動乱期、その職に就いていたのは1年あまりでしたが、わずかな在任期間に政治の刷新、軍備の充実など幕政改革に着手したことは、彼が非凡であったことをうかがわせます。もし平和な時代であったなら、「名君」と呼ばれていたことでしょう。 将軍ということで無骨な想像をしがちですが、慶喜は意外にも写真、油絵など多彩な趣味を持っていました。明治に入って将軍職を解かれた後は、その才能を活かして悠々自適の生活を送っていたようです。 さて、慶喜の晩年の明治41年 (1908) 11月12日に、お菓子のご注文をいただいていたことが虎屋の『大福帳』に見えます。この当時士族や華族のご注文のほとんどは家単位であり、個人名でご用命を承るのは大変珍しいことでした。 お届けしたお菓子は、「出しほ (いでしお)」「若紫」「寒紅梅」を五つ盛りにしたものを18人前と、「高峯羹」「新千代の蔭」「八重梅」※ を三つ盛りにして8人前です。 「三つ盛り」「五つ盛り」というのは、折などに奇数詰め合わせたもので、 慶弔時の引き菓子として使われます。特に慶事のお菓子は華やかな意匠に加え大ぶりで人目を引くため、かつては大変人気がありました。残念ながら徳川慶喜がどのような場でお菓子を使ったのかは、史料に記されていません。ただ、じきじきのご用命だったことから大切なお祝いごとがあったと想像されます。 今では結婚式の引き出物などに使われるくらいで、なかなか目にすることができなくなった引き菓子。大切な節目にお菓子を用意する、昔ながらの風習も大事にしたいものです。 ※ 大正時代の見本帳を参考にすると下記のような菓子が考えられる。 「出しほ」…海に月をあしらった煉羊羹 「若紫」…籠に松の焼印を押した薯蕷饅頭 「寒紅梅」…梅形の羊羹製(こなし) 「高峯羹」…富士山の意匠の煉羊羹 「新千代の蔭」…松の焼印を押した薯蕷饅頭 「八重梅」…梅形の羊羹製(こなし) ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
徳川慶喜と引き菓子
最後の将軍のお好み「最後の将軍」として知られる十五代将軍徳川慶喜 (1837~1913)。幕末の動乱期、その職に就いていたのは1年あまりでしたが、わずかな在任期間に政治の刷新、軍備の充実など幕政改革に着手したことは、彼が非凡であったことをうかがわせます。もし平和な時代であったなら、「名君」と呼ばれていたことでしょう。 将軍ということで無骨な想像をしがちですが、慶喜は意外にも写真、油絵など多彩な趣味を持っていました。明治に入って将軍職を解かれた後は、その才能を活かして悠々自適の生活を送っていたようです。 さて、慶喜の晩年の明治41年 (1908) 11月12日に、お菓子のご注文をいただいていたことが虎屋の『大福帳』に見えます。この当時士族や華族のご注文のほとんどは家単位であり、個人名でご用命を承るのは大変珍しいことでした。 お届けしたお菓子は、「出しほ (いでしお)」「若紫」「寒紅梅」を五つ盛りにしたものを18人前と、「高峯羹」「新千代の蔭」「八重梅」※ を三つ盛りにして8人前です。 「三つ盛り」「五つ盛り」というのは、折などに奇数詰め合わせたもので、 慶弔時の引き菓子として使われます。特に慶事のお菓子は華やかな意匠に加え大ぶりで人目を引くため、かつては大変人気がありました。残念ながら徳川慶喜がどのような場でお菓子を使ったのかは、史料に記されていません。ただ、じきじきのご用命だったことから大切なお祝いごとがあったと想像されます。 今では結婚式の引き出物などに使われるくらいで、なかなか目にすることができなくなった引き菓子。大切な節目にお菓子を用意する、昔ながらの風習も大事にしたいものです。 ※ 大正時代の見本帳を参考にすると下記のような菓子が考えられる。 「出しほ」…海に月をあしらった煉羊羹 「若紫」…籠に松の焼印を押した薯蕷饅頭 「寒紅梅」…梅形の羊羹製(こなし) 「高峯羹」…富士山の意匠の煉羊羹 「新千代の蔭」…松の焼印を押した薯蕷饅頭 「八重梅」…梅形の羊羹製(こなし) ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
近衛内前と蓬が嶋
蓬が嶋銘菓の名付け親新年には干支菓子・お題菓子をはじめ、鶴や亀・松竹梅など、おめでたい意匠の菓子が喜ばれます。今回は正月祝いにちなみ、当店の寿ぎの菓子「蓬が嶋」をご紹介しましょう。蓬が嶋とは、中国の伝説にみえる、不老不死の仙人が住む理想郷のこと。蓬莱山 (ほうらいさん)、蓬莱島とも呼ばれ、松竹梅が生い茂り、鶴亀が遊ぶ島として、古来多くの美術品に描かれています。 菓子の場合、子持ち饅頭になってしまうのですから楽しいもの。これは名前が示すとおり、小さな饅頭を包みこんだ大饅頭で、半分に切ると、中の子饅頭の紅・黄・紫・緑・白の色合いが目にも鮮やかです (写真) 。結婚式の引出物に使われることも多く、その愛らしさには思わず笑みもこぼれます。 この饅頭の命銘者が、江戸時代中期の公家、近衛内前 (うちさき) 公 (1728~85) です。当店の延享3年 (1746)『御用御菓子御直段帳』により、宝暦12年 (1762) 10月6日に御銘を賜ったことがわかっています。 同年同月18日条の製法によれば、当時の「蓬が嶋」は高さ2寸5分 (7.5センチ) 、まわり (直径か?) 5寸6、7分 (約17センチ) で小倉餡入りの小さな朧饅頭が20個入っていました。現在の五色の餡に比べ、地味な印象ですが、饅頭の数の多さにはびっくりです。この子持ち饅頭に「蓬が嶋」の銘をつけられた、内前公 (当時まだ35歳) の発想はおみごと。関白、摂政太政大臣などをつとめた器量に加え、洒落たセンスの持ち主だったのではと想像したくなります。ちなみに内前公の著した日記『内前公記』は、宮中での諸行事を記した史料として、評価が高いものです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
近衛内前と蓬が嶋
蓬が嶋銘菓の名付け親新年には干支菓子・お題菓子をはじめ、鶴や亀・松竹梅など、おめでたい意匠の菓子が喜ばれます。今回は正月祝いにちなみ、当店の寿ぎの菓子「蓬が嶋」をご紹介しましょう。蓬が嶋とは、中国の伝説にみえる、不老不死の仙人が住む理想郷のこと。蓬莱山 (ほうらいさん)、蓬莱島とも呼ばれ、松竹梅が生い茂り、鶴亀が遊ぶ島として、古来多くの美術品に描かれています。 菓子の場合、子持ち饅頭になってしまうのですから楽しいもの。これは名前が示すとおり、小さな饅頭を包みこんだ大饅頭で、半分に切ると、中の子饅頭の紅・黄・紫・緑・白の色合いが目にも鮮やかです (写真) 。結婚式の引出物に使われることも多く、その愛らしさには思わず笑みもこぼれます。 この饅頭の命銘者が、江戸時代中期の公家、近衛内前 (うちさき) 公 (1728~85) です。当店の延享3年 (1746)『御用御菓子御直段帳』により、宝暦12年 (1762) 10月6日に御銘を賜ったことがわかっています。 同年同月18日条の製法によれば、当時の「蓬が嶋」は高さ2寸5分 (7.5センチ) 、まわり (直径か?) 5寸6、7分 (約17センチ) で小倉餡入りの小さな朧饅頭が20個入っていました。現在の五色の餡に比べ、地味な印象ですが、饅頭の数の多さにはびっくりです。この子持ち饅頭に「蓬が嶋」の銘をつけられた、内前公 (当時まだ35歳) の発想はおみごと。関白、摂政太政大臣などをつとめた器量に加え、洒落たセンスの持ち主だったのではと想像したくなります。ちなみに内前公の著した日記『内前公記』は、宮中での諸行事を記した史料として、評価が高いものです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)