虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子

夏目漱石と羊羹
羊羹千円札でおなじみ千円札の顔としてもおなじみの明治の文豪・夏目漱石。『坊っちゃん』や『吾輩は猫である 』、『それから』などの作品はあまりにも有名ですが、漢詩や俳句もたしなむなど幅広い文才の持ち主でした。その漱石が、羊羹について珠玉の名文を遺しているのをご存知でしょうか? 「…菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹が並んでいる。余は凡ての菓子のうちで尤も羊羹が好きだ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた練り上げ方は、玉と蝋石 (ろうせき) の雑種のようで、甚だ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生まれた様につやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。…」 (『草枕』新潮文庫より) お皿の上の羊羹だけでこれだけ語れるのも、さすが文豪といったところでしょうか。別に食べたくはないと書いていますが、こんな文章を読んだら、つい羊羹を買って帰りたくなってしまいそうです。 羊羹の色や質感は店ごとに個性のあるものですが、ここに書かれているのは、漱石が好んだと伝わる本郷の藤むらの羊羹かもしれません。 後年、この漱石の文章を受けて、谷崎潤一郎も羊羹の「冥想的な色」について美しい文章を書いています (『陰翳礼讃』)。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
夏目漱石と羊羹
羊羹千円札でおなじみ千円札の顔としてもおなじみの明治の文豪・夏目漱石。『坊っちゃん』や『吾輩は猫である 』、『それから』などの作品はあまりにも有名ですが、漢詩や俳句もたしなむなど幅広い文才の持ち主でした。その漱石が、羊羹について珠玉の名文を遺しているのをご存知でしょうか? 「…菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹が並んでいる。余は凡ての菓子のうちで尤も羊羹が好きだ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた練り上げ方は、玉と蝋石 (ろうせき) の雑種のようで、甚だ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生まれた様につやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。…」 (『草枕』新潮文庫より) お皿の上の羊羹だけでこれだけ語れるのも、さすが文豪といったところでしょうか。別に食べたくはないと書いていますが、こんな文章を読んだら、つい羊羹を買って帰りたくなってしまいそうです。 羊羹の色や質感は店ごとに個性のあるものですが、ここに書かれているのは、漱石が好んだと伝わる本郷の藤むらの羊羹かもしれません。 後年、この漱石の文章を受けて、谷崎潤一郎も羊羹の「冥想的な色」について美しい文章を書いています (『陰翳礼讃』)。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

徳川家康と嘉祥
和菓子の日のルーツかつて和菓子が主役をつとめていた行事が 6月16日にありました。その名前を嘉祥 (かじょう) といい、起源は平安時代に遡 (さかのぼ) るともいわれますが、はっきりしておりません。室町時代の朝廷では饅頭などが贈答されていました。また武家の間では、この日に楊弓 (ようきゅう) という短い弓矢で的を射て、負けた者が勝者に中国の銭「嘉定通宝」 (かじょうつうほう) 16 枚で買った食べ物を贈りました。銭の「嘉」と「通」の字を読んだ音が、勝に通じることから武家に尊ばれました。このようなことから嘉祥は嘉定とも書きます。 慶長8年 (1603) 、征夷大将軍となって江戸幕府を開いた徳川家康 (とくがわいえやす) は、戦国時代を終わらせ戦争のない平和で安定した社会の礎を築きました。 幕府を開く以前の元亀3年 (1572) 、家康に最大の危機が訪れます。甲斐 (現在の山梨県) の武田信玄が上洛の軍をおこしたのです。家康は、三方ケ原 (浜松市の西方) において信玄の軍勢を迎え撃ちました。結果として大敗を喫したのですが、半分にも満たない軍勢で、同盟者織田信長のために戦いを挑んだ家康の律儀、勇敢さは賞賛されます。徳川家にとって三方ケ原の戦いは、記念すべき大敗した合戦でした。 「嘉定私記」によれば、三方ケ原の戦いの前、羽入八幡にて戦勝を祈願した家康は、裏に「十六」と鋳付けられた嘉定通宝を拾って縁起をかつぎ、家臣の大久保藤五郎 (おおくぼとうごろう) は手製の菓子を献上したといいます。この故事にちなんで嘉祥は、江戸幕府でも盛大に行われました。江戸城大広間 500 畳に 2万個をこえる羊羹や饅頭などの菓子が並べられ、将軍から大名・旗本へ与えられます。もっとも将軍が手ずから菓子を与えるのは最初だけで、以後は途中で奥へ退出してしまい、大名・旗本は自ら菓子を取りました。2代将軍秀忠 (ひでただ)...
徳川家康と嘉祥
和菓子の日のルーツかつて和菓子が主役をつとめていた行事が 6月16日にありました。その名前を嘉祥 (かじょう) といい、起源は平安時代に遡 (さかのぼ) るともいわれますが、はっきりしておりません。室町時代の朝廷では饅頭などが贈答されていました。また武家の間では、この日に楊弓 (ようきゅう) という短い弓矢で的を射て、負けた者が勝者に中国の銭「嘉定通宝」 (かじょうつうほう) 16 枚で買った食べ物を贈りました。銭の「嘉」と「通」の字を読んだ音が、勝に通じることから武家に尊ばれました。このようなことから嘉祥は嘉定とも書きます。 慶長8年 (1603) 、征夷大将軍となって江戸幕府を開いた徳川家康 (とくがわいえやす) は、戦国時代を終わらせ戦争のない平和で安定した社会の礎を築きました。 幕府を開く以前の元亀3年 (1572) 、家康に最大の危機が訪れます。甲斐 (現在の山梨県) の武田信玄が上洛の軍をおこしたのです。家康は、三方ケ原 (浜松市の西方) において信玄の軍勢を迎え撃ちました。結果として大敗を喫したのですが、半分にも満たない軍勢で、同盟者織田信長のために戦いを挑んだ家康の律儀、勇敢さは賞賛されます。徳川家にとって三方ケ原の戦いは、記念すべき大敗した合戦でした。 「嘉定私記」によれば、三方ケ原の戦いの前、羽入八幡にて戦勝を祈願した家康は、裏に「十六」と鋳付けられた嘉定通宝を拾って縁起をかつぎ、家臣の大久保藤五郎 (おおくぼとうごろう) は手製の菓子を献上したといいます。この故事にちなんで嘉祥は、江戸幕府でも盛大に行われました。江戸城大広間 500 畳に 2万個をこえる羊羹や饅頭などの菓子が並べられ、将軍から大名・旗本へ与えられます。もっとも将軍が手ずから菓子を与えるのは最初だけで、以後は途中で奥へ退出してしまい、大名・旗本は自ら菓子を取りました。2代将軍秀忠 (ひでただ)...

徳川慶喜と引き菓子
最後の将軍のお好み「最後の将軍」として知られる十五代将軍徳川慶喜 (1837~1913)。幕末の動乱期、その職に就いていたのは1年あまりでしたが、わずかな在任期間に政治の刷新、軍備の充実など幕政改革に着手したことは、彼が非凡であったことをうかがわせます。もし平和な時代であったなら、「名君」と呼ばれていたことでしょう。 将軍ということで無骨な想像をしがちですが、慶喜は意外にも写真、油絵など多彩な趣味を持っていました。明治に入って将軍職を解かれた後は、その才能を活かして悠々自適の生活を送っていたようです。 さて、慶喜の晩年の明治41年 (1908) 11月12日に、お菓子のご注文をいただいていたことが虎屋の『大福帳』に見えます。この当時士族や華族のご注文のほとんどは家単位であり、個人名でご用命を承るのは大変珍しいことでした。 お届けしたお菓子は、「出しほ (いでしお)」「若紫」「寒紅梅」を五つ盛りにしたものを18人前と、「高峯羹」「新千代の蔭」「八重梅」※ を三つ盛りにして8人前です。 「三つ盛り」「五つ盛り」というのは、折などに奇数詰め合わせたもので、 慶弔時の引き菓子として使われます。特に慶事のお菓子は華やかな意匠に加え大ぶりで人目を引くため、かつては大変人気がありました。残念ながら徳川慶喜がどのような場でお菓子を使ったのかは、史料に記されていません。ただ、じきじきのご用命だったことから大切なお祝いごとがあったと想像されます。 今では結婚式の引き出物などに使われるくらいで、なかなか目にすることができなくなった引き菓子。大切な節目にお菓子を用意する、昔ながらの風習も大事にしたいものです。 ※ 大正時代の見本帳を参考にすると下記のような菓子が考えられる。 「出しほ」…海に月をあしらった煉羊羹 「若紫」…籠に松の焼印を押した薯蕷饅頭 「寒紅梅」…梅形の羊羹製(こなし) 「高峯羹」…富士山の意匠の煉羊羹 「新千代の蔭」…松の焼印を押した薯蕷饅頭 「八重梅」…梅形の羊羹製(こなし) ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
徳川慶喜と引き菓子
最後の将軍のお好み「最後の将軍」として知られる十五代将軍徳川慶喜 (1837~1913)。幕末の動乱期、その職に就いていたのは1年あまりでしたが、わずかな在任期間に政治の刷新、軍備の充実など幕政改革に着手したことは、彼が非凡であったことをうかがわせます。もし平和な時代であったなら、「名君」と呼ばれていたことでしょう。 将軍ということで無骨な想像をしがちですが、慶喜は意外にも写真、油絵など多彩な趣味を持っていました。明治に入って将軍職を解かれた後は、その才能を活かして悠々自適の生活を送っていたようです。 さて、慶喜の晩年の明治41年 (1908) 11月12日に、お菓子のご注文をいただいていたことが虎屋の『大福帳』に見えます。この当時士族や華族のご注文のほとんどは家単位であり、個人名でご用命を承るのは大変珍しいことでした。 お届けしたお菓子は、「出しほ (いでしお)」「若紫」「寒紅梅」を五つ盛りにしたものを18人前と、「高峯羹」「新千代の蔭」「八重梅」※ を三つ盛りにして8人前です。 「三つ盛り」「五つ盛り」というのは、折などに奇数詰め合わせたもので、 慶弔時の引き菓子として使われます。特に慶事のお菓子は華やかな意匠に加え大ぶりで人目を引くため、かつては大変人気がありました。残念ながら徳川慶喜がどのような場でお菓子を使ったのかは、史料に記されていません。ただ、じきじきのご用命だったことから大切なお祝いごとがあったと想像されます。 今では結婚式の引き出物などに使われるくらいで、なかなか目にすることができなくなった引き菓子。大切な節目にお菓子を用意する、昔ながらの風習も大事にしたいものです。 ※ 大正時代の見本帳を参考にすると下記のような菓子が考えられる。 「出しほ」…海に月をあしらった煉羊羹 「若紫」…籠に松の焼印を押した薯蕷饅頭 「寒紅梅」…梅形の羊羹製(こなし) 「高峯羹」…富士山の意匠の煉羊羹 「新千代の蔭」…松の焼印を押した薯蕷饅頭 「八重梅」…梅形の羊羹製(こなし) ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

近衛内前と蓬が嶋
蓬が嶋銘菓の名付け親新年には干支菓子・お題菓子をはじめ、鶴や亀・松竹梅など、おめでたい意匠の菓子が喜ばれます。今回は正月祝いにちなみ、当店の寿ぎの菓子「蓬が嶋」をご紹介しましょう。蓬が嶋とは、中国の伝説にみえる、不老不死の仙人が住む理想郷のこと。蓬莱山 (ほうらいさん)、蓬莱島とも呼ばれ、松竹梅が生い茂り、鶴亀が遊ぶ島として、古来多くの美術品に描かれています。 菓子の場合、子持ち饅頭になってしまうのですから楽しいもの。これは名前が示すとおり、小さな饅頭を包みこんだ大饅頭で、半分に切ると、中の子饅頭の紅・黄・紫・緑・白の色合いが目にも鮮やかです (写真) 。結婚式の引出物に使われることも多く、その愛らしさには思わず笑みもこぼれます。 この饅頭の命銘者が、江戸時代中期の公家、近衛内前 (うちさき) 公 (1728~85) です。当店の延享3年 (1746)『御用御菓子御直段帳』により、宝暦12年 (1762) 10月6日に御銘を賜ったことがわかっています。 同年同月18日条の製法によれば、当時の「蓬が嶋」は高さ2寸5分 (7.5センチ) 、まわり (直径か?) 5寸6、7分 (約17センチ) で小倉餡入りの小さな朧饅頭が20個入っていました。現在の五色の餡に比べ、地味な印象ですが、饅頭の数の多さにはびっくりです。この子持ち饅頭に「蓬が嶋」の銘をつけられた、内前公 (当時まだ35歳) の発想はおみごと。関白、摂政太政大臣などをつとめた器量に加え、洒落たセンスの持ち主だったのではと想像したくなります。ちなみに内前公の著した日記『内前公記』は、宮中での諸行事を記した史料として、評価が高いものです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
近衛内前と蓬が嶋
蓬が嶋銘菓の名付け親新年には干支菓子・お題菓子をはじめ、鶴や亀・松竹梅など、おめでたい意匠の菓子が喜ばれます。今回は正月祝いにちなみ、当店の寿ぎの菓子「蓬が嶋」をご紹介しましょう。蓬が嶋とは、中国の伝説にみえる、不老不死の仙人が住む理想郷のこと。蓬莱山 (ほうらいさん)、蓬莱島とも呼ばれ、松竹梅が生い茂り、鶴亀が遊ぶ島として、古来多くの美術品に描かれています。 菓子の場合、子持ち饅頭になってしまうのですから楽しいもの。これは名前が示すとおり、小さな饅頭を包みこんだ大饅頭で、半分に切ると、中の子饅頭の紅・黄・紫・緑・白の色合いが目にも鮮やかです (写真) 。結婚式の引出物に使われることも多く、その愛らしさには思わず笑みもこぼれます。 この饅頭の命銘者が、江戸時代中期の公家、近衛内前 (うちさき) 公 (1728~85) です。当店の延享3年 (1746)『御用御菓子御直段帳』により、宝暦12年 (1762) 10月6日に御銘を賜ったことがわかっています。 同年同月18日条の製法によれば、当時の「蓬が嶋」は高さ2寸5分 (7.5センチ) 、まわり (直径か?) 5寸6、7分 (約17センチ) で小倉餡入りの小さな朧饅頭が20個入っていました。現在の五色の餡に比べ、地味な印象ですが、饅頭の数の多さにはびっくりです。この子持ち饅頭に「蓬が嶋」の銘をつけられた、内前公 (当時まだ35歳) の発想はおみごと。関白、摂政太政大臣などをつとめた器量に加え、洒落たセンスの持ち主だったのではと想像したくなります。ちなみに内前公の著した日記『内前公記』は、宮中での諸行事を記した史料として、評価が高いものです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

吉良義央とカステラ
「歴史上の人物と和菓子展その2」より「こぼれうめ」と「かすていら」忠臣蔵でおなじみ あの人もお菓子好き?元禄15年 12月14日 。四十七人の赤穂浪士が吉良義央 (上野介:1641~1702) 邸に押し入り、主君浅野長矩の仇を討ちました。この仇討ちは『忠臣蔵』として、人形浄瑠璃、歌舞伎を始め戯曲化され、今日でも映画、ドラマの題材に取り上げられています。 事件の発端は前年、江戸城本丸大廊下で浅野が上野介を斬りつけ、その後切腹したことにあります。これにより上野介は悪役の印象が強いといえますが、実際は三河国幡豆郡吉良地方の統治に優れ、名君として尊敬を集めた人物でありました。 虎屋には、江戸幕府からの使者・上使であった上野介に、伏見宮様より贈られた菓子の記録 (元禄7年:1694) 『諸方御用之留』が残っており、南蛮菓子の「かすていら (カステラ)」、「こぼれ梅」といった干菓子、「けんひ (見肥)」「さとうかや (砂糖榧)」「落雁」など五種類の菓子が箱詰めされたことがわかります。 当時「カステラ」は、どんなものだったのでしょうか。南蛮菓子のひとつで高級品とされ、人気がありました。江戸時代の菓子製法書などから想像してみると、私達が口にしているものよりも、甘みも、ふくらみもずっと少ない菓子だったと思われます。 記録の中に、上野介が登場するのは一度のみですが、意外と菓子好きだったのかもしれません。気難しそうな人物として知られる吉良上野介の微笑ましい一面です。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
吉良義央とカステラ
「歴史上の人物と和菓子展その2」より「こぼれうめ」と「かすていら」忠臣蔵でおなじみ あの人もお菓子好き?元禄15年 12月14日 。四十七人の赤穂浪士が吉良義央 (上野介:1641~1702) 邸に押し入り、主君浅野長矩の仇を討ちました。この仇討ちは『忠臣蔵』として、人形浄瑠璃、歌舞伎を始め戯曲化され、今日でも映画、ドラマの題材に取り上げられています。 事件の発端は前年、江戸城本丸大廊下で浅野が上野介を斬りつけ、その後切腹したことにあります。これにより上野介は悪役の印象が強いといえますが、実際は三河国幡豆郡吉良地方の統治に優れ、名君として尊敬を集めた人物でありました。 虎屋には、江戸幕府からの使者・上使であった上野介に、伏見宮様より贈られた菓子の記録 (元禄7年:1694) 『諸方御用之留』が残っており、南蛮菓子の「かすていら (カステラ)」、「こぼれ梅」といった干菓子、「けんひ (見肥)」「さとうかや (砂糖榧)」「落雁」など五種類の菓子が箱詰めされたことがわかります。 当時「カステラ」は、どんなものだったのでしょうか。南蛮菓子のひとつで高級品とされ、人気がありました。江戸時代の菓子製法書などから想像してみると、私達が口にしているものよりも、甘みも、ふくらみもずっと少ない菓子だったと思われます。 記録の中に、上野介が登場するのは一度のみですが、意外と菓子好きだったのかもしれません。気難しそうな人物として知られる吉良上野介の微笑ましい一面です。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

尾形光琳 ―元禄の華―
宝永4年「御菓子之畫圖」光琳好みの和菓子国宝『紅白梅図屏風』、『燕子花 (かきつばた) 図屏風』などの作者として有名な尾形光琳 (おがたこうりん・1658~1716) は、華やかな元禄時代を代表する絵師です。 虎屋には光琳が、パトロンであった銀座役人、中村内蔵助 (くらのすけ) にお菓子を贈った記録が残っています。『諸方御用留帳』の宝永7年 (1710) 5月21日条によって、10種類ほどのお菓子をご注文いただき、届け先にて二重の重箱二組に詰めたことがわかります。 そのうち「色木の実 (いろこのみ)」と「友千鳥」は宝永4年 (1707) の『御菓子之畫圖』から当時の色形や材料を知ることができます。 「色木の実」はくちなしと小豆で着色した生地で、秋に色づいた木の実と葉を表しています。前述の史料によれば、なんと150個も注文されました。明治以降、実の方は作られなくなり、現在虎屋では同じ菓銘で葉のみを作ることがあります。また、「友千鳥」は、群れ飛ぶ千鳥に見立てて小豆の粒を散らした、蒸羊羹だったと思われます。 光琳と虎屋のあいだでどのようなやりとりがあって贈り物の菓子が選ばれたのか、気になるところです。 色木の実※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
尾形光琳 ―元禄の華―
宝永4年「御菓子之畫圖」光琳好みの和菓子国宝『紅白梅図屏風』、『燕子花 (かきつばた) 図屏風』などの作者として有名な尾形光琳 (おがたこうりん・1658~1716) は、華やかな元禄時代を代表する絵師です。 虎屋には光琳が、パトロンであった銀座役人、中村内蔵助 (くらのすけ) にお菓子を贈った記録が残っています。『諸方御用留帳』の宝永7年 (1710) 5月21日条によって、10種類ほどのお菓子をご注文いただき、届け先にて二重の重箱二組に詰めたことがわかります。 そのうち「色木の実 (いろこのみ)」と「友千鳥」は宝永4年 (1707) の『御菓子之畫圖』から当時の色形や材料を知ることができます。 「色木の実」はくちなしと小豆で着色した生地で、秋に色づいた木の実と葉を表しています。前述の史料によれば、なんと150個も注文されました。明治以降、実の方は作られなくなり、現在虎屋では同じ菓銘で葉のみを作ることがあります。また、「友千鳥」は、群れ飛ぶ千鳥に見立てて小豆の粒を散らした、蒸羊羹だったと思われます。 光琳と虎屋のあいだでどのようなやりとりがあって贈り物の菓子が選ばれたのか、気になるところです。 色木の実※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)