虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
谷崎潤一郎と羊羹
陰翳の美耽美主義の作家として出発、後に古典へ回帰し日本美を追求した谷崎潤一郎(1886~1965)は、『刺青』『細雪』などを代表作とし、生涯精力的に執筆活動を続けました。 昭和8年(1933)に発表された『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』では、日本に古くから伝わる漆器や調度品などを題材に、その陰翳の美が論じられています。 羊羹の美同書で谷崎は、夏目漱石が『草枕』の中で羊羹を賞賛していたのを引き合いに、この菓子を陰翳の美しさがあるものとして述べています。 「玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光を吸い取って夢みる如きほの明るさを啣(ふく)んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。…(中略)…だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑らかなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融(と)けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。」 瞑想の菓子谷崎は羊羹について、「日の光を吸い取って」「暗黒が一箇の甘い塊になって」と、まるで生きもののように書いています。谷崎の美学をみごとに表した、凄みすら感じる文章といえます。 簡潔な色形の羊羹は、華やかな生菓子とは異なり地味な印象を与えがちです。しかし陰翳のある深い色合いや質感こそが、人々を瞑想の境地に誘うのでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
谷崎潤一郎と羊羹
陰翳の美耽美主義の作家として出発、後に古典へ回帰し日本美を追求した谷崎潤一郎(1886~1965)は、『刺青』『細雪』などを代表作とし、生涯精力的に執筆活動を続けました。 昭和8年(1933)に発表された『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』では、日本に古くから伝わる漆器や調度品などを題材に、その陰翳の美が論じられています。 羊羹の美同書で谷崎は、夏目漱石が『草枕』の中で羊羹を賞賛していたのを引き合いに、この菓子を陰翳の美しさがあるものとして述べています。 「玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光を吸い取って夢みる如きほの明るさを啣(ふく)んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。…(中略)…だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑らかなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融(と)けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。」 瞑想の菓子谷崎は羊羹について、「日の光を吸い取って」「暗黒が一箇の甘い塊になって」と、まるで生きもののように書いています。谷崎の美学をみごとに表した、凄みすら感じる文章といえます。 簡潔な色形の羊羹は、華やかな生菓子とは異なり地味な印象を与えがちです。しかし陰翳のある深い色合いや質感こそが、人々を瞑想の境地に誘うのでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
北原白秋とカステラ
『邪宗門(じゃしゅうもん)』発表「からたちの花」「ペチカ」「この道」などの童謡の詩で今も親しまれている北原白秋(きたはらはくしゅう・1885~1942)は、明治18年、福岡県山門郡沖端村(現柳川市)の裕福な海産物問屋に生まれました。中学を中途退学すると上京、早稲田大学英文科予科に入学し、感覚的、官能的な象徴詩の創作を続け、早くも25歳で発表した詩集『邪宗門』(キリスト教の意)で一躍注目されます。この作品に南蛮情緒が漂っているのは、白秋がキリシタン文化の色濃く残る九州生まれだったことが影響しているといわれます。特にキリシタンにゆかりがあり、外来文化の窓口だった長崎は白秋にとって憧れの地だったと伝えられます。 カステラ礼讃そうした背景もあり、長崎名物そして南蛮菓子※の代表として知られるカステラに、白秋 は特別な思いを抱いていたのでしょう。『邪宗門』刊行の翌年、雑誌『創作』に掲載され たエッセイ「桐の花とカステラ」には、その魅力について「…粉っぽい新しさ、タッチの フレッシュな印象、実際触って見て懐かしいではないか。…」と記されています。このほか白秋は「カステラの黄なるやはらみ新しき味ひもよし春の暮れゆく」という歌や、カステラの詩(第二詩集『思ひ出』収載)も書いています。文豪夏目漱石が『草枕』で羊羹をたたえたように、白秋はカステラを礼讃し、美文を残 してくれたといえるでしょう。カステラの色や質感が、言葉の魔術師ともいわれた白秋に 創作のインスピレーションを与えたことが興味深く思われます。 ※ 南蛮菓子とは、16~17世紀、南蛮(ポルトガルやスペイン)との交易や宣教師の布教をきっかけに、 伝えられた菓子のこと。カステラほか、金平糖やぼうろ、有平糖などがある。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
北原白秋とカステラ
『邪宗門(じゃしゅうもん)』発表「からたちの花」「ペチカ」「この道」などの童謡の詩で今も親しまれている北原白秋(きたはらはくしゅう・1885~1942)は、明治18年、福岡県山門郡沖端村(現柳川市)の裕福な海産物問屋に生まれました。中学を中途退学すると上京、早稲田大学英文科予科に入学し、感覚的、官能的な象徴詩の創作を続け、早くも25歳で発表した詩集『邪宗門』(キリスト教の意)で一躍注目されます。この作品に南蛮情緒が漂っているのは、白秋がキリシタン文化の色濃く残る九州生まれだったことが影響しているといわれます。特にキリシタンにゆかりがあり、外来文化の窓口だった長崎は白秋にとって憧れの地だったと伝えられます。 カステラ礼讃そうした背景もあり、長崎名物そして南蛮菓子※の代表として知られるカステラに、白秋 は特別な思いを抱いていたのでしょう。『邪宗門』刊行の翌年、雑誌『創作』に掲載され たエッセイ「桐の花とカステラ」には、その魅力について「…粉っぽい新しさ、タッチの フレッシュな印象、実際触って見て懐かしいではないか。…」と記されています。このほか白秋は「カステラの黄なるやはらみ新しき味ひもよし春の暮れゆく」という歌や、カステラの詩(第二詩集『思ひ出』収載)も書いています。文豪夏目漱石が『草枕』で羊羹をたたえたように、白秋はカステラを礼讃し、美文を残 してくれたといえるでしょう。カステラの色や質感が、言葉の魔術師ともいわれた白秋に 創作のインスピレーションを与えたことが興味深く思われます。 ※ 南蛮菓子とは、16~17世紀、南蛮(ポルトガルやスペイン)との交易や宣教師の布教をきっかけに、 伝えられた菓子のこと。カステラほか、金平糖やぼうろ、有平糖などがある。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
聖一国師と酒饅頭
「国の師」と慕われた禅僧国師とは国の師を意味する称号で、日本では鎌倉時代の高名な禅僧、聖一国師(円爾・えんに・1202~80)に初めて贈られています。宋(中国)で学び帰国した聖一国師には、深草上皇、亀山上皇、北条時頼、謝国明をはじめとする多くの人々が帰依しました。また国師は、博多の承天寺や京都の東福寺などに開山として招かれています。 饅頭伝来和菓子の代表格といえる饅頭ですが、ルーツは中国。中でも米麹を使った酒饅頭の製法を日本に伝えたのが、聖一国師だという伝承があります。仁治2年(1241)、博多に滞在中だった聖一国師は、茶屋の栗波吉右衛門に、宋で習得した饅頭の製法を教えたといいます。これが酒饅頭の始まりとされ、吉右衛門の茶店の屋号から虎屋饅頭とも呼ばれました。当社所蔵の御饅頭所看板は、聖一国師が書いて吉右衛門に与えたとされるものです(吉右衛門の店と当社との関係は不明)。饅頭の生地や麺を作るには、小麦を挽いた粉が必要ですが、東福寺には宋の寺院で茶や小麦粉を挽いていた水車の図が残されています。これは聖一国師直筆の詳細な図で、国師と饅頭との関わりを想像させます。ちなみに承天寺では国師が中国から「羹・饅・麺」をもたらしたとして、今も命日に羊羹、饅頭、うどんをお供えしています。このような伝承の背景として、禅僧が中国から様々な技術や習慣ももたらしたことが挙げられます。食事と食事の間に食べる軽食の点心もその一つ。饅頭のほか羊羹やうどんも点心として日本に伝わり、次第に材料や味が変化して現在の形になったと考えられています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
聖一国師と酒饅頭
「国の師」と慕われた禅僧国師とは国の師を意味する称号で、日本では鎌倉時代の高名な禅僧、聖一国師(円爾・えんに・1202~80)に初めて贈られています。宋(中国)で学び帰国した聖一国師には、深草上皇、亀山上皇、北条時頼、謝国明をはじめとする多くの人々が帰依しました。また国師は、博多の承天寺や京都の東福寺などに開山として招かれています。 饅頭伝来和菓子の代表格といえる饅頭ですが、ルーツは中国。中でも米麹を使った酒饅頭の製法を日本に伝えたのが、聖一国師だという伝承があります。仁治2年(1241)、博多に滞在中だった聖一国師は、茶屋の栗波吉右衛門に、宋で習得した饅頭の製法を教えたといいます。これが酒饅頭の始まりとされ、吉右衛門の茶店の屋号から虎屋饅頭とも呼ばれました。当社所蔵の御饅頭所看板は、聖一国師が書いて吉右衛門に与えたとされるものです(吉右衛門の店と当社との関係は不明)。饅頭の生地や麺を作るには、小麦を挽いた粉が必要ですが、東福寺には宋の寺院で茶や小麦粉を挽いていた水車の図が残されています。これは聖一国師直筆の詳細な図で、国師と饅頭との関わりを想像させます。ちなみに承天寺では国師が中国から「羹・饅・麺」をもたらしたとして、今も命日に羊羹、饅頭、うどんをお供えしています。このような伝承の背景として、禅僧が中国から様々な技術や習慣ももたらしたことが挙げられます。食事と食事の間に食べる軽食の点心もその一つ。饅頭のほか羊羹やうどんも点心として日本に伝わり、次第に材料や味が変化して現在の形になったと考えられています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
笠森お仙と団子
笠森お仙笠森お仙(1751~1827)は江戸谷中、笠森稲荷前の茶屋鍵屋の娘で、明和年間(1764~1772)、浅草寺内柳屋お藤、蔦屋およしとともに江戸の三美人の一人としてもてはやされた女性です。年の頃16~18歳で鈴木春信らの浮世絵に描かれた他、歌舞伎や人情本に取り上げられ、果ては双六、手拭い、人形まで作られたというのですから、相当な人気です。元々笠森神社は瘡(かさ)除けの神社として信仰されていましたが、その上お仙を見ようと来る参拝客が大勢いたようです。 お仙と団子ところでお仙を描いた絵によく団子が出てくることをご存じでしょうか。 黒と白の2種類あり、黒は土、白は米の粉で出来ていました。 これは笠森稲荷のお供え用で、病が治るよう願掛けをする時には土の団子が、 願いが成就した後は米の粉の団子が使われました。 狂歌師、戯作者大田南畝も自著の中でお仙のことをたびたび述べています。 『売飴土平伝』(1769)では江戸市中で歌を歌って飴を売った実在の人物、 土平を主人公にしながらも、お仙が紫雲に乗った姿で登場します(挿絵参照)。 2人は出会い語り合った後、土平は飴の詩を作り、お仙は花団子、菖蒲草団子、 彼岸団子を始め、景勝団子、飛団子、千団子、十団子等々、団子尽くしの詩を 詠むのです。 お仙の失踪お仙は明和7年(1770)鍵屋から姿を消しました。 彼女目当てに笠森稲荷に来ても、店には頭の毛が薄い老父が居るだけで、 「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という言葉まで流行りました。 人気者だっただけに様々な憶測がされたようですが、 実は御家人倉地政之介の妻となって、桜田門内御用屋敷に住んでおり、 子宝にも恵まれて幸福な生涯を送ったようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
笠森お仙と団子
笠森お仙笠森お仙(1751~1827)は江戸谷中、笠森稲荷前の茶屋鍵屋の娘で、明和年間(1764~1772)、浅草寺内柳屋お藤、蔦屋およしとともに江戸の三美人の一人としてもてはやされた女性です。年の頃16~18歳で鈴木春信らの浮世絵に描かれた他、歌舞伎や人情本に取り上げられ、果ては双六、手拭い、人形まで作られたというのですから、相当な人気です。元々笠森神社は瘡(かさ)除けの神社として信仰されていましたが、その上お仙を見ようと来る参拝客が大勢いたようです。 お仙と団子ところでお仙を描いた絵によく団子が出てくることをご存じでしょうか。 黒と白の2種類あり、黒は土、白は米の粉で出来ていました。 これは笠森稲荷のお供え用で、病が治るよう願掛けをする時には土の団子が、 願いが成就した後は米の粉の団子が使われました。 狂歌師、戯作者大田南畝も自著の中でお仙のことをたびたび述べています。 『売飴土平伝』(1769)では江戸市中で歌を歌って飴を売った実在の人物、 土平を主人公にしながらも、お仙が紫雲に乗った姿で登場します(挿絵参照)。 2人は出会い語り合った後、土平は飴の詩を作り、お仙は花団子、菖蒲草団子、 彼岸団子を始め、景勝団子、飛団子、千団子、十団子等々、団子尽くしの詩を 詠むのです。 お仙の失踪お仙は明和7年(1770)鍵屋から姿を消しました。 彼女目当てに笠森稲荷に来ても、店には頭の毛が薄い老父が居るだけで、 「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という言葉まで流行りました。 人気者だっただけに様々な憶測がされたようですが、 実は御家人倉地政之介の妻となって、桜田門内御用屋敷に住んでおり、 子宝にも恵まれて幸福な生涯を送ったようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
富岡鉄斎と虎屋饅頭
虎屋饅頭と掛紙「羅漢虎上図」鉄斎と虎屋の関わり富岡鉄斎(1836~1924)は、奔放な筆使いによる独自の作品を数多く手掛けた日本画家です。虎屋京都店の近くに居を構え、当時の支配人黒川正弘に絵の指導をするなど虎屋とは縁の深い方です。そうした繋がりから、鉄斎の書斎改築の際には、京都店の離れや茶室が画室として提供され、彼の作品の一部は虎屋の所蔵品に加えられました。 鉄斎作品と虎屋饅頭虎屋蔵の鉄斎作品には菓子を題材にしたものもいくつか見られます。例えば「羅漢虎上図」は、画賛に虎屋主人の為とあり、虎に乗った羅漢を描いたもので、手に持った器に入っているのは饅頭と考えられます。羅漢とは仏教における最高の悟りを開いた聖者をさします。現在、同図は虎屋饅頭の井籠掛紙に使用されています。虎屋饅頭は、糯米と麹を伝統の技術で仕込み、お作りする酒饅頭で、まろやかな酒の香りが特徴です。また、このほかにも虎屋所蔵の鉄斎作品には、「虎屋饅頭」と揮毫された額、「饅頭起源図」などもあります。「饅頭起源図」は『三国志』で知られる諸葛孔明が戦いの折、羊と豚の肉を皮に包んで神に祀ったという饅頭起源説をもとに描かれたものです。和漢の故事や文学への造詣が深かった鉄斎は、大陸伝来の饅頭のルーツなどにも少なからず興味をもっていたのでしょう。 ※ 2017年現在、井籠入りの虎屋饅頭は販売いたしておりません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
富岡鉄斎と虎屋饅頭
虎屋饅頭と掛紙「羅漢虎上図」鉄斎と虎屋の関わり富岡鉄斎(1836~1924)は、奔放な筆使いによる独自の作品を数多く手掛けた日本画家です。虎屋京都店の近くに居を構え、当時の支配人黒川正弘に絵の指導をするなど虎屋とは縁の深い方です。そうした繋がりから、鉄斎の書斎改築の際には、京都店の離れや茶室が画室として提供され、彼の作品の一部は虎屋の所蔵品に加えられました。 鉄斎作品と虎屋饅頭虎屋蔵の鉄斎作品には菓子を題材にしたものもいくつか見られます。例えば「羅漢虎上図」は、画賛に虎屋主人の為とあり、虎に乗った羅漢を描いたもので、手に持った器に入っているのは饅頭と考えられます。羅漢とは仏教における最高の悟りを開いた聖者をさします。現在、同図は虎屋饅頭の井籠掛紙に使用されています。虎屋饅頭は、糯米と麹を伝統の技術で仕込み、お作りする酒饅頭で、まろやかな酒の香りが特徴です。また、このほかにも虎屋所蔵の鉄斎作品には、「虎屋饅頭」と揮毫された額、「饅頭起源図」などもあります。「饅頭起源図」は『三国志』で知られる諸葛孔明が戦いの折、羊と豚の肉を皮に包んで神に祀ったという饅頭起源説をもとに描かれたものです。和漢の故事や文学への造詣が深かった鉄斎は、大陸伝来の饅頭のルーツなどにも少なからず興味をもっていたのでしょう。 ※ 2017年現在、井籠入りの虎屋饅頭は販売いたしておりません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
鳥居清長と松風
鳥居派の美人画絵師 江戸本材木町に生まれた清長(1752~1815)は、鳥居清満に師事し、初めは清満風の役者絵を描いていました。やがて美人画を手がけるようになり、天明期(1781~1789)には、後に「清長風」と呼ばれる八頭身の美人画に独自の様式を確立しました。その描線の美しさには定評があります。清長は、美人画で一世を風靡する以前、黄表紙の画工としても腕をふるっていました。黄表紙とは大人向けの草双紙の一種で、現在の漫画に近い読み物をいいます※。 擬人化された干菓子 『名代干菓子山殿』(1778)も、清長による黄表紙の一つです。作者の名前は記されておらず、清長が作も手がけたのかもしれません。主人公の小落雁は、主人干菓子山殿の秘蔵の茶碗を悪党金平糖に盗み出され、恋人の松風とともに茶碗奪回の旅に出る・・・というストーリー。登場人物はすべて擬人化された菓子で、干菓子山殿は東山殿(8代将軍足利義政)のひっかけ、かす寺(カステラ)の住職が羊羹和尚という具合に全編シャレのかたまりで、菓子好きには堪えられない物語です。 全国の松風 小落雁の恋人「松風」も、もちろん菓子の一種。生地の表面に芥子や胡麻を振って焼いたものです。裏にはなにもないところから「松風ばかりでうら(裏)寂しい」のシャレでつけられた名前といわれます。全国に「松風」の名のつく菓子は多く、京都の味噌松風を筆頭に、カステラ風、煎餅風などバリエーションもさまざまですが、表面の芥子や胡麻は共通しています。物語の登場人物(菓子)は30人近くにのぼりますが、その描写は実に細かく、清長は甘党だったのかなと思わせるます。ヒロインに松風を選んだのは、名前の響きの良さもさることながら、お気に入りのお菓子だったためでは、などと想像もひろがります。 ※ 虎屋文庫では2000年にこの黄表紙をテーマに展示を開催しました。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 松風については、以下でも取り上げています。詳しく知りたい方は、ぜひご覧ください。機関誌『和菓子』2号 松風について(中井まの)機関誌『和菓子』についてはこちら。
鳥居清長と松風
鳥居派の美人画絵師 江戸本材木町に生まれた清長(1752~1815)は、鳥居清満に師事し、初めは清満風の役者絵を描いていました。やがて美人画を手がけるようになり、天明期(1781~1789)には、後に「清長風」と呼ばれる八頭身の美人画に独自の様式を確立しました。その描線の美しさには定評があります。清長は、美人画で一世を風靡する以前、黄表紙の画工としても腕をふるっていました。黄表紙とは大人向けの草双紙の一種で、現在の漫画に近い読み物をいいます※。 擬人化された干菓子 『名代干菓子山殿』(1778)も、清長による黄表紙の一つです。作者の名前は記されておらず、清長が作も手がけたのかもしれません。主人公の小落雁は、主人干菓子山殿の秘蔵の茶碗を悪党金平糖に盗み出され、恋人の松風とともに茶碗奪回の旅に出る・・・というストーリー。登場人物はすべて擬人化された菓子で、干菓子山殿は東山殿(8代将軍足利義政)のひっかけ、かす寺(カステラ)の住職が羊羹和尚という具合に全編シャレのかたまりで、菓子好きには堪えられない物語です。 全国の松風 小落雁の恋人「松風」も、もちろん菓子の一種。生地の表面に芥子や胡麻を振って焼いたものです。裏にはなにもないところから「松風ばかりでうら(裏)寂しい」のシャレでつけられた名前といわれます。全国に「松風」の名のつく菓子は多く、京都の味噌松風を筆頭に、カステラ風、煎餅風などバリエーションもさまざまですが、表面の芥子や胡麻は共通しています。物語の登場人物(菓子)は30人近くにのぼりますが、その描写は実に細かく、清長は甘党だったのかなと思わせるます。ヒロインに松風を選んだのは、名前の響きの良さもさることながら、お気に入りのお菓子だったためでは、などと想像もひろがります。 ※ 虎屋文庫では2000年にこの黄表紙をテーマに展示を開催しました。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 松風については、以下でも取り上げています。詳しく知りたい方は、ぜひご覧ください。機関誌『和菓子』2号 松風について(中井まの)機関誌『和菓子』についてはこちら。