虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子

千利休とふの焼
千利休と豊臣秀吉千利休(1522~91)といえば侘び茶の大成者としてあまりにも有名です。大坂堺の商人の家に生まれた利休は、早くから茶の湯の道に入り、23歳頃には茶人として知られるようになっています。その後、織田信長ついで豊臣秀吉に茶頭として仕えました。豊臣秀吉とともに禁裏茶会や北野大茶湯を催すなど、茶の湯の第一人者となっています。また、秀吉の側近のひとりとして、政治向きの重要な相談にも関わっていました。しかし、天正19年(1591)2月28日には、その秀吉より死を命じられ切腹しています。この原因については、古くから諸説ありありますが、石田三成等との対立によるとも言われています。 利休の好み菓子死の前年にあたる天正18年8月から翌19年閏正月までの間、利休は頻繁に茶会を行っています。その茶会の多くは『利休百会記』に記されていますが、88回中68回の茶会に「ふの焼」という菓子が使われています。当時の菓子は、「昆布」や「栗」や「饅頭」など素朴なものが多いのですが、「ふの焼」の使用回数はぬきんでています。そこから後世、「ふの焼」が利休好みの菓子と言われるようになりました。 ふの焼の作り方「ふの焼」の製法は色々あったようです。良く知られているのは、小麦粉を水で溶いて平鍋に入れて薄く焼き、味噌を塗って丸めという作り方です。また味噌の替わりに刻んだくるみ・山椒味噌・白砂糖・ケシをいれたものもあります。虎屋の記録によると、寛政5年(1793)5月、後桜町上皇御所へお届けした「ふの焼」には御膳餡を入れて巻いています。また、かつての江戸麹町三丁目の名物「助惣焼」は、小麦粉生地で、餡を四角く包んだもので、「助惣ふの焼」とも呼ばれていました。千利休が好んだ「ふの焼」も時代とともに様々に変化していったようです。ホットプレートでも簡単に作れそうな「ふの焼」を一度おためしください。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
千利休とふの焼
千利休と豊臣秀吉千利休(1522~91)といえば侘び茶の大成者としてあまりにも有名です。大坂堺の商人の家に生まれた利休は、早くから茶の湯の道に入り、23歳頃には茶人として知られるようになっています。その後、織田信長ついで豊臣秀吉に茶頭として仕えました。豊臣秀吉とともに禁裏茶会や北野大茶湯を催すなど、茶の湯の第一人者となっています。また、秀吉の側近のひとりとして、政治向きの重要な相談にも関わっていました。しかし、天正19年(1591)2月28日には、その秀吉より死を命じられ切腹しています。この原因については、古くから諸説ありありますが、石田三成等との対立によるとも言われています。 利休の好み菓子死の前年にあたる天正18年8月から翌19年閏正月までの間、利休は頻繁に茶会を行っています。その茶会の多くは『利休百会記』に記されていますが、88回中68回の茶会に「ふの焼」という菓子が使われています。当時の菓子は、「昆布」や「栗」や「饅頭」など素朴なものが多いのですが、「ふの焼」の使用回数はぬきんでています。そこから後世、「ふの焼」が利休好みの菓子と言われるようになりました。 ふの焼の作り方「ふの焼」の製法は色々あったようです。良く知られているのは、小麦粉を水で溶いて平鍋に入れて薄く焼き、味噌を塗って丸めという作り方です。また味噌の替わりに刻んだくるみ・山椒味噌・白砂糖・ケシをいれたものもあります。虎屋の記録によると、寛政5年(1793)5月、後桜町上皇御所へお届けした「ふの焼」には御膳餡を入れて巻いています。また、かつての江戸麹町三丁目の名物「助惣焼」は、小麦粉生地で、餡を四角く包んだもので、「助惣ふの焼」とも呼ばれていました。千利休が好んだ「ふの焼」も時代とともに様々に変化していったようです。ホットプレートでも簡単に作れそうな「ふの焼」を一度おためしください。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

岩﨑小彌太とゴルフ最中
大正15年に発売 虎屋にはゴルフボールをかたどった最中、 ホールインワンがあります。とてもモダンな意匠ですが、大正15年(1926)発売という案外古い歴史をもったお菓子です。実はその誕生には、大正から昭和にかけて 活躍した三菱財閥の総帥、岩﨑小彌太(1879~1945)が関わっています。三菱グループのひとつ小岩井農牧の元社長赤星平馬氏 (1906~1993)は、「ゴルフもなか談義」(『湘南』通巻27号1971.4)で、小彌太の妻 孝子夫人の話として次のように書いています。 経済界のリーダーと内助の功 広い人脈を持っていた岩﨑小彌太社長は、 宮家、陸海軍の将軍、それに外国の賓客などを自邸に招いて宴会を開くことをたいそう楽しみにしていました。その際招待客を喜ばせ、 夫を満足させることに心を砕いたのが孝子夫人でした。ある時、三菱各社の幹部を集めたパーティーが開かれることになりました。夫人は、お客様をびっくりさせる工夫をと、ゴルフ形のお菓子を考えつき、早速日頃行き来のあった虎屋に注文して作らせました。当日、お客様 たちが宴席につくと、ゴルフボールの箱が置いてありました。当時ボールは大変高価なものでしたから皆大喜び。ところが蓋を開けると、お菓子だったので大笑いになり、宴は大成功だったということでした。 「ゴルフ」って何だろう? 実は、注文を受けた虎屋では、この菓子を作るのにかなり苦労したようです。その頃ゴルフは現在のように浸透しておらず、ゴルフボールを見たことのある店員すらいませんでした。とりあえず木型をあつらえて、押物や羊羹製(こなし)生地で作ってみましたが、質感を出すのが大変で、苦心さんたんした末にやっとお届けできたそうです。その後、より簡単に作れるようにと工夫されたのが最中で、これを虎屋で販売することになりました。現在もご好評をいただいている「ホールインワン」のはじまりです。意匠としても面白いゴルフボールを、和菓子にするというアイディアは、大正時代から色あせることなく、今も人々を感嘆させているといえましょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
岩﨑小彌太とゴルフ最中
大正15年に発売 虎屋にはゴルフボールをかたどった最中、 ホールインワンがあります。とてもモダンな意匠ですが、大正15年(1926)発売という案外古い歴史をもったお菓子です。実はその誕生には、大正から昭和にかけて 活躍した三菱財閥の総帥、岩﨑小彌太(1879~1945)が関わっています。三菱グループのひとつ小岩井農牧の元社長赤星平馬氏 (1906~1993)は、「ゴルフもなか談義」(『湘南』通巻27号1971.4)で、小彌太の妻 孝子夫人の話として次のように書いています。 経済界のリーダーと内助の功 広い人脈を持っていた岩﨑小彌太社長は、 宮家、陸海軍の将軍、それに外国の賓客などを自邸に招いて宴会を開くことをたいそう楽しみにしていました。その際招待客を喜ばせ、 夫を満足させることに心を砕いたのが孝子夫人でした。ある時、三菱各社の幹部を集めたパーティーが開かれることになりました。夫人は、お客様をびっくりさせる工夫をと、ゴルフ形のお菓子を考えつき、早速日頃行き来のあった虎屋に注文して作らせました。当日、お客様 たちが宴席につくと、ゴルフボールの箱が置いてありました。当時ボールは大変高価なものでしたから皆大喜び。ところが蓋を開けると、お菓子だったので大笑いになり、宴は大成功だったということでした。 「ゴルフ」って何だろう? 実は、注文を受けた虎屋では、この菓子を作るのにかなり苦労したようです。その頃ゴルフは現在のように浸透しておらず、ゴルフボールを見たことのある店員すらいませんでした。とりあえず木型をあつらえて、押物や羊羹製(こなし)生地で作ってみましたが、質感を出すのが大変で、苦心さんたんした末にやっとお届けできたそうです。その後、より簡単に作れるようにと工夫されたのが最中で、これを虎屋で販売することになりました。現在もご好評をいただいている「ホールインワン」のはじまりです。意匠としても面白いゴルフボールを、和菓子にするというアイディアは、大正時代から色あせることなく、今も人々を感嘆させているといえましょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

滝沢馬琴と菓子
馬琴も彼岸に食べた牡丹餅(おはぎ)戯作者、馬琴の残した日記曲亭(滝沢)馬琴(1767~1848)を知らなくても、『南総里見八犬伝』の作者と聞けば、「ああ、あの…」と親しみを感じる方は多いのではないでしょうか?八人の犬(剣)士が大活躍するこの物語、映画や芝居、コミックの題材にもなっており、今も変らぬ魅力を放っています。馬琴は江戸深川に下級武士の子として生まれ、放浪生活を経て山東京伝に入門し、履物商伊勢屋に入婿となった後、著述業に専念したといいます。『南総里見八犬伝』は晩年の最高傑作とされますが、おもしろいことに馬琴はこの創作時期を含む文政9年(1826)から嘉永元年(1848)まで日記を残しています。 庶民と同じ日常生活当時すでに高名な戯作者だったとはいえ、今のような印税のしくみがなかったため、馬琴の暮らしぶりは中程度の町人程度。生活は質素で、家で食事をすることが多かったようです。几帳面な性格ゆえか、日記の記述は細部にわたっており、食べ物のこともよくでてきます。 意外に多い菓子の記述お菓子関連では、2月1日に「鏡開き」で汁粉、5月5日の端午の節句に柏餅、春秋のお彼岸に牡丹餅など、行事がらみのものが目につきます。また、饅頭、落雁、水飴、羊羹など、私たちにもおなじみの菓子が見えるのは、親しみを感じさせるところ。たとえば羊羹は、天保2年(1831)2月11日の「…疱瘡見舞として、煉羊肝(羊羹)、被贈之」などを例に、病気見舞いや贈答品としてたびたび使われています。寒天を使って煉り込む煉羊羹は寛政年間(1789~1804)に江戸で考案されたといい、この頃にはそれまでの蒸羊羹にかわって、人気を得ていたのでしょう。虚構の世界に思いを巡らす作家像に、菓子を楽しむ市井人、馬琴の姿が重なってなんだかほのぼのしてきます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
滝沢馬琴と菓子
馬琴も彼岸に食べた牡丹餅(おはぎ)戯作者、馬琴の残した日記曲亭(滝沢)馬琴(1767~1848)を知らなくても、『南総里見八犬伝』の作者と聞けば、「ああ、あの…」と親しみを感じる方は多いのではないでしょうか?八人の犬(剣)士が大活躍するこの物語、映画や芝居、コミックの題材にもなっており、今も変らぬ魅力を放っています。馬琴は江戸深川に下級武士の子として生まれ、放浪生活を経て山東京伝に入門し、履物商伊勢屋に入婿となった後、著述業に専念したといいます。『南総里見八犬伝』は晩年の最高傑作とされますが、おもしろいことに馬琴はこの創作時期を含む文政9年(1826)から嘉永元年(1848)まで日記を残しています。 庶民と同じ日常生活当時すでに高名な戯作者だったとはいえ、今のような印税のしくみがなかったため、馬琴の暮らしぶりは中程度の町人程度。生活は質素で、家で食事をすることが多かったようです。几帳面な性格ゆえか、日記の記述は細部にわたっており、食べ物のこともよくでてきます。 意外に多い菓子の記述お菓子関連では、2月1日に「鏡開き」で汁粉、5月5日の端午の節句に柏餅、春秋のお彼岸に牡丹餅など、行事がらみのものが目につきます。また、饅頭、落雁、水飴、羊羹など、私たちにもおなじみの菓子が見えるのは、親しみを感じさせるところ。たとえば羊羹は、天保2年(1831)2月11日の「…疱瘡見舞として、煉羊肝(羊羹)、被贈之」などを例に、病気見舞いや贈答品としてたびたび使われています。寒天を使って煉り込む煉羊羹は寛政年間(1789~1804)に江戸で考案されたといい、この頃にはそれまでの蒸羊羹にかわって、人気を得ていたのでしょう。虚構の世界に思いを巡らす作家像に、菓子を楽しむ市井人、馬琴の姿が重なってなんだかほのぼのしてきます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

井伊直弼と千歳鮨
幕末の大老にして大名茶人井伊直弼(1815~60)は、幕末に大老に就任し、日米修好通商条約を結びますが、安政7年3月3日、桜田門外で暗殺されてしまいます。豪腕政治家としてのイメージが強い直弼ですが、大変な趣味人でもあったということはあまり知られていません。直弼には多くの兄がいたため、政治の表舞台に立つ望みは絶たれていました。その才能と情熱は茶の湯、陶芸、剣術、和歌、能楽などに傾けられ、どれも玄人顔負けの腕前になります。特に茶の湯には造詣が深く、直弼執筆の『茶湯一会集』は、近世茶書の圧巻と言われています。 直弼の茶会記と菓子兄の死によって彦根35万石を継いだ後も直弼は盛んに茶会を催し、200回以上の茶会記を詳細に書き残しています。茶菓子の銘や器についても記載があり、松風、友千鳥は京製、ふのやきは手製、羊羹は伏見のものであるなど、菓子にもこだわりがあったようです。 千歳鮨―菓子なのに「鮨」?菓子の中には千歳鮨という変わった名も見えます。菓子なのに「鮨」なんておかしいですね。直弼は彦根や江戸の茶会で用いており、虎屋の御所御用の記録にも見えるので、京や江戸で作られていたようです。写真は現在虎屋がお作りしている千歳鮨で、求肥で餡を包み、和三盆糖をまぶしています。菓銘の由来はよくわかっていませんが、江戸時代の製法書に「鮨饅頭」という菓子があり、求肥を煎粉に漬けると書かれています。このことから、魚を飯に漬ける馴鮨(なれずし)のように、かつては木箱などに粉か砂糖を満たし、その中に求肥を入れていたのでは?と想像されます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
井伊直弼と千歳鮨
幕末の大老にして大名茶人井伊直弼(1815~60)は、幕末に大老に就任し、日米修好通商条約を結びますが、安政7年3月3日、桜田門外で暗殺されてしまいます。豪腕政治家としてのイメージが強い直弼ですが、大変な趣味人でもあったということはあまり知られていません。直弼には多くの兄がいたため、政治の表舞台に立つ望みは絶たれていました。その才能と情熱は茶の湯、陶芸、剣術、和歌、能楽などに傾けられ、どれも玄人顔負けの腕前になります。特に茶の湯には造詣が深く、直弼執筆の『茶湯一会集』は、近世茶書の圧巻と言われています。 直弼の茶会記と菓子兄の死によって彦根35万石を継いだ後も直弼は盛んに茶会を催し、200回以上の茶会記を詳細に書き残しています。茶菓子の銘や器についても記載があり、松風、友千鳥は京製、ふのやきは手製、羊羹は伏見のものであるなど、菓子にもこだわりがあったようです。 千歳鮨―菓子なのに「鮨」?菓子の中には千歳鮨という変わった名も見えます。菓子なのに「鮨」なんておかしいですね。直弼は彦根や江戸の茶会で用いており、虎屋の御所御用の記録にも見えるので、京や江戸で作られていたようです。写真は現在虎屋がお作りしている千歳鮨で、求肥で餡を包み、和三盆糖をまぶしています。菓銘の由来はよくわかっていませんが、江戸時代の製法書に「鮨饅頭」という菓子があり、求肥を煎粉に漬けると書かれています。このことから、魚を飯に漬ける馴鮨(なれずし)のように、かつては木箱などに粉か砂糖を満たし、その中に求肥を入れていたのでは?と想像されます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

平賀源内と和三盆糖
挿絵『物類品隲』より多趣多芸な発明家平賀源内(1728~1779)は、四国の高松藩志度浦の生まれです。足軽相当の身分でしたが、藩主松平頼恭に登用され、薬草園の仕事に就きます。25歳頃の1年の長崎遊学後、藩を退き、大坂を経て江戸に出ます。それからは、未曾有の大規模な物産会を計画実行する、戯作・歌舞伎の脚本を書く、エレキテル(摩擦により静電気をおこす機械)・石綿から作った耐火織物である火浣布(かかんふ)を作る、鉱山の開発をする、油絵を描く等々実にさまざまな方面にかかわり、世間をあっと驚かせながら活躍します。しかし、40歳を越した頃から仕事がはかどらなくなり、不運なことに52歳の時、人を殺傷したかどで獄中に入れられ、そこで死亡します。その才気を惜しみ、死を悼む声は多かったようです。 和三盆糖とのかかわり江戸時代中期、白砂糖はオランダ・中国との貿易による輸入品が大半でした。八代将軍吉宗が砂糖の国産化を進める政策をとり、各地の本草学者や医師、篤農家達が中国の砂糖 に並ぶものを作ろうとしましたが、国内の需要をまかなうには質・量共に程遠い状況でし た。そういった流れの中で、源内は砂糖に関する本を著しています。各地の珍しい物産をま とめた本、『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』(1763)に収録された『甘庶培養並ニ製造ノ法』 がそれです。この本にはサトウキビ栽培と砂糖の製造法が書かれています。『天工開物』(宗応星1637)他数冊の中国の書物を参考にし、抜粋したもので、原典を平易にして紹介しています。砂糖の製 法書の多くが刊行されず、写本として伝わったのに対し、この本は版本で、何度も版を変えて出版され、広く読まれました。多くの試行錯誤を経て、やがて国産砂糖の商品化は成功します。日本で作った上質の白砂糖を和三盆糖と呼びますが、源内の故郷、高松藩讃岐地方は産地として、名高くなってゆきます。和三盆糖は現在でも香川・徳島で作られています。薄い茶褐色で湿り気があって柔らかく、上品な甘味が好まれて、干菓子などに使われています。この砂糖が完成するまでに多才な発明家、源内も一役買っていたのです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
平賀源内と和三盆糖
挿絵『物類品隲』より多趣多芸な発明家平賀源内(1728~1779)は、四国の高松藩志度浦の生まれです。足軽相当の身分でしたが、藩主松平頼恭に登用され、薬草園の仕事に就きます。25歳頃の1年の長崎遊学後、藩を退き、大坂を経て江戸に出ます。それからは、未曾有の大規模な物産会を計画実行する、戯作・歌舞伎の脚本を書く、エレキテル(摩擦により静電気をおこす機械)・石綿から作った耐火織物である火浣布(かかんふ)を作る、鉱山の開発をする、油絵を描く等々実にさまざまな方面にかかわり、世間をあっと驚かせながら活躍します。しかし、40歳を越した頃から仕事がはかどらなくなり、不運なことに52歳の時、人を殺傷したかどで獄中に入れられ、そこで死亡します。その才気を惜しみ、死を悼む声は多かったようです。 和三盆糖とのかかわり江戸時代中期、白砂糖はオランダ・中国との貿易による輸入品が大半でした。八代将軍吉宗が砂糖の国産化を進める政策をとり、各地の本草学者や医師、篤農家達が中国の砂糖 に並ぶものを作ろうとしましたが、国内の需要をまかなうには質・量共に程遠い状況でし た。そういった流れの中で、源内は砂糖に関する本を著しています。各地の珍しい物産をま とめた本、『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』(1763)に収録された『甘庶培養並ニ製造ノ法』 がそれです。この本にはサトウキビ栽培と砂糖の製造法が書かれています。『天工開物』(宗応星1637)他数冊の中国の書物を参考にし、抜粋したもので、原典を平易にして紹介しています。砂糖の製 法書の多くが刊行されず、写本として伝わったのに対し、この本は版本で、何度も版を変えて出版され、広く読まれました。多くの試行錯誤を経て、やがて国産砂糖の商品化は成功します。日本で作った上質の白砂糖を和三盆糖と呼びますが、源内の故郷、高松藩讃岐地方は産地として、名高くなってゆきます。和三盆糖は現在でも香川・徳島で作られています。薄い茶褐色で湿り気があって柔らかく、上品な甘味が好まれて、干菓子などに使われています。この砂糖が完成するまでに多才な発明家、源内も一役買っていたのです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

光格上皇と虎屋の菓子
学問を好まれた上皇光格上皇(こうかくじょうこう・1771~1840/天皇在位1779~1817)は、儒学 を好み、有職故実(ゆうそくこじつ)にも通じていた方で、11代将軍家斉(いえなり) に自ら漢詩を作って贈られたというエピソードも残っています。 お菓子も好まれたのか、虎屋には上皇から頂戴した菓銘の記録があります。 修学院行幸に納めた菓子上皇は修学院離宮 がお気に入りで、度々行幸されました。12回の行幸に際し、虎屋は、150種の菓子を納めています。以下はいずれも同行幸にお納めした菓子に対し賜った銘です。文政12年(1829)長月、下染、松の友天保2年(1831)村紅葉、山路の菊、滝の糸すじ 数々の御銘上記の中からいくつかご紹介しましょう。「山路の菊」(写真参照)や 楓を象った「下染」は、現在もほぼ毎年店頭に並びます。また「村紅葉」(濃淡もさまざまに紅葉する意)は、羊羹の切り口に楓の葉形を3つ配した 美しい意匠です。一方では「滝の糸すじ」という凝った銘も考案されています。 文化文政年間(1804~1830)以降は、菓子意匠や銘も一段と工夫され るようになりました。これらの菓子はその一例とも考えられます。 なお、修学院行幸以外の機会にも上皇からは銘を頂戴しています。 単に味わうだけでなく、菓銘から醸し出される趣に心を寄せるひとと きは、和菓子ならではとも言えるでしょう。光格上皇はその点、さらに一 歩進んで自ら銘を考案されたわけで、菓子に対する思い入れの深さが伝わ ってきます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
光格上皇と虎屋の菓子
学問を好まれた上皇光格上皇(こうかくじょうこう・1771~1840/天皇在位1779~1817)は、儒学 を好み、有職故実(ゆうそくこじつ)にも通じていた方で、11代将軍家斉(いえなり) に自ら漢詩を作って贈られたというエピソードも残っています。 お菓子も好まれたのか、虎屋には上皇から頂戴した菓銘の記録があります。 修学院行幸に納めた菓子上皇は修学院離宮 がお気に入りで、度々行幸されました。12回の行幸に際し、虎屋は、150種の菓子を納めています。以下はいずれも同行幸にお納めした菓子に対し賜った銘です。文政12年(1829)長月、下染、松の友天保2年(1831)村紅葉、山路の菊、滝の糸すじ 数々の御銘上記の中からいくつかご紹介しましょう。「山路の菊」(写真参照)や 楓を象った「下染」は、現在もほぼ毎年店頭に並びます。また「村紅葉」(濃淡もさまざまに紅葉する意)は、羊羹の切り口に楓の葉形を3つ配した 美しい意匠です。一方では「滝の糸すじ」という凝った銘も考案されています。 文化文政年間(1804~1830)以降は、菓子意匠や銘も一段と工夫され るようになりました。これらの菓子はその一例とも考えられます。 なお、修学院行幸以外の機会にも上皇からは銘を頂戴しています。 単に味わうだけでなく、菓銘から醸し出される趣に心を寄せるひとと きは、和菓子ならではとも言えるでしょう。光格上皇はその点、さらに一 歩進んで自ら銘を考案されたわけで、菓子に対する思い入れの深さが伝わ ってきます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)