虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
平賀源内と和三盆糖
挿絵『物類品隲』より多趣多芸な発明家平賀源内(1728~1779)は、四国の高松藩志度浦の生まれです。足軽相当の身分でしたが、藩主松平頼恭に登用され、薬草園の仕事に就きます。25歳頃の1年の長崎遊学後、藩を退き、大坂を経て江戸に出ます。それからは、未曾有の大規模な物産会を計画実行する、戯作・歌舞伎の脚本を書く、エレキテル(摩擦により静電気をおこす機械)・石綿から作った耐火織物である火浣布(かかんふ)を作る、鉱山の開発をする、油絵を描く等々実にさまざまな方面にかかわり、世間をあっと驚かせながら活躍します。しかし、40歳を越した頃から仕事がはかどらなくなり、不運なことに52歳の時、人を殺傷したかどで獄中に入れられ、そこで死亡します。その才気を惜しみ、死を悼む声は多かったようです。 和三盆糖とのかかわり江戸時代中期、白砂糖はオランダ・中国との貿易による輸入品が大半でした。八代将軍吉宗が砂糖の国産化を進める政策をとり、各地の本草学者や医師、篤農家達が中国の砂糖 に並ぶものを作ろうとしましたが、国内の需要をまかなうには質・量共に程遠い状況でし た。そういった流れの中で、源内は砂糖に関する本を著しています。各地の珍しい物産をま とめた本、『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』(1763)に収録された『甘庶培養並ニ製造ノ法』 がそれです。この本にはサトウキビ栽培と砂糖の製造法が書かれています。『天工開物』(宗応星1637)他数冊の中国の書物を参考にし、抜粋したもので、原典を平易にして紹介しています。砂糖の製 法書の多くが刊行されず、写本として伝わったのに対し、この本は版本で、何度も版を変えて出版され、広く読まれました。多くの試行錯誤を経て、やがて国産砂糖の商品化は成功します。日本で作った上質の白砂糖を和三盆糖と呼びますが、源内の故郷、高松藩讃岐地方は産地として、名高くなってゆきます。和三盆糖は現在でも香川・徳島で作られています。薄い茶褐色で湿り気があって柔らかく、上品な甘味が好まれて、干菓子などに使われています。この砂糖が完成するまでに多才な発明家、源内も一役買っていたのです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
平賀源内と和三盆糖
挿絵『物類品隲』より多趣多芸な発明家平賀源内(1728~1779)は、四国の高松藩志度浦の生まれです。足軽相当の身分でしたが、藩主松平頼恭に登用され、薬草園の仕事に就きます。25歳頃の1年の長崎遊学後、藩を退き、大坂を経て江戸に出ます。それからは、未曾有の大規模な物産会を計画実行する、戯作・歌舞伎の脚本を書く、エレキテル(摩擦により静電気をおこす機械)・石綿から作った耐火織物である火浣布(かかんふ)を作る、鉱山の開発をする、油絵を描く等々実にさまざまな方面にかかわり、世間をあっと驚かせながら活躍します。しかし、40歳を越した頃から仕事がはかどらなくなり、不運なことに52歳の時、人を殺傷したかどで獄中に入れられ、そこで死亡します。その才気を惜しみ、死を悼む声は多かったようです。 和三盆糖とのかかわり江戸時代中期、白砂糖はオランダ・中国との貿易による輸入品が大半でした。八代将軍吉宗が砂糖の国産化を進める政策をとり、各地の本草学者や医師、篤農家達が中国の砂糖 に並ぶものを作ろうとしましたが、国内の需要をまかなうには質・量共に程遠い状況でし た。そういった流れの中で、源内は砂糖に関する本を著しています。各地の珍しい物産をま とめた本、『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』(1763)に収録された『甘庶培養並ニ製造ノ法』 がそれです。この本にはサトウキビ栽培と砂糖の製造法が書かれています。『天工開物』(宗応星1637)他数冊の中国の書物を参考にし、抜粋したもので、原典を平易にして紹介しています。砂糖の製 法書の多くが刊行されず、写本として伝わったのに対し、この本は版本で、何度も版を変えて出版され、広く読まれました。多くの試行錯誤を経て、やがて国産砂糖の商品化は成功します。日本で作った上質の白砂糖を和三盆糖と呼びますが、源内の故郷、高松藩讃岐地方は産地として、名高くなってゆきます。和三盆糖は現在でも香川・徳島で作られています。薄い茶褐色で湿り気があって柔らかく、上品な甘味が好まれて、干菓子などに使われています。この砂糖が完成するまでに多才な発明家、源内も一役買っていたのです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
光格上皇と虎屋の菓子
学問を好まれた上皇光格上皇(こうかくじょうこう・1771~1840/天皇在位1779~1817)は、儒学 を好み、有職故実(ゆうそくこじつ)にも通じていた方で、11代将軍家斉(いえなり) に自ら漢詩を作って贈られたというエピソードも残っています。 お菓子も好まれたのか、虎屋には上皇から頂戴した菓銘の記録があります。 修学院行幸に納めた菓子上皇は修学院離宮 がお気に入りで、度々行幸されました。12回の行幸に際し、虎屋は、150種の菓子を納めています。以下はいずれも同行幸にお納めした菓子に対し賜った銘です。文政12年(1829)長月、下染、松の友天保2年(1831)村紅葉、山路の菊、滝の糸すじ 数々の御銘上記の中からいくつかご紹介しましょう。「山路の菊」(写真参照)や 楓を象った「下染」は、現在もほぼ毎年店頭に並びます。また「村紅葉」(濃淡もさまざまに紅葉する意)は、羊羹の切り口に楓の葉形を3つ配した 美しい意匠です。一方では「滝の糸すじ」という凝った銘も考案されています。 文化文政年間(1804~1830)以降は、菓子意匠や銘も一段と工夫され るようになりました。これらの菓子はその一例とも考えられます。 なお、修学院行幸以外の機会にも上皇からは銘を頂戴しています。 単に味わうだけでなく、菓銘から醸し出される趣に心を寄せるひとと きは、和菓子ならではとも言えるでしょう。光格上皇はその点、さらに一 歩進んで自ら銘を考案されたわけで、菓子に対する思い入れの深さが伝わ ってきます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
光格上皇と虎屋の菓子
学問を好まれた上皇光格上皇(こうかくじょうこう・1771~1840/天皇在位1779~1817)は、儒学 を好み、有職故実(ゆうそくこじつ)にも通じていた方で、11代将軍家斉(いえなり) に自ら漢詩を作って贈られたというエピソードも残っています。 お菓子も好まれたのか、虎屋には上皇から頂戴した菓銘の記録があります。 修学院行幸に納めた菓子上皇は修学院離宮 がお気に入りで、度々行幸されました。12回の行幸に際し、虎屋は、150種の菓子を納めています。以下はいずれも同行幸にお納めした菓子に対し賜った銘です。文政12年(1829)長月、下染、松の友天保2年(1831)村紅葉、山路の菊、滝の糸すじ 数々の御銘上記の中からいくつかご紹介しましょう。「山路の菊」(写真参照)や 楓を象った「下染」は、現在もほぼ毎年店頭に並びます。また「村紅葉」(濃淡もさまざまに紅葉する意)は、羊羹の切り口に楓の葉形を3つ配した 美しい意匠です。一方では「滝の糸すじ」という凝った銘も考案されています。 文化文政年間(1804~1830)以降は、菓子意匠や銘も一段と工夫され るようになりました。これらの菓子はその一例とも考えられます。 なお、修学院行幸以外の機会にも上皇からは銘を頂戴しています。 単に味わうだけでなく、菓銘から醸し出される趣に心を寄せるひとと きは、和菓子ならではとも言えるでしょう。光格上皇はその点、さらに一 歩進んで自ら銘を考案されたわけで、菓子に対する思い入れの深さが伝わ ってきます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
森鴎外と饅頭茶漬け
「舞姫」で知られる文豪現在の島根県に生まれた森鴎外(1862~1922)は、「雁」「山椒大夫」などの名作を残した明治の文豪です。代表作のひとつ「舞姫」を学校の教科書で読まれた方も多いのではないでしょうか。軍医としても業績を残しており、どちらかといえば硬派な印象ですが、一方で妻子に対する大甘ぶりも知られています。 意外な好み…さて、潔癖症で果物も野菜も決して生では食べなかったという鴎外の意外な好物が、タイトルの饅頭茶漬けです。長女の森茉莉はエッセイ(『貧乏サヴァラン』ちくま文庫より)の中で鴎外が「つめの白い清潔(きれい)な手でそれを四つに割り、その一つを御飯の上にのせ、煎茶をかけてたべるのである。」と記しています。また、次女の小堀杏奴『晩年の父』にも、やはりその話が登場します。 そのお味は?真っ白なご飯の上の饅頭からのぞく薄紫の餡、緑に透き通る煎茶の色…。鴎外のイメージとのミスマッチもあいまって、なんとも不思議な食べ物に思えますが、実際に試された方によれば、意外にさっぱりと美味しく食べられ、言葉から受ける印象ほど奇妙ではないそうです。森茉莉は先の著作の中で、その味についてこう記しています。「父とたべた想い出もあるが、支那のお菓子のようだったり、淡白(あっさり)した、渋いお汁粉のようだったり、どっちも美味しい。」一度、作ってみるのも一興かもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
森鴎外と饅頭茶漬け
「舞姫」で知られる文豪現在の島根県に生まれた森鴎外(1862~1922)は、「雁」「山椒大夫」などの名作を残した明治の文豪です。代表作のひとつ「舞姫」を学校の教科書で読まれた方も多いのではないでしょうか。軍医としても業績を残しており、どちらかといえば硬派な印象ですが、一方で妻子に対する大甘ぶりも知られています。 意外な好み…さて、潔癖症で果物も野菜も決して生では食べなかったという鴎外の意外な好物が、タイトルの饅頭茶漬けです。長女の森茉莉はエッセイ(『貧乏サヴァラン』ちくま文庫より)の中で鴎外が「つめの白い清潔(きれい)な手でそれを四つに割り、その一つを御飯の上にのせ、煎茶をかけてたべるのである。」と記しています。また、次女の小堀杏奴『晩年の父』にも、やはりその話が登場します。 そのお味は?真っ白なご飯の上の饅頭からのぞく薄紫の餡、緑に透き通る煎茶の色…。鴎外のイメージとのミスマッチもあいまって、なんとも不思議な食べ物に思えますが、実際に試された方によれば、意外にさっぱりと美味しく食べられ、言葉から受ける印象ほど奇妙ではないそうです。森茉莉は先の著作の中で、その味についてこう記しています。「父とたべた想い出もあるが、支那のお菓子のようだったり、淡白(あっさり)した、渋いお汁粉のようだったり、どっちも美味しい。」一度、作ってみるのも一興かもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
渋沢栄一と虎屋の菓子
若葉蔭近代産業の生みの親渋沢栄一は近代日本を代表する実業家です。第一国立銀行(現みずほ銀行)を設立、また東京海上火災保険、東京ガス、清水建設、王子製紙、新日本製鉄やサッポロビールに帝国ホテルをはじめ日本の代表的な企業を創設しています。また東京証券取引所や東京商工会議所の設立にもかかわりました。 栄一の生涯渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市に豪農の長男として生まれました。若くして一橋慶喜に仕え、慶応3年(1867)にはヨーロッパに渡り、近代的な技術や経済について見聞を広めました。 維新後は大蔵省に出仕し、明治6年(1873)の辞職後は、まさに日本経済の発展に尽くしています。しかし、多くの企業にかかわりながら、三菱や三井をはじめとする財閥のように、巨大な財産を成していません。彼の生き方は、いわば日本経済のプロデューサーに徹したものといえます。 虎屋の菓子永く御所の御用を勤めてきた虎屋は、東京遷都後も菓子のご注文をいただいていますが、なかには贈答用の菓子もありました。 明治37年(1904)肺炎から一時危篤になった栄一に、明治天皇は見舞いの菓子を賜っています。孫の敬三(後の日銀総裁・大蔵大臣)の回想によれば、四角い寒天の中に、羊羹で作られた金魚が2匹浮かんでいる美しい菓子ということでした(佐野眞一『渋沢家三代』)。 寒天を使った透明な菓子を虎屋では琥珀製と呼んでいます。琥珀製で金魚が泳いでいる菓子には、「蝉の小川」と「若葉蔭」がありますが、年代的にこの時の菓子は、「蝉の小川」※のことでしょう。虎屋には渋沢家からのご注文記録も残されています。たとえば大正2年(1913)には、9回にわたってお菓子のご注文をいただいており、「夜の梅」や「塩の山」あるいは「羊羹粽」などをお納めしています。なかには餡なしとご指定の「椿餅」もありました。渋沢家の方々のお好みだったのでしょうか、興味深いところです。 ※ 現在「蝉の小川」の金魚は練切で3匹となっています。また、特注品となっています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
渋沢栄一と虎屋の菓子
若葉蔭近代産業の生みの親渋沢栄一は近代日本を代表する実業家です。第一国立銀行(現みずほ銀行)を設立、また東京海上火災保険、東京ガス、清水建設、王子製紙、新日本製鉄やサッポロビールに帝国ホテルをはじめ日本の代表的な企業を創設しています。また東京証券取引所や東京商工会議所の設立にもかかわりました。 栄一の生涯渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市に豪農の長男として生まれました。若くして一橋慶喜に仕え、慶応3年(1867)にはヨーロッパに渡り、近代的な技術や経済について見聞を広めました。 維新後は大蔵省に出仕し、明治6年(1873)の辞職後は、まさに日本経済の発展に尽くしています。しかし、多くの企業にかかわりながら、三菱や三井をはじめとする財閥のように、巨大な財産を成していません。彼の生き方は、いわば日本経済のプロデューサーに徹したものといえます。 虎屋の菓子永く御所の御用を勤めてきた虎屋は、東京遷都後も菓子のご注文をいただいていますが、なかには贈答用の菓子もありました。 明治37年(1904)肺炎から一時危篤になった栄一に、明治天皇は見舞いの菓子を賜っています。孫の敬三(後の日銀総裁・大蔵大臣)の回想によれば、四角い寒天の中に、羊羹で作られた金魚が2匹浮かんでいる美しい菓子ということでした(佐野眞一『渋沢家三代』)。 寒天を使った透明な菓子を虎屋では琥珀製と呼んでいます。琥珀製で金魚が泳いでいる菓子には、「蝉の小川」と「若葉蔭」がありますが、年代的にこの時の菓子は、「蝉の小川」※のことでしょう。虎屋には渋沢家からのご注文記録も残されています。たとえば大正2年(1913)には、9回にわたってお菓子のご注文をいただいており、「夜の梅」や「塩の山」あるいは「羊羹粽」などをお納めしています。なかには餡なしとご指定の「椿餅」もありました。渋沢家の方々のお好みだったのでしょうか、興味深いところです。 ※ 現在「蝉の小川」の金魚は練切で3匹となっています。また、特注品となっています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
清少納言と餅餤
『枕草子』に登場自然の風物や日常のこまごました思いを、独特の視点で描いた清少納言の随筆『枕草子』。そのなかには、彼女が暮した華やかな平安時代の宮廷の様子も描かれており、136段(伝能因本)にはお菓子に因むこんな話が出てきます。ある日「藤原行成様からです」といって、梅の花を添えた白い紙包みが、清少納言のもとへ届けられます。包みを開けると、餅餤(へいだん)がふたつ並んで入っており、一緒に行成の「本当は自ら持参すべきなのですが…」という文が添えられていました。 そこで清少納言は「自分自身で持ってこないのはひどく冷淡に思いますが?」と、紅梅を添えて返事を送りました。 どんなお菓子?ここに登場する「餅餤」は、奈良~平安時代に中国からもたらされた唐菓子のひとつです。平安時代の漢和辞書『和名類聚抄』には、鵝(がちょう)や鴨の子、雑菜などを煮合わせたものを餅で挟み、四角に切ったもの、とあります。今の感覚で見るならば、お菓子というより、サンドイッチのような軽食にも思えます。『枕草子』では、個人的な贈り物として使われていますが、他の唐菓子同様、官吏登用の際の饗応などとして使われることが多かったようです。当時菓子といえば木の実や果物のことでしたから、味付けされた肉などが挟まれた唐菓子の餅餤は、平安の貴族にとって、さぞモダンに感じられたことでしょう。 へいだん?れいたん?ところで藤原行成に送った清少納言の文は、「「餅餤」に「冷淡」をかけたのは、機知に富んでいる。」と、行成が大勢の貴族の前で話したこともあり、大変評判になりました。このことについて清少納言は、「見苦しい自慢話でしたが」と言って話を締めています。ともすればたわいのない駄洒落のようにも思えますが、こうした言葉遊びは平安貴族の心をくすぐる、スパイスのようなものだったのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
清少納言と餅餤
『枕草子』に登場自然の風物や日常のこまごました思いを、独特の視点で描いた清少納言の随筆『枕草子』。そのなかには、彼女が暮した華やかな平安時代の宮廷の様子も描かれており、136段(伝能因本)にはお菓子に因むこんな話が出てきます。ある日「藤原行成様からです」といって、梅の花を添えた白い紙包みが、清少納言のもとへ届けられます。包みを開けると、餅餤(へいだん)がふたつ並んで入っており、一緒に行成の「本当は自ら持参すべきなのですが…」という文が添えられていました。 そこで清少納言は「自分自身で持ってこないのはひどく冷淡に思いますが?」と、紅梅を添えて返事を送りました。 どんなお菓子?ここに登場する「餅餤」は、奈良~平安時代に中国からもたらされた唐菓子のひとつです。平安時代の漢和辞書『和名類聚抄』には、鵝(がちょう)や鴨の子、雑菜などを煮合わせたものを餅で挟み、四角に切ったもの、とあります。今の感覚で見るならば、お菓子というより、サンドイッチのような軽食にも思えます。『枕草子』では、個人的な贈り物として使われていますが、他の唐菓子同様、官吏登用の際の饗応などとして使われることが多かったようです。当時菓子といえば木の実や果物のことでしたから、味付けされた肉などが挟まれた唐菓子の餅餤は、平安の貴族にとって、さぞモダンに感じられたことでしょう。 へいだん?れいたん?ところで藤原行成に送った清少納言の文は、「「餅餤」に「冷淡」をかけたのは、機知に富んでいる。」と、行成が大勢の貴族の前で話したこともあり、大変評判になりました。このことについて清少納言は、「見苦しい自慢話でしたが」と言って話を締めています。ともすればたわいのない駄洒落のようにも思えますが、こうした言葉遊びは平安貴族の心をくすぐる、スパイスのようなものだったのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
良寛と白雪こう
良寛さん「良寛さん」「良寛さま」として親しまれる良寛(1758~1831)は、 越後(新潟県)に生まれ、出家して諸国を遊行しながら数多くの和歌、詩、 俳句、書を残したことで知られます。有名な歌「霞たつながき春日を子供らと 手まりつきつつこの日暮らしつ」 からは、子供たちとの語らいを楽しみ、遊びに興じる優しい老人の姿が想像さ れることでしょう。 白雪こうを望んだ手紙出世の願望もない良寛は、生涯、住職にもならず、人々の施しから日々の 糧を得ていました。そのため良寛の書状には、酒、餅などを送られた折の礼状が多数残っています。なかでも病に倒れ衰弱の激しい時分に、滋養に富む といわれた白雪こうを望んで書いた手紙は、ふるえの見える筆跡が哀れさを誘い、読む人の心を打ちます。その文面は「白雪羔(こう)少々御恵たまは りたく候 以上 十一月四日 菓子屋 三十郎殿 良寛」という短いもの(新潟県・木村家蔵)で、死を翌年に 控えた文政13年(1830)11月 に出雲崎の菓子屋にあてた手紙と推測 されています。食物ものどを通らない ほど弱りきっていた良寛が望んだ白雪こう…。いったいどんな菓子だったのでしょう。 作り方江戸時代の製法書によると、白雪こうは米粉、もち米の粉、砂糖に蓮の実の粉末などを混ぜ、押し固めて蒸すもので、口に入れれば雪のように溶けることから、その名がついたとされます。 「七人目白雪こうで育て上げ」(柳多留) の川柳があるように、江戸時代には砕いて湯にとかしたものが母乳の代用にされました。しかし、白雪こうは次 第に姿を消してしまうのです。 落雁との違い白雪こうと似た菓子に落雁がありますが、落雁が熱処理をした米粉を使うのに対し、熱を通していない米粉を用い、最後に蒸すという違いがあります。 白雪こうは落雁が広まるにつれ、廃れてしまったのかもしれません。時代の流れとともにこうした菓子から滋養を得る必要がなくなったともいえるでしょう。白雪こうは清貧にいきた良寛の人生を語っているようにも思えます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
良寛と白雪こう
良寛さん「良寛さん」「良寛さま」として親しまれる良寛(1758~1831)は、 越後(新潟県)に生まれ、出家して諸国を遊行しながら数多くの和歌、詩、 俳句、書を残したことで知られます。有名な歌「霞たつながき春日を子供らと 手まりつきつつこの日暮らしつ」 からは、子供たちとの語らいを楽しみ、遊びに興じる優しい老人の姿が想像さ れることでしょう。 白雪こうを望んだ手紙出世の願望もない良寛は、生涯、住職にもならず、人々の施しから日々の 糧を得ていました。そのため良寛の書状には、酒、餅などを送られた折の礼状が多数残っています。なかでも病に倒れ衰弱の激しい時分に、滋養に富む といわれた白雪こうを望んで書いた手紙は、ふるえの見える筆跡が哀れさを誘い、読む人の心を打ちます。その文面は「白雪羔(こう)少々御恵たまは りたく候 以上 十一月四日 菓子屋 三十郎殿 良寛」という短いもの(新潟県・木村家蔵)で、死を翌年に 控えた文政13年(1830)11月 に出雲崎の菓子屋にあてた手紙と推測 されています。食物ものどを通らない ほど弱りきっていた良寛が望んだ白雪こう…。いったいどんな菓子だったのでしょう。 作り方江戸時代の製法書によると、白雪こうは米粉、もち米の粉、砂糖に蓮の実の粉末などを混ぜ、押し固めて蒸すもので、口に入れれば雪のように溶けることから、その名がついたとされます。 「七人目白雪こうで育て上げ」(柳多留) の川柳があるように、江戸時代には砕いて湯にとかしたものが母乳の代用にされました。しかし、白雪こうは次 第に姿を消してしまうのです。 落雁との違い白雪こうと似た菓子に落雁がありますが、落雁が熱処理をした米粉を使うのに対し、熱を通していない米粉を用い、最後に蒸すという違いがあります。 白雪こうは落雁が広まるにつれ、廃れてしまったのかもしれません。時代の流れとともにこうした菓子から滋養を得る必要がなくなったともいえるでしょう。白雪こうは清貧にいきた良寛の人生を語っているようにも思えます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)