虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
大岡忠相と幾世餅
名奉行の実像大岡越前守忠相(1677~1751)は、八代将軍徳川吉宗に仕え、多くの要職を務めました。なかでも江戸町奉行当時の活躍は、芝居やドラマに繰り返し取り上げられています。忠相は、普請奉行などを経て、享保2年(1717)に江戸町奉行に任ぜられています。任期は20年の長きにわたっています。江戸町奉行は、江戸の治安を守るだけでなく、裁判や民生など幅広い権限を持っていました。さしずめ東京都知事、警視総監プラス裁判所の長官といったところでしょう。忠相の場合、関東地方の農政や幕府の財政にも深く関わっており、有能さと将軍の信頼の厚さがうかがえます。 本家争い大岡裁き江戸浅草のあたりには、米饅頭をはじめ名物菓子がたくさんありました。なかでも焼いた丸餅の上に餡をのせた幾世餅は、大人気の菓子でした。元祖は浅草寺門内の藤屋と言われています。その後、小松屋が吉原の遊女であった妻と一緒に、毎朝両国橋へ餅を運んで売り出したところ大当たり、たちまち店構えの菓子屋になりました。その餅は、妻の遊女時代の名前から幾世餅と呼ばれていました。面白くないのは藤屋です。幾世餅の商標の独占を大岡越前守に訴え出ました。判決は、藤屋が元祖であることを認めつつも、小松屋の事情も斟酌して、藤屋は四谷内藤新宿(新宿区)、小松屋は葛西新宿(葛飾区)に移ることを命じるものでした。どちらも江戸のはずれ、とても商売になりません。双方示談の上、訴えを取り下げました。この逸話は、やはり名奉行を謳われた根岸鎮衛の『耳嚢』に書かれています。現実的な判断をする忠相の一面がよく現れています。ちなみに現在伝わる大岡裁きの多くは、後世の創作、江戸の庶民が理想の政治家像を能吏大岡越前守に託したのです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
大岡忠相と幾世餅
名奉行の実像大岡越前守忠相(1677~1751)は、八代将軍徳川吉宗に仕え、多くの要職を務めました。なかでも江戸町奉行当時の活躍は、芝居やドラマに繰り返し取り上げられています。忠相は、普請奉行などを経て、享保2年(1717)に江戸町奉行に任ぜられています。任期は20年の長きにわたっています。江戸町奉行は、江戸の治安を守るだけでなく、裁判や民生など幅広い権限を持っていました。さしずめ東京都知事、警視総監プラス裁判所の長官といったところでしょう。忠相の場合、関東地方の農政や幕府の財政にも深く関わっており、有能さと将軍の信頼の厚さがうかがえます。 本家争い大岡裁き江戸浅草のあたりには、米饅頭をはじめ名物菓子がたくさんありました。なかでも焼いた丸餅の上に餡をのせた幾世餅は、大人気の菓子でした。元祖は浅草寺門内の藤屋と言われています。その後、小松屋が吉原の遊女であった妻と一緒に、毎朝両国橋へ餅を運んで売り出したところ大当たり、たちまち店構えの菓子屋になりました。その餅は、妻の遊女時代の名前から幾世餅と呼ばれていました。面白くないのは藤屋です。幾世餅の商標の独占を大岡越前守に訴え出ました。判決は、藤屋が元祖であることを認めつつも、小松屋の事情も斟酌して、藤屋は四谷内藤新宿(新宿区)、小松屋は葛西新宿(葛飾区)に移ることを命じるものでした。どちらも江戸のはずれ、とても商売になりません。双方示談の上、訴えを取り下げました。この逸話は、やはり名奉行を謳われた根岸鎮衛の『耳嚢』に書かれています。現実的な判断をする忠相の一面がよく現れています。ちなみに現在伝わる大岡裁きの多くは、後世の創作、江戸の庶民が理想の政治家像を能吏大岡越前守に託したのです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
正岡子規と牡丹餅
早世の俳人わずか35歳の若さでこの世を去った明治時代の俳人正岡子規(まさおかしき・1867~1902)。病にさいなまれつつも、最後まで生への情熱を失うことなく、歌を作りつづけたその姿勢は、私たちに深い感動を与えます。 食べることこそ生きる源子規は最晩年に日常の出来事や、俳句、短歌についての批評などを日記に綴っています。なかでも食べものについては、ほぼ毎日記すという熱心さで、病床にあったとは信じがたいほどの健啖ぶりがうかがえます。おそらく、食べることが楽しみであり、生きる源と考えていたのでしょう。 また、子規は相当な甘党でもあったようで、菓子もたくさん出てきます。滋養豊富なココア入りの牛乳や菓子パンほか、羊羹や煎餅、餅菓子といった和菓子の名もみえます。 牡丹餅を楽しむ9月24日、勤めていた『日本新聞』の社長陸羯南(くがかつなん)が、手土産に手製の牡丹餅を持って子規のもとを訪れます。当日子規は昼に「お萩一、二ケ」食べており、もらった牡丹餅はおやつにしたようです。そして陸には、正岡家で買っておいた牡丹餅をお返しとして渡しています。 「お萩」「牡丹餅」と子規は書いていますが、本来は同じものとされます。書き分けているところをみると、つぶ餡とこし餡のように餡が違っていたのかもしれません。ちなみに、子規は牡丹餅のやりとりを「馬鹿なことなり」と一蹴しています。しかし、そうは言いつつしっかり食べて、最後に句もいくつか書き残しているのですから、本当はとてもうれしかったのでしょう。 「お萩くばる彼岸の使行き逢ひぬ」 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
正岡子規と牡丹餅
早世の俳人わずか35歳の若さでこの世を去った明治時代の俳人正岡子規(まさおかしき・1867~1902)。病にさいなまれつつも、最後まで生への情熱を失うことなく、歌を作りつづけたその姿勢は、私たちに深い感動を与えます。 食べることこそ生きる源子規は最晩年に日常の出来事や、俳句、短歌についての批評などを日記に綴っています。なかでも食べものについては、ほぼ毎日記すという熱心さで、病床にあったとは信じがたいほどの健啖ぶりがうかがえます。おそらく、食べることが楽しみであり、生きる源と考えていたのでしょう。 また、子規は相当な甘党でもあったようで、菓子もたくさん出てきます。滋養豊富なココア入りの牛乳や菓子パンほか、羊羹や煎餅、餅菓子といった和菓子の名もみえます。 牡丹餅を楽しむ9月24日、勤めていた『日本新聞』の社長陸羯南(くがかつなん)が、手土産に手製の牡丹餅を持って子規のもとを訪れます。当日子規は昼に「お萩一、二ケ」食べており、もらった牡丹餅はおやつにしたようです。そして陸には、正岡家で買っておいた牡丹餅をお返しとして渡しています。 「お萩」「牡丹餅」と子規は書いていますが、本来は同じものとされます。書き分けているところをみると、つぶ餡とこし餡のように餡が違っていたのかもしれません。ちなみに、子規は牡丹餅のやりとりを「馬鹿なことなり」と一蹴しています。しかし、そうは言いつつしっかり食べて、最後に句もいくつか書き残しているのですから、本当はとてもうれしかったのでしょう。 「お萩くばる彼岸の使行き逢ひぬ」 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
明智光秀と粽
戦国時代の悪役主君、織田信長を本能寺の変で倒した明智光秀(?~1582)は、戦国時代を語る上で欠かせない人物です。裏切り者のイメージが強く、人気は今ひとつかもしれませんが、光秀の存在があるからこそ、この時代は劇的で、歴史小説やドラマにもよくとりあげられるのでしょう。では光秀はどのような人物だったのでしょうか。その出自や素性は不詳ですが、朝倉氏に仕えた後、室町幕府の幕臣、ついで信長の家臣となり、功績から丹波国を与えられるなど、出世街道を歩んだことが知られます。それが反逆の徒にかわってしまうのですから、人生とはわからないもの。理由として、信長への恨み説、秀吉との不仲説などが伝えられますが、真相は謎に包まれています。 意外なエピソードおもしろいことに、光秀の性格を窺わせる、菓子関連のエピソードが残っています。天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で信長を討った数日後のこと。京の人々が光秀に粽を献上しましたが、光秀は笹の葉の包みもとらずに粽を口にいれてしまったそうです。信長を倒したものの、あてにしていた援軍もえられず、いらだっていたためでしょう。京の人々はその姿を見て、この程度の人物かと、光秀の器を見限ったそうです。(『閑際筆記(かんさいひっき)』より)光秀は和歌・連歌を好み、茶湯をたしなむ文化人でもありましたが、この時ばかりは動揺を隠せず、自分を失っていたのでしょう。同年6月13日、羽柴秀吉との戦いに敗れた後、光秀は逃走の途中に土民の襲撃にあい、自刃してその生涯を終えます。わずか十余日の天下で、「三日天下」と呼び習わされます。光秀はいまだに草葉の陰でくやしがっているかもしれません。 当時の粽光秀はどのような粽を食べたのでしょう。戦国時代はまだ砂糖の流通量が少なく、今日のような菓子の粽はなかったと考えられます。もち米を笹にくるんで蒸した程度の簡素なものだったとも想像できます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
明智光秀と粽
戦国時代の悪役主君、織田信長を本能寺の変で倒した明智光秀(?~1582)は、戦国時代を語る上で欠かせない人物です。裏切り者のイメージが強く、人気は今ひとつかもしれませんが、光秀の存在があるからこそ、この時代は劇的で、歴史小説やドラマにもよくとりあげられるのでしょう。では光秀はどのような人物だったのでしょうか。その出自や素性は不詳ですが、朝倉氏に仕えた後、室町幕府の幕臣、ついで信長の家臣となり、功績から丹波国を与えられるなど、出世街道を歩んだことが知られます。それが反逆の徒にかわってしまうのですから、人生とはわからないもの。理由として、信長への恨み説、秀吉との不仲説などが伝えられますが、真相は謎に包まれています。 意外なエピソードおもしろいことに、光秀の性格を窺わせる、菓子関連のエピソードが残っています。天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で信長を討った数日後のこと。京の人々が光秀に粽を献上しましたが、光秀は笹の葉の包みもとらずに粽を口にいれてしまったそうです。信長を倒したものの、あてにしていた援軍もえられず、いらだっていたためでしょう。京の人々はその姿を見て、この程度の人物かと、光秀の器を見限ったそうです。(『閑際筆記(かんさいひっき)』より)光秀は和歌・連歌を好み、茶湯をたしなむ文化人でもありましたが、この時ばかりは動揺を隠せず、自分を失っていたのでしょう。同年6月13日、羽柴秀吉との戦いに敗れた後、光秀は逃走の途中に土民の襲撃にあい、自刃してその生涯を終えます。わずか十余日の天下で、「三日天下」と呼び習わされます。光秀はいまだに草葉の陰でくやしがっているかもしれません。 当時の粽光秀はどのような粽を食べたのでしょう。戦国時代はまだ砂糖の流通量が少なく、今日のような菓子の粽はなかったと考えられます。もち米を笹にくるんで蒸した程度の簡素なものだったとも想像できます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
徳川吉宗と安倍川餅
江戸幕府中興の名君・暴れん坊将軍時代劇でもお馴染みの徳川吉宗(1684~1751)は、徳川御三家の紀州藩主の三男として生まれ、本来は政治の表舞台に立つ望みはありませんでした。しかし兄たちの死によって思いがけず紀州藩主、そして八代将軍の座につき、享保の改革を断行して幕府を立て直し、幕府中興の名君といわれています。 砂糖やさつま芋の栽培に意欲吉宗による享保の改革の徹底した倹約は、食生活にも及びました。例えばカツオのように高価な初物の取り締まりや、菓子の新商品を一部禁止したことなどです。一方、当時高価な輸入品だった白砂糖の国産化を目指し、諸藩に砂糖きびの苗を配ったほか、朝鮮人参の栽培にも取り組みました。また、飢饉で苦しむ人々を救うため、さつま芋の栽培も奨励しています。 安倍川餅の献上を心待ちに…藩主時代に参勤交代で東海道を行き来した吉宗は、道中の名物を賞味したこともあったのでしょう。南町奉行を勤めた根岸鎮衛(ねぎしやすもり)の随筆『耳袋』によると、吉宗は駿河安倍川の名物安倍川餅が好物でした。安倍川餅は黄粉をふりかけた餅の代名詞となっていますが、もともと安倍川付近の茶店で作られていたものです。将軍となった後は、駿河出身の家臣、古郡孫太夫が作る安倍川餅を楽しみにしていました。孫太夫は富士川の雪水で育ったもち米がおいしさを生むと考え、毎年駿河からもち米を取り寄せていたとのことです。みずから食生活の贅沢をいましめ、1日2食、一汁三菜を守った吉宗ですが、特別製の安倍川餅のおいしさは、やはり魅力だったようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
徳川吉宗と安倍川餅
江戸幕府中興の名君・暴れん坊将軍時代劇でもお馴染みの徳川吉宗(1684~1751)は、徳川御三家の紀州藩主の三男として生まれ、本来は政治の表舞台に立つ望みはありませんでした。しかし兄たちの死によって思いがけず紀州藩主、そして八代将軍の座につき、享保の改革を断行して幕府を立て直し、幕府中興の名君といわれています。 砂糖やさつま芋の栽培に意欲吉宗による享保の改革の徹底した倹約は、食生活にも及びました。例えばカツオのように高価な初物の取り締まりや、菓子の新商品を一部禁止したことなどです。一方、当時高価な輸入品だった白砂糖の国産化を目指し、諸藩に砂糖きびの苗を配ったほか、朝鮮人参の栽培にも取り組みました。また、飢饉で苦しむ人々を救うため、さつま芋の栽培も奨励しています。 安倍川餅の献上を心待ちに…藩主時代に参勤交代で東海道を行き来した吉宗は、道中の名物を賞味したこともあったのでしょう。南町奉行を勤めた根岸鎮衛(ねぎしやすもり)の随筆『耳袋』によると、吉宗は駿河安倍川の名物安倍川餅が好物でした。安倍川餅は黄粉をふりかけた餅の代名詞となっていますが、もともと安倍川付近の茶店で作られていたものです。将軍となった後は、駿河出身の家臣、古郡孫太夫が作る安倍川餅を楽しみにしていました。孫太夫は富士川の雪水で育ったもち米がおいしさを生むと考え、毎年駿河からもち米を取り寄せていたとのことです。みずから食生活の贅沢をいましめ、1日2食、一汁三菜を守った吉宗ですが、特別製の安倍川餅のおいしさは、やはり魅力だったようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
山東京伝と米饅頭
挿絵『用捨箱(ようしゃばこ)』(1841)より文人達の関心の的山東京伝(さんとうきょうでん・1761~1816)は粋な作風で黄表紙・洒落本・読本他を書いた戯作者です。北尾重政門下で北尾政演の画名を持つ浮世絵師でもあったため、浮世絵や多くの絵入文章を書き、好評を博しました。その京伝が興味を持った米饅頭(よねまんじゅう)とは延宝~元禄年間(1673~1703)頃江戸浅草の待乳山聖天宮門前で売られ、流行った饅頭です。鶴屋、麓屋などの店が名高く、随筆・狂歌にも名物として取り上げられ、店がなくなった後も、文人達に興味をもたれ、その始まりや名前の由来について語られました。鶴屋の娘およねが始めたから米饅頭の名がついたとする説、材料が米であるから従来の小麦粉の饅頭と区別するため米饅頭といった説、よねは女郎の意味であるという説、また娘の名はおよねでなくお千代であるとした説などがありました。 米饅頭にまつわる著作京伝は作家として売り出した20歳の時、鶴屋のおよね説を脚色して『米饅頭始』(1780)という本を書きました。町人の幸吉が腰元およねと仲良くなり、駆け落ちし、2人で苦労をしますが最後には父親に貰ったお金で、待乳山のふもとに鶴屋の屋号で店を出し、饅頭を売り出す話です。作中のおよねは、その頃京伝が通い知った吉原の遊女をモデルにしたことも想像されます。自らの姿を幸吉に重ね、将来を夢見たのかもしれません。10年後、京伝は遊女菊園(前述の遊女とは別人か)と結婚し、その3年後に煙草入を売る店を開いています。晩年の京伝は戯作から離れて事物の考証に没頭したようですが、その成果『骨董集(こっとうしゅう)』(1813~1815)でも米饅頭について言及しています。ここでは、延宝6年(1678)版の絵本の辻売りの図を引き合いに出し、世に広まっている鶴屋のおよね説に疑問を呈しています。京伝は浅草並木町に短期間、落雁の店を出したこともあり、菓子好きとも思われますが、噂に聞いたことしかない米饅頭のどこに一番惹かれていたのでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
山東京伝と米饅頭
挿絵『用捨箱(ようしゃばこ)』(1841)より文人達の関心の的山東京伝(さんとうきょうでん・1761~1816)は粋な作風で黄表紙・洒落本・読本他を書いた戯作者です。北尾重政門下で北尾政演の画名を持つ浮世絵師でもあったため、浮世絵や多くの絵入文章を書き、好評を博しました。その京伝が興味を持った米饅頭(よねまんじゅう)とは延宝~元禄年間(1673~1703)頃江戸浅草の待乳山聖天宮門前で売られ、流行った饅頭です。鶴屋、麓屋などの店が名高く、随筆・狂歌にも名物として取り上げられ、店がなくなった後も、文人達に興味をもたれ、その始まりや名前の由来について語られました。鶴屋の娘およねが始めたから米饅頭の名がついたとする説、材料が米であるから従来の小麦粉の饅頭と区別するため米饅頭といった説、よねは女郎の意味であるという説、また娘の名はおよねでなくお千代であるとした説などがありました。 米饅頭にまつわる著作京伝は作家として売り出した20歳の時、鶴屋のおよね説を脚色して『米饅頭始』(1780)という本を書きました。町人の幸吉が腰元およねと仲良くなり、駆け落ちし、2人で苦労をしますが最後には父親に貰ったお金で、待乳山のふもとに鶴屋の屋号で店を出し、饅頭を売り出す話です。作中のおよねは、その頃京伝が通い知った吉原の遊女をモデルにしたことも想像されます。自らの姿を幸吉に重ね、将来を夢見たのかもしれません。10年後、京伝は遊女菊園(前述の遊女とは別人か)と結婚し、その3年後に煙草入を売る店を開いています。晩年の京伝は戯作から離れて事物の考証に没頭したようですが、その成果『骨董集(こっとうしゅう)』(1813~1815)でも米饅頭について言及しています。ここでは、延宝6年(1678)版の絵本の辻売りの図を引き合いに出し、世に広まっている鶴屋のおよね説に疑問を呈しています。京伝は浅草並木町に短期間、落雁の店を出したこともあり、菓子好きとも思われますが、噂に聞いたことしかない米饅頭のどこに一番惹かれていたのでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
井原西鶴と嘉祥の菓子
嘉祥喰いの図 *東京都立中央図書館河田文庫所蔵 西鶴の作品に見る菓子 大阪生まれの井原西鶴(1642~93)は、『好色一代男』、『世間胸算用』、『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』など多くの町人文学を残しましたが、その中には食に関する記述が多く、羊羹、饅頭、きんつばなど、当時の庶民が好んだ菓子もいろいろ登場します。 例えば、貞享(じょうきょう)元年(1684)に出版された、『好色二代男』としても知られる『諸艶大鑑(しょえんおおかがみ)』では、京都島原の扇屋という遊里での嘉祥の様子が次のように書かれています。「 今日嘉祥喰とて二口屋がまんぢう、道喜が笹粽、虎屋のやうかん、東寺瓜、大宮の初葡萄、粟田口の覆盆子(いちご)、醒井餅(さめがいもち)取まぜて十六色」このように16種類の菓子や果物などが用意された場面には挿絵もついており(図参照)、盛り上がる宴のようすがよく伝わってきます。 嘉祥とは旧暦6月16日に菓子や餅を食べ、厄除け・招福を願った行事です。江戸時代、幕府や宮中の年中行事のひとつになるなど盛んに行われました。虎屋にも、御所へ嘉祥用の菓子を納めた記録が残っています。なお、引用中の二口屋(菓子屋)、道喜(粽司)は虎屋と同じく御所御用を承っていました。道喜は川端道喜として現存しています。 菓子事情に詳しい西鶴 西鶴の作品の中に登場する菓子は上記にとどまりません。例えば、同じく『諸艶大鑑』には「山吹餅」と「玉子餅」という菓子も出てきます。前者は山吹色の連想からくちなしの実で黄色にした餅、後者は中身を黄色くし、玉子に見立てた餅と解釈されます。 さらには、『日本永代蔵』では長崎の町人が金平糖の製造に成功し、大もうけする話も描かれるなど、西鶴は当時の菓子事情にかなり通じていたことがうかがえ、興味深いものがあります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 嘉祥(嘉定)については、以下でも取り上げています。詳しく知りたい方は、ぜひご覧ください。機関誌『和菓子』創刊号 嘉定と菓子(鈴木晋一)機関誌『和菓子』 25号 江戸幕府嘉定儀礼の「着座」について(相田文三) 機関誌『和菓子』についてはこちら。
井原西鶴と嘉祥の菓子
嘉祥喰いの図 *東京都立中央図書館河田文庫所蔵 西鶴の作品に見る菓子 大阪生まれの井原西鶴(1642~93)は、『好色一代男』、『世間胸算用』、『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』など多くの町人文学を残しましたが、その中には食に関する記述が多く、羊羹、饅頭、きんつばなど、当時の庶民が好んだ菓子もいろいろ登場します。 例えば、貞享(じょうきょう)元年(1684)に出版された、『好色二代男』としても知られる『諸艶大鑑(しょえんおおかがみ)』では、京都島原の扇屋という遊里での嘉祥の様子が次のように書かれています。「 今日嘉祥喰とて二口屋がまんぢう、道喜が笹粽、虎屋のやうかん、東寺瓜、大宮の初葡萄、粟田口の覆盆子(いちご)、醒井餅(さめがいもち)取まぜて十六色」このように16種類の菓子や果物などが用意された場面には挿絵もついており(図参照)、盛り上がる宴のようすがよく伝わってきます。 嘉祥とは旧暦6月16日に菓子や餅を食べ、厄除け・招福を願った行事です。江戸時代、幕府や宮中の年中行事のひとつになるなど盛んに行われました。虎屋にも、御所へ嘉祥用の菓子を納めた記録が残っています。なお、引用中の二口屋(菓子屋)、道喜(粽司)は虎屋と同じく御所御用を承っていました。道喜は川端道喜として現存しています。 菓子事情に詳しい西鶴 西鶴の作品の中に登場する菓子は上記にとどまりません。例えば、同じく『諸艶大鑑』には「山吹餅」と「玉子餅」という菓子も出てきます。前者は山吹色の連想からくちなしの実で黄色にした餅、後者は中身を黄色くし、玉子に見立てた餅と解釈されます。 さらには、『日本永代蔵』では長崎の町人が金平糖の製造に成功し、大もうけする話も描かれるなど、西鶴は当時の菓子事情にかなり通じていたことがうかがえ、興味深いものがあります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 嘉祥(嘉定)については、以下でも取り上げています。詳しく知りたい方は、ぜひご覧ください。機関誌『和菓子』創刊号 嘉定と菓子(鈴木晋一)機関誌『和菓子』 25号 江戸幕府嘉定儀礼の「着座」について(相田文三) 機関誌『和菓子』についてはこちら。