虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
近松門左衛門と蕨餅
「岡大夫」という名前がついた虎屋の蕨粉製の餅。江戸の流行作家近松門左衛門(1653~1724)は、人形浄瑠璃(現在の文楽)や歌舞伎の脚本作家のさきがけとして活躍した人物で、今でいう流行作家でしょう。その生涯については、あまり知られていないようで、出生についても、京都、越前(福井県東部)、北越(新潟県・富山県)など、諸説ありますが、武士の家に生まれ、幼年時代に一家で京都に移ったといわれています。10代で、公家一条昭良(いちじょうあきよし・1605~1672)に仕えますが、近松が20歳の時に昭良が死去してしまいます。その後、俳諧で名を成したあと劇作家への転身をしました。当時、公家の世界では浄瑠璃が大変人気があったこともあり、奉公を通じて、近松は古典や仏教を学び、浄瑠璃に触れていったのだろうと思われます。 代表作「重の井子別れ」近松作品といえば「曽根崎心中」をはじめ、市井の生活を写した世話物と呼ばれる分野が有名ですが、子役の名演技で今も人気の出し物「重の井子別れ(しげのいこわかれ)」の段(「丹波与作待夜小室節」から後世「恋女房染分手綱」に改作)も代表作です。その話は、由留木(ゆるぎ)家の調姫(しらべひめ)が関東へ嫁入りをすることになったところから始まります。幼い姫は父母と別れて東国へ下りたくはありません。そこで姫の機嫌を直すために玄関から呼び込まれたのが、自然生(じねんじょ)の三吉と呼ばれる子供の馬子。その話から姫は東国へ興味を持ち、出立する気になるのです。乳人(めのと)の重の井が褒美を与えようとすると、三吉は、けなげに生い立ちを語り、武士の子ゆえにと褒美を固辞します。この話から、三吉こそ生き別れの我が子だと知りますが、重の井は、乳人という立場上、親子の名乗りができぬまま別れるという涙を誘う話です。 名物菓子「蕨餅」道中双六は、三吉が遊んでみせる大切な道具となっています。その中には、日坂(静岡県)の蕨餅や草津(滋賀県)の姥が餅などの名物菓子が登場します。蕨餅とは、独特の仄かな香りと歯触りの腰の強さが特徴の菓子。黄粉との組み合わせの野趣に富んだ菓子です。当時、歌舞伎は庶民、町人階級によって育てられた芸能であり、ありとあらゆる流行が取り入れられていました。通称「いやじゃ姫」とよばれる調姫の機嫌を直すきっかけは、「はやりもの」であった「甘いお菓子」という筋書を近松が書いたこともうなずけます。蕨餅は、蕨の根から採った澱粉で作りますが、現在ではこの蕨粉の生産は非常に少なくなり、大変高価なものになっています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
近松門左衛門と蕨餅
「岡大夫」という名前がついた虎屋の蕨粉製の餅。江戸の流行作家近松門左衛門(1653~1724)は、人形浄瑠璃(現在の文楽)や歌舞伎の脚本作家のさきがけとして活躍した人物で、今でいう流行作家でしょう。その生涯については、あまり知られていないようで、出生についても、京都、越前(福井県東部)、北越(新潟県・富山県)など、諸説ありますが、武士の家に生まれ、幼年時代に一家で京都に移ったといわれています。10代で、公家一条昭良(いちじょうあきよし・1605~1672)に仕えますが、近松が20歳の時に昭良が死去してしまいます。その後、俳諧で名を成したあと劇作家への転身をしました。当時、公家の世界では浄瑠璃が大変人気があったこともあり、奉公を通じて、近松は古典や仏教を学び、浄瑠璃に触れていったのだろうと思われます。 代表作「重の井子別れ」近松作品といえば「曽根崎心中」をはじめ、市井の生活を写した世話物と呼ばれる分野が有名ですが、子役の名演技で今も人気の出し物「重の井子別れ(しげのいこわかれ)」の段(「丹波与作待夜小室節」から後世「恋女房染分手綱」に改作)も代表作です。その話は、由留木(ゆるぎ)家の調姫(しらべひめ)が関東へ嫁入りをすることになったところから始まります。幼い姫は父母と別れて東国へ下りたくはありません。そこで姫の機嫌を直すために玄関から呼び込まれたのが、自然生(じねんじょ)の三吉と呼ばれる子供の馬子。その話から姫は東国へ興味を持ち、出立する気になるのです。乳人(めのと)の重の井が褒美を与えようとすると、三吉は、けなげに生い立ちを語り、武士の子ゆえにと褒美を固辞します。この話から、三吉こそ生き別れの我が子だと知りますが、重の井は、乳人という立場上、親子の名乗りができぬまま別れるという涙を誘う話です。 名物菓子「蕨餅」道中双六は、三吉が遊んでみせる大切な道具となっています。その中には、日坂(静岡県)の蕨餅や草津(滋賀県)の姥が餅などの名物菓子が登場します。蕨餅とは、独特の仄かな香りと歯触りの腰の強さが特徴の菓子。黄粉との組み合わせの野趣に富んだ菓子です。当時、歌舞伎は庶民、町人階級によって育てられた芸能であり、ありとあらゆる流行が取り入れられていました。通称「いやじゃ姫」とよばれる調姫の機嫌を直すきっかけは、「はやりもの」であった「甘いお菓子」という筋書を近松が書いたこともうなずけます。蕨餅は、蕨の根から採った澱粉で作りますが、現在ではこの蕨粉の生産は非常に少なくなり、大変高価なものになっています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
モースと辻占煎餅
辻占煎餅 有限会社小林製菓所(新潟県) 日本での功績 動物学者エドワード・モース(1838~1925)は、明治10年(1877)大森貝塚を発見し、日本の考古学発展に大きく貢献した人物です。モースは東大で動物学を講じる一方、日本の風俗に並々ならぬ関心を示しました。著書『日本その日その日』(平凡社東洋文庫)では国内の様々な事物に触れています。菓子にも少なからず興味を持っていたようで、同書には子供相手に菓子を売る行商の姿を描写した記述もあります。 辻占にも着目 明治16年(1883)の項では「辻占煎餅」のスケッチがつくはね(羽根突きの羽根)形で描かれています。辻占煎餅とは江戸時代から作られている占い紙入りの煎餅です。モースはこれを「ある種の格言を入れた菓子」として「糖蜜で出来ていてパリパリし、味は生姜の入っていないジンジャースナップ(生姜入の薄い菓子)に似ていた。」と書いています。さらに「私は子供の時米国で、恋愛に関する格言を入れた同様な仕掛けを見たことを覚えている。」と言及しています。この記述から、日本の江戸末期にあたる頃、すでに米国でも辻占煎餅と似たものが存在したことがわかり、興味を覚えます。また現在も米国始め各国にみられるフォーチュンクッキーとの関連も気になるところです。なお帰国後のモースは米国北東部セイラム市のピーボディ-博物館長となり、日本で収集した民具類を展示し、異文化紹介にも尽しました。そのなかには、未開封のまま保存された四角い瓶入りの金平糖もあります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 辻占については、以下でも取り上げています。詳しく知りたい方は、ぜひご覧ください。機関誌『和菓子』11号 辻占菓子についての一考察―運をひらく・縁をむすぶ―(中町素子) 機関誌『和菓子』についてはこちら。
モースと辻占煎餅
辻占煎餅 有限会社小林製菓所(新潟県) 日本での功績 動物学者エドワード・モース(1838~1925)は、明治10年(1877)大森貝塚を発見し、日本の考古学発展に大きく貢献した人物です。モースは東大で動物学を講じる一方、日本の風俗に並々ならぬ関心を示しました。著書『日本その日その日』(平凡社東洋文庫)では国内の様々な事物に触れています。菓子にも少なからず興味を持っていたようで、同書には子供相手に菓子を売る行商の姿を描写した記述もあります。 辻占にも着目 明治16年(1883)の項では「辻占煎餅」のスケッチがつくはね(羽根突きの羽根)形で描かれています。辻占煎餅とは江戸時代から作られている占い紙入りの煎餅です。モースはこれを「ある種の格言を入れた菓子」として「糖蜜で出来ていてパリパリし、味は生姜の入っていないジンジャースナップ(生姜入の薄い菓子)に似ていた。」と書いています。さらに「私は子供の時米国で、恋愛に関する格言を入れた同様な仕掛けを見たことを覚えている。」と言及しています。この記述から、日本の江戸末期にあたる頃、すでに米国でも辻占煎餅と似たものが存在したことがわかり、興味を覚えます。また現在も米国始め各国にみられるフォーチュンクッキーとの関連も気になるところです。なお帰国後のモースは米国北東部セイラム市のピーボディ-博物館長となり、日本で収集した民具類を展示し、異文化紹介にも尽しました。そのなかには、未開封のまま保存された四角い瓶入りの金平糖もあります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 辻占については、以下でも取り上げています。詳しく知りたい方は、ぜひご覧ください。機関誌『和菓子』11号 辻占菓子についての一考察―運をひらく・縁をむすぶ―(中町素子) 機関誌『和菓子』についてはこちら。
寺田寅彦と金平糖
物理学と金平糖物理学者・寺田寅彦(1878~1935)は、夏目漱石に俳句を学び、『吾輩は猫である』の水島寒月のモデルとなったといわれる人物です。バイオリン、絵画、写真と幅広い趣味を持つ才人でもありました。その文才は漱石にも認められ、数多く残した随筆には現在も多くのファンがいます。 窓ガラスの氷の模様や水の波紋についてなど、日常生活の中に潜む「物理学」に着目したものは、寅彦の独壇場といえるかもしれません。中でも金平糖の角がどうしてできるか、というテーマはお気に入りだったのか、「金平糖」のタイトルの随筆をはじめ複数の作品の中で言及しています。 角のできるまで金平糖は、斜めに回転する鍋の中で、芯(グラニュー糖や、いら粉など)に砂糖蜜を少しずつかけて作ります。2週間もかけて結晶を大きくしていく大変な作業です。角が生まれるのは、はじめに偶然できた凸凹の、尖った部分がへこんだ部分より早く成長するためと考えられています。寅彦は、どういった条件が重なるとこうした現象が起こるのか、また、角の大きさや数はどのようにして決まるのかなどを、学問として興味深い問題であるとし、当時チョコレートなどに押されてあまり見かけなくなった金平糖について、なくなってしまわないように保存を考えて欲しいとまで記しています。実は寅彦はお菓子代わりに砂糖をなめ、試験前にはその量が増えたというほどの甘党でした。金平糖について考察したのも、あながち学問的興味だけではなかったかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
寺田寅彦と金平糖
物理学と金平糖物理学者・寺田寅彦(1878~1935)は、夏目漱石に俳句を学び、『吾輩は猫である』の水島寒月のモデルとなったといわれる人物です。バイオリン、絵画、写真と幅広い趣味を持つ才人でもありました。その文才は漱石にも認められ、数多く残した随筆には現在も多くのファンがいます。 窓ガラスの氷の模様や水の波紋についてなど、日常生活の中に潜む「物理学」に着目したものは、寅彦の独壇場といえるかもしれません。中でも金平糖の角がどうしてできるか、というテーマはお気に入りだったのか、「金平糖」のタイトルの随筆をはじめ複数の作品の中で言及しています。 角のできるまで金平糖は、斜めに回転する鍋の中で、芯(グラニュー糖や、いら粉など)に砂糖蜜を少しずつかけて作ります。2週間もかけて結晶を大きくしていく大変な作業です。角が生まれるのは、はじめに偶然できた凸凹の、尖った部分がへこんだ部分より早く成長するためと考えられています。寅彦は、どういった条件が重なるとこうした現象が起こるのか、また、角の大きさや数はどのようにして決まるのかなどを、学問として興味深い問題であるとし、当時チョコレートなどに押されてあまり見かけなくなった金平糖について、なくなってしまわないように保存を考えて欲しいとまで記しています。実は寅彦はお菓子代わりに砂糖をなめ、試験前にはその量が増えたというほどの甘党でした。金平糖について考察したのも、あながち学問的興味だけではなかったかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
中村仲蔵(三代目)と江戸前の団子
旅の終わりに歌舞伎は江戸時代もっとももてはやされた娯楽のひとつ、数多くの名優が活躍して人々を魅了しました。なかには歌舞伎に夢中になるあまり免職になってしまった旗本もいました。200石取りの鶴藤蔵がその人、屋敷の内に舞台を設けて自らも出演、番付まで印刷する熱のいれようでした。そうした歌舞伎ざんまいの結果、1000両を越える金を使い切って免職されてしまったのです(『藤岡屋日記』)。当時の貨幣を現在の価値に直すのは難しいのですが、金1000両は1億円相当とも考えられます。この事件があったのは嘉永5年(1852)の3月8日のこと、その同じ日に1人の歌舞伎役者が長旅を終えて江戸に帰ってきました。幕末から明治にかけて老け役や敵役で評判をとった名優、後の三代目中村仲蔵(1809~1886)です。彼は四代目中村歌右衛門の遺骨を守って、中山道から甲州道中を経て江戸へ向かっていました。いよいよ旅も大詰め、四谷の大木戸を越えれば江戸の内、四谷新町(現新宿)の茶店で一休みした仲蔵ですが、注文した団子に感慨ひとしおです。出てきた団子は一串に四つの団子がついていました。その団子を見て思わず「江戸前」の団子と大喜び、「四つざしの団子尊とき桜かな」と一句ひねっています(『手前味噌』)。 江戸前の団子仲蔵によれば道中で昨日まで食べてきた団子は五つざしだったとのこと、これはどういうことなのでしょう。昔の団子は江戸でも五つざし、値段は一串5文ですので、団子一個1文ということになります。これだと団子を売るのにも計算が楽でした。それが明和5年(1768)に1枚で4文の価値がある四当銭が発行されたため、いっそのこと一串4つで4文にしてしまえということになったようです。ただし仲蔵も「これまでは団子五ツざし」と言っているので、大坂から中山道・甲州道中と江戸の外は五つざしの団子でした。四つざしの団子はまさしく「江戸前」の団子だったのです。同じ四当銭を使っていながらなぜこのような違いが生じたかはわかりませんが、今でも東京は四つさし関西は五つさしの団子が多いようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
中村仲蔵(三代目)と江戸前の団子
旅の終わりに歌舞伎は江戸時代もっとももてはやされた娯楽のひとつ、数多くの名優が活躍して人々を魅了しました。なかには歌舞伎に夢中になるあまり免職になってしまった旗本もいました。200石取りの鶴藤蔵がその人、屋敷の内に舞台を設けて自らも出演、番付まで印刷する熱のいれようでした。そうした歌舞伎ざんまいの結果、1000両を越える金を使い切って免職されてしまったのです(『藤岡屋日記』)。当時の貨幣を現在の価値に直すのは難しいのですが、金1000両は1億円相当とも考えられます。この事件があったのは嘉永5年(1852)の3月8日のこと、その同じ日に1人の歌舞伎役者が長旅を終えて江戸に帰ってきました。幕末から明治にかけて老け役や敵役で評判をとった名優、後の三代目中村仲蔵(1809~1886)です。彼は四代目中村歌右衛門の遺骨を守って、中山道から甲州道中を経て江戸へ向かっていました。いよいよ旅も大詰め、四谷の大木戸を越えれば江戸の内、四谷新町(現新宿)の茶店で一休みした仲蔵ですが、注文した団子に感慨ひとしおです。出てきた団子は一串に四つの団子がついていました。その団子を見て思わず「江戸前」の団子と大喜び、「四つざしの団子尊とき桜かな」と一句ひねっています(『手前味噌』)。 江戸前の団子仲蔵によれば道中で昨日まで食べてきた団子は五つざしだったとのこと、これはどういうことなのでしょう。昔の団子は江戸でも五つざし、値段は一串5文ですので、団子一個1文ということになります。これだと団子を売るのにも計算が楽でした。それが明和5年(1768)に1枚で4文の価値がある四当銭が発行されたため、いっそのこと一串4つで4文にしてしまえということになったようです。ただし仲蔵も「これまでは団子五ツざし」と言っているので、大坂から中山道・甲州道中と江戸の外は五つざしの団子でした。四つざしの団子はまさしく「江戸前」の団子だったのです。同じ四当銭を使っていながらなぜこのような違いが生じたかはわかりませんが、今でも東京は四つさし関西は五つさしの団子が多いようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
屈原と粽
中国ゆかりの粽5月5日の端午の節句で、粽を食べるのが楽しみという方も多いでしょう。私たちに馴染みある菓子ですが、実は中国の悲劇の英雄、屈原(くつげん・紀元前4~3世紀頃)にちなむ逸話から生まれたといわれます 悲劇の英雄楚の王族であった屈原は、博識の上政治的手腕にも優れていたため、王に信任されて要職に就きます。しかし他の官僚の妬みにあい失脚、最後には長沙(現在の湖南省)に左遷されてしまいます。王に見放された屈原は、楚の未来を憂いつつ汨羅(べきら)の淵に身を投げ、失意のうちにその一生を終えました。 粽誕生伝説6世紀に成立した『続斉諧記(ぞくせいかいき)』は、屈原の死後について次のように記しています。屈原の入水後、その死を悼んだ里人は、命日の5月5日に供養として竹筒に米を入れ、汨羅の淵に投げ込みます。しかしある時、屈原の霊があらわれ、こう訴えました。「淵には蛟龍(こうりゅう=龍の一種)が住んでおり、投げ込んだ供物を食べてしまう。厄除けに楝樹(せんだん)の葉で包み、五色の糸で巻けば蛟龍は食べないであろう。」それから里人は教え通りに供物を作るようになったといいます。これが粽の始まりだといわれます。 端午の節句と粽屈原の命日でもある端午の節句は、もとは穢れを払う日で、日本でも平安時代には厄除けに粽を用意するなど、様々な行事が行なわれてきました。そして、江戸時代には武家社会で子孫繁栄を重視する考え方が広まり、この日に男子の健やかな成長も願うようになりました。粽も引き続き使われましたが、葛や外郎を使った甘い菓子としても工夫されるようになりました。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
屈原と粽
中国ゆかりの粽5月5日の端午の節句で、粽を食べるのが楽しみという方も多いでしょう。私たちに馴染みある菓子ですが、実は中国の悲劇の英雄、屈原(くつげん・紀元前4~3世紀頃)にちなむ逸話から生まれたといわれます 悲劇の英雄楚の王族であった屈原は、博識の上政治的手腕にも優れていたため、王に信任されて要職に就きます。しかし他の官僚の妬みにあい失脚、最後には長沙(現在の湖南省)に左遷されてしまいます。王に見放された屈原は、楚の未来を憂いつつ汨羅(べきら)の淵に身を投げ、失意のうちにその一生を終えました。 粽誕生伝説6世紀に成立した『続斉諧記(ぞくせいかいき)』は、屈原の死後について次のように記しています。屈原の入水後、その死を悼んだ里人は、命日の5月5日に供養として竹筒に米を入れ、汨羅の淵に投げ込みます。しかしある時、屈原の霊があらわれ、こう訴えました。「淵には蛟龍(こうりゅう=龍の一種)が住んでおり、投げ込んだ供物を食べてしまう。厄除けに楝樹(せんだん)の葉で包み、五色の糸で巻けば蛟龍は食べないであろう。」それから里人は教え通りに供物を作るようになったといいます。これが粽の始まりだといわれます。 端午の節句と粽屈原の命日でもある端午の節句は、もとは穢れを払う日で、日本でも平安時代には厄除けに粽を用意するなど、様々な行事が行なわれてきました。そして、江戸時代には武家社会で子孫繁栄を重視する考え方が広まり、この日に男子の健やかな成長も願うようになりました。粽も引き続き使われましたが、葛や外郎を使った甘い菓子としても工夫されるようになりました。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
中勘助と駄菓子
「仙台駄菓子づくし」 いせ辰より『銀の匙』で有名に中勘助(なかかんすけ・1885~1965)は明治18年、東京神田生まれの作家です。代表作の『銀の匙(ぎんのさじ)』は、大正2年(1913)と4年に、夏目漱石の推薦で『東京朝日新聞』に連載されたもので、今も珠玉の名品として読みつがれています。題名は、生まれつき病弱で叔母に銀の匙で薬を飲まされて育った思い出にちなんでおり、幼少より17歳の青春期までが回想するように綴られています。明治時代の年中行事や風俗が細やかに描かれている作品ですが、そのなかでも駄菓子についての記述は、多くの読者にとって幼い日の記憶を蘇らせてくれるものでしょう。 駄菓子の思い出勘助のいきつけの駄菓子屋は藁屋根の古い造りで、お爺さん、お婆さんが店番をしていました。店は古びていてもそこで目にする色とりどりの駄菓子の数々は、子供にとって宝物のようなものだったのでしょう。「…きんか糖、きんぎょく糖、てんもん糖、微塵棒。竹の羊羹は口にくわえると青竹の匂がしてつるりと舌のうえにすべりだす。飴のなかのおたさんは泣いたり笑ったりしていろんな向きに顔をみせる。青や赤の縞になったのをこっきり噛み折って吸ってみると鬆(す)のなかから甘い風が出る。…」順に触れると、「きんか糖」は、砂糖液を木型に入れて固めて作る菓子、きんぎょく糖は寒天と砂糖を溶かし煮詰めたもの。「てんもん糖」は、天門冬(草杉蔓)の砂糖漬けでしょうか。「微塵棒」は、みじん粉(もち米を加工し細かにした粉)に砂糖を加え、棒状にねじった菓子、「竹の羊羹」は、「竹筒にはいった(竹流し)羊羹」と思われます。「飴のなかのおたさん」は、金太郎飴の女性版、お多福飴のこと。大人になっても幼年時代に味わった駄菓子の感動を、忘れることなく美文に残した中勘助の感性には、はっとさせられるものがあるのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
中勘助と駄菓子
「仙台駄菓子づくし」 いせ辰より『銀の匙』で有名に中勘助(なかかんすけ・1885~1965)は明治18年、東京神田生まれの作家です。代表作の『銀の匙(ぎんのさじ)』は、大正2年(1913)と4年に、夏目漱石の推薦で『東京朝日新聞』に連載されたもので、今も珠玉の名品として読みつがれています。題名は、生まれつき病弱で叔母に銀の匙で薬を飲まされて育った思い出にちなんでおり、幼少より17歳の青春期までが回想するように綴られています。明治時代の年中行事や風俗が細やかに描かれている作品ですが、そのなかでも駄菓子についての記述は、多くの読者にとって幼い日の記憶を蘇らせてくれるものでしょう。 駄菓子の思い出勘助のいきつけの駄菓子屋は藁屋根の古い造りで、お爺さん、お婆さんが店番をしていました。店は古びていてもそこで目にする色とりどりの駄菓子の数々は、子供にとって宝物のようなものだったのでしょう。「…きんか糖、きんぎょく糖、てんもん糖、微塵棒。竹の羊羹は口にくわえると青竹の匂がしてつるりと舌のうえにすべりだす。飴のなかのおたさんは泣いたり笑ったりしていろんな向きに顔をみせる。青や赤の縞になったのをこっきり噛み折って吸ってみると鬆(す)のなかから甘い風が出る。…」順に触れると、「きんか糖」は、砂糖液を木型に入れて固めて作る菓子、きんぎょく糖は寒天と砂糖を溶かし煮詰めたもの。「てんもん糖」は、天門冬(草杉蔓)の砂糖漬けでしょうか。「微塵棒」は、みじん粉(もち米を加工し細かにした粉)に砂糖を加え、棒状にねじった菓子、「竹の羊羹」は、「竹筒にはいった(竹流し)羊羹」と思われます。「飴のなかのおたさん」は、金太郎飴の女性版、お多福飴のこと。大人になっても幼年時代に味わった駄菓子の感動を、忘れることなく美文に残した中勘助の感性には、はっとさせられるものがあるのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)