虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
大田南畝と氷餅
文人と幕臣大田南畝(おおたなんぽ・1749~1823)は、狂歌・黄表紙や、『仮名世説』『一話一言』など多数の随筆を残した文人として知られています。その一方で長崎奉行所に派遣されたり、玉川水防の巡視に任命されるなど、有能な幕臣でもありました。 初めての旅南畝は53歳の時、幕府より大坂銅座へ1年間の赴任を命ぜられ、初めて江戸を離れます。老境に差し掛かったとはいえ、見聞を広める旅は、大層な喜びとなりました。往路の道中日記『改元紀行』には、「境川の橋をわたりて三河の国なり。左に小松原観音道あり」とあるように、橋や分岐点、道標などももらさず書いており、旅への思いがうかがえます。 旅の土産に氷餅1年間の任務を無事終え、南畝は中山道経由で江戸に帰ることになりました。そのときの記録『壬戌紀行』には、木曽の合戸村で餡餅を食べたことなども書かれています。また、下諏訪(長野県)の先の西餅屋では、名物の氷餅を買っており、袋に「日野屋六兵衛」と書いてあったことや、その先の東餅屋では氷餅を売っていなかったことを記しています。餅の形状については言及していませんが、諏訪地方では冬期にもち米を水とともにすりつぶして煮、凍結乾燥させた氷餅が知られます。大変軽いもので、保存食として珍重され、湯で溶いて食べるほか、砕いて生菓子にまぶして使います。地方の珍しい食べ物ということもあって、南畝は旅の土産にと考えたのでしょうか。南畝は家族や知人との再会を心待ちにしていたのでしょう、最後に江戸で出迎えた人たちについてうれしそうに記し、日記を終えています。久しぶりのわが家で、土産話をしつつ氷餅を家族に渡したのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
大田南畝と氷餅
文人と幕臣大田南畝(おおたなんぽ・1749~1823)は、狂歌・黄表紙や、『仮名世説』『一話一言』など多数の随筆を残した文人として知られています。その一方で長崎奉行所に派遣されたり、玉川水防の巡視に任命されるなど、有能な幕臣でもありました。 初めての旅南畝は53歳の時、幕府より大坂銅座へ1年間の赴任を命ぜられ、初めて江戸を離れます。老境に差し掛かったとはいえ、見聞を広める旅は、大層な喜びとなりました。往路の道中日記『改元紀行』には、「境川の橋をわたりて三河の国なり。左に小松原観音道あり」とあるように、橋や分岐点、道標などももらさず書いており、旅への思いがうかがえます。 旅の土産に氷餅1年間の任務を無事終え、南畝は中山道経由で江戸に帰ることになりました。そのときの記録『壬戌紀行』には、木曽の合戸村で餡餅を食べたことなども書かれています。また、下諏訪(長野県)の先の西餅屋では、名物の氷餅を買っており、袋に「日野屋六兵衛」と書いてあったことや、その先の東餅屋では氷餅を売っていなかったことを記しています。餅の形状については言及していませんが、諏訪地方では冬期にもち米を水とともにすりつぶして煮、凍結乾燥させた氷餅が知られます。大変軽いもので、保存食として珍重され、湯で溶いて食べるほか、砕いて生菓子にまぶして使います。地方の珍しい食べ物ということもあって、南畝は旅の土産にと考えたのでしょうか。南畝は家族や知人との再会を心待ちにしていたのでしょう、最後に江戸で出迎えた人たちについてうれしそうに記し、日記を終えています。久しぶりのわが家で、土産話をしつつ氷餅を家族に渡したのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
森茉莉と有平糖
様々な有平糖の絵図 文豪森鴎外の娘として誕生 森茉莉(1903~87)は、『雁』『舞姫』などの作品で有名な文豪、森鴎外の長女として、明治36年に東京・千駄木で生まれました。文壇でのデビューは遅かったとはいえ、昭和32年(1957)、父親への愛をつづった「父の帽子」が日本エッセイスト・クラブ賞、昭和50年、長編「甘い蜜の部屋」が泉鏡花文学賞を受賞しており、ほかにも「贅沢貧乏」「どっきりチャンネル」などのエッセイが知られます。作家としては恵まれた境遇でしたが、私生活では2度の結婚に破れており、晩年はつつましく1人で暮らし、孤独のうちに84歳で亡くなりました。貧しい中にも精神的貴族生活を貫いて書かれたエッセイには耽美的なものも多く、独特の雰囲気を漂わせています。「お菓子の話」もその一つでしょう。 昔の記憶を呼び起こす有平糖 父親が宮中から持って帰った煉切(ねりきり)、常用にしていた半生菓子などについて語っていますが、森茉莉が特に心惹かれていたのは有平糖(あるへいとう)の花菓子だったようです。有平糖とは16世紀にポルトガル、スペインとの交流を通じてもたらされた南蛮菓子の一つ。その名は、ポルトガル語のアルフェロア、あるいはアルフェニンなどの砂糖菓子からきているといわれます。江戸時代後期には、彩りも華やかで形も様々な有平糖が工夫され、贈答品としても好まれました。現在も、雛菓子やお茶席の干菓子として時折見かけますが、森茉莉の少女時代には、かなり凝ったものが作られていたようです。エッセイでは「想い出の菓子」として有平糖の花菓子(花束にしたもの)に触れ、「(有平糖でできた)桜の淡紅,葉の緑、牡丹の真紅なぞが、きらきらと透徹り、ヴェネツィア硝子か、ボヘミア硝子の、破片(かけら)のように光った」と書いています。仏文学に傾倒していた森茉莉にとって、有平糖は、フランスの代表的作家プルーストが心を寄せるプティット・マドレェヌ(貝形の焼菓子)のようなものでした。紅茶に浸したマドレェヌが遠い日の記憶を呼び起こすように(プルースト作『失われた時を求めて』より)、有平糖は彼女に幼年時代の香しい想い出を蘇らせてくれたのでしょう。晩年が孤独だっただけに、「有平糖は私のプティット・マドレェヌ」という言葉が心に響きます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 有平糖については、以下でも取り上げています。詳しく知りたい方は、ぜひご覧ください。機関誌『和菓子』23号 南蛮菓子アルヘイトウの語源考(荒尾美代) 機関誌『和菓子』についてはこちら。
森茉莉と有平糖
様々な有平糖の絵図 文豪森鴎外の娘として誕生 森茉莉(1903~87)は、『雁』『舞姫』などの作品で有名な文豪、森鴎外の長女として、明治36年に東京・千駄木で生まれました。文壇でのデビューは遅かったとはいえ、昭和32年(1957)、父親への愛をつづった「父の帽子」が日本エッセイスト・クラブ賞、昭和50年、長編「甘い蜜の部屋」が泉鏡花文学賞を受賞しており、ほかにも「贅沢貧乏」「どっきりチャンネル」などのエッセイが知られます。作家としては恵まれた境遇でしたが、私生活では2度の結婚に破れており、晩年はつつましく1人で暮らし、孤独のうちに84歳で亡くなりました。貧しい中にも精神的貴族生活を貫いて書かれたエッセイには耽美的なものも多く、独特の雰囲気を漂わせています。「お菓子の話」もその一つでしょう。 昔の記憶を呼び起こす有平糖 父親が宮中から持って帰った煉切(ねりきり)、常用にしていた半生菓子などについて語っていますが、森茉莉が特に心惹かれていたのは有平糖(あるへいとう)の花菓子だったようです。有平糖とは16世紀にポルトガル、スペインとの交流を通じてもたらされた南蛮菓子の一つ。その名は、ポルトガル語のアルフェロア、あるいはアルフェニンなどの砂糖菓子からきているといわれます。江戸時代後期には、彩りも華やかで形も様々な有平糖が工夫され、贈答品としても好まれました。現在も、雛菓子やお茶席の干菓子として時折見かけますが、森茉莉の少女時代には、かなり凝ったものが作られていたようです。エッセイでは「想い出の菓子」として有平糖の花菓子(花束にしたもの)に触れ、「(有平糖でできた)桜の淡紅,葉の緑、牡丹の真紅なぞが、きらきらと透徹り、ヴェネツィア硝子か、ボヘミア硝子の、破片(かけら)のように光った」と書いています。仏文学に傾倒していた森茉莉にとって、有平糖は、フランスの代表的作家プルーストが心を寄せるプティット・マドレェヌ(貝形の焼菓子)のようなものでした。紅茶に浸したマドレェヌが遠い日の記憶を呼び起こすように(プルースト作『失われた時を求めて』より)、有平糖は彼女に幼年時代の香しい想い出を蘇らせてくれたのでしょう。晩年が孤独だっただけに、「有平糖は私のプティット・マドレェヌ」という言葉が心に響きます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 有平糖については、以下でも取り上げています。詳しく知りたい方は、ぜひご覧ください。機関誌『和菓子』23号 南蛮菓子アルヘイトウの語源考(荒尾美代) 機関誌『和菓子』についてはこちら。
徳川家茂-虎屋の将軍家御用と摺針餅
徳川十四代将軍の菓子御用徳川家茂(1846~66)は風雲急を告げる幕末の動乱期、わずか13歳で将軍の座につきました。皇女和宮を正室に迎えたことでも知られ、政略結婚ながら2人の仲は睦まじかったといわれています(「和宮と月見饅」の項参照)。家茂が孝明天皇と対面するため三度にわたり上洛した際、虎屋は京における将軍の菓子御用を承りました。家茂から孝明天皇へは「夜の梅」「延年」「春気色」など、後に明治天皇となる睦仁親王には一対のギヤマンに入れた干菓子を贈ったことなどが記録に残っています。 道中の名物に舌鼓家茂の京都・大坂行きの道中では、各地で様々な食べ物が献上されました。多くは家来に下げ渡されましたが、「安倍川餅」や大坂の「喰らわんか餅」などは自ら食べています。二度目の上洛の際立ち寄った摺針峠(滋賀県)の「摺針餅」もその一つで、家茂は餅を堪能した後、さらにもう一箱を次の宿泊地へ送っておくように命じています。気に入って、もっと食べたくなったのかもしれません。ちなみに餅を商っていた望湖堂は琵琶湖を見下ろす絶景の地にあり、大名も立ち寄る立派な建物でした。この後京都、大坂へ向かった家茂ですが、江戸に戻ることなく21歳の若さで病没します。将軍の道中を楽しませた摺針餅も、俵形の餡餅という伝承はあるものの詳細は不明で、現在は幻の名物となってしまいました。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『続徳川実紀』
徳川家茂-虎屋の将軍家御用と摺針餅
徳川十四代将軍の菓子御用徳川家茂(1846~66)は風雲急を告げる幕末の動乱期、わずか13歳で将軍の座につきました。皇女和宮を正室に迎えたことでも知られ、政略結婚ながら2人の仲は睦まじかったといわれています(「和宮と月見饅」の項参照)。家茂が孝明天皇と対面するため三度にわたり上洛した際、虎屋は京における将軍の菓子御用を承りました。家茂から孝明天皇へは「夜の梅」「延年」「春気色」など、後に明治天皇となる睦仁親王には一対のギヤマンに入れた干菓子を贈ったことなどが記録に残っています。 道中の名物に舌鼓家茂の京都・大坂行きの道中では、各地で様々な食べ物が献上されました。多くは家来に下げ渡されましたが、「安倍川餅」や大坂の「喰らわんか餅」などは自ら食べています。二度目の上洛の際立ち寄った摺針峠(滋賀県)の「摺針餅」もその一つで、家茂は餅を堪能した後、さらにもう一箱を次の宿泊地へ送っておくように命じています。気に入って、もっと食べたくなったのかもしれません。ちなみに餅を商っていた望湖堂は琵琶湖を見下ろす絶景の地にあり、大名も立ち寄る立派な建物でした。この後京都、大坂へ向かった家茂ですが、江戸に戻ることなく21歳の若さで病没します。将軍の道中を楽しませた摺針餅も、俵形の餡餅という伝承はあるものの詳細は不明で、現在は幻の名物となってしまいました。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『続徳川実紀』
根津嘉一郎と「ほかほか」お菓子
茶人 青山の誕生東武鉄道などを手がけ、「鉄道王」として知られている根津嘉一郎(1860~1940)は、山梨郡正徳村(現山梨県山梨市)に生まれました。事業だけではなく、武蔵高校(現武蔵学園)、根津化学研究所、根津美術館など、教育・文化の分野でも尽力したことが知られています。また嘉一郎は青山と号して茶の湯を愛し、茶道具や東洋古美術の蒐集に力を入れています。若い頃から古美術を愛好していたようですが、一躍注目されるのは明治39年(1906)、青山47歳の時の平瀬家売り立てでの落札です。足利義政遺愛の「花白河蒔絵硯箱」を当時としては破格な16,500円で落札します。こうして古美術界で頭角をあらわします。青山が茶の湯にいそしむようになったのは、50歳頃と言われていますが、数多くの名品を集めているにもかかわらず、一向に公式な茶会を開こうとはしない青山に対して、数寄者の間で陰口が聞かれるようになりました。そんな中、先輩茶人の高橋箒庵(そうあん)の仲介もあり、大正7年(1918)59歳の秋に「初陣茶会」を催しました。その見事な亭主ぶりは評判となり、関西の数寄者にもその名が伝わったと言われています。 「ほかほか」お菓子青山の茶会に関する記録としては、高橋箒庵の『大正茶道記』『昭和茶道記』の記述が知られています。特に大正10年以降、毎年恒例で催されるようになった「歳暮茶会」は有名です。この「歳暮茶会」やその他青山が席主となった冬の茶会記を追ってみると、同時期に行われている他の人の茶会に比べて、お菓子の記述に「蒸(む)して」「熱々」や「お汁粉」「ぜんざい」などが多く見受けられます。たとえば「蒸(ふ)かし小麦饅頭 縁高に入れて」「栗饅頭 蒸して」「蒸粟饅頭」「粟餅ぜんざい」「潰し餡汁粉」などです。これらの「ほかほか」お菓子は冬の客人に対する青山のもてなしのあらわれではないでしょうか。お茶の世界では、流派によって11月の口切に「お汁粉」が供されることもありますが、青山の会記に見られるような熱々のお菓子を「ふうふう」しながらいただくことは、現在の大寄せの茶会ではあまり見られなくなりました。このような中、青山を偲び、彼が愛でたお道具を使って現在も根津美術館で行われている「歳暮茶会」では、平成17年(2005年)も青山の会記の例に倣ってのことか、温かい「そば饅頭」、「粟ぜんざい」が濃茶席、薄茶席で振る舞われました。春とはいえ、戻りの寒さもあるこの時期、皆さんも蒸し直した温かい饅頭を召し上がってみてはいかがでしょうか。ひと手間かけることによって、新たなおいしさの発見があるかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
根津嘉一郎と「ほかほか」お菓子
茶人 青山の誕生東武鉄道などを手がけ、「鉄道王」として知られている根津嘉一郎(1860~1940)は、山梨郡正徳村(現山梨県山梨市)に生まれました。事業だけではなく、武蔵高校(現武蔵学園)、根津化学研究所、根津美術館など、教育・文化の分野でも尽力したことが知られています。また嘉一郎は青山と号して茶の湯を愛し、茶道具や東洋古美術の蒐集に力を入れています。若い頃から古美術を愛好していたようですが、一躍注目されるのは明治39年(1906)、青山47歳の時の平瀬家売り立てでの落札です。足利義政遺愛の「花白河蒔絵硯箱」を当時としては破格な16,500円で落札します。こうして古美術界で頭角をあらわします。青山が茶の湯にいそしむようになったのは、50歳頃と言われていますが、数多くの名品を集めているにもかかわらず、一向に公式な茶会を開こうとはしない青山に対して、数寄者の間で陰口が聞かれるようになりました。そんな中、先輩茶人の高橋箒庵(そうあん)の仲介もあり、大正7年(1918)59歳の秋に「初陣茶会」を催しました。その見事な亭主ぶりは評判となり、関西の数寄者にもその名が伝わったと言われています。 「ほかほか」お菓子青山の茶会に関する記録としては、高橋箒庵の『大正茶道記』『昭和茶道記』の記述が知られています。特に大正10年以降、毎年恒例で催されるようになった「歳暮茶会」は有名です。この「歳暮茶会」やその他青山が席主となった冬の茶会記を追ってみると、同時期に行われている他の人の茶会に比べて、お菓子の記述に「蒸(む)して」「熱々」や「お汁粉」「ぜんざい」などが多く見受けられます。たとえば「蒸(ふ)かし小麦饅頭 縁高に入れて」「栗饅頭 蒸して」「蒸粟饅頭」「粟餅ぜんざい」「潰し餡汁粉」などです。これらの「ほかほか」お菓子は冬の客人に対する青山のもてなしのあらわれではないでしょうか。お茶の世界では、流派によって11月の口切に「お汁粉」が供されることもありますが、青山の会記に見られるような熱々のお菓子を「ふうふう」しながらいただくことは、現在の大寄せの茶会ではあまり見られなくなりました。このような中、青山を偲び、彼が愛でたお道具を使って現在も根津美術館で行われている「歳暮茶会」では、平成17年(2005年)も青山の会記の例に倣ってのことか、温かい「そば饅頭」、「粟ぜんざい」が濃茶席、薄茶席で振る舞われました。春とはいえ、戻りの寒さもあるこの時期、皆さんも蒸し直した温かい饅頭を召し上がってみてはいかがでしょうか。ひと手間かけることによって、新たなおいしさの発見があるかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
宮沢賢治と菓子
珠玉の童話と多彩な活動『雨ニモマケズ』、『風の又三郎』、『銀河鉄道の夜』などたくさんの名作を遺した宮沢賢治(1896~1933)は、明治29年岩手県花巻で生まれました。賢治は盛岡高等農林学校卒業後、花巻農学校の教師として農村子弟の教育にあたりながら、多くの詩や童話の創作を続けていました。30歳で農学校を退職し、独自に農民講座を開設して、青年たちに農業を指導しますが、その後2度病に倒れ、ついに昭和8年に37歳の若さで世を去ります。宮沢賢治は、現在では、詩や童話が有名ですが、教育者であり、農業者でもあり、哲学・宗教・美術・音楽など、色々な分野にも興味を持っていたようです。 童話の中のお菓子子供たちに優しく語りかける童話の世界には、甘い菓子はかかせないモチーフといえます。賢治の作品に登場するお菓子は、餅、団子、飴、金平糖、パイ、ワッフルほか果物などもあわせると、驚くほど、バラエティに富んでいます。その中の一つをご紹介します。『鹿踊りのはじまり』という童話は、主人公の嘉十が、湯治に行く途中の小休止の折に、野原で自家製であろう粟と栃でできた団子を食べることからはじまります。嘉十は、残った団子をもったいないと思い、鹿のために置いていきますが、そばに、手ぬぐいを忘れてしまいます。鹿たちは、見たこともない手ぬぐいに恐れを感じ、魅力的な団子をなかなか口にすることが出来ません。少しずつ近づき、やっと食べることができると、喜び勇んで踊りだすというあらすじです。鹿の姿をそっと覗く嘉十の姿がほほえましい話です。この童話は、遠野地方に伝わる伝統芸能「鹿踊り」の「始まり」として、賢治が創作したといわれています。賢治自身の生活の中にも定着していた菓子は、餅・団子類といえ、遠野地方には、多様な餅が伝承されていることにも結びつきます。そして、農業に携わり、自ら作物を作っていた賢治にとって、菓子は嗜好品の一つというよりも、神聖なものであり、宝物のように感じていたのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
宮沢賢治と菓子
珠玉の童話と多彩な活動『雨ニモマケズ』、『風の又三郎』、『銀河鉄道の夜』などたくさんの名作を遺した宮沢賢治(1896~1933)は、明治29年岩手県花巻で生まれました。賢治は盛岡高等農林学校卒業後、花巻農学校の教師として農村子弟の教育にあたりながら、多くの詩や童話の創作を続けていました。30歳で農学校を退職し、独自に農民講座を開設して、青年たちに農業を指導しますが、その後2度病に倒れ、ついに昭和8年に37歳の若さで世を去ります。宮沢賢治は、現在では、詩や童話が有名ですが、教育者であり、農業者でもあり、哲学・宗教・美術・音楽など、色々な分野にも興味を持っていたようです。 童話の中のお菓子子供たちに優しく語りかける童話の世界には、甘い菓子はかかせないモチーフといえます。賢治の作品に登場するお菓子は、餅、団子、飴、金平糖、パイ、ワッフルほか果物などもあわせると、驚くほど、バラエティに富んでいます。その中の一つをご紹介します。『鹿踊りのはじまり』という童話は、主人公の嘉十が、湯治に行く途中の小休止の折に、野原で自家製であろう粟と栃でできた団子を食べることからはじまります。嘉十は、残った団子をもったいないと思い、鹿のために置いていきますが、そばに、手ぬぐいを忘れてしまいます。鹿たちは、見たこともない手ぬぐいに恐れを感じ、魅力的な団子をなかなか口にすることが出来ません。少しずつ近づき、やっと食べることができると、喜び勇んで踊りだすというあらすじです。鹿の姿をそっと覗く嘉十の姿がほほえましい話です。この童話は、遠野地方に伝わる伝統芸能「鹿踊り」の「始まり」として、賢治が創作したといわれています。賢治自身の生活の中にも定着していた菓子は、餅・団子類といえ、遠野地方には、多様な餅が伝承されていることにも結びつきます。そして、農業に携わり、自ら作物を作っていた賢治にとって、菓子は嗜好品の一つというよりも、神聖なものであり、宝物のように感じていたのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
水野忠邦と蓬が嶋
「蓬が嶋」…現在の蓬が嶋贅沢嫌いの改革者江戸時代後期の浜松藩主で、老中まで務めた水野忠邦(みずのただくに・1794~1851)は天保の改革の指導者として知られます。しかし改革の中身は、高価な料理を禁止するなど日常の衣食住全般に及び、贅沢や娯楽を徹底的に取り締まったため、民衆らの反発を受け、彼の権勢は長続きしませんでした。 特製蓬が嶋の賜り物忠邦は老中(1828~31)に昇任する2年前、所司代として京都に赴任しており、和歌、蹴鞠などに熱中していたようです。公家文化への造詣が深かった忠邦は、光格上皇に気に入られたのでしょうか、文政10年(1827)には「蓬が嶋」を下賜されています。(虎屋の修学院御幸関係の御用記録より)菓銘の「蓬が嶋」とは、中国の伝説上の理想郷ともいわれる蓬莱山(ほうらいさん)を指します。中に小饅頭が入っているところから別名「子持饅頭」とも呼ばれ、現在では結婚、出産など慶事に広く利用されています。江戸後期の当店絵図帳を見ると、当時の「蓬が嶋」には20個の小饅頭が入っていたことがわかります。一方、上皇から忠邦が賜った「蓬が嶋」には50個もの小饅頭が入っていました。一尺(約30cm)四方の台の図も描かれていることから、かなりの大きさだったと想像できます。数年後には厳しく贅沢を禁じる立場になる忠邦ですが、このような特製の蓬が嶋を賜り、どのような思いで賞味したのでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
水野忠邦と蓬が嶋
「蓬が嶋」…現在の蓬が嶋贅沢嫌いの改革者江戸時代後期の浜松藩主で、老中まで務めた水野忠邦(みずのただくに・1794~1851)は天保の改革の指導者として知られます。しかし改革の中身は、高価な料理を禁止するなど日常の衣食住全般に及び、贅沢や娯楽を徹底的に取り締まったため、民衆らの反発を受け、彼の権勢は長続きしませんでした。 特製蓬が嶋の賜り物忠邦は老中(1828~31)に昇任する2年前、所司代として京都に赴任しており、和歌、蹴鞠などに熱中していたようです。公家文化への造詣が深かった忠邦は、光格上皇に気に入られたのでしょうか、文政10年(1827)には「蓬が嶋」を下賜されています。(虎屋の修学院御幸関係の御用記録より)菓銘の「蓬が嶋」とは、中国の伝説上の理想郷ともいわれる蓬莱山(ほうらいさん)を指します。中に小饅頭が入っているところから別名「子持饅頭」とも呼ばれ、現在では結婚、出産など慶事に広く利用されています。江戸後期の当店絵図帳を見ると、当時の「蓬が嶋」には20個の小饅頭が入っていたことがわかります。一方、上皇から忠邦が賜った「蓬が嶋」には50個もの小饅頭が入っていました。一尺(約30cm)四方の台の図も描かれていることから、かなりの大きさだったと想像できます。数年後には厳しく贅沢を禁じる立場になる忠邦ですが、このような特製の蓬が嶋を賜り、どのような思いで賞味したのでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)