虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
中勘助と駄菓子
「仙台駄菓子づくし」 いせ辰より『銀の匙』で有名に中勘助(なかかんすけ・1885~1965)は明治18年、東京神田生まれの作家です。代表作の『銀の匙(ぎんのさじ)』は、大正2年(1913)と4年に、夏目漱石の推薦で『東京朝日新聞』に連載されたもので、今も珠玉の名品として読みつがれています。題名は、生まれつき病弱で叔母に銀の匙で薬を飲まされて育った思い出にちなんでおり、幼少より17歳の青春期までが回想するように綴られています。明治時代の年中行事や風俗が細やかに描かれている作品ですが、そのなかでも駄菓子についての記述は、多くの読者にとって幼い日の記憶を蘇らせてくれるものでしょう。 駄菓子の思い出勘助のいきつけの駄菓子屋は藁屋根の古い造りで、お爺さん、お婆さんが店番をしていました。店は古びていてもそこで目にする色とりどりの駄菓子の数々は、子供にとって宝物のようなものだったのでしょう。「…きんか糖、きんぎょく糖、てんもん糖、微塵棒。竹の羊羹は口にくわえると青竹の匂がしてつるりと舌のうえにすべりだす。飴のなかのおたさんは泣いたり笑ったりしていろんな向きに顔をみせる。青や赤の縞になったのをこっきり噛み折って吸ってみると鬆(す)のなかから甘い風が出る。…」順に触れると、「きんか糖」は、砂糖液を木型に入れて固めて作る菓子、きんぎょく糖は寒天と砂糖を溶かし煮詰めたもの。「てんもん糖」は、天門冬(草杉蔓)の砂糖漬けでしょうか。「微塵棒」は、みじん粉(もち米を加工し細かにした粉)に砂糖を加え、棒状にねじった菓子、「竹の羊羹」は、「竹筒にはいった(竹流し)羊羹」と思われます。「飴のなかのおたさん」は、金太郎飴の女性版、お多福飴のこと。大人になっても幼年時代に味わった駄菓子の感動を、忘れることなく美文に残した中勘助の感性には、はっとさせられるものがあるのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
中勘助と駄菓子
「仙台駄菓子づくし」 いせ辰より『銀の匙』で有名に中勘助(なかかんすけ・1885~1965)は明治18年、東京神田生まれの作家です。代表作の『銀の匙(ぎんのさじ)』は、大正2年(1913)と4年に、夏目漱石の推薦で『東京朝日新聞』に連載されたもので、今も珠玉の名品として読みつがれています。題名は、生まれつき病弱で叔母に銀の匙で薬を飲まされて育った思い出にちなんでおり、幼少より17歳の青春期までが回想するように綴られています。明治時代の年中行事や風俗が細やかに描かれている作品ですが、そのなかでも駄菓子についての記述は、多くの読者にとって幼い日の記憶を蘇らせてくれるものでしょう。 駄菓子の思い出勘助のいきつけの駄菓子屋は藁屋根の古い造りで、お爺さん、お婆さんが店番をしていました。店は古びていてもそこで目にする色とりどりの駄菓子の数々は、子供にとって宝物のようなものだったのでしょう。「…きんか糖、きんぎょく糖、てんもん糖、微塵棒。竹の羊羹は口にくわえると青竹の匂がしてつるりと舌のうえにすべりだす。飴のなかのおたさんは泣いたり笑ったりしていろんな向きに顔をみせる。青や赤の縞になったのをこっきり噛み折って吸ってみると鬆(す)のなかから甘い風が出る。…」順に触れると、「きんか糖」は、砂糖液を木型に入れて固めて作る菓子、きんぎょく糖は寒天と砂糖を溶かし煮詰めたもの。「てんもん糖」は、天門冬(草杉蔓)の砂糖漬けでしょうか。「微塵棒」は、みじん粉(もち米を加工し細かにした粉)に砂糖を加え、棒状にねじった菓子、「竹の羊羹」は、「竹筒にはいった(竹流し)羊羹」と思われます。「飴のなかのおたさん」は、金太郎飴の女性版、お多福飴のこと。大人になっても幼年時代に味わった駄菓子の感動を、忘れることなく美文に残した中勘助の感性には、はっとさせられるものがあるのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
近衛家煕と栗粉餅
茶の湯の貴重な記録『槐記』近衛(このえ)家は公家の中でも名門の家柄で、家煕(いえひろ・ 1667~1736)も関白や太政大臣を歴任しました。一方、書や茶道など、文化人として様々な分野で才能を発揮しています。家煕の言行を集録した書『槐記(かいき)』(山科道安著)は、江戸時代の公家茶道を知る上で随一の資料とされ、四季を通じての茶会が挿絵つきで記録されています。「青串団子三つ黄白赤」「カステラの蒸し返し」など茶会に用いられた菓子の種類も豊富です。 虎屋に栗粉餅を注文享保16年(1731)の項には虎屋に栗粉餅を注文した折のエピソードが記されています。栗粉餅は室町時代から日記や茶会記に見える菓子で、餅に栗の粉をまぶした素朴なものでした。家煕が翌日に使う栗粉餅を前日の晩に納めるよう、虎屋と亀屋に注文すると、二店とも品質が保てないという理由から断ってきます。結局餅と粉を別にして納めるのですが、家煕は二店の良心的な態度を褒めたということです。後世、虎屋の栗粉餅はきんとん状で作られるようになりました。現在は御膳餡を求肥で包み、その周りに栗餡のそぼろをつけたきんとんとしてお作りしています(写真)。なお、餅に栗の粉をまぶす昔ながらの栗粉餅は、今も岐阜県などで作られています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
近衛家煕と栗粉餅
茶の湯の貴重な記録『槐記』近衛(このえ)家は公家の中でも名門の家柄で、家煕(いえひろ・ 1667~1736)も関白や太政大臣を歴任しました。一方、書や茶道など、文化人として様々な分野で才能を発揮しています。家煕の言行を集録した書『槐記(かいき)』(山科道安著)は、江戸時代の公家茶道を知る上で随一の資料とされ、四季を通じての茶会が挿絵つきで記録されています。「青串団子三つ黄白赤」「カステラの蒸し返し」など茶会に用いられた菓子の種類も豊富です。 虎屋に栗粉餅を注文享保16年(1731)の項には虎屋に栗粉餅を注文した折のエピソードが記されています。栗粉餅は室町時代から日記や茶会記に見える菓子で、餅に栗の粉をまぶした素朴なものでした。家煕が翌日に使う栗粉餅を前日の晩に納めるよう、虎屋と亀屋に注文すると、二店とも品質が保てないという理由から断ってきます。結局餅と粉を別にして納めるのですが、家煕は二店の良心的な態度を褒めたということです。後世、虎屋の栗粉餅はきんとん状で作られるようになりました。現在は御膳餡を求肥で包み、その周りに栗餡のそぼろをつけたきんとんとしてお作りしています(写真)。なお、餅に栗の粉をまぶす昔ながらの栗粉餅は、今も岐阜県などで作られています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
益田鈍翁とお菓子
茶人鈍翁三井物産設立とともに、三井財閥の最高経営者となった益田孝(1848~1938)は、後年、鈍翁(どんのう)と号し、近代の代表的な茶人のひとりとして知られています。鈍翁の名は自伝によると、表千家6代覚々斎の手造黒楽茶碗、名古屋の高田源郎(通称鈍太郎)旧蔵の「鈍太郎」に由来します。鈍翁はそれまで観濤(かんとう)の号を使っていましたが、還暦を迎えた明治41年(1908)頃にこの「鈍太郎」を入手し、鈍翁の号を使うようになります。翌年には品川御殿山の自宅に茶室太郎庵を建て、席主として「鈍太郎」を使った席披きの茶会を催しました。鈍翁の高い鑑識眼は、彼を茶の世界に導いた非黙(克徳)、紅艶(英作)の弟たちの影響が大きかったといわれています。この鑑識眼の下に集められた膨大な古美術は有名です。これらの収集は個人的な趣味もあったのでしょうが、日本の美術品の海外流出を防ぐ大義がありました。 お菓子大好き鈍翁はお酒が苦手、匂いを嗅ぐのもだめで、奈良漬一切れ食べても酔っ払ったそうです。その分、甘味は常に欠かさず、甘味を口にしていない日には、わざわざ自分で菓子屋に買いに行ってしまうほど好きだったようです。茶道にまだ興味のなかった鈍翁23才の頃、お菓子での失敗談があります。知人宅にて友人と談笑していた折、甘い物好きの鈍翁の視界に羊羹が入りました。羊羹を切るのによいものはないかと辺りを見回すと、部屋の隅に据えられた風炉の近くにあった棗と茶杓に目が留まります。この茶杓で羊羹を切って食べているところを、知人のお茶の先生に見つかり怒られたということです。近代数寄者として名高い鈍翁からは信じ難いような話ですが、茶目っ気の多かったといわれる彼ならではの逸話かもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
益田鈍翁とお菓子
茶人鈍翁三井物産設立とともに、三井財閥の最高経営者となった益田孝(1848~1938)は、後年、鈍翁(どんのう)と号し、近代の代表的な茶人のひとりとして知られています。鈍翁の名は自伝によると、表千家6代覚々斎の手造黒楽茶碗、名古屋の高田源郎(通称鈍太郎)旧蔵の「鈍太郎」に由来します。鈍翁はそれまで観濤(かんとう)の号を使っていましたが、還暦を迎えた明治41年(1908)頃にこの「鈍太郎」を入手し、鈍翁の号を使うようになります。翌年には品川御殿山の自宅に茶室太郎庵を建て、席主として「鈍太郎」を使った席披きの茶会を催しました。鈍翁の高い鑑識眼は、彼を茶の世界に導いた非黙(克徳)、紅艶(英作)の弟たちの影響が大きかったといわれています。この鑑識眼の下に集められた膨大な古美術は有名です。これらの収集は個人的な趣味もあったのでしょうが、日本の美術品の海外流出を防ぐ大義がありました。 お菓子大好き鈍翁はお酒が苦手、匂いを嗅ぐのもだめで、奈良漬一切れ食べても酔っ払ったそうです。その分、甘味は常に欠かさず、甘味を口にしていない日には、わざわざ自分で菓子屋に買いに行ってしまうほど好きだったようです。茶道にまだ興味のなかった鈍翁23才の頃、お菓子での失敗談があります。知人宅にて友人と談笑していた折、甘い物好きの鈍翁の視界に羊羹が入りました。羊羹を切るのによいものはないかと辺りを見回すと、部屋の隅に据えられた風炉の近くにあった棗と茶杓に目が留まります。この茶杓で羊羹を切って食べているところを、知人のお茶の先生に見つかり怒られたということです。近代数寄者として名高い鈍翁からは信じ難いような話ですが、茶目っ気の多かったといわれる彼ならではの逸話かもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
十返舎一九と菓子
東海道 双川の柏餅『東海道中膝栗毛』十返舎一九(1765~1831)は『東海道中膝栗毛』(以下『膝栗毛』)の作者として知られています。『膝栗毛』は弥次郎兵衛、喜多八が伊勢、京都、難波に向かって東海道を旅する中でおこす失敗や思い違いなどを面白おかしく描いた話です。当時の読者は自分ならこんなことはするまいと笑いながらも、文中に出てくる宿屋、茶屋、船、街道で行きかう人々、各地の風俗の違いなどを想像して、旅への憧れをつのらせたことでしょう。 『膝栗毛』と菓子東海道は江戸時代、旅行者が飛躍的に増えました。宿駅が整備され、道中案内書などもできたことから鞠子(まりこ)のとろろ汁、桑名の焼き蛤、府中の安倍川餅等々の食べ物が広く知られるようになりました。『膝栗毛』にも弥次、喜多の2人がそれらを美味しそうに食べる場面が出てきます。2人はとても甘いもの好きで、道中に出てくる菓子は餅、団子、外郎、安倍川餅、饅頭、牡丹餅、柏餅、鶉焼(鶉形の餅菓子)など。藤沢のあやしげな茶店では火のついた黒焦げの団子を食べ、三河国今村の建場では亭主を騙して鶉焼を一文安く買ったりしています。四日市の追分では、弥次郎兵衛がかつて江戸の幕府御用菓子司鳥飼和泉(とりかいいずみ)の近所に住み、毎日50~60個ほどの饅頭をお茶請けに食べていたと自慢したことが、饅頭の大食い競争に発展し、結局代金233文と金毘羅様への初穂料300文を払わされました。また、五右衛門風呂の構造を説明するところでは「もちや(餅屋)のどらや(焼)きをや(焼)くごときのうす(薄)べらなるなべ(鍋)」、蒟蒻の水気を取るための焼き石については「大ふくもち(福餅)の大きさのごときくろ(黒)きもの」などと表現する箇所もあり、おかしみを誘います。一九は『膝栗毛』刊行の3年後に菓子製法書『餅菓子即席手製集』(文化2年)を刊行しています。菓子好きでもあったことが上記のような記述につながったのでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
十返舎一九と菓子
東海道 双川の柏餅『東海道中膝栗毛』十返舎一九(1765~1831)は『東海道中膝栗毛』(以下『膝栗毛』)の作者として知られています。『膝栗毛』は弥次郎兵衛、喜多八が伊勢、京都、難波に向かって東海道を旅する中でおこす失敗や思い違いなどを面白おかしく描いた話です。当時の読者は自分ならこんなことはするまいと笑いながらも、文中に出てくる宿屋、茶屋、船、街道で行きかう人々、各地の風俗の違いなどを想像して、旅への憧れをつのらせたことでしょう。 『膝栗毛』と菓子東海道は江戸時代、旅行者が飛躍的に増えました。宿駅が整備され、道中案内書などもできたことから鞠子(まりこ)のとろろ汁、桑名の焼き蛤、府中の安倍川餅等々の食べ物が広く知られるようになりました。『膝栗毛』にも弥次、喜多の2人がそれらを美味しそうに食べる場面が出てきます。2人はとても甘いもの好きで、道中に出てくる菓子は餅、団子、外郎、安倍川餅、饅頭、牡丹餅、柏餅、鶉焼(鶉形の餅菓子)など。藤沢のあやしげな茶店では火のついた黒焦げの団子を食べ、三河国今村の建場では亭主を騙して鶉焼を一文安く買ったりしています。四日市の追分では、弥次郎兵衛がかつて江戸の幕府御用菓子司鳥飼和泉(とりかいいずみ)の近所に住み、毎日50~60個ほどの饅頭をお茶請けに食べていたと自慢したことが、饅頭の大食い競争に発展し、結局代金233文と金毘羅様への初穂料300文を払わされました。また、五右衛門風呂の構造を説明するところでは「もちや(餅屋)のどらや(焼)きをや(焼)くごときのうす(薄)べらなるなべ(鍋)」、蒟蒻の水気を取るための焼き石については「大ふくもち(福餅)の大きさのごときくろ(黒)きもの」などと表現する箇所もあり、おかしみを誘います。一九は『膝栗毛』刊行の3年後に菓子製法書『餅菓子即席手製集』(文化2年)を刊行しています。菓子好きでもあったことが上記のような記述につながったのでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
古田織部と織部饅
大名茶人-織部古田織部(ふるたおりべ・1544~1615)は、山城国のうち35,000石を治めた大名であるとともに、千利休から茶道を学び、織部流の祖とされる茶人でもありました。晩年には豊臣秀頼に献茶をしたり、2代将軍秀忠に茶の湯を指南するなど、その名声は高いものがありました。実際織部の指導を求める者は、大名から公家衆、僧侶にまで及んだといわれています。 また彼の影響もあり、美濃国(岐阜県)で織部焼という陶器が作られました。 織部焼の意匠に因む織部饅織部焼の特色は、釉(うわぐすり)、 文様、形態に技巧をこらした斬新な意匠にあります。特に青織部と呼ばれる、緑の釉をほどこしたものは有名です。そのほか異国風、幾何学的文様などデザインも色々あり、モチーフとしては梅が多く見られます。織部焼の特徴が菓子に生かされたものに織部饅頭があります。緑色のぼかし(におい)で釉を見たて、井桁(いげた…井戸の上部の縁を木で井の字形に四角に組んだもの)や梅などの焼印を配したものです。 虎屋の織部饅頭は「織部饅」と呼ばれ、天保8年(1837)の記録に見られます。現在では腰高の薯蕷饅頭に井桁、梅鉢、木賊(とくさ)の焼印を押したもの(写真)で、裏千家の初釜には紅餡入で納められます。織部の活躍した時代の茶菓子はまだ餡餅、熟柿など素朴なものばかりで織部饅自体、彼の考案によるものではありません。しかし、織部の美意識が茶席の菓子としても受け継がれていることは、その偉大さを物語る一例といえましょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
古田織部と織部饅
大名茶人-織部古田織部(ふるたおりべ・1544~1615)は、山城国のうち35,000石を治めた大名であるとともに、千利休から茶道を学び、織部流の祖とされる茶人でもありました。晩年には豊臣秀頼に献茶をしたり、2代将軍秀忠に茶の湯を指南するなど、その名声は高いものがありました。実際織部の指導を求める者は、大名から公家衆、僧侶にまで及んだといわれています。 また彼の影響もあり、美濃国(岐阜県)で織部焼という陶器が作られました。 織部焼の意匠に因む織部饅織部焼の特色は、釉(うわぐすり)、 文様、形態に技巧をこらした斬新な意匠にあります。特に青織部と呼ばれる、緑の釉をほどこしたものは有名です。そのほか異国風、幾何学的文様などデザインも色々あり、モチーフとしては梅が多く見られます。織部焼の特徴が菓子に生かされたものに織部饅頭があります。緑色のぼかし(におい)で釉を見たて、井桁(いげた…井戸の上部の縁を木で井の字形に四角に組んだもの)や梅などの焼印を配したものです。 虎屋の織部饅頭は「織部饅」と呼ばれ、天保8年(1837)の記録に見られます。現在では腰高の薯蕷饅頭に井桁、梅鉢、木賊(とくさ)の焼印を押したもの(写真)で、裏千家の初釜には紅餡入で納められます。織部の活躍した時代の茶菓子はまだ餡餅、熟柿など素朴なものばかりで織部饅自体、彼の考案によるものではありません。しかし、織部の美意識が茶席の菓子としても受け継がれていることは、その偉大さを物語る一例といえましょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
幸田露伴と菓子製法書
製法書『菓子話船橋(かしわふなばし)』と『御前菓子秘伝抄(ごぜんがしひでんしょう)』『五重塔』の文豪幸田露伴(1867~1947)は明治から昭和前期にかけての小説家で、代表作『五重塔』は今も読み継がれています。現在では幸田文の父、青木玉の祖父といったほうがピンと来る方もいらっしゃるかもしれません。学生時代から図書館に通い、仏典や江戸時代の雑書を読み漁ったといわれ、また釣りを始めとして多趣味でもあり、その博学ぶりはつとに有名です。 食文化とお菓子そんな露伴の作品のひとつに「古今料理書解題」があります。主に江戸時代の料理書について簡単な解説を加えたもので、挙げられた書名だけでも79点にのぼります。菓子については代表的な製法書『菓子話船橋(かしわふなばし)』(1841)ほか7点があげられています(2点は書名のみ)。版本としては初の菓子製法書である『御前菓子秘伝抄(ごぜんがしひでんしょう)』(1718)には「一寸良き本なり」のコメントがつき、楽しんで読んだのではないかと想像もふくらみます。また『蒸菓子雛形并仕立方(むしがしひながたならびにしたてかた)』(1850)は現在所在が確認されていませんが、幕府御用も勤めた江戸の金沢丹後という菓子屋の製法書のようです。どこかにひっそり保存されているのでしょうか、是非実物を見てみたいものです(同店の菓子絵図帳『雛形帳』(1868)は昭和になって出版されましたが、製法は書かれていません)。(註) 文末、露伴は中国の料理書も含め、取り上げなかった本や自分が目を通していない本について記したあと、料理のことばかり書いて食いしん坊だと思われるかもしれないが、と前置きして執筆の経緯について次のように言っています。かつて重い病気をした後に難しい本を読むことを禁じられたために「平易なる書物に目を晒せしが」、その時に読んだものをもとに書いたのである、と。露伴にとっては、これらの文献は娯楽小説のような軽い読み物だったのでしょう。まさに博覧強記の面目躍如、といったところです。 (註)2018年に虎屋文庫が実施した調査により、同書が東北大学附属図書館狩野文庫に保管されていたことが判明しました。史料にあとから補われた表紙に「蒸菓子雛形仕方」と書かれており、図書館の目録もそこから採録されていましたが、実物を確認したところ、元の表紙は露伴の書いたものと同じ「蒸菓子雛形并仕立方」であり、内容からも同一史料であることがわかりました。機関誌『和菓子』26号に、詳細な解題とともに翻刻を掲載しておりますので、露伴の読んだ史料の中身を、是非ご覧くださいませ。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
幸田露伴と菓子製法書
製法書『菓子話船橋(かしわふなばし)』と『御前菓子秘伝抄(ごぜんがしひでんしょう)』『五重塔』の文豪幸田露伴(1867~1947)は明治から昭和前期にかけての小説家で、代表作『五重塔』は今も読み継がれています。現在では幸田文の父、青木玉の祖父といったほうがピンと来る方もいらっしゃるかもしれません。学生時代から図書館に通い、仏典や江戸時代の雑書を読み漁ったといわれ、また釣りを始めとして多趣味でもあり、その博学ぶりはつとに有名です。 食文化とお菓子そんな露伴の作品のひとつに「古今料理書解題」があります。主に江戸時代の料理書について簡単な解説を加えたもので、挙げられた書名だけでも79点にのぼります。菓子については代表的な製法書『菓子話船橋(かしわふなばし)』(1841)ほか7点があげられています(2点は書名のみ)。版本としては初の菓子製法書である『御前菓子秘伝抄(ごぜんがしひでんしょう)』(1718)には「一寸良き本なり」のコメントがつき、楽しんで読んだのではないかと想像もふくらみます。また『蒸菓子雛形并仕立方(むしがしひながたならびにしたてかた)』(1850)は現在所在が確認されていませんが、幕府御用も勤めた江戸の金沢丹後という菓子屋の製法書のようです。どこかにひっそり保存されているのでしょうか、是非実物を見てみたいものです(同店の菓子絵図帳『雛形帳』(1868)は昭和になって出版されましたが、製法は書かれていません)。(註) 文末、露伴は中国の料理書も含め、取り上げなかった本や自分が目を通していない本について記したあと、料理のことばかり書いて食いしん坊だと思われるかもしれないが、と前置きして執筆の経緯について次のように言っています。かつて重い病気をした後に難しい本を読むことを禁じられたために「平易なる書物に目を晒せしが」、その時に読んだものをもとに書いたのである、と。露伴にとっては、これらの文献は娯楽小説のような軽い読み物だったのでしょう。まさに博覧強記の面目躍如、といったところです。 (註)2018年に虎屋文庫が実施した調査により、同書が東北大学附属図書館狩野文庫に保管されていたことが判明しました。史料にあとから補われた表紙に「蒸菓子雛形仕方」と書かれており、図書館の目録もそこから採録されていましたが、実物を確認したところ、元の表紙は露伴の書いたものと同じ「蒸菓子雛形并仕立方」であり、内容からも同一史料であることがわかりました。機関誌『和菓子』26号に、詳細な解題とともに翻刻を掲載しておりますので、露伴の読んだ史料の中身を、是非ご覧くださいませ。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)