虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
水野忠邦と蓬が嶋
「蓬が嶋」…現在の蓬が嶋贅沢嫌いの改革者江戸時代後期の浜松藩主で、老中まで務めた水野忠邦(みずのただくに・1794~1851)は天保の改革の指導者として知られます。しかし改革の中身は、高価な料理を禁止するなど日常の衣食住全般に及び、贅沢や娯楽を徹底的に取り締まったため、民衆らの反発を受け、彼の権勢は長続きしませんでした。 特製蓬が嶋の賜り物忠邦は老中(1828~31)に昇任する2年前、所司代として京都に赴任しており、和歌、蹴鞠などに熱中していたようです。公家文化への造詣が深かった忠邦は、光格上皇に気に入られたのでしょうか、文政10年(1827)には「蓬が嶋」を下賜されています。(虎屋の修学院御幸関係の御用記録より)菓銘の「蓬が嶋」とは、中国の伝説上の理想郷ともいわれる蓬莱山(ほうらいさん)を指します。中に小饅頭が入っているところから別名「子持饅頭」とも呼ばれ、現在では結婚、出産など慶事に広く利用されています。江戸後期の当店絵図帳を見ると、当時の「蓬が嶋」には20個の小饅頭が入っていたことがわかります。一方、上皇から忠邦が賜った「蓬が嶋」には50個もの小饅頭が入っていました。一尺(約30cm)四方の台の図も描かれていることから、かなりの大きさだったと想像できます。数年後には厳しく贅沢を禁じる立場になる忠邦ですが、このような特製の蓬が嶋を賜り、どのような思いで賞味したのでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
水野忠邦と蓬が嶋
「蓬が嶋」…現在の蓬が嶋贅沢嫌いの改革者江戸時代後期の浜松藩主で、老中まで務めた水野忠邦(みずのただくに・1794~1851)は天保の改革の指導者として知られます。しかし改革の中身は、高価な料理を禁止するなど日常の衣食住全般に及び、贅沢や娯楽を徹底的に取り締まったため、民衆らの反発を受け、彼の権勢は長続きしませんでした。 特製蓬が嶋の賜り物忠邦は老中(1828~31)に昇任する2年前、所司代として京都に赴任しており、和歌、蹴鞠などに熱中していたようです。公家文化への造詣が深かった忠邦は、光格上皇に気に入られたのでしょうか、文政10年(1827)には「蓬が嶋」を下賜されています。(虎屋の修学院御幸関係の御用記録より)菓銘の「蓬が嶋」とは、中国の伝説上の理想郷ともいわれる蓬莱山(ほうらいさん)を指します。中に小饅頭が入っているところから別名「子持饅頭」とも呼ばれ、現在では結婚、出産など慶事に広く利用されています。江戸後期の当店絵図帳を見ると、当時の「蓬が嶋」には20個の小饅頭が入っていたことがわかります。一方、上皇から忠邦が賜った「蓬が嶋」には50個もの小饅頭が入っていました。一尺(約30cm)四方の台の図も描かれていることから、かなりの大きさだったと想像できます。数年後には厳しく贅沢を禁じる立場になる忠邦ですが、このような特製の蓬が嶋を賜り、どのような思いで賞味したのでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
芥川龍之介と汁粉
漱石も絶賛した天才大正時代の小説家、芥川龍之介(1892~1927)。東大在学中から36歳で自殺するまで、古典を題材にした『羅生門』『芋粥』ほか、短編を中心とした数多くの作品を残しました。独自の作風で文壇に大きな影響を与えたことは、新人の文壇登龍門「芥川賞」に名を残していることからもうかがえます。 甘党の素顔どちらかといえばニヒルな印象の強い龍之介ですが、その実、大の甘党だったようで「雪の降つた公園の枯芝は何よりも砂糖漬にそつくりである」(『都会で』)などの名言(?)も残しています。そういわれると、芝の上に白く積もった雪が、きらきらしたグラニュー糖や上白糖に見えてくるような気がします。随筆『しるこ』の中では、関東大震災以降、東京で汁粉屋が減ってしまったことを「僕等(ぼくら)下戸仲間(げこなかま)の爲には少(すくな)からぬ損失である。のみならず僕等の東京の爲にもやはり少からぬ損失である。」と書いています。そして、西洋人が汁粉の味を知ったならば「麻雀戲(マージヤン)のやうに世界を風靡(ふうび)しないとも限らない」とし、ニューヨークやパリのカフェで、彼らが汁粉をすするさまを想像するのです。いかにも楽しげなこの随筆が書かれたのは、実は、龍之介が自殺を遂げるわずか2ヵ月半ほど前のことでした。彼の死が日本にとって大きな損失だったことは間違いありません。ちなみに、虎屋がパリに店を出したのは、1980年。執筆の約50年後のことです。それからさらに25年が過ぎましたが、フランス人でお汁粉を好む人はまだまだ少ないとのこと、お汁粉が世界を風靡するには、もう少し時間がかかりそうです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
芥川龍之介と汁粉
漱石も絶賛した天才大正時代の小説家、芥川龍之介(1892~1927)。東大在学中から36歳で自殺するまで、古典を題材にした『羅生門』『芋粥』ほか、短編を中心とした数多くの作品を残しました。独自の作風で文壇に大きな影響を与えたことは、新人の文壇登龍門「芥川賞」に名を残していることからもうかがえます。 甘党の素顔どちらかといえばニヒルな印象の強い龍之介ですが、その実、大の甘党だったようで「雪の降つた公園の枯芝は何よりも砂糖漬にそつくりである」(『都会で』)などの名言(?)も残しています。そういわれると、芝の上に白く積もった雪が、きらきらしたグラニュー糖や上白糖に見えてくるような気がします。随筆『しるこ』の中では、関東大震災以降、東京で汁粉屋が減ってしまったことを「僕等(ぼくら)下戸仲間(げこなかま)の爲には少(すくな)からぬ損失である。のみならず僕等の東京の爲にもやはり少からぬ損失である。」と書いています。そして、西洋人が汁粉の味を知ったならば「麻雀戲(マージヤン)のやうに世界を風靡(ふうび)しないとも限らない」とし、ニューヨークやパリのカフェで、彼らが汁粉をすするさまを想像するのです。いかにも楽しげなこの随筆が書かれたのは、実は、龍之介が自殺を遂げるわずか2ヵ月半ほど前のことでした。彼の死が日本にとって大きな損失だったことは間違いありません。ちなみに、虎屋がパリに店を出したのは、1980年。執筆の約50年後のことです。それからさらに25年が過ぎましたが、フランス人でお汁粉を好む人はまだまだ少ないとのこと、お汁粉が世界を風靡するには、もう少し時間がかかりそうです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
道元禅師と饅頭
饅頭伝来と道元饅頭の日本伝来については、鎌倉時代説と室町時代説の2つがあり、長い間室町時代説が多くの人々に受け入れられてきました。両説とも伝承が中心で、饅頭伝来を直接的に裏付けることが出来ません。しかし、鎌倉時代の日本の僧院において、饅頭が食べられていたことが、道元の著述によってわかります。道元は、日本に曹洞宗を伝えた人物として知られています。内大臣を父に持つ貴族の出身で、出家して最初は比叡山で仏法を学びました。その後、仏法に対する疑問を解くために、修行を重ね、貞応2年(1223)には宋に渡っています。各地に高僧を訪ね見聞を広め、大悟(悟りの境地にいたること)を得て、安貞元年(1227)に帰国しています。道元は、自らの信じる教えを強固に広めようとしたために、他宗から迫害を受けてしまいすが、ますます精力的に説法を繰り広げていきます。彼の教えは「只管打坐」(しかんだざ:ただひたすら打ち座る)という言葉に表わされているように、座禅に重きをおいています。また、就寝から起床、洗顔や食事を含む日常のすべても修行の一環としてとらえ、細かな規律を定めています。 饅頭の食べ方道元には『典座教訓』(てんぞきょうくん)ほかたくさんの著作があります。なかでも『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)は道元の23年間にわたる言行などを集めたもので、曹洞宗の根本聖典です。その中の「看経」(かんきん:1241年)では、国王の誕生日を祝う法要について説明しており、点心として饅頭を食べる作法も記しています。それによると饅頭6・7個を椀に盛って、箸を添えるとあります。当時は饅頭を食べるときには箸をもちいたのでしょうか、饅頭を食べるときに箸を使う記述は、鎌倉・室町時代の他の記録にも見られるので、一般的なことだったようです。また、宋の寺院の例を引いて、信者から饅頭が届けられた時には、もう一度蒸して僧達に供すると書かれています。理由は清めるためであり、蒸さないものは、僧には供さないとあります(「示庫院文」(しこいんぶん):1246年)。日本でも同じように饅頭を蒸すことを求めているのです。清浄が第一ですが、やはり饅頭は蒸した方が美味しくもあったと思います。当時の饅頭がどのようなものであったかははっきりしませんが、最初は餡なしの饅頭で、のちに調理した野菜を餡にして菜饅頭とよばれ、小豆餡が考案されたのは時代が下がると思われます。饅頭の鎌倉時代伝来説には、聖一国師が博多にもたらしたというものもあり、また日蓮の書状にも饅頭の異称である「十字」の名が見えます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
道元禅師と饅頭
饅頭伝来と道元饅頭の日本伝来については、鎌倉時代説と室町時代説の2つがあり、長い間室町時代説が多くの人々に受け入れられてきました。両説とも伝承が中心で、饅頭伝来を直接的に裏付けることが出来ません。しかし、鎌倉時代の日本の僧院において、饅頭が食べられていたことが、道元の著述によってわかります。道元は、日本に曹洞宗を伝えた人物として知られています。内大臣を父に持つ貴族の出身で、出家して最初は比叡山で仏法を学びました。その後、仏法に対する疑問を解くために、修行を重ね、貞応2年(1223)には宋に渡っています。各地に高僧を訪ね見聞を広め、大悟(悟りの境地にいたること)を得て、安貞元年(1227)に帰国しています。道元は、自らの信じる教えを強固に広めようとしたために、他宗から迫害を受けてしまいすが、ますます精力的に説法を繰り広げていきます。彼の教えは「只管打坐」(しかんだざ:ただひたすら打ち座る)という言葉に表わされているように、座禅に重きをおいています。また、就寝から起床、洗顔や食事を含む日常のすべても修行の一環としてとらえ、細かな規律を定めています。 饅頭の食べ方道元には『典座教訓』(てんぞきょうくん)ほかたくさんの著作があります。なかでも『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)は道元の23年間にわたる言行などを集めたもので、曹洞宗の根本聖典です。その中の「看経」(かんきん:1241年)では、国王の誕生日を祝う法要について説明しており、点心として饅頭を食べる作法も記しています。それによると饅頭6・7個を椀に盛って、箸を添えるとあります。当時は饅頭を食べるときには箸をもちいたのでしょうか、饅頭を食べるときに箸を使う記述は、鎌倉・室町時代の他の記録にも見られるので、一般的なことだったようです。また、宋の寺院の例を引いて、信者から饅頭が届けられた時には、もう一度蒸して僧達に供すると書かれています。理由は清めるためであり、蒸さないものは、僧には供さないとあります(「示庫院文」(しこいんぶん):1246年)。日本でも同じように饅頭を蒸すことを求めているのです。清浄が第一ですが、やはり饅頭は蒸した方が美味しくもあったと思います。当時の饅頭がどのようなものであったかははっきりしませんが、最初は餡なしの饅頭で、のちに調理した野菜を餡にして菜饅頭とよばれ、小豆餡が考案されたのは時代が下がると思われます。饅頭の鎌倉時代伝来説には、聖一国師が博多にもたらしたというものもあり、また日蓮の書状にも饅頭の異称である「十字」の名が見えます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
土御門泰邦と安倍川餅
安倍晴明の末裔江戸中期の公家土御門泰邦(つちみかどやすくに・1711~84)は、安倍晴明の後裔(こうえい)で、陰陽頭(おんようのかみ)として天文や暦をつかさどり、宝暦暦(ほうりゃくれき)をまとめた人物として知られます。天文と聞くとかたい印象をうけますが、おもしろい旅行記を残しています。宝暦10年(1760)、天皇から将軍家に下った宣旨(せんじ)を、勅使とともに江戸に届ける際に記した『東行話説(とうこうのわせつ)』です。 名物食べつくしの旅京を発ったとき泰邦は50歳、初めての東海道の旅でした。見るもの聞くものすべてが珍しく、名所旧跡はもちろんのこと土地の名物を片端から食べ、感想を細かに書いています。あまりの健啖ぶりは驚くばかりですが、生き生きとした記述は読むものを引き込まずにはいられません。菓子も旅の楽しみのひとつだったようで、取り寄せたり、寄進されたりした米饅頭、柏餅、蕨餅などを食べています。しかし京で上品な菓子ばかりを口にしていたためか、あまりのまずさに一口で捨ててしまったり、気分が悪くなって薬を飲む始末。期待した割には気の毒な結果になることが多かったようです。 安倍川餅に舌鼓もちろんおいしく食べたものもありました。安倍川(現静岡県静岡市)を渡ったところで休憩をすることになり、そこで縁高に盛られた名物の安倍川餅が出されます。安倍川餅は黄粉を餅にまぶした素朴な食べ物ですが、泰邦は空腹だったせいか、それをぺろりと平らげてしまいます。そして餅と先祖の名前が同じことをかけた、「我為にいしくも名乗あべ川や豆の粉の餅まめの子の旅」という歌も詠んで、とてもご満悦な様子です。その後一行は無事江戸に到着し、旅は終わります。しかし、『東行話説』は食いしん坊の公家が記した一風変わった東海道食べある記として評判になり、写本も作られ広まりました。近年には『随筆百花苑』(森銑三ほか編 中央公論社)に翻刻が掲載され、私たちも泰邦がたどった旅の様子をうかがうことができます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
土御門泰邦と安倍川餅
安倍晴明の末裔江戸中期の公家土御門泰邦(つちみかどやすくに・1711~84)は、安倍晴明の後裔(こうえい)で、陰陽頭(おんようのかみ)として天文や暦をつかさどり、宝暦暦(ほうりゃくれき)をまとめた人物として知られます。天文と聞くとかたい印象をうけますが、おもしろい旅行記を残しています。宝暦10年(1760)、天皇から将軍家に下った宣旨(せんじ)を、勅使とともに江戸に届ける際に記した『東行話説(とうこうのわせつ)』です。 名物食べつくしの旅京を発ったとき泰邦は50歳、初めての東海道の旅でした。見るもの聞くものすべてが珍しく、名所旧跡はもちろんのこと土地の名物を片端から食べ、感想を細かに書いています。あまりの健啖ぶりは驚くばかりですが、生き生きとした記述は読むものを引き込まずにはいられません。菓子も旅の楽しみのひとつだったようで、取り寄せたり、寄進されたりした米饅頭、柏餅、蕨餅などを食べています。しかし京で上品な菓子ばかりを口にしていたためか、あまりのまずさに一口で捨ててしまったり、気分が悪くなって薬を飲む始末。期待した割には気の毒な結果になることが多かったようです。 安倍川餅に舌鼓もちろんおいしく食べたものもありました。安倍川(現静岡県静岡市)を渡ったところで休憩をすることになり、そこで縁高に盛られた名物の安倍川餅が出されます。安倍川餅は黄粉を餅にまぶした素朴な食べ物ですが、泰邦は空腹だったせいか、それをぺろりと平らげてしまいます。そして餅と先祖の名前が同じことをかけた、「我為にいしくも名乗あべ川や豆の粉の餅まめの子の旅」という歌も詠んで、とてもご満悦な様子です。その後一行は無事江戸に到着し、旅は終わります。しかし、『東行話説』は食いしん坊の公家が記した一風変わった東海道食べある記として評判になり、写本も作られ広まりました。近年には『随筆百花苑』(森銑三ほか編 中央公論社)に翻刻が掲載され、私たちも泰邦がたどった旅の様子をうかがうことができます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
伊勢貞丈と葛切
江戸時代の有職故実家 伊勢貞丈(いせさだたけ・1717~84)は、八代将軍徳川吉宗治世下の享保2年(1717)、江戸の麻布鷺森に生まれました。伊勢家は室町幕府政所執事(まんどころしつじ)の家柄で代々武家の礼法故実に詳しく、貞丈も江戸幕府の旗本として、諸儀式にあたりました。貞丈の故実研究の成果は、『貞丈雑記』(ていじょうざっき)『安斎随筆』『軍用記』『武器考証』など多くの著作に結実しています。武家のみならず公家の礼法、そして神道にも及ぶそれらの内容は、今なお有職故実の研究に役立っています。 研究の集大成『貞丈雑記』数多くの著作の中でも、宝暦13年(1763)より没年までの20年間に筆録した『貞丈雑記』は、研究の集大成といえるでしょう。16巻に及ぶ大作で、官職、装束、飲食、調度、武具などの36もの部類の下に2350の項目が収載されています。飲食の部には「点心の事」「きんとんの事」などの項目があり、菓子研究の上でも注目すべき記述が数多くあります。 葛切はなぜ水仙?ここでは例として、葛切をあげましょう。葛切はかつて「水繊(煎)」(すいせん)と呼ばれましたが、同時に「水仙」とも表記されました。これについて同書の「水繊の事」には、「(略)葛の粉をねり砂糖を入れて薄くひろげて、さまして短尺の如く小さく切りたる物なり。黄と白の二色を交うるなり。本は「水仙羹」なるべし。水仙の花の色なり。…」とあります。ここから、葛切(水繊)はかつて黄と白の短冊状の食べ物で、色合いが水仙の花色を思わせたことから水仙羹と呼ばれていたことがわかります。今でも葛粽を「水仙粽」と呼んだり、虎屋の生菓子「水仙巌の花」「水仙常夏」のように、葛粉を使った菓子に「水仙」を冠したりするのも、このためでしょう。貞丈のおかげでその関連性を知ることができるわけで、貴重な資料を残してくれたことをありがたく思わずにはいられません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『貞丈雑記』島田勇雄校注 東洋文庫
伊勢貞丈と葛切
江戸時代の有職故実家 伊勢貞丈(いせさだたけ・1717~84)は、八代将軍徳川吉宗治世下の享保2年(1717)、江戸の麻布鷺森に生まれました。伊勢家は室町幕府政所執事(まんどころしつじ)の家柄で代々武家の礼法故実に詳しく、貞丈も江戸幕府の旗本として、諸儀式にあたりました。貞丈の故実研究の成果は、『貞丈雑記』(ていじょうざっき)『安斎随筆』『軍用記』『武器考証』など多くの著作に結実しています。武家のみならず公家の礼法、そして神道にも及ぶそれらの内容は、今なお有職故実の研究に役立っています。 研究の集大成『貞丈雑記』数多くの著作の中でも、宝暦13年(1763)より没年までの20年間に筆録した『貞丈雑記』は、研究の集大成といえるでしょう。16巻に及ぶ大作で、官職、装束、飲食、調度、武具などの36もの部類の下に2350の項目が収載されています。飲食の部には「点心の事」「きんとんの事」などの項目があり、菓子研究の上でも注目すべき記述が数多くあります。 葛切はなぜ水仙?ここでは例として、葛切をあげましょう。葛切はかつて「水繊(煎)」(すいせん)と呼ばれましたが、同時に「水仙」とも表記されました。これについて同書の「水繊の事」には、「(略)葛の粉をねり砂糖を入れて薄くひろげて、さまして短尺の如く小さく切りたる物なり。黄と白の二色を交うるなり。本は「水仙羹」なるべし。水仙の花の色なり。…」とあります。ここから、葛切(水繊)はかつて黄と白の短冊状の食べ物で、色合いが水仙の花色を思わせたことから水仙羹と呼ばれていたことがわかります。今でも葛粽を「水仙粽」と呼んだり、虎屋の生菓子「水仙巌の花」「水仙常夏」のように、葛粉を使った菓子に「水仙」を冠したりするのも、このためでしょう。貞丈のおかげでその関連性を知ることができるわけで、貴重な資料を残してくれたことをありがたく思わずにはいられません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『貞丈雑記』島田勇雄校注 東洋文庫
和泉式部と母子餅
平安時代の女流歌人和泉式部は平安時代中期、紫式部や清少納言と同時代に生きた女流歌人であり、為尊親王やその弟・敦道親王ら貴公子と浮名を流すなど華麗な恋愛遍歴でも知られます。その娘の小式部内侍(こしきぶのないし)も才媛の誉れ高く、母子ともども一条天皇の后・彰子に仕えました。 草餅に使う草は?『和泉式部集』には、「…手筥(てばこ)にくさもちひ(草餅)入れて奉る」と前書きして「花のさと心も知らず春の野に いろいろつめるははこもちひ(母子餅)ぞ」という歌が見えます。母子餅とは母子草(春の七草のゴギョウ)を混ぜて搗いた餅で、3月3日の上巳の節句に食べる習慣がありました。この日は本来、身の穢れを清める節句で、母子草の香りや薬効が邪気を祓うと考えられていたのです。平安時代、砂糖を使った甘い小豆餡などはなく、母子餅にどのような味がついていたかは不明ですが、現在とはかなり違った味だったと思われます。和泉式部が贈った母子餅はもしかしたら当時の貴重な甘味料、甘葛(ツタの搾り汁を煮詰めたもの)入りで、式部自身も味わったかもしれません。 母子草から蓬へ母子草を使っていた草餅ですが、後世になると「母と子」を一緒に搗くのは縁起が悪いともいわれ、蓬入りが主流になります。蓬も香りが良く邪気を祓うとされた草です。やがて「草餅」は母子餅から蓬餅を指す言葉に変わりました。ちなみに、江戸時代以降、3月3日は雛人形を飾り女子の成長を祝う行事となりますが、草餅を食べる習慣は受け継がれ、現在に至ります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
和泉式部と母子餅
平安時代の女流歌人和泉式部は平安時代中期、紫式部や清少納言と同時代に生きた女流歌人であり、為尊親王やその弟・敦道親王ら貴公子と浮名を流すなど華麗な恋愛遍歴でも知られます。その娘の小式部内侍(こしきぶのないし)も才媛の誉れ高く、母子ともども一条天皇の后・彰子に仕えました。 草餅に使う草は?『和泉式部集』には、「…手筥(てばこ)にくさもちひ(草餅)入れて奉る」と前書きして「花のさと心も知らず春の野に いろいろつめるははこもちひ(母子餅)ぞ」という歌が見えます。母子餅とは母子草(春の七草のゴギョウ)を混ぜて搗いた餅で、3月3日の上巳の節句に食べる習慣がありました。この日は本来、身の穢れを清める節句で、母子草の香りや薬効が邪気を祓うと考えられていたのです。平安時代、砂糖を使った甘い小豆餡などはなく、母子餅にどのような味がついていたかは不明ですが、現在とはかなり違った味だったと思われます。和泉式部が贈った母子餅はもしかしたら当時の貴重な甘味料、甘葛(ツタの搾り汁を煮詰めたもの)入りで、式部自身も味わったかもしれません。 母子草から蓬へ母子草を使っていた草餅ですが、後世になると「母と子」を一緒に搗くのは縁起が悪いともいわれ、蓬入りが主流になります。蓬も香りが良く邪気を祓うとされた草です。やがて「草餅」は母子餅から蓬餅を指す言葉に変わりました。ちなみに、江戸時代以降、3月3日は雛人形を飾り女子の成長を祝う行事となりますが、草餅を食べる習慣は受け継がれ、現在に至ります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)