虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
武野紹鴎が食べた半分の饅頭
饅頭(イメージ)若き茶人 紹鴎武野紹鴎(たけのじょうおう・1502~1555)は大黒庵と号し、実家は皮屋という屋号を名乗った武器商人だったといわれています。武野家は堺で富裕な家として知られ、若き日の紹鴎は京都にのぼり、歌学の権威であった三条西実隆(さんじょうにしさねたか)に学び、連歌に没頭しました。また同時期に茶の湯も学んでいます。一説には近所の村田宗珠(そうしゅ)について侘び茶を学んだともいわれています。とはいえ若い頃の紹鴎は、侘び茶とは程遠く、財力に任せ、唐物などの名物道具を買い集め、茶の湯を楽しんでいました。丁度、30歳の頃、紹鴎は奈良の漆商の松屋久政を訪ね、名物の唐絵を拝見した帰りに、連歌の影響を受け、枯淡の境地に興味を持ったのか、伝手を頼って、侘び茶人として知られた宗清(そうせい)を訪ねました。宗清は毎朝、畑仕事の後、身を清め、好みの素朴な器で茶の湯を楽しんでいました。誰彼となく、訪ねるものに隔てなく茶を振舞うことから、人々から心の清い侘びた茶人として慕われていました。 饅頭を二つに割る宗清は、紹鴎が一人で訪ねてくると思い、二人で食べようと大饅頭を二つ用意しました。ところが紹鴎は従者とともに彼を訪ね、二人で席入りしてしまいます。予想に反して客人が二人に増えてしまいましたが、宗清は動ずることなく、二つの大饅頭を新しい杉の八寸盆に盛り、これを持ち出します。一端、客側にこれを置きますが、再び自分の方に八寸盆を引き寄せ、一つ手に取り、これを二つに割り、盆に戻して「どうぞ」と勧めました。それとほぼ同時に、宗清は手前の饅頭をおもむろに取り上げるや否や、「お相伴」といって、丸ごと一個、むしゃむしゃと食べはじめました。こうして客の二人は、八寸盆に残された二つ割られた饅頭をそれぞれ頂きました。紹鴎は、誰の眼も気にせず、饅頭一個を食べてしまった宗清の自然な振る舞いを見て、迷いを脱し、真理を悟るという意味での「覚悟」を悟り、侘び茶の世界を再認識したのかもしれません。その日は時を忘れて談笑しました。その後、紹鴎は宗清を心の師と仰ぎ、堺に招いて親しく交わったということです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献桑田忠親『茶道の逸話』 『青雪応宜集』
武野紹鴎が食べた半分の饅頭
饅頭(イメージ)若き茶人 紹鴎武野紹鴎(たけのじょうおう・1502~1555)は大黒庵と号し、実家は皮屋という屋号を名乗った武器商人だったといわれています。武野家は堺で富裕な家として知られ、若き日の紹鴎は京都にのぼり、歌学の権威であった三条西実隆(さんじょうにしさねたか)に学び、連歌に没頭しました。また同時期に茶の湯も学んでいます。一説には近所の村田宗珠(そうしゅ)について侘び茶を学んだともいわれています。とはいえ若い頃の紹鴎は、侘び茶とは程遠く、財力に任せ、唐物などの名物道具を買い集め、茶の湯を楽しんでいました。丁度、30歳の頃、紹鴎は奈良の漆商の松屋久政を訪ね、名物の唐絵を拝見した帰りに、連歌の影響を受け、枯淡の境地に興味を持ったのか、伝手を頼って、侘び茶人として知られた宗清(そうせい)を訪ねました。宗清は毎朝、畑仕事の後、身を清め、好みの素朴な器で茶の湯を楽しんでいました。誰彼となく、訪ねるものに隔てなく茶を振舞うことから、人々から心の清い侘びた茶人として慕われていました。 饅頭を二つに割る宗清は、紹鴎が一人で訪ねてくると思い、二人で食べようと大饅頭を二つ用意しました。ところが紹鴎は従者とともに彼を訪ね、二人で席入りしてしまいます。予想に反して客人が二人に増えてしまいましたが、宗清は動ずることなく、二つの大饅頭を新しい杉の八寸盆に盛り、これを持ち出します。一端、客側にこれを置きますが、再び自分の方に八寸盆を引き寄せ、一つ手に取り、これを二つに割り、盆に戻して「どうぞ」と勧めました。それとほぼ同時に、宗清は手前の饅頭をおもむろに取り上げるや否や、「お相伴」といって、丸ごと一個、むしゃむしゃと食べはじめました。こうして客の二人は、八寸盆に残された二つ割られた饅頭をそれぞれ頂きました。紹鴎は、誰の眼も気にせず、饅頭一個を食べてしまった宗清の自然な振る舞いを見て、迷いを脱し、真理を悟るという意味での「覚悟」を悟り、侘び茶の世界を再認識したのかもしれません。その日は時を忘れて談笑しました。その後、紹鴎は宗清を心の師と仰ぎ、堺に招いて親しく交わったということです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献桑田忠親『茶道の逸話』 『青雪応宜集』
モースと餅
大森貝塚の発見で名高いエドワード・モース(1838~1925)については、以前にも何度かとりあげています。 明治初期に来日した際のことを記した『日本その日その日』(平凡社東洋文庫)には、新年についてのさまざまな記録もあります。 12月には、東京中のあちこちに、正月飾りや子どものおもちゃを売る市が立ちました。モースは「新年用の藁製家庭装飾品」(注連飾り)について、 いくつもの繊細な絵とともに記しています。門松の竹を「風琴管(オルガン・パイプ)のよう」という表現は、いかにも外国人らしいものです。 正月料理と餅おせち料理の記録もあります。「新年には必ず甘い酒が出される」というのは、お屠蘇のことでしょう。 「魚から取り出したままの魚卵の塊」は数の子、「棒のように固い小さな乾魚」は田作りのことでしょうか、蓮根や昆布巻きなどとともにスケッチされています。餅は「新年に好んで用いられる食品」で、その製法について「ねばり気の多い米の一種でつくられるが、 先ずそれを適当に煮てから、大きな木の臼に入れ、長い棒で力強くかき廻す」「次にそれに米の粉をふりかけ、大きな木の槌で打つ」などと記し、 へばりついた餅から杵を抜くのに難儀している男を描いた、北斎の漫画まで紹介しています。モースはねばりの強い餅を「不出来な、重くるしい麪包(パン)を思わせる」とする一方、「薄く切ったのを火であぶり、焦した、 或は褐色にした豆の粉(きなこ?)と、小量の砂糖とをふりかけて食うとうまい」とも記しています。当時もよく食べられていたというこの餅は、 安倍川餅のことと思われますが、モース好みだったとみえます。ちなみに虎屋のパリ店でも黄粉を使った菓子は人気があるようで、黄粉の風味は西洋の人の嗜好に合うのかもしれませんね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
モースと餅
大森貝塚の発見で名高いエドワード・モース(1838~1925)については、以前にも何度かとりあげています。 明治初期に来日した際のことを記した『日本その日その日』(平凡社東洋文庫)には、新年についてのさまざまな記録もあります。 12月には、東京中のあちこちに、正月飾りや子どものおもちゃを売る市が立ちました。モースは「新年用の藁製家庭装飾品」(注連飾り)について、 いくつもの繊細な絵とともに記しています。門松の竹を「風琴管(オルガン・パイプ)のよう」という表現は、いかにも外国人らしいものです。 正月料理と餅おせち料理の記録もあります。「新年には必ず甘い酒が出される」というのは、お屠蘇のことでしょう。 「魚から取り出したままの魚卵の塊」は数の子、「棒のように固い小さな乾魚」は田作りのことでしょうか、蓮根や昆布巻きなどとともにスケッチされています。餅は「新年に好んで用いられる食品」で、その製法について「ねばり気の多い米の一種でつくられるが、 先ずそれを適当に煮てから、大きな木の臼に入れ、長い棒で力強くかき廻す」「次にそれに米の粉をふりかけ、大きな木の槌で打つ」などと記し、 へばりついた餅から杵を抜くのに難儀している男を描いた、北斎の漫画まで紹介しています。モースはねばりの強い餅を「不出来な、重くるしい麪包(パン)を思わせる」とする一方、「薄く切ったのを火であぶり、焦した、 或は褐色にした豆の粉(きなこ?)と、小量の砂糖とをふりかけて食うとうまい」とも記しています。当時もよく食べられていたというこの餅は、 安倍川餅のことと思われますが、モース好みだったとみえます。ちなみに虎屋のパリ店でも黄粉を使った菓子は人気があるようで、黄粉の風味は西洋の人の嗜好に合うのかもしれませんね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
酒井忠勝と菓子昆布
2人の将軍を支えた大老酒井忠勝(さかいただかつ・1587~1662)は3代将軍徳川家光の側近から老中・大老へと進み、江戸時代前期の幕政の中枢を担った人物で、家光没後はその遺命を守って幼い4代将軍家綱を支えました。寛永11年(1634)若狭小浜(福井県)11万石余を拝領しましたが、30年近い治世の内、小浜に帰国したのは4回のみ、在国期間は合わせても1年に満たなかったそうです。幕閣の重鎮として諸大名の信頼も厚く、また朝廷との関係の円滑化にも努めています。性格は細やかだったようで、江戸にいながら国元で水揚げされた初鮭の贈り先やその順番について詳細な指示をした書付も残ります。 家光お好みの菓子昆布忠勝が特に心を砕いた贈り物に、小浜の菓子昆布があります。将軍家光のお好みの品で、死後も毎年日光東照宮や上野の寛永寺の霊廟に供えられたほどです。寛永18年、忠勝は国元に出した書状の中で、献上した菓子昆布が、前領主の京極忠高(きょうごくただたか)が献上したものに比べ、「こしらへ悪(あしく)、其上塩からく被 思召候」と、家光の好みに合わなかったことを伝え、前領主の時代に製造されたものを吟味して送り直すようにと指示しています。どうやら家光は塩辛いことを嫌ったようで、寛永の飢饉※のような非常時の最中にも、塩加減を気にする忠勝は「上様(家光)へ上ヶ申候御菓子昆布無之候間、いかにも念を入塩甘ク申付早々可越候事」と申し送っています。昆布の菓子といえば、酢昆布や砂糖をまぶしたものもありますが、忠勝の指示からすれば塩昆布のようなものだったのでしょう。 狂言にもなった名物若狭小浜の昆布は「召の昆布」と呼ばれた名物で、京都の地誌『雍州府志(ようしゅうふし)』(1684)にもその名が挙げられているほか、狂言「昆布売」にも登場します。小浜で昆布を独占的に扱っていた「昆布屋」、天目屋九郎兵衛の由緒書によれば、その製法は一子相伝で、室町時代の将軍足利義政が「御めし(召し)」になったというのがその名の由来とされます。松前(北海道)産で敦賀(福井県)へ荷揚げされた昆布を使っていたため、松前から直接大坂へ向かう西廻航路が確立した江戸時代後期には、敦賀で上質な昆布を入手できなくなり、京都に仕入に行くこともあったようです。「召の昆布」はそのまま、あるいは「巻昆布」などに加工して、進物に使われたようです。なかでも菓子昆布は、塩加減が決め手の名品だったのでしょう。 ※ 寛永19~20年にかけておきた大飢饉。忠勝も急遽小浜に帰国して対策にあたっている。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『小浜市史』通史編上・諸家文書編1・藩政資料編1『酒井家編年資料』(東京大学史料編纂所DBより)
酒井忠勝と菓子昆布
2人の将軍を支えた大老酒井忠勝(さかいただかつ・1587~1662)は3代将軍徳川家光の側近から老中・大老へと進み、江戸時代前期の幕政の中枢を担った人物で、家光没後はその遺命を守って幼い4代将軍家綱を支えました。寛永11年(1634)若狭小浜(福井県)11万石余を拝領しましたが、30年近い治世の内、小浜に帰国したのは4回のみ、在国期間は合わせても1年に満たなかったそうです。幕閣の重鎮として諸大名の信頼も厚く、また朝廷との関係の円滑化にも努めています。性格は細やかだったようで、江戸にいながら国元で水揚げされた初鮭の贈り先やその順番について詳細な指示をした書付も残ります。 家光お好みの菓子昆布忠勝が特に心を砕いた贈り物に、小浜の菓子昆布があります。将軍家光のお好みの品で、死後も毎年日光東照宮や上野の寛永寺の霊廟に供えられたほどです。寛永18年、忠勝は国元に出した書状の中で、献上した菓子昆布が、前領主の京極忠高(きょうごくただたか)が献上したものに比べ、「こしらへ悪(あしく)、其上塩からく被 思召候」と、家光の好みに合わなかったことを伝え、前領主の時代に製造されたものを吟味して送り直すようにと指示しています。どうやら家光は塩辛いことを嫌ったようで、寛永の飢饉※のような非常時の最中にも、塩加減を気にする忠勝は「上様(家光)へ上ヶ申候御菓子昆布無之候間、いかにも念を入塩甘ク申付早々可越候事」と申し送っています。昆布の菓子といえば、酢昆布や砂糖をまぶしたものもありますが、忠勝の指示からすれば塩昆布のようなものだったのでしょう。 狂言にもなった名物若狭小浜の昆布は「召の昆布」と呼ばれた名物で、京都の地誌『雍州府志(ようしゅうふし)』(1684)にもその名が挙げられているほか、狂言「昆布売」にも登場します。小浜で昆布を独占的に扱っていた「昆布屋」、天目屋九郎兵衛の由緒書によれば、その製法は一子相伝で、室町時代の将軍足利義政が「御めし(召し)」になったというのがその名の由来とされます。松前(北海道)産で敦賀(福井県)へ荷揚げされた昆布を使っていたため、松前から直接大坂へ向かう西廻航路が確立した江戸時代後期には、敦賀で上質な昆布を入手できなくなり、京都に仕入に行くこともあったようです。「召の昆布」はそのまま、あるいは「巻昆布」などに加工して、進物に使われたようです。なかでも菓子昆布は、塩加減が決め手の名品だったのでしょう。 ※ 寛永19~20年にかけておきた大飢饉。忠勝も急遽小浜に帰国して対策にあたっている。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『小浜市史』通史編上・諸家文書編1・藩政資料編1『酒井家編年資料』(東京大学史料編纂所DBより)
小金井喜美子と粟餅
粟餅文豪の妹小金井喜美子(こがねいきみこ・1870~1956)は、文豪森鴎外の妹にあたります。女学校を卒業後、解剖学者の小金井良精(よしきよ)と結婚しますが、兄同様に才能にあふれた喜美子は、家事や育児をこなしながら、翻訳や随筆などを発表していきました。喜美子は、森家や夫との思い出を『鴎外の思い出』にまとめています。特に鴎外にまつわる記述は多く、いかに兄を深く敬慕していたかがうかがえます。 家族と菓子を楽しむ文中には、喜美子が食べたり買ったりした菓子の記述が随所に見られます。たとえば、医師だった父が往診の際、 菓子をもらってきたこと、また鴎外と浅草に出かけた際、家族への土産として、仲見世で紅梅焼や雷おこしを買った ことなど。森家の人々は甘いもの好きだったようで、これらの菓子を食べながら楽しい団らんのひとときを過ごしています。 空飛ぶ粟餅喜美子が11~12歳の頃、鴎外が学ぶ東京帝国大学がある本郷界隈へ、祖母とともに買物に出かけます。先に歩いていた祖母が振り返り、喜美子の手を引っぱって、ある店の前に立ちました。見ると店の奥にいる職人が粟餅をちぎって餡、胡麻、黄粉が入った木鉢へそれぞれ素早く投げ入れているところでした。 その早業を喜美子は「小鳥の落ちるようだといいましょうか、蝶(ちょう)の舞うようだといいましょうか、ひらひら落ちるのがちっとも間違いません」と書いています。このように粟餅を投げて客に見せるパフォーマンスは、江戸時代よく行なわれており、大変人気を集めていました。明治時代になってもまだ見られたということですから、とても興味深い話といえます。喜美子は、できたての粟餅を買い、その晩は家族とともに「特別おいしく頂きました」と結んでいます。きっと職人の見事な手さばきを熱心に語ったことでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献小金井喜美子『鴎外の思い出』 岩波書店 1999年
小金井喜美子と粟餅
粟餅文豪の妹小金井喜美子(こがねいきみこ・1870~1956)は、文豪森鴎外の妹にあたります。女学校を卒業後、解剖学者の小金井良精(よしきよ)と結婚しますが、兄同様に才能にあふれた喜美子は、家事や育児をこなしながら、翻訳や随筆などを発表していきました。喜美子は、森家や夫との思い出を『鴎外の思い出』にまとめています。特に鴎外にまつわる記述は多く、いかに兄を深く敬慕していたかがうかがえます。 家族と菓子を楽しむ文中には、喜美子が食べたり買ったりした菓子の記述が随所に見られます。たとえば、医師だった父が往診の際、 菓子をもらってきたこと、また鴎外と浅草に出かけた際、家族への土産として、仲見世で紅梅焼や雷おこしを買った ことなど。森家の人々は甘いもの好きだったようで、これらの菓子を食べながら楽しい団らんのひとときを過ごしています。 空飛ぶ粟餅喜美子が11~12歳の頃、鴎外が学ぶ東京帝国大学がある本郷界隈へ、祖母とともに買物に出かけます。先に歩いていた祖母が振り返り、喜美子の手を引っぱって、ある店の前に立ちました。見ると店の奥にいる職人が粟餅をちぎって餡、胡麻、黄粉が入った木鉢へそれぞれ素早く投げ入れているところでした。 その早業を喜美子は「小鳥の落ちるようだといいましょうか、蝶(ちょう)の舞うようだといいましょうか、ひらひら落ちるのがちっとも間違いません」と書いています。このように粟餅を投げて客に見せるパフォーマンスは、江戸時代よく行なわれており、大変人気を集めていました。明治時代になってもまだ見られたということですから、とても興味深い話といえます。喜美子は、できたての粟餅を買い、その晩は家族とともに「特別おいしく頂きました」と結んでいます。きっと職人の見事な手さばきを熱心に語ったことでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献小金井喜美子『鴎外の思い出』 岩波書店 1999年
徳川家茂と葛水・黄金水の砂糖水
『四時交加』…江戸の水売り。砂糖や白玉入りの 水もあり暑い夏、涼をもとめる庶民にも人気があった。十四代将軍徳川家茂徳川家茂(とくがわいえもち・1846~66)は、御三家紀州和歌山藩主徳川斉順(なりゆき)の長子として誕生(幼名菊千代、 元服して慶福:よしとみ)、わずか3歳で和歌山藩主となります。その4年後にペリーが来航、幕末の動乱期をむかえます。 当時の将軍家定は病弱で、後継者の決定が急がれていました。幕府内や諸大名は、それぞれ一橋慶喜と徳川慶福の支持派に 分かれ激しく争い、安政の大獄へとつながります。安政5年(1858)6月、慶福が将軍継嗣と決定、7月の家定の死後、家茂と改名して将軍となりました。幕臣たちは温和で実直な性格の家茂を慕っていたと言われています。しかし、開国・攘夷問題をはじめ幕府をめぐる政治状況は厳しくなる一方で、家茂は何度か上洛して問題の解決にあたっています。 将軍からいただいた清涼飲料水慶応元年(1865)閏5月には、長州藩処分のため、家茂は京都を経て大坂城に入って陣頭指揮を執ります。大坂城での家茂は、 禁裏や公家、諸大名などからの到来品を家臣達に分け与えるなど、細やかな心配りを見せます。6月21日、一橋慶喜が京都から 大坂に到着しました。直ちに登城するであろう慶喜のために葛水を用意させています。葛水とは、葛粉と砂糖を湯で溶いて 冷やした夏の飲み物で、別名「葛砂糖」とも呼ばれ、夏の季語にもなっています。この年の6月21日は新暦に直せば8月12日に あたり、暑い中、大坂を訪れた慶喜へのねぎらいが感じられます。ところが慶喜は姿を見せず、家茂は用意した葛水を家臣達に あたえました。また7月3日には乗馬を行なっていますが、「残暑強候ニ付」として馬場の役人や手綱を引く者にまで葛水を下されました。 その後も度々葛水が家臣達にあたえられています。葛水だけでなく砂糖水の記録もあります。当時は長州藩征討をめぐって緊張した時期であり、大坂城内でも大砲や鉄砲の訓練や剣術の試合が度々行なわれていましたが、そうした折には砂糖水が下されました。冷たい水に砂糖を混ぜた飲み物で、 なかには「黄金水(おうごんすい)」で作った砂糖水もありました。黄金水とは黄金をきれいな水に浸して、火にかけ金を溶かしだしたという水で、霊薬とされていました。暑い中、訓練や剣術の試合に励む家臣達の身を思ってのことで、家茂の人柄が偲ばれます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『昭徳院殿御在坂日次記』(『続徳川実紀』第四篇) 関係コラム「徳川家茂-虎屋の将軍家御用と摺針餅」「和宮と月見饅」
徳川家茂と葛水・黄金水の砂糖水
『四時交加』…江戸の水売り。砂糖や白玉入りの 水もあり暑い夏、涼をもとめる庶民にも人気があった。十四代将軍徳川家茂徳川家茂(とくがわいえもち・1846~66)は、御三家紀州和歌山藩主徳川斉順(なりゆき)の長子として誕生(幼名菊千代、 元服して慶福:よしとみ)、わずか3歳で和歌山藩主となります。その4年後にペリーが来航、幕末の動乱期をむかえます。 当時の将軍家定は病弱で、後継者の決定が急がれていました。幕府内や諸大名は、それぞれ一橋慶喜と徳川慶福の支持派に 分かれ激しく争い、安政の大獄へとつながります。安政5年(1858)6月、慶福が将軍継嗣と決定、7月の家定の死後、家茂と改名して将軍となりました。幕臣たちは温和で実直な性格の家茂を慕っていたと言われています。しかし、開国・攘夷問題をはじめ幕府をめぐる政治状況は厳しくなる一方で、家茂は何度か上洛して問題の解決にあたっています。 将軍からいただいた清涼飲料水慶応元年(1865)閏5月には、長州藩処分のため、家茂は京都を経て大坂城に入って陣頭指揮を執ります。大坂城での家茂は、 禁裏や公家、諸大名などからの到来品を家臣達に分け与えるなど、細やかな心配りを見せます。6月21日、一橋慶喜が京都から 大坂に到着しました。直ちに登城するであろう慶喜のために葛水を用意させています。葛水とは、葛粉と砂糖を湯で溶いて 冷やした夏の飲み物で、別名「葛砂糖」とも呼ばれ、夏の季語にもなっています。この年の6月21日は新暦に直せば8月12日に あたり、暑い中、大坂を訪れた慶喜へのねぎらいが感じられます。ところが慶喜は姿を見せず、家茂は用意した葛水を家臣達に あたえました。また7月3日には乗馬を行なっていますが、「残暑強候ニ付」として馬場の役人や手綱を引く者にまで葛水を下されました。 その後も度々葛水が家臣達にあたえられています。葛水だけでなく砂糖水の記録もあります。当時は長州藩征討をめぐって緊張した時期であり、大坂城内でも大砲や鉄砲の訓練や剣術の試合が度々行なわれていましたが、そうした折には砂糖水が下されました。冷たい水に砂糖を混ぜた飲み物で、 なかには「黄金水(おうごんすい)」で作った砂糖水もありました。黄金水とは黄金をきれいな水に浸して、火にかけ金を溶かしだしたという水で、霊薬とされていました。暑い中、訓練や剣術の試合に励む家臣達の身を思ってのことで、家茂の人柄が偲ばれます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『昭徳院殿御在坂日次記』(『続徳川実紀』第四篇) 関係コラム「徳川家茂-虎屋の将軍家御用と摺針餅」「和宮と月見饅」
石川啄木とかき氷
夭折の天才歌人石川啄木(いしかわたくぼく・1886~1912)は、26歳という短い生涯ながら文学史上にその名の輝く天才歌人です。 岩手県に生まれ、与謝野鉄幹(よさのてっかん・1873~1935)の知遇を得て、啄木の号で短歌や長詩を発表。 本来、目指していた小説家としてはなかなか認められず、貧困生活が続きましたが、口語体三行書きの形式で生活の悲哀を 詠んだ作品群は今日も色あせません。 向かいの氷屋明治42(1909)年の夏、「函館日日新聞」に連載した文章には、当時住んでいた東京・本郷の氷屋が登場します。 かき氷が爆発的に広まったのは、西洋から製氷技術がもたらされた明治時代のこと。冷たくおいしい日本の夏の風物詩として人気を博し、この頃にはすっかり庶民に定着していました。 ある日、啄木が2階の窓から外を眺めていると、「氷屋の旗(フラフ)」が目にとまります。数日前まで加賀屋という一膳飯屋(いちぜんめしや)だった向かいの家が、ガラス管をつないだ涼しげな管暖簾(くだのれん)のかかった氷屋に変身したのです。当時の東京では、冬は焼芋やおでんなどを商い、夏になると氷屋になる店が珍しくありませんでした。 氷を「食ふ」ことについてその旗を眺めていた啄木の考えは段々と壮大な方向へと進んでいきます。 「氷は冬の物である。それを夏になつてから食ふとは面白い事である」が、自然は「その愛する処の万象を生育させんが為」に時に夏の暑さを与えるのだから、自然界の一生物に過ぎない人類は、おとなしく服従すべきであるのに、氷を食べて暑さを和らげようとするのは「自然に対して反逆してゐる」。まして、「味覚の満足」のために砂糖やレモン、蜜柑などを混ぜるとは「人間の暴状も亦極まれりと言ふべしである」というのです。 かき氷に手厳しい啄木ですが、日記を見ると度々、氷を食べたとの記述が・・・・・・。理屈をこねながらも、夏ならではの味わいをしっかり愉しんでいたようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『啄木全集 第4巻 評論・感想』 筑摩書房 1967年
石川啄木とかき氷
夭折の天才歌人石川啄木(いしかわたくぼく・1886~1912)は、26歳という短い生涯ながら文学史上にその名の輝く天才歌人です。 岩手県に生まれ、与謝野鉄幹(よさのてっかん・1873~1935)の知遇を得て、啄木の号で短歌や長詩を発表。 本来、目指していた小説家としてはなかなか認められず、貧困生活が続きましたが、口語体三行書きの形式で生活の悲哀を 詠んだ作品群は今日も色あせません。 向かいの氷屋明治42(1909)年の夏、「函館日日新聞」に連載した文章には、当時住んでいた東京・本郷の氷屋が登場します。 かき氷が爆発的に広まったのは、西洋から製氷技術がもたらされた明治時代のこと。冷たくおいしい日本の夏の風物詩として人気を博し、この頃にはすっかり庶民に定着していました。 ある日、啄木が2階の窓から外を眺めていると、「氷屋の旗(フラフ)」が目にとまります。数日前まで加賀屋という一膳飯屋(いちぜんめしや)だった向かいの家が、ガラス管をつないだ涼しげな管暖簾(くだのれん)のかかった氷屋に変身したのです。当時の東京では、冬は焼芋やおでんなどを商い、夏になると氷屋になる店が珍しくありませんでした。 氷を「食ふ」ことについてその旗を眺めていた啄木の考えは段々と壮大な方向へと進んでいきます。 「氷は冬の物である。それを夏になつてから食ふとは面白い事である」が、自然は「その愛する処の万象を生育させんが為」に時に夏の暑さを与えるのだから、自然界の一生物に過ぎない人類は、おとなしく服従すべきであるのに、氷を食べて暑さを和らげようとするのは「自然に対して反逆してゐる」。まして、「味覚の満足」のために砂糖やレモン、蜜柑などを混ぜるとは「人間の暴状も亦極まれりと言ふべしである」というのです。 かき氷に手厳しい啄木ですが、日記を見ると度々、氷を食べたとの記述が・・・・・・。理屈をこねながらも、夏ならではの味わいをしっかり愉しんでいたようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『啄木全集 第4巻 評論・感想』 筑摩書房 1967年