虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
春日局と御譜代餅
大奥の権力者春日局(かすがのつぼね・1579~1643)は、三代将軍徳川家光の乳母として江戸城大奥の権力を握り、幕政にも影響力を持った女性です。弟国松(後の忠長)との争いを制して家光が将軍になれたのは、春日局が大御所家康に直訴したためともいわれます。また、幕府と朝廷が対立した紫衣事件(しえじけん)の際には、幕府の意向を受けて上洛し、女性としては異例の参内を遂げています。その際、無位無官では参内できないため、公家三条西実条(さんじょうにしさねえだ)の妹の扱いで「春日」の局号を授かったのです。 自分を通さなかった門番を賞すある夜春日局が江戸城の門の一つ平川門を通ろうとすると、外出が予定より長引いたのでしょうか、すでに閉門していました。本丸の目付の許可がないから開けられないと言う門番の頭に、「私は春日です」と名乗ったところ、「春日であろうが天照大神であろうが許可がなくては通せません」とつっぱねられました。結局4時間ほどたってようやく許可が出たのか、門が開き、通ることができたのです。本丸に戻った局が事の顛末を家光に話すと、「門の出入りは厳重にするよう申し付けているからそういうこともあるだろう」と笑われました。局も将軍の城を守る門番の気概に感心したのか、翌日平川門の門番へ菓子を贈り、日ごろの労をねぎらったといいます。 御譜代餅(ごふだいもち)の逸話大奥には毎月女中に玄米餅が下される習慣がありました。幕末頃には「御譜代餅」※と呼ばれたこの餅に春日局にまつわる逸話があります。初代将軍家康の時代から、毎月恒例の鷹狩に出る際には強飯(おこわ)を蒸し、狩に出なかった時は大奥を含め城内に配りましたが、局は保存上の理由からかこれを餅に改めたといいます。ある時家光が病に伏せっていたため、この餅が配られないことがありました。鷹狩りどころではないので無駄になると思って餅を作らせなかったと言う役人に対し、局は怒って「神君家康以来作り続けているのに、止めるのは不吉な例になります。そもそもこの餅は皆々の糧になるので無駄ではありません」と言って必ず作るよう命じました。男性役人を叱り付ける剛毅な女性のイメージの一方、わが子同然の将軍家光が病に伏す中、恒例の餅を作り続けることで、その快復を願う心情も垣間見えます。 ※ 名前の由来は不明だが、江戸時代後期に将軍の夫人に願って「御譜代餅」を拝領した八戸藩(青森県)では、代々の将軍の食べる米を用い、苗代に撒くと豊作になることからその名がついたとしている(『八戸藩史料』)。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「大東婦女貞烈記」(『婦人文庫』1918年 復刻版)三田村鳶魚『御殿女中』三田村鳶魚全集第3巻 中央公論社 1976年
春日局と御譜代餅
大奥の権力者春日局(かすがのつぼね・1579~1643)は、三代将軍徳川家光の乳母として江戸城大奥の権力を握り、幕政にも影響力を持った女性です。弟国松(後の忠長)との争いを制して家光が将軍になれたのは、春日局が大御所家康に直訴したためともいわれます。また、幕府と朝廷が対立した紫衣事件(しえじけん)の際には、幕府の意向を受けて上洛し、女性としては異例の参内を遂げています。その際、無位無官では参内できないため、公家三条西実条(さんじょうにしさねえだ)の妹の扱いで「春日」の局号を授かったのです。 自分を通さなかった門番を賞すある夜春日局が江戸城の門の一つ平川門を通ろうとすると、外出が予定より長引いたのでしょうか、すでに閉門していました。本丸の目付の許可がないから開けられないと言う門番の頭に、「私は春日です」と名乗ったところ、「春日であろうが天照大神であろうが許可がなくては通せません」とつっぱねられました。結局4時間ほどたってようやく許可が出たのか、門が開き、通ることができたのです。本丸に戻った局が事の顛末を家光に話すと、「門の出入りは厳重にするよう申し付けているからそういうこともあるだろう」と笑われました。局も将軍の城を守る門番の気概に感心したのか、翌日平川門の門番へ菓子を贈り、日ごろの労をねぎらったといいます。 御譜代餅(ごふだいもち)の逸話大奥には毎月女中に玄米餅が下される習慣がありました。幕末頃には「御譜代餅」※と呼ばれたこの餅に春日局にまつわる逸話があります。初代将軍家康の時代から、毎月恒例の鷹狩に出る際には強飯(おこわ)を蒸し、狩に出なかった時は大奥を含め城内に配りましたが、局は保存上の理由からかこれを餅に改めたといいます。ある時家光が病に伏せっていたため、この餅が配られないことがありました。鷹狩りどころではないので無駄になると思って餅を作らせなかったと言う役人に対し、局は怒って「神君家康以来作り続けているのに、止めるのは不吉な例になります。そもそもこの餅は皆々の糧になるので無駄ではありません」と言って必ず作るよう命じました。男性役人を叱り付ける剛毅な女性のイメージの一方、わが子同然の将軍家光が病に伏す中、恒例の餅を作り続けることで、その快復を願う心情も垣間見えます。 ※ 名前の由来は不明だが、江戸時代後期に将軍の夫人に願って「御譜代餅」を拝領した八戸藩(青森県)では、代々の将軍の食べる米を用い、苗代に撒くと豊作になることからその名がついたとしている(『八戸藩史料』)。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「大東婦女貞烈記」(『婦人文庫』1918年 復刻版)三田村鳶魚『御殿女中』三田村鳶魚全集第3巻 中央公論社 1976年
成尋と饅頭
巡礼への情熱平安時代の僧侶・成尋(じょうじん・1011~81)は、中国・宋の天台山と五台山への巡礼を志して朝廷に願いを出しますが許可が下りず、1072年、弟子とともに密航同然に宋へ渡ります。この時成尋62歳。宋での1年3ヶ月あまりの日々を書き綴ったのが『参天台五台山記』(さんてんだいごだいさんき)です。 宋でのもてなし宋では皇帝からの命が下ったこともあり、道中では警護がつき、悲願だった巡礼は順調に進みました。もてなしも厚く、日記に「饗膳尽善窮美」とあるように、各寺院や要人主催の宴会では、贅を尽した料理が出されました。また、当時知識人の間では喫茶の風習が広まっており、成尋もさまざまな人々と茶を通じ交流をしています。 日本人で初めて饅頭を食す?日記には、杏ほか果物や、「作飯」という餅に似た菓子などを買う記述も見られます。都の開封(かいほう)に入る手前では、成尋一行を護衛してきた鄭珍(ていちん)が饅頭20個を買ってきて皆に配ったとあります。どのような味わいだったのか興味深いところですが、残念ながら日記には餡などについての記述はありません。宋代の史料を見ると、当時、饅頭の餡には羊肉や魚、筍などを使ったもののほか、「糖餡(砂糖餡)」のように甘いものや、「豆沙餡(豆餡)」もあったことがわかります※1。なお、饅頭は日本には鎌倉~室町時代に禅宗の僧侶により伝えられたとされていますが※2、この話はそれよりもかなり遡ります。中国でのできごとではありますが、饅頭について記録を残した日本人は、成尋が初といえそうです。成尋は皇帝に懇請されて宋にとどまり、71歳で世を去りますが、彼の日記は帰国する弟子に託され多くの人々に読み継がれていきました。旅行記としてはもちろん、中国からの菓子の伝来を考えるうえでも貴重な史料といえましょう。 ※1 呉自牧「夢粱録」、周密「武林旧事」。※2 饅頭の伝来については、1241年に聖一国師(しょういちこくし)が酒皮饅頭の製法を伝えた、あるいは1349年頃中国人の林浄因(りんじょういん)が塩瀬饅頭を伝えたという2説が知られている。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献平林文雄『参天台五臺山記校本並に研究』風間書房 1978年藤善眞澄訳注『参天台五臺山記』1・2 関西大学出版部 2007・2011年
成尋と饅頭
巡礼への情熱平安時代の僧侶・成尋(じょうじん・1011~81)は、中国・宋の天台山と五台山への巡礼を志して朝廷に願いを出しますが許可が下りず、1072年、弟子とともに密航同然に宋へ渡ります。この時成尋62歳。宋での1年3ヶ月あまりの日々を書き綴ったのが『参天台五台山記』(さんてんだいごだいさんき)です。 宋でのもてなし宋では皇帝からの命が下ったこともあり、道中では警護がつき、悲願だった巡礼は順調に進みました。もてなしも厚く、日記に「饗膳尽善窮美」とあるように、各寺院や要人主催の宴会では、贅を尽した料理が出されました。また、当時知識人の間では喫茶の風習が広まっており、成尋もさまざまな人々と茶を通じ交流をしています。 日本人で初めて饅頭を食す?日記には、杏ほか果物や、「作飯」という餅に似た菓子などを買う記述も見られます。都の開封(かいほう)に入る手前では、成尋一行を護衛してきた鄭珍(ていちん)が饅頭20個を買ってきて皆に配ったとあります。どのような味わいだったのか興味深いところですが、残念ながら日記には餡などについての記述はありません。宋代の史料を見ると、当時、饅頭の餡には羊肉や魚、筍などを使ったもののほか、「糖餡(砂糖餡)」のように甘いものや、「豆沙餡(豆餡)」もあったことがわかります※1。なお、饅頭は日本には鎌倉~室町時代に禅宗の僧侶により伝えられたとされていますが※2、この話はそれよりもかなり遡ります。中国でのできごとではありますが、饅頭について記録を残した日本人は、成尋が初といえそうです。成尋は皇帝に懇請されて宋にとどまり、71歳で世を去りますが、彼の日記は帰国する弟子に託され多くの人々に読み継がれていきました。旅行記としてはもちろん、中国からの菓子の伝来を考えるうえでも貴重な史料といえましょう。 ※1 呉自牧「夢粱録」、周密「武林旧事」。※2 饅頭の伝来については、1241年に聖一国師(しょういちこくし)が酒皮饅頭の製法を伝えた、あるいは1349年頃中国人の林浄因(りんじょういん)が塩瀬饅頭を伝えたという2説が知られている。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献平林文雄『参天台五臺山記校本並に研究』風間書房 1978年藤善眞澄訳注『参天台五臺山記』1・2 関西大学出版部 2007・2011年
室生犀星と幼少時代の菓子の思い出
菓子処・金沢生まれの詩人・小説家室生犀星(1889~1962)は、石川県金沢市に生まれました。『叙情小曲』『愛の詩集』といった近代抒情詩を発表。のちに小説に転じ、『或る少女の死まで』『杏っ子』などの作品を世に送りました。犀星の生い立ちは悲しいもので、出生の事情から、生後すぐに雨宝院(うほういん)の住職、室生真乗の家に養子に出されました。養家になかなかなじめず、実家に足を運んでいたようですが、9歳のときには武士であった実父が他界。父の家の小間使いであった生母は家を追われ、犀星に別れの言葉をかけることもなく姿を消します。この出来事は少年の心に深い影を落とし、のちに母を恋う作品を多数生み出す遠因となりました。 憩いのひとときと菓子初めての小説『幼少時代』(1919)は30歳の時に書かれたもので、叙情的な筆致で、実父母との思い出や心優しい義姉と過ごした日々が綴られています。 幼い犀星は養母に内緒で毎日のように近所の実家へ遊びに行きました。実家は「広い果樹園にとり囲まれた小ぢんまりした家」で、茶の間は茶棚や戸障子まで掃除が行き届き、時計の音が聞こえるほど静かな場所でした。家に着くとすぐに菓子をねだるのが常で、母親はいつも菓子を器に入れ、「特別な客にでもするように」お茶を添えて出してくれます。母が出してくれたのは羊羹や最中。ありあわせではなく、菓子屋で買ってきたものかもしれません。母親にとっても心待ちな時間だったことでしょう。きちんと菓子皿に盛られた菓子からは、訪ねてくる我が子への精一杯のもてなしの心を感じます。犀星は菓子を食べながら四方山話をし、ときには母の膝に甘えて眠ることもありました。母は、養母への気遣いから、衣服の乱れを直し、「此処(ここ)へ来たって言うんじゃありませんよ」と言い含めて犀星を帰すのでした。 犀星はまた、実家の広い庭で父母と茶摘みをしたり、菓子を食べたりしたことも楽しい出来事として回想しています。菓子の内容は書かれていませんが、両親と過ごした日々は、菓子の甘さもあいまって、美しく幸福な記憶となって心に残り続けたのでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「幼年時代」(『或る少女の死まで 他2編』岩波書店 2003年 所収)
室生犀星と幼少時代の菓子の思い出
菓子処・金沢生まれの詩人・小説家室生犀星(1889~1962)は、石川県金沢市に生まれました。『叙情小曲』『愛の詩集』といった近代抒情詩を発表。のちに小説に転じ、『或る少女の死まで』『杏っ子』などの作品を世に送りました。犀星の生い立ちは悲しいもので、出生の事情から、生後すぐに雨宝院(うほういん)の住職、室生真乗の家に養子に出されました。養家になかなかなじめず、実家に足を運んでいたようですが、9歳のときには武士であった実父が他界。父の家の小間使いであった生母は家を追われ、犀星に別れの言葉をかけることもなく姿を消します。この出来事は少年の心に深い影を落とし、のちに母を恋う作品を多数生み出す遠因となりました。 憩いのひとときと菓子初めての小説『幼少時代』(1919)は30歳の時に書かれたもので、叙情的な筆致で、実父母との思い出や心優しい義姉と過ごした日々が綴られています。 幼い犀星は養母に内緒で毎日のように近所の実家へ遊びに行きました。実家は「広い果樹園にとり囲まれた小ぢんまりした家」で、茶の間は茶棚や戸障子まで掃除が行き届き、時計の音が聞こえるほど静かな場所でした。家に着くとすぐに菓子をねだるのが常で、母親はいつも菓子を器に入れ、「特別な客にでもするように」お茶を添えて出してくれます。母が出してくれたのは羊羹や最中。ありあわせではなく、菓子屋で買ってきたものかもしれません。母親にとっても心待ちな時間だったことでしょう。きちんと菓子皿に盛られた菓子からは、訪ねてくる我が子への精一杯のもてなしの心を感じます。犀星は菓子を食べながら四方山話をし、ときには母の膝に甘えて眠ることもありました。母は、養母への気遣いから、衣服の乱れを直し、「此処(ここ)へ来たって言うんじゃありませんよ」と言い含めて犀星を帰すのでした。 犀星はまた、実家の広い庭で父母と茶摘みをしたり、菓子を食べたりしたことも楽しい出来事として回想しています。菓子の内容は書かれていませんが、両親と過ごした日々は、菓子の甘さもあいまって、美しく幸福な記憶となって心に残り続けたのでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「幼年時代」(『或る少女の死まで 他2編』岩波書店 2003年 所収)
林鶴梁と月の雫
現在の「月の雫」 画像提供:松林軒豊嶋屋 学者にして幕臣 林鶴梁(はやしかくりょう・1806~78)の名を知る人は今となっては少ないでしょう。しかし、かつて夏目漱石は、少年時代に愛読した本に、鶴梁の漢詩文集『鶴梁文鈔』の名をあげ、著名な江戸研究家三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)も、明治時代中期の少年たちの多くがこの本を読み、暗唱する者もいたことを記しています。鶴梁は漢学者であり、旗本として幕府に仕えた人でした。上野国群馬郡萩原村(現群馬県高崎市)の豪農の家に生まれ、江戸に出て御家人株を買い林姓を名乗りました。学問を志し、その学識などによって後に代官として遠江中泉(現静岡県磐田市)、出羽柴橋(現山形県寒河江市)を治め、幕府学問所頭取にまでなり、明治後は新政府出仕の誘いを断り、私塾で後進の指導に当たりました。鶴梁の際立った特徴の一つに交友関係の広さがあります。川路聖謨、大久保一翁などの開明派幕臣、藤田東湖や橋本佐内をはじめとする幕末史に重要な役割を果たした人々。大名では水戸藩徳川斉昭、松代藩真田幸貫、土浦藩土屋寅直、佐賀藩鍋島閑叟らとも交流していました。 銘菓 月の雫 鶴梁は師松崎慊堂(まつざきこうどう)に勧められ、天保14年(1843)から日記をつけ始め、日常の細かなことから職務上のことまで事細かに記しています。その日記からエピソードを拾ってみましょう。弘化3年(1846)3月甲府勤番士のための学問所徽典館(きてんかん)の学頭を命じられ、翌年3月まで甲府に赴任しています。弘化4年1月23日、甲府近郊の上飯田村(現甲府市)に荻野寛一という人物を訪れました。事前に荻野から誘いを受けていたのです。この時は麦飯、スマシ、炙鰻(あぶりうなぎ)、膾(なます)2種、コチ煮付けのご馳走になっています。鶴梁はこうした時かならず返礼をしていますが、後日荻野のもとに「半切二百枚、月の雫一朱分」を送っています。半切とは書状用の紙のこと、月の雫とは今に続く甲州銘菓です。現在では煮溶かした砂糖を良くかき混ぜ白くして葡萄一粒を浸して衣掛けして作ります。葡萄の風味と砂糖の甘さが良く合います。事細かに記録する鶴梁ですが、菓子の場合「菓子」とのみ記すことが多く、「月の雫」のように菓銘を記すことは稀です。なにか思い入れがあったのでしょうか。「月の雫」はもう一度日記に登場します。江戸に帰った後の弘化5年2月26日の条に「甲人来ル」とあります。甲府の人が来たという意味で、藤屋伊兵衛という人が鶴梁を訪ねています。藤屋の土産が月の雫でした。人に贈り物をする時には、相手の好物を選ぶことも多いと思います。鶴梁はこの菓子が好物だったのかも知れません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献 保田晴男『ある文人代官の幕末日記―林鶴梁の日常』吉川弘文館 2009年保田晴男編『林鶴梁日記』日本評論社 2002年 画像提供 松林軒豊嶋家
林鶴梁と月の雫
現在の「月の雫」 画像提供:松林軒豊嶋屋 学者にして幕臣 林鶴梁(はやしかくりょう・1806~78)の名を知る人は今となっては少ないでしょう。しかし、かつて夏目漱石は、少年時代に愛読した本に、鶴梁の漢詩文集『鶴梁文鈔』の名をあげ、著名な江戸研究家三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)も、明治時代中期の少年たちの多くがこの本を読み、暗唱する者もいたことを記しています。鶴梁は漢学者であり、旗本として幕府に仕えた人でした。上野国群馬郡萩原村(現群馬県高崎市)の豪農の家に生まれ、江戸に出て御家人株を買い林姓を名乗りました。学問を志し、その学識などによって後に代官として遠江中泉(現静岡県磐田市)、出羽柴橋(現山形県寒河江市)を治め、幕府学問所頭取にまでなり、明治後は新政府出仕の誘いを断り、私塾で後進の指導に当たりました。鶴梁の際立った特徴の一つに交友関係の広さがあります。川路聖謨、大久保一翁などの開明派幕臣、藤田東湖や橋本佐内をはじめとする幕末史に重要な役割を果たした人々。大名では水戸藩徳川斉昭、松代藩真田幸貫、土浦藩土屋寅直、佐賀藩鍋島閑叟らとも交流していました。 銘菓 月の雫 鶴梁は師松崎慊堂(まつざきこうどう)に勧められ、天保14年(1843)から日記をつけ始め、日常の細かなことから職務上のことまで事細かに記しています。その日記からエピソードを拾ってみましょう。弘化3年(1846)3月甲府勤番士のための学問所徽典館(きてんかん)の学頭を命じられ、翌年3月まで甲府に赴任しています。弘化4年1月23日、甲府近郊の上飯田村(現甲府市)に荻野寛一という人物を訪れました。事前に荻野から誘いを受けていたのです。この時は麦飯、スマシ、炙鰻(あぶりうなぎ)、膾(なます)2種、コチ煮付けのご馳走になっています。鶴梁はこうした時かならず返礼をしていますが、後日荻野のもとに「半切二百枚、月の雫一朱分」を送っています。半切とは書状用の紙のこと、月の雫とは今に続く甲州銘菓です。現在では煮溶かした砂糖を良くかき混ぜ白くして葡萄一粒を浸して衣掛けして作ります。葡萄の風味と砂糖の甘さが良く合います。事細かに記録する鶴梁ですが、菓子の場合「菓子」とのみ記すことが多く、「月の雫」のように菓銘を記すことは稀です。なにか思い入れがあったのでしょうか。「月の雫」はもう一度日記に登場します。江戸に帰った後の弘化5年2月26日の条に「甲人来ル」とあります。甲府の人が来たという意味で、藤屋伊兵衛という人が鶴梁を訪ねています。藤屋の土産が月の雫でした。人に贈り物をする時には、相手の好物を選ぶことも多いと思います。鶴梁はこの菓子が好物だったのかも知れません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献 保田晴男『ある文人代官の幕末日記―林鶴梁の日常』吉川弘文館 2009年保田晴男編『林鶴梁日記』日本評論社 2002年 画像提供 松林軒豊嶋家
山中共古と東京の菓子
桜餅行動派の民俗学研究者山中共古(やまなかきょうこ・1850~1928)は、本名を山中笑(えむ)といい、『甲斐の落葉』『共古随筆』などを著した、先駆的な民俗学研究者です。生まれは江戸の四谷で、英語の教師や牧師を勤める一方、庶民の生活の見聞記をまとめ、牧師をやめた後に本格的な研究活動に専念します。書斎にこもることなく、フィールドワークを重んじ、自ら描いた挿絵入りの報告書や論文を世に出し、日本民俗学に大きな足跡を残しました。著名な民俗学者、柳田国男も共古と親交があり、その業績を高く評価しています。 行事菓子の記述著作の中で菓子についての記述が見られるのが、『共古随筆』所載の「土俗談語」(1899年序)です。酉の市の粟餅、目黒不動の「花形の餅せんべい」などに触れていますが、特に目を引くのは、東京の菓子屋の年中行事に関わるところでしょう。「正月は年始進物の折詰物の外に、何れの菓子やも製するものは、ようかんくづときりざんしよふなり。二月は何にもなし。三月は雛菓子ひし餅豆いりはぜ。此の頃桜餅を製す。四月なし。五月柏餅ちまき餅。六月此の頃くづ餅を製す。七月蓮飯。八月九月別になし。十月小まくら餅。十一月なし。十二月餅つき。此の外七種の七色菓子、有卦に入るときのふの字の菓子、祝の赤飯、弔の饅頭等ならん乎。」とあり、明治時代後期の東京で、どのような行事菓子が作られていたかが記されています。正月の「ようかんくづときりざんしよふ」は葛で作った蒸羊羹、あるいは「切り羊羹」及び切山椒と考えられ、三月の「豆いりはぜ」は雛あられの原形でしょう。雛祭の頃に桜餅が作られるのは現在に通じます。六月の「くづ餅」は季節限定と考えると、葛粉を使った涼しげなものでしょうか。七月の蓮飯は蓮の葉に包んで蒸したお盆用の強飯、十月の「小まくら餅」は、日蓮の命日に供える枕形の餅で、かつてはよく作られたようです。庚申(こうしん)の日に供えた七色菓子(なないろがし)、有卦祝(うけいわい)の「ふの字の菓子」(幸運の年まわりに入ったときに用意する、富士山、藤の花など、名前に「ふ」のつく菓子)などは、残念なことに現在の東京では見ることもなくなりました(一部地域では七色菓子が残っています)。共古のいう東京の「何れの菓子やも」が東京のすべての菓子屋にいえるかどうかは疑問もありますが、当時の菓子事情がうかがえ、興味を覚えます。 気になる菓子談山中共古の人柄は温厚で、文章よりも談話や雑談が楽しく、また得意だったのではといわれています。上記の菓子の記述は簡潔で、覚書のようでもありますが、あれこれ詳しく聞けたらさぞかしおもしろかったのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献山中共古『共古随筆』飯島吉晴解説 平凡社 1995年
山中共古と東京の菓子
桜餅行動派の民俗学研究者山中共古(やまなかきょうこ・1850~1928)は、本名を山中笑(えむ)といい、『甲斐の落葉』『共古随筆』などを著した、先駆的な民俗学研究者です。生まれは江戸の四谷で、英語の教師や牧師を勤める一方、庶民の生活の見聞記をまとめ、牧師をやめた後に本格的な研究活動に専念します。書斎にこもることなく、フィールドワークを重んじ、自ら描いた挿絵入りの報告書や論文を世に出し、日本民俗学に大きな足跡を残しました。著名な民俗学者、柳田国男も共古と親交があり、その業績を高く評価しています。 行事菓子の記述著作の中で菓子についての記述が見られるのが、『共古随筆』所載の「土俗談語」(1899年序)です。酉の市の粟餅、目黒不動の「花形の餅せんべい」などに触れていますが、特に目を引くのは、東京の菓子屋の年中行事に関わるところでしょう。「正月は年始進物の折詰物の外に、何れの菓子やも製するものは、ようかんくづときりざんしよふなり。二月は何にもなし。三月は雛菓子ひし餅豆いりはぜ。此の頃桜餅を製す。四月なし。五月柏餅ちまき餅。六月此の頃くづ餅を製す。七月蓮飯。八月九月別になし。十月小まくら餅。十一月なし。十二月餅つき。此の外七種の七色菓子、有卦に入るときのふの字の菓子、祝の赤飯、弔の饅頭等ならん乎。」とあり、明治時代後期の東京で、どのような行事菓子が作られていたかが記されています。正月の「ようかんくづときりざんしよふ」は葛で作った蒸羊羹、あるいは「切り羊羹」及び切山椒と考えられ、三月の「豆いりはぜ」は雛あられの原形でしょう。雛祭の頃に桜餅が作られるのは現在に通じます。六月の「くづ餅」は季節限定と考えると、葛粉を使った涼しげなものでしょうか。七月の蓮飯は蓮の葉に包んで蒸したお盆用の強飯、十月の「小まくら餅」は、日蓮の命日に供える枕形の餅で、かつてはよく作られたようです。庚申(こうしん)の日に供えた七色菓子(なないろがし)、有卦祝(うけいわい)の「ふの字の菓子」(幸運の年まわりに入ったときに用意する、富士山、藤の花など、名前に「ふ」のつく菓子)などは、残念なことに現在の東京では見ることもなくなりました(一部地域では七色菓子が残っています)。共古のいう東京の「何れの菓子やも」が東京のすべての菓子屋にいえるかどうかは疑問もありますが、当時の菓子事情がうかがえ、興味を覚えます。 気になる菓子談山中共古の人柄は温厚で、文章よりも談話や雑談が楽しく、また得意だったのではといわれています。上記の菓子の記述は簡潔で、覚書のようでもありますが、あれこれ詳しく聞けたらさぞかしおもしろかったのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献山中共古『共古随筆』飯島吉晴解説 平凡社 1995年
杉木普斎と小豆餅
「小豆餅」黒文字に杉箸を一本添えて御師・茶人 普斎杉木普斎(すぎきふさい・1628~1706)は、伊勢神宮の御師(おんし)という神職の家に生まれ、代々「吉大夫」を名乗っていました。御師とは、伊勢神宮への参宮を目的につくられた全国各地の伊勢講に出向き、お伊勢参りを勧め、お参りの案内や宿泊の世話をしたり、初穂料や祈祷などを仲介したりする神職です。彼自身は中国、四国、九州など、父とともに各地をまわっていたといわれています。普斎は御師として西国に旅立つ折々に京都へ立ち寄り、15歳から30歳頃まで千宗旦に茶の湯を学び、宗旦からは宗喜の茶名を、大徳寺の参禅の師、乾英宗単(けんえいそうたん)からは普斎の号を与えられました。家業の御師を継ぐかたわら、侘び茶人として、のちには宗旦四天王と言われる高弟の一人に数えられています。 殿様が喜んだ小豆餅寛文9年(1669)、式年遷宮の警護で伊勢山田を訪れた鳥羽の殿様※1は、宿泊先の御師、逐沼(おいぬま)大夫を通じて、当時すでに宗旦の流れを汲む茶人として有名であった普斎に、一服の茶を所望しました。訪問前日の夕刻、大夫は茶の準備を確認するために、普斎宅を訪ねると、台所には取り立てて準備の様子はなく、いつもの猫が寝ているだけです。大夫は慌てて手伝いを申し出ますが、「もうすでに準備は調っている。」と言われ、何も手出しできませんでした。翌日朝食後、約束の時間に殿様が訪ねると、準備万端。茶室に通され、菓子を食べ、茶を三服もお替りし、歓談ののち、宿に帰りました。殿様は出された菓子を気に入り、大夫を呼んで、土産にしたいので、普斎にどこの菓子か聞いてくるように命じました。早速、菓子のことを尋ねに行くと、普斎は言葉を濁し、あり合わせのものだからといって、答えてくれませんでした。ことの次第を聞いて殿様は、普斎のお手製と気づき、その場で誇らなかった普斎の奥ゆかしさを後々までほめたとのこと。この菓子、隣の餅屋の餅に小豆を煮たものをのせ、その上に白砂糖をいっぱい振りかけた、素朴な手作りのものでした。連日歓待を受けている殿様を考えた、もてなしの一品だったのでしょう。 皆さんも正月の残りの餅を使って、手製の小豆餅の一椀を試してみては如何でしょうか。餅を軽くあぶり、茹でて椀に盛り、その上に塩茹でした小豆をのせてみました。最後に白砂糖を大匙一杯ほど、小豆の上に振りかけてできあがり。菓子屋の菓子とは違う、侘びた味わいを楽しむことができることでしょう。 ※1 上記参考文献(1)の史料には鳥羽城主稲垣候(註:内藤志摩守忠重)とあるが、年代から考えると鳥羽城主内藤飛騨守忠政か。 ※ 普斎のこの逸話は、色々な伝承があり、それぞれ内容に微妙な相違がある。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「普公茶話」(『茶道全集巻の十一』創元社 1936年)熊倉功夫、筒井紘一他『史料による茶の湯の歴史(下)』主婦の友社 1995年桑田忠親『茶道の逸話』東京堂出版 1990年
杉木普斎と小豆餅
「小豆餅」黒文字に杉箸を一本添えて御師・茶人 普斎杉木普斎(すぎきふさい・1628~1706)は、伊勢神宮の御師(おんし)という神職の家に生まれ、代々「吉大夫」を名乗っていました。御師とは、伊勢神宮への参宮を目的につくられた全国各地の伊勢講に出向き、お伊勢参りを勧め、お参りの案内や宿泊の世話をしたり、初穂料や祈祷などを仲介したりする神職です。彼自身は中国、四国、九州など、父とともに各地をまわっていたといわれています。普斎は御師として西国に旅立つ折々に京都へ立ち寄り、15歳から30歳頃まで千宗旦に茶の湯を学び、宗旦からは宗喜の茶名を、大徳寺の参禅の師、乾英宗単(けんえいそうたん)からは普斎の号を与えられました。家業の御師を継ぐかたわら、侘び茶人として、のちには宗旦四天王と言われる高弟の一人に数えられています。 殿様が喜んだ小豆餅寛文9年(1669)、式年遷宮の警護で伊勢山田を訪れた鳥羽の殿様※1は、宿泊先の御師、逐沼(おいぬま)大夫を通じて、当時すでに宗旦の流れを汲む茶人として有名であった普斎に、一服の茶を所望しました。訪問前日の夕刻、大夫は茶の準備を確認するために、普斎宅を訪ねると、台所には取り立てて準備の様子はなく、いつもの猫が寝ているだけです。大夫は慌てて手伝いを申し出ますが、「もうすでに準備は調っている。」と言われ、何も手出しできませんでした。翌日朝食後、約束の時間に殿様が訪ねると、準備万端。茶室に通され、菓子を食べ、茶を三服もお替りし、歓談ののち、宿に帰りました。殿様は出された菓子を気に入り、大夫を呼んで、土産にしたいので、普斎にどこの菓子か聞いてくるように命じました。早速、菓子のことを尋ねに行くと、普斎は言葉を濁し、あり合わせのものだからといって、答えてくれませんでした。ことの次第を聞いて殿様は、普斎のお手製と気づき、その場で誇らなかった普斎の奥ゆかしさを後々までほめたとのこと。この菓子、隣の餅屋の餅に小豆を煮たものをのせ、その上に白砂糖をいっぱい振りかけた、素朴な手作りのものでした。連日歓待を受けている殿様を考えた、もてなしの一品だったのでしょう。 皆さんも正月の残りの餅を使って、手製の小豆餅の一椀を試してみては如何でしょうか。餅を軽くあぶり、茹でて椀に盛り、その上に塩茹でした小豆をのせてみました。最後に白砂糖を大匙一杯ほど、小豆の上に振りかけてできあがり。菓子屋の菓子とは違う、侘びた味わいを楽しむことができることでしょう。 ※1 上記参考文献(1)の史料には鳥羽城主稲垣候(註:内藤志摩守忠重)とあるが、年代から考えると鳥羽城主内藤飛騨守忠政か。 ※ 普斎のこの逸話は、色々な伝承があり、それぞれ内容に微妙な相違がある。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「普公茶話」(『茶道全集巻の十一』創元社 1936年)熊倉功夫、筒井紘一他『史料による茶の湯の歴史(下)』主婦の友社 1995年桑田忠親『茶道の逸話』東京堂出版 1990年