虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
仰木魯堂と葛餅
葛餅茶人魯堂仰木敬一郎(おうぎけいいちろう・1863~1941)は魯堂(ろどう)と号し、建築家・茶人として知られています。明治後期には建築事務所を開設、茶室や住居の建築にその手腕を発揮しました。実弟の工芸家、仰木政斎(せいさい)とともに、益田鈍翁(どんのう)をはじめ、高橋箒庵(そうあん)、団琢磨(たくま)ら三井財閥系の茶人や、原三渓(さんけい)、松永耳庵(じあん)らとの交流が知られています。 松永耳庵は「茶道春秋」で、魯堂について「食物はシュンの物、庭や席の閑寂、その器いずれも型に捉われずして独自の侘一点で終始する。かつて三渓先生をして〈侘び茶の総本山〉と敬服せしめたのでもわかる」と評しています。大正13年(1924)7月3日の朝、6時半から原宿自邸の寸暇楽庵(すんからくあん)で行なわれた茶会は、魯堂の懐石の趣向を良く表わしています。床には「三日 はせを(芭蕉)」と署名のある「麦めしにやつるゝ恋や里の猫」の句の入った消息文を掛け、この句にちなんで、麦とろ飯をメインにした懐石に仕立てています。向付に「豆腐、胡瓜揉み」、煮物に「湯葉」、強肴に「鱚白焼きといんげん豆」、香物が「白瓜と大根味噌漬」と旬の食材を使った献立組みです。そして菓子は、濃茶には「粟田焼角皿に葛餅」、薄茶には「黒塗盆に渦巻(煎餅か落雁)、紅白有平糖」が用意されました。 葛餅葛餅といえば、関東では寺社の門前で売られている小麦粉を醗酵させて作る葛餅を思い起こしますが、角皿との取り合わせを考えると、早朝のさわやかさを表わすように、葛の生地を露のように丸めた菓子だったのではないでしょうか。 作り方は、葛粉を水で溶いて、篩(ふるい)でこし、砂糖の入った鍋にあけます。溶かしながら加熱し、焦げ付かないように木杓子で素早く煉ります。仕上げに熱湯を少量入れて、硬さを調整し、木杓子から竹べらで丸めながら掬ってできあがり。高橋箒庵の茶道記には、手料理懐石とあるので、葛餅も手作りで、できあがってすぐのものが供されたことでしょう。葛は冷蔵庫などで冷やすと、白濁し、硬くなってしまいますが、水に潜らせたり、霧を吹いたりして、目で涼感を楽しむことができます。皆さんもこの季節、葛餅を作るもよし、あるいは身近なお店でみずみずしさ、なめらかさ、弾力を楽しんでみてはいかがでしょうか。 ※ 原宿にあった寸暇楽庵は、戦前に請われて、魯堂の指揮の下、解体され海を渡り、現在、フィラデルフィア美術館で復元展示されています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「茶道春秋」(『松永安左エ門著作集』第5巻 五月書房 1981年)高橋箒庵『大正茶道記』 淡交社 1991年
仰木魯堂と葛餅
葛餅茶人魯堂仰木敬一郎(おうぎけいいちろう・1863~1941)は魯堂(ろどう)と号し、建築家・茶人として知られています。明治後期には建築事務所を開設、茶室や住居の建築にその手腕を発揮しました。実弟の工芸家、仰木政斎(せいさい)とともに、益田鈍翁(どんのう)をはじめ、高橋箒庵(そうあん)、団琢磨(たくま)ら三井財閥系の茶人や、原三渓(さんけい)、松永耳庵(じあん)らとの交流が知られています。 松永耳庵は「茶道春秋」で、魯堂について「食物はシュンの物、庭や席の閑寂、その器いずれも型に捉われずして独自の侘一点で終始する。かつて三渓先生をして〈侘び茶の総本山〉と敬服せしめたのでもわかる」と評しています。大正13年(1924)7月3日の朝、6時半から原宿自邸の寸暇楽庵(すんからくあん)で行なわれた茶会は、魯堂の懐石の趣向を良く表わしています。床には「三日 はせを(芭蕉)」と署名のある「麦めしにやつるゝ恋や里の猫」の句の入った消息文を掛け、この句にちなんで、麦とろ飯をメインにした懐石に仕立てています。向付に「豆腐、胡瓜揉み」、煮物に「湯葉」、強肴に「鱚白焼きといんげん豆」、香物が「白瓜と大根味噌漬」と旬の食材を使った献立組みです。そして菓子は、濃茶には「粟田焼角皿に葛餅」、薄茶には「黒塗盆に渦巻(煎餅か落雁)、紅白有平糖」が用意されました。 葛餅葛餅といえば、関東では寺社の門前で売られている小麦粉を醗酵させて作る葛餅を思い起こしますが、角皿との取り合わせを考えると、早朝のさわやかさを表わすように、葛の生地を露のように丸めた菓子だったのではないでしょうか。 作り方は、葛粉を水で溶いて、篩(ふるい)でこし、砂糖の入った鍋にあけます。溶かしながら加熱し、焦げ付かないように木杓子で素早く煉ります。仕上げに熱湯を少量入れて、硬さを調整し、木杓子から竹べらで丸めながら掬ってできあがり。高橋箒庵の茶道記には、手料理懐石とあるので、葛餅も手作りで、できあがってすぐのものが供されたことでしょう。葛は冷蔵庫などで冷やすと、白濁し、硬くなってしまいますが、水に潜らせたり、霧を吹いたりして、目で涼感を楽しむことができます。皆さんもこの季節、葛餅を作るもよし、あるいは身近なお店でみずみずしさ、なめらかさ、弾力を楽しんでみてはいかがでしょうか。 ※ 原宿にあった寸暇楽庵は、戦前に請われて、魯堂の指揮の下、解体され海を渡り、現在、フィラデルフィア美術館で復元展示されています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「茶道春秋」(『松永安左エ門著作集』第5巻 五月書房 1981年)高橋箒庵『大正茶道記』 淡交社 1991年
滝沢馬琴と汁粉
冷し汁粉馬琴の手紙『南総里見八犬伝』や『椿説弓張月』(ちんせつゆみはりづき)で知られる江戸時代後期の読本作家、曲亭(滝沢)馬琴(1767~1848)。今回は馬琴が小津桂窓(おづけいそう)にあてた手紙を読んでみたいと思います。桂窓は松阪の豪商で、自身の百数十冊に及ぶ詩歌や紀行の稿本を残したほか、貴重書を多数含む数万巻もの書籍を蒐集したといわれます。馬琴との交流が深く、馬琴の自筆本・旧蔵本なども所蔵しました。 汁粉屋の流行天保6年(1835)3月28日、馬琴の長い手紙は、汁粉の話で締めくくられています。「木挽丁橋前の汁粉もち、流行のよし。その品名目、十二ヶ月ニて十二種あり。十二わん不残たべ候へバ、代七百文のよし」と書き出し、「浅草大おん寺町田川屋の隣」にできた店が、やはり流行っていること、日本橋の「石町」には五節句を表わす五種類の汁粉があるが評判が悪いことを記しています。江戸時代後期、屋台の汁粉は1椀16文が相場だったとも言われますので、12椀で700文(1椀約58文)という十二ヶ月の汁粉は、桁違いな高級品だったことになります。ちなみに次に書かれている「浅草大おん寺町田川屋」は有名な高級料亭でしたが、隣の汁粉屋でも料理を出したそうです。馬琴は続けて、自分の子どもの頃に比べると天と地ほどの違いであるとし、贅沢を追い求めて人の心がおごっている、「一人として冥加をおそるゝものもなきや(あまりにも幸せ過ぎるので天罰がくだるのではと、恐ろしく思う者もいないのか)」と、嘆いています。これは高級汁粉の存在をいったものでしょうか。それともいくつもの汁粉屋が店を構え、それぞれに流行するような状況を指した言葉なのでしょうか。昔も今も、甘いものを楽しめる平和な時代がありがたいことは間違いありませんが、飽食の時代とも呼ばれる現代の日本を馬琴が見たら何と書くことか、読んでみたい気もしますね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『馬琴書簡集成』4巻 八木書店 2003年
滝沢馬琴と汁粉
冷し汁粉馬琴の手紙『南総里見八犬伝』や『椿説弓張月』(ちんせつゆみはりづき)で知られる江戸時代後期の読本作家、曲亭(滝沢)馬琴(1767~1848)。今回は馬琴が小津桂窓(おづけいそう)にあてた手紙を読んでみたいと思います。桂窓は松阪の豪商で、自身の百数十冊に及ぶ詩歌や紀行の稿本を残したほか、貴重書を多数含む数万巻もの書籍を蒐集したといわれます。馬琴との交流が深く、馬琴の自筆本・旧蔵本なども所蔵しました。 汁粉屋の流行天保6年(1835)3月28日、馬琴の長い手紙は、汁粉の話で締めくくられています。「木挽丁橋前の汁粉もち、流行のよし。その品名目、十二ヶ月ニて十二種あり。十二わん不残たべ候へバ、代七百文のよし」と書き出し、「浅草大おん寺町田川屋の隣」にできた店が、やはり流行っていること、日本橋の「石町」には五節句を表わす五種類の汁粉があるが評判が悪いことを記しています。江戸時代後期、屋台の汁粉は1椀16文が相場だったとも言われますので、12椀で700文(1椀約58文)という十二ヶ月の汁粉は、桁違いな高級品だったことになります。ちなみに次に書かれている「浅草大おん寺町田川屋」は有名な高級料亭でしたが、隣の汁粉屋でも料理を出したそうです。馬琴は続けて、自分の子どもの頃に比べると天と地ほどの違いであるとし、贅沢を追い求めて人の心がおごっている、「一人として冥加をおそるゝものもなきや(あまりにも幸せ過ぎるので天罰がくだるのではと、恐ろしく思う者もいないのか)」と、嘆いています。これは高級汁粉の存在をいったものでしょうか。それともいくつもの汁粉屋が店を構え、それぞれに流行するような状況を指した言葉なのでしょうか。昔も今も、甘いものを楽しめる平和な時代がありがたいことは間違いありませんが、飽食の時代とも呼ばれる現代の日本を馬琴が見たら何と書くことか、読んでみたい気もしますね。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『馬琴書簡集成』4巻 八木書店 2003年
長宗我部元親と砂糖の贈り物
江戸時代の百科事典『和漢三才図会』(1713)の砂糖(黒砂糖)の項目の図。四国統一を目指した戦国大名長宗我部元親(ちょうそがべもとちか・1538~99)は、土佐国(高知県)の戦国大名、長宗我部国親の嫡男として生まれました。幼少期は「姫若子(ひめわこ)」と言われるほど柔和な性格を父に心配されたそうですが、永禄3年(1560)に家督を継ぐと、天正3年(1575)土佐一国を統一し、四国全域に支配領域を広げていきました。領国経営や家臣団統制にも心を砕き、「長宗我部元親百箇条」を定めたことでも知られます。 砂糖の贈り物天正8年、元親は、畿内近国(近畿地方)をほぼ手中に収めていた織田信長へ、砂糖3,000斤(約1800㎏)を贈りました(『信長公記』)。この時代はまだ砂糖が貴重な輸入品だったため、桁外れともいえる贈り物です。元親はなぜここまでして信長の歓心を買おうとしたのでしょうか。元親と信長は、以前から友好関係にありました。しかし、当時元親の攻勢に晒された阿波(徳島県)・讃岐(香川県)の領主三好氏が信長に保護を求めていました。三好氏が信長の傘下に入れば、阿波・讃岐には手を出せなくなる。四国統一を目指す元親にとって、信長が三好氏側に付くことはなんとしても避けたかったはずです。信長との関係が微妙になっていることをわかっていたからこそ、大きな出費もいとわなかったのでしょう。しかし、砂糖の贈り物は信長の心を動かすにはいたらなかったのか、天正9年頃には信長は三好氏を保護して、元親と対立するようになります。 本能寺の変に救われる信長は元親に阿波・讃岐から手を引くようにと要求するも拒絶され、天正10年4~5月頃には、元親討伐のための四国遠征軍を大坂に集結させました。ところが同年6月、本能寺の変で信長が倒れたため、四国遠征は頓挫します。信長を討ち、結果的に元親の窮地を救うこととなったのが明智光秀。彼は長宗我部氏との縁が深く、信長の下で元親との交渉を行なっていたため、天正8年に砂糖が贈られた際も取次役(主君に進物を披露する役)を務めています。長宗我部氏討伐を巡って主君信長と対立して面目を失い、織田家中での影響力を失ったことも、本能寺の変の動機のひとつと考えられています。通常取次役には別途進物が用意されるので、光秀にも砂糖が贈られたのかも知れません。その後、窮地を逃れた元親は阿波・讃岐を手中に収め、天正13年には念願の四国統一を果たすことになります。ちなみに阿波と讃岐は、江戸時代に甘蔗(サトウキビ)栽培が行なわれることになる地域で、現在も国産の高級砂糖、和三盆糖の産地として知られます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
長宗我部元親と砂糖の贈り物
江戸時代の百科事典『和漢三才図会』(1713)の砂糖(黒砂糖)の項目の図。四国統一を目指した戦国大名長宗我部元親(ちょうそがべもとちか・1538~99)は、土佐国(高知県)の戦国大名、長宗我部国親の嫡男として生まれました。幼少期は「姫若子(ひめわこ)」と言われるほど柔和な性格を父に心配されたそうですが、永禄3年(1560)に家督を継ぐと、天正3年(1575)土佐一国を統一し、四国全域に支配領域を広げていきました。領国経営や家臣団統制にも心を砕き、「長宗我部元親百箇条」を定めたことでも知られます。 砂糖の贈り物天正8年、元親は、畿内近国(近畿地方)をほぼ手中に収めていた織田信長へ、砂糖3,000斤(約1800㎏)を贈りました(『信長公記』)。この時代はまだ砂糖が貴重な輸入品だったため、桁外れともいえる贈り物です。元親はなぜここまでして信長の歓心を買おうとしたのでしょうか。元親と信長は、以前から友好関係にありました。しかし、当時元親の攻勢に晒された阿波(徳島県)・讃岐(香川県)の領主三好氏が信長に保護を求めていました。三好氏が信長の傘下に入れば、阿波・讃岐には手を出せなくなる。四国統一を目指す元親にとって、信長が三好氏側に付くことはなんとしても避けたかったはずです。信長との関係が微妙になっていることをわかっていたからこそ、大きな出費もいとわなかったのでしょう。しかし、砂糖の贈り物は信長の心を動かすにはいたらなかったのか、天正9年頃には信長は三好氏を保護して、元親と対立するようになります。 本能寺の変に救われる信長は元親に阿波・讃岐から手を引くようにと要求するも拒絶され、天正10年4~5月頃には、元親討伐のための四国遠征軍を大坂に集結させました。ところが同年6月、本能寺の変で信長が倒れたため、四国遠征は頓挫します。信長を討ち、結果的に元親の窮地を救うこととなったのが明智光秀。彼は長宗我部氏との縁が深く、信長の下で元親との交渉を行なっていたため、天正8年に砂糖が贈られた際も取次役(主君に進物を披露する役)を務めています。長宗我部氏討伐を巡って主君信長と対立して面目を失い、織田家中での影響力を失ったことも、本能寺の変の動機のひとつと考えられています。通常取次役には別途進物が用意されるので、光秀にも砂糖が贈られたのかも知れません。その後、窮地を逃れた元親は阿波・讃岐を手中に収め、天正13年には念願の四国統一を果たすことになります。ちなみに阿波と讃岐は、江戸時代に甘蔗(サトウキビ)栽培が行なわれることになる地域で、現在も国産の高級砂糖、和三盆糖の産地として知られます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
アーネスト・サトウとカステラ・羊羹
カステラ 羊羹 明治維新の証言者アーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow・1843~1929)は、幕末から明治時代にかけて日本に駐在したイギリスの外交官です。日本滞在は二度にわたって都合25年間におよび、最初は日本語通訳生からはじまり、日本語書記官などを経て最後は公使にまでなりました。彼は日本語を自在にあやつり筆で書かれたくずし字の文章を読み、候文(そうろうぶん)を書くこともできました。また、膨大な日記を遺し、日本に関する本も著しており、近代日本の歴史の証人でもありました。サトウは文久2年(1862)8月15日、19歳で初めて日本の土を踏み、横浜の公使館に入りました。10月11日、江戸を訪れます。赴任前の5月29日に公使館を警備していた松本藩士によって、イギリス人水兵2名が殺害された事件の賠償交渉の随員を務めるためでした。 老中のおもてなし交渉は老中水野忠精の役宅で行なわれ、5人いた老中のうち水野、板倉勝静、小笠原長行や外国奉行等が出席しました。両者はテーブルを挟んで座り、テーブルの上には煙草盆、火壺、煙草入れ、長いキセルと火鉢が置かれました。この日は新暦になおすと12月4日にあたるので、火鉢は暖房用です。時候の挨拶が終わると重々しく黒い漆塗りの箱を捧げた「給仕役」が二列に並んで来ました。箱には薄く切ったカステラと羊羹が沢山入っており、続いて蜜柑と柿が出され、お茶が振る舞われました。出されたお菓子のうち羊羹を「豆で作った甘い煉り菓子」と著書に記しているので蒸羊羹ではなく煉羊羹でしょう。カステラは16世紀後半以降にスペイン、ポルトガルからもたらされた南蛮菓子です。外国人をもてなすことを意識して、ヨーロッパ伝来の菓子を選んだのでしょうか。カステラと羊羹の取り合わせはミスマッチのような気もしますが、実はそうでもないのです。後年考案されたものですが、カステラで羊羹や餡を挟んだシベリヤという菓子があります。二つの違った味わいを同時に楽しめる菓子です。実はカステラと羊羹の相性はとても良いのです。ちなみにこの時のお茶のことを日記では「二様の流儀でお茶が出された。ただ振り出すものと、粉末を泡立たせるものであった」(『一外交官の見た明治維新』)と記しています。前者は煎茶、後者は抹茶です。サトウの日記には抹茶は「ひどい味だった」とあるので、彼の口には合わなかったようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献萩原延壽 『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄』 朝日新聞社アーネスト・サトウ(坂田精一訳) 『一外交官の見た明治維新』 岩波文庫
アーネスト・サトウとカステラ・羊羹
カステラ 羊羹 明治維新の証言者アーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow・1843~1929)は、幕末から明治時代にかけて日本に駐在したイギリスの外交官です。日本滞在は二度にわたって都合25年間におよび、最初は日本語通訳生からはじまり、日本語書記官などを経て最後は公使にまでなりました。彼は日本語を自在にあやつり筆で書かれたくずし字の文章を読み、候文(そうろうぶん)を書くこともできました。また、膨大な日記を遺し、日本に関する本も著しており、近代日本の歴史の証人でもありました。サトウは文久2年(1862)8月15日、19歳で初めて日本の土を踏み、横浜の公使館に入りました。10月11日、江戸を訪れます。赴任前の5月29日に公使館を警備していた松本藩士によって、イギリス人水兵2名が殺害された事件の賠償交渉の随員を務めるためでした。 老中のおもてなし交渉は老中水野忠精の役宅で行なわれ、5人いた老中のうち水野、板倉勝静、小笠原長行や外国奉行等が出席しました。両者はテーブルを挟んで座り、テーブルの上には煙草盆、火壺、煙草入れ、長いキセルと火鉢が置かれました。この日は新暦になおすと12月4日にあたるので、火鉢は暖房用です。時候の挨拶が終わると重々しく黒い漆塗りの箱を捧げた「給仕役」が二列に並んで来ました。箱には薄く切ったカステラと羊羹が沢山入っており、続いて蜜柑と柿が出され、お茶が振る舞われました。出されたお菓子のうち羊羹を「豆で作った甘い煉り菓子」と著書に記しているので蒸羊羹ではなく煉羊羹でしょう。カステラは16世紀後半以降にスペイン、ポルトガルからもたらされた南蛮菓子です。外国人をもてなすことを意識して、ヨーロッパ伝来の菓子を選んだのでしょうか。カステラと羊羹の取り合わせはミスマッチのような気もしますが、実はそうでもないのです。後年考案されたものですが、カステラで羊羹や餡を挟んだシベリヤという菓子があります。二つの違った味わいを同時に楽しめる菓子です。実はカステラと羊羹の相性はとても良いのです。ちなみにこの時のお茶のことを日記では「二様の流儀でお茶が出された。ただ振り出すものと、粉末を泡立たせるものであった」(『一外交官の見た明治維新』)と記しています。前者は煎茶、後者は抹茶です。サトウの日記には抹茶は「ひどい味だった」とあるので、彼の口には合わなかったようです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献萩原延壽 『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄』 朝日新聞社アーネスト・サトウ(坂田精一訳) 『一外交官の見た明治維新』 岩波文庫
鏑木清方とよかよか飴売り
よかよか飴売り (平出鏗二郎『東京風俗志』より)市井の人々を描いて鏑木清方(かぶらききよかた・1878~1972)は、父の勧めで絵を学び、16歳の若さで挿絵画家としてデビュー、泉鏡花などの小説の挿絵を手がけ、のちに日本画を描くようになりました。彼が得意としたのは風俗画や美人画で、江戸情緒漂う画風は多くの人々を魅了しました。 随筆の中の菓子また、清方は文才にも恵まれ、たくさんの随筆を残しています。『こしかたの記』は、彼の前半生にあたる明治時代のエピソードを綴ったもので、画業のほか彼が暮らしていた京橋や湯島での様子などを記しています。文中には、修業時代に三時のおやつに出された焼芋のほか、版画の摺師(すりし)が手土産に持ってきた塩煎餅など私たちに馴染みのある菓子の名が多く見られます。また、よかよか飴売りのように菓子を売る人たちについても書いています。 飴売りは子どもたちの人気者よかよか飴売りは提灯などを立てた盤台(はんだい)を頭に載せ、飴を売って歌や踊りを見せました。「よかよか飴」とは「良い飴」を意味するともいわれます。『こしかたの記』では飴について触れていませんが、晒(さら)し飴のようなものだったと思われます。清方がよかよか飴売りを見たのは、子どもの頃住んでいた京橋の大根河岸※でした。当時は東京の町はずれであればどこでも見られたようで「ぞろぞろ子供や守(もり)っ子が附いて歩く一組を見かけぬ日は稀れであった。よかよか飴の後(あと)を追って迷子になったり、子守娘がそのまま帰って来ないなどの噂はたびたび聞えた。」などと書いています。迷子や行方知れずとは困った話ですが、それだけたくさんの子どもが飴売りについていったということなのでしょう。大根河岸のよかよか飴売りは、名優で美男だった歌舞伎の五代目坂東彦三郎に似ていた、と清方は書いています。飴のおいしさはもちろんですが、飴売りの演技や容姿が買い手の心を掴む上で大事だったということがうかがえます。 ※ かつて京橋川(現在は埋め立てられている)にあった青物市場のこと。現中央区京橋から八重洲付近。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献鏑木清方 『こしかたの記』 中央公論社 2008年
鏑木清方とよかよか飴売り
よかよか飴売り (平出鏗二郎『東京風俗志』より)市井の人々を描いて鏑木清方(かぶらききよかた・1878~1972)は、父の勧めで絵を学び、16歳の若さで挿絵画家としてデビュー、泉鏡花などの小説の挿絵を手がけ、のちに日本画を描くようになりました。彼が得意としたのは風俗画や美人画で、江戸情緒漂う画風は多くの人々を魅了しました。 随筆の中の菓子また、清方は文才にも恵まれ、たくさんの随筆を残しています。『こしかたの記』は、彼の前半生にあたる明治時代のエピソードを綴ったもので、画業のほか彼が暮らしていた京橋や湯島での様子などを記しています。文中には、修業時代に三時のおやつに出された焼芋のほか、版画の摺師(すりし)が手土産に持ってきた塩煎餅など私たちに馴染みのある菓子の名が多く見られます。また、よかよか飴売りのように菓子を売る人たちについても書いています。 飴売りは子どもたちの人気者よかよか飴売りは提灯などを立てた盤台(はんだい)を頭に載せ、飴を売って歌や踊りを見せました。「よかよか飴」とは「良い飴」を意味するともいわれます。『こしかたの記』では飴について触れていませんが、晒(さら)し飴のようなものだったと思われます。清方がよかよか飴売りを見たのは、子どもの頃住んでいた京橋の大根河岸※でした。当時は東京の町はずれであればどこでも見られたようで「ぞろぞろ子供や守(もり)っ子が附いて歩く一組を見かけぬ日は稀れであった。よかよか飴の後(あと)を追って迷子になったり、子守娘がそのまま帰って来ないなどの噂はたびたび聞えた。」などと書いています。迷子や行方知れずとは困った話ですが、それだけたくさんの子どもが飴売りについていったということなのでしょう。大根河岸のよかよか飴売りは、名優で美男だった歌舞伎の五代目坂東彦三郎に似ていた、と清方は書いています。飴のおいしさはもちろんですが、飴売りの演技や容姿が買い手の心を掴む上で大事だったということがうかがえます。 ※ かつて京橋川(現在は埋め立てられている)にあった青物市場のこと。現中央区京橋から八重洲付近。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献鏑木清方 『こしかたの記』 中央公論社 2008年
屋代弘賢と雛菓子
「源氏十二ヶ月之内 弥生」(部分) 緑白緑の菱餅が見える。 博覧強記の国文学者屋代弘賢(やしろひろかた・1758~1841)は江戸時代の国学者です。江戸・神田明神下の幕臣の家に生まれ、幕府の書役、右筆となり、師の塙保己一(はなわほきいち)を助け、 『群書類従』の編纂に携わったほか、『古今要覧稿』を編集したことで知られます。注目したいのは、弘賢が中心になり、 文化10年(1813)頃から数年かけて各地に対して行なった風俗習慣に関する調査です。 正月や端午の節句といった各月の年中行事などについて、131条の質問からなるもので、『古今要覧稿』の資料蒐集の一助とする目的があったともいわれます。 雛菓子についての質問たとえば、雛祭の菓子については、「草餅に母子草(春の七草の一つ、ごぎょう)を使うか」、 「草餅を菱形に切ったものを用意するか、他の例もあるか」といった内容の問いがあります。本来、3月3日(上巳の節句)は邪気払いの日で、 平安時代の頃より、草餅を食べる習いがありました。もともと母子草で作りましたが、江戸時代には蓬が一般的で、雛段に飾る菱餅も草餅を使い、 白と緑の組み合わせが主流でした。弘賢らは、母子草から蓬にかわったことを文献上知っていましたが、菱餅も含めて、実際の習俗はどうなのか、 各地で違いがあるのか、確かめたかったのでしょう。結果として、母子草を使わない地域が多い中、出羽国秋田領や丹後国(京都府)峯山領などでは蓬同様、 使用していること、備後国(広島県)深津郡本庄村では、昔は母子草で今は蓬にかわったことなどがわかりました。また、蓬入りの菱餅が、遠く阿波国(徳島県) でも作られていること、紀伊国和歌山では、青(緑)黄白の菱餅を用意することなどが判明します。質問事項が多く、書類作成に手間がかかることもあってか、弘賢が期待したほど返事はこなかったようです。しかし、現存する20通あまりの回答は、 「風俗問状答」(諸国風俗問状答)としてまとまり、当時の習俗を知る貴重な史料となっています。質問の仕方や答えの書き方などに、不備や弱点があるという指摘も されますが、アンケート形式で各地の実態を調査しようとした弘賢らの試みは意義深く、食文化研究においても多大な業績を残したといえるでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献平山敏治郎ほか編「諸国風俗問状答」『日本庶民生活史料集成』 第九巻風俗三一書房 1969年 関係コラム「和泉式部と母子餅」
屋代弘賢と雛菓子
「源氏十二ヶ月之内 弥生」(部分) 緑白緑の菱餅が見える。 博覧強記の国文学者屋代弘賢(やしろひろかた・1758~1841)は江戸時代の国学者です。江戸・神田明神下の幕臣の家に生まれ、幕府の書役、右筆となり、師の塙保己一(はなわほきいち)を助け、 『群書類従』の編纂に携わったほか、『古今要覧稿』を編集したことで知られます。注目したいのは、弘賢が中心になり、 文化10年(1813)頃から数年かけて各地に対して行なった風俗習慣に関する調査です。 正月や端午の節句といった各月の年中行事などについて、131条の質問からなるもので、『古今要覧稿』の資料蒐集の一助とする目的があったともいわれます。 雛菓子についての質問たとえば、雛祭の菓子については、「草餅に母子草(春の七草の一つ、ごぎょう)を使うか」、 「草餅を菱形に切ったものを用意するか、他の例もあるか」といった内容の問いがあります。本来、3月3日(上巳の節句)は邪気払いの日で、 平安時代の頃より、草餅を食べる習いがありました。もともと母子草で作りましたが、江戸時代には蓬が一般的で、雛段に飾る菱餅も草餅を使い、 白と緑の組み合わせが主流でした。弘賢らは、母子草から蓬にかわったことを文献上知っていましたが、菱餅も含めて、実際の習俗はどうなのか、 各地で違いがあるのか、確かめたかったのでしょう。結果として、母子草を使わない地域が多い中、出羽国秋田領や丹後国(京都府)峯山領などでは蓬同様、 使用していること、備後国(広島県)深津郡本庄村では、昔は母子草で今は蓬にかわったことなどがわかりました。また、蓬入りの菱餅が、遠く阿波国(徳島県) でも作られていること、紀伊国和歌山では、青(緑)黄白の菱餅を用意することなどが判明します。質問事項が多く、書類作成に手間がかかることもあってか、弘賢が期待したほど返事はこなかったようです。しかし、現存する20通あまりの回答は、 「風俗問状答」(諸国風俗問状答)としてまとまり、当時の習俗を知る貴重な史料となっています。質問の仕方や答えの書き方などに、不備や弱点があるという指摘も されますが、アンケート形式で各地の実態を調査しようとした弘賢らの試みは意義深く、食文化研究においても多大な業績を残したといえるでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献平山敏治郎ほか編「諸国風俗問状答」『日本庶民生活史料集成』 第九巻風俗三一書房 1969年 関係コラム「和泉式部と母子餅」