虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
杉木普斎と小豆餅
「小豆餅」黒文字に杉箸を一本添えて御師・茶人 普斎杉木普斎(すぎきふさい・1628~1706)は、伊勢神宮の御師(おんし)という神職の家に生まれ、代々「吉大夫」を名乗っていました。御師とは、伊勢神宮への参宮を目的につくられた全国各地の伊勢講に出向き、お伊勢参りを勧め、お参りの案内や宿泊の世話をしたり、初穂料や祈祷などを仲介したりする神職です。彼自身は中国、四国、九州など、父とともに各地をまわっていたといわれています。普斎は御師として西国に旅立つ折々に京都へ立ち寄り、15歳から30歳頃まで千宗旦に茶の湯を学び、宗旦からは宗喜の茶名を、大徳寺の参禅の師、乾英宗単(けんえいそうたん)からは普斎の号を与えられました。家業の御師を継ぐかたわら、侘び茶人として、のちには宗旦四天王と言われる高弟の一人に数えられています。 殿様が喜んだ小豆餅寛文9年(1669)、式年遷宮の警護で伊勢山田を訪れた鳥羽の殿様※1は、宿泊先の御師、逐沼(おいぬま)大夫を通じて、当時すでに宗旦の流れを汲む茶人として有名であった普斎に、一服の茶を所望しました。訪問前日の夕刻、大夫は茶の準備を確認するために、普斎宅を訪ねると、台所には取り立てて準備の様子はなく、いつもの猫が寝ているだけです。大夫は慌てて手伝いを申し出ますが、「もうすでに準備は調っている。」と言われ、何も手出しできませんでした。翌日朝食後、約束の時間に殿様が訪ねると、準備万端。茶室に通され、菓子を食べ、茶を三服もお替りし、歓談ののち、宿に帰りました。殿様は出された菓子を気に入り、大夫を呼んで、土産にしたいので、普斎にどこの菓子か聞いてくるように命じました。早速、菓子のことを尋ねに行くと、普斎は言葉を濁し、あり合わせのものだからといって、答えてくれませんでした。ことの次第を聞いて殿様は、普斎のお手製と気づき、その場で誇らなかった普斎の奥ゆかしさを後々までほめたとのこと。この菓子、隣の餅屋の餅に小豆を煮たものをのせ、その上に白砂糖をいっぱい振りかけた、素朴な手作りのものでした。連日歓待を受けている殿様を考えた、もてなしの一品だったのでしょう。 皆さんも正月の残りの餅を使って、手製の小豆餅の一椀を試してみては如何でしょうか。餅を軽くあぶり、茹でて椀に盛り、その上に塩茹でした小豆をのせてみました。最後に白砂糖を大匙一杯ほど、小豆の上に振りかけてできあがり。菓子屋の菓子とは違う、侘びた味わいを楽しむことができることでしょう。 ※1 上記参考文献(1)の史料には鳥羽城主稲垣候(註:内藤志摩守忠重)とあるが、年代から考えると鳥羽城主内藤飛騨守忠政か。 ※ 普斎のこの逸話は、色々な伝承があり、それぞれ内容に微妙な相違がある。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「普公茶話」(『茶道全集巻の十一』創元社 1936年)熊倉功夫、筒井紘一他『史料による茶の湯の歴史(下)』主婦の友社 1995年桑田忠親『茶道の逸話』東京堂出版 1990年
杉木普斎と小豆餅
「小豆餅」黒文字に杉箸を一本添えて御師・茶人 普斎杉木普斎(すぎきふさい・1628~1706)は、伊勢神宮の御師(おんし)という神職の家に生まれ、代々「吉大夫」を名乗っていました。御師とは、伊勢神宮への参宮を目的につくられた全国各地の伊勢講に出向き、お伊勢参りを勧め、お参りの案内や宿泊の世話をしたり、初穂料や祈祷などを仲介したりする神職です。彼自身は中国、四国、九州など、父とともに各地をまわっていたといわれています。普斎は御師として西国に旅立つ折々に京都へ立ち寄り、15歳から30歳頃まで千宗旦に茶の湯を学び、宗旦からは宗喜の茶名を、大徳寺の参禅の師、乾英宗単(けんえいそうたん)からは普斎の号を与えられました。家業の御師を継ぐかたわら、侘び茶人として、のちには宗旦四天王と言われる高弟の一人に数えられています。 殿様が喜んだ小豆餅寛文9年(1669)、式年遷宮の警護で伊勢山田を訪れた鳥羽の殿様※1は、宿泊先の御師、逐沼(おいぬま)大夫を通じて、当時すでに宗旦の流れを汲む茶人として有名であった普斎に、一服の茶を所望しました。訪問前日の夕刻、大夫は茶の準備を確認するために、普斎宅を訪ねると、台所には取り立てて準備の様子はなく、いつもの猫が寝ているだけです。大夫は慌てて手伝いを申し出ますが、「もうすでに準備は調っている。」と言われ、何も手出しできませんでした。翌日朝食後、約束の時間に殿様が訪ねると、準備万端。茶室に通され、菓子を食べ、茶を三服もお替りし、歓談ののち、宿に帰りました。殿様は出された菓子を気に入り、大夫を呼んで、土産にしたいので、普斎にどこの菓子か聞いてくるように命じました。早速、菓子のことを尋ねに行くと、普斎は言葉を濁し、あり合わせのものだからといって、答えてくれませんでした。ことの次第を聞いて殿様は、普斎のお手製と気づき、その場で誇らなかった普斎の奥ゆかしさを後々までほめたとのこと。この菓子、隣の餅屋の餅に小豆を煮たものをのせ、その上に白砂糖をいっぱい振りかけた、素朴な手作りのものでした。連日歓待を受けている殿様を考えた、もてなしの一品だったのでしょう。 皆さんも正月の残りの餅を使って、手製の小豆餅の一椀を試してみては如何でしょうか。餅を軽くあぶり、茹でて椀に盛り、その上に塩茹でした小豆をのせてみました。最後に白砂糖を大匙一杯ほど、小豆の上に振りかけてできあがり。菓子屋の菓子とは違う、侘びた味わいを楽しむことができることでしょう。 ※1 上記参考文献(1)の史料には鳥羽城主稲垣候(註:内藤志摩守忠重)とあるが、年代から考えると鳥羽城主内藤飛騨守忠政か。 ※ 普斎のこの逸話は、色々な伝承があり、それぞれ内容に微妙な相違がある。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「普公茶話」(『茶道全集巻の十一』創元社 1936年)熊倉功夫、筒井紘一他『史料による茶の湯の歴史(下)』主婦の友社 1995年桑田忠親『茶道の逸話』東京堂出版 1990年
与謝野晶子と羊羹
竹皮包みの羊羹和菓子屋の娘明治から大正・昭和にかけて活躍した歌人・与謝野晶子(1878~1942)は、処女歌集『みだれ髪』や、日露戦争時に危険思想ともいわれた『君しにたまふことなかれ』、『源氏物語』の現代語訳などで広く知られます。 晶子は、明治11年、堺の菓子屋、駿河屋の三女として生まれ、10代の初めころから家の手伝いをしながら育ちました。駿河屋は羊羹で知られた老舗で、晶子は商品の管理や販売、帳簿付けなどを担当し、また、毎年正月に販売する勅題(現在の宮中歌会始の「お題」)にちなむ菓子の創案もしていたといいます。また、「羊羹場」と呼ばれる製造現場で、丁稚と共に菓子を作ったり羊羹を切ったりもしていたようです。 羊羹を竹皮で包む晶子は後年、著作の中で「わたしは菓子屋の店で竹の皮で羊羹を包みながら育つた」と書いています。竹皮包みの羊羹は現在でもおなじみですが、その歴史は古く、虎屋では元禄15年(1702)に記録が残っています。また、元禄3年に刊行された、商人や職人の図説書である『人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)』には竹皮屋があります。竹皮の用途として草履、笠などと並んで「菓子を包」と記されており、伝統的な菓子パッケージの一つといえるでしょう。晶子にとっても、竹皮と羊羹は、実家の象徴だったに違いありません。 母として11人の子どもの母親になってからは、日本の風習を伝えるために年中行事を大切にしたそうです。晶子の作る月見団子は関西風の里芋形で、きな粉をつけたものでした(きな粉の月見団子は、江戸時代から作られていたようです)。 お彼岸には、どんなに忙しくても、必ず自分でこし餡を炊いておはぎを作り、子どもたちが近所に配りに行きました。長男の光は、よく作ってもらったお汁粉はいつもこし餡の汁粉で、「ぜんざいみたいなものは未完成だって馬鹿にして」小豆の粒の入ったものは作らなかったと振り返り、また、「母はやっぱりお菓子屋さんの子だから、お菓子の作り方はよく知っておりました」と語っています。子どもたちのために菓子を作るとき、晶子は実家の「羊羹場」を思うこともあったでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献与謝野光『晶子と寛の思い出』思文閣出版 1991年逸見久美『新版 評伝 与謝野晶子 明治篇』 八木書店 2007年
与謝野晶子と羊羹
竹皮包みの羊羹和菓子屋の娘明治から大正・昭和にかけて活躍した歌人・与謝野晶子(1878~1942)は、処女歌集『みだれ髪』や、日露戦争時に危険思想ともいわれた『君しにたまふことなかれ』、『源氏物語』の現代語訳などで広く知られます。 晶子は、明治11年、堺の菓子屋、駿河屋の三女として生まれ、10代の初めころから家の手伝いをしながら育ちました。駿河屋は羊羹で知られた老舗で、晶子は商品の管理や販売、帳簿付けなどを担当し、また、毎年正月に販売する勅題(現在の宮中歌会始の「お題」)にちなむ菓子の創案もしていたといいます。また、「羊羹場」と呼ばれる製造現場で、丁稚と共に菓子を作ったり羊羹を切ったりもしていたようです。 羊羹を竹皮で包む晶子は後年、著作の中で「わたしは菓子屋の店で竹の皮で羊羹を包みながら育つた」と書いています。竹皮包みの羊羹は現在でもおなじみですが、その歴史は古く、虎屋では元禄15年(1702)に記録が残っています。また、元禄3年に刊行された、商人や職人の図説書である『人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)』には竹皮屋があります。竹皮の用途として草履、笠などと並んで「菓子を包」と記されており、伝統的な菓子パッケージの一つといえるでしょう。晶子にとっても、竹皮と羊羹は、実家の象徴だったに違いありません。 母として11人の子どもの母親になってからは、日本の風習を伝えるために年中行事を大切にしたそうです。晶子の作る月見団子は関西風の里芋形で、きな粉をつけたものでした(きな粉の月見団子は、江戸時代から作られていたようです)。 お彼岸には、どんなに忙しくても、必ず自分でこし餡を炊いておはぎを作り、子どもたちが近所に配りに行きました。長男の光は、よく作ってもらったお汁粉はいつもこし餡の汁粉で、「ぜんざいみたいなものは未完成だって馬鹿にして」小豆の粒の入ったものは作らなかったと振り返り、また、「母はやっぱりお菓子屋さんの子だから、お菓子の作り方はよく知っておりました」と語っています。子どもたちのために菓子を作るとき、晶子は実家の「羊羹場」を思うこともあったでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献与謝野光『晶子と寛の思い出』思文閣出版 1991年逸見久美『新版 評伝 与謝野晶子 明治篇』 八木書店 2007年
荒木村重と饅頭
太平記英勇伝 荒儀摂津守村重(吉田コレクション) 饅頭を食べる村重 本朝智仁英勇鑑 織田上総介信長(虎屋文庫蔵) 刀に刺した饅頭を村重に向ける信長教養人荒木村重戦国武将荒木村重(あらきむらしげ・1535~86)は、もともと摂津国(大阪府・兵庫県の一部)の小豪族で、織田信長に取り立てられ、傘下の一部将として活躍し、晩年は豊臣秀吉にも仕えました。能や茶の湯にも通じた教養人で、特に茶の湯は千利休の高弟「利休七哲」に数えられる程の数寄者でした。天正11年(1583)2月9日、津田宗及(つだそうきゅう)に招かれた茶会では、菓子の時に、むき栗とともに椿の花が出され、亭主から花を生けるよう求められた村重は、床に2本の椿を生け、見事にその趣向に応えています。 不可解な寝返り信長に重用され、摂津一国を任せられるまでになった村重ですが、天正6年(1578)10月、突如として信長に背き、居城有岡城に立て籠もります。村重は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)らによる度重なる説得にも応じず頑強に抵抗しますが、信長方の軍勢に囲まれて孤立し、翌年9月にはわずかな部下と名物茶器を携えて有岡城を脱出します。置き去りにされた妻子ら一族郎党は信長の命で皆殺しにされたといいます。村重自身はその後中国地方に落ち延び、本能寺の変で信長が討たれた後、堺(大阪府)に戻り、秀吉に召し出されました。謀反の理由については諸説ありますが、野心も才覚もある村重のこと、戦国の世に生まれた武将として、自ら天下取りを狙ったのかもしれません。妻子や部下を捨てても名物茶器は手放さないところは、当代一流の数寄者の意地といったところでしょうか。 串刺しの饅頭現代の私たちから見ると、身勝手なとんでもない人物ですが、江戸時代の人々の評判は悪くありません。没後100年以上たった正徳2年(1712)刊の『陰徳太平記』には、村重がはじめて信長に目通りした際のこととして、次のような逸話が収められています。 村重が信長の面前に出ると、信長は何を思ったか刀を抜いて盆の上の大饅頭を2つ3つ刺し貫き、「これこれ村重」と声をかけた。満座の人々が驚くなか、村重は「あっ」と答えてするすると近寄り、大口を開けてその饅頭を食おうとした。これを見た信長は日本一の器と賞賛し、腰に挿した脇差を授けた。 にわかに史実とは信じられませんが、信長の威圧に動じない村重の豪胆さを表わすこの逸話は、江戸後期の読本『絵本太閤記』や、それを題材にした錦絵(上図)にも取り入れられ、好評を博したようです。強大な権力者、信長に立ち向かった村重の反骨心は、部下や妻子を見捨てた卑怯さを差し引いてもなお、江戸庶民の心を捉えたのでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献瓦田昇『荒木村重研究序説』 海鳥社 1998年米原正義校訂『陰徳太平記』 東洋書院 1980年
荒木村重と饅頭
太平記英勇伝 荒儀摂津守村重(吉田コレクション) 饅頭を食べる村重 本朝智仁英勇鑑 織田上総介信長(虎屋文庫蔵) 刀に刺した饅頭を村重に向ける信長教養人荒木村重戦国武将荒木村重(あらきむらしげ・1535~86)は、もともと摂津国(大阪府・兵庫県の一部)の小豪族で、織田信長に取り立てられ、傘下の一部将として活躍し、晩年は豊臣秀吉にも仕えました。能や茶の湯にも通じた教養人で、特に茶の湯は千利休の高弟「利休七哲」に数えられる程の数寄者でした。天正11年(1583)2月9日、津田宗及(つだそうきゅう)に招かれた茶会では、菓子の時に、むき栗とともに椿の花が出され、亭主から花を生けるよう求められた村重は、床に2本の椿を生け、見事にその趣向に応えています。 不可解な寝返り信長に重用され、摂津一国を任せられるまでになった村重ですが、天正6年(1578)10月、突如として信長に背き、居城有岡城に立て籠もります。村重は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)らによる度重なる説得にも応じず頑強に抵抗しますが、信長方の軍勢に囲まれて孤立し、翌年9月にはわずかな部下と名物茶器を携えて有岡城を脱出します。置き去りにされた妻子ら一族郎党は信長の命で皆殺しにされたといいます。村重自身はその後中国地方に落ち延び、本能寺の変で信長が討たれた後、堺(大阪府)に戻り、秀吉に召し出されました。謀反の理由については諸説ありますが、野心も才覚もある村重のこと、戦国の世に生まれた武将として、自ら天下取りを狙ったのかもしれません。妻子や部下を捨てても名物茶器は手放さないところは、当代一流の数寄者の意地といったところでしょうか。 串刺しの饅頭現代の私たちから見ると、身勝手なとんでもない人物ですが、江戸時代の人々の評判は悪くありません。没後100年以上たった正徳2年(1712)刊の『陰徳太平記』には、村重がはじめて信長に目通りした際のこととして、次のような逸話が収められています。 村重が信長の面前に出ると、信長は何を思ったか刀を抜いて盆の上の大饅頭を2つ3つ刺し貫き、「これこれ村重」と声をかけた。満座の人々が驚くなか、村重は「あっ」と答えてするすると近寄り、大口を開けてその饅頭を食おうとした。これを見た信長は日本一の器と賞賛し、腰に挿した脇差を授けた。 にわかに史実とは信じられませんが、信長の威圧に動じない村重の豪胆さを表わすこの逸話は、江戸後期の読本『絵本太閤記』や、それを題材にした錦絵(上図)にも取り入れられ、好評を博したようです。強大な権力者、信長に立ち向かった村重の反骨心は、部下や妻子を見捨てた卑怯さを差し引いてもなお、江戸庶民の心を捉えたのでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献瓦田昇『荒木村重研究序説』 海鳥社 1998年米原正義校訂『陰徳太平記』 東洋書院 1980年
樋口一葉と粟餅
十二月ノ内 霜月 酉のまち(吉田コレクション)夭折の女流作家小説家・歌人として知られる樋口一葉(ひぐちいちよう・1872~96)は、若くして父が死去したため、家計を支えようと文筆活動をはじめます。苦しい生活の中、24歳で亡くなるまで『にごりえ』や『うもれ木』といった優れた作品を発表しました。 一葉が見た酉の市一葉は明治26年(1893)に下谷龍泉町(台東区)に移り、生活費を得るため荒物兼駄菓子屋を開きます。ここでの生活を一葉は日記に書きとめているのですが、そこに「酉の市(とりのいち)」の記述が見えます。二の酉(11月20日)では、「にきはひ(賑わい)は此近年おほえぬ(憶えぬ)景気といへり 熊手かねもち大か(が)しらをはしめ(始め)延喜(縁起)物うる家の大方うり切れにならさるもなく」と書いています。現在も多くの人で賑わう酉の市ですが、縁起物が売り切れてしまったとのことですから、相当な人出だったようです。ところで今も売られる熊手や大がしら※と一緒に出てくる「かねもち」とはどのようなものでしょうか。 かねもちを食べて金持ちになるかねもちとは、粟餅(あわもち)のことで、粟が鮮やかな黄色をしているため、「金持(=黄金餅)」にかけたといわれます。今でいうなら金運アップの縁起物ということになるでしょうか。江戸時代には、酉の市を描いた多くの錦絵に粟餅を見ることができますが、明治時代も人気で、売り切れてしまうだけでなく、参拝客が法外な値段で買わされたりすることもあったようです。(錦絵中央の女性が粟餅を手にしています) 一葉は翌年に転居をしたため、彼女が体験した酉の市はこの年限りでした。しかし、代表作のひとつ『たけくらべ』のなかで、主人公の美登利の心が少女から大人の女性へと変化していくさまに合わせて、すさまじいほどの酉の市の盛況ぶりが描かれており、一葉の中で忘れられない祭りであったことが想像されます。酉の市の粟餅は、その後廃れてしまい、現在は見ることができません。ところで一葉は粟餅を食べたのでしょうか。残念ながら日記からは読み取れませんが、「かねもち」という響きは魅力的に聞こえていたかもしれませんね。 ※ 熊手や大がしら…熊手は「福をかき込む」、大がしらは「頭の芋(かしらのいも、とうのいも)」とも呼ばれる芋で、「人の頭に立つ」とされた。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献樋口一葉「塵中日記」(『樋口一葉全集』第3巻上 筑摩書房 1976年)
樋口一葉と粟餅
十二月ノ内 霜月 酉のまち(吉田コレクション)夭折の女流作家小説家・歌人として知られる樋口一葉(ひぐちいちよう・1872~96)は、若くして父が死去したため、家計を支えようと文筆活動をはじめます。苦しい生活の中、24歳で亡くなるまで『にごりえ』や『うもれ木』といった優れた作品を発表しました。 一葉が見た酉の市一葉は明治26年(1893)に下谷龍泉町(台東区)に移り、生活費を得るため荒物兼駄菓子屋を開きます。ここでの生活を一葉は日記に書きとめているのですが、そこに「酉の市(とりのいち)」の記述が見えます。二の酉(11月20日)では、「にきはひ(賑わい)は此近年おほえぬ(憶えぬ)景気といへり 熊手かねもち大か(が)しらをはしめ(始め)延喜(縁起)物うる家の大方うり切れにならさるもなく」と書いています。現在も多くの人で賑わう酉の市ですが、縁起物が売り切れてしまったとのことですから、相当な人出だったようです。ところで今も売られる熊手や大がしら※と一緒に出てくる「かねもち」とはどのようなものでしょうか。 かねもちを食べて金持ちになるかねもちとは、粟餅(あわもち)のことで、粟が鮮やかな黄色をしているため、「金持(=黄金餅)」にかけたといわれます。今でいうなら金運アップの縁起物ということになるでしょうか。江戸時代には、酉の市を描いた多くの錦絵に粟餅を見ることができますが、明治時代も人気で、売り切れてしまうだけでなく、参拝客が法外な値段で買わされたりすることもあったようです。(錦絵中央の女性が粟餅を手にしています) 一葉は翌年に転居をしたため、彼女が体験した酉の市はこの年限りでした。しかし、代表作のひとつ『たけくらべ』のなかで、主人公の美登利の心が少女から大人の女性へと変化していくさまに合わせて、すさまじいほどの酉の市の盛況ぶりが描かれており、一葉の中で忘れられない祭りであったことが想像されます。酉の市の粟餅は、その後廃れてしまい、現在は見ることができません。ところで一葉は粟餅を食べたのでしょうか。残念ながら日記からは読み取れませんが、「かねもち」という響きは魅力的に聞こえていたかもしれませんね。 ※ 熊手や大がしら…熊手は「福をかき込む」、大がしらは「頭の芋(かしらのいも、とうのいも)」とも呼ばれる芋で、「人の頭に立つ」とされた。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献樋口一葉「塵中日記」(『樋口一葉全集』第3巻上 筑摩書房 1976年)
那須与一資徳と饗応菓子
有平糖名族那須氏那須与一(なすのよいち)をご存知でしょうか?平安時代末期の源平合戦の折、文治元年(1185)屋島(高松市)で、平氏が船上に掲げた扇を見事射落とし、あっぱれ武士の鑑ともてはやされた人物です。 那須氏は平安時代から下野国那須郡(栃木県)を領した豪族で、その後も代々有力豪族として続いてきましたが、天正18年(1590)資晴の時、豊臣秀吉によって領地8万石を没収されました。しかし、名門の廃絶を惜しんだ秀吉は、後に5000石を与えて、家名を存続させました。那須氏は、江戸時代には再び2万石の大名となり、領地も那須郡烏山に復帰しています。 那須与一資徳(すけのり・1672~1708)と饗応菓子秀吉による家名再興以降、那須氏は当主の通り名(とおりな)を与一としています。もちろん源平合戦の那須与一にあやかってのことです。烏山藩2代藩主資徳も与一を名乗りました。与一は、弘前藩(青森県)4代藩主津軽信政の三男として生まれ、那須家の養子となり、貞享4年(1687)に藩主となりました。しかし、養子縁組に際して、養父の資弥(すけみつ)が存在を隠していた実子が、幕府に訴えるというお家騒動がおこり、藩は再びお取り潰しになり、与一は実家の津軽家江戸屋敷にお預けの身となっています。 父の信政は与一の無聊をなぐさめるためか、元禄7年(1694)閏5月に参勤交代に際して彼を弘前に連れて帰り、領内の神社仏閣参詣、温泉など津軽を楽しませています。与一が弘前を訪れた時には宴が催され、豪華な本膳料理でもてなされました。その時、出された菓子は、御茶菓子「はやこ餅」「こし小豆」「山のいも色付」、銘々菓子「ぎゆうひ」「あるへい」「おかぜ」です。「こし小豆」は漉し餡、「ぎゅうひ」は求肥で飴か餅菓子でしょうか、「あるへい」は南蛮菓子の有平糖です。山の芋は、津軽藩の江戸藩邸でも菓子としてよく使われていました。この内「こし小豆」は「はやこ餅」に付けたのかも知れません。 この菓子で気になるのは菓銘のことです。同時代の京都では雅な菓銘と美しい意匠の上菓子が大成していますが、ここでは求肥など菓子の種別が主に書かれています。「はやこ餅」「おかぜ」は菓銘のようには思えますが、詳細は不明です。この当時の弘前では菓銘は、まだ定着していないようです。ただし3年後の藩の日記には、「幾夜の友」「さざ波」などの菓銘が多く登場するので、ちょうど端境期だったのかも知れません。 この7年後、父信政の運動もあって、那須与一は1000石の旗本に取り立てられ、御家再興を果たしています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『弘前藩庁日記』青森県弘前図書館蔵『大名屋敷におけるサロン文化について-『弘前藩庁日記』を中心に』科学研究費補助金研究成果報告書 2005年岡崎寛徳『改易と御家再興』同成社 2007年
那須与一資徳と饗応菓子
有平糖名族那須氏那須与一(なすのよいち)をご存知でしょうか?平安時代末期の源平合戦の折、文治元年(1185)屋島(高松市)で、平氏が船上に掲げた扇を見事射落とし、あっぱれ武士の鑑ともてはやされた人物です。 那須氏は平安時代から下野国那須郡(栃木県)を領した豪族で、その後も代々有力豪族として続いてきましたが、天正18年(1590)資晴の時、豊臣秀吉によって領地8万石を没収されました。しかし、名門の廃絶を惜しんだ秀吉は、後に5000石を与えて、家名を存続させました。那須氏は、江戸時代には再び2万石の大名となり、領地も那須郡烏山に復帰しています。 那須与一資徳(すけのり・1672~1708)と饗応菓子秀吉による家名再興以降、那須氏は当主の通り名(とおりな)を与一としています。もちろん源平合戦の那須与一にあやかってのことです。烏山藩2代藩主資徳も与一を名乗りました。与一は、弘前藩(青森県)4代藩主津軽信政の三男として生まれ、那須家の養子となり、貞享4年(1687)に藩主となりました。しかし、養子縁組に際して、養父の資弥(すけみつ)が存在を隠していた実子が、幕府に訴えるというお家騒動がおこり、藩は再びお取り潰しになり、与一は実家の津軽家江戸屋敷にお預けの身となっています。 父の信政は与一の無聊をなぐさめるためか、元禄7年(1694)閏5月に参勤交代に際して彼を弘前に連れて帰り、領内の神社仏閣参詣、温泉など津軽を楽しませています。与一が弘前を訪れた時には宴が催され、豪華な本膳料理でもてなされました。その時、出された菓子は、御茶菓子「はやこ餅」「こし小豆」「山のいも色付」、銘々菓子「ぎゆうひ」「あるへい」「おかぜ」です。「こし小豆」は漉し餡、「ぎゅうひ」は求肥で飴か餅菓子でしょうか、「あるへい」は南蛮菓子の有平糖です。山の芋は、津軽藩の江戸藩邸でも菓子としてよく使われていました。この内「こし小豆」は「はやこ餅」に付けたのかも知れません。 この菓子で気になるのは菓銘のことです。同時代の京都では雅な菓銘と美しい意匠の上菓子が大成していますが、ここでは求肥など菓子の種別が主に書かれています。「はやこ餅」「おかぜ」は菓銘のようには思えますが、詳細は不明です。この当時の弘前では菓銘は、まだ定着していないようです。ただし3年後の藩の日記には、「幾夜の友」「さざ波」などの菓銘が多く登場するので、ちょうど端境期だったのかも知れません。 この7年後、父信政の運動もあって、那須与一は1000石の旗本に取り立てられ、御家再興を果たしています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『弘前藩庁日記』青森県弘前図書館蔵『大名屋敷におけるサロン文化について-『弘前藩庁日記』を中心に』科学研究費補助金研究成果報告書 2005年岡崎寛徳『改易と御家再興』同成社 2007年
ペリーと接待菓子
『友鏡』 獅子と牡丹を表裏に配した虎屋の干菓子。 「石橋」を題材にしており、木型には天保15年(1844)の年紀がある。日米和親条約を締結米国海軍軍人、マシュー・C・ペリー(Matthew Calbraith Perry・1794~1858)は、 嘉永6年(1853)浦賀沖に黒船を率いて来航、日本に開国を求め、翌年、日米和親条約を締結した人物です。 ペリー艦隊の軍事的威圧があったものの、交渉は平和裡に進み、幕府側は譲歩するかたちで合意に達しました。 この間、幕府はペリー一行を何度か日本料理でもてなしており、たとえば条約調印前の3月8日(旧暦2月10日)、 横浜で行なわれた饗宴については献立記録が残っています。これは伝統的な形式による本膳料理で、鯛鰭肉の吸い物や、 結び昆布の干肴、豚の煮物、平目の刺身、鮑や貝の膾(なます)など、ここでは書ききれないほどの様々な食材を使った 贅沢なものでした。料理は江戸日本橋に店を構えた有名な料亭、百川(ももかわ)に依頼しており、幕府は国の威厳を保とうと、 彩りも細工も美しい日本料理を用意したことが想像できます。 もてなしに使われた菓子餅菓子についても「四拾五匁形 一、海老糖 一、白石橋香 一、粕庭羅」とみえます。四十五匁は重さと考えられ、 計算すると約170gになり、かなり大ぶりです。詳しい記述がなく、意匠は菓銘や江戸時代の菓子絵図史料から 想像するしかないのですが、「海老糖」は海老の形、あるいは紅白の縞模様の有平糖(あるへいとう)かもしれません。 次の「白石橋香」(しろしゃっきょうこう)は、能の演目「石橋」にちなんだもので、白い落雁のような干菓子と思われます。 咲き匂う牡丹の間を獅子が舞う内容から、牡丹や獅子をモチーフにしていたのではないでしょうか。そして最後の粕庭羅、 つまりカステラは、異国人の嗜好を思っての配慮でしょう。なお記述から、カステラは横浜で作らせたもので、 ほかの菓子は江戸本町一丁目の鈴木屋清五郎(幕府御用を勤めた鈴木越後)に依頼したことがわかります。残念ながら当日のペリーの感想はありませんが、彼の日記には、接待される日本料理全般について 「…十分なものとは言えず、むしろご馳走も、料理法も、いつもまったく同じ性質のものであった。 全体からみて、美食の点においては、日本人やシナ人よりも琉球人の方に、私は決定的に軍配を挙げるのである」と書かれており、 日本のものはお気に召さなかったようです。日本人から見れば、高級食材を使った豪華な料理ですが、細工に凝った 小さなものばかりで肉の量も少なく、味も淡白で、ペリーの食欲を満たさなかったのかもしれません。 ところで菓子は300人分も用意されたとのこと。アメリカ人のなかには、和菓子の美しさや味わいに興味を持った人もいたのではと思いたくなります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『大日本古文書』...
ペリーと接待菓子
『友鏡』 獅子と牡丹を表裏に配した虎屋の干菓子。 「石橋」を題材にしており、木型には天保15年(1844)の年紀がある。日米和親条約を締結米国海軍軍人、マシュー・C・ペリー(Matthew Calbraith Perry・1794~1858)は、 嘉永6年(1853)浦賀沖に黒船を率いて来航、日本に開国を求め、翌年、日米和親条約を締結した人物です。 ペリー艦隊の軍事的威圧があったものの、交渉は平和裡に進み、幕府側は譲歩するかたちで合意に達しました。 この間、幕府はペリー一行を何度か日本料理でもてなしており、たとえば条約調印前の3月8日(旧暦2月10日)、 横浜で行なわれた饗宴については献立記録が残っています。これは伝統的な形式による本膳料理で、鯛鰭肉の吸い物や、 結び昆布の干肴、豚の煮物、平目の刺身、鮑や貝の膾(なます)など、ここでは書ききれないほどの様々な食材を使った 贅沢なものでした。料理は江戸日本橋に店を構えた有名な料亭、百川(ももかわ)に依頼しており、幕府は国の威厳を保とうと、 彩りも細工も美しい日本料理を用意したことが想像できます。 もてなしに使われた菓子餅菓子についても「四拾五匁形 一、海老糖 一、白石橋香 一、粕庭羅」とみえます。四十五匁は重さと考えられ、 計算すると約170gになり、かなり大ぶりです。詳しい記述がなく、意匠は菓銘や江戸時代の菓子絵図史料から 想像するしかないのですが、「海老糖」は海老の形、あるいは紅白の縞模様の有平糖(あるへいとう)かもしれません。 次の「白石橋香」(しろしゃっきょうこう)は、能の演目「石橋」にちなんだもので、白い落雁のような干菓子と思われます。 咲き匂う牡丹の間を獅子が舞う内容から、牡丹や獅子をモチーフにしていたのではないでしょうか。そして最後の粕庭羅、 つまりカステラは、異国人の嗜好を思っての配慮でしょう。なお記述から、カステラは横浜で作らせたもので、 ほかの菓子は江戸本町一丁目の鈴木屋清五郎(幕府御用を勤めた鈴木越後)に依頼したことがわかります。残念ながら当日のペリーの感想はありませんが、彼の日記には、接待される日本料理全般について 「…十分なものとは言えず、むしろご馳走も、料理法も、いつもまったく同じ性質のものであった。 全体からみて、美食の点においては、日本人やシナ人よりも琉球人の方に、私は決定的に軍配を挙げるのである」と書かれており、 日本のものはお気に召さなかったようです。日本人から見れば、高級食材を使った豪華な料理ですが、細工に凝った 小さなものばかりで肉の量も少なく、味も淡白で、ペリーの食欲を満たさなかったのかもしれません。 ところで菓子は300人分も用意されたとのこと。アメリカ人のなかには、和菓子の美しさや味わいに興味を持った人もいたのではと思いたくなります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『大日本古文書』...