虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
開高健と夜の梅
小形羊羹「夜の梅」名コピーライターから作家へ小説家・エッセイストとして人気を博した開高健(かいこうたけし・1930~1989)。大阪市に生まれ、大阪市立大学を卒業後、結婚して上京。寿屋(現サントリー)宣伝部に勤めていた時代のトリスウイスキーの名コピー“「人間」らしくやりたいナ”をご存知の方も多いことでしょう。昭和33年(1958)『裸の王様』で芥川賞を受賞。平成元年に58歳の若さで亡くなりましたが、ベトナム戦争に取材した『輝ける闇』『夏の闇』をはじめ、釣りや食に関するエッセイなど、幅広い知識とユーモアに裏打ちされた多くの作品は、今も読者を惹きつけてやみません。 羊羹とウイスキー寿屋に勤めていた時にPR誌『洋酒天国』を創刊、後年、ウイスキーのテレビCMにも出演した開高は、酒好きとして知られます。そんな彼が好んだ「ウイスキーのおいしい飲み方」は、ちょっと意外なものでした。作家の藤森益弘氏はエッセイの中で、CMの撮影でカナダに出かけた際、開高から部屋に呼ばれ、とらやの小形羊羹「夜の梅」とスコットランドのシングルモルトウイスキー「マッカラン」を渡されたことを記しています。 甘党でもあった僕は羊羹も好物のひとつだったが、ウイスキーといっしょにかじったことはなかった。しかし、これがうまかった。何とも絶妙な甘さが口の中に残り、文字通り甘美な陶酔に浸してくれた。「どや?」と開高さんに訊かれ、「いやぁ、いけます」と答えると、「そやろ」と満足気に笑みを浮かべられた。 羊羹とウイスキーなら何でも良いのではなく、夜の梅とマッカランでなくては「絶対あかんのや」と言った開高の教えを、氏はその後も守っているそうです。紛争の取材や釣りを目的に、世界を旅した開高健。彼の荷物の中には、小さな羊羹がいつもお供をしていたのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「ウイスキーと夜とジャズと」(『サントリークォータリー』76号 サントリーホールディングス 2004年)
開高健と夜の梅
小形羊羹「夜の梅」名コピーライターから作家へ小説家・エッセイストとして人気を博した開高健(かいこうたけし・1930~1989)。大阪市に生まれ、大阪市立大学を卒業後、結婚して上京。寿屋(現サントリー)宣伝部に勤めていた時代のトリスウイスキーの名コピー“「人間」らしくやりたいナ”をご存知の方も多いことでしょう。昭和33年(1958)『裸の王様』で芥川賞を受賞。平成元年に58歳の若さで亡くなりましたが、ベトナム戦争に取材した『輝ける闇』『夏の闇』をはじめ、釣りや食に関するエッセイなど、幅広い知識とユーモアに裏打ちされた多くの作品は、今も読者を惹きつけてやみません。 羊羹とウイスキー寿屋に勤めていた時にPR誌『洋酒天国』を創刊、後年、ウイスキーのテレビCMにも出演した開高は、酒好きとして知られます。そんな彼が好んだ「ウイスキーのおいしい飲み方」は、ちょっと意外なものでした。作家の藤森益弘氏はエッセイの中で、CMの撮影でカナダに出かけた際、開高から部屋に呼ばれ、とらやの小形羊羹「夜の梅」とスコットランドのシングルモルトウイスキー「マッカラン」を渡されたことを記しています。 甘党でもあった僕は羊羹も好物のひとつだったが、ウイスキーといっしょにかじったことはなかった。しかし、これがうまかった。何とも絶妙な甘さが口の中に残り、文字通り甘美な陶酔に浸してくれた。「どや?」と開高さんに訊かれ、「いやぁ、いけます」と答えると、「そやろ」と満足気に笑みを浮かべられた。 羊羹とウイスキーなら何でも良いのではなく、夜の梅とマッカランでなくては「絶対あかんのや」と言った開高の教えを、氏はその後も守っているそうです。紛争の取材や釣りを目的に、世界を旅した開高健。彼の荷物の中には、小さな羊羹がいつもお供をしていたのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「ウイスキーと夜とジャズと」(『サントリークォータリー』76号 サントリーホールディングス 2004年)
頼山陽と小倉野
儒学者頼山陽『日本外史』の著者として知られる頼山陽(らいさんよう・1780~1832)は、広島藩浅野家に仕えた儒学者の家の跡取りでした。しかし、若い頃に脱藩したこともあり、家を継ぐことができなくなってしまいます。後に京都に出て私塾を開いた山陽は、父の春水(しゅんすい)亡き後、広島の実家を守る母梅し(ばいし:「し」は風に思)へ、たびたび菓子を送るなど孝行に励みました。山陽が送った菓子には、干菓子や洲浜※1のほか、大坂の虎屋伊織の名物饅頭や、虎屋(弊社)のものとも考えられる「夜の梅」という菓子の名も見えます。頼家では、年間を通して歴代の当主や広島藩主にまつわる儒教の祭祀が行なわれ、菓子を添えた膳が用意されました。菓子は自家製のほか広島の菓子屋に頼む場合もありましたが、山陽や親戚などからの到来品も多く使われています。山陽が送った菓子の添え状にも、父の一年祭(一周忌)に供えてくれるようになどとあり、母の菓子調達を助けようという心遣いが感じられます。 母に食べて欲しい山陽は母自身に菓子を味わって欲しいとの思いも持っていたようで、特に小倉野※2という菓子を送った際の書状からそれが強く感じられます。たとえば文政3年(1820)4月の書状には、梅しがすぐに他人にあげてしまうので、饅頭を添えたとあります。その饅頭を贈答に使い、小倉野は自分で食べるようにと念を押しています。また、天保元年(1830)3月の書状には、入手した小倉野が新しいもののようなので今日早速送ったとあり、次いで「惜しがらずに食べてください。しまい込まれたあげく知らない客に出されるのは私の本意ではありません」とまで述べています。せっかく送った菓子が梅しの口に入らないことがたびたびあったのでしょう。小倉野は、山陽から年に6回も送られたことのある菓子で、梅しの好物だったのかもしれません。山陽の手紙からは母への思いやりが伝わるとともに、菓子をめぐるほほえましい母子のやりとりが読み取れ、温かい気持ちになります。 ※1 きな粉を水飴で練り固めた菓子。豆飴ともいう。※2 蜜煮にした小豆を餡玉につけた菓子。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献徳富猪一郎ほか編『頼山陽書翰集』上、下、続巻 1927~29年
頼山陽と小倉野
儒学者頼山陽『日本外史』の著者として知られる頼山陽(らいさんよう・1780~1832)は、広島藩浅野家に仕えた儒学者の家の跡取りでした。しかし、若い頃に脱藩したこともあり、家を継ぐことができなくなってしまいます。後に京都に出て私塾を開いた山陽は、父の春水(しゅんすい)亡き後、広島の実家を守る母梅し(ばいし:「し」は風に思)へ、たびたび菓子を送るなど孝行に励みました。山陽が送った菓子には、干菓子や洲浜※1のほか、大坂の虎屋伊織の名物饅頭や、虎屋(弊社)のものとも考えられる「夜の梅」という菓子の名も見えます。頼家では、年間を通して歴代の当主や広島藩主にまつわる儒教の祭祀が行なわれ、菓子を添えた膳が用意されました。菓子は自家製のほか広島の菓子屋に頼む場合もありましたが、山陽や親戚などからの到来品も多く使われています。山陽が送った菓子の添え状にも、父の一年祭(一周忌)に供えてくれるようになどとあり、母の菓子調達を助けようという心遣いが感じられます。 母に食べて欲しい山陽は母自身に菓子を味わって欲しいとの思いも持っていたようで、特に小倉野※2という菓子を送った際の書状からそれが強く感じられます。たとえば文政3年(1820)4月の書状には、梅しがすぐに他人にあげてしまうので、饅頭を添えたとあります。その饅頭を贈答に使い、小倉野は自分で食べるようにと念を押しています。また、天保元年(1830)3月の書状には、入手した小倉野が新しいもののようなので今日早速送ったとあり、次いで「惜しがらずに食べてください。しまい込まれたあげく知らない客に出されるのは私の本意ではありません」とまで述べています。せっかく送った菓子が梅しの口に入らないことがたびたびあったのでしょう。小倉野は、山陽から年に6回も送られたことのある菓子で、梅しの好物だったのかもしれません。山陽の手紙からは母への思いやりが伝わるとともに、菓子をめぐるほほえましい母子のやりとりが読み取れ、温かい気持ちになります。 ※1 きな粉を水飴で練り固めた菓子。豆飴ともいう。※2 蜜煮にした小豆を餡玉につけた菓子。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献徳富猪一郎ほか編『頼山陽書翰集』上、下、続巻 1927~29年
松平春嶽と蓬が嶋
現在の『蓬が嶋』 撮影:小山雄司郎幕末の名君福井藩主松平春嶽(まつだいらしゅんがく・1828~90)は、幕末の名君として大河ドラマなどでもおなじみの人物です。政争のため31歳の若さで藩主を退きましたが、のちに政界に復帰。政事総裁職や京都守護職など要職に就き、幕府の建て直しに尽力しました。強面な印象が強い春嶽ですが、情に篤い人でもありました。結婚前、許婚(いいなずけ)である熊本藩細川家の勇姫(いさひめ)が疱瘡(ほうそう=天然痘・てんねんとう)にかかり、細川家から婚約を辞退する旨の申し入れがあった際には、「心が美しければ、いささかも気に留めることはない」と言って婚儀を進めさせました。病が癒え、妻となった勇姫は、夫をよく助け質素倹約に努めたといいます。また、春嶽も公務のため京都に赴いた際には夫人宛に日記をしたためており、勇姫を大切にしていたことがうかがえます※1。 子持饅頭を夫人に送る春嶽の記した日記の記述のほとんどは政治を巡るものでしたが、福井で暮らす家族とさかんに贈り物のやりとりをしたことも書かれています。慶応3年(1867)5月21日、春嶽は京都で明治天皇に拝謁し、羊羹、酒、肴などを頂戴します。早速、勇姫に送ろうとしますが、羊羹が『少々損』じていたため、代わりに公家の近衛忠熙(このえただひろ)から届けられた「蓬が嶋(よもがしま)」を送っています。日記には「蓬が嶋」の詳細は書かれていませんが、虎屋には、大形の饅頭に小饅頭が入った同名の菓子があり、忠熙の曽祖父、近衛内前(このえうちさき)から御銘を賜っています。春嶽に届けられたものも恐らく虎屋製でしょう。ちなみに御銘の記録には、中の小饅頭には小倉餡を、大饅頭には栗の粉あるいはお好みで白餡を詰めるという添え書きがあり※2、現在作られているもの(写真の『蓬が嶋』)とはずいぶん違うことがわかります。京都から珍しい菓子が送られ、勇姫はきっと嬉しかったことでしょう。喜ぶ顔が目に浮かぶようです。 ※1 文久3年(1863)「都の日記」(『松平春嶽全集』第4巻 原書房 1973年)、慶応3年(1867)「京都日記」(『福井県史』資料編3 中・近世1 福井県 1982年)。日記の終わりには「いさ姫とのへ」とある。※2 (蓬可島御銘頂戴書)宝暦12年(1762) 虎屋黒川家文書 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
松平春嶽と蓬が嶋
現在の『蓬が嶋』 撮影:小山雄司郎幕末の名君福井藩主松平春嶽(まつだいらしゅんがく・1828~90)は、幕末の名君として大河ドラマなどでもおなじみの人物です。政争のため31歳の若さで藩主を退きましたが、のちに政界に復帰。政事総裁職や京都守護職など要職に就き、幕府の建て直しに尽力しました。強面な印象が強い春嶽ですが、情に篤い人でもありました。結婚前、許婚(いいなずけ)である熊本藩細川家の勇姫(いさひめ)が疱瘡(ほうそう=天然痘・てんねんとう)にかかり、細川家から婚約を辞退する旨の申し入れがあった際には、「心が美しければ、いささかも気に留めることはない」と言って婚儀を進めさせました。病が癒え、妻となった勇姫は、夫をよく助け質素倹約に努めたといいます。また、春嶽も公務のため京都に赴いた際には夫人宛に日記をしたためており、勇姫を大切にしていたことがうかがえます※1。 子持饅頭を夫人に送る春嶽の記した日記の記述のほとんどは政治を巡るものでしたが、福井で暮らす家族とさかんに贈り物のやりとりをしたことも書かれています。慶応3年(1867)5月21日、春嶽は京都で明治天皇に拝謁し、羊羹、酒、肴などを頂戴します。早速、勇姫に送ろうとしますが、羊羹が『少々損』じていたため、代わりに公家の近衛忠熙(このえただひろ)から届けられた「蓬が嶋(よもがしま)」を送っています。日記には「蓬が嶋」の詳細は書かれていませんが、虎屋には、大形の饅頭に小饅頭が入った同名の菓子があり、忠熙の曽祖父、近衛内前(このえうちさき)から御銘を賜っています。春嶽に届けられたものも恐らく虎屋製でしょう。ちなみに御銘の記録には、中の小饅頭には小倉餡を、大饅頭には栗の粉あるいはお好みで白餡を詰めるという添え書きがあり※2、現在作られているもの(写真の『蓬が嶋』)とはずいぶん違うことがわかります。京都から珍しい菓子が送られ、勇姫はきっと嬉しかったことでしょう。喜ぶ顔が目に浮かぶようです。 ※1 文久3年(1863)「都の日記」(『松平春嶽全集』第4巻 原書房 1973年)、慶応3年(1867)「京都日記」(『福井県史』資料編3 中・近世1 福井県 1982年)。日記の終わりには「いさ姫とのへ」とある。※2 (蓬可島御銘頂戴書)宝暦12年(1762) 虎屋黒川家文書 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
夏目漱石と越後の笹飴
画像提供:株式会社 髙橋孫左衛門商店明治の大文豪と主治医『吾輩は猫である』『三四郎』などの名作を残し、根強い人気を誇る夏目漱石(1867~1916)。明治43年(1910)8月、漱石は修善寺で胃潰瘍の療養中に大量に血を吐き、重態に陥ってしまいます。このとき東京の長与胃腸病院から派遣され、以降、治療にあたったのが医師の森成麟造(もりなりりんぞう・1884~1955)でした。数ヶ月におよぶ修善寺での闘病中、森成は、病床の花がしぼむと裏山から季節の草花を摘んできてくれて、また散策の折にはあけびなどを持ち帰って見せることもあったそうです。こうした心遣いは病人の無聊(ぶりょう)を大いになぐさめたことでしょう。森成の尽力により、漱石は少しずつ体調を回復し、10月には修善寺から長与胃腸病院へと移ることができました。療養中の食事は、オートミールやソーダビスケットなど消化にいいものが選ばれ、東京に戻ってからは、森成の出身地である新潟県の名物「越後高田の翁飴」や「越後の笹飴」が出ることもありました。翁飴は水飴を寒天で固めたもの。笹飴も煉り上げた水飴を熊笹の葉で挟んだものです。粟やもち米を使った水飴から作られる菓子なので、胃腸に優しく、森成も安心してすすめることができたのでしょう。漱石は、森成の手厚い看護に大いに感じ入るものがあったようで、帰京後、「朝寒も夜寒も人の情けかな」の句を彫った銀製の煙草入れを贈っています。 思い出の笹飴森成は翌年、新潟県高田市に戻り医院を開業します。両者の交流は続き、漱石は森成の依頼をうけ高田市での講演会に出向くこともあり、森成からは海産物のほか、笹飴・笹粽・笹餅といった名物菓子がたびたび送られました。たとえば、大正2年(1913)1月13日付で、漱石は森成宛に笹飴の礼状を出しています。自分は1つ食べただけで、あとは子どもが食べてしまい、「笹を座敷中へ散らばしていやはや大変な有様です」と書かれており、遠来の菓子をめぐって子どもたちが大騒ぎしている楽しい家庭の様子がうかがえます。その一方で、漱石は、笹飴を食べる折々に、修善寺や長与胃腸病院での日々を感慨深く思い出したことではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『漱石全集』第25・26・30巻 岩波書店
夏目漱石と越後の笹飴
画像提供:株式会社 髙橋孫左衛門商店明治の大文豪と主治医『吾輩は猫である』『三四郎』などの名作を残し、根強い人気を誇る夏目漱石(1867~1916)。明治43年(1910)8月、漱石は修善寺で胃潰瘍の療養中に大量に血を吐き、重態に陥ってしまいます。このとき東京の長与胃腸病院から派遣され、以降、治療にあたったのが医師の森成麟造(もりなりりんぞう・1884~1955)でした。数ヶ月におよぶ修善寺での闘病中、森成は、病床の花がしぼむと裏山から季節の草花を摘んできてくれて、また散策の折にはあけびなどを持ち帰って見せることもあったそうです。こうした心遣いは病人の無聊(ぶりょう)を大いになぐさめたことでしょう。森成の尽力により、漱石は少しずつ体調を回復し、10月には修善寺から長与胃腸病院へと移ることができました。療養中の食事は、オートミールやソーダビスケットなど消化にいいものが選ばれ、東京に戻ってからは、森成の出身地である新潟県の名物「越後高田の翁飴」や「越後の笹飴」が出ることもありました。翁飴は水飴を寒天で固めたもの。笹飴も煉り上げた水飴を熊笹の葉で挟んだものです。粟やもち米を使った水飴から作られる菓子なので、胃腸に優しく、森成も安心してすすめることができたのでしょう。漱石は、森成の手厚い看護に大いに感じ入るものがあったようで、帰京後、「朝寒も夜寒も人の情けかな」の句を彫った銀製の煙草入れを贈っています。 思い出の笹飴森成は翌年、新潟県高田市に戻り医院を開業します。両者の交流は続き、漱石は森成の依頼をうけ高田市での講演会に出向くこともあり、森成からは海産物のほか、笹飴・笹粽・笹餅といった名物菓子がたびたび送られました。たとえば、大正2年(1913)1月13日付で、漱石は森成宛に笹飴の礼状を出しています。自分は1つ食べただけで、あとは子どもが食べてしまい、「笹を座敷中へ散らばしていやはや大変な有様です」と書かれており、遠来の菓子をめぐって子どもたちが大騒ぎしている楽しい家庭の様子がうかがえます。その一方で、漱石は、笹飴を食べる折々に、修善寺や長与胃腸病院での日々を感慨深く思い出したことではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『漱石全集』第25・26・30巻 岩波書店
松江重頼と諸国名物菓子
平野飴 『日本山海名物図会』(1754)より異端の俳人松江重頼(まつえしげより・1602~1680)は江戸時代前期の京都の俳人です。庶民的な作風を特徴とする貞門俳諧の祖、松永貞徳(まつながていとく)の門下で学びましたが、寛永10年(1633)に俳論書『犬子集(えのこしゅう)』の編集をめぐって対立がおこり、破門されました。才能豊かな切れ者とはいえ、性格は頑固で、師匠や先輩、同輩とうまく折り合わなかったことが背景にあるようです。しかし、その後、独自に編集した『毛吹草(けふきぐさ)』(1638年自序)は、優れた俳諧資料集として高い評価を得、今日まで読み継がれています。 諸国の名物菓子も掲載『毛吹草』は7巻5冊からなります。貞門俳諧の作法について論じ、句作に用いる言葉を集め、句作例を四季別に分けるなど、今日の歳時記に通じるおもしろさがありますが、ここで特に注目したいのは巻4の諸国名物です。古今の名物となる産物、食品、工芸品などが国別に列記されており、菓子も40あまり掲載されています。たとえば山城〔京都〕では、南蛮菓子、みずから〔昆布菓子〕、編笠団子、洲浜、おこし、内裏粽、ふのやき、桂飴、粟餅、御手洗団子、大仏餅、染団子、鶉餅などがあがります。みずからや染団子などは、もはや目にすることはありませんが、桂飴〔桂離宮近く〕、粟餅〔北野天神近く〕や御手洗団子〔下鴨神社〕などは、今なお京都の名菓として知られており、作り続けられていることに嬉しくなります。一方、ほかの地域では、大和〔奈良〕の饅頭、河内〔大阪〕の平野飴、摂津〔大阪〕の御祓団子・烏帽子飴、伊勢〔三重〕のおこし米、遠江〔静岡〕の葛餅、駿河〔静岡〕の十団子(とおだんご)、近江〔滋賀〕の袖解餅(そでときもち)・柳団子、加賀〔石川〕の煎餅、土佐〔高知〕の大米餅(「たいたうもち」)などがあります。平野飴は現在もあるが、烏帽子飴は消滅か? 袖解餅はどんな餅だろう、といった疑問がわいてきて、興味深いものです。重頼は各地を行脚し、諸国の名物を見聞したといわれており、人気の菓子に舌鼓を打ったこともあったと思われます。本人は句作の参考にと思って書き留めたのかもしれませんが、菓子研究の視点から見れば、同書は370年以上も昔の名物菓子を掲載した貴重な資料といえるでしょう。重頼の功績を讃えるとともに、記載されている謎の菓子が再び名物として、蘇ってくれないものかと願いたくなります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献新村出校閲・竹内若校訂『毛吹草』 岩波文庫 2000年
松江重頼と諸国名物菓子
平野飴 『日本山海名物図会』(1754)より異端の俳人松江重頼(まつえしげより・1602~1680)は江戸時代前期の京都の俳人です。庶民的な作風を特徴とする貞門俳諧の祖、松永貞徳(まつながていとく)の門下で学びましたが、寛永10年(1633)に俳論書『犬子集(えのこしゅう)』の編集をめぐって対立がおこり、破門されました。才能豊かな切れ者とはいえ、性格は頑固で、師匠や先輩、同輩とうまく折り合わなかったことが背景にあるようです。しかし、その後、独自に編集した『毛吹草(けふきぐさ)』(1638年自序)は、優れた俳諧資料集として高い評価を得、今日まで読み継がれています。 諸国の名物菓子も掲載『毛吹草』は7巻5冊からなります。貞門俳諧の作法について論じ、句作に用いる言葉を集め、句作例を四季別に分けるなど、今日の歳時記に通じるおもしろさがありますが、ここで特に注目したいのは巻4の諸国名物です。古今の名物となる産物、食品、工芸品などが国別に列記されており、菓子も40あまり掲載されています。たとえば山城〔京都〕では、南蛮菓子、みずから〔昆布菓子〕、編笠団子、洲浜、おこし、内裏粽、ふのやき、桂飴、粟餅、御手洗団子、大仏餅、染団子、鶉餅などがあがります。みずからや染団子などは、もはや目にすることはありませんが、桂飴〔桂離宮近く〕、粟餅〔北野天神近く〕や御手洗団子〔下鴨神社〕などは、今なお京都の名菓として知られており、作り続けられていることに嬉しくなります。一方、ほかの地域では、大和〔奈良〕の饅頭、河内〔大阪〕の平野飴、摂津〔大阪〕の御祓団子・烏帽子飴、伊勢〔三重〕のおこし米、遠江〔静岡〕の葛餅、駿河〔静岡〕の十団子(とおだんご)、近江〔滋賀〕の袖解餅(そでときもち)・柳団子、加賀〔石川〕の煎餅、土佐〔高知〕の大米餅(「たいたうもち」)などがあります。平野飴は現在もあるが、烏帽子飴は消滅か? 袖解餅はどんな餅だろう、といった疑問がわいてきて、興味深いものです。重頼は各地を行脚し、諸国の名物を見聞したといわれており、人気の菓子に舌鼓を打ったこともあったと思われます。本人は句作の参考にと思って書き留めたのかもしれませんが、菓子研究の視点から見れば、同書は370年以上も昔の名物菓子を掲載した貴重な資料といえるでしょう。重頼の功績を讃えるとともに、記載されている謎の菓子が再び名物として、蘇ってくれないものかと願いたくなります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献新村出校閲・竹内若校訂『毛吹草』 岩波文庫 2000年
野崎幻庵と茶席の菓子
道明寺粉と寒天を使った菓子『水の宿』茶人幻庵野崎廣太(こうた・1859~1941)は、中外商業新報社(日本経済新聞社の前身)、三越呉服店(現三越伊勢丹)の社長を務めた実業家でした。彼が新聞社時代から連載を始めた茶会記事は、『茶会漫録』として刊行されています。高橋箒庵(そうあん)の茶道記群とともに、当時の茶道界の興隆を今に伝える貴重な資料です。茶名は茶の先達、益田鈍翁(どんのう)によって名付けられた箱根湯本の茶室「幻庵(げんあん)」を使いました。引退後は小田原に住み、鈍翁、松永耳庵(じあん)とともに小田原三大茶人の一人に数えられています。自ら設計した茶室「葉雨庵(よううあん)」は国の登録有形文化財に指定され、松永記念館敷地内に移築・保存されています。 幻庵の懐石の一例明治44年(1911)11月10日、湯本の「幻庵」で行なわれた観楓茶会では、懐石の最初から箱根の寄木細工の膳に、飯椀、汁椀、煮物椀の3つの椀物を出しました。普通であれば、煮物椀ではなく、新鮮な魚などを使った向付が出るはずです。あくまで山中での趣向としたかったのでしょう。口の悪い茶友からは「三椀鼎足の状を為したるは最も振るった野崎式」と揶揄され、箒庵にも「幻庵の茶会とかけて何と解く、犬の鳴き声と解く、心はワンワンワン」と言われる始末です。菓子には峠の茶屋の力餅。実にセンスがあります。峠の茶屋とは湯本から箱根越えの畑宿の茶屋で、膳に使われた箱根の寄木細工の名産地です。当時の力餅がどのようなものだったのか、分かりませんが、現在の畑宿の茶屋では、切り餅を使った「いそべ」、甘い青きな粉をまぶした「うぐいす」、さらにすり立ての黒胡麻を加えた「黒胡麻」の3種類が振る舞われています。 夏に向けての菓子五月雨の中、梅雨の中、そしてたっぷり露地に水を撒く夏の会と、夏に向かう幻庵の会記を見ると、濡れた露地や敷石を思わせるような、涼やかな菓子が登場します。派手さはないかもしれませんが、道明寺羹※や道明寺饅頭。これらはみぞれのようにも見えることから、みぞれ羹とも呼ばれています。その他、瑞々しい水羊羹、葛餅などが使われています。幻庵が理想とした菓子は、季節の移ろいや、茶席にちなんだ、日常の中にある事象やちょっとした変化を楽しむ、さりげないものだったのでしょう。 ※ 寒天を溶かして白双糖を加え、水で柔らかくした道明寺粉を混ぜ、枠や瀬戸型に流して固めたもの。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献野崎廣太『茶会漫録』全13巻 中外商業新報社 1912~1927年
野崎幻庵と茶席の菓子
道明寺粉と寒天を使った菓子『水の宿』茶人幻庵野崎廣太(こうた・1859~1941)は、中外商業新報社(日本経済新聞社の前身)、三越呉服店(現三越伊勢丹)の社長を務めた実業家でした。彼が新聞社時代から連載を始めた茶会記事は、『茶会漫録』として刊行されています。高橋箒庵(そうあん)の茶道記群とともに、当時の茶道界の興隆を今に伝える貴重な資料です。茶名は茶の先達、益田鈍翁(どんのう)によって名付けられた箱根湯本の茶室「幻庵(げんあん)」を使いました。引退後は小田原に住み、鈍翁、松永耳庵(じあん)とともに小田原三大茶人の一人に数えられています。自ら設計した茶室「葉雨庵(よううあん)」は国の登録有形文化財に指定され、松永記念館敷地内に移築・保存されています。 幻庵の懐石の一例明治44年(1911)11月10日、湯本の「幻庵」で行なわれた観楓茶会では、懐石の最初から箱根の寄木細工の膳に、飯椀、汁椀、煮物椀の3つの椀物を出しました。普通であれば、煮物椀ではなく、新鮮な魚などを使った向付が出るはずです。あくまで山中での趣向としたかったのでしょう。口の悪い茶友からは「三椀鼎足の状を為したるは最も振るった野崎式」と揶揄され、箒庵にも「幻庵の茶会とかけて何と解く、犬の鳴き声と解く、心はワンワンワン」と言われる始末です。菓子には峠の茶屋の力餅。実にセンスがあります。峠の茶屋とは湯本から箱根越えの畑宿の茶屋で、膳に使われた箱根の寄木細工の名産地です。当時の力餅がどのようなものだったのか、分かりませんが、現在の畑宿の茶屋では、切り餅を使った「いそべ」、甘い青きな粉をまぶした「うぐいす」、さらにすり立ての黒胡麻を加えた「黒胡麻」の3種類が振る舞われています。 夏に向けての菓子五月雨の中、梅雨の中、そしてたっぷり露地に水を撒く夏の会と、夏に向かう幻庵の会記を見ると、濡れた露地や敷石を思わせるような、涼やかな菓子が登場します。派手さはないかもしれませんが、道明寺羹※や道明寺饅頭。これらはみぞれのようにも見えることから、みぞれ羹とも呼ばれています。その他、瑞々しい水羊羹、葛餅などが使われています。幻庵が理想とした菓子は、季節の移ろいや、茶席にちなんだ、日常の中にある事象やちょっとした変化を楽しむ、さりげないものだったのでしょう。 ※ 寒天を溶かして白双糖を加え、水で柔らかくした道明寺粉を混ぜ、枠や瀬戸型に流して固めたもの。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献野崎廣太『茶会漫録』全13巻 中外商業新報社 1912~1927年