虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
久保田万太郎と浅草名物
「東京浅草観世音並公園地煉瓦屋新築繁盛新地遠景之図」(部分) 明治19年(1886)、国立国会図書館蔵 石畳の両側に煉瓦造りの土産店が並ぶ、明治時代の仲見世の様子下町育ち俳人の久保田万太郎(くぼたまんたろう・1889~1963)は、明治22年、浅草・田原町に生まれ、青年期までを過ごした生っ粋の下町っ子です。この土地のもつ風情や下町ならではの人情の機微に深く心を寄せ、俳句や小説、芝居の題材としました。また、浅草の初夏を象徴する三社祭で知られる浅草神社には、「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」との代表句を刻んだ碑が建っています。 浅草名物・人形焼ゆかりの地、浅草で、観光客がもっとも多く訪れる場所といえば浅草寺でしょう。雷門から本堂へと続く仲見世にはさまざまな土産物の店が並び、にぎわっています。今回は、万太郎が書き残した仲見世名物をご紹介しましょう。まずは、お土産の定番である人形焼。昭和2年(1927)に書かれた随筆「雷門以北」には、「名所焼」の名で登場します。提灯や鳩、五重塔といった浅草寺を連想させるモチーフをかたどったもので、明治時代の末、パンの木村屋が売り出したのがはじまりだそうです。白いシャツ一枚の職人が「カンカン熾(おこ)つた炭火のまへにまのあたりにそれを焼いてみせる」のが人気を呼び、類似の菓子を扱う店も出てきたと書かれています。今でも実演販売をする店があり、手際の良い職人技につい見入ってしまう方も多いのではないでしょうか。 思い出の紅梅焼屋戦後、昭和30年(1955)に新聞に連載した小文「町々…… 人々……」では、紅梅焼の店を取り上げています。紅梅焼は、江戸時代後期の『守貞謾稿』にも名が見える小麦粉生地の煎餅で、砂糖を加えた生地を薄くのばし、梅の形にして両面を香ばしく焼いたものです。万太郎は、太平洋戦争以降、売る店が姿を消してしまったといい、在りし日の様子を回想しています。明治時代の末まで、仲見世では、5、6人の若い娘が、店頭の長火鉢に載せた鉄板に向かい合って紅梅焼を焼くのが名物だったとのこと。島田髷を結った娘たちのトレードマークは赤い襷で、ヤキモチヤキの奥さんを指して、「紅梅焼やのねエさんで、タスキがけで焼いている」とからかう洒落もあったとありますから、よほど知られた存在だったようです。また、「お梅さん」という評判の美人がいたのだとか。美人が焼く煎餅は、おいしさもひとしおだったことでしょう。万太郎の筆からは、往時のにぎわいが伝わってきます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「雷門以北」「町々…… 人々……」(『久保田万太郎全集』第10巻 中央公論社 1967年)
久保田万太郎と浅草名物
「東京浅草観世音並公園地煉瓦屋新築繁盛新地遠景之図」(部分) 明治19年(1886)、国立国会図書館蔵 石畳の両側に煉瓦造りの土産店が並ぶ、明治時代の仲見世の様子下町育ち俳人の久保田万太郎(くぼたまんたろう・1889~1963)は、明治22年、浅草・田原町に生まれ、青年期までを過ごした生っ粋の下町っ子です。この土地のもつ風情や下町ならではの人情の機微に深く心を寄せ、俳句や小説、芝居の題材としました。また、浅草の初夏を象徴する三社祭で知られる浅草神社には、「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」との代表句を刻んだ碑が建っています。 浅草名物・人形焼ゆかりの地、浅草で、観光客がもっとも多く訪れる場所といえば浅草寺でしょう。雷門から本堂へと続く仲見世にはさまざまな土産物の店が並び、にぎわっています。今回は、万太郎が書き残した仲見世名物をご紹介しましょう。まずは、お土産の定番である人形焼。昭和2年(1927)に書かれた随筆「雷門以北」には、「名所焼」の名で登場します。提灯や鳩、五重塔といった浅草寺を連想させるモチーフをかたどったもので、明治時代の末、パンの木村屋が売り出したのがはじまりだそうです。白いシャツ一枚の職人が「カンカン熾(おこ)つた炭火のまへにまのあたりにそれを焼いてみせる」のが人気を呼び、類似の菓子を扱う店も出てきたと書かれています。今でも実演販売をする店があり、手際の良い職人技につい見入ってしまう方も多いのではないでしょうか。 思い出の紅梅焼屋戦後、昭和30年(1955)に新聞に連載した小文「町々…… 人々……」では、紅梅焼の店を取り上げています。紅梅焼は、江戸時代後期の『守貞謾稿』にも名が見える小麦粉生地の煎餅で、砂糖を加えた生地を薄くのばし、梅の形にして両面を香ばしく焼いたものです。万太郎は、太平洋戦争以降、売る店が姿を消してしまったといい、在りし日の様子を回想しています。明治時代の末まで、仲見世では、5、6人の若い娘が、店頭の長火鉢に載せた鉄板に向かい合って紅梅焼を焼くのが名物だったとのこと。島田髷を結った娘たちのトレードマークは赤い襷で、ヤキモチヤキの奥さんを指して、「紅梅焼やのねエさんで、タスキがけで焼いている」とからかう洒落もあったとありますから、よほど知られた存在だったようです。また、「お梅さん」という評判の美人がいたのだとか。美人が焼く煎餅は、おいしさもひとしおだったことでしょう。万太郎の筆からは、往時のにぎわいが伝わってきます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「雷門以北」「町々…… 人々……」(『久保田万太郎全集』第10巻 中央公論社 1967年)
斎藤松洲と「目食帖」
「目食帖」 東京都江戸東京博物館蔵「目」で味わういただき物の食品を日々絵で記録した、「目食帖(もくしきじょう)」という写生帖があります。明治42年(1909)から昭和9年(1934)までの25年間にわたって描かれており、65冊に及ぶ冊子のどの頁も、食品のスケッチでびっしりと埋められています。果物や野菜、干物、漬物、そして当時も贈り物の定番であった菓子の数々が、墨と淡い色彩によって描かれ、その名の通り「目」で贈答品を味わうことができる楽しい帳面です。描いたのは日本画家の斎藤松洲(さいとうしょうしゅう・1870~1934)、明治の終わりから昭和の初めにかけて本の装丁家や挿絵家として活躍した人物です。しかしながら現在目にすることができる画集は大正5年(1916)刊行の『仰山閣画譜(ぎょうざんかくがふ)』のみとなっており、作品についても人物に関しても、あまり資料は残っていません。筆遣いの変化や交友範囲の広さがうかがえる「目食帖」は、そういった意味でも貴重な資料といえるでしょう。 松洲と虎屋の菓子描き写された食品の中には、虎屋の包装紙に包まれたものや、木箱に入った『夜の梅』『おもかげ』なども見られます。また、杜若(かきつばた)をかたどった菓子と、菊花紋を中心に置いた長方形の菓子がセットで描かれた頁があり、こちらもそれぞれ虎屋の『三河の沢(みかわのさわ)』(三河は現在の愛知県)と『九重(ここのえ)』だと思われます。「明治四十四年五月十三日」の日付、送り主の名前(「佐藤忠蔵氏」か)とともに「両陛下ニ拝謁之節下賜 佐藤氏より分與を受く」と書き添えられおり、「佐藤氏」が明治天皇皇后両陛下より賜った菓子のお裾分けだったようです。全部で1万点あまり、平均すると1ヶ月に約30点という驚くべき量のいただき物ですが、ほとんど人に分けることはなかったという松洲。虎屋の菓子も、丹念に見て描いた後は、自身の口へと入れたのではと想像されます。全国各地のさまざまな菓子に通じていたであろう松洲の、目だけでなく、舌で味わった感想も聞いてみたいものです。 ※「目食帖」は江戸東京博物館HP(http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/)の収蔵品検索で全頁の画像をご覧いただけます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献斎鹿逸郎編『目食帖』学生社 1990年
斎藤松洲と「目食帖」
「目食帖」 東京都江戸東京博物館蔵「目」で味わういただき物の食品を日々絵で記録した、「目食帖(もくしきじょう)」という写生帖があります。明治42年(1909)から昭和9年(1934)までの25年間にわたって描かれており、65冊に及ぶ冊子のどの頁も、食品のスケッチでびっしりと埋められています。果物や野菜、干物、漬物、そして当時も贈り物の定番であった菓子の数々が、墨と淡い色彩によって描かれ、その名の通り「目」で贈答品を味わうことができる楽しい帳面です。描いたのは日本画家の斎藤松洲(さいとうしょうしゅう・1870~1934)、明治の終わりから昭和の初めにかけて本の装丁家や挿絵家として活躍した人物です。しかしながら現在目にすることができる画集は大正5年(1916)刊行の『仰山閣画譜(ぎょうざんかくがふ)』のみとなっており、作品についても人物に関しても、あまり資料は残っていません。筆遣いの変化や交友範囲の広さがうかがえる「目食帖」は、そういった意味でも貴重な資料といえるでしょう。 松洲と虎屋の菓子描き写された食品の中には、虎屋の包装紙に包まれたものや、木箱に入った『夜の梅』『おもかげ』なども見られます。また、杜若(かきつばた)をかたどった菓子と、菊花紋を中心に置いた長方形の菓子がセットで描かれた頁があり、こちらもそれぞれ虎屋の『三河の沢(みかわのさわ)』(三河は現在の愛知県)と『九重(ここのえ)』だと思われます。「明治四十四年五月十三日」の日付、送り主の名前(「佐藤忠蔵氏」か)とともに「両陛下ニ拝謁之節下賜 佐藤氏より分與を受く」と書き添えられおり、「佐藤氏」が明治天皇皇后両陛下より賜った菓子のお裾分けだったようです。全部で1万点あまり、平均すると1ヶ月に約30点という驚くべき量のいただき物ですが、ほとんど人に分けることはなかったという松洲。虎屋の菓子も、丹念に見て描いた後は、自身の口へと入れたのではと想像されます。全国各地のさまざまな菓子に通じていたであろう松洲の、目だけでなく、舌で味わった感想も聞いてみたいものです。 ※「目食帖」は江戸東京博物館HP(http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/)の収蔵品検索で全頁の画像をご覧いただけます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献斎鹿逸郎編『目食帖』学生社 1990年
柳田國男と餅
日本民俗学を創始 柳田國男(やなぎたくにお・1875~1962)は日本民俗学の創始者として讃えられる人物です。農村の貧困や飢饉に問題意識をもち、官僚の道を歩もうと、東京帝国大学法科大学政治科を卒業後、農商務省に入省。その後も数々の要職につきますが、全国各地を視察する中で、民俗学に目覚め、昭和22年(1947)、北多摩郡砧村(現・東京都世田谷区)の自宅書斎に民俗学研究所を設立します。各地の言葉、昔話や伝承、行事や信仰に関わる資料収集に努め、民俗学の理論や方法論を示し、『遠野物語』『海上の道』ほか数多くの著作を残しました 餅の力に言及 和菓子関係では、年中行事や人生儀礼に用意される餅や団子、小豆についての考察が注目されます。特に餅についての記述は多く、たとえば、歳徳神(としとくじん)に供える鏡餅、農作業の営みに入る頃に搗く餅、お産で弱った婦人に食べさせる餅などが「力餅」とも呼ばれることに言及しています。人が亡くなった折、出棺に先立って「血族の者」が力餅を食べるなど、現在あまり知られていない風習も見え、資料として興味深いものです。今も餅を入れたうどんを「力うどん」と呼びますが、餅が力を与えるものとしていかに重視されてきたかがよくわかります。 餅は心臓の形? 柳田は、鏡餅を重ね、高くして円錐形にすることに、三角の握り飯と共通する意味を見、「是は人間の心臓の形を、象どつて居たものでは無いか」と書いています。「上の尖つた三角形がいつも人生の大事を表徴して居るやうに感じて居る」として、円錐形に見える鏡餅や粽、菱餅のように三角を連想させる餅に、人間の臓器として大事な心臓に通じるものがあると考えたのです。心臓の形を円錐形や三角にたとえることについては少々無理もありますが、餅が稲作や霊魂の象徴とされてきたことはよくいわれるところ。霊力のある神聖な食べ物だからこそ、万物の更新を願う新年に鏡餅を供えたり、お雑煮にしていただいたりします。スーパーでパックの鏡餅や切り餅がたやすく手に入るようになった現在、柳田の考察は、餅を食べる意味についての認識を新たにさせてくれるのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献 「食物と心臓」(『定本 柳田國男集』第14巻 筑摩書房 1969年) 餅については、以下でも取り上げています。詳しく知りたい方は、ぜひご覧ください。機関誌『和菓子』31号 特集「餅」機関誌『和菓子』についてはこちら。
柳田國男と餅
日本民俗学を創始 柳田國男(やなぎたくにお・1875~1962)は日本民俗学の創始者として讃えられる人物です。農村の貧困や飢饉に問題意識をもち、官僚の道を歩もうと、東京帝国大学法科大学政治科を卒業後、農商務省に入省。その後も数々の要職につきますが、全国各地を視察する中で、民俗学に目覚め、昭和22年(1947)、北多摩郡砧村(現・東京都世田谷区)の自宅書斎に民俗学研究所を設立します。各地の言葉、昔話や伝承、行事や信仰に関わる資料収集に努め、民俗学の理論や方法論を示し、『遠野物語』『海上の道』ほか数多くの著作を残しました 餅の力に言及 和菓子関係では、年中行事や人生儀礼に用意される餅や団子、小豆についての考察が注目されます。特に餅についての記述は多く、たとえば、歳徳神(としとくじん)に供える鏡餅、農作業の営みに入る頃に搗く餅、お産で弱った婦人に食べさせる餅などが「力餅」とも呼ばれることに言及しています。人が亡くなった折、出棺に先立って「血族の者」が力餅を食べるなど、現在あまり知られていない風習も見え、資料として興味深いものです。今も餅を入れたうどんを「力うどん」と呼びますが、餅が力を与えるものとしていかに重視されてきたかがよくわかります。 餅は心臓の形? 柳田は、鏡餅を重ね、高くして円錐形にすることに、三角の握り飯と共通する意味を見、「是は人間の心臓の形を、象どつて居たものでは無いか」と書いています。「上の尖つた三角形がいつも人生の大事を表徴して居るやうに感じて居る」として、円錐形に見える鏡餅や粽、菱餅のように三角を連想させる餅に、人間の臓器として大事な心臓に通じるものがあると考えたのです。心臓の形を円錐形や三角にたとえることについては少々無理もありますが、餅が稲作や霊魂の象徴とされてきたことはよくいわれるところ。霊力のある神聖な食べ物だからこそ、万物の更新を願う新年に鏡餅を供えたり、お雑煮にしていただいたりします。スーパーでパックの鏡餅や切り餅がたやすく手に入るようになった現在、柳田の考察は、餅を食べる意味についての認識を新たにさせてくれるのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献 「食物と心臓」(『定本 柳田國男集』第14巻 筑摩書房 1969年) 餅については、以下でも取り上げています。詳しく知りたい方は、ぜひご覧ください。機関誌『和菓子』31号 特集「餅」機関誌『和菓子』についてはこちら。
益田鈍翁と檜扇形の菓子
型物御菓子見本帖 春のかざし茶人鈍翁三井物産設立とともに、三井財閥の最高経営者となった益田孝(1848~1938)は、近代の代表的な茶人のひとりとして知られています。還暦を迎えた明治41年(1908)に黒楽茶碗「鈍太郎」を入手し、鈍翁(どんのう)と号するようになります。彼は膨大な古美術の蒐集で知られていますが、特に佐竹本三十六歌仙絵巻の分断の話は有名です。この絵巻は鎌倉時代の藤原信実(のぶざね)の作品とされ、住吉明神社頭図を含む、37の場面が描かれています。あまりに高額のため購入希望者がおらず、道具商から相談を受けた鈍翁は、思案の末、海外流出を避けるために分断を決めます。世話人として自分のほか、彼の仕事上の後輩でもある高橋箒庵(そうあん)、双方の茶友でもある野崎幻庵(げんあん)を立て、道具商たちと購入候補者、個々の売価を決めました。こうして大正8年(1919)12月20日、分断・購入の会が東京品川御殿山の自宅で開催されます。分断された作品の購入者は、くじ引きで決められました。鈍翁自身もくじ引きに参加したものの、お目当ての「斎宮女御(さいぐうにょうご)」は当たりませんでした。みるみる機嫌が悪くなる鈍翁を見て、「斎宮女御」を引き当てた道具商が鈍翁とくじを取替え、その場を丸く収めました。 斎宮女御茶会こうして念願の「斎宮女御」を手に入れた鈍翁は、翌年3月24日から数日に亘って、披露の茶会を自宅で催しました。この席で使われた主菓子は、箒庵の『大正茶道記』には「黒川製檜扇形菓子」、幻庵の『茶会漫録』には「帝室御用黒川製の檜扇形」と記されています。「黒川」とは虎屋店主の苗字であることから、大正9年「売掛明細帳」を確認してみると、「益田様」3月24日の項に「羊 春の挿頭(かざし)12(個数)」とありました。4月10日までの間に同様の注文が数回、一部の備考欄には、菓子の色を示す紅、紅白の表記も見られます。「型物御菓子見本帖」には、檜扇形に桜を一枝添えた『春のかざし』が紅一色で描かれており、当日の菓子は、「羊」とあることから羊羹製(餡に小麦粉などを混ぜ蒸し、揉み込んだ生地。他店では「こなし」とも)、色は紅か白の単色もの、あるいは扇を白の生地でつくり、桜を紅にしたのかもしれません。鈍翁は「斎宮女御」の絵の中で、衣に隠れて見えない檜扇を、菓子で表す趣向を考えたのでしょう。また彼の茶席でのいでたちは、絵巻から出てきたような白絹の袴に浅黄色狩衣様のもの。扇に桜一枝を頂く貴公子の姿を想い、彼のもとに嫁してきた斎宮女御に対して、平安貴族さながら、冠に桜の枝をさし、喜びのあまり舞いたい気分を表したかったのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献高橋義雄『萬象録』巻7 高橋箒庵日記 思文閣出版 1990年高橋箒庵『大正茶道記』一 淡交社 1991年野崎幻庵『茶会漫録』第8集 中外商業新報社 1925年
益田鈍翁と檜扇形の菓子
型物御菓子見本帖 春のかざし茶人鈍翁三井物産設立とともに、三井財閥の最高経営者となった益田孝(1848~1938)は、近代の代表的な茶人のひとりとして知られています。還暦を迎えた明治41年(1908)に黒楽茶碗「鈍太郎」を入手し、鈍翁(どんのう)と号するようになります。彼は膨大な古美術の蒐集で知られていますが、特に佐竹本三十六歌仙絵巻の分断の話は有名です。この絵巻は鎌倉時代の藤原信実(のぶざね)の作品とされ、住吉明神社頭図を含む、37の場面が描かれています。あまりに高額のため購入希望者がおらず、道具商から相談を受けた鈍翁は、思案の末、海外流出を避けるために分断を決めます。世話人として自分のほか、彼の仕事上の後輩でもある高橋箒庵(そうあん)、双方の茶友でもある野崎幻庵(げんあん)を立て、道具商たちと購入候補者、個々の売価を決めました。こうして大正8年(1919)12月20日、分断・購入の会が東京品川御殿山の自宅で開催されます。分断された作品の購入者は、くじ引きで決められました。鈍翁自身もくじ引きに参加したものの、お目当ての「斎宮女御(さいぐうにょうご)」は当たりませんでした。みるみる機嫌が悪くなる鈍翁を見て、「斎宮女御」を引き当てた道具商が鈍翁とくじを取替え、その場を丸く収めました。 斎宮女御茶会こうして念願の「斎宮女御」を手に入れた鈍翁は、翌年3月24日から数日に亘って、披露の茶会を自宅で催しました。この席で使われた主菓子は、箒庵の『大正茶道記』には「黒川製檜扇形菓子」、幻庵の『茶会漫録』には「帝室御用黒川製の檜扇形」と記されています。「黒川」とは虎屋店主の苗字であることから、大正9年「売掛明細帳」を確認してみると、「益田様」3月24日の項に「羊 春の挿頭(かざし)12(個数)」とありました。4月10日までの間に同様の注文が数回、一部の備考欄には、菓子の色を示す紅、紅白の表記も見られます。「型物御菓子見本帖」には、檜扇形に桜を一枝添えた『春のかざし』が紅一色で描かれており、当日の菓子は、「羊」とあることから羊羹製(餡に小麦粉などを混ぜ蒸し、揉み込んだ生地。他店では「こなし」とも)、色は紅か白の単色もの、あるいは扇を白の生地でつくり、桜を紅にしたのかもしれません。鈍翁は「斎宮女御」の絵の中で、衣に隠れて見えない檜扇を、菓子で表す趣向を考えたのでしょう。また彼の茶席でのいでたちは、絵巻から出てきたような白絹の袴に浅黄色狩衣様のもの。扇に桜一枝を頂く貴公子の姿を想い、彼のもとに嫁してきた斎宮女御に対して、平安貴族さながら、冠に桜の枝をさし、喜びのあまり舞いたい気分を表したかったのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献高橋義雄『萬象録』巻7 高橋箒庵日記 思文閣出版 1990年高橋箒庵『大正茶道記』一 淡交社 1991年野崎幻庵『茶会漫録』第8集 中外商業新報社 1925年
田中芳男と菓子唱歌
和菓子の主原料の一つ「小豆」博物館の父と菓子産業東京国立博物館や上野動物園の設立に力を尽くし、日本の博物館の父とも呼ばれる田中芳男(1838~1916)。幕末のパリ万国博覧会等に派遣された経験をいかし、内国勧業博覧会の開催に尽力、これが博物館を作る基礎にもなりました。植物学者でもあり、長崎から持ち帰った種をもとに作ったビワは「田中」という品種名で現在も栽培され、つい近年まで、新宿御苑に原木も残されていました。彼が携わった仕事は実に幅広いものでしたが、ここでは、明治44年(1911)に開かれた第1回帝国菓子飴大品評会(現在の全国菓子大博覧会の前身)の会長も務め、菓子産業の発達に貢献した人物としてご紹介しましょう。 菓子の歌『日本洋菓子史』によれば田中は、菓子産業振興のために「菓子唱歌」という歌を自ら作ったといいます(菓子研究誌『はな橘』10号にも、田中の「菓子に於ける意見」を述べた歌として、ほぼ同一の歌詞が掲載されています)。「菓子や御菓子やよき菓子や 香味も形(なり)も色もよひ 老ひも若きも幼きも 好み嗜(たし)まぬものぞなき」と歌い出される七五調の歌詞は木の実や果物にはじまる菓子の歴史をたどり、洋菓子が広まったことや菓子屋の製造の工夫も語られ、原材料が列挙され……と、延々22番。需要が増すにつれて「本色うしなう品も出来」などと質の悪いものへの警告もあり、そのやや大仰な書きぶりは今では少々笑いを誘いますが、当時はもちろん大真面目だったことでしょう。改良に心を砕き、「輸出に適する」品をつくれば「御国の富となるぞかし」と終わるのも時代を感じさせます。 同書には、菓子研究家の三好右京氏が何とかして世に知らせたいと言った、というエピソードとともに「おしむらくは歌曲の不明」と書かれているのですが、田中自身が作ったスクラップ帖「捃拾帖(くんしゅうじょう)」(東京大学総合図書館蔵)に、譜面付きの冊子が貼りこまれていることを、近年モリナガ・ヨウ氏が著作の中で明らかにされました。表紙には「明治三十五年 田中芳男著 菓子唱歌」とあり、第2回全国菓子品評会の開催された年の制作であることがわかります。100年前の菓子事情に思いをめぐらせながら、口ずさんでみたいものです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献池田文痴菴『日本洋菓子史』 日本洋菓子協会 1960年モリナガ・ヨウ『東京大学の学術遺産 捃拾帖』KADOKAWA 2014年
田中芳男と菓子唱歌
和菓子の主原料の一つ「小豆」博物館の父と菓子産業東京国立博物館や上野動物園の設立に力を尽くし、日本の博物館の父とも呼ばれる田中芳男(1838~1916)。幕末のパリ万国博覧会等に派遣された経験をいかし、内国勧業博覧会の開催に尽力、これが博物館を作る基礎にもなりました。植物学者でもあり、長崎から持ち帰った種をもとに作ったビワは「田中」という品種名で現在も栽培され、つい近年まで、新宿御苑に原木も残されていました。彼が携わった仕事は実に幅広いものでしたが、ここでは、明治44年(1911)に開かれた第1回帝国菓子飴大品評会(現在の全国菓子大博覧会の前身)の会長も務め、菓子産業の発達に貢献した人物としてご紹介しましょう。 菓子の歌『日本洋菓子史』によれば田中は、菓子産業振興のために「菓子唱歌」という歌を自ら作ったといいます(菓子研究誌『はな橘』10号にも、田中の「菓子に於ける意見」を述べた歌として、ほぼ同一の歌詞が掲載されています)。「菓子や御菓子やよき菓子や 香味も形(なり)も色もよひ 老ひも若きも幼きも 好み嗜(たし)まぬものぞなき」と歌い出される七五調の歌詞は木の実や果物にはじまる菓子の歴史をたどり、洋菓子が広まったことや菓子屋の製造の工夫も語られ、原材料が列挙され……と、延々22番。需要が増すにつれて「本色うしなう品も出来」などと質の悪いものへの警告もあり、そのやや大仰な書きぶりは今では少々笑いを誘いますが、当時はもちろん大真面目だったことでしょう。改良に心を砕き、「輸出に適する」品をつくれば「御国の富となるぞかし」と終わるのも時代を感じさせます。 同書には、菓子研究家の三好右京氏が何とかして世に知らせたいと言った、というエピソードとともに「おしむらくは歌曲の不明」と書かれているのですが、田中自身が作ったスクラップ帖「捃拾帖(くんしゅうじょう)」(東京大学総合図書館蔵)に、譜面付きの冊子が貼りこまれていることを、近年モリナガ・ヨウ氏が著作の中で明らかにされました。表紙には「明治三十五年 田中芳男著 菓子唱歌」とあり、第2回全国菓子品評会の開催された年の制作であることがわかります。100年前の菓子事情に思いをめぐらせながら、口ずさんでみたいものです。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献池田文痴菴『日本洋菓子史』 日本洋菓子協会 1960年モリナガ・ヨウ『東京大学の学術遺産 捃拾帖』KADOKAWA 2014年
豊臣秀頼とのし柿
江戸時代の文献に見える熟柿と干柿『本草図譜』国立国会図書館蔵悲劇の貴公子豊臣秀頼(とよとみひでより・1593~1615)は、豊臣秀吉の嫡子として生まれ、母は織田信長の姪にあたる淀殿(よどどの)、妻は徳川家康の孫娘、千姫という、貴公子中の貴公子です。わずか6歳で父を亡くし、豊臣から徳川へ移り行く時代のなか、慶長20年(1615)義理の祖父・父の徳川家康・秀忠率いる十数万の軍勢に囲まれ、父の築いた大坂城で母とともに自害し、23歳でその生涯を閉じました(大坂の陣)。今年は没後400年の節目の年にあたります。 父とともに菓子を贈る慶長2年12月、秀吉が中国地方の大名毛利輝元(もうりてるもと)を伏見城(京都府)の奥の座敷に招いた時のこと。はじめに秀吉が、続いて当時5歳の秀頼が、輝元にのし柿を与えたといいます(『萩藩閥閲録』)※。のし柿は干柿をのしたものでしょうか。当時は木の実や果物も「菓子」と考えられ、献立記録や茶会記には栗や柿、蜜柑などが多く見られます。砂糖が本格的に流通するようになる江戸時代以前には、木の実や果物の甘みは貴重なものだったことでしょう。ところで、秀吉はなぜわざわざ秀頼を同席させ、のし柿を渡させたのでしょうか。恐らく自身亡き後のことも考え、有力大名である輝元と秀頼の絆を深めようとしたのでしょう。翌年8月、秀吉は幼い秀頼を遺し、この世を去ることになります。 贈り物を手ずから渡す秀吉没後の慶長9年4月、12歳になった秀頼に対面した公家の船橋秀賢は、手渡しで熨斗鮑をもらったことを日記に記しています(「慶長日件録」)。また、慶長11年、正月の挨拶のため秀頼のもとを訪れた京都鹿苑寺の僧、鶴峯宗松は「木練柿(こねりがき・熟した柿か)」をもらい、「例年は秀頼様自ら菓子を下さるのに、今年は挨拶の人数が多かったためか、小姓からだった」と述べています(『鹿苑日録』)。豊臣家の当主として成長しつつあった秀頼は、学問や武芸に励み、聡明な人柄から将来を嘱望されていたといいます。父秀吉とともに過ごした幼き日々の中で、贈り物を自分自身で直接渡すことの大切さを学んだのかもしれません。菓子などを手ずから頂戴していた公家や僧侶たちは、徳川氏によって追い詰められていく秀頼に最後まで同情的だったといわれています。 ※ ちなみに輝元はこの時、秀吉と秀頼のどちらからかわかりませんが、饅頭ももらっています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献福田千鶴『豊臣秀頼』吉川弘文館 2014年曽根勇二『大坂の陣と豊臣秀頼』吉川弘文館 2013年
豊臣秀頼とのし柿
江戸時代の文献に見える熟柿と干柿『本草図譜』国立国会図書館蔵悲劇の貴公子豊臣秀頼(とよとみひでより・1593~1615)は、豊臣秀吉の嫡子として生まれ、母は織田信長の姪にあたる淀殿(よどどの)、妻は徳川家康の孫娘、千姫という、貴公子中の貴公子です。わずか6歳で父を亡くし、豊臣から徳川へ移り行く時代のなか、慶長20年(1615)義理の祖父・父の徳川家康・秀忠率いる十数万の軍勢に囲まれ、父の築いた大坂城で母とともに自害し、23歳でその生涯を閉じました(大坂の陣)。今年は没後400年の節目の年にあたります。 父とともに菓子を贈る慶長2年12月、秀吉が中国地方の大名毛利輝元(もうりてるもと)を伏見城(京都府)の奥の座敷に招いた時のこと。はじめに秀吉が、続いて当時5歳の秀頼が、輝元にのし柿を与えたといいます(『萩藩閥閲録』)※。のし柿は干柿をのしたものでしょうか。当時は木の実や果物も「菓子」と考えられ、献立記録や茶会記には栗や柿、蜜柑などが多く見られます。砂糖が本格的に流通するようになる江戸時代以前には、木の実や果物の甘みは貴重なものだったことでしょう。ところで、秀吉はなぜわざわざ秀頼を同席させ、のし柿を渡させたのでしょうか。恐らく自身亡き後のことも考え、有力大名である輝元と秀頼の絆を深めようとしたのでしょう。翌年8月、秀吉は幼い秀頼を遺し、この世を去ることになります。 贈り物を手ずから渡す秀吉没後の慶長9年4月、12歳になった秀頼に対面した公家の船橋秀賢は、手渡しで熨斗鮑をもらったことを日記に記しています(「慶長日件録」)。また、慶長11年、正月の挨拶のため秀頼のもとを訪れた京都鹿苑寺の僧、鶴峯宗松は「木練柿(こねりがき・熟した柿か)」をもらい、「例年は秀頼様自ら菓子を下さるのに、今年は挨拶の人数が多かったためか、小姓からだった」と述べています(『鹿苑日録』)。豊臣家の当主として成長しつつあった秀頼は、学問や武芸に励み、聡明な人柄から将来を嘱望されていたといいます。父秀吉とともに過ごした幼き日々の中で、贈り物を自分自身で直接渡すことの大切さを学んだのかもしれません。菓子などを手ずから頂戴していた公家や僧侶たちは、徳川氏によって追い詰められていく秀頼に最後まで同情的だったといわれています。 ※ ちなみに輝元はこの時、秀吉と秀頼のどちらからかわかりませんが、饅頭ももらっています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献福田千鶴『豊臣秀頼』吉川弘文館 2014年曽根勇二『大坂の陣と豊臣秀頼』吉川弘文館 2013年