虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
竹垣直道と大手饅頭
東雲堂の菓子袋 菓子袋拡大図 大坂代官竹垣直道(たけがきなおみち・1805~69)は江戸幕府に仕える役人で、天保11年(1840)~弘化5年(1848)の足掛け8年、大坂代官を務めました。代官は江戸から交替で派遣され、大坂近辺の幕府直轄領と周辺の河川などを管轄しました。母、妻、息子、娘を伴った直道の赴任中の生活は、日記に詳細に記されており、著名な歌人に弟子入りする、行く先々で植物採集に興じる、など多趣味な人物だったことがわかります。 菓子の贈答地元出身の役人らとの交流も盛んで、日記を見ると年中行事を始め、贈答品として菓子も頻出します。なかでも牡丹餅は彼岸や玄猪(げんちょ)のような行事に限らず多く見られ、弘化5年2月19日には手製と思われる牡丹餅を「萩器」に入れて贈っています。「萩器」とは萩の花が描かれた器、あるいは萩焼でしょうか。おそらく牡丹餅の異称「おはぎ」にかけたと考えられ、歌詠みでもあった直道らしい趣向といえましょう。ちなみに代官屋敷の庭には萩が植えられており、花の季節には同僚らを招いて度々萩見を楽しんでいます。また、弘化2年8月23日には、与力・同心への配り物を、それまでの饅頭・羊羹から自身の好みで干菓子に変えており、菓子にもこだわる一面を見せています。 大手饅頭直道が好んで用いた菓子に大手饅頭があります。大手饅頭は大坂城の西側、「大手筋」(城の正面側の通り)に店を構えた東雲堂(菓子袋拡大図)の名物でした。大ぶりで一つ10文と少し割高で(多くの店は2~3文)、質の良い饅頭として贈答品に好まれたといいます(『守貞謾稿』)。直道は職務に関わる祝い事(天保15年11月5日)のほか、親交の深い役人仲間の新築祝い(弘化2年11月15日)や嫡子龍太郎の元服の内祝い(弘化4年6月22日)にこの饅頭を用意しています。特に元服の際には、人生儀礼につきものの鳥の子餅(卵形の餅)の代わりに用いたことを記しており、直道があえて大手饅頭を選んだことがわかります。直道はここぞという場面で使うと決めていたのかもしれません。なお、喜多川守貞の『守貞謾稿』には、東雲堂は天保年間(1830~44)の末になくなったとありますが、直道の日記から、その後も商売を続けていたことが分かります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献竹垣直道著、薮田貫編、松本望・内海寧子・松永友和校訂『大坂代官竹垣直道日記』(一)~(四)関西大学・なにわ大阪文化遺産学研究センター 2007~2010年薮田貫『武士の町 大坂』中央公論新社 2010年
竹垣直道と大手饅頭
東雲堂の菓子袋 菓子袋拡大図 大坂代官竹垣直道(たけがきなおみち・1805~69)は江戸幕府に仕える役人で、天保11年(1840)~弘化5年(1848)の足掛け8年、大坂代官を務めました。代官は江戸から交替で派遣され、大坂近辺の幕府直轄領と周辺の河川などを管轄しました。母、妻、息子、娘を伴った直道の赴任中の生活は、日記に詳細に記されており、著名な歌人に弟子入りする、行く先々で植物採集に興じる、など多趣味な人物だったことがわかります。 菓子の贈答地元出身の役人らとの交流も盛んで、日記を見ると年中行事を始め、贈答品として菓子も頻出します。なかでも牡丹餅は彼岸や玄猪(げんちょ)のような行事に限らず多く見られ、弘化5年2月19日には手製と思われる牡丹餅を「萩器」に入れて贈っています。「萩器」とは萩の花が描かれた器、あるいは萩焼でしょうか。おそらく牡丹餅の異称「おはぎ」にかけたと考えられ、歌詠みでもあった直道らしい趣向といえましょう。ちなみに代官屋敷の庭には萩が植えられており、花の季節には同僚らを招いて度々萩見を楽しんでいます。また、弘化2年8月23日には、与力・同心への配り物を、それまでの饅頭・羊羹から自身の好みで干菓子に変えており、菓子にもこだわる一面を見せています。 大手饅頭直道が好んで用いた菓子に大手饅頭があります。大手饅頭は大坂城の西側、「大手筋」(城の正面側の通り)に店を構えた東雲堂(菓子袋拡大図)の名物でした。大ぶりで一つ10文と少し割高で(多くの店は2~3文)、質の良い饅頭として贈答品に好まれたといいます(『守貞謾稿』)。直道は職務に関わる祝い事(天保15年11月5日)のほか、親交の深い役人仲間の新築祝い(弘化2年11月15日)や嫡子龍太郎の元服の内祝い(弘化4年6月22日)にこの饅頭を用意しています。特に元服の際には、人生儀礼につきものの鳥の子餅(卵形の餅)の代わりに用いたことを記しており、直道があえて大手饅頭を選んだことがわかります。直道はここぞという場面で使うと決めていたのかもしれません。なお、喜多川守貞の『守貞謾稿』には、東雲堂は天保年間(1830~44)の末になくなったとありますが、直道の日記から、その後も商売を続けていたことが分かります。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献竹垣直道著、薮田貫編、松本望・内海寧子・松永友和校訂『大坂代官竹垣直道日記』(一)~(四)関西大学・なにわ大阪文化遺産学研究センター 2007~2010年薮田貫『武士の町 大坂』中央公論新社 2010年
淡島寒月と辻占
錦絵:歌川豊国(三代)「明嬉今朝之辻占」拡大図1拡大図2軽焼屋の御曹司淡島寒月(あわしまかんげつ・1859~1926)は明治~大正時代に活躍した作家です。井原西鶴を再評価したことで知られますが、絵筆をとったり、西洋文化に傾倒したり、あるいは郷土玩具を収集したりと、その関心はひとつにとどまることはありませんでした。寒月の実家は江戸時代から馬喰町で淡島屋という菓子屋を営んでいました。ここの名物は軽焼(かるやき)で、「病が軽く済む」と疱瘡(ほうそう・天然痘のこと)見舞いに好まれたこともあって店は大層繁盛し、名店の御曹司として何不自由なく子ども時代を過ごしたといいます。寒月が雑誌に寄せた随筆や講話などまとめた『梵雲庵雑話(ぼんうんあんざつわ)』(1933)には、彼が暮らした江戸の町並みを書いたものがあり、幾世餅、みめより、桜餅といった、江戸っ子が親しんだ菓子も登場します。そのなかに辻占(つじうら)についての記述が出てきます。 辻占の名店ここでいう辻占とは、煎餅などに占いの紙を入れたもので、恋の行方を暗示した言葉が書かれたり、役者の似顔絵が描かれたりしたものなど、さまざまな種類がありました。寒月は、茅町の遠月堂、横山町3丁目の望月、切山椒が名物の森田(大伝馬町の梅花亭と思われる)を名店としてあげていますが、このうち、遠月堂の辻占に入っている占い紙は「彩色摺上等のものだった」と書いています。その美しい辻占がどのようなものだったのかうかがえる錦絵(写真)があります。これは団扇用に作られたもので、歌川豊国(三代)の作です。左側の女性は菓子箱を手にし、右側の女性は、二つに折りたたまれた煎餅と役者絵が描かれた紙を持っています(拡大図1)。店の名はありませんが、菓子箱には蛤を描いた商標と「江戸むらさき」の商品名が見えます(拡大図2)。蛤の商標は遠月堂のトレードマーク、豊国の手による役者絵の辻占が実際に売られていたことから※、この団扇絵が遠月堂の広告用に作られたことがうかがえます。残念ながら遠月堂や淡島屋ほか多くの江戸の菓子屋は明治時代以降店を閉じていきます。色とりどりの辻占を懐かしく思い起こしながら、寒月は文を綴っていったのかもしれませんね。 ※ 蛤の商標は『懐溜諸屑』(国立民俗博物館蔵)に収録、役者絵辻占の名が見える遠月堂の広告は、東京都立中央図書館の加賀文庫に収蔵されている。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献淡島寒月 『梵雲庵雑話』 平凡社 1999年山口昌男 『「敗者」の精神史』上 岩波書店 2013年
淡島寒月と辻占
錦絵:歌川豊国(三代)「明嬉今朝之辻占」拡大図1拡大図2軽焼屋の御曹司淡島寒月(あわしまかんげつ・1859~1926)は明治~大正時代に活躍した作家です。井原西鶴を再評価したことで知られますが、絵筆をとったり、西洋文化に傾倒したり、あるいは郷土玩具を収集したりと、その関心はひとつにとどまることはありませんでした。寒月の実家は江戸時代から馬喰町で淡島屋という菓子屋を営んでいました。ここの名物は軽焼(かるやき)で、「病が軽く済む」と疱瘡(ほうそう・天然痘のこと)見舞いに好まれたこともあって店は大層繁盛し、名店の御曹司として何不自由なく子ども時代を過ごしたといいます。寒月が雑誌に寄せた随筆や講話などまとめた『梵雲庵雑話(ぼんうんあんざつわ)』(1933)には、彼が暮らした江戸の町並みを書いたものがあり、幾世餅、みめより、桜餅といった、江戸っ子が親しんだ菓子も登場します。そのなかに辻占(つじうら)についての記述が出てきます。 辻占の名店ここでいう辻占とは、煎餅などに占いの紙を入れたもので、恋の行方を暗示した言葉が書かれたり、役者の似顔絵が描かれたりしたものなど、さまざまな種類がありました。寒月は、茅町の遠月堂、横山町3丁目の望月、切山椒が名物の森田(大伝馬町の梅花亭と思われる)を名店としてあげていますが、このうち、遠月堂の辻占に入っている占い紙は「彩色摺上等のものだった」と書いています。その美しい辻占がどのようなものだったのかうかがえる錦絵(写真)があります。これは団扇用に作られたもので、歌川豊国(三代)の作です。左側の女性は菓子箱を手にし、右側の女性は、二つに折りたたまれた煎餅と役者絵が描かれた紙を持っています(拡大図1)。店の名はありませんが、菓子箱には蛤を描いた商標と「江戸むらさき」の商品名が見えます(拡大図2)。蛤の商標は遠月堂のトレードマーク、豊国の手による役者絵の辻占が実際に売られていたことから※、この団扇絵が遠月堂の広告用に作られたことがうかがえます。残念ながら遠月堂や淡島屋ほか多くの江戸の菓子屋は明治時代以降店を閉じていきます。色とりどりの辻占を懐かしく思い起こしながら、寒月は文を綴っていったのかもしれませんね。 ※ 蛤の商標は『懐溜諸屑』(国立民俗博物館蔵)に収録、役者絵辻占の名が見える遠月堂の広告は、東京都立中央図書館の加賀文庫に収蔵されている。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献淡島寒月 『梵雲庵雑話』 平凡社 1999年山口昌男 『「敗者」の精神史』上 岩波書店 2013年
柴田流星とところてん
明治生まれの江戸っ子柴田流星(しばたりゅうせい・1879~1913)は明治12年、東京・小石川に生まれました。巌谷小波(いわやさざなみ)の門下として、児童文学の執筆やロシア文学などの翻訳を手がけましたが、34歳の若さで没しています。薄命のためか、今日伝わる作品はわずかですが、味わい深い随筆があることをご紹介しましょう。 情緒あふれる随筆32歳の流星が、明治時代の東京に残る江戸のおもかげを思いつくままに記した『残されたる江戸』(1911)。薮入りや井戸替えといった季節のできごと、威勢のいい木遣り(きやり)や涼しげな釣忍(つりしのぶ)など情緒あふれる事物が紹介されています。「今の東京に江戸趣味は殆(ほと)んど全く滅ぼしつくされたらうか。いゝえさ、まだ捜しさいすりやァ随分見つけ出すことが出来まさァね。」との序文にはじまり、軽妙な江戸言葉が随所に顔をのぞかせ、まるで江戸っ子と話をしているような気分になれます。食べ物については、有名な江戸の料理屋、八百善(やおぜん)の話題があるほか、老舗の名物菓子として、「榮太樓の甘納豆、藤村の羊羹、紅谷の鹿の子、岡野の饅頭」の名を挙げています。 江戸っ子の味また別の章に、江戸っ子にはたまらない夏の味として、氷屋の白玉と、「ところてん」が登場します。真夏の炎天下、「路ばたの柳蔭などに荷おろして客を待つ心太(ところてん)や」から買い求めた、酢醤油がけのところてんをすすれば「腹に冷たきが通りゆくを覚ゆるばかり、口熱のねばりもサラリと拭ひ去られて、心地限りなく清々しい。」とその妙味を称え、江戸っ子は「其刹那の清々しさを買ふに、決して懐銭を読む悠長を有(も)たぬのである。」と記しています。スーパーなどでカップ入りのところてんが季節を問わず売られている昨今、流星の愛した夏の涼味の趣きは失われてしまいましたが、それでもさっぱりした酢醤油には江戸の粋が感じられます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献柴田流星著『残されたる江戸』洛陽堂 1911年(国立国会図書館運営「近代デジタルライブラリー」にて電子化公開されています。)
柴田流星とところてん
明治生まれの江戸っ子柴田流星(しばたりゅうせい・1879~1913)は明治12年、東京・小石川に生まれました。巌谷小波(いわやさざなみ)の門下として、児童文学の執筆やロシア文学などの翻訳を手がけましたが、34歳の若さで没しています。薄命のためか、今日伝わる作品はわずかですが、味わい深い随筆があることをご紹介しましょう。 情緒あふれる随筆32歳の流星が、明治時代の東京に残る江戸のおもかげを思いつくままに記した『残されたる江戸』(1911)。薮入りや井戸替えといった季節のできごと、威勢のいい木遣り(きやり)や涼しげな釣忍(つりしのぶ)など情緒あふれる事物が紹介されています。「今の東京に江戸趣味は殆(ほと)んど全く滅ぼしつくされたらうか。いゝえさ、まだ捜しさいすりやァ随分見つけ出すことが出来まさァね。」との序文にはじまり、軽妙な江戸言葉が随所に顔をのぞかせ、まるで江戸っ子と話をしているような気分になれます。食べ物については、有名な江戸の料理屋、八百善(やおぜん)の話題があるほか、老舗の名物菓子として、「榮太樓の甘納豆、藤村の羊羹、紅谷の鹿の子、岡野の饅頭」の名を挙げています。 江戸っ子の味また別の章に、江戸っ子にはたまらない夏の味として、氷屋の白玉と、「ところてん」が登場します。真夏の炎天下、「路ばたの柳蔭などに荷おろして客を待つ心太(ところてん)や」から買い求めた、酢醤油がけのところてんをすすれば「腹に冷たきが通りゆくを覚ゆるばかり、口熱のねばりもサラリと拭ひ去られて、心地限りなく清々しい。」とその妙味を称え、江戸っ子は「其刹那の清々しさを買ふに、決して懐銭を読む悠長を有(も)たぬのである。」と記しています。スーパーなどでカップ入りのところてんが季節を問わず売られている昨今、流星の愛した夏の涼味の趣きは失われてしまいましたが、それでもさっぱりした酢醤油には江戸の粋が感じられます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献柴田流星著『残されたる江戸』洛陽堂 1911年(国立国会図書館運営「近代デジタルライブラリー」にて電子化公開されています。)
人見必大と蕨餅・葛餅
曜斎国輝「蕨の製方」 年不詳本格的な本草書の執筆者人見必大(ひとみひつだい・1642頃~1701)は江戸時代前期の医者兼本草学者です。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元(玄)徳、兄の友元は著名な儒学者で、一家は将軍家を含む幅広い交友関係をもっていました。必大が研究に励み、本草書の大作『本朝食鑑』(ほんちょうしょっかん/ほんちょうしょくかがみ)を著し元禄10年(1697)に刊行ができたのも、こうした恵まれた家庭環境があったからともいわれています。 菓子にも言及『本朝食鑑』は漢文体による12巻の書物で、中国明代の『本草綱目』(1596)の構成や分類にのっとっています。内容は、国産の食物についての健康への良否、滋味、効能などの解説でした。全体に動物性食品を多く扱っていますが、菓子についての言及もあり、たとえば 「穀部」には餅類や粽、飴が見られます。「牡丹餅」は「萩の花」ともいうこと、端午の節句の粽には、菰(まこも)や熊笹の葉が使われたことなど、庶民の行事食に触れた部分もあり、興味深いものです。 生蕨や葛餅が苦手だった壮年期注目したいのは「菜部」の蕨の記述。蕨の産地や形状、食べ方に触れ、根の澱粉で作る蕨餅も取り上げています。形状は葛餅(葛の根の澱粉で作る)のようで紫黒色、味は葛餅に劣らず、世間でも珍しいものとして、贈り物にしているとのこと。手間暇かけて作るだけに、喜ばれる食べ物だったのでしょう。蕨餅や葛餅は、必大のお気に入りだったのかもしれないと思い、読み進めると、意外な事実がわかります。なんと、必大は壮年期、生蕨(ここでは灰汁で煮るなど基本の下処理をしたもの)と葛餅を食べると、必ず気絶して人事不省になったそう。しかし、50歳を過ぎると、両者を食べてもあたらないようになったことが書かれています。壮年のときは気が盛んで、食物に「相敵」する何かが自分のうちにあったからだろうか、あるいは最初に毒にあたったことが思い出されて、見ると具合が悪くなったのだろうかなど、その理由をあれこれ分析しているのがほほえましいところ。考えたあげく、最後の言葉は自嘲気味に「鳴呼拙矣」(ああ、おろかなことであるよ)。自らの経験をもとに執筆を重ねた行動派の本草学者、必大のつぶやきが人間味を感じさせます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献島田勇雄訳注『本朝食鑑』1 東洋文庫 平凡社 1976年
人見必大と蕨餅・葛餅
曜斎国輝「蕨の製方」 年不詳本格的な本草書の執筆者人見必大(ひとみひつだい・1642頃~1701)は江戸時代前期の医者兼本草学者です。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元(玄)徳、兄の友元は著名な儒学者で、一家は将軍家を含む幅広い交友関係をもっていました。必大が研究に励み、本草書の大作『本朝食鑑』(ほんちょうしょっかん/ほんちょうしょくかがみ)を著し元禄10年(1697)に刊行ができたのも、こうした恵まれた家庭環境があったからともいわれています。 菓子にも言及『本朝食鑑』は漢文体による12巻の書物で、中国明代の『本草綱目』(1596)の構成や分類にのっとっています。内容は、国産の食物についての健康への良否、滋味、効能などの解説でした。全体に動物性食品を多く扱っていますが、菓子についての言及もあり、たとえば 「穀部」には餅類や粽、飴が見られます。「牡丹餅」は「萩の花」ともいうこと、端午の節句の粽には、菰(まこも)や熊笹の葉が使われたことなど、庶民の行事食に触れた部分もあり、興味深いものです。 生蕨や葛餅が苦手だった壮年期注目したいのは「菜部」の蕨の記述。蕨の産地や形状、食べ方に触れ、根の澱粉で作る蕨餅も取り上げています。形状は葛餅(葛の根の澱粉で作る)のようで紫黒色、味は葛餅に劣らず、世間でも珍しいものとして、贈り物にしているとのこと。手間暇かけて作るだけに、喜ばれる食べ物だったのでしょう。蕨餅や葛餅は、必大のお気に入りだったのかもしれないと思い、読み進めると、意外な事実がわかります。なんと、必大は壮年期、生蕨(ここでは灰汁で煮るなど基本の下処理をしたもの)と葛餅を食べると、必ず気絶して人事不省になったそう。しかし、50歳を過ぎると、両者を食べてもあたらないようになったことが書かれています。壮年のときは気が盛んで、食物に「相敵」する何かが自分のうちにあったからだろうか、あるいは最初に毒にあたったことが思い出されて、見ると具合が悪くなったのだろうかなど、その理由をあれこれ分析しているのがほほえましいところ。考えたあげく、最後の言葉は自嘲気味に「鳴呼拙矣」(ああ、おろかなことであるよ)。自らの経験をもとに執筆を重ねた行動派の本草学者、必大のつぶやきが人間味を感じさせます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献島田勇雄訳注『本朝食鑑』1 東洋文庫 平凡社 1976年
益田紅艶と五色団子
錦絵から再現した目黒の飾り物の餅花益田英作こと茶人紅艶益田英作(1865~1921)は益田三兄弟の末弟にあたります。17歳年長の長兄孝(鈍翁)、12歳年長の次兄克徳(非黙)については、この連載の中でもすでに取り上げています(「益田鈍翁とお菓子」・「益田非黙と水羊羹」)。英作は15歳で渡仏し、英米にも滞在したのち三井物産に入社。社内では並外れた英語力が高く評価されていました。次兄非黙の影響を受け、江戸千家川上宗順のもとで茶を学び、ますます茶の湯の世界に魅了され、三井物産の役員を務めた後、明治38年(1905)には古美術商多聞店を設立します。茶名紅艶(こうえん)の由来は、彼が芝公園(港区)の近くに住んでいた頃、知人たちが彼を「こうえん、こうえん」と呼んでいたことにちなんだとの由。彼は美食家で、大食漢でもあったため、福々しい巨体でした。鎌倉の大仏にメガネを掛けさせた風貌から大仏と自他共に称し、「大仏庵主座禅之図」の自画像をみることができます。 紅艶と五色団子紅艶は美食家で大食漢のわりに、人に振舞う懐石は非常に質素で、しかも量も少なく、「おかわり」を申し出ると、「最初の美味を損すべし」と拒絶。このように厳しいかと思えば、紅艶席主のある茶会では、本来、ホスト役である席主は、懐石の最中はお客様の給仕に専念するはずなのですが、自ら「先ずはお毒見」「先ずはお相伴」と称して、招待客より先にどんどん食べてしまい、挙句の果てに、蕎麦饅頭を頬張って「アアうまかった」とメインのお客様である正客が言うべき感想まで言ってしまいます。これを聞いた正客が逆に席主に替わって挨拶してしまったなど、珍妙な席の記録も残っています。紅艶は現在の東京都目黒区にある目黒不動尊の境外に別邸を設けました。不動尊の滝の水を邸内に引き込み、霊験あらたかという意味を込めて茶室には霊水庵と名付けています。明治42年4月14日に行われた席披きの菓子には、五色団子が用意されました。目黒不動尊は江戸三不動(目黒・目白・目赤、のちに目青・目黄を加え五色不動)の一つとして知られていました。江戸時代後期の『江戸名所図会』「目黒不動」や錦絵「江戸自慢三十六興 目黒不動餅花」などから、門前で土産物として粟餅・飴、飾り物の餅花を売る店で賑わった様子をうかがい知ることができます。残念ながら当日の五色団子がどのようなものだったのか分かりませんが、五色不動にちなみ黒・白・赤・青(緑)・黄の五色とし、門前の粟餅、飾り物の餅花を意識して団子に仕立てたのでしょうか。趣向を凝らす紅艶だけに、画像のように、五色の団子を木に突き刺して、水屋から主菓子として持ち出してきたのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献野崎廣太『茶会漫録』第1、9集 中外商業新報社 1912、1925年高橋箒庵『東都茶道記』二 淡交社 1989年高橋箒庵『大正茶道記』一 淡交社 1991年高橋箒庵『昭和茶道記』二 淡交社 2002年
益田紅艶と五色団子
錦絵から再現した目黒の飾り物の餅花益田英作こと茶人紅艶益田英作(1865~1921)は益田三兄弟の末弟にあたります。17歳年長の長兄孝(鈍翁)、12歳年長の次兄克徳(非黙)については、この連載の中でもすでに取り上げています(「益田鈍翁とお菓子」・「益田非黙と水羊羹」)。英作は15歳で渡仏し、英米にも滞在したのち三井物産に入社。社内では並外れた英語力が高く評価されていました。次兄非黙の影響を受け、江戸千家川上宗順のもとで茶を学び、ますます茶の湯の世界に魅了され、三井物産の役員を務めた後、明治38年(1905)には古美術商多聞店を設立します。茶名紅艶(こうえん)の由来は、彼が芝公園(港区)の近くに住んでいた頃、知人たちが彼を「こうえん、こうえん」と呼んでいたことにちなんだとの由。彼は美食家で、大食漢でもあったため、福々しい巨体でした。鎌倉の大仏にメガネを掛けさせた風貌から大仏と自他共に称し、「大仏庵主座禅之図」の自画像をみることができます。 紅艶と五色団子紅艶は美食家で大食漢のわりに、人に振舞う懐石は非常に質素で、しかも量も少なく、「おかわり」を申し出ると、「最初の美味を損すべし」と拒絶。このように厳しいかと思えば、紅艶席主のある茶会では、本来、ホスト役である席主は、懐石の最中はお客様の給仕に専念するはずなのですが、自ら「先ずはお毒見」「先ずはお相伴」と称して、招待客より先にどんどん食べてしまい、挙句の果てに、蕎麦饅頭を頬張って「アアうまかった」とメインのお客様である正客が言うべき感想まで言ってしまいます。これを聞いた正客が逆に席主に替わって挨拶してしまったなど、珍妙な席の記録も残っています。紅艶は現在の東京都目黒区にある目黒不動尊の境外に別邸を設けました。不動尊の滝の水を邸内に引き込み、霊験あらたかという意味を込めて茶室には霊水庵と名付けています。明治42年4月14日に行われた席披きの菓子には、五色団子が用意されました。目黒不動尊は江戸三不動(目黒・目白・目赤、のちに目青・目黄を加え五色不動)の一つとして知られていました。江戸時代後期の『江戸名所図会』「目黒不動」や錦絵「江戸自慢三十六興 目黒不動餅花」などから、門前で土産物として粟餅・飴、飾り物の餅花を売る店で賑わった様子をうかがい知ることができます。残念ながら当日の五色団子がどのようなものだったのか分かりませんが、五色不動にちなみ黒・白・赤・青(緑)・黄の五色とし、門前の粟餅、飾り物の餅花を意識して団子に仕立てたのでしょうか。趣向を凝らす紅艶だけに、画像のように、五色の団子を木に突き刺して、水屋から主菓子として持ち出してきたのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献野崎廣太『茶会漫録』第1、9集 中外商業新報社 1912、1925年高橋箒庵『東都茶道記』二 淡交社 1989年高橋箒庵『大正茶道記』一 淡交社 1991年高橋箒庵『昭和茶道記』二 淡交社 2002年
鏑木清方と氷
美人画や風俗画で知られる明治~昭和の日本画家、鏑木清方(かぶらききよかた・1878~1972)は、意外に甘党で、当連載にも2度ほど登場しています (鏑木清方と甘いもの・鏑木清方とよかよか飴売り)。そんな清方の作品に、「明治風俗十二ヶ月」(1935)があります。 氷を削る美人東京国立近代美術館に所蔵されるこの作品は、12幅の掛軸で、2月は梅、6月は金魚、12月は雪の情景など季節の風物とともに清方らしい清楚な美人が描かれています。8月は通称「氷店」といわれ、展覧会の図録の表紙になったこともある、人気の高い絵です。白地に紺の菊花文様の浴衣を着て、赤いたすきをきりりとかけた、たおやかな女性が、シロップを入れた瓶の並ぶ台の上で氷を削っています。明治時代、氷は鰹節を削るように、「かんな」で削っていました。落ちてくる氷を受けるために女性が手にしている足つきの器は、「氷コップ」とも呼ばれたガラスの器と思われ、ふちには赤く色がついています。絵の描かれた昭和10年頃には、氷削機と呼ばれるかき氷機が出回っていましたから、清方は、昔を懐かしく思い出しながら、この絵を描いたのかもしれません。 明治時代の氷かき氷の歴史は、千年の昔に清少納言が『枕草子』に記した「削り氷(けずりひ)」にはじまるとされますが、庶民の口に入るようになったのは明治時代、人工的に氷を作ることが出来るようになって以降のことです。当初は「氷水」を「飲む」と言われましたが、冷房設備も冷凍庫も無かった頃のこと、かいた氷は、たしかにどんどん溶けてしまったことでしょう。「氷」ののぼりが風にひるがえり、足元に朝顔の鉢植えが置かれた清方の絵は、「目から涼む」工夫とともに暑い季節を乗り越えていた時代を表しています。この頃、冷たい氷を食べる嬉しさは、たとえ溶けるのが早かったとしても、今よりもずっと大きかったのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
鏑木清方と氷
美人画や風俗画で知られる明治~昭和の日本画家、鏑木清方(かぶらききよかた・1878~1972)は、意外に甘党で、当連載にも2度ほど登場しています (鏑木清方と甘いもの・鏑木清方とよかよか飴売り)。そんな清方の作品に、「明治風俗十二ヶ月」(1935)があります。 氷を削る美人東京国立近代美術館に所蔵されるこの作品は、12幅の掛軸で、2月は梅、6月は金魚、12月は雪の情景など季節の風物とともに清方らしい清楚な美人が描かれています。8月は通称「氷店」といわれ、展覧会の図録の表紙になったこともある、人気の高い絵です。白地に紺の菊花文様の浴衣を着て、赤いたすきをきりりとかけた、たおやかな女性が、シロップを入れた瓶の並ぶ台の上で氷を削っています。明治時代、氷は鰹節を削るように、「かんな」で削っていました。落ちてくる氷を受けるために女性が手にしている足つきの器は、「氷コップ」とも呼ばれたガラスの器と思われ、ふちには赤く色がついています。絵の描かれた昭和10年頃には、氷削機と呼ばれるかき氷機が出回っていましたから、清方は、昔を懐かしく思い出しながら、この絵を描いたのかもしれません。 明治時代の氷かき氷の歴史は、千年の昔に清少納言が『枕草子』に記した「削り氷(けずりひ)」にはじまるとされますが、庶民の口に入るようになったのは明治時代、人工的に氷を作ることが出来るようになって以降のことです。当初は「氷水」を「飲む」と言われましたが、冷房設備も冷凍庫も無かった頃のこと、かいた氷は、たしかにどんどん溶けてしまったことでしょう。「氷」ののぼりが風にひるがえり、足元に朝顔の鉢植えが置かれた清方の絵は、「目から涼む」工夫とともに暑い季節を乗り越えていた時代を表しています。この頃、冷たい氷を食べる嬉しさは、たとえ溶けるのが早かったとしても、今よりもずっと大きかったのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)