虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
伊庭八郎と菓子鮎
虎屋の『若鮎』「御干菓子見本帖」(1918)より隻腕の剣士伊庭八郎(いばはちろう・1843~69)は、江戸有数の剣術道場の跡取りとして生まれ、幕臣として徳川家茂・慶喜に仕えました。幕末維新期の戊辰戦争では、一貫して旧幕府側として戦い、明治2年5月、最後の戦場となった函館五稜郭で26歳の生涯を閉じます。眉目秀麗で役者のような風貌の上、義に厚く勇気があったとされ、また戦闘での傷がもとで左腕を失ったことから「隻腕の剣士」として、明治時代以降、講談などで語られ人気を博しました。 京都・大坂の遊覧記文久4年(1864)正月、八郎は将軍家茂の警固のため上洛し、しばらく京都・大坂に滞在します。その間の日記「伊庭八郎征西日記」からは、勤務や武芸の稽古の合間を縫って名所散策に出かけるなど、初めての上方を楽しんでいる様子がうかがえます。京都では嵐山・清水・祇園など、大坂滞在中は天満の天神(大坂天満宮)のほか、堺や奈良まで足を伸ばしました。名物を食べることも忘れておらず、堺では浜料理を楽しみ、天神の帰りには堂島へ寄り、米市場を見物した後「十二月しるこ屋」に入っています。「十二月」というと、12種類の汁粉を食べさせたという江戸の「十二ヶ月」※が思い浮かびます(「馬琴と汁粉」の項参照)。ひょっとして大坂にも出店していたのでしょうか。 「菓子鮎」をもらう上方滞在中には同僚などとの進物のやり取りも多く、菓子も頻出します。日記には「ミこと成(見事なる)桃の菓子」をもらったことや、家茂から拝領したと思われる菓子のおすそ分けについても記されています。また八郎が病気で寝込んだ際には、見舞いとしてカステラ・「雪おこし」・羊羹などが届けられました。京都に入って2ヶ月ほどたった3月16日(現在の暦では4月下旬頃)には、同僚と思われる「三枝氏」から「菓子鮎」が届けられたことが記されています。鮎の菓子といえば、小麦粉生地を薄く焼き、やわらかめの求肥を包み、焼印で目やひれをつけた「若鮎」が知られるほか、干菓子や最中、生菓子などがあります。八郎が目にした菓子がどのようなものだったかは想像するしかありませんが、本格的な鮎の季節を前に、まずは菓子で楽しむという趣向だったのかも知れません。6月にいったん江戸へ帰った八郎は、翌年再度上洛しますが、それは長州藩との戦争のためでした。そのまま上方に滞在し、戊辰戦争に突入することになった八郎は、初めての上洛中に過ごした日々を懐かしく思ったことでしょう。 ※ 江戸時代後期~大正時代にかけて江戸(東京)で繁盛した汁粉屋。明治時代には1月から12月までの汁粉を完食すると、代金は無料で景品が出たという。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「伊庭八郎征西日記」(『維新日乗纂輯』5 東京大学出版会 1969年)中村彰彦『ある幕臣の戊辰戦争』 中央公論新社 2014年
伊庭八郎と菓子鮎
虎屋の『若鮎』「御干菓子見本帖」(1918)より隻腕の剣士伊庭八郎(いばはちろう・1843~69)は、江戸有数の剣術道場の跡取りとして生まれ、幕臣として徳川家茂・慶喜に仕えました。幕末維新期の戊辰戦争では、一貫して旧幕府側として戦い、明治2年5月、最後の戦場となった函館五稜郭で26歳の生涯を閉じます。眉目秀麗で役者のような風貌の上、義に厚く勇気があったとされ、また戦闘での傷がもとで左腕を失ったことから「隻腕の剣士」として、明治時代以降、講談などで語られ人気を博しました。 京都・大坂の遊覧記文久4年(1864)正月、八郎は将軍家茂の警固のため上洛し、しばらく京都・大坂に滞在します。その間の日記「伊庭八郎征西日記」からは、勤務や武芸の稽古の合間を縫って名所散策に出かけるなど、初めての上方を楽しんでいる様子がうかがえます。京都では嵐山・清水・祇園など、大坂滞在中は天満の天神(大坂天満宮)のほか、堺や奈良まで足を伸ばしました。名物を食べることも忘れておらず、堺では浜料理を楽しみ、天神の帰りには堂島へ寄り、米市場を見物した後「十二月しるこ屋」に入っています。「十二月」というと、12種類の汁粉を食べさせたという江戸の「十二ヶ月」※が思い浮かびます(「馬琴と汁粉」の項参照)。ひょっとして大坂にも出店していたのでしょうか。 「菓子鮎」をもらう上方滞在中には同僚などとの進物のやり取りも多く、菓子も頻出します。日記には「ミこと成(見事なる)桃の菓子」をもらったことや、家茂から拝領したと思われる菓子のおすそ分けについても記されています。また八郎が病気で寝込んだ際には、見舞いとしてカステラ・「雪おこし」・羊羹などが届けられました。京都に入って2ヶ月ほどたった3月16日(現在の暦では4月下旬頃)には、同僚と思われる「三枝氏」から「菓子鮎」が届けられたことが記されています。鮎の菓子といえば、小麦粉生地を薄く焼き、やわらかめの求肥を包み、焼印で目やひれをつけた「若鮎」が知られるほか、干菓子や最中、生菓子などがあります。八郎が目にした菓子がどのようなものだったかは想像するしかありませんが、本格的な鮎の季節を前に、まずは菓子で楽しむという趣向だったのかも知れません。6月にいったん江戸へ帰った八郎は、翌年再度上洛しますが、それは長州藩との戦争のためでした。そのまま上方に滞在し、戊辰戦争に突入することになった八郎は、初めての上洛中に過ごした日々を懐かしく思ったことでしょう。 ※ 江戸時代後期~大正時代にかけて江戸(東京)で繁盛した汁粉屋。明治時代には1月から12月までの汁粉を完食すると、代金は無料で景品が出たという。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献「伊庭八郎征西日記」(『維新日乗纂輯』5 東京大学出版会 1969年)中村彰彦『ある幕臣の戊辰戦争』 中央公論新社 2014年
松平春嶽と月見饅頭
「月見饅」萩の箸で穴を開けたとされ、 そのため饅頭の中央には朱点が描かれたという。京都から贈る日記福井藩主の松平春嶽(まつだいらしゅんがく・1828 ~90)は、幕末の名君としても知られる人物で、政事総裁職や京都守護職など幕府の要職も務めました。春嶽はたびたび公務で京都に滞在しますが、その様子を日記にまとめ、福井に暮らす夫人の勇姫(いさひめ)へ贈っていました。 月見とは?慶応3年(1867)6月16日、春嶽は下鴨神社へ出かけ、神官の鴨脚(いちょう)丹波守(光興)、鴨脚越中守(光長)らの出迎えを受けます。神社参詣後は越中守の屋敷で宴会が開かれ、和やかなひとときを送りました。宴も進んだ頃、春嶽は神官たちから、今夜御所で16歳になられた明治天皇が月見をするという話を聞きます。それは天皇が饅頭に穴を開けて月を見ている最中に、着物の袖が切り落とされるというものでした。越中守も娘が同じ年になるので、今夜饅頭に穴を開けているときに着物の袖を切り落とすのだといいます。話が終わると越中守の美しい娘が御所風の髪型に振袖という姿でやってきました。ここでいう月見は、よく知られる秋の観月ではなく、公家社会を中心に行なわれた成人儀礼を意味します(「皇女和宮と月見饅」の項参照)。袖を切るというのは、振袖の丈を詰めて成人用の袖丈にする「袖留(そでとめ)」のことを指すと思われます※。その後春嶽は越中守の屋敷を辞しますが、この日のできごとを、紙幅をさいて丁寧に書いています。春嶽は京都の珍しい儀式に触れたことを、きっと夫人に教えたかったのでしょう。 ※ 明治天皇の月見の儀の記述に「袖留の儀を行はせらる」とある(『明治天皇紀』第1 吉川弘文館 1968年) ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献慶応3年(1867)「京都日記」(『福井県史』資料編3 中・近世1 福井県、1982年)三上一夫『幕末維新と松平春嶽』吉川弘文館 2004年
松平春嶽と月見饅頭
「月見饅」萩の箸で穴を開けたとされ、 そのため饅頭の中央には朱点が描かれたという。京都から贈る日記福井藩主の松平春嶽(まつだいらしゅんがく・1828 ~90)は、幕末の名君としても知られる人物で、政事総裁職や京都守護職など幕府の要職も務めました。春嶽はたびたび公務で京都に滞在しますが、その様子を日記にまとめ、福井に暮らす夫人の勇姫(いさひめ)へ贈っていました。 月見とは?慶応3年(1867)6月16日、春嶽は下鴨神社へ出かけ、神官の鴨脚(いちょう)丹波守(光興)、鴨脚越中守(光長)らの出迎えを受けます。神社参詣後は越中守の屋敷で宴会が開かれ、和やかなひとときを送りました。宴も進んだ頃、春嶽は神官たちから、今夜御所で16歳になられた明治天皇が月見をするという話を聞きます。それは天皇が饅頭に穴を開けて月を見ている最中に、着物の袖が切り落とされるというものでした。越中守も娘が同じ年になるので、今夜饅頭に穴を開けているときに着物の袖を切り落とすのだといいます。話が終わると越中守の美しい娘が御所風の髪型に振袖という姿でやってきました。ここでいう月見は、よく知られる秋の観月ではなく、公家社会を中心に行なわれた成人儀礼を意味します(「皇女和宮と月見饅」の項参照)。袖を切るというのは、振袖の丈を詰めて成人用の袖丈にする「袖留(そでとめ)」のことを指すと思われます※。その後春嶽は越中守の屋敷を辞しますが、この日のできごとを、紙幅をさいて丁寧に書いています。春嶽は京都の珍しい儀式に触れたことを、きっと夫人に教えたかったのでしょう。 ※ 明治天皇の月見の儀の記述に「袖留の儀を行はせらる」とある(『明治天皇紀』第1 吉川弘文館 1968年) ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献慶応3年(1867)「京都日記」(『福井県史』資料編3 中・近世1 福井県、1982年)三上一夫『幕末維新と松平春嶽』吉川弘文館 2004年
澤村田之助(二代目)とみめより
歌川広重「太平喜餅酒多多買」(1843~1846年)部分 江戸時代、庶民が楽しんだ菓子などを擬人化した浮世絵 手前が丸形の金鍔、後方が四角いみめより夭折の女形江戸時代後期に活躍した二代目澤村田之助(さわむらたのすけ・1788~1817)は京都生まれの歌舞伎役者です。役者である父を早くに亡くし、下積みの苦労を味わいましたが、際立った美貌を武器に女形舞踊の大曲「娘道成寺」で頭角を現わしました。京坂での活躍にとどまらず、江戸でも評判を集めましたが、不幸にして29歳の若さで亡くなりました。 「陸奥山に梅忠がさく」の正体は?人気役者となり江戸に下った年の翌年、文化6年(1809)に市村座で初演されたのが鶴屋南北作の「貞操花鳥羽恋塚(みさおのはなとばのこいづか)」。その一場面に、田之助扮する女商人が、何を商っているのか尋ねられ、「陸奥山(みちのくやま)に梅忠(うめただ)がさく」と謎をかけるくだりがあります。陸奥山は、『万葉集』の「すめろぎの御代栄えむとあずまなる陸奥山にこがね花咲く」(大伴家持)から「金」。梅忠は、桃山時代の刀工・鍔工の埋忠明寿(うめただみょうじゅ)から「鍔」。つまり答えは菓子の金鍔(きんつば)です。謎が解けたのち、女商人は舞を所望され、おかめの面をつけ「みめより」という長唄で踊ります。 金鍔とみめよりこの長唄、題名は「人はみめよりただ心」(顔の美しさより心の美しさが大切の意)という諺にちなんだものですが、実は、同名の菓子を宣伝しています。「みめより」とは、四角い金鍔の元祖とされる菓子。当時、すでに金鍔はあったのですが、その名の通り、刀の鍔をかたどった丸形でした。「みめより」は、これを四角にし、「皮を薄く餡をよろしく」したものでした(『嬉遊笑覧』)。見た目は地味ながら味がいいという特徴を諺に掛けたうまいネーミングですね。この菓子を考案した浅草・南馬道(みなみうまみち)の菓子屋の主人が田之助の贔屓で、長唄を作らせたともいわれ、唄にも「ふうみ(風味)馬道、召せやれ、いへつと(=土産)によい」と同店のことが織り込まれています。当時の人々は、金鍔売りが「みめより」を踊るという趣向から、すぐに菓子を連想し、にやりとしたことでしょう。庶民の芸能であった歌舞伎は、宣伝広告の役割も担っており、流行物や新商品が台詞などに登場することもしばしばありました。評判の美しい女形の踊りは、人気タレントを使ったCMといったところでしょうか。田之助の贔屓たちがこぞって「みめより」を買い求める姿が想像されます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献廣末保編『鶴屋南北全集』第2巻 三一書房 1971年浅川玉兎『長唄名曲要説』補遺篇 日本音楽社 1979年喜多村いん(註:いんは竹冠に均という文字)庭『嬉遊笑覧』(四)岩波書店 2005年
澤村田之助(二代目)とみめより
歌川広重「太平喜餅酒多多買」(1843~1846年)部分 江戸時代、庶民が楽しんだ菓子などを擬人化した浮世絵 手前が丸形の金鍔、後方が四角いみめより夭折の女形江戸時代後期に活躍した二代目澤村田之助(さわむらたのすけ・1788~1817)は京都生まれの歌舞伎役者です。役者である父を早くに亡くし、下積みの苦労を味わいましたが、際立った美貌を武器に女形舞踊の大曲「娘道成寺」で頭角を現わしました。京坂での活躍にとどまらず、江戸でも評判を集めましたが、不幸にして29歳の若さで亡くなりました。 「陸奥山に梅忠がさく」の正体は?人気役者となり江戸に下った年の翌年、文化6年(1809)に市村座で初演されたのが鶴屋南北作の「貞操花鳥羽恋塚(みさおのはなとばのこいづか)」。その一場面に、田之助扮する女商人が、何を商っているのか尋ねられ、「陸奥山(みちのくやま)に梅忠(うめただ)がさく」と謎をかけるくだりがあります。陸奥山は、『万葉集』の「すめろぎの御代栄えむとあずまなる陸奥山にこがね花咲く」(大伴家持)から「金」。梅忠は、桃山時代の刀工・鍔工の埋忠明寿(うめただみょうじゅ)から「鍔」。つまり答えは菓子の金鍔(きんつば)です。謎が解けたのち、女商人は舞を所望され、おかめの面をつけ「みめより」という長唄で踊ります。 金鍔とみめよりこの長唄、題名は「人はみめよりただ心」(顔の美しさより心の美しさが大切の意)という諺にちなんだものですが、実は、同名の菓子を宣伝しています。「みめより」とは、四角い金鍔の元祖とされる菓子。当時、すでに金鍔はあったのですが、その名の通り、刀の鍔をかたどった丸形でした。「みめより」は、これを四角にし、「皮を薄く餡をよろしく」したものでした(『嬉遊笑覧』)。見た目は地味ながら味がいいという特徴を諺に掛けたうまいネーミングですね。この菓子を考案した浅草・南馬道(みなみうまみち)の菓子屋の主人が田之助の贔屓で、長唄を作らせたともいわれ、唄にも「ふうみ(風味)馬道、召せやれ、いへつと(=土産)によい」と同店のことが織り込まれています。当時の人々は、金鍔売りが「みめより」を踊るという趣向から、すぐに菓子を連想し、にやりとしたことでしょう。庶民の芸能であった歌舞伎は、宣伝広告の役割も担っており、流行物や新商品が台詞などに登場することもしばしばありました。評判の美しい女形の踊りは、人気タレントを使ったCMといったところでしょうか。田之助の贔屓たちがこぞって「みめより」を買い求める姿が想像されます。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献廣末保編『鶴屋南北全集』第2巻 三一書房 1971年浅川玉兎『長唄名曲要説』補遺篇 日本音楽社 1979年喜多村いん(註:いんは竹冠に均という文字)庭『嬉遊笑覧』(四)岩波書店 2005年
鯛屋貞柳と玉露霜
鯛屋店頭『絵本御伽品鏡』(1730)より菓子屋で狂歌師江戸時代に上方で活躍した狂歌師に、鯛屋貞柳(たいやていりゅう・1654~1734)がいます。本名は永田善八。鯛屋とは家業の菓子屋の屋号です。店は南御堂前雛屋町(大阪市中央区)西南の角にあり、貞柳の狂歌が伝わっています。 わが宿は御堂の辰巳しかも角よう売れますと人はいふなり 喜撰法師の和歌「我が庵は都の辰巳しかぞ住む世を宇治山と人はいふなり」(百人一首)を踏まえて店の繁昌を詠みこんだものです。 菓子 玉露霜(ぎょくろそう)『狂歌貞柳伝』(1790)によると、貞柳が店を継いだ元禄13年(1700)頃、長崎から来た菓子作り名人星野善方が、鯛屋に伝えた製法の中に、銘菓となった玉露霜がありました。貞柳が京都の女院御所へこの菓子を届けたところ、女院(霊元院の中宮、新上西門院・鷹司房子)の意向で狂歌を詠むことになり、即座に応えたものが次の一首。 万歳と君を祝ひて奉る菓子も千箱(ちはこ)の玉の露霜 「千箱の玉」とは多くの箱に入った玉(財宝)の意で、「千秋万歳の千箱の玉を奉る」と婚礼などで用いられる祝いの言葉です。ここでは、女院の万歳(長寿)を祝い、献上する多くの箱の玉(財宝)、そこに菓子「玉露霜」の名をかけてめでた尽くしです。即興で詠むあたり狂歌師貞柳の面目躍如というところでしょう。「おほけなき」所(霊元院か)の耳にも入り、「玉露霜とはあまりにはかない名前なので、玉露こうと改めるように」とのお言葉があったとか。鯛屋のこの菓子についてどのようなものだったかはっきりとはわかりません。『昼夜重宝記』(1692)の「薬菓子の部」には、「玉露霜」の製法があり、緑豆の粉に薄荷の葉を上下に敷いて蒸し、風味をつけて砂糖をかき合わせて作ることが記されています。出典として明代の医薬書『済世全書』(1616)が示されていますので中国伝来でしょう。薄荷の香りの甘い菓子。長崎の菓子職人が伝えたという鯛屋の玉露霜もこのようなものだったのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献大谷篤蔵「翻刻『狂歌貞柳伝』」(『文林』12号 松蔭女子学院大学 1978年)「三井高業学芸資料3「狂歌貞柳伝」(影印)」(『三井文庫論叢』13号 三井文庫 1979年)
鯛屋貞柳と玉露霜
鯛屋店頭『絵本御伽品鏡』(1730)より菓子屋で狂歌師江戸時代に上方で活躍した狂歌師に、鯛屋貞柳(たいやていりゅう・1654~1734)がいます。本名は永田善八。鯛屋とは家業の菓子屋の屋号です。店は南御堂前雛屋町(大阪市中央区)西南の角にあり、貞柳の狂歌が伝わっています。 わが宿は御堂の辰巳しかも角よう売れますと人はいふなり 喜撰法師の和歌「我が庵は都の辰巳しかぞ住む世を宇治山と人はいふなり」(百人一首)を踏まえて店の繁昌を詠みこんだものです。 菓子 玉露霜(ぎょくろそう)『狂歌貞柳伝』(1790)によると、貞柳が店を継いだ元禄13年(1700)頃、長崎から来た菓子作り名人星野善方が、鯛屋に伝えた製法の中に、銘菓となった玉露霜がありました。貞柳が京都の女院御所へこの菓子を届けたところ、女院(霊元院の中宮、新上西門院・鷹司房子)の意向で狂歌を詠むことになり、即座に応えたものが次の一首。 万歳と君を祝ひて奉る菓子も千箱(ちはこ)の玉の露霜 「千箱の玉」とは多くの箱に入った玉(財宝)の意で、「千秋万歳の千箱の玉を奉る」と婚礼などで用いられる祝いの言葉です。ここでは、女院の万歳(長寿)を祝い、献上する多くの箱の玉(財宝)、そこに菓子「玉露霜」の名をかけてめでた尽くしです。即興で詠むあたり狂歌師貞柳の面目躍如というところでしょう。「おほけなき」所(霊元院か)の耳にも入り、「玉露霜とはあまりにはかない名前なので、玉露こうと改めるように」とのお言葉があったとか。鯛屋のこの菓子についてどのようなものだったかはっきりとはわかりません。『昼夜重宝記』(1692)の「薬菓子の部」には、「玉露霜」の製法があり、緑豆の粉に薄荷の葉を上下に敷いて蒸し、風味をつけて砂糖をかき合わせて作ることが記されています。出典として明代の医薬書『済世全書』(1616)が示されていますので中国伝来でしょう。薄荷の香りの甘い菓子。長崎の菓子職人が伝えたという鯛屋の玉露霜もこのようなものだったのかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献大谷篤蔵「翻刻『狂歌貞柳伝』」(『文林』12号 松蔭女子学院大学 1978年)「三井高業学芸資料3「狂歌貞柳伝」(影印)」(『三井文庫論叢』13号 三井文庫 1979年)
黒川道祐と麩の焼
麩の焼 「ふの焼」の図 「後陽成院様御代より御用諸色書抜留」虎屋黒川家文書 (機関誌『和菓子』15号107頁に翻刻あり) 藩医を辞めて京都へ黒川道祐(くろかわどうゆう・?~1691)は、江戸時代前期の儒医です。広島で藩主の浅野家に仕え、『芸備国郡志』『本朝医考』などを著し、延宝元年(1673)には職を辞して京都に居を構え、著述業に専念しました。歴史、文学に造詣が深く、京都の名所史跡を探訪し、晩年を過ごしたと伝えられます。その著作『雍州府志』(ようしゅうふし・1686刊)は、山城国(京都府南部)の地誌で、地理、沿革、寺社、風俗や土産などについて言及した10巻にも及ぶ詳細な内容は、今日も資料的価値が高いものとされます。 『雍州府志』に見える京都の菓子菓子に関しては、餅、角黍(ちまき)、饅頭、地黄煎、飴糖、洲浜飴、興米(おこしごめ)、麩の焼(ふのやき)、焼餅、団子、欠(か)き餅、煎餅、古賀志(こがし、香煎のこと)、炒豆などの記述があり、今も知られる川端道喜の粽、御手洗団子、真盛豆、弊社の饅頭にも触れています。なかでも今回ご紹介したいのが麩の焼です。千利休の茶会を記したとされる「利休百会記」にたびたび見えますが、同書により、江戸時代前期には京都の各所で作られていて、小麦粉を水溶きして焼き、表面に味噌を塗って巻いたものだったことなどがわかります。「匙」(さじ)の使用や、麩の焼の中側は「柔脆」(じゅうぜい)という記述からは、道祐が製造現場を見たり、実際に味わったりしていた様子が想像できそうです。民間では、彼岸の折、親戚や友人に麩の焼をふるまい、形状が経巻に似ているので、これを食べることを「経幾巻を読む」と言った旨も見え、意外な風習に驚かされます。 麩の焼の絵図余談になりますが、経巻を思わせる麩の焼の絵図が虎屋の御用記録に残っています(上図)。『雍州府志』が刊行されて100年以上も後の寛政5年(1793)5月15日に、仙洞御所(後桜町上皇)の「御好御用」として納めたもので、「御膳餡入巻」とあることから、あんこ巻きのような感じでしょう。道祐にも見せたい絵図ですが、甘い餡の麩の焼きでは、食べても「経幾巻を読む」雰囲気にならなかったかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『雍州府志』 新修京都叢書10巻 臨川書店 1994年
黒川道祐と麩の焼
麩の焼 「ふの焼」の図 「後陽成院様御代より御用諸色書抜留」虎屋黒川家文書 (機関誌『和菓子』15号107頁に翻刻あり) 藩医を辞めて京都へ黒川道祐(くろかわどうゆう・?~1691)は、江戸時代前期の儒医です。広島で藩主の浅野家に仕え、『芸備国郡志』『本朝医考』などを著し、延宝元年(1673)には職を辞して京都に居を構え、著述業に専念しました。歴史、文学に造詣が深く、京都の名所史跡を探訪し、晩年を過ごしたと伝えられます。その著作『雍州府志』(ようしゅうふし・1686刊)は、山城国(京都府南部)の地誌で、地理、沿革、寺社、風俗や土産などについて言及した10巻にも及ぶ詳細な内容は、今日も資料的価値が高いものとされます。 『雍州府志』に見える京都の菓子菓子に関しては、餅、角黍(ちまき)、饅頭、地黄煎、飴糖、洲浜飴、興米(おこしごめ)、麩の焼(ふのやき)、焼餅、団子、欠(か)き餅、煎餅、古賀志(こがし、香煎のこと)、炒豆などの記述があり、今も知られる川端道喜の粽、御手洗団子、真盛豆、弊社の饅頭にも触れています。なかでも今回ご紹介したいのが麩の焼です。千利休の茶会を記したとされる「利休百会記」にたびたび見えますが、同書により、江戸時代前期には京都の各所で作られていて、小麦粉を水溶きして焼き、表面に味噌を塗って巻いたものだったことなどがわかります。「匙」(さじ)の使用や、麩の焼の中側は「柔脆」(じゅうぜい)という記述からは、道祐が製造現場を見たり、実際に味わったりしていた様子が想像できそうです。民間では、彼岸の折、親戚や友人に麩の焼をふるまい、形状が経巻に似ているので、これを食べることを「経幾巻を読む」と言った旨も見え、意外な風習に驚かされます。 麩の焼の絵図余談になりますが、経巻を思わせる麩の焼の絵図が虎屋の御用記録に残っています(上図)。『雍州府志』が刊行されて100年以上も後の寛政5年(1793)5月15日に、仙洞御所(後桜町上皇)の「御好御用」として納めたもので、「御膳餡入巻」とあることから、あんこ巻きのような感じでしょう。道祐にも見せたい絵図ですが、甘い餡の麩の焼きでは、食べても「経幾巻を読む」雰囲気にならなかったかもしれません。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『雍州府志』 新修京都叢書10巻 臨川書店 1994年
安田松翁と菓子
花ぼうろ安田善次郎こと茶人松翁安田善次郎(1838~1921)は現在の富山県出身で、下級武士の子として生まれました。20歳の頃、幕末の江戸に出て丁稚奉公をはじめます。その後、一代で安田銀行(現みずほFG)を中心とした安田財閥を築き、日本の銀行王といわれました。また日比谷公会堂や東京大学安田講堂を寄付するなど社会事業の面でも業績を残しました。40歳前後のようですが、知人の勧めもあり、お茶に興味を持つようになり、表千家11代宗匠碌々斎(ろくろくさい)に入門し、松翁(しょうおう)を名乗りました。明治13年(1880)から大正7年(1918)にわたり記されたのが『松翁茶会記』です。 花ぼうろ茶会記で明治14、15年の2月の席に続けて使われた菓子が目につきました。はしか彫※1香盆に載せた「花ぼうろ※2」です。「花ぼうろ」は南蛮菓子の一種で、小麦粉に砂糖を混ぜた生地を王冠(図1)や花など(図2)に成形した菓子です。このような菓子は現在も沖縄で販売されていますが、干菓子として使う記録は、明治から大正にかけての茶会記では見たことがありません。ところが色々な菓子の絵図帳を見ていると、「花ぼうろ」と言ってもシンプルな形状のもの(図3)もあることが分かりました。実際にどのようなものを松翁が使ったのかは分かりませんが、こうして想像してみるのも茶会記を読む楽しみの一つです。 花ぼうろ花ぼうろ 「蒸餅干菓子雛形 下」(虎屋文庫蔵)から松翁、水飴を所望松翁の亡くなる前年の大正9年夏、松翁の子どもたちが、避暑のため浦賀で過ごした帰りに彼のいる大磯に立ち寄る折、土産に何がよいか尋ねたところ、「浦賀には好(よ)き水飴あり、それを貰(もら)ひたし」と返事をしています。『新編相模国風土記稿』(1841)によると、浦賀では天明(1781~89)の頃からおいしい水飴を作っていました。現在は廃れてしまいましたが、外国人からも「からだに良い」との評判もあり、パリ万国博覧会(1889)にも出品されています。松翁は余生を暮らした大磯の裏山に、95歳までに三十三番札所の観音像を作る計画を立てていたようで、大正9年の段階で、既に23箇所は完成していました。残りの完成を目指し、健康に気をつけ、からだに良いと評判の水飴を求めたのでしょう。 ※1 はしか彫:彫漆(ちょうしつ)の一種。彫りの線が細く、稲・麦などの芒(のぎ)のような先端がとがった彫りが特徴。※2 ぼうろ、ボーロ、ボウルは同種の菓子。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献安田善次郎『松翁茶会記』私家版 1928年矢野竜渓『安田善次郎伝』安田保善社 1925年エリザR.シドモア『シドモア日本紀行』講談社学術文庫 2002年
安田松翁と菓子
花ぼうろ安田善次郎こと茶人松翁安田善次郎(1838~1921)は現在の富山県出身で、下級武士の子として生まれました。20歳の頃、幕末の江戸に出て丁稚奉公をはじめます。その後、一代で安田銀行(現みずほFG)を中心とした安田財閥を築き、日本の銀行王といわれました。また日比谷公会堂や東京大学安田講堂を寄付するなど社会事業の面でも業績を残しました。40歳前後のようですが、知人の勧めもあり、お茶に興味を持つようになり、表千家11代宗匠碌々斎(ろくろくさい)に入門し、松翁(しょうおう)を名乗りました。明治13年(1880)から大正7年(1918)にわたり記されたのが『松翁茶会記』です。 花ぼうろ茶会記で明治14、15年の2月の席に続けて使われた菓子が目につきました。はしか彫※1香盆に載せた「花ぼうろ※2」です。「花ぼうろ」は南蛮菓子の一種で、小麦粉に砂糖を混ぜた生地を王冠(図1)や花など(図2)に成形した菓子です。このような菓子は現在も沖縄で販売されていますが、干菓子として使う記録は、明治から大正にかけての茶会記では見たことがありません。ところが色々な菓子の絵図帳を見ていると、「花ぼうろ」と言ってもシンプルな形状のもの(図3)もあることが分かりました。実際にどのようなものを松翁が使ったのかは分かりませんが、こうして想像してみるのも茶会記を読む楽しみの一つです。 花ぼうろ花ぼうろ 「蒸餅干菓子雛形 下」(虎屋文庫蔵)から松翁、水飴を所望松翁の亡くなる前年の大正9年夏、松翁の子どもたちが、避暑のため浦賀で過ごした帰りに彼のいる大磯に立ち寄る折、土産に何がよいか尋ねたところ、「浦賀には好(よ)き水飴あり、それを貰(もら)ひたし」と返事をしています。『新編相模国風土記稿』(1841)によると、浦賀では天明(1781~89)の頃からおいしい水飴を作っていました。現在は廃れてしまいましたが、外国人からも「からだに良い」との評判もあり、パリ万国博覧会(1889)にも出品されています。松翁は余生を暮らした大磯の裏山に、95歳までに三十三番札所の観音像を作る計画を立てていたようで、大正9年の段階で、既に23箇所は完成していました。残りの完成を目指し、健康に気をつけ、からだに良いと評判の水飴を求めたのでしょう。 ※1 はしか彫:彫漆(ちょうしつ)の一種。彫りの線が細く、稲・麦などの芒(のぎ)のような先端がとがった彫りが特徴。※2 ぼうろ、ボーロ、ボウルは同種の菓子。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献安田善次郎『松翁茶会記』私家版 1928年矢野竜渓『安田善次郎伝』安田保善社 1925年エリザR.シドモア『シドモア日本紀行』講談社学術文庫 2002年