虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子
豊臣秀頼とのし柿
江戸時代の文献に見える熟柿と干柿『本草図譜』国立国会図書館蔵悲劇の貴公子豊臣秀頼(とよとみひでより・1593~1615)は、豊臣秀吉の嫡子として生まれ、母は織田信長の姪にあたる淀殿(よどどの)、妻は徳川家康の孫娘、千姫という、貴公子中の貴公子です。わずか6歳で父を亡くし、豊臣から徳川へ移り行く時代のなか、慶長20年(1615)義理の祖父・父の徳川家康・秀忠率いる十数万の軍勢に囲まれ、父の築いた大坂城で母とともに自害し、23歳でその生涯を閉じました(大坂の陣)。今年は没後400年の節目の年にあたります。 父とともに菓子を贈る慶長2年12月、秀吉が中国地方の大名毛利輝元(もうりてるもと)を伏見城(京都府)の奥の座敷に招いた時のこと。はじめに秀吉が、続いて当時5歳の秀頼が、輝元にのし柿を与えたといいます(『萩藩閥閲録』)※。のし柿は干柿をのしたものでしょうか。当時は木の実や果物も「菓子」と考えられ、献立記録や茶会記には栗や柿、蜜柑などが多く見られます。砂糖が本格的に流通するようになる江戸時代以前には、木の実や果物の甘みは貴重なものだったことでしょう。ところで、秀吉はなぜわざわざ秀頼を同席させ、のし柿を渡させたのでしょうか。恐らく自身亡き後のことも考え、有力大名である輝元と秀頼の絆を深めようとしたのでしょう。翌年8月、秀吉は幼い秀頼を遺し、この世を去ることになります。 贈り物を手ずから渡す秀吉没後の慶長9年4月、12歳になった秀頼に対面した公家の船橋秀賢は、手渡しで熨斗鮑をもらったことを日記に記しています(「慶長日件録」)。また、慶長11年、正月の挨拶のため秀頼のもとを訪れた京都鹿苑寺の僧、鶴峯宗松は「木練柿(こねりがき・熟した柿か)」をもらい、「例年は秀頼様自ら菓子を下さるのに、今年は挨拶の人数が多かったためか、小姓からだった」と述べています(『鹿苑日録』)。豊臣家の当主として成長しつつあった秀頼は、学問や武芸に励み、聡明な人柄から将来を嘱望されていたといいます。父秀吉とともに過ごした幼き日々の中で、贈り物を自分自身で直接渡すことの大切さを学んだのかもしれません。菓子などを手ずから頂戴していた公家や僧侶たちは、徳川氏によって追い詰められていく秀頼に最後まで同情的だったといわれています。 ※ ちなみに輝元はこの時、秀吉と秀頼のどちらからかわかりませんが、饅頭ももらっています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献福田千鶴『豊臣秀頼』吉川弘文館 2014年曽根勇二『大坂の陣と豊臣秀頼』吉川弘文館 2013年
豊臣秀頼とのし柿
江戸時代の文献に見える熟柿と干柿『本草図譜』国立国会図書館蔵悲劇の貴公子豊臣秀頼(とよとみひでより・1593~1615)は、豊臣秀吉の嫡子として生まれ、母は織田信長の姪にあたる淀殿(よどどの)、妻は徳川家康の孫娘、千姫という、貴公子中の貴公子です。わずか6歳で父を亡くし、豊臣から徳川へ移り行く時代のなか、慶長20年(1615)義理の祖父・父の徳川家康・秀忠率いる十数万の軍勢に囲まれ、父の築いた大坂城で母とともに自害し、23歳でその生涯を閉じました(大坂の陣)。今年は没後400年の節目の年にあたります。 父とともに菓子を贈る慶長2年12月、秀吉が中国地方の大名毛利輝元(もうりてるもと)を伏見城(京都府)の奥の座敷に招いた時のこと。はじめに秀吉が、続いて当時5歳の秀頼が、輝元にのし柿を与えたといいます(『萩藩閥閲録』)※。のし柿は干柿をのしたものでしょうか。当時は木の実や果物も「菓子」と考えられ、献立記録や茶会記には栗や柿、蜜柑などが多く見られます。砂糖が本格的に流通するようになる江戸時代以前には、木の実や果物の甘みは貴重なものだったことでしょう。ところで、秀吉はなぜわざわざ秀頼を同席させ、のし柿を渡させたのでしょうか。恐らく自身亡き後のことも考え、有力大名である輝元と秀頼の絆を深めようとしたのでしょう。翌年8月、秀吉は幼い秀頼を遺し、この世を去ることになります。 贈り物を手ずから渡す秀吉没後の慶長9年4月、12歳になった秀頼に対面した公家の船橋秀賢は、手渡しで熨斗鮑をもらったことを日記に記しています(「慶長日件録」)。また、慶長11年、正月の挨拶のため秀頼のもとを訪れた京都鹿苑寺の僧、鶴峯宗松は「木練柿(こねりがき・熟した柿か)」をもらい、「例年は秀頼様自ら菓子を下さるのに、今年は挨拶の人数が多かったためか、小姓からだった」と述べています(『鹿苑日録』)。豊臣家の当主として成長しつつあった秀頼は、学問や武芸に励み、聡明な人柄から将来を嘱望されていたといいます。父秀吉とともに過ごした幼き日々の中で、贈り物を自分自身で直接渡すことの大切さを学んだのかもしれません。菓子などを手ずから頂戴していた公家や僧侶たちは、徳川氏によって追い詰められていく秀頼に最後まで同情的だったといわれています。 ※ ちなみに輝元はこの時、秀吉と秀頼のどちらからかわかりませんが、饅頭ももらっています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献福田千鶴『豊臣秀頼』吉川弘文館 2014年曽根勇二『大坂の陣と豊臣秀頼』吉川弘文館 2013年
正岡容とただ新粉
『いろは引 江戸と東京風俗野史』巻の四(1930)より芸を愛した生粋の東京人正岡容(まさおかいるる・1904~1958)は、寄席や演芸をこよなく愛し、芸人の人柄を捉えた巧みな評論や小説を残したことで知られます。生まれ育った東京への思い入れが深く、明治~昭和の街の風景や菓子のことを随筆に残しました。 子どもの楽しみ、ただ新粉(しんこ)着色した新粉(米の粉)生地をさまざまなかたちに作る新粉細工は、江戸時代から見られ、数十年前までは祭礼の縁日などにも並んでいました。客の注文に応じて、動物や鳥を作り上げる職人技は、子どもでなくても心踊るものだったことでしょう。こうした細工物だけでなく、かつては、子供向けに、さまざまな色の新粉生地をパレットのように片木板(へぎいた)に載せた「ただ新粉」が一緒に売られていたそうです。子どもたちは、板に添えられた鬢付油(びんつけあぶら)を手になじませながら、粘土のようにして遊んだといいます。 昭和23年(1948)に正岡が発表した『東京恋慕帖』には、この「ただ新粉」についての一文があります。正岡が幼い日に親しんだそれは、「正面へドデンと白い山脈のやうなものが据えられ、その前へ赤、青、緑、黄、黒、時として金、銀までの小さな色新粉の舎人(とねり)のごとくとあしらはれてゐるもの」とのこと。金銀まであったとは驚きます。ところが、戦時中の昭和17年、義妹が見つけてきたのは、味気ない白一色の塊でした。正岡は、自著の表紙絵に「ありし日の下町生活の象徴」として、木村荘八(きむらしょうはち)に、かつての色とりどりの「ただ新粉」の画を描いてもらいたいと思っているが、「若い読者たちからは此は一体何だ色見本かとでも云ふことになりさうである」と、もはや消えゆく存在であることを嘆息しました。この一文を読んだ、友人で浅草生まれの俳人の高篤三(こうとくぞう)が、「ただ新粉」を取り上げたことを喜び、なつかしむ葉書をすぐにくれたことを、正岡は後に回想しています。戦争を境にいつしか姿を消してしまった「ただ新粉」は、正岡たちにとって、古き良き時代を偲ぶよすがだったのではないでしょうか。 ※原文では、新粉の「新」の字は「米」+「参」の旧字を使用している。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『東京恋慕帖』筑摩書店 2004年仲田定之助『明治商売往来』筑摩書店 2003年
正岡容とただ新粉
『いろは引 江戸と東京風俗野史』巻の四(1930)より芸を愛した生粋の東京人正岡容(まさおかいるる・1904~1958)は、寄席や演芸をこよなく愛し、芸人の人柄を捉えた巧みな評論や小説を残したことで知られます。生まれ育った東京への思い入れが深く、明治~昭和の街の風景や菓子のことを随筆に残しました。 子どもの楽しみ、ただ新粉(しんこ)着色した新粉(米の粉)生地をさまざまなかたちに作る新粉細工は、江戸時代から見られ、数十年前までは祭礼の縁日などにも並んでいました。客の注文に応じて、動物や鳥を作り上げる職人技は、子どもでなくても心踊るものだったことでしょう。こうした細工物だけでなく、かつては、子供向けに、さまざまな色の新粉生地をパレットのように片木板(へぎいた)に載せた「ただ新粉」が一緒に売られていたそうです。子どもたちは、板に添えられた鬢付油(びんつけあぶら)を手になじませながら、粘土のようにして遊んだといいます。 昭和23年(1948)に正岡が発表した『東京恋慕帖』には、この「ただ新粉」についての一文があります。正岡が幼い日に親しんだそれは、「正面へドデンと白い山脈のやうなものが据えられ、その前へ赤、青、緑、黄、黒、時として金、銀までの小さな色新粉の舎人(とねり)のごとくとあしらはれてゐるもの」とのこと。金銀まであったとは驚きます。ところが、戦時中の昭和17年、義妹が見つけてきたのは、味気ない白一色の塊でした。正岡は、自著の表紙絵に「ありし日の下町生活の象徴」として、木村荘八(きむらしょうはち)に、かつての色とりどりの「ただ新粉」の画を描いてもらいたいと思っているが、「若い読者たちからは此は一体何だ色見本かとでも云ふことになりさうである」と、もはや消えゆく存在であることを嘆息しました。この一文を読んだ、友人で浅草生まれの俳人の高篤三(こうとくぞう)が、「ただ新粉」を取り上げたことを喜び、なつかしむ葉書をすぐにくれたことを、正岡は後に回想しています。戦争を境にいつしか姿を消してしまった「ただ新粉」は、正岡たちにとって、古き良き時代を偲ぶよすがだったのではないでしょうか。 ※原文では、新粉の「新」の字は「米」+「参」の旧字を使用している。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『東京恋慕帖』筑摩書店 2004年仲田定之助『明治商売往来』筑摩書店 2003年
小金井喜美子とくず餅
若き日の鴎外の思い出文豪森鴎外の妹、小金井喜美子(こがねいきみこ・1870~1956)は、兄同様文才に優れ、和歌や随筆などを数多く発表しました。逝去後に刊行された随筆『鴎外の思ひ出』には、敬愛する兄や森家の暮らしぶりなどが記されています。なかには学生時代の鴎外の様子も書かれていて、2人仲良く浅草などに外出する、ほほえましい情景も描かれています。 くず餅で団欒ある日、鴎外に誘われ喜美子は散歩に出掛けます。千住の家の近所を歩くつもりが思いのほか遠出になってしまい、千住大橋の先にある掛茶屋でようやく一休みをすることになりました。そこで兄が頼んでくれたくず餅を少し食べ、家族への土産用に包んでもらい家へ帰ります。くず餅は早速夕食後に出されますが、それを食べながら、父は川崎大師の店で食べたことがあるが、その店が本家だと言っていたと話します。その言葉を継ぎ、母は亀戸天神にある店には暖簾が「川崎屋」と染めてあったと言い、祖母にも柔らかいから食べるように勧めます。すると、祖母は「これはお国のと違って黄粉(きなこ)がわるいね。」と言い出したので、皆で「またお祖母様のお国自慢」と笑いました。鴎外もようやく思い出したという顔で、池上本門寺に出掛けた際、同行した友人がくず餅を喜んで食べていたことを話します。森家の人々が食べたくず餅は、発酵させた小麦澱粉の生地を蒸しあげて作ったものでしょう。乳白色の生地とほのかな酸味が特徴で、きな粉と黒蜜をかけて食べます。今も東京では門前の茶店ほかで売られ、なかには江戸時代の創業をうたった店もあります。ところで、当時鴎外は東京帝国大学を卒業したものの、希望した留学がなかなか認められず、不安な毎日を送っていました。この日も喜美子と散歩に行くときは浮かぬ顔をしていたのですが、家族との楽しい会話が鴎外の心を一時でもほぐしたのでしょう。喜美子は「何ならぬ品も静かな夜の語り草となったので、お土産に持って来た私はにこにこ笑っておりました。」と記しています。兄を思う喜美子の気持ちがそこはかとなくうかがえます。 ※ 本文中、喜美子の母が言った「川崎屋」は「船橋屋」の間違いと思われる。また、祖母の言う「お国」とは、島根県津和野を指す。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献小金井喜美子『鴎外の思い出』 岩波書店 1999年
小金井喜美子とくず餅
若き日の鴎外の思い出文豪森鴎外の妹、小金井喜美子(こがねいきみこ・1870~1956)は、兄同様文才に優れ、和歌や随筆などを数多く発表しました。逝去後に刊行された随筆『鴎外の思ひ出』には、敬愛する兄や森家の暮らしぶりなどが記されています。なかには学生時代の鴎外の様子も書かれていて、2人仲良く浅草などに外出する、ほほえましい情景も描かれています。 くず餅で団欒ある日、鴎外に誘われ喜美子は散歩に出掛けます。千住の家の近所を歩くつもりが思いのほか遠出になってしまい、千住大橋の先にある掛茶屋でようやく一休みをすることになりました。そこで兄が頼んでくれたくず餅を少し食べ、家族への土産用に包んでもらい家へ帰ります。くず餅は早速夕食後に出されますが、それを食べながら、父は川崎大師の店で食べたことがあるが、その店が本家だと言っていたと話します。その言葉を継ぎ、母は亀戸天神にある店には暖簾が「川崎屋」と染めてあったと言い、祖母にも柔らかいから食べるように勧めます。すると、祖母は「これはお国のと違って黄粉(きなこ)がわるいね。」と言い出したので、皆で「またお祖母様のお国自慢」と笑いました。鴎外もようやく思い出したという顔で、池上本門寺に出掛けた際、同行した友人がくず餅を喜んで食べていたことを話します。森家の人々が食べたくず餅は、発酵させた小麦澱粉の生地を蒸しあげて作ったものでしょう。乳白色の生地とほのかな酸味が特徴で、きな粉と黒蜜をかけて食べます。今も東京では門前の茶店ほかで売られ、なかには江戸時代の創業をうたった店もあります。ところで、当時鴎外は東京帝国大学を卒業したものの、希望した留学がなかなか認められず、不安な毎日を送っていました。この日も喜美子と散歩に行くときは浮かぬ顔をしていたのですが、家族との楽しい会話が鴎外の心を一時でもほぐしたのでしょう。喜美子は「何ならぬ品も静かな夜の語り草となったので、お土産に持って来た私はにこにこ笑っておりました。」と記しています。兄を思う喜美子の気持ちがそこはかとなくうかがえます。 ※ 本文中、喜美子の母が言った「川崎屋」は「船橋屋」の間違いと思われる。また、祖母の言う「お国」とは、島根県津和野を指す。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献小金井喜美子『鴎外の思い出』 岩波書店 1999年
川路聖謨と菓子
ロシア側が日本側全権に贈った菓子の絵図(吉田コレクション蔵) 再現したもの 対ロシア外交に貢献川路聖謨(かわじとしあきら・1801~68)は豊後国日田(大分県日田市)出身の幕臣です。 嘉永6年(1853)ロシア使節プチャーチンの来航に際し、長崎で交渉にあたり、翌年伊豆下田で日露和親条約を結びました。 明るく、機知に富んだ俊英で、プチャーチンは、ヨーロッパの社交界に出ても通用する一流の人物として絶賛しています。 長崎でのロシアと日本側の交流については、過去のHPでも取り上げましたが、 今回は同地で、嘉永6年12月17日、ロシア側が艦上で日本側をもてなした折の菓子のエピソードをご紹介しましょう。 自ら菓子を懐中に川路の日記によれば、当日出された料理は、鯛や米を入れたスープのようなもの、 「牛・羊・鶏・玉子の類、又野菜の酢のもの」などで、 「菓子はカステラの類、葛もち、并にうどんの粉にて作りたるもの也」とのこと。詳しい記述はありませんが、 「カステラの類」は、引き出物で出された焼菓子(上図)のようなものでしょうか。 次の「葛もち」は日本の葛餅に似た食感のものだったかもしれません。「うどんの粉」は小麦粉のことで、 米粉でない点が印象に残ったと思われます。形や味の言及もなく、淡々と記されていますが、接待したロシア側のゴンチャローフの旅行記によれば、 日本人一行は「これは何でござるか」と一皿ごとに尋ねたり、満足そうに羊肉をたいらげ、おかわりを所望したり、 積極的だった様子。「クリームのような軟らかいケーキ」(前述のカステラの類か)がビスケットと一緒に出されると、 川路は気に入ったのか、袂(たもと)から紙を一枚取り出して皿に残ったものを全部それに移し、 一捻りして懐中にしまい込んだそうです。「どこかの美人に持参する」のでなく「家来どもに取らせる」のだと 川路が話したことから、女性談義が始まるという、ほほえましい展開になります。こんなところにも彼の社交性がうかがえるといえるでしょう。 激動の人生人情味豊かで茶目っ気がありながらも、川路は日本が不利な立場にならないよう、交渉では毅然とした態度をとりました。 ロシア外交の功労者として讃えられますが、晩年は時勢に恵まれず、隠居の身となり、病に苦しみます。 激動の人生でしたが、その比類なき外交手腕や魅力的な人柄は、時代小説に描かれるなど、今も語り継がれています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献高野明・島田陽訳 『ゴンチャローフ日本渡航記』 講談社学術文庫 2008年川路聖謨著 『長崎日記・下田日記』 東洋文庫124 平凡社...
川路聖謨と菓子
ロシア側が日本側全権に贈った菓子の絵図(吉田コレクション蔵) 再現したもの 対ロシア外交に貢献川路聖謨(かわじとしあきら・1801~68)は豊後国日田(大分県日田市)出身の幕臣です。 嘉永6年(1853)ロシア使節プチャーチンの来航に際し、長崎で交渉にあたり、翌年伊豆下田で日露和親条約を結びました。 明るく、機知に富んだ俊英で、プチャーチンは、ヨーロッパの社交界に出ても通用する一流の人物として絶賛しています。 長崎でのロシアと日本側の交流については、過去のHPでも取り上げましたが、 今回は同地で、嘉永6年12月17日、ロシア側が艦上で日本側をもてなした折の菓子のエピソードをご紹介しましょう。 自ら菓子を懐中に川路の日記によれば、当日出された料理は、鯛や米を入れたスープのようなもの、 「牛・羊・鶏・玉子の類、又野菜の酢のもの」などで、 「菓子はカステラの類、葛もち、并にうどんの粉にて作りたるもの也」とのこと。詳しい記述はありませんが、 「カステラの類」は、引き出物で出された焼菓子(上図)のようなものでしょうか。 次の「葛もち」は日本の葛餅に似た食感のものだったかもしれません。「うどんの粉」は小麦粉のことで、 米粉でない点が印象に残ったと思われます。形や味の言及もなく、淡々と記されていますが、接待したロシア側のゴンチャローフの旅行記によれば、 日本人一行は「これは何でござるか」と一皿ごとに尋ねたり、満足そうに羊肉をたいらげ、おかわりを所望したり、 積極的だった様子。「クリームのような軟らかいケーキ」(前述のカステラの類か)がビスケットと一緒に出されると、 川路は気に入ったのか、袂(たもと)から紙を一枚取り出して皿に残ったものを全部それに移し、 一捻りして懐中にしまい込んだそうです。「どこかの美人に持参する」のでなく「家来どもに取らせる」のだと 川路が話したことから、女性談義が始まるという、ほほえましい展開になります。こんなところにも彼の社交性がうかがえるといえるでしょう。 激動の人生人情味豊かで茶目っ気がありながらも、川路は日本が不利な立場にならないよう、交渉では毅然とした態度をとりました。 ロシア外交の功労者として讃えられますが、晩年は時勢に恵まれず、隠居の身となり、病に苦しみます。 激動の人生でしたが、その比類なき外交手腕や魅力的な人柄は、時代小説に描かれるなど、今も語り継がれています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献高野明・島田陽訳 『ゴンチャローフ日本渡航記』 講談社学術文庫 2008年川路聖謨著 『長崎日記・下田日記』 東洋文庫124 平凡社...
栗山善四郎と茶席の菓子
虎屋の「遠山餅」 「數物御菓子見本帖」(1918)より江戸料理の老舗 八百善 八代目店主今回取り上げるのは八百善(やおぜん)の八代目店主、栗山善四郎(くりやまぜんしろう・1883~1968)です。八百善の創業は享保2年(1717)、江戸料理の老舗で、大名や有力商人、文人墨客に親しまれました。関東大震災までは浅草山谷(さんや)に店を構え、震災後は築地、戦後は永田町に移転しました。茶人の高橋箒庵は自著『東都茶道記』『昭和茶道記』に「今や都下の茶会は、大半八百善の庖刀に依頼する有様なるは人の能く知る所なり」「京阪地方の懐石と食べ較べても決して遜色あるまい」と八百善を高く評価しています。 茶人 添光庵一方、茶人としては古筆に詳しく、若くから箒庵をはじめ、益田鈍翁、馬越化生、石黒况翁、仰木魯堂らとの茶会の行き来がありました。のちにツルツル頭から自ら添光庵(てんこうあん)と称しています。昭和8年(1933)、高橋箒庵が担当したNHKラジオ茶道講座の懐石料理の献立と調理法の説明は添光庵が担当し、後日、書籍として『懐石料理十二ヶ月』をまとめています。『懐石料理とお茶の話』に掲載の献立は、若干の相違はありますが、これを基にしています。主菓子を正月から順に取り上げてみると、「遠山(とおやま)」、2月「うぐいす餅」、梅見「若菜きんとん」、お花見「遠山形草餅」、晩春は生の桜葉を使った「桜餅」、初風炉「水羊羹」、朝茶「葛素麺」、避暑地で「その土地の名物」、月見「栗団子、小倉あん」、名残「竹の皮包み栗入り蒸羊羹」、口切「小麦饅頭、結かんぴょう」、歳暮「栗ぜんざい」。いかにも茶懐石にふさわしい、侘びた風情の菓子が並びます。 主菓子「遠山」上記正月献立の解説の最後に「正月にちなんで、越後屋(向両国)※1の遠山にいたしましょう(この菓子は、あんを求肥で包んだ上に砂糖がかかったもの。形が遠山に雪を降らせたようであるのでこの名がある)。」と記されています。この越後屋の「遠山」は、昭和34年(1959)3月1日から3日間、永田町八百善で催された添光庵老人喜寿自祝茶会においても、自らが亭主となった濃茶席で使っています。お茶の世界で遠山といえば、利休が有馬の灰形山(兵庫県)に淡雪の降り積もるさまをヒントに考案したと言われている「遠山の蒔灰(まきばい)」が頭に浮かびます。この灰形(はいがた)※2は風炉の中の奥に山の形を作り、その上に灰を風炉の中、全面に丁寧に降りかけてゆく、初風炉などの改まった席で使われる、熟練した技と手間のかかるものです。添光庵にとって菓子の「遠山」は、改まった席で使う、決めの一品だったのかもしれません。 ※1 向両国とあることから越後屋若狭をさすものと思われる。※2 風炉の中に整えた灰の形。茶人にとって灰が作れるようになって、初めて茶人として認められるともいわれている。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献高橋箒庵著『東都茶道記』『大正茶道記』『昭和茶道記』 淡交社 2000年 1991年 2002年江守奈比古著『懐石料理とお茶の話』上・下 中公文庫 2014年栗山善四郎著『懐石料理十二ヶ月』 秋豊園 1935年
栗山善四郎と茶席の菓子
虎屋の「遠山餅」 「數物御菓子見本帖」(1918)より江戸料理の老舗 八百善 八代目店主今回取り上げるのは八百善(やおぜん)の八代目店主、栗山善四郎(くりやまぜんしろう・1883~1968)です。八百善の創業は享保2年(1717)、江戸料理の老舗で、大名や有力商人、文人墨客に親しまれました。関東大震災までは浅草山谷(さんや)に店を構え、震災後は築地、戦後は永田町に移転しました。茶人の高橋箒庵は自著『東都茶道記』『昭和茶道記』に「今や都下の茶会は、大半八百善の庖刀に依頼する有様なるは人の能く知る所なり」「京阪地方の懐石と食べ較べても決して遜色あるまい」と八百善を高く評価しています。 茶人 添光庵一方、茶人としては古筆に詳しく、若くから箒庵をはじめ、益田鈍翁、馬越化生、石黒况翁、仰木魯堂らとの茶会の行き来がありました。のちにツルツル頭から自ら添光庵(てんこうあん)と称しています。昭和8年(1933)、高橋箒庵が担当したNHKラジオ茶道講座の懐石料理の献立と調理法の説明は添光庵が担当し、後日、書籍として『懐石料理十二ヶ月』をまとめています。『懐石料理とお茶の話』に掲載の献立は、若干の相違はありますが、これを基にしています。主菓子を正月から順に取り上げてみると、「遠山(とおやま)」、2月「うぐいす餅」、梅見「若菜きんとん」、お花見「遠山形草餅」、晩春は生の桜葉を使った「桜餅」、初風炉「水羊羹」、朝茶「葛素麺」、避暑地で「その土地の名物」、月見「栗団子、小倉あん」、名残「竹の皮包み栗入り蒸羊羹」、口切「小麦饅頭、結かんぴょう」、歳暮「栗ぜんざい」。いかにも茶懐石にふさわしい、侘びた風情の菓子が並びます。 主菓子「遠山」上記正月献立の解説の最後に「正月にちなんで、越後屋(向両国)※1の遠山にいたしましょう(この菓子は、あんを求肥で包んだ上に砂糖がかかったもの。形が遠山に雪を降らせたようであるのでこの名がある)。」と記されています。この越後屋の「遠山」は、昭和34年(1959)3月1日から3日間、永田町八百善で催された添光庵老人喜寿自祝茶会においても、自らが亭主となった濃茶席で使っています。お茶の世界で遠山といえば、利休が有馬の灰形山(兵庫県)に淡雪の降り積もるさまをヒントに考案したと言われている「遠山の蒔灰(まきばい)」が頭に浮かびます。この灰形(はいがた)※2は風炉の中の奥に山の形を作り、その上に灰を風炉の中、全面に丁寧に降りかけてゆく、初風炉などの改まった席で使われる、熟練した技と手間のかかるものです。添光庵にとって菓子の「遠山」は、改まった席で使う、決めの一品だったのかもしれません。 ※1 向両国とあることから越後屋若狭をさすものと思われる。※2 風炉の中に整えた灰の形。茶人にとって灰が作れるようになって、初めて茶人として認められるともいわれている。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献高橋箒庵著『東都茶道記』『大正茶道記』『昭和茶道記』 淡交社 2000年 1991年 2002年江守奈比古著『懐石料理とお茶の話』上・下 中公文庫 2014年栗山善四郎著『懐石料理十二ヶ月』 秋豊園 1935年
室生犀星と羊羹
室生犀星が菓子を保管しておくためにだけ 愛用していた箪笥(室生犀星記念館蔵)金沢の菓子詩人・小説家の室生犀星(むろおさいせい・1889~1962)については、以前、幼少期の思い出をご紹介しました。彼が残した「菓子」という小文は、「主に品と雅と淡さとを目指した味わいから造られてあった」という故郷金沢の菓子をテーマにしています。「一体に軽い甘いものが多い」として書き上げられるのは、薄氷をはじめ、落雁、寿せんべい、長生殿、ちとせ、こわぶと、おぐら、芝ぶね、雛菓子等々。現在もおなじみのものに混じって、見慣れない「こわぶと」などの名前も見え、どんな菓子であったのか気にかかるところです。親しかった芥川龍之介が金沢を訪ねた時のことにも触れています。龍之介は「菓子好きだけに直ぐ菓子のうまいことを賞め」、東京にもなかなか無いような美味しい汁粉を食べに、一緒によく町にでかけたそうです(参考:芥川龍之介と汁粉)。甘いもの好きだった2人の交流には、ほかにも時折、菓子が顔をのぞかせています。 龍之介と羊羹と夜半(やはん)の隅田川(すみだがは)は何度見ても、詩人S・Mの言葉を越えることは出来ない。―「羊羹(やうかん)のやうに流れてゐる。」(芥川龍之介「都会で」より)この「詩人」が犀星です。黒々とした川の流れを羊羹にたとえる感性は、まさに詩人であり、正統派甘党、といったところでしょうか。龍之介が犀星から「赤い唐草の寂びた九谷の鉢」を貰った時の話にも、羊羹が出てきます。いわく、「これへは羊羹を入れなさい。(室生は何何し給へと云ふ代りに何何しなさいと云ふのである)まん中へちよつと五切ればかり、まつ黒い羊羹を入れなさい。」。「熱心に」こう語ったという犀星は、羊羹が好きだったのかもしれません。室生犀星記念館には、犀星が菓子を入れるためだけに使っていたという水屋箪笥が保管されています(残念ながら現在は展示されていません)。中にはきっと、金沢のお菓子と一緒に、羊羹もしまわれていたことでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『加賀金沢・故郷を辞す』講談社 1993年『芥川龍之介全集』岩波書店 1997年ほか
室生犀星と羊羹
室生犀星が菓子を保管しておくためにだけ 愛用していた箪笥(室生犀星記念館蔵)金沢の菓子詩人・小説家の室生犀星(むろおさいせい・1889~1962)については、以前、幼少期の思い出をご紹介しました。彼が残した「菓子」という小文は、「主に品と雅と淡さとを目指した味わいから造られてあった」という故郷金沢の菓子をテーマにしています。「一体に軽い甘いものが多い」として書き上げられるのは、薄氷をはじめ、落雁、寿せんべい、長生殿、ちとせ、こわぶと、おぐら、芝ぶね、雛菓子等々。現在もおなじみのものに混じって、見慣れない「こわぶと」などの名前も見え、どんな菓子であったのか気にかかるところです。親しかった芥川龍之介が金沢を訪ねた時のことにも触れています。龍之介は「菓子好きだけに直ぐ菓子のうまいことを賞め」、東京にもなかなか無いような美味しい汁粉を食べに、一緒によく町にでかけたそうです(参考:芥川龍之介と汁粉)。甘いもの好きだった2人の交流には、ほかにも時折、菓子が顔をのぞかせています。 龍之介と羊羹と夜半(やはん)の隅田川(すみだがは)は何度見ても、詩人S・Mの言葉を越えることは出来ない。―「羊羹(やうかん)のやうに流れてゐる。」(芥川龍之介「都会で」より)この「詩人」が犀星です。黒々とした川の流れを羊羹にたとえる感性は、まさに詩人であり、正統派甘党、といったところでしょうか。龍之介が犀星から「赤い唐草の寂びた九谷の鉢」を貰った時の話にも、羊羹が出てきます。いわく、「これへは羊羹を入れなさい。(室生は何何し給へと云ふ代りに何何しなさいと云ふのである)まん中へちよつと五切ればかり、まつ黒い羊羹を入れなさい。」。「熱心に」こう語ったという犀星は、羊羹が好きだったのかもしれません。室生犀星記念館には、犀星が菓子を入れるためだけに使っていたという水屋箪笥が保管されています(残念ながら現在は展示されていません)。中にはきっと、金沢のお菓子と一緒に、羊羹もしまわれていたことでしょう。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日) 参考文献『加賀金沢・故郷を辞す』講談社 1993年『芥川龍之介全集』岩波書店 1997年ほか