虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子

徳川光圀と福寿饅頭
正義の味方はグルメ時代劇では正義の味方「水戸黄門」として有名な徳川光圀 (1628~1700) ですが、「食通」という意外な一面がありました。イチジクやマルメロなど外来の珍しい果物を栽培させたり、蕎麦やうどんをみずから打ち、ラーメンも食べたという記録があります。 虎屋には光圀の注文した饅頭の御用記録が残っています。貞享5年 (1688) には霊元 (れいげん) 上皇が能を催した折に「大まん」100個を、元禄13年 (1700) 年には公家・中院通茂 (なかのいんみちしげ) 70歳の祝いとして饅頭100個を進上しています。 中院通茂は宮中と将軍家との交渉を担う重要な役職にあり、光圀とも親交があったと思われます。 黄門様みずから饅頭をデザイン?この時の記録には、饅頭の上に紅で「ふく (福) 寿」と書くようにとの指示のほか、皮は27匁 (101.2g)、餡は43匁 (161.2g) と重さまで記されています。あわせて70匁という重さは通茂の 70歳にちなんでいるのでしょうか。食通・光圀らしく凝った注文をしたのかもしれません。 なお、現在の饅頭は50g位が普通。江戸時代の饅頭は相当大きく、150gほどだったとはいえ、この260gを超える饅頭100個は、当時の人にとってもびっくりするような贈物だったのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
徳川光圀と福寿饅頭
正義の味方はグルメ時代劇では正義の味方「水戸黄門」として有名な徳川光圀 (1628~1700) ですが、「食通」という意外な一面がありました。イチジクやマルメロなど外来の珍しい果物を栽培させたり、蕎麦やうどんをみずから打ち、ラーメンも食べたという記録があります。 虎屋には光圀の注文した饅頭の御用記録が残っています。貞享5年 (1688) には霊元 (れいげん) 上皇が能を催した折に「大まん」100個を、元禄13年 (1700) 年には公家・中院通茂 (なかのいんみちしげ) 70歳の祝いとして饅頭100個を進上しています。 中院通茂は宮中と将軍家との交渉を担う重要な役職にあり、光圀とも親交があったと思われます。 黄門様みずから饅頭をデザイン?この時の記録には、饅頭の上に紅で「ふく (福) 寿」と書くようにとの指示のほか、皮は27匁 (101.2g)、餡は43匁 (161.2g) と重さまで記されています。あわせて70匁という重さは通茂の 70歳にちなんでいるのでしょうか。食通・光圀らしく凝った注文をしたのかもしれません。 なお、現在の饅頭は50g位が普通。江戸時代の饅頭は相当大きく、150gほどだったとはいえ、この260gを超える饅頭100個は、当時の人にとってもびっくりするような贈物だったのではないでしょうか。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

織田信長と金平糖
甘い宝石・金平糖人間五十年 下天のうちを比ぶれば夢幻のごとくなり ひとたび生を受け滅せぬもののあるべきか… ご存知『敦盛』の一説です。この『敦盛』をこよなく愛し、日本の歴史に名を残した人と言えば戦国大名織田信長 (1534~82) が有名です。信長は、楽市楽座や関所の廃止など流通経済の改革や、常備軍の設立による兵農分離、身分にとらわれない人材の登用など、当時としては革新的な制度を導入し、日本の近世の扉を開けた人物です。 また、武将としての信長は、天文12年 (1543) に伝来した鉄砲を有効に使用するとともに、西洋文化に強い関心をもち、南蛮風の衣装に身を包んで悦に入ったという逸話も残しています。 当時、流入した西洋文化の多くは、キリスト教の宣教師や貿易商人たちによって伝えられました。その中に、カステラ・金平糖・有平糖・ボーロなどの南蛮菓子も含まれています。特に宣教師たちは、まだ砂糖が貴重で甘味に乏しい日本の人々に対して、砂糖をたくさん使用した南蛮菓子を配ることが、布教に有効であることを知っていたようです。 宣教師ルイス・フロイスの書翰によれば、永禄12年 (1569) 4月16日に、二条城に信長を訪ねた時、ろうそく数本とフラスコ入りの金平糖を贈ったことが記されています。もし信長が外国に対して閉鎖的であったら、和菓子のル―ツの一つである南蛮菓子が、日本中に広まるきっかけは無かったかも知れません。 信長の頃、既に一部が伝承されていた南蛮菓子は、その後も長崎出島でのオランダ貿易によってますます広まっていきました。江戸時代元禄期には、盛んに国内で作られるようになったいたようです。貞享5年 (1688) 刊の井原西鶴著『日本永代蔵』には、金平糖の製法が記され、当時の金平糖の核には胡麻が使用されていたこともわかっています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
織田信長と金平糖
甘い宝石・金平糖人間五十年 下天のうちを比ぶれば夢幻のごとくなり ひとたび生を受け滅せぬもののあるべきか… ご存知『敦盛』の一説です。この『敦盛』をこよなく愛し、日本の歴史に名を残した人と言えば戦国大名織田信長 (1534~82) が有名です。信長は、楽市楽座や関所の廃止など流通経済の改革や、常備軍の設立による兵農分離、身分にとらわれない人材の登用など、当時としては革新的な制度を導入し、日本の近世の扉を開けた人物です。 また、武将としての信長は、天文12年 (1543) に伝来した鉄砲を有効に使用するとともに、西洋文化に強い関心をもち、南蛮風の衣装に身を包んで悦に入ったという逸話も残しています。 当時、流入した西洋文化の多くは、キリスト教の宣教師や貿易商人たちによって伝えられました。その中に、カステラ・金平糖・有平糖・ボーロなどの南蛮菓子も含まれています。特に宣教師たちは、まだ砂糖が貴重で甘味に乏しい日本の人々に対して、砂糖をたくさん使用した南蛮菓子を配ることが、布教に有効であることを知っていたようです。 宣教師ルイス・フロイスの書翰によれば、永禄12年 (1569) 4月16日に、二条城に信長を訪ねた時、ろうそく数本とフラスコ入りの金平糖を贈ったことが記されています。もし信長が外国に対して閉鎖的であったら、和菓子のル―ツの一つである南蛮菓子が、日本中に広まるきっかけは無かったかも知れません。 信長の頃、既に一部が伝承されていた南蛮菓子は、その後も長崎出島でのオランダ貿易によってますます広まっていきました。江戸時代元禄期には、盛んに国内で作られるようになったいたようです。貞享5年 (1688) 刊の井原西鶴著『日本永代蔵』には、金平糖の製法が記され、当時の金平糖の核には胡麻が使用されていたこともわかっています。 ※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)