虎屋文庫:歴史上の人物と和菓子

井上靖と落雁
参考:「花蓮」 とらや製 戦後日本の国民的作家 井上靖(いのうえやすし・1907~91)は、『風林火山』『敦煌』『しろばんば』など、幅広いジャンルの作品で有名な小説家です。映画やドラマの原作者としてその名を記憶している方も多いでしょう。紀行文や美術評論、随筆なども数多く残しており、また、生涯を通して詩人でもありました。ここでは40代を前に書いた随筆の「らくがん」を取り上げましょう。落雁※との「特殊な交際(つきあい)」が、淡い思い出とともに綴られています。 幼少時代から親しむ 靖は北海道生まれですが、幼少時代は母の実家がある伊豆半島の湯ケ島で、祖母とともに過ごしました。30戸程の農家が点在するような小さな村でしたが、菓子屋は2軒あったとのこと。「ゴマネジ」(おこしを二ひねりほど捻じったもの)や煎餅、飴玉ほか、高価なものとしては饅頭と落雁を扱っていました。落雁はたいてい桃の形で、葉は青(緑)、実は桃色をしていて、子どもたちは「みじん粉の菓子」「みじん粉のうちもの」といっていたとか。葬式や祝言の時にたくさん作られ、葬式の時は菊の花の形、祝言の時は赤い鯛形だったとあります。 学校からもらったもの、あるいは軍医だった父が宮家から頂戴したものは菊の紋章の形。宮家からの頂き物は親類縁者がそのおすそ分けを押し頂いて、真剣な顔で口に入れたといいますから、いかに大事にされていたかがよくわかります。 沼津の中学校に進学し2年間禅宗の寺に下宿した折には、供物の「みじん粉のうちもの」をいやというほど見てきた靖でしたが、金沢の高等学校に入ってから出会った森八の「長生殿」は忘れられないものでした。雪のちらつく日に店頭に並んでいた、「長生殿」の赤と白の色は、何ともいえない美しさだったそうです。 義理や仁義の裏には…… 翻って「現在私は甘いものは余り好きでない」と書いているものの、旅先の高山なら「印譜らくがん」、仙台では「らくがんの親戚のしおがま」、松本では「そばらくがん」や「栗らくがん」など、土地の名物の落雁を家に送ってしまう由。その衝動について、「みじん粉の菓子に自然に義理を立てる」「みじん粉のうちものに対する私の仁義」と言い訳めいた書き方をしているのが、笑みを誘います。義理や仁義といいながらも、落雁の儚い口どけや、祝儀を彩ってきたその美しさに子どもの頃と変わらず愛おしさを感じていたのではないでしょうか。 「戸棚をあけると何時もらくがんがある」という靖の家で、とりわけ好きではないけれど、あれば食べるという高校1年の長男。長男も自分のお蔭で「各地のらくがんと浅からぬ関係を持っているよう」と感じる靖の言葉に、和菓子と人との縁(えにし)を思う、作家の細やかな心情がうかがえます。 ※一般に落雁とは、米や麦などの穀物の粉(みじん粉とも)を砂糖や澱粉とあわせ、木型に詰めて押し出したもの。「粉菓子」「白せんこう」など、呼び名は地域によって異なる。 *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 「らくがん」(『井上靖全集』第23巻 新潮社 1997年)
井上靖と落雁
参考:「花蓮」 とらや製 戦後日本の国民的作家 井上靖(いのうえやすし・1907~91)は、『風林火山』『敦煌』『しろばんば』など、幅広いジャンルの作品で有名な小説家です。映画やドラマの原作者としてその名を記憶している方も多いでしょう。紀行文や美術評論、随筆なども数多く残しており、また、生涯を通して詩人でもありました。ここでは40代を前に書いた随筆の「らくがん」を取り上げましょう。落雁※との「特殊な交際(つきあい)」が、淡い思い出とともに綴られています。 幼少時代から親しむ 靖は北海道生まれですが、幼少時代は母の実家がある伊豆半島の湯ケ島で、祖母とともに過ごしました。30戸程の農家が点在するような小さな村でしたが、菓子屋は2軒あったとのこと。「ゴマネジ」(おこしを二ひねりほど捻じったもの)や煎餅、飴玉ほか、高価なものとしては饅頭と落雁を扱っていました。落雁はたいてい桃の形で、葉は青(緑)、実は桃色をしていて、子どもたちは「みじん粉の菓子」「みじん粉のうちもの」といっていたとか。葬式や祝言の時にたくさん作られ、葬式の時は菊の花の形、祝言の時は赤い鯛形だったとあります。 学校からもらったもの、あるいは軍医だった父が宮家から頂戴したものは菊の紋章の形。宮家からの頂き物は親類縁者がそのおすそ分けを押し頂いて、真剣な顔で口に入れたといいますから、いかに大事にされていたかがよくわかります。 沼津の中学校に進学し2年間禅宗の寺に下宿した折には、供物の「みじん粉のうちもの」をいやというほど見てきた靖でしたが、金沢の高等学校に入ってから出会った森八の「長生殿」は忘れられないものでした。雪のちらつく日に店頭に並んでいた、「長生殿」の赤と白の色は、何ともいえない美しさだったそうです。 義理や仁義の裏には…… 翻って「現在私は甘いものは余り好きでない」と書いているものの、旅先の高山なら「印譜らくがん」、仙台では「らくがんの親戚のしおがま」、松本では「そばらくがん」や「栗らくがん」など、土地の名物の落雁を家に送ってしまう由。その衝動について、「みじん粉の菓子に自然に義理を立てる」「みじん粉のうちものに対する私の仁義」と言い訳めいた書き方をしているのが、笑みを誘います。義理や仁義といいながらも、落雁の儚い口どけや、祝儀を彩ってきたその美しさに子どもの頃と変わらず愛おしさを感じていたのではないでしょうか。 「戸棚をあけると何時もらくがんがある」という靖の家で、とりわけ好きではないけれど、あれば食べるという高校1年の長男。長男も自分のお蔭で「各地のらくがんと浅からぬ関係を持っているよう」と感じる靖の言葉に、和菓子と人との縁(えにし)を思う、作家の細やかな心情がうかがえます。 ※一般に落雁とは、米や麦などの穀物の粉(みじん粉とも)を砂糖や澱粉とあわせ、木型に詰めて押し出したもの。「粉菓子」「白せんこう」など、呼び名は地域によって異なる。 *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 「らくがん」(『井上靖全集』第23巻 新潮社 1997年)

豊臣秀長と薄皮饅頭
参考図版:江戸時代の饅頭店『酒餅 2巻』寛文年間(1661~73)頃刊 国立国会図書館蔵 豊臣政権を支えた弟 豊臣秀長(とよとみひでなが・1540~91)は、豊臣秀吉の弟として、兄の天下統一に寄与した、秀吉の片腕的存在でした。大和郡山城を拠点に100万石を超える大大名でもあり、大和大納言と称されますが、秀吉に先立つこと7年、52歳で病没しています。 秀長の茶の湯の菓子 秀長は郡山や京都の聚楽第(じゅらくだい)で客を茶の湯でもてなし、みずから茶をたてています。秀長の茶会では、名だたる茶道具が使われる一方、菓子の方は、牛蒡、生栗などかなり素朴です。この頃、菓子といえば主に木の実や果物のことで、貴重な輸入品であった砂糖を使ったものは、まだ珍しい存在でした。見た目が美しく、「友千鳥」「花菖蒲」など優雅な銘を持つ菓子が登場するのは約100年後、1600年代後半のことです。 献上された薄皮饅頭 天正16年(1588)10月6日、秀長は郡山において、奈良の塗師屋(ぬしや)で茶人の松屋久政ら4名より茶と菓子を献上されました。箱に「ウスカワ」つまり薄皮饅頭と、蜜柑、金柑それぞれ10個を詰めており、目にも鮮やかな色彩である上に、箔を置いて進上したという記述から、金箔で豪華に装飾されたとも想像できます。天正18年9月18日には、毛利輝元の屋敷を訪れた秀吉に出された菓子として、薄皮饅頭とともに金で飾られた柿枝や胡桃の記録があり、見た目を華やかにするために、食物に金を使うことがあったと思われます。薄皮饅頭は、後年編纂の『日葡辞書(にっぽじしょ)』(1603)に、皮が非常に薄く、砂糖がたくさん入っている饅頭の一種とあり、どのような餡が入っていたかは不明です。秀長の感想も伝わっていませんが、金箔の輝きと黄金色の柑橘類、そして饅頭という、おいしく美しい贈り物をきっと喜んだことでしょう。 *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 『茶書古典集成2 松屋会記』 淡交社 2024年『天正十八年毛利亭御成記』
豊臣秀長と薄皮饅頭
参考図版:江戸時代の饅頭店『酒餅 2巻』寛文年間(1661~73)頃刊 国立国会図書館蔵 豊臣政権を支えた弟 豊臣秀長(とよとみひでなが・1540~91)は、豊臣秀吉の弟として、兄の天下統一に寄与した、秀吉の片腕的存在でした。大和郡山城を拠点に100万石を超える大大名でもあり、大和大納言と称されますが、秀吉に先立つこと7年、52歳で病没しています。 秀長の茶の湯の菓子 秀長は郡山や京都の聚楽第(じゅらくだい)で客を茶の湯でもてなし、みずから茶をたてています。秀長の茶会では、名だたる茶道具が使われる一方、菓子の方は、牛蒡、生栗などかなり素朴です。この頃、菓子といえば主に木の実や果物のことで、貴重な輸入品であった砂糖を使ったものは、まだ珍しい存在でした。見た目が美しく、「友千鳥」「花菖蒲」など優雅な銘を持つ菓子が登場するのは約100年後、1600年代後半のことです。 献上された薄皮饅頭 天正16年(1588)10月6日、秀長は郡山において、奈良の塗師屋(ぬしや)で茶人の松屋久政ら4名より茶と菓子を献上されました。箱に「ウスカワ」つまり薄皮饅頭と、蜜柑、金柑それぞれ10個を詰めており、目にも鮮やかな色彩である上に、箔を置いて進上したという記述から、金箔で豪華に装飾されたとも想像できます。天正18年9月18日には、毛利輝元の屋敷を訪れた秀吉に出された菓子として、薄皮饅頭とともに金で飾られた柿枝や胡桃の記録があり、見た目を華やかにするために、食物に金を使うことがあったと思われます。薄皮饅頭は、後年編纂の『日葡辞書(にっぽじしょ)』(1603)に、皮が非常に薄く、砂糖がたくさん入っている饅頭の一種とあり、どのような餡が入っていたかは不明です。秀長の感想も伝わっていませんが、金箔の輝きと黄金色の柑橘類、そして饅頭という、おいしく美しい贈り物をきっと喜んだことでしょう。 *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 『茶書古典集成2 松屋会記』 淡交社 2024年『天正十八年毛利亭御成記』

清河八郎と旅中の菓子
江戸時代後期、「弁慶力餅」を売る茶店の様子。旅人が「うまいもち(餅)だ」と言っている。 十返舎一九『金草鞋』国文学研究資料館蔵 国書データベース https://doi.org/10.20730/200004214 より 幕末の志士の旅日記 清河八郎(きよかわはちろう・1830~63)は、庄内藩清川村(山形県庄内町)の造り酒屋、齋藤家の生まれ。18歳で江戸に出て、剣術や学問を学びつつ各地を遊歴し、安政元年(1854)に本名の齋藤正明から清河八郎と名乗りを変えて「清河塾」を起こします。多くの人と交わっていくなかで、国政に関心を持つようになり、尊王攘夷の志士として名を揚げていきますが、幕府から危険視され34歳の若さで暗殺されました。情が厚い人物としても知られ、安政2年3月から10月にかけては孝行のため、母、齋藤家の下男とともに伊勢神宮のほか、関西、四国などを巡る旅に出ます。その様子を自ら書き留めた旅日記が『西遊草(さいゆうそう)』です。 旅には「甘いもの」を 日記を見ていくと、寺社や名所旧跡を訪ねるほか、土産品を買い込んだり、大坂や江戸で興行があれば母が大好きな芝居見物に行ったり、街道の宿駅や逗留した町では、酒や料理、名物菓子を楽しんだりと豪勢な旅だったことがわかります。郷里を出て、ひと月ほど経った頃、一行は柏崎(新潟県)を過ぎた山間にある茶店※で弁慶力餅を注文します。弁慶が掘り出した泉の水で作った餅は安産の守りとなる、と茶店の老婦が語った由緒を八郎は「如何(いか)さま古跡」と一蹴。しかし、山坂を登ってきたこともあって餅は「至て旨く」、おいしさのあまり一盆平らげ「満腹して苦しみにたへず」だったそうです。一方、こんな話も。曽根(兵庫県)に向かう山頂の茶店では、暑さのため八郎たちは砂糖水を注文し飲むのですが、会計の際1杯20文ずつと言われ、あまりの高さに「貪婪(どんらん)の深き、禽獣同前、面皮(めんぴ)のあつき仕方なり」と憤激します。江戸時代後期の風俗を記した『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には、江戸など都市部では、白砂糖などを入れた冷や水は一碗4文。さらに8文、12文と値段を出せば砂糖の量を増やしてくれるとあります。地域や年代によって差はあると思いますが、八郎が江戸で暮らしていたことを考えると、高値と怒るのも無理のない話でしょう。ただ、事前に金額を確認しなかったと反省もしており、まずは値段を聞くことが旅行中の「心得の一事」だと書いています。旅の最後、八郎はいろいろな目にあったが、家に帰ればそれも楽しみになると振り返っています。災難だった砂糖水事件も、よい思い出になった、ということでしょう。 ※茶店は北国街道の難所、米山峠(柏崎市)の亀割坂にあった。 *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 清河八郎著 小山松勝一郎校注『西遊草』岩波書店 1993年小山松勝一郎編訳『西遊草 清河八郎旅中記』平凡社 2006年(オンデマンド版)
清河八郎と旅中の菓子
江戸時代後期、「弁慶力餅」を売る茶店の様子。旅人が「うまいもち(餅)だ」と言っている。 十返舎一九『金草鞋』国文学研究資料館蔵 国書データベース https://doi.org/10.20730/200004214 より 幕末の志士の旅日記 清河八郎(きよかわはちろう・1830~63)は、庄内藩清川村(山形県庄内町)の造り酒屋、齋藤家の生まれ。18歳で江戸に出て、剣術や学問を学びつつ各地を遊歴し、安政元年(1854)に本名の齋藤正明から清河八郎と名乗りを変えて「清河塾」を起こします。多くの人と交わっていくなかで、国政に関心を持つようになり、尊王攘夷の志士として名を揚げていきますが、幕府から危険視され34歳の若さで暗殺されました。情が厚い人物としても知られ、安政2年3月から10月にかけては孝行のため、母、齋藤家の下男とともに伊勢神宮のほか、関西、四国などを巡る旅に出ます。その様子を自ら書き留めた旅日記が『西遊草(さいゆうそう)』です。 旅には「甘いもの」を 日記を見ていくと、寺社や名所旧跡を訪ねるほか、土産品を買い込んだり、大坂や江戸で興行があれば母が大好きな芝居見物に行ったり、街道の宿駅や逗留した町では、酒や料理、名物菓子を楽しんだりと豪勢な旅だったことがわかります。郷里を出て、ひと月ほど経った頃、一行は柏崎(新潟県)を過ぎた山間にある茶店※で弁慶力餅を注文します。弁慶が掘り出した泉の水で作った餅は安産の守りとなる、と茶店の老婦が語った由緒を八郎は「如何(いか)さま古跡」と一蹴。しかし、山坂を登ってきたこともあって餅は「至て旨く」、おいしさのあまり一盆平らげ「満腹して苦しみにたへず」だったそうです。一方、こんな話も。曽根(兵庫県)に向かう山頂の茶店では、暑さのため八郎たちは砂糖水を注文し飲むのですが、会計の際1杯20文ずつと言われ、あまりの高さに「貪婪(どんらん)の深き、禽獣同前、面皮(めんぴ)のあつき仕方なり」と憤激します。江戸時代後期の風俗を記した『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には、江戸など都市部では、白砂糖などを入れた冷や水は一碗4文。さらに8文、12文と値段を出せば砂糖の量を増やしてくれるとあります。地域や年代によって差はあると思いますが、八郎が江戸で暮らしていたことを考えると、高値と怒るのも無理のない話でしょう。ただ、事前に金額を確認しなかったと反省もしており、まずは値段を聞くことが旅行中の「心得の一事」だと書いています。旅の最後、八郎はいろいろな目にあったが、家に帰ればそれも楽しみになると振り返っています。災難だった砂糖水事件も、よい思い出になった、ということでしょう。 ※茶店は北国街道の難所、米山峠(柏崎市)の亀割坂にあった。 *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 清河八郎著 小山松勝一郎校注『西遊草』岩波書店 1993年小山松勝一郎編訳『西遊草 清河八郎旅中記』平凡社 2006年(オンデマンド版)

夢野久作とりんかけ豆
豆輪(まめりん・左)と紅白ふきりん(右)の絵図 「蒸餅干菓子雛形 下」(江戸時代後期以降)より 日本を代表する幻想・怪奇小説家 夢野久作(ゆめのきゅうさく・1889~1936)は、明治22年、福岡市に生まれました。実母は同年に離縁されて家を出、父・杉山茂丸(すぎやましげまる)は政治運動家で家庭を顧みない人物だったため、幼少期はほとんど祖父母に育てられたといいます。福岡県立中学修猷館(しゅうゆうかん)を卒業したのち、軍隊入隊、農園経営、新聞記者などさまざまな経験を経て、大正15年(1926)小説家としてデビュー。構想・執筆に10年をかけた『ドグラ・マグラ』は、内容の複雑さや猟奇的な描写、会話を中心とした独特な文章などによる妖しい魅力で、今なお根強い人気があります。 一方で、私生活においては、父を反面教師として家庭を大切にする、真面目で繊細な人物だったといいます。周囲からはコーヒーとカステラ好きで知られ、「汁粉、ぜんざい、ボタ餅等は、大鍋に作っても、一人で食べてしまう程」の大甘党でした。息子・龍丸の綴った『わが父・夢野久作』には、菓子が絡む下のようなエピソードが描かれています。 菓子をかけたトランプ大会 ある時、久作の家族や茂丸の関係者が集まった折、お金を出し合って菓子を買い、トランプ大会を開くことになりました。参加者は久作を含め、いずれも30~40代の大人たち。勝った人が食べられるルールでしたが、トランプに慣れていない久作は、何度やっても勝てません。菓子がどんどん減っていき、自分だけ食べられないのが耐え難かったのでしょう。ついに、袂(たもと)から取り出した「リンカケ豆」を勝手に食べはじめます。りんかけ豆とは砂糖の衣を掛けた豆のことで、名前は、ある材料に別の材料をかける料理用語の「輪掛け」(りんがけ)から来ていると言われます。同様の砂糖掛けの菓子は古くからあり、江戸時代には、糯米のあられに砂糖の衣を掛けた「りん」や、その派生の「小りん」(小さなりん)、「菊りん」(菊形のりん)、「ふきりん」(ふきのりんがけ)などが広く親しまれていました。さて、久作の行動は、妹・瑞枝(みずえ)に見つかってしまいます。負けた者は食べられない約束だと指摘すると、「お、お、おれが、おれの銭で、買って来たものを、この、お、おれが食うて、何でわるい」と涙ぐんで怒ったため、一同大笑いとなりました。なんとも子どもっぽい言い訳がおかしく、読む人の頬を緩ませるエピソードです。幻想・怪奇と評された作品群から想像する人物像とは大きく異なりますが、実は久作は、小説家デビュー前に、「お菓子の大舞踏会」「キャラメルと飴玉」という可愛らしい作品を発表しています。前者は菓子を食べ過ぎた子どものお腹の中で菓子たちが踊りまわる話、後者はキャラメルと飴玉がケンカをして他の菓子ともどもくっついてしまうという愉快な話です。トランプ大会のエピソードからうかがえる、菓子好きで愛嬌ある姿と通じるものを感じます。 *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 杉山龍丸『わが父・夢野久作』三一書房 1976年多田茂治『夢野一族 杉山家三代の軌跡』三一書房 1997年「お菓子の大舞踏会」「キャラメルと飴玉」 青空文庫より
夢野久作とりんかけ豆
豆輪(まめりん・左)と紅白ふきりん(右)の絵図 「蒸餅干菓子雛形 下」(江戸時代後期以降)より 日本を代表する幻想・怪奇小説家 夢野久作(ゆめのきゅうさく・1889~1936)は、明治22年、福岡市に生まれました。実母は同年に離縁されて家を出、父・杉山茂丸(すぎやましげまる)は政治運動家で家庭を顧みない人物だったため、幼少期はほとんど祖父母に育てられたといいます。福岡県立中学修猷館(しゅうゆうかん)を卒業したのち、軍隊入隊、農園経営、新聞記者などさまざまな経験を経て、大正15年(1926)小説家としてデビュー。構想・執筆に10年をかけた『ドグラ・マグラ』は、内容の複雑さや猟奇的な描写、会話を中心とした独特な文章などによる妖しい魅力で、今なお根強い人気があります。 一方で、私生活においては、父を反面教師として家庭を大切にする、真面目で繊細な人物だったといいます。周囲からはコーヒーとカステラ好きで知られ、「汁粉、ぜんざい、ボタ餅等は、大鍋に作っても、一人で食べてしまう程」の大甘党でした。息子・龍丸の綴った『わが父・夢野久作』には、菓子が絡む下のようなエピソードが描かれています。 菓子をかけたトランプ大会 ある時、久作の家族や茂丸の関係者が集まった折、お金を出し合って菓子を買い、トランプ大会を開くことになりました。参加者は久作を含め、いずれも30~40代の大人たち。勝った人が食べられるルールでしたが、トランプに慣れていない久作は、何度やっても勝てません。菓子がどんどん減っていき、自分だけ食べられないのが耐え難かったのでしょう。ついに、袂(たもと)から取り出した「リンカケ豆」を勝手に食べはじめます。りんかけ豆とは砂糖の衣を掛けた豆のことで、名前は、ある材料に別の材料をかける料理用語の「輪掛け」(りんがけ)から来ていると言われます。同様の砂糖掛けの菓子は古くからあり、江戸時代には、糯米のあられに砂糖の衣を掛けた「りん」や、その派生の「小りん」(小さなりん)、「菊りん」(菊形のりん)、「ふきりん」(ふきのりんがけ)などが広く親しまれていました。さて、久作の行動は、妹・瑞枝(みずえ)に見つかってしまいます。負けた者は食べられない約束だと指摘すると、「お、お、おれが、おれの銭で、買って来たものを、この、お、おれが食うて、何でわるい」と涙ぐんで怒ったため、一同大笑いとなりました。なんとも子どもっぽい言い訳がおかしく、読む人の頬を緩ませるエピソードです。幻想・怪奇と評された作品群から想像する人物像とは大きく異なりますが、実は久作は、小説家デビュー前に、「お菓子の大舞踏会」「キャラメルと飴玉」という可愛らしい作品を発表しています。前者は菓子を食べ過ぎた子どものお腹の中で菓子たちが踊りまわる話、後者はキャラメルと飴玉がケンカをして他の菓子ともどもくっついてしまうという愉快な話です。トランプ大会のエピソードからうかがえる、菓子好きで愛嬌ある姿と通じるものを感じます。 *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 杉山龍丸『わが父・夢野久作』三一書房 1976年多田茂治『夢野一族 杉山家三代の軌跡』三一書房 1997年「お菓子の大舞踏会」「キャラメルと飴玉」 青空文庫より

佐藤春夫とお汁粉
参考:とらやのお汁粉 門弟三千人 佐藤春夫(さとうはるお・1892~1964)は、大正から昭和を中心に活躍した詩人、小説家です。開業医の家に生まれ、明治43年(1910)に慶應義塾大学に入学すると、『三田文学』『スバル』に詩や評論を発表。大正7年(1918)、小説『田園の憂鬱』で文壇の注目を集めました。また、井伏鱒二、太宰治をはじめ多くの門人を持ち、「門弟三千人」とも称され、文人に慕われていたことも知られています。 飲料のはなし 幻想的な作風で知られる春夫ですが、老境に入りつつあった昭和31年(1956)、面白い随筆も残しています。『暮しの手帖』に発表した「飲料のはなし」で、少年の頃から「わたくしの体は四季を問はず何日もつねに飲みものを要求してゐる。夏になると特に甚しい」とし、飲み物について綴っています。 たとえばラムネ。11、2歳の頃、友人の家が経営するラムネ工場で飲ませてもらった、できたてのラムネは「花火やなどと同じ類の、何かたのしい味」だったと回想しています。シュワッと弾ける清涼感ある味わいが思い浮かぶ表現ですね。自宅でも、当時高価だったサイダー、ジンジャーエールを楽しむなど、医者の家に生まれた彼の裕福な暮らしぶりが想像できます。 一流のお汁粉の作り方? 60歳を過ぎた執筆時の「日常の飲料」としては、人参と林檎の自家製ジュースや、ミキサーにかけた夏みかんを牛乳に混ぜたものなどを挙げています。 家庭用ミキサーは、生ジュースが身体に良いとして流行したことで、昭和20年代後半から急速に広まりました。春夫もいろいろ試みた結果、牛乳に混ぜる夏みかんにはミキサーが良いとし、一方で「ミクサーでは味が出ない」からと、ジュース作りにはおろし金を使わせていたそう。食材によって道具の使い分けをしています。 さまざまな食材で試行錯誤をし、ミキサーを熟知した春夫はさらに「さすがは文明の利器(?)工夫によつては面白い用法」があると書いています。それは何かというと、小豆や砂糖なしで「即座に第一流のおしる粉をこしらへる妙術」。期待が膨らむその方法は、なんと羊羹をミキサーにかけてお湯で溶くというものでした!「羊羹は上等ほどよろしい」としているので、何度も作っていたのでしょう。アイディアの結晶であるお汁粉を試してみたくなります。 *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 「飲料のはなし」青空文庫より江原絢子 東四柳祥子 編『日本の食文化史年表』吉川弘文館 2011年
佐藤春夫とお汁粉
参考:とらやのお汁粉 門弟三千人 佐藤春夫(さとうはるお・1892~1964)は、大正から昭和を中心に活躍した詩人、小説家です。開業医の家に生まれ、明治43年(1910)に慶應義塾大学に入学すると、『三田文学』『スバル』に詩や評論を発表。大正7年(1918)、小説『田園の憂鬱』で文壇の注目を集めました。また、井伏鱒二、太宰治をはじめ多くの門人を持ち、「門弟三千人」とも称され、文人に慕われていたことも知られています。 飲料のはなし 幻想的な作風で知られる春夫ですが、老境に入りつつあった昭和31年(1956)、面白い随筆も残しています。『暮しの手帖』に発表した「飲料のはなし」で、少年の頃から「わたくしの体は四季を問はず何日もつねに飲みものを要求してゐる。夏になると特に甚しい」とし、飲み物について綴っています。 たとえばラムネ。11、2歳の頃、友人の家が経営するラムネ工場で飲ませてもらった、できたてのラムネは「花火やなどと同じ類の、何かたのしい味」だったと回想しています。シュワッと弾ける清涼感ある味わいが思い浮かぶ表現ですね。自宅でも、当時高価だったサイダー、ジンジャーエールを楽しむなど、医者の家に生まれた彼の裕福な暮らしぶりが想像できます。 一流のお汁粉の作り方? 60歳を過ぎた執筆時の「日常の飲料」としては、人参と林檎の自家製ジュースや、ミキサーにかけた夏みかんを牛乳に混ぜたものなどを挙げています。 家庭用ミキサーは、生ジュースが身体に良いとして流行したことで、昭和20年代後半から急速に広まりました。春夫もいろいろ試みた結果、牛乳に混ぜる夏みかんにはミキサーが良いとし、一方で「ミクサーでは味が出ない」からと、ジュース作りにはおろし金を使わせていたそう。食材によって道具の使い分けをしています。 さまざまな食材で試行錯誤をし、ミキサーを熟知した春夫はさらに「さすがは文明の利器(?)工夫によつては面白い用法」があると書いています。それは何かというと、小豆や砂糖なしで「即座に第一流のおしる粉をこしらへる妙術」。期待が膨らむその方法は、なんと羊羹をミキサーにかけてお湯で溶くというものでした!「羊羹は上等ほどよろしい」としているので、何度も作っていたのでしょう。アイディアの結晶であるお汁粉を試してみたくなります。 *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 「飲料のはなし」青空文庫より江原絢子 東四柳祥子 編『日本の食文化史年表』吉川弘文館 2011年

森田たまと「あくまき」
参考 鹿児島の「あくまき」 灰汁(あく)の風味とプルプルとした食感が特徴で、きな粉を添えて食べる。写真協力:鹿児島県南薩地域振興局 女性エッセイストのさきがけ 北海道札幌市生まれの森田たま(もりたたま・1894~1970)は、17歳で上京、作家の森田草平に師事し、随筆を書くようになります。戦後は、国際ペン大会に日本代表として出席したり、参議院議員を務めたりと、文化人として多方面で活躍を見せました。 美人と「あくまき」 随筆集『ふるさとの味』(1956)には、菓子に関する魅力的な逸話も多数収録されています。 たとえば、昭和29年(1954)の春、講演会に招かれてはじめて鹿児島を訪れたときのこと。「黒い瞳が眼のそとへはみ出すかと思ふほど、エキゾティックな美貌」の洋装の勝田夫人、「画の中からぬけ出してきたやうな」和装の岩元夫人という、地元の名士の美しい夫人2名に会食に招かれました。郷土料理のトンコツやさつま汁、酒寿司に舌鼓を打っていると、岩元夫人が「これで食後のあくまきがあれば申分ないけれど、あくまきは五月のお節句につくるものだから」と言います。 「あくまき」は、漢字では「灰汁巻」と書く粽の一種で、鹿児島や宮崎など南九州の端午の節句に欠かせない餅菓子。木や竹を燃やした灰からとった灰汁(あく)に浸したもち米を竹皮に包み、灰汁汁で数時間煮込んで作ります※1。 この「あくまき」の語に思わず反応する、たま。それというのも、17、8年前、5月のホームパーティーの折、料理研究家の中江百合が持ってきてくれて以来、「病みつき」になった一品だったからです。その日のことは、女優を姉に持つ中江の「湖水のやうに澄んだ眼」の美しさとともに、楽しい思い出としてたまの心に強く残っていました。 しかし、長らく口にしていないと告げると、夫人は時期になったら送ると約束してくれるのでした。 帰京後、慌ただしい日々に、そのことをすっかり忘れていたところ、翌年の5月に「べつかふ(鼈甲)のやうにすきとほつたあくまき」が小包で届き、たまは「おいしさは天下に類がない」と感激します※2。通常、思い出の品をあらためて口にすると感動は薄れるものですが、会食の場でのなにげない約束を忘れない夫人の真心が、その味を一段と魅力的なものに感じさせたのでしょう。「どういふまはりあはせであらうか、あくまきと私との縁には、いつも天下の美女が介在する。ふしぎである。」とユーモアある一文で締めくくられており、目の覚めるような美女たちと素朴な菓子との対比の妙が印象深い一篇です。 ※1 灰汁で煮ることで、米が柔らかくなり、長期保存も可能になる。※2 鹿児島を訪れた年の5月はヨーロッパへ出かけて不在のため、翌年に送ってもらうことを約束していた。 *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 『ふるさとの味』 大日本雄弁会講談社 1956年
森田たまと「あくまき」
参考 鹿児島の「あくまき」 灰汁(あく)の風味とプルプルとした食感が特徴で、きな粉を添えて食べる。写真協力:鹿児島県南薩地域振興局 女性エッセイストのさきがけ 北海道札幌市生まれの森田たま(もりたたま・1894~1970)は、17歳で上京、作家の森田草平に師事し、随筆を書くようになります。戦後は、国際ペン大会に日本代表として出席したり、参議院議員を務めたりと、文化人として多方面で活躍を見せました。 美人と「あくまき」 随筆集『ふるさとの味』(1956)には、菓子に関する魅力的な逸話も多数収録されています。 たとえば、昭和29年(1954)の春、講演会に招かれてはじめて鹿児島を訪れたときのこと。「黒い瞳が眼のそとへはみ出すかと思ふほど、エキゾティックな美貌」の洋装の勝田夫人、「画の中からぬけ出してきたやうな」和装の岩元夫人という、地元の名士の美しい夫人2名に会食に招かれました。郷土料理のトンコツやさつま汁、酒寿司に舌鼓を打っていると、岩元夫人が「これで食後のあくまきがあれば申分ないけれど、あくまきは五月のお節句につくるものだから」と言います。 「あくまき」は、漢字では「灰汁巻」と書く粽の一種で、鹿児島や宮崎など南九州の端午の節句に欠かせない餅菓子。木や竹を燃やした灰からとった灰汁(あく)に浸したもち米を竹皮に包み、灰汁汁で数時間煮込んで作ります※1。 この「あくまき」の語に思わず反応する、たま。それというのも、17、8年前、5月のホームパーティーの折、料理研究家の中江百合が持ってきてくれて以来、「病みつき」になった一品だったからです。その日のことは、女優を姉に持つ中江の「湖水のやうに澄んだ眼」の美しさとともに、楽しい思い出としてたまの心に強く残っていました。 しかし、長らく口にしていないと告げると、夫人は時期になったら送ると約束してくれるのでした。 帰京後、慌ただしい日々に、そのことをすっかり忘れていたところ、翌年の5月に「べつかふ(鼈甲)のやうにすきとほつたあくまき」が小包で届き、たまは「おいしさは天下に類がない」と感激します※2。通常、思い出の品をあらためて口にすると感動は薄れるものですが、会食の場でのなにげない約束を忘れない夫人の真心が、その味を一段と魅力的なものに感じさせたのでしょう。「どういふまはりあはせであらうか、あくまきと私との縁には、いつも天下の美女が介在する。ふしぎである。」とユーモアある一文で締めくくられており、目の覚めるような美女たちと素朴な菓子との対比の妙が印象深い一篇です。 ※1 灰汁で煮ることで、米が柔らかくなり、長期保存も可能になる。※2 鹿児島を訪れた年の5月はヨーロッパへ出かけて不在のため、翌年に送ってもらうことを約束していた。 *連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。 参考文献 『ふるさとの味』 大日本雄弁会講談社 1956年